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旅、映画、食べ物、哲学?

Добър Спомен〜ソフィア③〜

ソフィアでやることはもはや枯渇していた。だがホテルもとっていないので、帰るところもない。帰るところがないというのはゾクゾクを超えてワクワクするものだが、こういう場合は困ってしまう。どこか一休みできるカフェはあるか。そう思いながら眺めてみても、イタリアのようなカフェはない。市場に行ってもアテネの活気はない。博物館に入る金はない。そもそもそんなに両替していない。教会かモスクはあるが、祈る神がない。

ここにきて、私は異邦人になった。観光客ではもはやなく、居座る場所もなかった。ひたすら歩くしかない。だが、私の足は悲鳴を上げている。それは連日の遺跡巡りのせいだった。遺跡というとお足元のお悪さがお強烈におひどい。しかも歴史好きに遺跡は語りかけてくる。それに応答しているうちに、いつの間にか足をやっちまうのだ。あの感覚をわかりやすく言えば、脚が取れそうな感覚、といえる。くるぶしから先がぽろっと取れそうな感じだ。わからない人にはわからないかもしれないが、わかる人にはわかるはずである。

さらに悪いことに、なんだか頭まで痛くなってきた。元から少し痛かったのだ。おそらくバスで寝たせいだ。あまり眠れていないのだ。その上に、これは確実に自分のせいだが、ビールを飲んだことで血流がやけに良い。それにしても昼に飲んだデンマーク産ビールは多かった。

 

そんなわけで、絶不調かつ何をしたら良いのかわからぬ状態で、私が導き出した答えは、トラムに乗ることだった。元共産圏らしい素朴なトラムが街を走る姿はとても魅力があったから、今度は乗るばんだというわけだ。先ほども乗りはしたが、それは新式のトラムで、あまり風情があるとは言えなかった。こうなったら、すごく良い雰囲気のトラムに乗ってやろうではないか。さてと、どの駅に行けば乗れるだろう…

私は市場の目の前にある駅に立って、トラムが来るのを待った。するとどうだろう。良い風情のトラムが来るではないか。ところがこのトラム、立ちすくむ私の前を無情にも通り過ぎてしまう。お前に興味はない、とも言いたげである。さすが共産圏のトラムで、愛想のなさは人間を優に超えている。

だが、ここまできて諦めるわけには行くまい。私はトラムの後を追い、どこで停車するのかを探った。日差しは暑く、頭は痛い。足は取れそうだ。だが頭も足もフル回転で行こう。Quo vadis, Tram!(トラムよ、いづくにかゆかむ)トラムは答えてくれない。今のトラムは駅を背に右車線を行った。だとすると、トラムの進行方向を向いて後を追った場合、向かって右側に駅があるに違いない。右側に人混みがあればビンゴだ…!

ところがこれが見当たらないのである。なぜか駅は皆左側で、右には何もない。明らかにおかしい。世界と私、狂ってるのは多分世界だ。などと思いながら真っ直ぐ進むと、すっかり知らない街並みまでやってきた所に、トラムステーションがあった。

だが、今度はトラムが来ない。こういう場合、きちんと待てる人というのは大抵、きちんとした理由をもってトラムに乗る人だ。私の場合は、トラムに乗るためにトラムに乗るという低機能社会不適合者なので、そわそわしてしょうがない。くるのか、こないのか。こないならここを離れてもいいんじゃないか。だがよくよく考えてみれば、トラムに乗る理由がないんだから、逆にいつまで待っていってもいいはずなのだ。

結果として、トラムはこなかった。だから別のところを歩いた。すると、トラムが来た。狙っている車両だった。私はそそくさとトラムに乗り込んだ。

 

私が持っていた一日券は、トラムにも使用可能だった。とはいえ、何かピピっとやる場所があるわけでもない。多分見せればいいんだろうが、もし打刻しなければいけないなら、それはちょっと困る。何せ博物館に入るレフさえないのだ。罰金なんてごめんだ。というわけで、打刻装置に挟んでみたりなどしてみるが、電動ではなさそうだ。まあいいのかな、と思っていたら、

「押せばいいんですよ」と流暢な英語を話すおじさんが声をかけてきた。

「あ、なるほど」と言ってみたが、どこをどう押すのか。ボタンもなさそうだ。するとおじさんは立ち上がり、私の一日券を打刻機のところに置いて、打刻機を勢いおく押した。すると、物理的に打刻された。バーコードの真ん中には丸い穴が開き、明らかにこれが正解ではなかったことを物語っている。おじさんも少しバツの悪そうな顔で、席に戻った。だがなにやらおもしろそうな気がしたので、私はおじさんの前に、座っていいかと言って座った。ソフィアやブルガリアのことを知っておく必要があった。何せ私はあと5時間ほど暇なのだ。

「ソフィアは初めて?」とおじさんが聞く。

「ええ。初めてです。綺麗なところですね」

「ああ、最近綺麗になったんだよ」とおじさんは笑う。そしておじさんはずっとしたかったんだろう質問をぶつけてきた。「それで……君の出身は……そうだな……」

「あ、日本です」と私は答える。

「そうか、やっぱりね。日本は素晴らしい国です」とおじさんは言う。私は笑い流した。

「一つ聞きたいんですけど……」と私は切り出す。「ソフィアのこと全然知らなくて、どこか見ておいたほうがいいところはありますか? 教会は幾つか見ました」

「そうかあ……そうだな……」とおじさんは考えている様子だ。私は待った。しばらくしておじさんは言った。「それじゃあ、案内してあげるよ」

 

滅多にこんな幸運なことには出会えない。私はおじさんとともにトラムから降り、歩き始めた。おじさんはびっくりするくらい足が速かった。そういうものらしい。パリで街を案内してくれた友人も速かった。

おじさんのツアーは、まず、私が最初に目にした共産党本部ビルのそばから始まった。真っ先に入った教会の横を抜け、金ぴかのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂の方向に向かった。そこには官庁が集まっているらしく、あれが大統領官邸で、あれが外務省だ、と紹介してくれたあとで、建物の中庭に入った。中庭には、他の建物からは想像ができないほど古そうな建物がある。ローマ様式である。つまり、細長いレンガがコンクリートの間に挟まっている様式だ。教会だろうか。

「この教会は、ソフィアで一番古いと言われてる教会なんだ。こんなとこ滅多に人は入らないから、観光スポットにもなってないけど、大事な場所だ。だからこうやって新しい建物ができても、中庭のところに保存されているんだ」とおじさんは言った。

「これはどれくらい古いんですか?」と聞くと、

「そうだねえ……たしか6世紀くらいの建物だったと思う」という。とすれば、だいたいユスティニアヌスが皇帝だった頃だ。ユスティニアヌスといえば、ビザンツ帝国の領土を最大にした皇帝だ。ローマ帝国の時代から、ソフィア(セルディカ)は北方のゲルマン人との戦いの前線だった。しばらくすると敵はスラヴ人、つまるところブルガリア人になる。いまやブルガリアの首都なのに。だが、うち捨てられつつも保存されるその教会を見ていたら、首都はブルガリアに抑えられたものの、ビザンツの心は受け継がれているというのが見えてきた。その教会は、ビザンツ帝国が健在だった時代にはスラヴ人の中で一番「文明化」されていたブルガリア人の誇りなのかもしれない。

「すごいですね。日本だと全部木でできてるから火事で燃えてしまうんです」と私は言った。するとおじさんは、

「ああ、テレビで見たことあるよ。でもその分建築するのが速くてすごい。被災地もかなり復興してきてるんだってね」といった。

「ええまあ、でも、まだ帰れない人もたくさんいるし、それに……」

放射能汚染のあった地区?」おじさんが言葉を補う

「ええ。あそこはまだ……って感じですね」私は言った。そして、そえた。「随分お詳しいですね」するとおじさんは照れたようにはにかんで、

「はは、まあ、日本は有名な国だから」といった。「アリータも観たしね」

アリータ観たら日本に詳しくなるのかは疑問だったが、どうやら日本に興味があるらしい。

しばらく歩くと、ロシアっぽい建物が見えてきた。先程行った金ぴかのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂のそばにあったが、先程は気づかなかった。その見た目はまさにオニオン頭の聖ヴァシーリー大聖堂に似ている。

「この教会はロシア風なんだ。ロシア人のために建てられたからね」とおじさん。なるほど、ギリシア正教会とロシア正教会は異なると聞いていたが、ブルガリア正教会も違うようで、だがそれでも、今目の前にある教会は、ロシア正教会だ、ということなのだろう。思ったより、正教会の世界は複雑である。

ここに入るより、ということで、おじさんはアレクサンドル・ネフスキー大聖堂の方へ向かった。

「これはさっき入りました」と私は告解した。おじさんはちょっとがっかりした顔をした。金ぴかで驚かしたかったのだろう。だが、おじさんの説明のおかげで、数時間前には見えなかったものが見えてくるようだった。

「この教会は、ロシア人への感謝で建てられたんだ。今でもブルガリア人はロシア人と同じ文字を使ってるし、好感情を持っているんだけど、そのきっかけになったのが、ブルガリアの独立なんだ。ブルガリアの独立はロシア人のおかげだったのさ。だからブルガリア人はここにこんな教会を建てた」なるほど。ただ、あとで知った話だが、文字に関して言えば、いわゆるキリル文字と呼ばれるあの文字は、ブルガリアで使用されるほうが早かったらしい。だから、ロシア語よりもブルガリア語のほうがあの文字にマッチしている。

中に入り、おじさんは正面をまっすぐ行き、イコンのある台の横の空間に立った。私もそれに続いた。

「ここには玉座が置かれていた。ロシア皇帝のための玉座だ」おじさんは言った。そこまでするのか、と少々驚いた。だって、曲がりなりにも別の国である。皇帝の玉座なんぞおいた暁には、それはもう「併合スル」のサインである。これが、世界史でならう「パン=スラヴ主義(汎スラヴ主義)」なのだ。スラヴ人糾合といわれてもなんのイメージもわかないが、それはつまり、他国に玉座を立てる、あるいは建てさせることなのだ。

ツアーはすごいスピードで続いてゆく。次は「聖ソフィア教会」だ。つまり、ソフィアの由来である。先程は入っていなかった場所。おじさんは中に入るのではなく、まず別の礼拝堂に入った。

「ここはすごく面白いよ」とおじさんは言う。

中に入ると、子供達が机に座って紙に何かを書いていた。そして、まるで投票するかのように、ボックスにその紙を入れている。これは何かのワークショップだろうか、と思っていると、

「ここではお願いことを書いているんだよ。お願い事を書いて、あの箱に入れたら叶うんだそうだ」とおじさんは言った。どの国も、同じだ。一神教多神教の違いをこれ見よがしに説明する人がいるが、結局求めるところは同じなようだ。と思っていると、おじさんは、

「変だと思わないか? あんな紙を箱に入れても叶うはずがない。それでもみんな信じてるんだよ」と言った。確かにそうだ。だが私はアジア代表として、

「まあ、僕の国もああいうのはあるので……」と答えておいた。おじさんはちょっとバツの悪そうな顔をしていた。日本人はもっと無神論的合理主義者だと思っていたのかもしれない。逆なのである。そういえば、フランスに行った時、同居人のドイツ人に「ドイツ人は今はきちんと合理的に考えて平和は正しいと信じてるのよ」と言っていたので、ちょっと茶化して「日本人は非合理的に、感情的に平和を信じてるんだ」と言ったら、本気の困惑の表情を浮かべていた。なぜかその一幕を思い出した。

それから、本堂へ行った。ソフィア教会は案外中は普通である。バシリカ様式の古い教会だが、イタリアのローマで感じた独特の空気感はなかった。ちょうど子供の絵を展示していたせいもあるだろう。地下に入れると言っていたが、金がないのでやめておいた(半年後に行ってみたが、この地下、ぶったまげるほど面白かった。それについてはまたの機会に)。

 

ここで問題が起こる。なんとおじさんの中でも観光ルートが枯渇してしまったのだ。おじさんはひたすら、「どうしよう……」と言っていた。まあ、ぶらぶらするだけでも良いのだが、と思っていると、

「ありえないほどでかい公園があるんだけど行くかい?よく家族で行くところなんだ」とおじさん。素晴らしい。むしろそういうのを待っていた。私は頷き、おじさんはさらに先へと歩き始めた。

途中「ソフィア大学」の前を通り過ぎたが、公園はまだ先である。私はいろいろな疑問をぶつけてみることにした。

「今日歩いていたら、道端で花を売っている人がたくさんいたんですけど、いつものことなんですか?」

「ああ、あれは今日が建国記念日だからだよ」建国記念日!そんな日に来ていたのか。にしては静かすぎないか、街。

「公園とかにも花がたくさん咲いていたので綺麗でした」

「そうだねえ……」まあ、普段から住んでいたら感じないか。「まあ中心部は綺麗なんだけど、郊外に行くと、『ダーティーコミュニスト・ビルディング(きたねえ共産主義時代建築)』ばっかりだ」おじさんは明らかに嫌そうな顔をした。

「僕みたいな日本人からすると、少し面白いんですけどね。だって、日本にはないですから」と私は言った。おじさんは、「そうかあ……」という顔である。まあそんなもんだ。欧米のアニメファンが一生懸命撮影している電線は、「早く地中に埋めてしまえ」と思う日本人もたくさんいるような代物である。

この辺で、私たちはやけに派手で、鷲の像が付いている欄干を持っているのにやけに短い橋の前に到着した。

「この橋はソフィアの有名な橋のうちの一つなんだ。でも見てごらん。川幅はものすごく狭い。なんでこんなことになったかっていうと、ソフィアには川がないのに、他の川のある街に憧れたせいなんだ。だからこんな狭い川に、不釣り合いな橋を建てたんだ」とおじさんは言った。正直これが今日一面白い話だったかもしれない。

そしてまた質問の時間へ……

「僕は旅の中でその土地のものを食うのが好きなんですけど、何か美味しいものはありますか?」と聞いた。「それとレストランか何かがあれば……」

おじさんは本気で困った表情をした。「ブルガリアに特別な料理はないんだよ……ごめんね。ブルガリアらしいといえば、『ムサカ』かな。日本人の名前みたいだろ?」そういえばそういう俳優いたな。「でもムサカはギリシアにもトルコにもある」

「ええ。ギリシアからバスで来たんですが、ムサカはありました。でも、味付けとかは……」と言いかけたら、おじさんは

「セイム・スタッフ(モノは一緒さ)」と即答した。そんなにないのか? 私はちょっと驚愕した。昼ごはんのあれはなんなんだ。是非とも、私はブルガリアンムサカを食べてセイム・スタッフなのか確かめたくなってきた。

「お菓子とかはどうですか?」と私は尋ねた。そろそろ甘いものが欲しい。

「お菓子かあ。お菓子もないね」とおじさんは言う。ないってどういうことだ、と思いながら、納得するほかなかった。

そうこうするうちに馬鹿でかい公園に着いた。本当に馬鹿でかい。さらに、ソフィアの人口のほとんどが集まっているのではないか、というくらい賑やかだ。

「今日は晴れてるからね、みんな来てるんだよ」とおじさんは言う。こういう文化は本当に良いと思う。まあそれもこれも、冬が寒すぎるせいでもあるのだが、Here comes the sunの文化はこうやって育まれている。日本の夏に、「太陽は昇った。もう心配ないよ」と言われても、ふざけるんじゃねえ、という話になってしまう。でもその代わり、日本には月があるのかもしれない。

「私はある会社に勤めてるんだけど、親会社は日系なんだ」とおじさんは言う。どういう経緯か覚えていないが、そういう個人的な話になった。だから、日本に詳しかったのだ。曰く、まだ日本勤務はしたことがないらしい。

 

しばらく公園を歩きながら話して、おじさんは駅まで送ってくれた。ホテルまで送ってくれると言っていたが、私は宿無しなので、駅がホテルみたいなものだった。おじさんとは握手して、別れた。そういえば名前を互いに名乗っていなかった。でもいいのだ。旅の面白いところはそこにある。とても仲良くなって、談笑するが、結局のところ、別れてしまえば一つの幻想である。それは「どうせ」幻想なのではない。十分満足できる幻想である。夢である。

そのあと、私はお菓子を食べたかったので、ケーキを売ってそうな店に入った。

「これはブルガリアのお菓子ですか?」と尋ねると、店員は何やらぼかしたように、

「全部ここで作っています」と言った。もしかすると、本当にブルガリアのお菓子は存在しないのかもしれない。まあ良い。欲しいのは糖分だ。わたしは、一応トラディショナルだというお菓子をもらうことにした。お菓子を持ってきた店員に、頑張って覚えた「ブラゴダリャ(ありがとう)」を言ってみたら、喜んでくれた。こういうとき、ホッとするのである。お菓子も甘くて美味しかった。これがブルガリアのお菓子なら、十分である。

夕暮れになるのを待つ。ブルガリア正教の教会の周りが夕日で赤くなる。夜の帳が下りようとしている。

 

せっかくなので昼のところとは別の場所で食べようと、おぼろげな、ソフィア経験者の友人のいったレストランの場所情報の記憶を頼りに、大通りを徘徊したが、全く見当たらない。どこをどう探しても、イタリアンとかそういうのばかりだ。一つ、「ドーブロ(おいしい)」という名前のレストランがあったが、あまりに宣伝熱心なので不安になり辞めてしまった。歩きに歩いたがないものはなく、足もやはり取れそうで、疲れが押し寄せた。私は市場の食堂を再訪することに決めた。

市場は案の定開いていて、地下に降りると、昼よりも活気があった。列も出来ている。トレーを持ち、私は食堂のおばちゃんにはっきりとオーダーした。

「ムサカ……モーリャ(ムサカ……ください)」

するとおばちゃんは何やら言う。まずいわからんぞ、と思っていると、おばちゃんは必死で思い出してるぞという表情で、

「アー……ライス、OK?」と訪ねてきた。じゃかいもとかじゃないぞということなのだろう。もちろん問題ないので、頷いた。

サラダのコーナーにさしかかった時、前にいた屈強なおじいさんが、話しかけてきた。

「チャイナ?」

「ノー、ジャパニーズ」というと、おじいさんは目を輝かせた。

「オー!ジャーパーン!ブルガリア、アンド、ジャパン、グッドリレーション(ブルガリアと日本はいい関係だぜ)」とおじいさんはいい、手を差し出してきた。私たちはなぜか握手を交わした。国交樹立だ。ここに至って私はブルガリアに降り立った時の感覚が正しくないことを悟った。確かにギリシアほどの愛想はないが、ブルガリアにはブルガリアの心があり、そしてそれはとてつもなく親切な心なのだ。

せっかくなので、そのおじいさんにサラダのお勧めを聞いた。するとおじいさんは正しく私が昼に食ったきゅうり&トマト&フェタチーズサラダを指差して、

「グーッド」と言ってみせる。そう言われたら食うしかない。私はトレーに置く。すると、おじいさんはおもむろにプリンっぽい食べ物を取り出し、私のトレーに置いた。

「グーッド」とおじいさんは嬉しそうに言う。そして自分のトレーにも置いた。これでちょっと値段が上がったかな、とわたしはビールを頼まずに会計に進んだ。だが、正確な数字は忘れたが、昼より安かった。フレンドシッププライスになったのか、デザート込みでセットだったのか、ディナーは安いのか……その答えはわからなかったが、なんとなく気分がいい。私は席に着いてから、ビールが飲みたくなっていたのに気付き、会計のおばさんのところへ行き、

「ブルガリスカエ・ピーヴァ、モーリャ(ブルガリアン・ビアー、ください)」とブルガリア後らしき言葉で伝えた。するとおばさんはちょっと感心したようにビールをくれた。しかも安い。だが、ビール瓶を見ていて気付いたのだが、ビールはブルガリア語で「ビラ」、ブルガリアの、は「バルガルスカ」なので、「バルガルスカ・ビラ」が正解らしい。

さて、ムサカだが、おじさんの言葉とは裏腹に、やはり独自の味がした。煮込み料理というよりもソースという感じで、ライスにもよくあっているし、うまい。それにビールも合う。にしても、やはり中瓶は多い。バスの中でよく眠れそうだ。ちなみにサラダは昼食べた時よりきゅうりが控えめで、ずっと美味しく感じられた。そしてプリンらしきお菓子は……まごうことなき普通の焼きプリンだった。やはり独自のお菓子はないんだろうか……?

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充電出来なかったスマートフォンの電池の関係で、今回の記事に該当する写真はこれしか残っていない。ムサカである。

 

外に出ると真っ暗だった。もうあとは、バス停に向かい、イスタンブールへと一路向かうだけだった。走ってイスタンブールブルガリアも結果的にいいところだった。見るところという見るところは少ないかもしれない。だがそれ以上の何かがこのソフィアにはある。