Play Back〜ハードボイルド大学生活〜

ある大学生の日常をハードボイルドなエッセイ調に書く。

『知と愛』のはなし

この前、友達と一緒に西田幾多郎の『知と愛』というエッセイを読んだ。読んでいる様子はツイキャスにあげているので、私のTwitterを知っている人なら、遡って見つけることができるだろう。このエッセイは、西田の『善の研究』という大著のエピローグのようなもので、もともとは独立したエッセイだったという。

彼は言う。知と愛は、同じ精神作用だ、と。知るということは、自分の思い込みを捨て、知識へ身を委ねることである。そして愛するということは、自分を捨て、相手を想うことである。どちらにも、「自分」は消え去ってしまい、そこには「純粋経験」だけがある、と(純粋経験とは、私たちが普段やっている経験である。例えば夕日を見ている時、私たちは決して、「私は今、夕日を見ている」などと感じはしない。じっさいには、ただただ目の前に夕日を感じているのである。そのとき、「自分」は消えている)。いや、それどころか、西田は、「知即愛、愛即知」と言って見せる。つまり、相手のことを知るがゆえに、相手をますます愛し、何かを愛するがゆえに、何かを知るのである。

なかなか納得させられる。高校生の時、私は古代ローマの本を読み漁った。そのおかげで今、ローマの歴史の流れをそらんずることができる。「ラティウムに住む男たちが、ローマの土地に国を建て、指導者ロムルスが王になり、王政が始まって、ヌマなどの前世を敷く王様の時代が続き、その中で隣国エトルリアの文明を吸収していくが、最後の国王タルクィニウス・スペルブスは……」と。これは正真正銘「知識」だ。それも、世界史の勉強の役にも立たないし(国王の話なんて、高校の教科書では「ロムルスがとレムスが建国。その後、エトルリア人の国王を追放して」で終了である)、実生活の役にも立たない知識である。だが、私にとっては意味があって、ローマ史の話をしろと言われて国王の話から始めるのは、二代目国王ヌマから六代目セルウィウス・トゥッリウスの業績が、最後の王様のせいで無に帰せられるのがかわいそうだからだ。それはある種、ローマの歴史という一連の流れを愛するからである。実際、ローマ史を調べていた頃は、しょっちゅうローマ人の話を私自身していたと記憶しているが、それはよく考えてみると、恋をした人が恋する相手の話をすぐにしてしまうのと非常に似たところがある。私はどうも「熱っぽい」性格のようで、ローマだけではなく、物理学(特に相対性理論量子力学の歴史)、数学(特にフェルマの最終定理)、江戸の歴史、幕末〜明治に活躍した榎本武揚フランス第二帝政を作ったナポレオン3世、世界の言語などに同じような感覚を抱いていた。今から思えば、あれこそまさに「知即愛、愛即知」だったと思う。逆に言えば、このような「愛」がなければ、本当に楽しんで「知る」ということはできないだろうし、ただ覚えただけの知識はすぐにどこかへ消えてしまうのだろう。もし、教えるのが上手い先生がいたとすると、それは話が上手いだけではやっぱりダメで、その知識への「愛」を豊富に持ち合わせた人に違いない。知ったかぶりや知識自慢ではなく、純粋な愛あってこそ、聞き手もその愛に飲み込まれ、知識を「人格的なもの」「いきいきしたもの」として受け取ることができるはずである。

人に関しても、間違いなくそういうことはある。初めは見た目が好きとか、声が好きとかだったとしても、だんだんとその人のことを知るにつれて、その人を好きになって行き、好きだから、知りたくなるのかもしれない。星野源の「くせのうた」という歌を思い出す。「君の癖を知りたいが、ひかれそうで、悩むのだ……」知ることは、愛することへと近づいてゆく。もちろん、知るからといって愛するわけではない。だが、愛していなければきっと、知るというよりも、決めつけて終わると思う。「あいつはこういうひとだから」「お前はこういうやつだよな」「お前が考えそうなことだ」などということは、「知る」ことではない、と思う。確かに初めは知ろうとしたのかもしれないが、もはや分析する方向へと進んでいて、それは愛とは言えないし、知ってもいない。嫌いな人に対してやりがちなことだ。いや、もしかすると相手を盲目的に好きになると、これまたやりがちなことなのかもしれない。

そうやって考えてみると、科学を「未来を予測するためのもの」と考えるのは、一つ間違いなのかもしれない。確かに、ニュートン力学は、ハレーという人がニュートンの数式を使って彗星の出現を予測した時、確かなものになった。自然科学とは違うが、経済学は経済の動きを予測する役目を期待されているし、気象学は気象予報を求められている。だが、科学の精神って、本当にそこにあるんだろうか? 今、理論物理学でホットな話題は、「TOE(=万物の理論)」だろう。これは何かというと、予測するというよりはむしろ、この宇宙を動かすあらゆる力(ちょっとマニアックな話をすると、四つの力であり、一つは万有引力、もう一つは電磁気力(静電気や磁石の持つ力)、最後の二つは原子を成立させている「強い力」と素粒子を変化させる「弱い力」。電磁気力と強い力と弱い力は、「統一理論」で統一されそうだ)を一つの理論によって説明し尽くそうという動きだ。これは予測ではなく、過去に遡って、全ては一つであったことを説明しようとしている。それはひとえに、「知りたい」という思いである。それは「愛」にも似たものである。予測することは、自分の知ったことを元に、相手をいわば「決めつけ」、次の出来事を読むことだ。これは愛とは違う。

西田幾多郎はあまり書いていなかったと思うが、「決めつけ」の問題は随分と根深いし、他人事ではない。人はみんな何かや誰かを愛しながら生きている。だがそれは、「決めつけ」に走る可能性を秘めている。ストーカーや、自然破壊はその極致と言っていいだろうが、どの人もそれをやりかねない可能性を持っている。歴史を楽しんで学ぶと、いつの間にか、現代という時代を変えてやりたくなってくる。相手を知ると、自分が相手にできることに思いを馳せ、いつの間にか自分が相手を変えてやろうという気持ちになる。必ずしもその全てが悪いわけではないし、それは歴史や人生を動かす原動力に確かになっている。だが、それは時に暴力的で、危険な側面も持つ。ちょっとした「君って〜な人だよね」「この民族の歴史は〜な感じのサイクルをいつもたどる」「日本人は〜な民族だ」は、いつか、危ないものになるのかもしれない。私たちは微妙な位置で生きていて、愛と知は微妙な位置にある。人を本当の意味で愛し続けるには、もしかすると何もしないという選択肢しかないのかもしれないし、何かを本当の意味で知るということは応用的なことは一切してはいけないということなのかもしれない。だが、行動や応用がない限り、人は歴史や人生を前に動かすことができないのもまた事実だ。

大切なのは、純粋な愛、純粋な知を楽しむ経験を持つことかもしれない。それを大事にした上で、それをいかに前に進めるかが問題だ。そうやって考えると、西田幾多郎のいうとおり、「純粋経験」へとたちかえらないといけないのかもしれない。そして、それこそ現代において哲学のできることなのかもしれない。それは一人で行うことでもいいし、誰かとともに対話することによってなのかもしれない。フランス人哲学者のベルクソンはこんなことを言っている。

「科学者は、自然に服従し、命令する。哲学者は、服従も、命令もしない。ただ、共感することを求める」

ヴェトナムの方がやってきた

6月10日と11日は、代々木がヴェトナムになる日だった。5月ごろから代々木公園では、カンボジア、タイ、ラオスと東南アジアの国々を紹介するフェスが開かれ、6月10日と11日はヴェトナムフェスティバルが開催されていたのだ。

去年、一昨年と連続してヴェトナムに行った私としては、このフェスティバルには行かなければならなかった。そう、もう行きたいどころの騒ぎではなく、行かなければいけなかったのだ。そんなわけで、私は後輩二人とヴェトナムフェスティバルに繰り出したというわけだ。

面白かったのは、このフェスティバルが、ヴェトナムという東南アジアの国に興味がある酔狂な日本人が集まる場ではなく、ヴェトナム人たちが集まってくる場でもあったことだった。というのも、去年同じ会場でやっていたアラビアンフェスティバルは、イスラーム圏の人の集まる場というよりも、日本人が集まっている状態だったからである。それはたぶん、イスラーム圏の人は、毎週金曜日、いやほぼ毎日モスクで集う習慣があり(本当に「集って」いる。一昨年モスクを訪れた時のあの雰囲気は忘れがたいが、それはまた今度話そう)、ヴェトナム人と違って文化的な何かを確かめ合う場が多いからではなかろうか。その点、日本にはヴェトナム寺院(大乗仏教の寺だが、明らかに雰囲気が違う)といっても、数えるほどしかないだろうし、集まるにしても、年に一度のテト(旧正月)くらいではないか。まあ、どれも憶測に過ぎない。単に祭りと聞いたら血がさわぐたちなのかもしれない。

とにかく、ヴェトナムフェスティバルの会場に入ると、いや会場への道のりから、だいぶ異質な雰囲気を醸し出している。周りからはヴェトナム語が聞こえ、男女ともにアオザイで着飾った人もいるし、会場に入れば、独特のハーブやら肉やらの混ざった匂いがしてくる。看板にはアルファベットに細々とした飾りをつけたヴェトナムアルファベット(クォッグー)が並んでいた。ライヴは無名の日本人アーティストの謎のナンバーもお届けしていたが、たまにヴェトナムのスターが現れ、ヴェトナム人たちは歓声をもって彼らを受け入れ、スターたちはポップな曲やバラードをやったかと思うと、一曲は必ずヴェトナム演歌を演奏していた。まるで、ヴェトナムである。会場の裏手にあるスペースではヴェトナム人たちがピクニックを催していて、「モッハイッバー、ゾー(1、2、3、いくぞ!)」という掛け声とともに乾杯し、盛り上がっていた。その脇を、子供達が駆け回る姿も、ヴェトナムっぽさがあった。

そこには、ヴェトナムがあった。「ヴェトナム」自体が出展されていた。もちろん、日本でやっているのでどこか小綺麗な感はあるが、やはり、あれはヴェトナムだったのだ。食事の方はというと、やっぱり本場にはかなわないが、ビールの「333(バーバーバー)」も「ビア・ハノイ」もあの時の味だったし、それに嬉しかったのは、本場ヴェトナムのチェーン店チュン・グエンの系列店が「本物の」ヴェトナムコーヒーを出していたことだった。あれはあまり日本では味わえないので、嬉しかった。チョコレートのような濃厚な味の、コーヒーと練乳のマリアージュ、である。

それにくわえて、あのフェスティバルは8時まで続いた、というのもヴェトナムらしい。テンションを一切変えず、一日中やり続けるヴァイタリティ。他のフェスティバルは普通5時には終わるものを、8時まで延長し続ける力強さがそこにはある。まさにヴェトナムという感じである。

かつて、エスニック料理の店の魅力について書いたことがある。あの時、私は、こんなことを書いた。エスニック料理は、日本にいながら他の文化の濃厚な部分への扉を開いてくれるものだ、と。なぜなら、食べ物の味はもちろん、その店の雰囲気、働いている人々、そして店の中の香り、流れている曲……それは完璧にではないが、その国の文化を確かに立体的な形で伝えてくれるからだ。ヴェトナムフェスティバルは、実際にヴェトナムに行ってみて考えると、確かに代々木をヴェトナムに変えていた。言葉、香り、音楽、人々、そして味、エネルギー。もっと大規模な形でヴェトナム自体を伝えてくれていた。そう、五万円払ってヴェトナム航空のチケットを買わなくても、そこにはヴェトナムが、ヴェトナムの方がこちらにやってきたのである。

偶然か、必然か、それとも運命か

人と人との出会いは偶然なのか、運命なのか、という話に、二日続けてなったことがある。メンバーも違うので、どうやらあの時は、この話をする「運命」にあったというわけだが、私は正直どちらでも良いと思っている。

すべての人はそれぞれの人の意思で動き、時に誰かに影響されつつもどうにかこうにか生きている。動物もある程度は自分の思うままに行動しているのかもしれない。出会いなんてものは、人と人がそれぞれの思惑で動く中でたまたま起こるもの。そう考えてみると、いろいろな偶然が重なり、いろいろなことが起きているような気がする。だって、運命に動かされて人は普通何かをしないからだ。何かがあってから、運命を感じる。行動する時はいつも自分本位で、何かが起こってみて、「運命だったのかもしれない」と思うわけである。

でも、そんな偶然の重なりは、もしかすると運命と言えるのかもしれない。ブラジルで羽ばたいたチョウの羽ばたきが、台風を起こすというような話があるが、それはある意味で、奇跡的なことである。もし、チョウがその時羽ばたかなければ台風が起きなかったかもしれない。これは人と人との間も同じことで、あの時の選択がなかったら、あの人とは合わなかったかも、ということもある。そしてそれは、それぞれの人の思惑を後から繋げていって考えると「運命」や「必然」があったような気がしてくるわけだ。そして、偶然であるがゆえに、それはなかなか起きないことだから、その「運命」はより感動的な「運命」として受け取られることになる。まさに、「あの日あの時あの場所で君に出会わなかったら、僕らは、いつまでも、見知らぬ他人の……まま」ということだ。

偶然か必然か、はこんな風に見方次第である。だから、人と人との出会いは運命か、偶然か、などとはなしあってもなにもえることはない。それはいわば、カタツムリを見ながら、「これはデンデンムシか?」「いやいや、これはマイマイだ」とやりあっているようなものである。要するに、起こっていることは同じなのだ。

だが、面白いのは、偶然だからこそ、運命だという点である。偶然は、滅多に起こらない。逆に必然はしょっちゅう起こる。もし、りんごが木から落ちるのを見て、「こりゃあ、運命だ!」などと言ったら笑われるに違いない。これは必然だけど、運命じゃないのだ。だけど、人と人との出会いは違う。偶然であり、だからこそ、私たちは「運命かもしれない」と感じる。偶然と言って仕舞えば、何度でも起こる気がする。運命と言って仕舞えば、すべて昔から決まっていたような気がする。だが真相は違う。偶然は滅多に起きない。そして運命は昔から決まっている必要はない。「君の前前前世から僕は探し続け」る必要なんてどこにもない。むしろ、滅多に起こらない偶然の中で、人と出会うから、運命なのではないだろうか。だからこそ、衝撃があるのではないだろうか。

そう考えると、実はどの人との出会いも、運命であり、偶然なのだ。いや、偶然だから、運命なのである。好きになった人も、嫌いになった人も、大して何の興味も湧かない人も、離れ離れになる人も、腐れ縁になる人も、そう、誰でも。そこに取り立てて、「運命の人」などと言いたがるのは、きっとそれぞれの運命の中でも、「運命だ」と思いたいくらいエモーショナルな出会いがあると信じるからだ。だけど、実際はどれも変わらぬ、偶然という運命の出会いなのだと思う。運命は、偶然だからこそ、何度でも訪れる。何度でも訪れるからといって、侮ってはいけない。だって、それは70億人のうちの一人との偶然の出会いなのだから。

などと、書いてみると、案外恥ずかしいものである。しかし、どうやらこれを公開する「運命」にあるようなので、「公開する」ボタンをクリックしてしまおうと思う。

思い出がいっぱい

「懐かしいって感覚って何なのか、気になってるんです」と、ある人が言った。この前の木曜日のことである。あの日、僕を含めた十人の年齢も性別も違う仲間で「懐かしいってどういうこと?」についてみんなで考えた。

その人はいう。この季節になると、空気にも少し湿り気が出てきて、暖かくなってくる。そうなると、決まって高校の時の体育祭を思い出す、と彼女は言っていた。その時ではないが、彼女は体育祭や学園祭に随分打ち込むたちだったという話を聞いたことがあったから、きっと彼女にとっての体育祭は、随分と濃密な記憶だったに違いない。

彼女はその後、懐かしいというのはポジティヴな感情だと言った。どことなく、嬉しさにも似た感情だと。だが、僕はそうは思わなかった。確かに、ずっと会ってなかった人と会った時は、嬉しいし、懐かしいね、というだろう。だが、ふっと何かを思い出す時、嬉しさよりも、物悲しい、かと言ってあまり激しい感情ではないメランコリックな気分になることの方が、経験上多いからである。

僕の場合、それはオートバイのクラクションや、木を焼いたような匂いで起こる。クラクションが鳴ると、ヴェトナムを思い出し、木を焼いた匂いを嗅ぐと小学校まで入っていたボーイスカウトを思い出すのだ。ヴェトナムは楽しい思い出だったし、ボーイスカウトはあまり好きではなかった。だが、今ではそれを思い出すと、どことなく物悲しいメランコリックな気持ちになってくる。前に書いた音楽の話の表現を使うなら、「ざらり」と感じるのである。

 

懐かしいって何だろう?

普通はそんなこと考えず、「懐かしい!」と反射的に思い、「懐かしい!」と反射的に言っている。だがよく考えると、不思議な感覚である。

まず、思い出すこと、とは決定的に違う点がある。僕たちは何かを思い出しながら生きているが、何かを思い出せば、あの「懐かしい」というエモーショナルな感情が出てくるかというとそれは違うのだ。例えば、持ってこないといけないものを家に忘れてきたと咄嗟に思い出した時、だれもエモーショナルにはならないだろう。「あ、家に財布忘れてきた……財布かぁ……懐かしいなあ」といちいちなっていたら社会生活が送れない。普通は急に焦るが、あの、「懐かしい」という感情じゃないだろう。

ただ、思い出さないことでもない。対話の中で、ある人が特定の曲を聴くと懐かしくなる、というふうに言っていた。それは、何かを思い出しているわけではない、という。もちろん、そんな経験はある。僕の場合は、Bob Dylanの歌がそうだし、そうでなくても、ラジオから流れてきた全然聞いたことのない曲に泣きそうになったこともある。だが、それは懐かしいというよりも、「懐かしさに似た感情」のような気がする。だって、そういうメランコリックな音楽を聴いた時に、「懐かしい」とは普通言わないからだ。もし、「この歌聴くと懐かしくなるんだよね」と言われたら、きっと「何か思い出があるの?」と聞きたくなるはずだ。そして、「いや、別にないけど」という答えが返ってきたら、すかさず「ないんだ!」とツッコミたくなるはずである。もちろん、あの感情が「懐かしさ」にすごく似ているのはわかるが、ちょっとだけ違うような気もする。

じゃあ、思い出すだけではなく、何が必要なんだろう? きっと、それは、「忘れること」であり、「思い出す必要がなくなること」である。すっかり忘れていて、しかも思い出す必要のない、今とは関わりのないことをふとした瞬間にフラッシュバックする時、あのメランコリックな感情が湧いてくる。先ほどの忘れ物の例だと、「忘れていた」のは確かだが、明らかに「今の状況と関係がある」。だから、焦る。トラウマというのも、フラッシュバックしたものが今、そして未来と関わっているから恐怖感を覚えるが、懐かしいとは思わないのだ。また、あの状況が起こるかもしれない、とか、あの状況が今に蘇って危害を加えてくるような気がするから、怖いのだ。だが、懐かしいと思う時は違う。ヴェトナムも、体育祭も、カナダも、思い出す必要性は一つもないのだ。一つもないのに、思い出してしまう。しかも、普段の生活では意識にのぼっていなかったのだ。

懐かしさはいつも不意打ちなのか、と言われると、それはYESであり、NOなのだろう。というのも、思い出話をしたり、(対話している間にやった人がいたのだが)思い出そうとして、懐かしさを感じることもできるからだ。だが、やはり僕は、そこにも「不意打ち」があるような気がしている。僕たちが思い出そうとして思い出せるものは、情報だけではないだろうか。例えば、「中学校時代」を思い出してみるとしよう。「中学校の校舎!通学路!」と念じ、思い出そうとすると、写真みたいな光景が思い出されてくる。「先生!」と念じてみると、先生の顔や名前が思い出される。こうやって頑張って思い出そうとして出てくるのは、一つ一つの情報にすぎない。この時はまだ、「懐かし」くはないのではないか。だが、こうやっていくうちに、ある時ふと、「不意に」、情報を超えた生き生きとした記憶がフラッシュバックしてくる。「通学路ってこんな匂いしたな、あの先生は笑うと優しそうだけど、目はいつも笑ってなかったよな、そうそう、通学路は夜になると真っ暗になるから、部活終わりとかはなんかスリル満点だったよな……」と次々と、思い出そうとして想定していたものとは全然違うものが出てきて、僕たちは記憶に飲まれてゆく。その時、僕たちは「懐かしく」感じているのだ。思い出そうとして思い出す情報から、不意に思い出してしまう、忘れていたディテールがどんどんどんどん目の前に現れる。

こんな体験を共有する誰かがいる時は、もしかすると嬉しい気分になるのかもしれない。だから、今まで会ってなかった人と会う時は、嬉しい気分になるし、みんなで「そうそうあのときさ!」と話しているとなぜか話に花が咲くのだろう。それは多分、その生き生きとした記憶が、今に蘇るからだろう。現実のものとして、話題として、生きたまま蘇るからだろう。だが、思い出話はどこかで止まり、みんなが虚空を見つめながら、「懐かしいね……」とだけ言い始める瞬間がくる。その時、メランコリーが始まる。きっと一人で思い出す時、そしてフラッシュバックしたものを言葉でうまく表現できない時(懐かしいけど、具体的には思い出せない感覚はあるはずだ。あれは思い出していないのではなく、むしろ思い出したけど、「なんなのか」「どこなのか」「いつなのか」といった情報面が思い浮かばないのではないだろうか)、メランコリーはわりかしすぐに出てくるのだろう。

なんであんなに懐かしさは胸を打つのか。それはよくわからない。もしかすると、もう終わってしまったからかもしれない。記憶は蘇るが、もう現実のものではない。そんな、時の流れを意識してしまうからかもしれない。「あの時は」と過去を思い出す時、過去形を使う時、人は今とは違うんだと意識する。人は過去のことを、キラキラしたものと感じることが多いようで、楽しかった思い出も、逆に辛かった思い出も、みんな「自分の中で生きている」と感じる。そのことがなければ今の自分はない。そんな人生の中で起きたことが、まるで蘇ったかのように出てくる。その時、どこかで「今」は「あの時」ではない、という当たり前と言えば当たり前な、愛しい記憶との「別れ」を感じるのだろう。だが、それは当然のことで、思い出すという経験の、その中に浮いたような虚しさ、あの時は今とは違うというもの悲しさは、逆に今への道のりでもある。だからそれは悶えるような悲しさではなく、今の自分が歩いてきた過去の長い道を振り返る、「もう引き返すことはできないが、ここまでやってきたんだ」という良い意味でのため息でもある。「あの日」との隔たり、その隔たりが持つもの悲しさ、そして「あの日」が確かに自分の中で生きているという充足。懐かしさには色々なものが混ざっている。

 

思い出し、懐かしいと思うことは不意に襲ってきて、しみじみとした、メランコリックな気持ちを呼ぶ。過去に生きるのはよせ、という言葉があるが、好むとも好まずとも、人生を生きていれば、きっと懐かしさに襲われることがある。それは、人生はしっかりと「生きてきた」証拠でもあるのだと思う。それに…………蒸しっとした梅雨や夏の気温で思い出す思い出が増えたおかげで、昔は嫌でしかなかった夏がちょっと楽しくなった気もする。思い出がいっぱいだから、今に彩りが加わって行くってこともあるのだ。

 

 

常連になる

少し前、行きつけのトルコ料理屋に行った。

行きつけ、といっても、そんなにしょっちゅう行くわけでもない。なぜなら、僕の生活圏から考えると、ちょっとだけ遠い場所にあるからだ。大学のある街から2、30分歩いたところにある店である。そして、ランチ1000円と、学生にはちょいと厳しいお値段設定となっているのも、そこまでいかない理由だ。だが、時間とお金に余裕ができたら、「よし、行こう」と思わせてくれるものがあの店にはある。というのも、そこで出している「イスケンデル・ケバブ」が絶品なのだ。おっと、この料理を知らない人の方が多いだろう。イスケンデルケバブは、鶏肉を炙ったものにトマトソース、ヨーグルトソース(日本のプレーンヨーグルトよりも酸味が強く、調理用)、そしてちぎったトルコ風パン(エキメッキ)を和え、煮込んだ料理だ。エキゾチックでありながら素朴、遠い異国の料理でありながらなんとなく懐かしい。そんな料理だ。僕は初めてそれをこの店で食ったとき、うますぎて、涙が浮かびそうになるほどだった。

あの店に行くと、いつも小柄で声が若干高い(かといって甲高いわけではない微妙なライン)お兄さんがいる。彼が店主なのか、店長なのかはよくわからないが、本店は別にあるようなので、さしづめ暖簾分けしてもらった店長というところに違いない。僕が初めてこの店を訪れた時は、彼はウェイターをしていた(ウェイターなら店長じゃないじゃないかって? そんな気もするが、ただのウェイターにしては、他の店員の顔ぶれが変わる中、三年間そこに居座り続けているのだから、ただ者ではない)。それがあるとき、彼はコックになっていた。理由はわからないが、とにかく料理をしていたのだ。初めは、「やっぱり最初のコックの方がうまいな」と思いながら、イスケンデルケバブを食っていたが、だんだん腕が上がったようで、最後に食べたときには、明らかに最初のコックのイスケンデルケバブを凌駕していた。

だが、今回行ってみると、なんと彼はウェイターに復帰しているではないか。調理場にはまた別のコックが立っている。

「イラッシャイマセ」と、彼はいつにない笑顔で言った。あきらかに、「また来てくれましたね」とこちらを認識している雰囲気である。この店には通っていたものの、常連扱いを受けることはあまりなかったので、少しだけ驚きながら、僕は席に着いた(たぶん、このお兄さんがコックをやっていていそがしかったからなのだろう)。その日は暑かったので、煮込みを食う気にはなれず、今まで食べたことのなかった「トルコ風ピザ」を注文した。この店のメニューは基本均一1000円で、サラダ、スープ(日替わりで、これまたうまい! 正直どう説明したらいいかわからないが、非常にうまい)、エキメッキと呼ばれるトルコ風パン、メイン料理、デザートの「もちもちプリン(米が入った杏仁豆腐のような、それでいてもちもちした、表面を炙った、冷えた白いプリン)」、チャイ(インドのものとは違い、紅茶を濃厚に入れたもので、砂糖を入れると甘すぎず、苦すぎず、アクセントの効いた味になる)がでてくる。

トルコ風ピザもうまかった。ピザといっても、折りたたんだ形状で、スパイスの効いた肉がパンの間に挟まっている。軽食感は拭えないが、初めて食ったこともあってか、「うまい!」と脳内で連呼したほどである。

この店ではチャイがお代わりできる。僕はそれを知っていたので、プリンを食べ終わり、ゆっくりチャイを飲み終わっても、しばらく座っていた。するとお兄さんがやってきて、

「チャイのおかわり?」と言いながら、僕が返事をする前にチャイのグラスを持って行った。やっと、常連として認められたんだな、と少しだけ誇らしい気持ちになった。

今度は、新しいコックのイスケンデルケバブの腕前を見てやろうじゃないか。そう、僕はもう常連として認められたのだ。

などと、バカなことを考えている。

One on One

思えば、小学生の頃だったと思う。

当時の僕はなぜだかイギリスブームで(ハリーポッターやシャーロックホームズやアガサクリスティー、ドクターフーのせいだと思う)、とにかくイギリスのものだと言われればなんでも受容していた。大河ドラマの「篤姫」で生麦事件薩摩藩士にイギリス人が殺傷される事件、冷静に見れば、明らかにイギリス人側に非がある)をみて憤り、威風堂々を聞き、英語もブリティッシュな発音に憧れて、発音の真似事をしていた(そのせいで、今やブリティッシュな発音しかできなくなった)ときだった。

推理小説も、ファンタジー小説も(ハリーポッターナルニア国物語鏡の国のアリスライラの冒険指輪物語は小学生には分厚くて小さすぎた)イギリスを極め、イギリス国王をノルマンコンクェストのウィリアム1世征服王からエリザベス2世女王陛下まで暗記した時、次に進む道は一つしか残されていなかった。イギリスの音楽である。そうはいっても、うちがクラシック好きだったこともあり、ホルストエルガーはいくつか聞いていた(さっきも威風堂々のことを書いた)。では、他にどんな音楽かと言われればもう、ロックである。そうはいっても、母が好きだったクィーンは、小学生にはちょいとロックしすぎていた。丁度良い塩梅で、耳馴染みもあるもの、そうやってたどり着いたのがThe Beatlesであった、という次第である。

はじめはこんな具合に、くだらなすぎる理由で触れたわけだ。だが、赤盤、青盤から聞き始め、それを何周も何周もしているうちに、もっと聞きたいと思い始めた。そんな折、ニュースが流れる。The Beatlesの全アルバムがリマスター版になって再発売されるらしい! 僕は父親に頼み込み、クリスマスプレゼントにそのCDボックスをもらった。その頃から、僕はthe Beatlesを聞いていた。あまり聞かなかった時期ももちろんあったが、不思議なことに、少し聞いていないと、また戻って来たくなる魅力がthe Beatlesにはあったようである。

そうはいっても、the Beatlesなどこのご時世、古い音楽になっている。カナダに行った時なんか、カナダ人に「the Beatlesが好きなんだ」といえば、「クラシックだね」と言われ、同居人のイタリア人に「the Beatlesをよく聞くよ」といえば、「ああ、クラシックね。俺はあんまり好きじゃない」などと言われるほどである。高校時代の友人はボーカロイドが好きな人が多かったし、そうでなくても、ゆずや、いきものがかりBump of ChickenSEKAI NO OWARIの名前は出ても、the Beatlesとなるとみんな「ああ、英語でやるやつね」程度の感想しかない(不思議とQueen知名度がある)。高校の時、一人だけthe Beatlesがわかる友達がいたが、クラスがバラバラになってからはそんなに話さなかった。

 

それが、である。大学に入るとなぜだか、周りにうじゃうじゃと、わいたかのようにthe Beatlesファンがいる。面白いもんだな、と思ったし、周りのほうが明らかに詳しい。海賊版を漁る友人、コピーバンドをやる友人と、ありとあらゆるのがいる。そんな環境の変化で、またちゃんと聞こう、と僕の推定第四次the Beatlesブームが始まった次第であった。

月日を経て聞いてみると、趣味趣向も変わっているようで、小・中学性の頃は退屈だと思っていた初期作品(Please Please Me、With the Beatles、Hard Days Night、Beatles for sale)が気に入っていることに気づいた。もしかすると、最後の方のアルバムはかつて何周も何周も聞いていたため、逆におざなりにしていた初期アルバムが新鮮に聞こえたのかもしれない。だが、それ以上に、ギターの音が心揺さぶり、ハモりがカラッと響いたからだと思う。

そんなこんなで、旅先には初期作品だけを入れた古いiPodを持って行くのが慣例となった。イタリアでも、タイでも、カナダでも、台湾でも、ヴェトナムでも、カンボジアでも、若かりし日のthe Beatlesは旅のお供だった(途中から、the Animalsというthe Beatlesの同世代バンドも気に入って、旅のお供に新バンドが加わっている)。なぜだろう、初期のthe Beatlesの曲は、どの国の風景にもあっていた。あっていた、というか、風景に色を与えてくれていた。

 

そんな矢先、あるニュースが届く。

2016年度のNHK紅白歌合戦で、the Beatlesの一員だったポール・マッカートニーのビデオメッセージが移され、なんと、来日すると宣言したのだ。これは大ニュースだった。とはいえ、僕は諸事情により、お金を節約しなければいけなかった。しかも、ポールマッカートニーといえば大スターで、そう簡単にチケットは取れない。その上、僕はライヴというものに行ったことがなく、むしろCDでいいじゃん、とすら思っていた(だって、the Beatlesはどう頑張っても、もう存在しないからだ)。そういうわけで、僕は抽選に登録しなかったのだが、冬休みが終わって友達に会うと、みんな抽選に参加している。その中には、一昨年のポール来日に駆けつけた奴もいた。話を聞いていると、だんだん行きたくなってくる。そして結局、半ば煽られる形で抽選に登録したのだ。どうせ抽選には落ちるだろう、と少しばかり思いつつ。

しばらく経って抽選結果が出ると、なんと受かっている。しかも、チケットをもらってみるとアリーナ席である。かくして、僕はポール・マッカートニーの東京ドームライヴに行くことになったのだった。

 

あの日のことを、音楽評論家のようにいうことはできない。the Beatlesは聞いていても、ポールのもう一つのバンドthe Wingsに関しては、007の主題歌「死ぬのは奴らだ(Live and let die)」しか知らない始末で、ろくにセットリストがこうだなんていうこともできない。生でポールを見たのも初めてだから、今年のポールがどうこうということもできない。ただ言えるのは、幻のようだったということだけだ。

ポールのライヴは遅刻がいつものことだそうで、僕が席に着いたのも開演の18:30ちょうどくらいだった。アリーナ席とはいえ、舞台からは遠いので、よく舞台の見えない席だった。しばらくBGMとして流れてくるアレンジされたポールマッカートニーやthe Beatlesの曲に体を小刻みに揺らしていると、隣に座っている初老のおじさんが声をかけてきた。髪型はQueenブライアン・メイに似ていて、彼女はかなり年下だ。

「一度目の抽選でこの席だったんですか?」なんとまあ、テクニカルな質問である。とりあえず僕は、はい、と答えた。どうやら、おじさんの友人の中には、誤解も抽選したのに三回席の人がいるらしい。やはり、本物のファンは違う、と僕は自分の微妙な立ち位置を思って不安な気分になった。

「あなたぐらいの年でもポールマッカートニーやビートルズが好きになるんですね」とおじさんは言う。僕はまた、「はい」と答え、the Betalesが好きなんです、とwingsを聞いたことのないことをうまくごまかした。

「生でポールを見るのは初めて?」

「はい。」実は初めてのライヴだなんて言えない。

「ポールだとね、やっぱりthe Beatlesはこうだったのかな、っていうのがわかりますよ。リンゴはもうダメだね(笑)」リンゴというのは、the Beatlesのドラマーで、四人いたメンバーのうちもっとも「地味」と言われ、そして今でも生き残っているメンバーである。僕はリンゴが結構好きだし、カラオケでも、音域の関係でよく歌う。

「見た目も随分変わっちゃいましたからね」僕は答えた。リンゴは、昔は他のメンバーと同じくらいの髪の長さだったが、今や角刈り状態で、サングラスもかけており、なんとなくいかつくなってしまったのである。

「そうだね(笑)。髪の毛は伸ばしておいてほしいよね‥‥」

そのとき、会場がざわつき始め、アリーナは総立ちとなった。僕もとりあえずたち、ブライアン・メイも彼女と一緒に立ち上がった。すると遥か彼方の銀河系、ではなく、遥か彼方のステージにギターを持ったポール・マッカートニーが現れ、Hard Days Nightを歌い始めた。アリーナ席で、僕みたいな、そこそこのファンが盛り上がれるのか不安だったが、始まってしまうと、もう周りにのまれ、一体化してしまった。手を叩き、体を揺らし、ポールが手を振れば、こっちも手を振る、という次第である。

それにしても、こんなに不思議なことはなかった。ヴェトナムで、カナダで、イタリアで、小さな白いiPodから聞こえてきた音楽が、爆音で流れ、あの声の主がいま、ここで、自分の声で歌っていて、その声が聞こえている。「クラシックだね」と言われた音楽に、老若男女がダンスし、声を揃えて歌っている。いままで、the Beatlesは、一人で聞くものだった。それが、こうも、たくさんの人を巻き込むものだったとは。

そう、それでいて、きっと、ポールが歌を歌うたびに、この一つの東京ドームに集った五万人以上の人々の胸に蘇るものは、きっと違うのだろう。僕の前の席に立っていた一段は、ライヴが始まるまでは、ごく普通のおじさんおばさんだった。だが、始まると、まるで昔に戻ったように、踊り狂っている。しかも、テレビで見たことがあるような、ちょっと古いダンスの仕方で。音楽は時を超える、いや、音楽が時なのかもしれないと思った。平成の人は平成のやり方で、昭和の人は昭和のやり方で、それぞれの人がそれぞれの思い出とともに、目の前にいるポール・マッカートニーと一つになったのだ。

ライヴは3時間にわたり、ポールも3時間歌い続けた。僕らアリーナ席の住人は基本的に立ちっぱなしで、三時間一つになっていた。それだけに、ライヴが終わり、ポールが舞台からいなくなり、会場がパッと明るくなった時、僕たちはなんだか、幻を見ていたような気分になった。「終わっちゃった」という気持ちもあったが、それ以上に、一体なんだったんだろう、という気分があった。それは、悪い意味ではない。子供の頃ディズニーランドで遊び倒し、夜もふけて、そして舞浜駅から電車に乗った時の、「あれ、なんだったんだろう」という感覚である。僕は気の抜けた風船のような面持ちで電車に揺られ、多摩地方へと帰宅した。

 

「全然違うでしょ?」と隣のブライアン・メイが、ライヴの終わりに言ったのを思い出した。

「全然違います!」と僕は確か答えた。それはたしかに、CDでは得られない経験だった。だが、CDがなければ得られない経験だった。そうか、みんながライヴはいいっていうのは、こういうことだったんだな、と気づいた。

街が生きる(神楽坂)

最近、よく神楽坂にいる。毎週日曜日、飯田橋でちょっとした用事があって、それが終わるとちょうど昼の時間になるから、昼を食うには手ごろなのが神楽坂なのだ。何の因果か、飯田橋に通うようになって二回中二回、天気にも恵まれている。それに、これまた何の因果か、日曜日の夜に両日共に予定が入っていたので、時間を潰す必要があった。つまり、散歩をするのに最高の条件が整っていたってわけだ。

神楽坂は、JR飯田橋駅の西口を出たすぐのところにある。大正時代くらいから栄えていたようだ。日曜の昼は、坂全体を歩行者天国にしていて、大勢の観光客などが行き来をしている。それから、この坂の隣には東京理科大があるせいか、学生街のような雰囲気もある。スタバやドトールが軒を連ねる一方で、入ったことはないが、カレーと謎のトルコライスなるものを売る「トレド」という喫茶店のような食堂のような店もある。その一方で、何やら和菓子のようなものを売っている土産物屋もたくさんあった。

以前来た時、私はこの「大通り」の部分しか知らなかったと思う。だからその当時は、「確かに盛り上がっているけど、アメ横の方が面白い」と思ったものだった。どこか観光地の香りがし、日本の数ある観光化された道のうちの一つ、というようにしか思えなかった。だが、神楽坂の面白さは、一歩入った通りにある。

この前行った時、私は食事できる場所を探していて、ふと路地裏に迷い込んだ。するとどうだろう、迷路である。こちらに行くとどちらに行き、あちらに行くとどちらに行くのかよくわからない、狭い通りがあった。時折、こじんまりとしたカフェや、小料理屋のようなものがひっそりと立っていて、迷い込んできた旅人や、わざわざ探し求めてやってくる強者をじっと待っていた。ここのところ私はかなり金がないので、中に入る財力も勇気もなかったので、ひとまず通り過ぎながら、路地裏から路地裏へと歩いた。ひょっとすると、迷路みたいだと言われることの多いモロッコの街は、これをもっとハードにした感じなのかな、と思いつつ、私はひたすら歩いた。迷宮、というにはあまりにイージーだが、ただのまっすぐな道よりは楽しい。そして、もしかするとイージーだと思っているのは、私のまだ見ていない道がどこかにあるからかもしれないな、と思うとこの界隈をマスターしたくなってくる。

結局、その日の昼食は、坂をもっと上に行ったところにあった「魚串」の専門店にした。途中で、鳥の丸焼きを焼いている店や、南イタリア風のコロッケを売っている店があって、ここで買って食べ歩きもいいなと思ったのだが、若干高かったこともあり、一人でも入りやすそうでありかつ安めの「魚串」にした次第である。この店は、焼き鳥のように魚を串に刺して焼いて出している店(メザシなどの類ではない。魚の切り身に串を刺して焼いているのだ)で、どうやら神保町にも店を出しているのだという(事実、魚串を食った数時間後、神保町で発見した)。その「魚串専門店一号店」が神楽坂店であった。昼は三串の定食で780円、と割安だ。そして、味はというと、明らかに780円では普通は食えないだろうというくらいうまい。鮭は脂がのっていて、アジフライはジューシーだった。そしてどれも串に刺さっている。私は串に刺さったものが好きだ。串に刺さった肉、串に刺さったフルーツ、そして串に刺さった魚。今まで行ったところで私は必ず串ものを食っている。インターチェンジによれば、必ず牛串を食う。中身が同じでも、串刺しになっているだけで、5倍はうまそうに見えるし、6倍はうまく感じるのである。ここの店長も、同じような性分なのかもしれない。店長は真剣な眼差しで、一人、カウンターの向こうで魚を焼いていた。店員は若い女性が一人だけ働いていて、アルバイトなのかもしれないが、どこかその店に思い入れがありそうな感じもあった。メニューの表紙には、「小さいお店ですが、日本の文化にしたい」というようなことが書いてあって、なんとなく、その心意気はいいな、と思った。そんなこんなで、私は魚串定食を平らげた。ただし、アジフライが熱々だったので、口の中を火傷した、という話は秘密である。

神楽坂は、「生きている」。大通りは人で溢れ、「魚串」などという新進気鋭なものが生まれたりする。一方、ちょっと道をそれると、古い街並みが残り、石畳もあり、そしてその中に、新しくできたのであろうこじんまりとしたカフェと、古い小料理屋と、まあまあ古いカラオケ屋(どでかい看板に「カラオケ」と書かれているのを見た人もたくさんいるだろう)がある。街を行く人は、学生だったり、会社員だったり、そしてフランス人だったりする。近くにアンスティテュ・フランセ(フランス政府公認の機関でフランス語教室をやったりしている)やブリティッシュ・カウンシル(英国政府公認の機関で英語教室をやったりしている)があるせいか、国際色豊かな雰囲気も流れているようだ。特にフランス人は多くて、フランス語をしゃべる子供達が遊んでたりする。そのせいか、神楽坂の坂の上の方では、フランスっぽい音楽をスピーカーで流しているのだが、うーん、あれはやめたほうがいい。やるならアコーディオン奏者か何かを雇って路上でパフォーマンスして貰えばいいのに、と思う。とにかく、神楽坂は、よいい意味で混ざり合って空間である。そしてそれでいて、いや、それだから、「神楽坂」は「神楽坂」なのだ。時代を経て現在を生きる街、色々な文化が共存する街、それが、神楽坂なのかもしれない。ステレオタイプみたいな表現になってしまったが、何度か通ってみて、そう思ったのだから、しかたがない。

哲学者のアンリ・ベルクソンは、人が街で年を重ねるとき、街もまた年を重ねる、というようなことを言っていた。かつて私が神楽坂をそんなに面白くないなと思っていたけど、今はいい街だなと思うようになったのは、きっと私が少し変わり、それに伴い、目の前に開かれる街も変わったからだろう。また次に行くときには、かの街はどんな街になっているんだろうか。