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旅、映画、食べ物、哲学?

「神様の思し召し」

「これこそ奇跡です」

「奇跡などない。すべて私の力だ」

外科医トンマーゾが、患者の家族の言葉を、このように切って捨てる。トンマーゾは天才的な腕を持つ外科医だが、傲慢とも言えるほどに自分の力を信じている。

そんな、トンマーゾには二人の子供がいる。一人はちょっとチャラい雰囲気の娘ビアンカ。彼女は結婚していて、トンマーゾの家の真向かいに住んでいる。夫のジャンニは不動産屋だが、単純で、お世辞にも頭のいいタイプではない。もう一人は息子のアンドレアだ。彼は医学生で父の後を継ぐために勉強をしているが、毎日夜な夜な友人とどこかへ出掛けていくので、トンマーゾは彼がゲイなのではないかと思っている。トンマーゾの妻カルラは夫の前では酒もあまり飲まず、自制的に振る舞っているが、実は満たされない家庭生活にストレスを募らせており、陰では酒を大量に飲んでいる。そんな一家の日常が、アメリカのホームドラマ風のカットとBGMでスクリーンに映し出されている。

ある日の夜のこと。アンドレアがカミングアウトをしたいと言い出す。トンマーゾはアンドレアがゲイだったのだと確信し、「みんなで迎え入れよう」という。妻カルラは戸惑いを隠せない様子だが、他のメンバーは、今の時代拒むのはおかしいと述べ、万全の大勢でアンドレアの言葉を聞くことにする。

ところが、アンドレアの言葉は意外なものだった。

「実は医学はやめて、神学を学んで、聖職者になりたいんだ」

その場では息子の決断を認めながらも、トンマーゾは内心猛反対する。迷信に溢れたカトリック教会に息子を入れてたまるか。なんとか、やんわりとアンドレアの決心を覆そうとするうち、アンドレアが夜な夜な、新進気鋭の神父ピエトロの説教を聞きにいっており、息子はピエトロに「洗脳されている」と確信。ピエトロの素性を調べるうちに、彼が前科者であることを知るが……。

 

以上はイタリア映画「神様の思し召し」の前半のあらすじである。

タイトルとなっている「神様の思し召し」は原題では「Se Dio vuole」だが、「神が望むなら」という意味になる。日本語の題名とほとんど同じだ。そしてかくいう私も同じ題名をこのブログにつけているのだが、それだけ、このタイトルは非常に「うまい」題名だと言える。

印象的なのは、丘の上でピエトロ神父とトンマーゾが語り合うシーンである。初めはピエトロを胡散臭いと思っていたトンマーゾが徐々にピエトロに打ち解けていく。一方でトンマーゾと家族の間の亀裂が徐々に深いものとなっていく。丘の上のシーンはそんな一連のシーンのクライマックスとして登場する。

「メゲたときにくるんだ」とピエトロは言う。丘の上からは湖が見え、洋梨の木が一本手前にある。

「蒸し暑い日に涼しい風が俺の頬を撫でる」とピエトロが言うと、すかさずトンマーゾは

「風だな」と返す。

「とんでもない。神だよ」ピエトロは言う。トンマーゾはちょっと馬鹿にしたように笑う。同じようなやりとりが何回か続き、

「あの洋梨が落ちるのは万有引力かい?」とピエトロが言うと、

「神の仕業だ」とトンマーゾは笑いながら答える。

「わかってきたじゃないか」ピエトロは得意げに笑う。

 

このシーンを見たとき、少し思い出したことがある。それは井筒俊彦の『『コーラン』を読む』に書いてあったことだ。

イスラーム聖典クルアーンコーラン)』に繰り返し出てくる話があり、それは世界の全てが神の恩寵だと言うことだ。砂漠をキャラバンが進む。そこにオアシスが現れる。あるいは農村に雨が降り、果樹が実る。それは全て神が贈ってくれたものなのだ、と。

同じ「神」を共有するだけあって、ピエトロが述べることは、イスラームの教えと似ている。そこには「神の思し召し」がある。イスラームを信じる人々、いわゆるムスリムたちは、未来の話をするとき、「インシャッラー(神がそう望むなら)」という言葉を添える。それだけでなく、彼らにとって「神の思し召し」は重要なものであり、日常的にも、

「お元気ですか?」と尋ねられれば、

「アル=ハムドゥ・リッラー(称賛は神に)」と、日本で言う「お陰様です」と同じ意味合いで答える。未来のことはわからない。そして、自分が今生きていたかどうかも、結局のところはわからなかった。だから彼らは神に感謝をするわけである。

 

なぜこんな脱線話をしたのかと言うと、トンマーゾはそうしたマインドとはかけ離れてきたからである。

冒頭に記したように、トンマーゾは執拗に奇跡を否定してきた。いや、全ては自分の力なのだ、と。これは彼の技術と力に裏打ちされた考え方だった。

トンマーゾは何よりも自分の腕を信じ、自分を信じてきた。トンマーゾの場合、この自信は医者として数々の手術の成功とともにあったものの、家庭では弊害をもたらしていた。立派な知識人として、なんでも受け入れようとする一方で、結局は自分の考え方や生き方を息子たちにどこかで押し付けていた。妻もまた、そんなトンマーゾに反感を抱き始める。

 

トンマーゾは何を間違えていたのだろうか。

まず、医者としては全く間違っていない。実は映画でも出てくるのだが、医者が「奇跡」を口にするとき、それほど心細いことはない。ほぼ回復不可能だと言うことを意味している。

だが、そうした医者としての矜持が、彼を自分の「信仰」でがんじがらめにしてしまったといえるかもしれない。ちょっと違う見方が、だから、彼にとっては本当の処方箋になる。それを持ってきたのが、図らずしもピエトロ神父だったのだ。なぜなら神父も同じだったからだ。彼は前科者だが、人生どん底の中で、あたらしい世界の見方、信仰と出会ったのである。

そう考えたとき、宗教と科学、というふたつのものが、実は争う必要もないのだと思えてくる。洋梨が木から落ちる。それを万有引力と見るか、神の仕業と見るかは、こちらの受け入れ方による。万有引力には何のメッセージもないけれど、それで宇宙の仕組みを理解することができる。神の仕業は、宇宙の仕組みを理解する上ではあまりに恣意的だが、そこにはメッセージがある。今はわからなくても、いつか見えてくるかもしれない、そんな神の表現がそこにはある。

何かが起きたとき、「神」なんてどでかい存在を想定しなくても、私はときに、「あの出来事には何の意味があったんだろうか」と思うことがある。つまり、自分にとって、何の意味があったのか、そして自分に対して、どんなメッセージだったのか、と。馬鹿馬鹿しいことかもしれないが、それをすることで、何となく日々起こる諸々のことを許し、受け入れることができ、自分をも少しは認めることができるような気がするのだ。出口が見えないとき、思いがけない不幸や不運にぶち当たったとき、自分があまりに傲慢になったとき、メッセージを探してみれば、何かが見えると信じてみているのだ。そう、洋梨に宇宙の法則を見ることもできるし、自分の人生を見ることだってできるわけだ。

 

この映画の最後、思いがけない展開が起こる。

あまり多くを語らないがトンマーゾはその出来事を、医者としての視線と、新しくピエトロとの交流の中で手にした視線の二つで見ている。彼はあの丘に登り、洋梨が落ちるのを眺めている。それが何を意味するのかは、皆さんに委ねよう。