たんたんと。
「今年はどんな年だった?」
そう言われて、ふと出た言葉が、
「光と闇」だった。
(1) 2024年無職の旅
2024年、世界も動いたが、私の人生も動いた。
冒険に出る、という新年の抱負を掲げ、それを成就させたと言ってよいと思う。
まず、5月。3年間勤めていた仕事を辞めた。その仕事は、コロナ禍の就活という二重の苦難の中で、たまたま転がり込んだ仕事だった。仕事の中身に全く興味がないわけでもなかったが、仕事の本筋には一切関心がわかなかった。
このままでは人生に対する責任を取ることができない。死ぬ時に、このままでは、ただただ内心と外面の乖離を残したまま、不満たらたらで死ぬだけだ。それは嫌だ、という変なダンディズムを捨て切ることもできない。だが今でなくてもいい、という甘えから、「船出」を延期し続けていた。
だが、一昨年から勤めていた職場は環境が悪く、部署内の閉塞的で悪口に満ちた空気が苦手だった。今まででは考えられないほどの頻度で体調を崩していたし、精神的にも、深いところが見えず、浅瀬で漂う落ち葉のような感覚でいた。このままでは、先延ばしにしている船出をする体力や精神力まで奪われてしまうように思えた。
本当はもう少しいたほうがよかったのかもしれない。今は時々思う。だが、あの時見つけた「時宜」はまさにあの4月末でしかあり得なかった。
ショック療法〜インド一周〜
飛び出した私が最初に向かったのは、インドだった。
インドは文化や言語に関心があり続けた土地で、いつか長い時間ができたらじっくりと旅したいと思ってきた場所だった。このタイミングを逃せばもう時間などないかもしれない、と、インド行きを決めた。ついでに、航空キャリアの関係で、大学時代よく訪れていたヴェトナムのハノイにもよることになった。
コロナ禍と呼ばれる事態が始まってから、海外旅行はというと、香港、マカオ、台湾といった中華圏だけしか訪れてこなかった。その意味で、インドの旅は久しぶりの「異文化」だったし、初めての、それも少しばかり「難しい」土地への旅だった。
結論から言えば、日本でしばらく閉ざされていた精神にとって、インドの旅はなかなか過酷なものだった。リハビリにとヴェトナムを加えてみたものの、勝手知ったるハノイの街は何のリハビリにもならなかった。摂氏50度近いデリーのコンノートプレイスで、私はいわゆる「ぼったくり旅行会社」に引っかかってしまったのだ。
詳細はまたどこかに書こうかと思うが、その結果として、私は退職金のほとんどをインドの旅行会社に振り込んでしまった。というと、まるで「詐欺」のようだが、そこまでひどい事態ではない。
純粋に高くはあったが、北インドから南インドまでを回るための鉄道と航空券、宿、ピックアップ、一部ガイドが手配された。宿も朝食付きの一人部屋で、夕飯も三食分なら無料だった。だが、自分で手配したほうが遥かに安かったろうし、一部二重取りがあったり、常に猜疑心を働かせなければならないと言うストレスもあった。つまり、望んでいたようには心を自由に旅することができなかったのである。
デリーからはじめて、ジャイプル、アグラ、ワラナシ、コルカタ、チェンナイ、コチ、ゴア、ムンバイを回ってデリーへもどる。文字通り、私はインドを一周した。
ぼったくられたこと、今後のこと、心穏やかな旅とは言えなかった。だが、逞しく生きること、人とコミュニケーションを取ることなど、ここ数年で低下していた「サバイバル能力」を取り戻すには十分だった。
それに、時に図々しくあることの重要さ、金を失っても経験で取り返すことができることなど、教訓があった。あの一ヶ月で確実に私は鍛えられたと思う。
インドでの「冒険」は私にとって「ショック療法」であり、修行だった。人生観が変わったまでは言わないが、確かに成果はあった。
友人と行く偶然性の遊び〜四国半周〜
疲れが出たのか、6月はほとんど休眠状態だった。
7月に入り、旅を再開した。次は同じく仕事を辞めた友人との四国の旅だった。お尻は決めず、大阪で落ち合った。
もともと「高知へ行こう」という企画趣旨だったのだが、お互い自由の身だったため、簡単にはいかなかった。というのは、あえて、気まぐれに行動したからだ。テレビで祇園祭の報道を見て、「明日行ってみるか」と京都へ向かったりなど、四国入りも遅かった。船で和歌山から徳島へ入ってからも、偶然見かけた「四国みぎした切符」なる割引切符を使い、電車とバスで室戸岬経由で高知に入った。本当は香川経由で帰るつもりが、いつの間にやら松山・道後まで回って、四国全県を踏破した。
偶然の出会いに乗る。時間的自由がなければ成立しない行動は、一種の逃避行でありながらも、普段では予定などを優先しがちな自分にとって良い薬だった。
大嵐の最中で〜台湾縦断〜
本当は四国を一周したかったが、一週間もいると別の制約があって、半周で東京に戻った。
別の制約というのは、実は次の旅であり、別の友人との台湾旅行だった。
仕事がある友人より早く台湾入りし、台湾西部の台北、台中、嘉義を回って、台南で友人と落ち合う、というのが計画だった。だが、カネが気になり、旅程は最低限のものとなってしまった。
そこに舞い込んだのは、台風の襲来である。ちょうど台北入りの日、台風が台湾に上陸した。その後1日で台風は過ぎたが、雨風は残っていて、中南部に被害が出た。飛行機は遅れ、台中や嘉義は雨模様。途中の鉄道路も寸断。だが、滅多にできない経験である(詳しくはnoteに書いたので、よければ読んでほしい)。
一方、友人が来てからの台南の旅は、比較的順調だった。天気良好、料理もうまく、祭りにも遭遇した。個別行動をメインにして、夕飯だけ一緒に取るというのも悪くなかった。
いずれにしても、インドではできなかった、自分の選択と判断で前へ進んでいく体験が、この台湾の旅にはあった。
自分の位置を知る〜北海道・東北縦断〜
次に旅に出たのは8月の終わりだった。財政は傾きつつあったが、やるべき旅があった。
今回は目的があったのだ。「友人と」行く旅の次は、「友人に会いに」行く旅だった。北海道の札幌と函館にそれぞれ大学時代の友人が移り住んでいた。
まずは茨城の大洗へゆき、そこから船に乗り込んだ。船旅とは豪華に聞こえるが、値段は飛行機代や新幹線とあまり変わらないばかりか、少し安い。一晩かけて太平洋を北上し、苫小牧に入る。苫小牧から札幌は距離が遠くない。
白老(ウポポイ)、小樽を経て札幌へ。友人に案内をしてもらい、ジンギスカンとウィスキーを片手に久々に話した。夏の間の特別切符を使い、鈍行で函館へ。何と八時間かかるが、ニセコや長万部ではおりることができる。函館では友人が車で迎えに来てくれて、海の食材が食べられる店へ連れて行ってくれた。翌日は江差へ行った。
それから、特別切符を再び発動させるべく、「連絡船」で青森へゆく。そう、復路は陸路で、青森、弘前、盛岡、花巻、仙台ときて、福島へゆき、そこからは有効期間の関係でバスで帰宅した。北海道も東北も、面でゆっくりと旅するのは初めてだった。
札幌の友人にウイスキーを飲みながら言われたことが心に残っている。
「自分は精神的な調子が乱れた時、一年は再起できなかった。だから、一年は休んでいいと思う。もちろんお金のこともあるだろうけど、休むことの方が大事だと思う」
この言葉を聞いた時、彼が私が就活やコロナ禍で塞ぎ込んでいたことを知っていたからこそ、自分の状態がある意味で「あるべき状態」とかけ離れていて、休むことを必要としているのかもしれないな、と感じた。その「あるべき状態」というのは、目指すべき姿ではなく、かつて哲学対話をしたり、文章を書いたり、旅をしたりしていた大学時代の自分の在り方のことだ。
2020年の危機を経て、私は「変わった」と思っていた。自分の弱い部分を自覚するようになったし、「本来」あまり人と付き合うのが得手ではないとわかったのだ、と。だから、職場でもおとなしくしていたし、積極的に何かを働きかけつこともなかった。要するに、殻に閉じこもろうと決めたのだ。だが、ひょっとするとそれは後遺症で、大学時代、比較的活発にしていた頃の方が、本当の「あるべき」姿なのではないか。閉じこもる方が楽なので、自分が「異常事態」だと認識していないのではないか。
その話を同じく旧来の友人である函館の友人にしたら、
「人は変わるものだと思うから、昔に固執することはないと思うけど、すくなくともあの時はイキイキしてたよ」と言われた。
イキイキしているというのは、そして今でもあの頃が「気疲れした」というより「楽しかった」と思えるのは、間違いなく、性に合っていたのではないかと思えた。
それが、自分の位置を知ることにつながった。
最後の旅〜東南アジア半島縦断〜
正直もう金銭的には危ない。だが、もう一度大きな旅をして、自分を見つめ直したい。
その一心で、私はシンガポールへの片道切符を買った。目的もあった。元職場の同僚が、仕事を休職してバンコクの大学に留学していたのだ。会いに行くという名目で、今回もまた大きな迂回、シンガポールからバンコクまで3カ国にまたがる縦断を決行することにした(旅の模様は現在noteで公開中なので、興味があれば読んでいただけると嬉しい。
シンガポールから、マレーシアのジョホールバル、マラッカ、クアラルンプール、イポー、ペナン島、タイに入ってハートヤイ、ソンクラー、スーラッターニー、バンコク、アユタヤ、チエンマイ。
バンコクの元同僚はもちろんのこと、さまざまな人と出会い、時をともにした旅だった。特にペナンのホステルで出会った人々とは一緒に街歩きをしたり、夕飯を食べたりした。殻に篭ることをやめたら、多くの人との時間を楽しむことができた。
仕事に区切りをつけて、タイの大学で学ぶ人がいる。タイボクシング(ムエタイ)の修行のため、チエンマイに行く人がいる。隣国の若者は仕事を休んで陸路でマレー半島を目指している。新しい国で新しい事業を始める前に、ペナン島で羽を伸ばす、戦時下の国の人がいる。東南アジアでは、さまざまな人を見た。さまざまな人がいる、さまざまな旅がある。そのこと自体が、日本で比較的単調な社会に組み込まれながら生きていると、救いである。
また、人のこと、旅先のこと、摩耗しかけていた好奇心が輝きを取り戻したのもこの旅だった。あえて知識を事前に入れなかったのもよかったのだろう。タイの元同僚はタイについての知識が豊富で、何を聞いても答えてくれるから、あまりに質問したり、仮説を披露して困らせてしまったかもしれないので、それは申し訳なく思っている。だが、私にとって、大学時代までは「好奇心」は重要なファクターで、最近ではそれが枯渇しているように思えたから、嬉しいことだった。
この旅はチエンマイで終わるはずだった。だが、チエンマイについた時、「ここで終わってはいけない」ように思えた。そうこうするうちに、ペナンで言葉を交わした台湾人が言った「ラオスのルアンパバーンは今までで一番よかった」という言葉が脳裏によぎった。
金銭のことなど懸念は多かった。だが寺の境内で仏像を眺めているうちに、外的な要因に縛られるのはやめようと思った。今必要なのは、この旅を終わらせること。終わらせるために、私は国境の街チエンラーイ、ラオスのルアンパバーン、そしてヴェトナムのハノイへと向かった。奇しくも、ハノイはこの「2024年無職の旅」が始まった場所だった。終わるにはちょうどいい。
その後、ルアンパバーンで大事件が起きたりもしたが、この選択は間違っていなかったと思う。チエンラーイ、ルアンパバーンでの沈思黙考の時間を経て、ハノイでは台湾から来た人と話したり、レコードショップに寄ったり、バスで同じになった日本人と飛行機の出発時刻まで話したりした。
(2)たんたんと、前進せよ。
かくして、「冒険」は終わった。
いや、それは厳密には違う。まだ続いている。それはもっと「危険」な、現実的な冒険である。要するに、旅を続けることで精神は何かを取り戻していったが、絶えず続いた出費により、生活が脅かされつつあるのである。
「哲学する前に生活しなければならない」
スピノザの言葉として、私が大学院時代に専攻していたフランスの哲学者ベルクソンがよく取り上げるものだ。『知性改善論』に、確かに似たような話が出てくる。だが、重要なのはきっと、「生活する」ことではない。「哲学する」ために、「生活」を整えることが重要だと、スピノザは言おうとしていると思った。
とはいえ、この時代、なかなか働き口は見つからない。そして、生活が脅かされると、不安の闇が広がる。せっかく旅の光の中で得た教訓やヒント、「開いた心」も、全てを無に帰してしまいそうな闇である。実際、現在の私は不安と焦りの渦中にいると、正直に言おう。
「冒険は最良の師である」
戊辰戦争中に現在の北海道を拠点に、新政府にあらがった榎本武揚が、こんな言葉を残している。彼自身、オランダ留学に、北海道測量、シベリア横断……と冒険を重ねた人だった。彼の意図はわからないが、旅の中で人は人生の実験を行うことができると思う。
旅の中で、私は特に「焦り」が敵であると学んだ。不安からくる焦りは、人を不用意に決断へと導く。即断即決は、道が見えていれば時には良いことだが、道が見えぬままに行えば大損をする。
インドでのぼったくられ事件は、まさに、インドという国でのうまくいかなさを感じ始めていた時に、旅行プランを提示され、不用意に乗ってしまったことに起因する。また、クアラルンプールでも、不用意に買った鉄道チケットを買い直すハメになったこともあった(広東の風、イポー|河内集平(Jam=Salami))。
どんな状況にあっても焦りは禁物。そして、焦って行動したことで良い結果が得られたことなど皆無である。
もう一つ、前へ進むことで旅が形作られていく感覚も学んだ。
チケットを買えば、買いさえすれば、旅は始まる。街から出れば、線が繋がる。そんな単純なことでも、自分にはできる。仕事の場合、「買いさえすれば」のように単純ではないが、始めないことには何も始まらないのは同じだ。
クアラルンプールやチエンマイで、思わず足を取られていたことがあった。この町をもっと知っておきたい、とか、この先どこに進むべきかわからない、とかいった理由で、だ。もちろんそれらの悩みが無駄だったわけではない。むしろ、クアラルンプールに向き合ったからこそ見えたものあるし、チエンマイも素通りせずじっくり見ることができた。だが、いつかは離れる必要がある。なぜなら、私はおそらく、「点の旅」より、「線の旅」を志向しているからである。
今、金銭的不安を前にして焦りと同時に、足を取られる感覚がある。だが、そのどちらもまた、闇への落とし穴だと、感覚している。
向かい風
正直なところ、ありがたいことに、金銭的な不安をそこまでありありと感じたことがないので、今回の事態は割と人生最大の壁である。だが、それをうまく肯定的に捉えたい。
私が語る「生命の弾み(l'élan de vie)」の本質は、結局のところ、創造の要請にある。だが、それ自体が創造することは絶対的にできない。なぜなら、それは物質とかち合うからだ。物質とはつまり、生命の弾みと逆方向の動きである。だが、生命の弾みは、この、確定性そのものである物質を征服する。そして、そこに可能な限り最大限の不確定性と自由を持ち込もうとするのだ。
哲学者アンリ・ベルクソンは、生命の根源を創造の働きに見た。ありとあらゆる生き物は、その創造の働きの産物なのだ。だが、それは全てが思い通りうまくいくということではない。物質は物理法則に従い、エネルギーは発散し、エントロピーは増大する。死はそこに待ち構えている。だが、それに抗うことで、生命体は形作られてゆく。その様はまるで、土という物質と、形を与えようとする手の間に生まれる陶器のようである。
旅を通じて、心を立て直そうとしてきて、今は物質面の抵抗が始まっている。きっと辛い日々、辛い冒険になると想像しているけれど、そこから何かを生み出していくこと、あくまで創造を試みること、決して「下降の法則」にのみこまれないことを心がけたい。
たんたんと、前進。
こうしたことから、今年の抱負が心にきまってきた。
「たんたんと、前進」
心乱され、焦らぬよう、淡々と生きる。生活を整えて、リズミカルに生きる。そして、それを前提として、前に進むことを止めないようにしたい。旅で得た自由さを胸に留めておきたい。社会や他者の眼に規定されず、自分の道を一心に、心穏やかに進みたい。
ふと、仏教の言葉を思い出す。
最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と知力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
「冒険」という名の船出を遂げた昨年。今年は犀の角のように、たんたんと前に、道を歩もうと思う。
暗闇を行く旅人:クリスマスに。
今年のクリスマスは、家族で過ごすことができなかったので、とある教会に赴いた。
ちょうどクリスマスイブの夜のミサの時間である。信者ではなかった私もいて良いとのことだったので、端の方で参加させてもらった。
ミサは音楽で紡がれてゆき、この宗教は「うたう」宗教だなと感じた。それはひとえに、コミュニティ性とでも言えるものに、この宗教が立脚しているからだと思った。だが、この話がしたいわけではないので、いつか詳しく書こうと思う。
司祭の言葉で記憶に残っているものがある。
言葉、というより、話といった方がよいかもしない。それは、「我々は皆、暗闇を行く旅人だ。暗闇とは、社会不安、孤独などの外的なものだけでなく、心の闇でもある。その闇にこそ、イエスはいる。イエスは闇を恐れない。ありのままの自分を受け入れ、闇を受け入れた先に光はある」という趣旨の内容だった。
異教徒であるわたしからすると、イエスというのは少々仰々しすぎるので、暗闇の中にこそ「救い」はあると言い換えれば、咀嚼しやすい。もちろん、そのようにして咀嚼することの可否、是非は考えるべきだろうが、ここでは傍においてほしい。
だが、闇の中に「救い」がある、ということより、重要なのはきっと、「救い」は闇を恐れないということだろう。我々は誰しも「闇」の中にいるが、その「闇」に打ち勝つことが重要なのではない。「闇」を恐れず、その「闇」をたたえた「ありのままの自分」を受け入れてこそ、乗り越えることができるのである。
クリスマスというと、人々が浮き足立って、街が浮かれるイメージがある。私もそんなクリスマスの側面が好きだ。一方で、ヨーロッパなどの長く暗く寒い冬の中、ぽっと微々しくともった蝋燭の光に涙するイメージもある。これも私にとってはクリスマスの好きな部分である。
今回の司祭の言葉は、そんな暗闇の中の小さな光の話に思えた。その光とは、闇を見つめ、受け入れることだと……。
暗闇。
社会に目を転じてみても、今年は間違いなく動乱の年だった。戦争の長期化、権力にまつわるさまざまな事件、治安の悪化、加速する不況。長く続いた独裁と戦争の終結もまたあったが、先は見通せない。
私自身も、激変の年だった。そんな変化にともなう灯には、常に暗い影が付き纏った。いや、付き纏っている。
***
今年の5月、私は三年間勤めた仕事を辞めた。理由は複合的なものだが、最も大きいのは、当時の仕事が自分にとって、あまりに「自分自身と関わりのない仕事」だったからだ。次も決めていなかったので、これは間違いなく冒険だった。文字通り、危険を引き受けた上での行為だったわけだ。
その後、数回に分けて、やってみたかった旅をした。インドを一周し、四国四県を回り、台湾西部を縦断し、北海道まで海路と陸路で往復し、シンガポールからハノイまで陸路で北上縦断した。逃避行がリハビリとなり、人生のヒントとなっていった。これもハタからみれば冒険である。
今年の抱負として「冒険に出る」と掲げた私にとっては、「成功」だったといえる。
現に、数々の「冒険」は私の人生を見つめ直す機会となった。それは特に、独りの旅人として、多くの出会いを重ねたことに依るものが多かった。
北海道とタイでは、昔からの友人で、それでいて当地で暮らすことを決断した人々に会いに行ったし、マレーシアやベトナムでも偶然の出会いが「世界にはこれほどまでにいろいろな人がいるのだ」ということを気づかせてくれた。各地の情景や文化風習もまた、そうだ。
「多様性」が叫ばれる時代だと言うが、多様性とは救いでもある。
人間、ある場所に根付いて生きていると、自分の周辺の単一の状況や生活などが絶対的なものに思えてきて、選択肢が自ずと狭まってしまうのだ。多様性は、そこにつねにオルタナティヴを提示する。一つの閉じた構造に風穴を開けてくれる。旅の効能の一つである。
そんな、多くの出会いの中でも、北海道に住んでいる友人のうちの一人の言葉が記憶に残っている。
「自分は精神的に滅入ってしまった時、一年間は回復しなかった。もし行き詰まっているなら、短くとも一年は休んでいいと思う。もし、可能なら、だけど」
前職で、仕事の内容が自分とあまりに乖離していることはストレスになっていた。贅沢な話だが、私は関心のないことに関わり続けるとすり減ってしまうようなのだ。また、職場環境も、お世辞にもいいとは言えなかった。そもそも、大学院修了時、「コロナ禍の就職活動」に直面して、空回りをするうちに、無気力状態になってしまったこともあった。
彼の言葉を聞いて、「自分は今、正常ではない」つまり、「自分は今、自分らしく生きることができてない」ということに気付かされた。そしてそれを認めることを私は「恐れていた」のだ。
北海道行きをしている時点で、私の貯金は赤信号に差し掛かりつつあった。
だが、加えて東南アジア縦断をしようと思ったのは、自分にとって、「行き詰まり」を解決する術が、家で寝転んでいるよりも、海外に出ることだと思ったからだった。
この決断は大きかったと思う。現に、当時の私は創作活動の一切に手がつかなかったが、今ではnoteを定期的に更新することもできている。
だが、今度は金銭面の暗雲が漂っている。「経済活動」に向かわなければならないが、腰は重たい。そんな甘えたことを言っていては破産するぞ、と思うが、今回の司祭の言葉を咀嚼しながら、それは間違ったハッパの掛け方だとも思う。以前大学院時代、調子を崩した時の二の舞になる恐れがある。自分の「弱さ」を恐れずに見つめることが必要だ。
***
クリスマスイブの夜にいつも聞くラジオがある。
そこで、「人間の治癒能力はすごい。体だけでなく、心に傷を負った人も、自分の治癒能力を信じてみてもいいのではないか。もちろん、どうにもいかないこともあるけれど、案外、うまく行くかもしれない」という言葉を耳にした。
治癒能力を信じること。それは、治癒を「待つ」ことを厭わない、と言う意味でもあるかもしれない。もちろん、私のように、動き出さないといけないと言う焦りを抱えざるを得ない場合も往々にしてある。だが、無理をすればそれこそ「どうにもならない」ことになりかねない。
「待つこと」。
「暗闇」。
それは、特に現代人にとって、「恐れてしまう」ものかもしれない。
恐れずに、見つめ直す時間を取ることができれば良いと、この寒い寒いクリスマスに思った。
あえて、冒険に出るということ
毎年、年が明けるタイミングで、このブログを更新していた。
新年の抱負というとなんだか堅苦しくて古臭いが、昨年の自分を振り返り、新しいテーマを決めるのに新年はもってこいだったからだ。
ところが今年はと言えば、元旦も過ぎ、節分も過ぎ、旧正月も過ぎ、もうそろそろ3月に突入しようとしている。まだペルシア暦や仏教暦では新年ではないので、救いようはある(?)が、例年から大きく遅れをとっているのは間違いない。私自身、何もノウルーズやソンクラーの訪れを待っているわけでもないのである。
今年のテーマが決まっていないわけではない。正月の時点で決まっていなかったわけでもない。ただ、間違いなく言えるのは、この二ヶ月間で、徐々に今年のテーマが熟成されてきた。だからこそ、ようやく、何か書こうという気になったのだ。
とはいえ、これから書くことは、今すぐには多くを語れない事柄に関わるので、やけに抽象的な、ヘンテコな文章になることはあらかじめ断っておきたい。答え合わせはいつかできることを願っているが、一種の哲学手記というか、求道日記のようなものとして読んでくれればと思う。
去年、私は自分のテーマとして「再起を図る」を掲げた。
その通りになったかというと、正直なところ、失敗に終わったような気もしないでもない。ブログの更新頻度などをみていただければ一目瞭然だが、「再起を図る」上で、私が中心におきたかった創作活動がほとんど捗らなかった。というのも昨年は様々な外的(環境的)変化があって、内面的にはかえって停滞が続いたのだ。環境の変化がさわがしいと、やはり心の自由というか、余裕というか、保つのが大変だということがわかった。
「外国を旅する」という意味では、香港、マカオ、台湾と、「再起」を図ることができたし、国内は、山陰(島根)、北部九州(長崎、福岡、佐賀)という私にとっては未知の場所を開拓することができた。だが、その時の心の内はというと、慌ただしさが拭えなかった。それが結局、それらの旅の記録をほとんど全く残せていないことに表れている。
文章を書くこと。音楽を作ること。絵を描くこと。そうした活動が、私が「生きる」上でいかに大切だったのかが、昨年という「口数少ない」一年を通して分かった。
だが昨年という一年が無収穫だったわけではない。
自分の向かう道のようなものが朧げながら見えてきたのは確かである。それは「文章を書くこと」だ。
大学時代から私を知る人、いや、ひょっとすると小中学生の頃からでも良いのかもしれないが、きっと「何を今更」感があると思う。私もそう思う。中学の頃から文筆業に憧れていたし、高校時代は文芸部だった。大学時代はブログを書きに書いていたし、修士論文などもすらすら書いていた。
だが、仕事を決める段になって、一種の「逃げ」に走った。文章を書く仕事は不安定だし、ルートが決まっていない。ルートが決まっていないことは時には良いことだが、歩き始めるには困難が伴う。
「文章は長らく書いているし、書くことは好きだけど、自分の文章は自己満足だから、結局他の人にとっては無価値だろう」と決めつけ、私は色々考えるのを放棄した。就職の時はちょうどコロナ禍が始まった年で、閉塞感もあったし、自身勇気を持って何かを始めるのが苦手だった。
結局、仕事をしてみると、それなりにこなせるものの、常に他人事感が否めない。もともと、興味が湧かないことを勉強しないタイプだったし、仕事について何か学ぼうという気が湧かない。気が湧かないことには何も始まらないし、どうにでもなれという気分で毎日を過ごしてしまう。
そんな日々を過ごしていた時、「勉強しない」私にマニュアル作成の仕事が舞い込んだ。文章を書くとなると(本当はマニュアル作成はそういう仕事では無いのだが……)俄然盛り上がり、今まで全く調べなかった事柄まで調べまくり、「読み物として」読める形のマニュアルを作った。楽しいことの少ない仕事だったが、あのマニュアル作成だけは面白かった。
そこで気づいたのだ。結局私は文章を書く方向に向いた人間なのだ、と(得意という意味で「向いている」と言いたいのではない)。何かを書くとなればとことん調べ上げることができるし、仕事や納期がある状態でもそれなりに楽しめる。それに、良い文章を書くためなら、努力や研究もできるような気がする。
そろそろ「時」が来たのかもしれない。
昨年度から始まった環境の変化で、余裕と気概を失いかけていたが、徐々に心の余白も出てきた。今年こそ、「文章を書くこと」を軸に、何かはじめてみても良い。
そんな今年の私のテーマは、「冒険に出ること」に決めた。1月2日あたりに決めたことだったが、徐々にこのテーマも熟成され、良い形になってきている。
というのも、二ヶ月かけて自分を見つめ直した時、重要な事柄が見えてきた。それは自分の弱さというか、傾向性というか、(先ほども少し触れたが)私は「逃げ」ているということだ。変化を不安に思い、色々と理由をこさえては、小賢しい表情で逃げているのだ。いや、これは私の問題だけではないだろう。もっと根源的な何かがある。
もし人が泳いでいるのを見たことがなければ、あなたは私におそらく泳ぐことは不可能だというだろう。なぜなら泳ぎを学ぶためには、水の中に身を置くという行為をスタートさせる、つまり、泳ぐことができる状態になければならない。推論は現に、私たちを閉じた大地の上に常に釘付けにする。しかし、もし素直に、恐れることなく、水に飛び込めば、まずは水に浮かび、どうにかこうにか水でもがいて、そして徐々にこの新しい環境に自分を適応させ、私は泳げるようになるだろう。このように、理論上は、知性によるのとは別の方法で認識したいと望むことには一種の不条理があるのだが、もし素直に危険を引き受ければ、理性が結びつけて、自分では解くことのできない結び目を行動がすぱっと断ち切ってくれるだろう。
19〜20世紀フランスの哲学者ベルクソンの言葉だ。人間も含む生命体は、基本的に身の安全を確保したい。だから新しいことはしないようにしている。本能や知性が新しいことを避ける。だが、進化のためには一つの「飛躍」が必要になる。
「冒険に出る」ということは、つまり、しなくても良いことをすることだ。しなくても良いが、それが人生にとって必要で、諦めた場合は、死の瞬間まで喉に引っかかった魚の骨のように嫌な感覚が残り続けるであろう何かをすることだ。そしてそのために、安全を求めて逃げる傾向性に立ち向かうことだ。根源的に引っ込み思案な自分と相対することだ。
だが、無謀になってはいけない。そもそも無謀では、ぽっとでの考えでは、自分と戦うことすらできない。知性は常に揚げ足を取ろうと手ぐすね引いて待っている。今しようとしていることが、自分の人生にとって本当に必要なのか確証があったほうがいい。今、確証といえるほどのものはないが、こうして文章を書きながら、確証を持ってもいいような感覚を感じる。
正直、自分の文章が誰かにとって、何か価値を持つかどうかはわからない。だが徐々に、試してみたいような感覚も生まれてきた。いや、これは正確ではない。どちらかというと、読み手にとって価値のある文章を書きたいと思っている、というほうが正しい。
「自分が書きたいか」というより、「自分が読みたいか」を軸にしていきたい。だが、今回だけは、自分の頭の整理のため、自分が今「書きたい」「書かないといけない」ことを書き綴っている。何か自分の人生にとって、この文章が意味を持つことをねがう。
空白
なんというか、余裕がない1年間だった。
少しずつ新しいことを始めた一年でもある。
まず、新宿の大久保に引っ越し、一人暮らしを始めた。5月のことである。一人暮らしをはじめると、実家暮らしの便利さが身に染みるというが、私の場合はサバイバル能力が高いのか、なかなか楽しくそれなりに生きている。
次に、四年ぶりに海外旅行を始めた。気づけば、4回も出国している。香港、マカオ、香港、台北。なぜか香港とその周辺に3回も行っているが、それについてはまたの機会に話そう。
日本国内の旅も、長崎、出雲、福岡、と今まで行ったことない地域だった。
こうやってまとめると、比較的色々なことをしているのだが、その一つ一つに余裕がなかった。そのせいだろうか。このブログだけでなく、noteの更新もあまりできず、音楽制作も手が止まったまま。
その一つの理由は、仕事かもしれない。部署異動があり、慌ただしい部署に入ってしまったため、なんというか、自分の精神の動きと社会生活の流れのズレが、前以上に著しくなった。心の靴擦れで、正直なところ、疲れている。
世の中の状況も一つあるかもしれない。最近、今までにないほどにきな臭い。きな臭い上に、慌ただしい。そして、物価も上がりっぱなしで余裕がない。気候も足並みを揃えて、ばかに暑かったり、やけに寒かったりする。
クリスマスイヴ。
私は実家に戻った。久しぶりに両親と夕食を食べたが、その時、時間の流れの話になった。
何もそんな難しい話ではない。今年は凄く早く時間が過ぎたというお決まりの話である。そして、歳をとると時間の経過がはやくなる、という具合だ。
きっと、私のような小童より、父母の方が時間の流れは速いのだろうが、今年に限って言えば、私にとっても確かに一年が過ぎ去るのがあまりに早かった。まるで、この2023年という年自身が余裕がなかったかのようだ。
今日、クリスマスになり、試しに教会に足を踏み入れてみた。ミサの後、ちょっと浮き足だった状態の教会の椅子に座る。
余裕がない時というのは、実は今という瞬間、そして今まさに踏みしめている足の感覚から、意識が遠のいていることが多いように思う。
未来のこと、過去のこと、あるいは想念に意識が持っていかれて、まるで足のない幽霊のように1日1日が過ぎてゆくのである。
今、こうして椅子に座っているように、少し立ち止まって自分の立っている足元を眺める時間が必要だ。余白がなければ生きていけない。
クリスマスに限らず、少し時間があれば、ゆっくりと椅子に座る時間を見つけたい。そして余白の時間を待ち、楽しむことができたとき、人は寛容な心持ちにもなれるのだと思うから。
再起
またあっという間に一年が終わり、新しい年になった。
意識は時に緩やかに、時に急いで進んでいく。年というのはそこに嵌め込まれる人為的な制度に過ぎない。本当は12月32日と1月1日に違いなんてない。だけど、ぼーっとしているうちに繰返しの単調な生活を漫然と過ごしながら死へと向かっていくことに不満があるなら、心機一転するいい機会である。
でもその前に、ちょっと去年を振り返りたい。
去年は私にとって、「思いついたことはなんでもやる」というモットーを掲げて始まった。それができたかどうかはよくわからない。ただ、10月にnoteを本格的に始動させ、ほぼ同時にsound cloudで毎月曲を一曲アップロードし始めた。そして、去年は国内を旅することが多くなり、その中で、自分の「思いつき」も重んじることが多かった。
5月頭に高野山・大阪・神戸・明石、7月には淡路島・徳島・高松、8月は広島・松山・今治・尾道・倉敷と松本、9月は静岡・彦根・大阪・京都・比叡山・福井・金沢・和倉・美川・富山、10月は仙台・平泉、11月は高松・金比羅山・丸亀・倉敷・岡山。
瀬戸内沿岸地域に偏りがあるが、日本国内はほとんどが未到の地だったので面白かった。
瀬戸内沿岸地域が多い、という事実は実は去年の一年間が私にとって実際のところどういう意味合いを持っていたのかを示している。というのは、私は父方も母方も両方とも瀬戸内(というか四国)にルーツがあったのだ。つまり、去年は「思いつき」を実現する、ということ以上に、「自分のルーツ」を見つめ直す、という意味があった。自分のルーツを見つめ直したい、という「思いつき」を受け取った一年だった。
きっかけというものはほとんどない。強いていうなら、友人が淡路島に転勤になったからかもしれない。友人に会いにいく、という口実のもと、自分のルーツである「関西」を回ってみようと思ったからだ。
私の父方の先祖は、祖母が京都、祖父が神戸であり、雑煮も白味噌でないと気持ちが悪い。だが、祖父の方をたどっていくと、最終的には香川県の高松に辿り着く。だから、ルーツとしては、「関西」であり、もっと辿れば「四国」になる。
母方はというともっとストレートに瀬戸内にたどり着く。祖母が愛媛の出身で(正月なので明かすと愛媛はおすまし系雑煮が主流とのことで、母はすまし系出身者になる)、そのルーツを辿ると宮崎らしい。宮崎が瀬戸内かというのは議論が必要だが、「環瀬戸内」世界ではある。
そんな知識はあったのだが、いかんせん私は国内では出不精で、そのあたりに行くことがなかった。大阪はかろうじて大学四年の時に行き、ミナミのエネルギーの強さに惹かれたのだが、それ以降は行かなかった。
だが口実ができた、というわけで、私は神戸に行ってみた。それが五月の旅だった。その時友人から、神戸からのバスに乗れば徳島に着くこと、四国はもう目と鼻の先だということを聞いた。そう言われると行ってみたくなる。母のルーツである愛媛には幼少期に行ったことがあるが、記憶という記憶はない。そして7月、徳島まで足を伸ばしてみたのだが、その際、父方のルーツである高松に行くことを思い立ってしまい、隣の香川に行く羽目になったのである。そのあとは愛媛も気になるようになり、広島へ行った際に船に乗り込んだ。
そんな「思いつき」の芋づる式により、毎月最低一回の国内旅行が六ヶ月も続いた。
私たちの人生は絶えず過去の記憶を引き受けながら進む。幼少期の記憶にならない記憶、思い出すこともできないような出来事でさえ、自分の人格の一部になっていると思えば、ひょっとすると、遠い昔のルーツのあゆみが私の心臓の鼓動の一部になっているかもしれない。そう思えば、ルーツの場所を訪れることは、あながちくだらないことでもなく、道に迷った時の対処法の一つと言えるかもしれない。靴擦れを起こしたら、自分の足に合う靴を探さないといけないが、自分の足の形が分からなければ、靴の探しようもない。足元をじっと見つめる必要がある。例えて言えば、そんなところである。
そう思いつつたずねた高松は一つの発見だった。海が近く、ゆったりとしていながらも、四国の玄関口としてしっかりと「街」でもある高松を歩くと、なんだか自分の胸の奥でピースがはまったような感覚になった。それは言葉になる部分から言葉にならない部分まで、さまざまなところからくる感覚だが、あえて一ついうとすれば、次のようになる。
昔から私は新しい街に来ると、何かに取り憑かれたように水辺を探していた。それは川のこともあれば海のこともあったが、一つの条件として、ビーチや川遊びのできる河原ではダメで、絶対に何かしらの船が浮かんだ港であって欲しかった。そしてそれに付随して、昔から船上生活に漠とした憧れを抱き続けていた。正直、マイホームなどどうでも良くて、マイシップが欲しかった。そんなあれこれが、高松の港や瀬戸内の海を見ていて、「だからか」と符合してしまったのである。
もちろん、高松はいい街で、誰だって同じ気持ちになるのかもしれないし、誰だって港のある水辺が好きなのかもしれない。それでも、ルーツを目指していた私には、大事な感覚だった。
一連のルーツを目指す旅へと誘った「思いつき」は、自分の足元をじっと見つめる必要があるというメッセージだったのかもしれない。ルーツの旅のみならず、去年はさまざまな折に、自分の趣味趣向や生について内省する機会が訪れた。おかげで、完全にではないが、自分の足の形に思いを馳せることができた。
だが、「思いつき」を回収しようとしてきた一年は、なんともいえない「空っぽさ」を味わう一年でもあった。それはきっと、「つくりあげる」ことよりも、とにかく思いついたら即「表現すること」にウェイトを置き過ぎたからだと思う。
クリスマスの日、深夜ラジオで、
「つくること、そして最後につくり終えること。そこに歓びがある」
という言葉を聞いた。思えば、「つくりあげる」ということを、私は本当にしたことがあったろうか。論文は常に締め切りで尻切れ蜻蛉だったし、もっと昔の小説も、最後は焦って書き上げた。これを書いている今だって、なんだか気持ちが逸って仕方ない。
今年は、多少時間がかかっても一歩一歩大切に、形が見えてきた足で、歩き始めよう。それが人にも自分にも優しく生きる糧にもなる。心の平安はきっと一歩一歩のうちにある。
2020年から去年まで、ちょうどコロナ流行と並行して、この三年間は就職活動とその後の閉じた円環のような繰返しの労働生活の中で閉塞感とともに生きていた。すぐさま飛び立つことはまだできそうもないが、歩き始めることはできる。
再起を図ることはできるはずである。
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鳥籠のクリスマス
長らく、こちらのブログの更新ができずにいた。
理由は一つ。今年に入って、noteという媒体で文章を書くようになったからだ。その試用期間のために、こちらはお休みしていた。もちろん、私の怠惰な性格のせいもあって、noteも二ヶ月ほど毎週二回投稿してみたが、12月に入ってからエネルギー切れ状態となっているのも隠せない事実ではある。
それがなぜ今になって再開したのか。こちらも理由は一つ。このブログを2016年に開設してから、毎年クリスマスには記事を書いていた。だから、今年も、というわけで久々にログインしたという次第だ(ちなみにnoteの方でもクリスマスの記事を書いている。一昨年のこちらの記事の焼き直しのようで申し訳ないがホットワインの記事だ(クリスマスとホットワイン(飲み物という名の冒険⑧)|河内集平(Jam=Salami)|note))。
来年はできるだけ両方とも更新しようと思っている。使い分けは考えていて、こちらはどちらかといえば私個人のプライヴェートな考えに深く関わっていたり、長ったらしい旅行記など(ようするに今までのスタイルでも読んでくれた人たちのためのもの)を、noteはできるだけ短文(今はできていないのだが)、テーマや題材を絞るなど、多くの人に読んでもらうものを目指そうと思う。
さて、クリスマスだ。
今年のクリスマスは私にとって、今までと大きく異なる。今まで一度も経験したことのない状況に直面しているからだ。端的にいえば流行病にかかってしまったのである。
初めは異様な喉な渇きを感じ、「今年は乾燥しすぎだろ」と思っていたら、みるみるうちに喉が痛くなっていき、三日ほど前に正式に陽性と診断された。特にすごい人混みや飲食店に行った覚えもなかったから意外なことだったが、今までかかっていなかったことが奇跡だったのかもしれない。
ちょうど症状が現れる一日前に大学時代の友人のオンラインで飲み会をしたのだが(オンラインなので感染とは全くの無関係である)、その友人のうち一人が罹患した時の話を聞いたところだった。喉にガラス片が刺さっているような感覚。その表現を聞いていたことで、すぐに検査を思い立ったのだから、不幸中の幸いである。
とにかく、クリスマスだというのに、私は部屋に閉じこもって家族とも直接の接触を避けざるを得なくなった。いうなれば、「カクリスマス」である。
とはいえ、湿っぽくなっても仕方がない。こんな経験もなかなかないから、できるだけこの境遇を楽しむことにした。喉は痛いし体も重いが、掃除をしてみたり、積読を読んでみたり、サバイバル生活をしているつもりになってみたり、ギターを弾いてみたりしている。
本当はすぐに寝た方が良いのだが、こんな状況の中どうしても聴きたい深夜ラジオが2本ほどあった。そのうちの一つはちょうど昨日、イヴの夜、というかクリスマスの朝に放送していた、作家の沢木耕太郎のラジオだった。
その中で、コロナ禍の困難に困惑しつつもタイはチェンマイを目指す話をしていた。そんな時、ふと、「一人で東南アジアを旅する」ということが、なんとなく自分とかけ離れたことのように聞いている自分に気づいた。それは冷静に考えれば、あまりにおかしなことだった。思えばほんの数年前には、私だってバンコクの街を一人で歩き、ホテルを取り、電車に乗って国境越えをしたはずなのだ。
考えてみると、現在の私(と、同じようなことになってしまった人々)の境遇ほど異常な状況ではないが、少し前まで私たちはあまり外に出られずにいたし、海外という意味では私も含め今でも出られずにいる人が多いと思う。それは単純に行動の話だが、その行動が徐々に心にフィードバックしてきていて、いつの間にやら、半径数メートルの精神になっていることがある。
別に悪いことではない。そういう時も必要だ。だが、ともすると、自分の「できない」が増えていくようにも思う。一人で海外なんていけない、といつの間にか私も思い込んでいたのだ。本当はただ国境線を越えるだけで良いのに。
それだけならまで良いが、ここ数年ずっと問題とされている「分断」という言葉もまた、この「半径数メートルの精神」に関係がある気がしている。半径数メートルの精神のなかに、インターネットを通じて膨大な量の、しかし偏った情報が入ってくる。本当は外に出てみれば違うものが見えるかもしれないが、それだけが全てのように見えてくる。これが分断の種になる。
もちろん、話はそんなに単純ではないかもしれない。そもそも、分断はコロナ云々の前から問題だった。だけど、自分を顧みても、コロナ禍になってから急速に精神が縮こまっていくのを感じている。以前から何かが燻り続けていたのは事実だが、ミャンマーのクーデタも、アメリカの議事堂襲撃も、ロシアによる軍事侵攻も、コロナ禍になってから起きている。
クリスマスに思うことは、クリスマスごときが特効薬になるとは思えないが、キリスト教流の「許す」こと、「寛容」であることが、縮こまった精神を開こうとする一つの試みになるということだ。クリスマスにはそんな意味があるし、力がある。クリスマスは、第一次世界大戦を中断してサッカーをした人たちのように、望めば(if you want it)戦争だって止めることができる日のはずなのだ。それはきっと私たち異教徒にとっても同じのはずだ。
だから、何かと縮こまってしまう世の中だけど、できるだけ、心を広く温かく今日を生きようと思う。あとしばらく続く隔離生活だが、できるだけ面白がってやろうという精神も持ち続けよう。
鳥籠から、ハッピークリスマス。
まだ『天才』ではない
私は『天才』という人の存在をあまり信じていない。
いや、それは嘘だ。天才は確かにいる。
ちょっと子供じみた表現を許していただけるならば、私はすべての人が天才なのだと思っている。だけど、いわゆる『天才』と言われている人は、自分の中にある天才的な部分を解放するのに生まれつき長けているか、そのように見えるのに対して、そうではない『凡人』にはそれがなかなかできないのだと思う。
天才以外に創造の才能がないという見方は間違っている。例えば、モーツァルトとベートーヴェンを並べて、生まれつきの天才と努力の人というように言う場合があるが、それでは努力の人のベートーヴェンに才能がないといえば、皆さんはどう思われるだろう。ばかばかしいのではないか。ベートーヴェンは強烈な創造の才を持っている。いかにその音楽の形式が計算され尽くされていたとしても、あれだけの作品を作り上げる力を才能と呼ばずして何と言おう。
「ベートーヴェンは、天才だ。だけどもっと一般大衆とかはどうだ。才能なんてない人たちもいっぱいいる。」と、いう人もいるだろう。申し訳ない。例えが悪かったみたいだ。だけど私が思うに、どの人にも個性があり、どの人にも何かしら表現したいものがある、あるいは既に表現してしまっているものがあるはずであり、それはそれぞれの「天才性」に裏付けられている。表現というと何やら芸術を想起させるけれど、事務仕事だってなんだって良い。その人にとってしっくりとくる仕事で、なおかつ、その人の人生をそこで表現できるもの。そこに天才性が現れている。だから、勘定の天才もいれば、作曲の天才もいれば、プロデュースの天才もいるし、マーケティングの天才もいる。
とはいえ、こういう言い方をすると誤解されそうなので付け加えておくと、決して天才性は職業と結びついたものではない。職業は自分の才能を発揮する方法の一つにすぎない。例えば、緻密の才能は事務仕事でも芸術活動でも生きてくるように、才能はもっとニュートラルなもので、それぞれの人の生活、働き、趣味、活動云々に滲み出てくるものだ。言ってしまえば、「その人らしさ」に近いのかもしれない。
まとめると、各人が各人の「天才性」をもっていて、それはそれぞれ独自のものだ。こうした言い方をしたくなるのは、私がゆとり教育最後の生き残りで、「金子みすゞ主義」「世界に一つだけの花主義」を引きずっているからかもしれない。だけど、やっぱり一抹にすぎないとしても、そこに真実はあるはずだ。単に口にするのが烏滸がましいだけで、ちょっとした部分を掘り下げてみれば、あなたも私も天才かもしれない。だってあなたも私も、それぞれの「やり方」をもって生きているじゃないか。
全ての人が「天才」であるとして、「天才/凡人」のような評価が生まれてしまう裏には何があるのか。それは、先ほども述べた「天才性」と「表現」の間の関係に関わるように思う。そこには、「天才」と「努力」の問題がある。
天才と努力。その二つは対比されることが多い。だけど、その「努力」と言うのは一体、何の努力なのだろう。私が思うに、それには二つの種類がある。
一つ目は、何かを生み出すための努力だ。絵を描くなら、絵具の使い方、キャンヴァスの使い方、そして様々な技法など。音楽を作るなら楽器の弾き方や、楽譜の使い方、楽典に関わることなど。他にもありとあらゆる活動には、その活動を成就させるためにどうしても必要なことがある。こうした技を学ぶために、人は努力する。
二つ目は、自分にはどんな才能があるのか見極める努力だ。これは目立たないことだが、人は人生を賭けてこの努力を絶えず行っているとも言えるし、多くの場合、失敗に終わるとも言える。どのように表現することで、自分の才能が一番発揮されるのか。どの仕事を選ぶか、どの方法論で何かを学び、何かを行うのか。こうした問いは私たちの人生の要所要所で登場し、悩ませる。答えを出すには並外れた努力を必要とする。
自分を知り、表現のための技術を手に入れ、そこからやっと、自分に合った表現ができるようになっていく。どちらがかけても意味がない。自分のうちにあるものをうまく表現できないと、不自由さに頭を抱えるだろうし、いくら技術があっても何を表現するのか見極められなければ、「なんて凡庸なんだ」と自分を責めることになる。スタート地点までいくのがしんどいが、そこまでいけば、天才も凡人もないはずなのだ。
『天才』と呼ばれる人は、この種の努力をあまり必要とせず、自分のもっているものを引き出すことができるという意味で「天才だ」と言われているように思われる。(音楽や語学ではありがちなのだが)幼少期からの蓄積があるのか、見えない努力を重ねているのか、あるいは本当になんの用意もなくなのか、『天才』は自分の才能を表現するやり方を心得ていて、表現する術を手元に持ち合わせている。裏を返せば、『天才』は才能に関わることではなく、もっと技術的な部分を要領よくこなせるかどうかにすぎないのではないか、と私は思う。
では、どうして『天才』、それも圧倒的で他を寄せ付けない『天才』というものが想定されることが多いのだろう。
自分と「すごい人」を比べる場合、なんらかの共通の尺度をもとにする必要がある。これは科学の基礎である。いきなりひよこと扇風機を比べろと言われても無理な話だ。色で比べるとか、重さで比べるとか、羽根の最大風速で比べるとか、基準を設定しないといけない。技能の場合、コンクールやコンテストなどで比べることが多い。
だが問題は、各人が持つ「天才性」はそもそもそれぞれ共通の尺度をもっているのかというところだ。漫才の賞レースやピアノコンクール、文学賞などでたいした成果を上げずとも、才能がある人はたくさんいる。コンクールでウケる才能を持った人もいれば、また別の才能を持った人もいる。それぞれが持つ天才性は互いに比較できないのだ。そういう意味で、冷静になって考えると、「彼/彼女は天才だ、到底自分は及ばない」というのは端的におかしな比較をしている。なぜなら比較できないものを比較しようとしているから。そういう意味で、その「彼/彼女」はあなたに到底及ばないはずだというのに。
『天才』と『凡人』を隔てるものはただ、自分の才能を自由に表現する術をもっているか、自分のことを心得ているかどうかにすぎない。私自身時々、自分の才能のなさに悲しく、悔しくなる。そういうときはできるだけ、これからは、自分にこう、声をかけてあげたい。
「まだ、精進が足りない。まだ、『天才』ではない。ゆっくり進もう」
思いつき
去年11月の終わりに成田山まで行った時のことだ。
あのころわたしは、お寺や神社に行くと、決まって、
「私の道をお示しください」
と唱えていた。
今仕事としてしていることは自分にとって一生続けたいこととは思えない。だが、もっと創造的なことを、もっと一から作ってみたい、と思い続けている反面、結局自分が何をしたいのかわからない。そもそも今の職についたのも、自分のしたいことが、一本の道のように見えてこないままだったからである。この袋小路が四年ほど続いている。そんなわけで、私は、道を、渇望していた。
本堂で、釈迦堂で、奥の院の前で、平和大塔で、私は導きを求めて、心に言葉を念じた。不動明王、釈迦如来、大日如来と、厳密にいえば対象は違ったが、私にとってはその差異よりも、なんらかの存在の前で精神を集中させることが重要だった。
もちろん、祈ったとて、すぐに何か答えが出るとは限らない。だが、祈りの言葉が、自分の胸の奥にある何かを、ふつっと、心の表面へと浮き上がらせてくれることはある。あとはそれを待つのみである。
だから私は中庭を散歩することにした。成田山の中庭は、あの頃、紅葉で真っ赤になっていた。
時々風情のある灯籠が姿を表す紅葉の道を歩いているうちに、心に浮かんできたことがあった。いや、浮かんできた、というか、問いかけてきたと言うべきかもしれない
「道なんて本当にあるのか?」
私は池に目をやりつつ、自答した。わからない……だが、道がなければ、先へ進めない、と。
「いや、道なんてなくてもいいのではないだろうか。お前が思いついたことを全部やればいい。それが自ずと道になる」
そう言うのは簡単なことだけど、先へ進むには何か一つの道を選ばないといけない。例えば、映像作品を作るなり、文章を書くなり、音楽を作るなり、何かしら一本に絞りながら、他の活動を一つにしてゆくのがいいように思う。だから、何か計画なり、道なりを見つけたいのである。
「だが、目的地が先に見えないなら、まずは歩いてみるしかないではないか。そう、散歩のように。お前が散歩を好むのは、思いつきで路地に入ったりして、見えていなかった街の表情を見るのが楽しいからだろう。夢や目標なんて作らずとも、思いつきを叶えることで、新しい何かと出会えるかもしれない。それが、形になるのを待てばいい。答えを急ぐな」
そこまではっきりと、本当に、こんな自問自答をしたわけでもなかったように記憶しているが、紅葉を眺めながら池の周りを歩きながら、私の心の中で一つの言葉が形を持っていった。形を持っていったのは、当たり前といえば当たり前のこと。だけど、今の私にとっては、大切なことだった。
だから、2022年、と言う新しい年が始まるにあたって、一つの「抱負」を述べなさい、と言われたら、次のように答えたい。
「思いついたことをできる限り実際にやってしまうこと」と。
「思いつきを大切にすること」と。
ユダヤ教神秘主義では、人が思いついたこと、人の思い、と言うのは神の思し召しなのだと言う。だから、というわけではないけれど、2022年は、いや、2022年以降は、自分の思いつきを、もっともっと大切にしてゆきたい。それが、日々をもっと創造的にするだろう。それが、私の道の一歩一歩になるはずだ。それが、巡り巡って私自身を助け、自分の望む人生様式へと導いてくれるかもしれないのだ。
だって、ふとした瞬間の思いつきは、神か仏か、或いは偶然、もしくは悪魔か、いずれにしたって、何か奇跡的な産物なのだから。
寛容のレッスン〜クリスマスに〜
今年のクリスマスは、家族でセッションをした。父がフルートを吹き、母がピアノを弾き、私が音程の悪いヴァイオリンを鳴らした。
クリスマスイヴの昨日はそこまでひどくない音を鳴らせたが、今日はあまりかんばしくない。腕やら体やらが硬いようで、うまく音が出ないのである。昼ごろは鳴っていたはず楽器が今夜は掠れ声だ。そう思うと心が段々と狭くなってゆき、体も硬くなってゆく…。そして結局、全然弾けないままになる。
ヴァイオリンほど身体・精神の調子と連動している楽器は滅多にないのではないかと思う。そもそも、かなり不自然なポーズをしているし、音程だって自分でとらないといけない。そんな微妙な状態にあっては、身体や精神の乱れが音に直結してしまうのだ。
以前、ヴァイオリンの教本を立ち読みをしていたら、「あがり」の対処法が前面に押し出されているものがあった。「あがり」とはもちろんお茶のことではない。緊張して弾けなくなってしまうことだ。なぜ「あがり」のことばかり書くのだろう、と疑問だったのだが、今ではなんとなくわかる。緊張で体が硬いと音が出ない。緊張していると音が取れない。心身とヴァイオリンは直結している、直結しすぎているのだ。
有名なヴァイオリニストであるメニューインは自分の練習メニューの中にヨガを取り入れたが、これはそう言う意味で、的をいたことだと思う。演奏するには常に平常心、心身の調和が保たれている必要があり、それはヨガの呼吸法が目指すところでもあるのだから。
だが、この、クリスマスという日に、私は別のことも思ったりする。
楽器を構え、不安になる。うまく合うだろうか。間違えないだろうか。そして案の定間違えたりすると、落胆でどんどん他の場所も間違え、体が固まってゆく。私にはぼんやりとした完璧主義がある。ぼんやりとしていなければ、完璧さを追求するから良いのだが、ぼんやりとしているから、自分を責めるだけに終始する。その、ある種の狭量さが、心身のバランスを、演奏中に乱してゆくのである。
思えば、ヴァイオリンに限った話ではない。カレーを作るときにも、うまく味がまとまらないと、「だめだ」と頭を抱えるし、旅の最中に行こうと思ったところ全てを回ってやろうと焦る。文章を書いていても、自分はなんて書くのが下手なんだ、とときに腹が立つ。外国語が聞き取れず、外国語を話そうとしてしっちゃかめっちゃかになると、自分は語学は好きだが、上達しない、と悲しさにも似た感情を覚える。焦り、自分を責めると、呼吸も荒くなってしまう。程度の差はあれ、誰しも似たようなところはあるんじゃないかと想像している。
大抵のことは、練習したり、場数を踏めば解決する。だが、それでも焦るのはなぜだろう。答えはすぐには出ないが、過程を楽しむ余裕を持てず、結果にばかり目が行くから、かもしれない。
と、言葉で言ってはみても、自分の性根はなかなか変わらないものだ。だが、後ほんの十数分ではあるけれど、クリスマスなのだ。クリスマスは人に寛容になる日だと言う。それならば、自分に寛容になってみても良い。寛容のレッスンを続けよう。そうしたら人生はもう少し、リラックスした状態で進んでゆくかもしれない。そうなれば、いい音も自ずから出るはずだ。
ヒッポドロームのおじさん
イスタンブル旧市街のど真ん中に、スルタンアフメット地区はある。
泣く子も黙るアヤソフィアにブルーモスクといった「イスタンブルといえばコレ」的な観光地の数々に取り囲まれて、ヒッポドロームという広場がある。この広場がスルタンアフメット地区の中心部と言えると思う。
実はこの広場の名前である「ヒッポドローム」とはフランス語(hippodrome。本当はイッポドロームと発音するはずだ)で「競馬場」という意味なのだが、かつては競馬場であった。イスタンブルで「かつて」という言葉を使うのは、京都で「先の戦争」という時なみの(いやそれ以上の)覚悟が必要なのだが、この場合は1500年ほど前である。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都だったこの街で、市民たちが日々の憂さを晴らしにやってきた競馬場こそ、この広場。歴史が深い街ともなると、何千年とランドマークがあまり変わらないことがある。
その、ヒッポドロームはかつて帝国市民が集い、時に皇帝に反対する暴動の出火元となった場所だった。つまり、時の皇帝は、ヒッポドロームはちょっと緊張感を持って、赴かなければいけない場所だった、と想像される。ちなみに、現代のヒッポドロームでちょっと緊張感を持たざるを得なくなるのは、他でもない私たち日本人観光客だ。
ヒッポドロームの近くにある地下神殿の前を友人と歩いていたら、近くにいたおじさんがこれ見よがしに特徴的なだみ声を上げた。
「これってもしかして東京オリンピックのエンブレムかなあ」
もちろん、日本語である。今時舞台演劇でもこんなにこれ見よがしの独り言を言うことはないだろう。面白すぎたので、ちょっと笑ってしまう。すると、その機に乗じておじさんが近づいてくる。
「日本人?ほら見て、これ東京オリンピックのバッジ」
と見せてくる。間違いない、商談が始まる。
私はイスタンブルは二度目だったから、大体察しはつく。この手のおじさんはヒッポドローム界隈にたくさんいる。この後色々と話しかけてきて、そのまま工芸品系の店へゆき、セールストークが始まる。それで特に危険な目にはまだ会ったことがないし、話を聞くのは貴重なことでもあるし、大体バックパックしか持っていない私は何か買おうという気が1ミリもないので回避もできるのだが、芝居がかっていて結構長いから疲れてしまう。だから、こちらとしてはこのおじさんがどこまで面白いおじさんなのかを見極めるほかない。
「イスタンブルは初めて?」とおじさん。二度目だと言うと、
「だからイェレバタン・サラユ(地下神殿)のことも知ってたんだね」と言う。なんだ、でかい独り言の前から私たちをマークして会話を聞いてたんじゃないか。
「お土産は買った?」ほら始まった。まだだ、と言うと、
「バザールはダメだよ。あそこは質が悪い」と言う。このセリフ、何度聞いたことだろう。おそらく正しいのだが、あまり言われるとへそまがり根性が鎌首を持ち上げそうになる。
「絨毯はもう見た?」とおじさんは聞く。絨毯はあいにく、前回の滞在でこの手のおじさん、ヒッポドロームにたむろするおじさんに連れられ、色々と知見を得た。だから、いらない、という素振りを見せると、
「トルコ石は?」という。正直トルコ石の色は嫌いじゃない。話だけ聞いて帰えるチャンスかもしれないので、それなりの反応をする。
「知り合いがトルコ石の店をやってる。彼は日本に留学してたから日本語が話せる」という。なるほど、と思っていると、仕込んでいたかのように若い男性がやってくる。そうこの若い男性こそ、日本語が話せる知り合いである。
とまあ、そう言う感じで、おじさんは退場し、青年への私たちは引き渡された。青年はこちらが一言も言っていないにも関わらず、
「日本人はすぐにお金がないから買えないって言う。そう言うの嫌い。だって、お金なかったらトルコ旅行なんてしない」
とステレオタイプな批判をしている。一理あるような、ないような話である。まず旅行をする場合、飛行機代とホテル代、食費がかかる。旅行をする以上はいろいろなところへの入場料も確保する人がほとんどだ。お土産は二の次三の次、必要経費がいなのだから、その経費がないから、買えない、と言うパターンはあると思うし、私自身は割とそう言う感じでやっている。総資産云々とはあまり関係のない話なのである。だが、私含めて、そう言う話をされると、なんとなく自分が悪いことをしているような気になって恐縮してしまうから難しい。
お兄さんはああだこうだと喋り続け、私たちは彼の父が経営すると言う宝石店へと行く。
「チャイ?アップルティー?」とお兄さんが尋ねる。トルコでは商談の際にアップルティーを飲む、とかつて連れたゆかれた絨毯屋で聞かされた。こう言った文化をのぞくことができるのは面白いが、私はチャイの方が好きなのでチャイを頼んだ。
ちなみに、チャイといってもインド式のロイヤルミルクティーにスパイスが入ったものではない。お湯で煮出したストレートティーに角砂糖はとにかくたくさん入れて飲むのがトルコ式である。こいつのせいで、私は一時期砂糖中毒になっていたように思う。
チャイを飲みながら、商談のスタートだ。
「トルコ石には、トルコ産のものと、トルコ産以外のものがある。トルコ産のものは珍しいが、質がいいのだよ」とお兄さんの父親が、英語で説明する。トルコ石の原産はイランの方だと聞いたこともあるが、正直わからない。ひょっとするとトルコ産の方がいいのかもしれない。商品を購入する前の前説は間違った情報は言っていないと思うのだが……。
店主はずらりとトルコ石を見せてくれる。イメージしていたちょっとくすんだトルコブルーというよりも、鮮やかで繊細な色をしている。騙されてはいけない。今見せてくれているのは結構高いやつのはずである。
いろいろ聞いていると、どうやら、石の値段だけでなく、そこに指輪だったり、ネックレスの鎖だったりの値段が加算されていく方式のようだ。逆にいえば、石だけ買えば石だけの値段になる。だが、そんな選択はおそらく許されない。
一通りトルコ石について学んだので、私は「まあいいかな」という顔をして店を後にすることにした。学生風情なので、それでも大概許される。代わりにベリーダンスが見られるフェリーの券を買わされそうになったが、正直私はロカンタ(大衆食堂)で夕飯が食べたい。
「どこに泊まっているんだい?」
と店主が聞くので、新市街の「ガラタ地区」だと言うと、
「綺麗なところだね。でも治安が悪いから気をつけるといい」
と言う。おそらくそれは正しいのだろう。だが、日本語で捲し立てるおじさんに絡まれることはない。いや、日本語で捲し立てるおじさんがいるくらいがちょうどいいのか。トルコの治安はわからない。
ヒッポドロームでおじさんに絡まれた話はここでひと段落する(本当は別のおじさんに絡まれているのだが、その話は別件なのでここではやめておこう)。「ひと段落」と言う言い方をしたのはなぜか。そう。「五輪バッジ」おじさんは、私たちの滞在中、また登場したのである。
翌日(だったはず)、イスタンブル(スィルケジ)駅に用があり、駅に向かってヒッポドロームのあたりを歩いていると、例のおじさんがいる。
おじさんはこちらに気づくと、例のだみ声で声をかけてきた。捕まっちまったよ、と思いながら私たちはおじさんの近くで足を止める。
「トルコ石どうだった?」と聞く。おそらく、成果がなかったことはお兄さんから聞いているはずだ。きっと、結託している以上は何かそう言ったつながりがあるはずなのだから。買わなかったよ、というと、
「それもいいと思う。絨毯は?」とさらに絨毯を進めてくる。だが今回はこっちが上手だ。なぜか。駅で用事があるからだ。
「ちょっとこれから駅でセマー(トルコのイスラームの求道者(スーフィー)が修行として行う旋回踊り)を見にいくから」と私たちは足早に立ち去った。
「楽しんで」とおじさんは言う。完全に悪い人ではないのである。
ここで、おじさんとの物語は終わるはずだった。
実は、おじさんとの邂逅はここで第三章に突入する。またも、出会う。
それは滞在日もそろそろ終わりとなる日のこと。古本屋街に行くために、バザール方面へとヒッポドローム近くの坂道を登っていたら、おじさんがいた。今度は仲間とタバコを吸っていた。あまりに面白いので、私はこちらから、
「メルハバ(こんにちは)」と声をかけた。
おじさんは明らかに狼狽していた。見かけるはずのない人を見かけたような顔だった。
「まだいたの!?」とおじさんはだみ声で言う。おいおい、まだいたらだめなのか、と思いつつ、
「まだいました。よく会いますね」と返した。
おじさんは次に出す言葉を思いついていないようで、困った表情をしていたので、
「ホシュチャカル(じゃあね)」と私たちは古本屋へと向かった。
「ギュレギュレ(バイバイ)」とおじさんは言う。ひょっとして、セールスの時は無理しているけど、本当はシャイなのかもしれない。そう思うと可愛げがある。
トプカプ宮殿を歩いていたら、警備員に声をかけられたことがある。別に悪いことをしたわけじゃない。単に、警備員のおじさんが当時イスタンブルで活躍していたサッカーの香川真司選手を褒め称えたかっただけである。その時、「スルタンアフメット地区は日本人目当ての悪いトルコ人が声をかけようと待ち構えているから注意しな」と言っていた。
だみ声の五輪バッジおじさんもその一人である。だが、私たちがちょっと長く滞在したために、おじさんとしては2、3日イスタンブルにいる、一生に一度くらいしか会わない日本人観光客だった私たちと三度も出くわすことになり、最後にはどうしたらいいかわからない感じになっていた。おかげで、こちらとしては、そう言うおじさんの人間味のようなものを垣間見た気がする。イスタンブルは面白い街である。
路面電車の駅の近くだ。
受動のレッスン:ヴァイオリンとカレー
今年になってヴァイオリンを始めた。
そういうことにしている。
本当は中学生の時に習っていたことがあった。シャーロックホームズが好きだったし、家には曾祖父さんの形見のような古い鈴木ヴァイオリンがあったからである。だけど、ピアノを習っていた時も、というか、小中高と全体的にだが、私はどうもお稽古ごとが苦手なようで、すぐに嫌になってしまった。そうして数年してやめた。
それが最近、またヴァイオリンを引っ張り出してみるようになった。理由があったかどうかは覚えていない。うっすらとまた始めてみるか、と思っていたり、民族音楽の類を聴きながら、ヴァイオリンっていろんなところに出てくるなと感心していたり、多分そういったことの積み重ねによるものだろう。音楽が気になって和声法などを学んでみたり、楽器に興味が出てきて、メルカリで民族楽器を買ったり、サウンドハウスでクラリネットを買ったりと、そういった湧き上がる力も手伝って、ヴァイオリンの修行が始まった。
もちろん、教室に通うわけではない。大抵のヴァイオリンの本や動画を見ていると、教室には通った方がいい、という。そうなんだと思う。だけど教室に通うとまた嫌になるのが目に見えているから、一人でこっそりとやることに拘った。そういうわけで、最近は時間がある時に、買った教本の曲をひたすら引こうと試みたりしつつ、音程の悪さに眉間に皺寄せて試行錯誤をする日々である。
ヴァイオリンについての本、つまり教本や奏法についての本が面白いのは、受動に重きを置いていることではないかと思う。こういうテクニックがある、こういう風に構える、ということはもちろん書いてあるのだが、常に強調されるのは、「ヴァイオリンを邪魔しない」「弓の自然が動きを邪魔しない」ということだ。そういった、受動を強調した言い方のさいたるものが、神童と呼ばれたヴァイオリニスト、イェフディ・メニューインの『ヴァイオリン奏法』の冒頭の言葉である。
もしも、人びとがその楽器の僕となることを嫌い、自発的に、しかも心底から己を殺すことを肯んじないならば、ヴァイオリンは直ちに復襲を企てる。その多様な音色は出されずじまいとなり、その無限の精妙さはかげをひそめる。そしてその人は、ただ愛すべき一個の音楽的調度品をかかえたまま、不機嫌で生気のない顔をして、取り残されることになるだろう。
ヴァイオリンを弾きこなすためには、ヴァイオリンのしもべとならなければならないようである。ヴァイオリンを動かしているというより、ヴァイオリンに動かされる。それはヴァイオリニストの意思がヴァイオリンの意思と一つになることでもあるのではないかと想像している。想像している、というのは、残念ながら、私はまだその境地を一ミリも体験できていないからだ。
私はどちらかといえば我の強いタイプだと思うし、こういった風にブログを続けているのもその決定的な証拠である。自分を表現してやろうと思っている。だが、最近気になるものは、ヴァイオリンのように、絶対的服従を要求してくるものが多いように思う。
例えばカレーである。カレー作りである。カレー作りというとスパイスの調合を決め、調理し、という極めて自発的で能動的な行動に思われるかもしれない。だが何度か作ってみてわかってきたのは、カレーが本当にうまく行く時は、自分の意思の外にある何かの力によるようだ、ということだ。
私はスパイスの量を決め、玉ねぎの炒め具合を決め、肉を選定し、トマトの配分を決める。だがこれは条件を決めているにすぎない。肥料を決め、水やりをする程度のことだ。あとはカレーの領分で、条件付けがうまくやり、カレーに時間をしっかりと与えることで、カレーがカレーになるのだ。何をいってるんだこいつは、と思われるかもしれないので別の例に移る。
もっとわかりやすいのは乗馬だ。最近はやっていないが、一時期乗馬をやっていたことがある。乗馬で「楽しい」と心底思えた瞬間は、自分の指示が馬に伝わった時でも、パカラパカラと走った時でもなかった。それは自分の「走ってほしい」とかいった雑念が無になり、言葉や意思を超えて、馬とひとつになったように感じた一瞬だった。人馬一体というやつだろうか。そしてそういう時に、指示も伝わるものだし、走りも気持ちいい。無になった時、馬と一つになった時、やっと馬に乗ることができるのである。
このような、「受動のレッスン」ともいえるような、自我を一瞬だけでも捨てて、身を委ねることへの憧れは、どこからくるのだろう。
多分それは、自分の意思や、自分の言葉、自我のようなものをゴリゴリと押し通してゆくばかりでは得られない自由を求めるところから来るように思う。
ゴシゴシと擦っているときとは違う、自分から出るとは思えないような音がヴァイオリンから出た一瞬。カレー鍋の火を切って、少し寝かせてから味見をしたら、作っている時とは違う、自分が作ったとは思えないまとまった味がした一瞬。自分の可能性が一つ広がったように思える。だがその新しい可能性は、今までの自分の枠内からは生まれず、何かに身を委ねてみないと始まらない。
だから、いい感じの音色が出たり、いい味になった時は嬉しさを心に感じつつ、ヴァイオリンからいい音が鳴ったとか、カレーが美味しくなったとか、できるだけ主語を自分以外のところに置いておきたい。そんなちょっと変わった感覚を楽しんでいる。
無口な海
私の経験上、海が何か答えを出してくれたということはまずない。何か悩みを抱えて海までたどり着き、海を眺めるうちに、答えが出ることはほとんどない。
だけど、海は口数を減らしてくれる。それだけは確実なことだと思う。つまり、常日頃私たちはしゃべり過ぎていて、胸の内からくる声にも耳を貸さず、あれこれ言い訳ばかりしているが、海を前にすると、そう言った言葉が消えてゆく。
だから本当はこんなブログを書いていちゃいけないのである。だけど、それでも、私はこうして書いている。今日、海に行った話をするためだ。
今日はそれが曇っていた。そして私は海はおろか、どこかに出かけようと心に決めていたわけではなかった。だが、昨日は部屋から一歩も出なかったし、自分の自由に使える日は、多くの人と同じく、二日しかない。とりあえず外に出ようとそれなりの服を着て、髭を剃り、髪を整えておいた。
だが、どこに行こうか、と思う段になって、何も思い浮かばなかった。そういう時、(最近は「そういう時」ばかりやってくるのだが)私は今住んでいる場所から遠くはない吉祥寺か、少し時間はかかるが気に入っているお茶の水・神保町界隈か、あるいは上野にいくことが多い。ほとんどルーティーン化している。それではつまらない。そう思いながら時計の針は夕方へと突入してゆく。
ふと思い出したのは、乱数表のことだった。このブログにも書いたが、かつて私は行き先が決まらない散歩のとっかかりを作るために、乱数表を使ったことがあった。運を天にまかせる。幸い最近の駅には必ず番号がふられていて、路線だけ決めて、その路線に存在する駅の数を乱数生成サイトに打ち込めば、あとは神のご意志か、偶然か、とにかく勝手に行き先が決まる。
わかりやすいので山手線でやることが多いのだが、最初にこれを試した時は「鶯谷」、次にやった時は「上野」が出ていた。どうも似たり寄ったりである。でもあえて、今やってみたらどこが出るのだろう。私は乱数に導いてもらうことにした。
山手線の駅の数は30(たぶん、最初にやった時は、悪名高き「高輪ゲートウェイ」が存在していなかったから29だったのだろう)。乱数メーカーに30という数字を打ち込み、ボタンを押す。
神は「27」とおっしゃった。上野は「5」とかだったから、ひょっとすると今日はちょっと違うエリアかもしれない。駅の番号表と照らし合わせてみると、行き先は「田町」に定まった。
田町。多分行ったことのない町。路線図では浜松町と品川の間にあるから、イメージはつくけれど、田町自体はわからない。でもわからないままの方が面白い。私はあえて、山手線の車中で目を閉じた。車窓から何も見えないようにするためだ。
田町駅は大きくも、小さくもなかった。駅自体は小ぶりだが、改札を出ると大きく感じる。品川と同じで複合型施設があるらしい。その施設に入ってしまうと、大事なことを見失ってしまいそうなので、私は駅前の地図を見た。
田町はどうやら東京湾にかなり近いらしい。となると、選択肢はただ一つ。海が見たい。それと、浜松町の方へ歩いてゆけば、新橋を通って東京駅へ戻れる。今日は日中ダラダラしていたから、もう16時。あまりゆっくりはできないかもしれないから、どういうルートで戻るかもそれなりに頭に入れておいた。
駅前の通りは割と品川に似ている。人通りもそれなりにあり、人の生活を感じる。時折運河が走っていて、街に個性を添えている。まるで連なる島を一つにまとめているようだ。島によって、市街地、工場地とそれぞれの色も違う。そう思いながら歩くと、地区のかおりのようなものを感じられて楽しい。
歩きながらわかってきたことだが、ここはいわゆる「芝浦」というエリアのようだ。芝浦工業大学のキャンパスもあるし、海の方へゆけば、芝浦埠頭がある。不勉強でわからないが、落語の「芝浜」もこの辺なのかもしれない。落語の中で「朝靄」だった光景が、今日の曇天・うっすらとかかる霧とシンクロしている。大金でも落ちてないかな、なんて思いながら歩いたわけではないが、思えば、こうやって午後に内地にある家を出て、こんな海の目の前にまできているなんて、不思議な夢でも見ているかのようだ。
子供連れで賑わう「埠頭公園」を抜け、しばらく歩くと、倉庫が立ち並んでいる界隈に来る。上空をモノレールが走り、曇天と鉄の倉庫が硬い空気を作り出している。ガードレールには所々錆がついていて、道を歩く人はほとんどいない。雑草も伸び放題である。埠頭公園のあたりに、「レインボープロムナード」はこちら、という看板があって、その方向に歩いてきたのだが、まさかこの裏寂れた道がレインボープロムナードなのだろうか。少し首を傾げつつ、浜松方面へと進む。
そうすると、倉庫の奥に、たった一人でたつ小高いビルが見えてきた。なんだろうと思っていながら歩いていたら、倉庫のある区域と、ビルの敷地のちょうど間から、海が顔をのぞかせていた。海まで行く道は封鎖されており、柵の向こう側に船着場がみえる。どうやらこのビルは、客船ターミナルのようだった。昔イタリアからギリシアまで船に乗ったこと、その時船の出港時刻に遅刻しそうになって必死に走ったこと…色々なことが頭に浮かんできた。今私は、柵のこちら側で、海を眺めている。
新日の出橋、というその橋を渡り、私は次の「島」へと進んだ。どでかくて、閑散とした道を歩いていると、この地区にはもっと大きな客船ターミナルがあることを知った。私はそこへ行くことにした。
日の出の客船ターミナルは確かに大きかった。コンビニもあるし、おしゃれなレストランが何軒も連なっている。だが肝心のもの、そう、客がほとんどいなかった。昨今の様々な事情だろう。船の世界はかなり向かい風の中にあるのだと思う。しかし、ただ思いつきでこんなところにやってきたただの酔狂にとって、人のいない港というのは、案外悪くない。海の音、キィキィという桟橋の音が響いているのは、悪くない。
この天気もあるだろう。グレーの空が、海をグレーに染め上げ、靄のかかった空気が風景を優しく包む。人はほとんどいないし、いてもあまり喋らないから、海それ自体が内省的に見える。波もゆったりと、小刻みに、うちへうちへと思いを巡らしている。海を見つめる悩める人々の言葉と悲しみを吸い込みすぎたのかもしれない。
私はそんな海を眺めた。そういうと、センチメンタルぶっているみたいで嫌だが、海を前にしたら、言葉数は減ってゆき、センチメンタルも何もなくなる。思い出すことも何もなくなっている。ただ、それだけのことだ。内省的で、無口な海は、私の意識だけを飲み込んで、私はただたちすくすだけなのだ。
我に返って海沿いを歩くと、遊歩道が見えてきた。先程より人がいる。だが面白いことに、いや、当たり前かもしれないが、どの人も皆、黙って海を見つめていた。入ってくる船、出てゆく船、おりる客、乗り込む貨物。そんな海沿いの一連のことを、ただ黙って、皆見ている。表情は不思議と明るく、にこやかに見ている。ただ海だけが内省している。
なぜ皆こうも船と海に釘付けになっているのだろうか。思えば海は不思議と自由の象徴でもある。海にいざ落ちて仕舞えば、死を覚悟するほかない。それでも海に憧れる。船に憧れる。船酔いしようがしまいが、海はどこかで自由と繋がっている気がする。それは海を見ていると、結局、自分さえその気になれば、どこにだって行ける気がしてくるからかもしれない。いつもいつも、私たちは自分が決まった場所にしか行けないかのように行動しているが、そんなことはないのだ。「いや、でも現実は…」という私たちを叱りつける言葉を、海は黙らせてしまう。
今朝、悪夢を見た。宇宙に行く三日前の夢だった。最近、自分の現状に哀しみを覚えて、ここではないどこかへ行けるから、宇宙に行くことになっていた。だが三日前、突如恐怖に襲われる。閉ざされた空間で、十年間(そう、なぜか十年間だった)、私は宇宙にいないといけない。身の回りには何もない。ただただそこで歳をとってゆく。とてつもない恐怖だった。やはり行くのはやめよう。そう、誰かに、息も絶え絶え打ち明けている時、目が覚めた。
夢の中で見た宇宙の旅は自由というよりも、恐怖と閉塞だった。むしろ通常の生活の良くない部分を増幅させたようなものだった。海の旅も、実際には、同じかもしれない。すぐには降りられないし、死の恐怖もある。それでも、私たち海と遠いところに生きる人々は、船は寄港さえすれば、そこには見知らぬ世界があり、どこにだって行けるかもしれない、と夢想してしまう。今いる場所が宇宙や現実の海の只中、あるいはアルカトラズ島のように、閉塞感があるのなら、そこから出るには夢想の海へ出かけてゆくしかない。そこまで行けば、どこへだって行けるのだから。
今、どうしたって世の中は閉塞している。どこにだって行けた時代はどこかへ行ってしまった。海を眺める目には、自由への憧憬があり、海と船には自由の香りがある。少なくとも私は、海を眺め、無口になる時だけは、海とひとり、向かい合っている時だけは、自由に触れられた気がした。
だから今日、乱数が田町を指したのは、きっと私にとって「自由」と「無口」が必要だったからなのだ。そう思うと、なんだか胸の奥が揺れる気がした。
フェンシングのこと、あるいは風向
今から、私はとんでもなく無謀なことをしようとしている。
スポーツ観戦記も書いたことがないのに、昨日初めてきちんと見た競技の観戦記のようなものを書こうとしているのだ。本当ならやめた方がいいのかもしれないが、書きたくなるほど熱中したのだからしょうがない。
柔道?いや違う。スケートボード?いやそれでもない。先程金メダルを取った卓球?見ていたけれど違うのだ。実はそのスポーツはフェンシングである。
経緯から話そう。一昨日の夜、オリンピックの日程表を眺めて、せっかくだから何か見ようと思った。馬に何度か乗ったことがあるので、乗馬を探したが、まだ先のようだ。それでは、と思って目に止まったのがフェンシングだった。アテネ大会だったか、北京だったか忘れてしまったが、太田選手が出ているフェンシングの試合を見て、その時幼いながらも面白かった記憶があったからだ。
勇足でテレビ欄を探すとフェンシングがない。何度探して見てもない。そんなに注目されていないのだろうか。そんなモヤモヤを抱えつつ、こうなったらもう意地だ、となんとかしてフェンシングを見る方策を探していると、NHKのホームページでテレビ放映のない競技の配信も行っていることに気がついた。
私は天邪鬼を具現化したような人間なので、注目されてないのだとしたらむしろ好都合だ、世の中の人々が柔道やら卓球やらスケートボードやらに熱狂している真裏でフェンシングを楽しんでやろう、とライヴ配信を見始めた。これが、フェンシングを見始めたきっかけになった。
最初見た試合は日本代表の選手が負けてしまった。そして次に見た試合でも同じく負けてしまった。だが惨敗というほどでもなく、かなり善戦している。どちらも女子のフルーレという競技である。
その時はルールも何も全く分からない状態で見ていたが、試合の中にある緊張感に呑み込まれ、ルールも知らないのに熱狂している自分に気がついた。二人の選手が向かい合う。そして細長い剣の切先を向け合って、まるで攻撃を仕掛けるコブラのように、相手を伺い、機を掴んで、シュッと剣を前へ出す。点数が入った選手のヘルメットのランプが点灯すると、すかさず勝者は「ウワー」とか「ギャー」とか叫ぶ。点数のシステムが分からないまま、これは入ったのか、入ってないのか、どちらのランプが点灯するのかを凝視し続けた。
後で、試合の合間に調べたところ、フェンシングには三つの競技がある。フルーレ、エペ、そしてサーブル。フルーレは相手の胴体を剣でつけば点になり、エペは相手の体のどこをついても点になる。サーブルは腕を含めた上半身への攻撃が有効で、「つき」だけでなく、「斬り」も点数の対象になる。だから、フルーレの選手は胴体部分にセンサーのついた服を纏い、エペの選手は体全体にセンサーがついており、サーブルの選手は上着にセンサーがついている。このセンサーに剣が一定の力で攻撃を与えた場合、点数が入り、ヘルメットが点灯する仕組みとなっている。
とまあ、ここまで、自分の中で整理をつけるためにも書いてみたわけだが、これは多分、きちんとしてページで読んでいただいた方がわかりやすい。要するに、三つの競技があり、ルールも異なるということだ。
強いてイメージをいうなら、フルーレは先ほども例えたコブラの攻撃に似ている。距離を詰め、シュッと攻撃に移る、を繰り返す緊迫感がある。
エペは試合展開が早く、どこをついてもいいため、初心者が見ていると、「今点数入ったのか!」と驚くことが多い。
サーブルは、海賊である。マストの上で海賊が戦うのと同じようなフォームで、斬り合う。そして、他の二つが試合を3セット行うのに対し、サーブルはたぶん8点先取で試合が切り替わる(確証がないのは、見ながらそうかなと思っていたからだ)。どの競技も15点先取なので、サーブルは2セットのみということになる。
さて、私が見ていた試合は両方とも日本敗退だった。だが面白かったので、別の日本の選手の試合に切り替えた。そう、あまり注目されていないようだが、結構な数の日本人選手が出ているのだ。すると、試合の雰囲気が違うことに気がついた。
日本の選手の名前は上野優佳選手。相手はエジプトのノーラ・モハメド選手。日本の上野選手が面白いように点をとってゆく。その勝ち方も、何も知らない私が見ても美しい。私が今までみた試合とは明らかにペースが違う。そして、何より格好良かったのは、モハメド選手は他の国の選手同様、点をとるや否や「イヤーオ!」と雄叫びをあげるのに対し、無言ですぐに次の攻撃の準備をし始めるところだった。その侍のような佇まいと、素早い攻撃に私は引き込まれた。上野選手はそのまま勝ち、三回戦へと駒を進めた。
調べてみるとこの選手、ユースオリンピックで金メダルをとった人らしく、注目の選手だったらしい。通りで強いわけだ。そう思いながら、第三回戦をつける。相手はアメリカのロス選手。どんな試合になるのだろう、とぼんやり思っているうちに上野選手はガンガン攻めて点数をものにしてゆく。途中でロスも取り返しにかかったところもあったが、最終的に上野選手の勝利で終わる。彼女は完全にその場をものにしていた。
三回戦に勝ったということは、その次は準々決勝である。なんの気無しに見ていた、あまり注目されていなそうなスポーツでここまで勝ち上がっている。ちょっとした興奮を感じながら、私は準々決勝を待った。
準々決勝の相手はリー・キーファー選手。国籍はまたもアメリカ。こんな紹介の仕方しかできなくて大変申し訳ないのだが、どちらかというと華奢でスタイルがいい。
私は若干たかを括っていた。今までの試合を見る限り、上野選手はどう考えても最強だった。素早く切り込み、攻撃できない時は相手のスキを探し出し、そこをすっとつく。だから、またやってくれる。なんなら金メダルとってしまうのではないか。そうしたら、フェンシングの放映権を野放しにしていた大手テレビ局も一泡吹くだろう。
だが、試合が始まると、キーファー選手は全く今までの相手と異なっていた。
開始数秒で、いきなり点数を取ると、立て続けに得点をものにしてゆく。もちろん、上野選手も取り返す。だがスピードが違うのだ。上野選手はまったくもって問題なく、今まで通り点数を取りに行っている。だがその倍のスピードでキーファー選手が点をとってゆく。上野選手が無言で点を奪うと、キーファー選手はひらりひらりと立て続けに点を奪い、「キャー」といとも楽しそうな雄叫びをあげ、飛び上がる。そんな展開が続き、フルーレの試合の3セットのうち、1セットと少しで、キーファー選手は15点を先取。11点も取っていた上野選手が負けてしまった。こんな試合は初めて見た気がする。
その後、このキーファー選手は金メダルを獲得したらしいが、そりゃそうだ、そうじゃなくっちゃ困る、と思ったものだ。あのスピードに勝てる誰かがいるとは思えなかった。
スポーツの試合はいかに場を掴むかにかかっているようだ。怒涛のようにフェンシングを見続けてわかったことだ。特に印象に残った上野選手の話だけをしたが、他の選手、他の試合もそうだった。
試合には風向きがある。風向きが良ければパフォーマンスを十分に発揮できるし、頭も回って、勝つための一手を仕掛けることもできる。ところが風向きが悪いと全てが裏目に出る。そして、その風向きがどちらを向くかは、その場を支配した選手にかかっている。場を支配できれば、風向きも変わる。本当は違うのかもしれないが、スポーツといったものにあまり縁のない私が外から見ていると、そう思えてならない。
今日、日本の男子フルーレの敷根選手が準決勝まで進んだ。ところが、その先の風向きはよくなかった。敷根選手も、私の好きな「雄叫びあげない系」フェンサーだったので、熱を入れて応援していたのだが、準決勝は全くと言っていいほどうまく行かなかった。今までなら入っていた切先がそれ、今までなら見せなかったスキが露呈した。3位決定戦でも悪い風を払拭できず、4位という結果となった。結果自体はありえないくらい素晴らしいものだ。だが、試合展開は見ている私もぶっ倒れそうになるものだった。
風を操れるかどうか。そのための一手を繰り出せるかどうか。それは難しいことだ。だが不可能ではない。その後見た卓球の試合では、明らかに悪い風向きでスタートした試合で、日本人ペアは風向きを変えることに成功していた。最後、風向きがまた悪い方に傾き始めたが、休憩を経ると、すっかり元通りにしてみせた。ひょっとすると休憩が大事だったのかもしれない。思えば、フェンシングで負けてしまった選手は、休憩に入る前に追い込まれ、休憩後に追い上げたが、一歩足りなかった、ということが多かったように思う。生きていく上でも、ガーっとある方向だけを見ざるを得ない状況では、風向きがどんどん悪くなることが多い。視野を広げるには休憩時間が必要なのだ。
などと、話を無理やり広げることで、自分の無知をカバーしようとして見たが、やっぱりルールなどきちんと知りたい。今回は配信だけで、実況もほぼないに等しかったから、全くの無の状態で見てしまった。これも面白かったけど、次のパリではもっとわかった状態で楽しめるだろうか。
大丈夫だ。上野選手も敷根選手もまだ若い、きっと三年後にはとんでもないことになっている。注目も集まるだろう。そうなったら、私はあいも変わらず何も知らない状態だったとしても、こう言ってやろうと思う。「ほら、フェンシング面白いって三年前に行ったじゃないか!」と。
いや待てよ。今年も日本チームのフェンシングの日程は終わっていない。まだチャンスはあるぞ。
オリンピックが始まった
1
先日、オリンピックが始まった。私にとっては初めての東京オリンピックである。いや、実を言えば、自国開催のオリンピック自体が、物心ついてから初めてだ。
私はオリンピックの開会式というものが好きで、毎回見るようにしている。ただ、確か前回のリオデジャネイロオリンピックは見れなかったと思う。
あの時は、ちょうど、カナダのモントリオールに語学研修で行っていて、ボウリング大会をしていた。ちらっと会場のモニターで見た気はするのだが、そこまできちんとは見ていなかった。自分のボウリングスキルの予想外のあまりの低さに打ちのめされるのに忙しかったのだ。
実は日本でオリンピックを見るのは久々である。リオ大会は今言ったようにカナダだった。ロンドン大会も、語学研修で、ロンドンの目と鼻の先、アスコットにいた。だが、交通規制がどうの、ということで、試合を生で見ることはなかった。その前の北京のときは、家族旅行でこれまたロンドンにいた。
すると、日本で、日本国内の熱狂と話題の渦中の中でオリンピックを見ているのは、その前のアテネ以来ということになる。自分でもちょっとびっくりする。三年後はどこにいるのだろう。フランスにいたら展開として面白いので、うっすらと計画している。
さて、開会式である。
今回の開会式は、(ひょっとすると見ていない前回大会もそうなのかもしれないけれど)なんだか途中で組織委員会のプロモーションビデオのようなものが挟まって、統一感がないようだった。開会式を一つのエンターテイメント作品として押し出すというよりは、いくつかの作品群というような感じがして、現代的と言えば現代的、だがもう少し緩やかな流れのようなものを見たいように感じた。もしかすると、この感想は実は間違っているのかもしれない。だが、そう思ってしまったということは事実なので、そのように書いておこうと思う。
ただ、テーマとしての「多様性と調和」というものは、見せようとしているように感じる(感じさせるのではなく、見せようとしている点が、むしろ断片的に見えてしまった一つの理由かもしれない)。問題は、その多様性があまり多様ではなく見えてしまう瞬間が結構あったことだ。
例えば、あれだけの国の人々を集めている中で、日本の子供達の歌声をアジア大陸代表と言ってしまうのはどうだろう。オリンピックの旗は五つの輪でできているが、それに囚われすぎる必要はないし、囚われれば多様性が見えなくなりそうだ。いっそのこと、参加国・地域全ての子供たちの歌声を、それぞれの尺は少なくなったとしても、届けることができれば良いのに、と思ってしまった。
だが、大工が登場するパフォーマンスで演じられた多様性と調和は、私はなかなか好きであった。最初に町火消しと大工が登場し、何か作業を始める。私たちはそれを見て、「これはいったいなんなんだろう」と思って見ている。するとリズムがあってきて、ダンスパフォーマンスへとつながる。あれは自然と入り込んでゆけて、私にとってはとても心を掴まれるものがあった。
さて話は変わるが(内容が断片的だったために、感想も断片的になる)、日本的なるものを、演出上でどのように表現するか、という点も興味深かった。町火消しや大工、選手入場の際のゲーム音楽、漫画の吹き出しのような国名プレート、入場が五十音順になっていること、そして歌舞伎界を象徴する市川海老蔵の起用…と色々出てきたわけだが、どれも、いわゆる日本すぎて、大きく頷けるような日本らしさは逆にない。
私が見ていた中で、「これは日本をうまく表現している」とおもえたのは別のものだった。それは、ピクトグラムの実演だ。仮装大会みたいな手法で、時に「うまく考えたな」という角度から、ピクトグラムを見事に再現してゆく。なぜかはわからないが、日本らしさがあそこにはあった。日本が常連となっているイグノーベル賞にも通じるのかもしれないが、地味でどうでもよさそうなことに知恵と工夫を注ぎ込んでゆくところに、その「日本らしさ」があったのかもしれなかった。
ロンドンオリンピックの際、開会式・閉会式はさまざまな英国の顔が散りばめられていた。歴史にせよ、007、ミスター・ビーン、モンティパイソン、ビートルズ、クイーンなどの文化的なものにせよ。今回の東京の開会式は、そこまで日本の顔を押し出すことはなかったように思う。ひょっとすると、英国ほどの自信がまだないのかもしれない。それでも間違いなくあのピクトグラムのパフォーマンスには、日本の香りが漂っていたのである。
とはいえ、私は開会式の華は選手入場だと思う。各国の選手たちがそれぞれの衣装で登場する。今回印象的だったのは、みんななんだか自由だったところだ。カメラに駆け寄ってくる選手、ダンスする選手、飛び跳ねる選手たち。衣装も、かっちりしたものだけでなく、ジャージのような格好、普通の観光客のような装いも見えた。もちろん民族衣装の人もいて、見ていてすごく華やかだ。
そうなのである。結局のところ、多様性は誰かが作ったパフォーマンスで探さなくても、選手入場の中にある。そこには対立する国もいるし、難民もいるし、あるいは組織的ドーピングで問題になってしまった国もいる。この世界には、7月23日の国立競技場内以上の多様性が本当はあって、あの選手入場なんて、その一部だ。だけど、それでも、そうした多様性の一部がテレビを通じて人々の目の前に一挙に現れるのは壮観である。
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色々な声があり、それぞれ理を持っていて、皮肉や文句を言う人にも正当性がある。だが、今年ほど、オリンピックが必要な年もそうそうないものだ、と私は思っている。
コロナの蔓延はもちろんのこと、よく言われるように、私たちは「分断」の時代の最中にいる。かつてある哲学者が、人々の意見が相違するのは当然であって、それが多様性なのだから、「分断」は問題ないことだという旨のことを言っていた。私は違うと思う。分断は、人々の意見が食い違うことではない。食い違った意見が内輪ウケだけで成立している状況だ。
あまりリアルな話をすると生々しくって嫌なので、ある国が犬派と猫派に分断されているとする。犬派は猫派が何を言おうと、犬の方が可愛いと思っていて、猫が好きなのはバカだけだから相手にするなという。そして、逆もまた然りの状況にある。これが分断であり、現代社会を眺めてみるとしょっちゅう目にする。厄介なのは、相手の意見がゴミ同然として扱われることだ。相手はもはや同じ人として認められてないんじゃないかと思う。そしてグループ内は一種の集団催眠状態で、自分たちの意見の正しさを疑うこともない。疑うべき点が出てきたら、真っ先に隠す。
多様性を語ること自体が、そうしたグループの一つになってしまいかねない状況すらある。「犬も猫もいいよね派」というものが出来てしまうと、その派閥内では「犬派」や「猫派」自体が「時代遅れの」「守旧派」だ、なんて槍玉に挙げられる。どの意見も皆、それぞれの仲良しグループ内のものと化してしまう。とかく論破や中傷や冷笑がもてはやされる。敵対する相手の言葉の奥にあるかもしれない真実すら探そうともしないで、攻撃だけを美徳とする。
そんなにっちもさっちも行かない現状が続く中で、コロナが流行ってしまった。その結果として、分断はますます広がっているように思う。
まず、国同士が物理的に分断され、精神的にもかなり遠いものになっている。外国という、自分たちと異質なものに、元から私たちは警戒感を抱きがちがだったが、その警戒感に、科学と医学のお墨付きがついてしまった。
元から忌避していたものへの風当たりの強さは、夜の街や酒などにまで広がっている。あるいは、デモや反政府運動、自分たちとは違う宗教や民族的背景を持つ人たち、生まれたての民主的政権にまでも。
今こそ、やっぱり、休戦が必要なのだ。そしてより大事なのは、相手を相手として認めることだ。それを理念として掲げ続けているのがオリンピックである。今やカネと国の威信にまみれているという批判はもっともであるが、理念は理念のまま、私は一つ信じて見たいように思う。というのも、選手たちはスタジアムで戦い、最後には握手をするからだ。それがスポーツマンシップであり、そこには分断は認められないからだ。
握手すら、ままならない時代だ。そんな時にこそ、これだけさまざまな国と地域の様々な背景を持つ人々が集うことに意味があるし、どうせもう歴史に刻まれてしまうのだから、何か意味のある大会にしていく責任が開催側にはある。いつまで続くかわからないコロナウイルスと分断という二つの病、精神と身体を蝕む感染症に、それぞれどのように立ち向かうのか、そのメッセージを投げかけるチャンスである。
今回のオリンピックのテレビ中継を見ていてとてもいいなと思うことがある。それは日本だけでなく、色々な国のことが話に出て、アスリート全員に向けられた応援の言葉も時折聞かれることだ。
昔は、日本のメダルばかり気にしている風があったり、選手が「金メダルを取ります」という宣言さえさせられている場面もあったりして、とても気味が悪かったから、今のやり方のほうがいいと思う。
私も、自分が何度か行って、情が写ってきているヴェトナムやトルコなども精一杯応援しようと思う。
どちらの国も、今のところ試合で見かけていないのだが…。
短文:ドミトリー
私はドミトリーというものがあまり好きではない。
そういう風に堂々と言えるようになったのもわりと最近のことである。
ドミトリーというのは、安宿の一種で、二段ベッドのようなものが一部屋に並んだ作りをしている。バックパッカーといえばドミトリーに泊まるということになっており、旅人の交流の場にもなっている。
私はパックツアーの類や、ガラガラとスーツケースを引く類の旅よりも、リュックサックだけ背負って、自分の足で歩く旅に憧れを抱いていた。沢木耕太郎にも憧れた。だから、ドミトリーが好きではない、ということ自体がなんらかの甘えというか、弱みのように思えてならなかった。そう言った恥ずかしさがある。ドミトリーを渡り歩く人への憧れもなくもない。
だが、やっぱりどうも性に合わないのだ。
1人でいるのが好きだ、とまでは言わない。だけど、1人でいる時間が一番ちょうどいい自分でいられる。ドミトリーというのは、共同生活が強すぎる。
例えば出かける時は、ある程度荷物に気をつけておかないといけないし、シャワーを浴びる時も同様だ。それに部屋の中にいても、人の目があるとなんとなく落ち着かず、話しかけたりしなきゃいけないんじゃないかとそわそわしてしまう。そもそも見知らぬ人が帰ってくる部屋で寝ているのもなんとなく苦手のようだ。
正直、そんなにドミトリーを使ったことがあるわけではない。だが、あの場にいて、直感的に、ここは落ち着けないなと、そう思ってしまったのだ。だから、はじめは青く淡い憧れを抱いていたドミトリーを、私はほとんど使わなくなった。
もう少し積極的な理由もある。
どうやら私は安い個室が好きみたいなのだ。狭くても構わない。だが数日間だけ、その小さな部屋が私の家になる。買ってきたものを並べたり、持ってきたものを並べたり、リュックの収納場所を決めたりする。
そして、ちょっと妙かも知らないけれど、そんな個室から外に出かける時、鍵をガシャっとかける瞬間が好きでたまらない。理由はわからないし、意味づけもできないのだが、なぜだか、そのガシャッが好きである。そして鍵をポケットに入れるにせよ、フロントに預けるにせよ、なんだがその街の立派な住人になったような気がするのだ。
大きくて豪華すぎると、ホテル感が強いので、安い部屋が良い。だが清潔感もそこそこあってほしいし、シャワーくらいはついていてほしい。テレビもだ。それは多分、街に住んでいることの象徴のような物品たちなのだろう。
そしてこれが私の旅のスタイルなのだ。
旅が自分と向き合う時間であるなら、スタイルも自分に合ったものを模索するのが大事だ。そう思えるようになったから、私は堂々とドミトリーよりも個室の部屋がいいと言えるようになったのかもしれない。自分と向き合い、話し合うことが大事だと気付いたから。