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旅、映画、食べ物、哲学?

存在と賭け〜哲学所感1〜

わたしは、大学四年間と大学院での現状半年間、哲学科に属してきた。しかし最近、いろいろな人の考えを学ぶうち、果たして自分がどんなことを考えているのかがよくわからなくなってしまった。そこで、このブログを使って、たまに、ちょっと堅苦しくはあるが、哲学に対する所感を記すことにした(所感なので論文ではないし、かなり散らかっている)。

しかし、そこで最初のテーマをどうするか、というのは大きな問題である。なにしろ、何を最初に持ってくるかで、何を問題意識として持っているか、ということが如実に現れるのである。慎重にならざるをえない。例えば、正義や道徳を全面に持って来れば、そういう問題意識の人ということになるし、世界の存在などを持って来れば、やはりそういう問題意識の人だ。美しいこと云々も同様のこと。だが私はあまり、そういった問題意識を哲学という営みの上で分けたくはないのである。

私の周囲には、過度に倫理的問題を扱うのを嫌う人や、逆に形而上学を無意味と切り捨てる人、あるいは美しいということは趣味にすぎないから哲学にはならないという人、といったいろんなタイプの人がいる。しかし、非難するつもりは毛頭ないのだが、あえて言わせて貰えば、どれも狭いのである。そこには視野の狭い取捨選択が働いている。もちろん、興味が持てないのは、しかたがない。私にだって興味がないことはたくさんある。だが互いに理由をつけあって忌避しあったり、口論することに意味はない。いって仕舞えば、そんなことは哲学の仕事ではないのである。

というわけなので、何回かに分けて、全部書いてやろうと思った。最初は伝統に従い、「存在」の問題についての私の所感を書いてみる。ちょっとこのブログの今までのテイストとは違うが、今から書くことが、いままでのブログには通奏低音のように響いてきていることだけ断っておこう。これからずっとこういうテイストというわけでもないし、このテイストのものも、実を言えば今までの延長線上にあるのである。

 

道端の石ころにも存在する意味がある、という言葉がある。非常にほっとする言葉である。だが、本当だろうか。「存在する意味」というものが果たしてあるのだろうか。と、こんな風に話を展開してみると、一気に哲学となる。

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーは、似たような問題である存在の問題、つまり、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」という問いを哲学にとって最も重要な問いであると考えた。正直、私はハイデガーには手が伸びず、最近になってようやく読み始めたところなので、彼がこれにどんな回答を考えていたのか、どのように考えようとしたのかはよくわからない。だから、これから述べるのは、私自身が考えたことである。

 

私たちの周りにはいろいろなものがある。石ころもあれば、ペットボトルもあるし、パソコンもある。日本語独特の言い回しであるが、私を含めた人間も「いる」。何にせよ、様々なものが存在しているのは確かだ。だが、どうしてだろうか。

次のように考えることができる。例えば、私が存在しているのは、父と母から生まれたからだ、と。冒頭の石ころでいえば、この石ころはどこかの岩から分離したから存在する、という風になるかもしれない。だがこのように考えた場合、どこまでも問いを立てることができる。なぜ父と母はいるのか、なぜ岩石があるのか、と。これに答えて行くと、最終的には、地球、太陽系、銀河、宇宙、とスケールはでかくなって行くだろう。すべてのものは、「ビッグバン」から始まったのだ、と。だがどうしてビッグバンは起きたのか。現代物理学では、それは「真空の揺らぎ(真空とはいえども、粒子が生まれては消え、生まれては消えを繰り返しているということ)」と「自発的対称性の破れ(粒子が真空で生まれる時、反粒子というものを伴っており、この粒子と反粒子が出会えば消滅してしまうのだが、ある条件のもとで、粒子の方が多くなれば、物質がほぼ恒常的に存在することができるようになる。2008年のノーベル物理学賞をとった南部陽一郎氏の受賞理由である)」から説明されるだろう。だが、そもそも、なぜその真空が生まれたのだろうか? おそらくここまでくると、うまく説明ができない。

ギリシアの哲学者アリストテレスは、このように遡れば、最終的には、第一原因ないし不動の動者なるものがあり、それは、自らの原因を持たないと考えた。もし原因を持てば、「なぜ第一原因はあるのか?」と問えてしまうからである。しかしドイツの哲学者イマヌエル・カントは、このように続けたところで、理性はこの問題の答えを与えることはできない、と考えた。結局のところ、この場合、賭けになるわけだ。真空では収まりが悪いので、多くの場合は、神がその役割を引き受けることになる。一つには、神というそれ自身は原因を持たないものが存在し、宇宙の原因となっている。もう一つには神というものは存在せず、ひたすらに原因の系列が無限に続く。どちらを取るかは、もはや合理的判断によっては可能ではない。どこで止めるかは、賭けの問題、信仰の問題となる。

 

そうではないやり方もある。それは、「なぜ何かがあるのか?」という問いの、「なぜ」を原因を問うものではなく、根拠や意味として捉えるやり方だ。ここで、冒頭の石ころの話になる。道端の石ころにも意味はある。ここでいう「意味」が、「なぜ石ころは存在するのか」という質問への回答になる。わたしはどんな意味を持つがゆえに生まれ、石ころや世界全体はどんな意味を持つのか。日本語の普通の使い方で言えば、「理由」とも言えるかもしれない。

しかしこれは、先ほどのもの以上に信仰の問題に行き着きやすい。なぜなら、「意味」をこのように捉えれば、結局人間について言えば「使命」のような話になり、そこには神の意思が介在するからである。別に神である必要はないが、使命は結局のところ、自分で決めたもの以上の響きを持っている。なぜ生まれてきたのか、まで考えればそれは顕著である。一方で、そんなものはなく、自分で決めるんだ、という考え方がある。非常にカッコいいのだが、そのダンディズムは、「使命」を否定することはできない。そもそも、ダンディズムには、他の説を反駁するなんていう無粋なことをする必要がないが、要するに、ここまでくればそれは真理云々ではなく、ダンディズムを選ぶか、信徒を選ぶかの賭けになってくるということだ。

 

もう一つ、やり方がある。それは、「何かが存在するのか?」というより、「この世界が存在するのか?」という問いに関わり、「実は世界は存在しないのではないか?」という揺さぶりをかけてくるやり方である。分かりやすいのが、「水槽の中の脳」問題だ。「何かがある」と主張するとき、私たちは感覚に頼っている。目で見て、手で触れて、鼻で嗅いで、耳で聞いて、ときには舌でなめて、私たちは存在を確かめる。だが、もし、感覚神経が脳につながっていて、脳であらゆる判断をしているなら、本当は脳だけがどこかの水槽に浮かんでいて、刺激を受け、それを何かが存在すると錯覚しているだけではないか?

だが、これに答えを出せるだろうか。私たちの直観は世界は存在すると告げている。だが、突き詰めて考えれば、答えられなくなる。フランスのルネ・デカルトは、一旦は、感覚は疑わしい、として感覚で感じられるものの存在を保留している。デカルトはどのように切り抜けたのか。結局は、神を持ち出し、神のご厚意に甘えるしかなかった。ここでまた、信仰の問題が出てくる。さらに、こうも言える。どうして水槽の脳でなくてはいけないのか。別にまったく別のものでもいい。水槽の脳が正しかったとしても、それは否定も肯定もできない。感覚は嘘かもしれないが、私にとってそれはありありと感じられる、目の前にいる他者は嘘かもしれないが、私にとっては予想外のことすらする、紛れもない他者である、ここでまでリアルなら、それが現実として認めてもいいのではないか、とも主張できる。結局は、どれを信じるかになる。

 

どうして、何をやっても、まるで手品師のトリックのように、いつの間にやら信仰や神や賭けに誘導されてしまうのだろうか。それは思うに、「なぜ存在するのか?」という問いが、結局のところ、この世界を離れたところに回答を導くからだと思う。

原因にしても意味にしても、そもそも疑ってみるにしても、今与えられているデータそのものからは回答を与えることができないようになっている。「どうしてコーヒーを飲むんですか?」と聞かれれば、多くの場合、「習慣だからです」とか、「眠気をとりたいからです」とか、「好きだからです」といった、「コーヒーを飲む」という行為そのものではない回答が与えられるだろう。ここで「コーヒーを飲むから、コーヒーを飲むんだ」といえば、「この人、めんどくさがってるのかな」などと思われるだろう。つまり、マナー違反である。原因を訪ねる場合、ある状態が発生する原因となる状態を探求しており、意味を訪ねる場合、ある状態が何のためにその状態として成立してきたのかを探求している。ある状態そのものを疑う場合、その状態それ事態は答えにはならず、疑いを晴らすためには、疑いを晴らすための根拠、確かにその状態が成立しているということを示さなければならない(「私は殺してない」ということを否定するためには、「私は殺してないから殺してない」では済まされず、「動機がない」とか、「別の場所にいた」とかを証言しないといけない)。

だからもしかりに、「存在」を問うなら、その回答は存在ではないものになるだろう。私の原因を問うたとき、答えが父と母になるのは、私の原因が私だというのは都合が悪いからだ。私が存在する根拠が神の意思とするのは、それは私の存在する根拠が私が存在することそのものであってはいけないからだ。

だが、「存在」でないものが、存在の原因・根拠になるというのは一体どういうことだろう。結局のところ、父と母も存在なので、結局のところ、原因を問おうとしたら、宇宙の果てまでたどり着いてしまった。すると結局、どこまでいっても、「なぜあるのか?」と問うことがやめられなくなる。「なぜ神はいるのか?」この問いを封じるのは堅固な信仰か、信仰に裏打ちされた組織の圧力しかない。「神に原因はない!」あるいは、「それを言うとお前は天国に行けないぞ?」かである。神とは言っても、私たちはそれを存在とみなすしかないのだ。なぜなら、神が存在ではないとすると、神は存在しないから、何の解決にもならないのである。根拠についても、結局、「存在するために存在する」とは口が裂けても言えない。なぜなら、意味をなさないからだ。存在を疑うことについても、結局、また別の存在を持ち出してみたはいいものの、結局それを信じるかどうかになる。

 

存在の問題の厄介さは、結局のところ、私たちが存在以外を知らないことにある。知らないし、思い浮かべることもできない。「なぜ何もないのではなく」という言葉を、先の問いでは付けているが、これは付けている以上でも以下でもないように思われる。「何もないわけではないのはなぜか」と聞かれるにしても、結局のところ、「何もない」ということを打ち消すには、問うているその人が存在するだけでいいわけで、この枕詞に、枕詞以上の意味を持ち出すことはできない。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、「存在しないもの」は、結局のところ、「存在しているもの」から考えて、「もし仮に現に存在しているものが存在していなかったら」という風に想定したときに出てくるにすぎず、真の意味で「存在しないもの」ではないという。英語の言い回しで、「I can see nobody(誰も見えない)」という言い方があるが、これは、「誰もいない(nobody)」が見えているわけではない。これは文構造の中でのみ意味をなす単語なのであって、それは単に不在を表す。それは、「何もない(nothing)」も同じことである(ここで、注意が必要なのは、仏教などでいう「無」や「空」は、決して、同様の話ではないから、「アジアの考え方では「無」はある」などと鬼の首を取ったようにいうことは決してできないということだ)。

存在は、事実なのである。それはどんな形であっても、だ(私たちが生きる世界にせよ、水槽にせよ、だ)。そして存在は、事実として独立している。私たちは常に、そしてすでに、この存在する世界の中に、自ら存在するものとして投げ込まれている。そこでは「存在しないもの」は、少々冗談じみた、想定に過ぎない。だから、存在をめぐる問いとして有効なのは、「この世界は存在するか?」というYES/NOクエスチョンだけである。そして、何かがある以上、これはYESで答えるほかない。この状態を強いて表現するなら、「この世界は存在するから、存在する」といえるだろう。何かが存在するのは事実である、と。こうした言い方は、先ほども述べたように、明らかなマナー違反である。だが、これほどしっくりくるものはない。存在を支える原因・根拠なるものは不可知なのだから。

 

しかし、それ以上先に行くなら、信仰の問題と向かい合う覚悟が必要だ。賭けである。私はといえば、この世界を信じる。私は水槽の脳ではない。もし水槽の脳だったとしても、私の目の前の世界はかくもリアルだ。私はそれを現実と認める。目の前のあなたは現実だ。そして私にとって自分の生きる意味と神の使命の違いはない。どちらでもいい。いつか見つかるかもしれない。だからどちらでもいい、に賭ける。世界が存在する根拠は世界が存在するからであると信じる。そういう意味で存在は無根拠なのだと信じる。だから、もし神がいるとすれば、それはスピノザや、イブン・アラビーが言うように、それは唯一の実体もしくは存在であると信じる。さっきから言っていることは根拠に欠けるが、これは賭けなので構うまい。カントが忌避した場所に、今立っているのだから。パスカルは、神の存在については賭けであるとして、いろいろな理由をつけて神を信じるほうが、損害が少ないとしたが、それは本当の賭けではない。本当の賭けは、ギャンブルより、一か八かであって、勝つか負けるかわからない。だからもしかしたら、負けかもしれない。それはわからない。それでいい。いや、それしかないのである。

こんな風に回収して仕舞えば、哲学なんていらないことになるかもしれない。だが、そういうわけではない。この態度そのものが哲学だと考えている。それに、まだ問題はある。存在を存在として認めるとして、ほかに疑うべきことはあるからである。それが、言語の問題である。