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旅、映画、食べ物、哲学?

魔境あるいは古本屋

そんなに古本屋が好きなわけではなかった。ブック・オフには自分の興味がある本がなさそうだったし、個人経営の古本屋には個人経営特有の緊張感というものがあって、どうもそこに飛び込もうという気にならなかったからだ。だが、それだけではなく、あまり古本というものが好きではなかったのである。要するに、匂いの問題だ。タバコの匂い、カビの匂い、どこかの家の匂い。そう言ったものが染み付いている本より、新鮮な紙の匂いがする書店の本のほうがよかったのだ。少々潔癖症的なところがあるのかもしれない。

そんなわけだから、古本屋に通うようになるとは思ってもみなかった。

 

思ってもみなかった、ということは、簡単に言えば、最近の私は古本屋巡りに入れ込んでいるということである。ちょっと大人な趣味で、背伸びしてみたくはあっても、なんとなく生理的に受け付けてこなかった「遊び」をまた一つ、覚えてしまった。スパイシーな料理以来の快挙かもしれない。

古本というものへの抵抗感が完全に払拭されたわけではない。買っては匂いを嗅いでしまうし、ちょっと表紙がベタついていると、「べたついてるなあ」と少しばかり眉がひそまる。そういうことじゃないのだ。そういう部分から何から何まで変わったわけではない。ただただ、古本屋に行くのが、なんだか面白くなってしまったのだ。

別に、神保町の専門的な古本屋に限って通い詰めているというわけではない。やっぱり個人経営の「圧」は強い。もちろん昔と違って挫けてしまうことはない。だが神保町に行くと、大抵、本屋の前のラックを見る仕草から入り、店内を店の外から眺め、「よし」と心算を決めて、足を踏み出す、という伝統芸能顔負けの作法を、手順を踏まないと、やはり難しいものがある。ガラガラの店舗に老人が一人座っている店には、入れた試しもない。だから古本屋と言っても、2対1の割合でブックオフが多い。そんなことでは古本屋道楽ではない、という人にはこう答えよう。私は別に高尚な理念を持っているわけでも、書生ごっこがしたいわけでもないのだから、ブックオフに行ったって良いじゃないか、と。

 

では、何が楽しいのだろう。

それは一言で言えば、異世界感だ。

古本屋に入る。するともちろん書棚が並んでいる。ブックオフくらいになると大抵のものがある。例えば、私のお気に入りの沢木耕太郎氏の著作は必ずいくつかある。それは有名な『深夜特急』が多くを占めていることがある。それに関しては、通常の書店と変わらない。ところが、沢木氏のコーナーを舐め回すように見ると、異変に気がつく。有名な作品の影に隠れて、観たことのないタイトルの本が紛れているのだ。それは、常識人の立場から言えば、すでに絶版になった本ということになる。だが、古本屋の冒険者たる私にとっては、それは紛れもない『発見』である。そういう瞬間が楽しくてたまらないのである。

例えば歴史のコーナーへ行く。哲学のコーナーに興奮の種があることは滅多にない。だが歴史は案外面白かったりする。そこにも『発見』がある。ベトナム戦争についての本、カール5世についての本、中欧の歴史と文化についての本……。探していたわけでもない本が目に止まる。こんな本があるのか、と驚かされる。着眼点だったり、問題意識だったり、装丁だったり……あまり目にしないものがポンと置かれている。探していないものが見つかる瞬間である。書店は目的意識がモノを言うが、古本屋はもっとぼんやりとした何かの世界だ。

そしてこれは総じて言えることだが、値段も次元の歪みの中でおかしくなっている。半値になっている本、100円200円もザラにある。当然と言えば当然であるが、毎回「おいおい嘘だろ」と思いながら手に取っている。それはまるで、東南アジアのマーケットの怪しい店を眺めている感覚である。Tシャツや置物に購買意欲がわかない私でも本となるとついつい手が出る。古本屋という魔境は、欲望の園でもある。

 

お祭りから略奪品を携えて凱旋したら、手元にある品々がちゃっちいことに気づくことがある。本の場合、そこまでのことはないが、匂いやベタつきは、私にとってそういうものになっている。コロナ対策のマスクも相まって、古本屋という魔境では感じ取られなかった匂いに気づき、「うわ、なんてタバコ臭いんだ」と思うのも、結局のところは、お祭りの一部である。そして、部屋に帰って、戦利品と思っていたものが、結局のところは、積読ワールドに仲間が増えただけだと知るのもまた一興なのだ。

魔境=古本屋。次はどんな発見をくれるのだろうか。