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旅、映画、食べ物、哲学?

ラジオを聴いていたら、実際に見たヘンな設定の夢をリスナーに募集する企画をやっていた。ボウリングの玉になってしまう夢、砂に埋まる夢…どれも奇妙奇天烈で、そしてちょっと怖いものが多い。確かに夢はちょっと怖いものである。

夢、というと、思い出すのは、安部公房の『笑う月』だ。この作品は夢の持つ気持ち悪さと滑稽さをうまく描き出している。その気持ち悪さの根源は、私たちが何らかの設定の中に投げ込まれている状態から始まることだ。その設定の中で私たちは必死でもがいているのだが、その設定自体はあまり気にかけなかったりする。

 

例えば、『笑う月』に入っている「案内人」という夢の話では、安部公房が突然階段を案内人に従って降りるシーンから始まり、それから奇妙な工場へ入り、粉末状の鳥料理を食べ、最後には肛門を掃除される。

目覚めている状態でこんなことがあれば、きっと考えたり、反芻したり、疑ったり、説明を求めたりすることだろう。なぜ自分はこんなところにいて、こんなことをしているのか。だが、夢の中の安部公房は、夢の中で出てくる人物の言葉に、わからないがわかるような気がする、という感想を抱く。絶対理解できないことが夢の中では当然の如くスっと入ってしまう。

 

さらに、私が思うに、夢の中では私たちは理由もわからないまま真剣なことが多い気がする。

『笑う月』の表題作「笑う月」では、少年安部公房花王のマークに似た笑う月に追いかけられる話が出てくるけれど、ちょっと考えてみれば設定自体の意味がわからない。でも、夢の中ではその設定は当然のものであり、そして逃げないといけないというのも当然の意思なのだ。安部公房もとにかく逃げる。怖い云々の感情はなきにしもあらずだけれど、それよりも、なによりも、とにかく逃げる。理由はわからないが、逃げるのだ。

 

そういえば、ヘンな夢を見た。

去年の一月のことだ。

これはとくに恐ろしくも、禍々しくも、不気味でもないのだが、私は友人二人と大型ビルのエスカレーターの上に立っていて、中華を食べようと話し合っている。その場所は「池袋」ということになっていたはずだが、風景はたぶん名古屋だった。理由はもう忘れてしまったが、私たちはそのあと中華を食べに行くのだが、中華料理屋に辿り着かない。それどころかビルの中をぐるぐると回っている。

こんなにも鮮明に覚えているのは、それが初夢だったのと、そして、当の友人にその夢の話をして、実際にそのメンバーで中華を食べに行ったからだ。だがそれは別にどうでもよい。言いたかったのは、この夢がものすごく夢らしかったと思う、ということだ。

つまり、さしてこの夢の設定そのものが奇妙とは言えないにしても、夢の中では私たちは設定に投げ込まれている。そして「中華に行く」という意思も含めて設定されていて、私たちはそれに何の疑問も抱かず、その意思を実現させようともがいている。

 

夢がもつ気味の悪さは、覚醒時にそれを思い出すと、全くの不条理からくるのではないか。人の夢の話を聞くのが退屈に感じられることがあるのも、きっと同じ理由だ。話し手も、聞き手も、一体何の話をしているのかわからないのだ。

だから古来より、人は夢に意味を持たせたがる。占い師や哲学者や心理学者は夢に様々な解釈を与えている。

例えば、予知夢や夢占いの類は運命と夢を結びつける。また、ある哲学者は、目覚めている時は「正常な」生活のために定まっている意識が夢ではゆるんでいて、普段はちらりと感じたり、考えたり、経験したりしているけど、無視してきたようなことが夢で現れるという見方を提示する。あるいは有名な心理学者は、日常的に抑圧し、無意識の世界に押し込まれていた願望が夢となるという見方をするが、これは人口に膾炙していると言ってよい。きっとそうなのだと思う。

しかしたまに思うのだが、夢に意味を持たせることはどこまで意味のあることなのだろうか。つまり、夢の中で体験されることは、どこか宙ぶらりんで、私たちはそれを信じ切って夢を生きる。そしてわけもなく必死である。そのままでいいじゃないか。やけにエロティックな情動や、やけに運命論的な言葉を引き合いに出さなくても、夢は夢だ。宙ぶらりんの気持ちの悪さを受け入れてみるのも一つの手である。

というのも、夢の解釈は、夢を起きている状態の視点から解説しなおしたものだ。でも夢が現実でなく、起きている状態が現実であると、どうして言い切れるだろう?

 

例えば、私たちは夢のような1日を過ごすこともある。ちなみにここで言っているのは、ネガティヴ無意味での「夢のような1日」である。

過ぎ去ってみると、何に必死になっていたんだろう、という1日のことだ。誰かに連絡をしなきゃとか、何かしなきゃとか、ひたすら感情に追いかけ回されていてるのだが、達成感のようなものもないまま、1日が終わっている。そう、現実感すらない。そう言う1日は、夢とさほど変わらない。違いがあるとすれば、人生の秒針が間違いなく進んでしまっていると言うことだ。そんな1日を翌日になって思い直してみれば、いっそ本当に夢だったらよかったのにと思う。

しかし突き詰めてみれば、私たちは通常の生活も夢とさして変わらない風に生きているのではないだろうか。というのも、私たちは大抵設定の中に投げ込まれ、必死にもがいているじゃないか。社会慣習やルールのようなもの、義務は、ヘンなものがたくさんある。とくに疑問もなく、そこでもがいている私たちはどこか夢の中にいるようだ。ひょっとすると、私たちは大抵の場合、集団的な夢の中にいるのかもしれない。