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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

7都市目:バルセロナ(1)〜ピレネーを越えてゆけ〜

トゥールーズのやばいホテルを出たのは七時十五分くらいだったろうか。オーナーは部屋で寝ていたが、声をかけて鍵を返すと笑顔で、「Au revoir!(さようなら)」と言ってくれた。もしかするとそこまで悪いホテルはじゃあないのかもしれない。

駅の方向へと運河のような細い川沿いに歩き、トゥールーズに入った時初めて使った道に出た。これでフランスの旅も一旦終わり。少し感慨深い。駅に着いたのは七時四十分くらいだったが、朝食を買いたいので、わたしは朝食をチェーン店のパン屋ポールで調達した。

これが間違いだった。並んでおり、買えたのは八時くらいだったのだ。列車の時間はなんと八時六分。わたしはチケットに刻印をし、エスプレッソとサンドイッチを手に駅構内を走った。途中でエスプレッソがこぼれたのでゴミ箱に捨て、なんとかホームに着いたときは八時五分。これはもうおしまいだ、と思いながら、何とかして車両に入った。危なかった、と思って時計を見ると八時六分をすぎている。これはどういうことだ?と思ったら、車内放送で、

「この列車は遅れて発車いたします」という。おかげで助かったわけだが、いきなりスペインの洗礼を受けたという感じだ。

今回は一等席だった。それというのも、二等席が満員だったらしく、10ユーロ払えば一等車の予約ができると言われ、そうしたからだった。これもトゥールーズでの節約生活の一つの理由だった。一等車は静かで、アメリカ人の老夫婦のグループがいる。スペイン語も聞こえてくるが、基本的には静かである。子供が泣くわ、みんな喋るわだった二等車とは大きな違いだ。間違いない、わたしは二等車の方が好きだ。

二十分ほどだっただろうか。TGVは動き始めた。ピレネーを直接超えるのではなく、もう一度カルカソンヌやベジエなどのオクシタニアの街方へと引き返し、地中海のそばまで戻って南下して、山の横にあるペルピニャンを通って、山脈を超える。そして、晴れてカタルーニャに入るわけだ。

バルセロナは近年の観光客集中で宿が足りていないらしい。宿探しが大変そうだ。だからわたしは、列車に乗りながら、ネットでホテルを予約することにした。調べてみると案の定立地の良いところは満員が多いが、一箇所、手頃な値段でかつ、メインストリートだというランブラス通りからすぐ入ったところにあるホテルを見つけた。あまり治安の良い界隈ではないようだが、ランブラス通りよりなのでトゥールーズの例のホテルよりはマシなはずだ。調べてみると学生寮を貸し出しているという。それなら安心もできる。わたしはネット上でホテルを予約した。ラクな時代になったものである。

電車は地中海沿いの場所まで引き返し、南下を開始した。窓の外には幻想的な水の景色が広がる。地中海か、湖か。それは実はわからない。それからフランス側のカタルーニャの中心地(カタルーニャ語をしゃべっているらしい。恐るべし、陸続き)のペルピニャンを超えて、いよいよピレネー山脈を超える。山の横を通るはいえ、やはり山がちな光景だ。しばらくしてトンネルに入った。

国境のトンネルを越えると、そこはイベリア半島だった。とは言っても見た目はよくわからない。緑色の山に囲まれた、牧歌的な風景が広がるだけだ。ポンポーンという電子音と共に車内アナウンスがなった。

「Proxima estacion, Figueres」

あ。フランス語じゃない。まぎれもないスペイン語だ。先ほどまではフランス語、スペイン語、英語の順だったものが、スペイン語、フランス語、英語の順に変化した。スペインに入ったのである。いや、スペインに入ったというと問題発言になりかねない。少なくともわたしは今、イベリア半島カタルーニャに入ったのだ。

 

カタルーニャ入りした日にはそんなこと考えもしなかったが、一ヶ月半後の2017年10月1日、カタルーニャ自治州で「独立を問う国民投票」が行われた。カタルーニャ自治州は、プッチダモン自治州首相の下、特に最近独立運動を激化させている。独自の大統領を持ち、独自の議会を持つ自治州であるカタルーニャがそこまでスペイン王国からの独立を望むのはなぜか。一つは経済的な要因であり、それは観光業などで潤うカタルーニャの税金が財政難のマドリード政府の方へと取られて行く現状に腹を立てたから、という。だがもう一つは、根深い反マドリード感情がある。彼らはスペイン語ことカスティーリャ語とは異なるカタルーニャ語を話し、歴史もマドリードを中心とする現スペイン王国とは異なるものを歩んできた。にもかかわらず併合された過去を持つカタルーニャはある種不満を持って当然なのである。

カタルーニャ語は、カスティーリャ語スペイン語)やポルトガル語などの「イベリア・ロマンス語」と違い、むしろフランス語、もっと言えば南仏でかつて話されていたオック語と系統を同じくしている。分かりやすい例で言えば、「〜ください」という時に(英語で言えばPleaseに当たる言葉)、カスティーリャ語では¡Por favor!(ポルファボル!)といい、ポルトガル語ではPor favor!(プルファヴォール)という。しかし、カタルーニャ語では、Si us plau!(スィスプラゥ!)で、むしろフランス語のS'il vous plaît(シルヴプレ)に似ている。ちなみにオック語はSe vos plai(セボスプライ)だそうだ。

どうして、ピレネーの向こう側なのに、こんなことが起こるのか。それは歴史を見れば一目瞭然である。

時は中世。スペインの南半分は北アフリカからやってきたイスラーム王朝ウマイヤ朝が治めていた。ウマイヤ朝の軍隊は一度ピレネー山脈を超えて攻め込んだこともあったが、フランク王国はこれを撃退、ピレネーの南にイスラーム勢力を封じ込めた(いわゆる「トゥール・ポワティエ間の戦い」である)。ウマイヤ朝の侵攻の前、スペインは西ゴート王国が支配していたが、ウマイヤ朝の猛攻の前に国家は崩壊し、北部アストゥリアス地方でゲリラ戦を展開しながら抵抗したゴート貴族のペラーヨが作ったアストゥリアス王国が残るのみであった。フランク王国はそんなスペイン北部、それもアストゥリアス王国のある北西部とは反対側の北東部に進出したのである。

フランク王はスペイン北部を「スペイン辺境伯領」とし、そこに幾人かの「伯爵(グラーフ)」を置いた。そのうちの一人がバルセロナを治めるバルセロナ伯爵だった。歴代のバルセロナ伯爵は徐々に勢力を拡大、いつしかスペイン辺境伯領のほぼ全土を治めるようになる。さらにイスラーム勢力との戦いで武功を挙げ、名誉の死を遂げるものもいた。そのうちの一人は、駆けつけたフランク王に看取られ、その時王は4本の指を血に浸し、バルセロナ伯爵の持っていた金色の盾に縦線を描き、その武功をたたえたという。金地に赤の4本線は、今でもバルセロナ、ひいてはカタルーニャのシンボルだ。

だが、フランク王国の時代は長く続かない。フランク王国は相続の関係上三つに分かれ、スペイン辺境伯領は西フランク王国(のちのフランス王国)の配下となるが、代々国王を輩出してきたカロリング家が断絶してしまうのだ。カペー家のユーグ・カペーが国王に選出されると、予てからフランクの支配下にあり続けることに不満を持っていたバルセロナ伯爵は、ユーグ・カペーの王位を承認せず、事実上独立を果たす。当時のイベリア半島は群雄割拠の時代である。南のイスラーム王朝があるのはもちろん、アストゥリアス王国は首都をレオンに移し、レオン王国と名乗りイベリア半島北西を中心に勢力を拡大していた。また、ピレネー山脈西部には、この土地にローマ時代から住み、独自の言語、独自の文化を持つバスク人たちの国であるナバラ王国があった。

1004年、ナバラ王国でサンチョ3世が即位。彼はナバラ王国と婚姻関係にある諸国を次々と併合。バルセロナ伯領も例外ではなく、臣下にくだらざるをえなくなる。サンチョ3世は、1034年にはレオン王国を武力的に併合、レオン王となるや否や、「イスパニア皇帝」を名乗り、スペイン北部を統一して見せた。が、翌年1035年、サンチョは急死、イベリアは戦国の世に逆戻りする。その中で新たに生まれたのがスペイン中部を拠点とするアラゴン王国だった。さらに、レオン王国内部では有力貴族カスティーリャ伯爵が台頭、ついにはレオン王国を軍門に降らせ、レオン王国全土を乗っ取り、カスティーリャ王国が誕生する。この情勢の変化の中で、バルセロナ伯領はアラゴン王国との友好を図って行くことになる。そして1137年、時のアラゴン国王レミロ2世には男子が生まれず、娘ペトロニーナが一人娘だった。レミロは俗世から離れ、聖職者になることを望んでいたが、当時は強大な軍事力を持つカスティーリャ王国が勢力を拡大する時代であり、この状況で娘に王位を継がせるのは危険と判断した。そこでレミロはバルセロナ伯爵であるラモン・バランゲー4世と娘を結婚させることを考えた。そして、それぞれの国政は変えぬまま合同する「同君連合」を築こうというのだ。バルセロナ伯爵もこれをのみ、ここにアラゴン連合王国が誕生する。

その後アラゴン連合王国はメキメキ力を伸ばして行く。

ペラ2世は軍事に秀で、イスラーム勢力との戦いに身を投じ、ローマ教皇インノケンティウス3世と同盟した。その戦いの中でも有名なラス・ナバス・デ・トロサの戦いでは当時イベリアを支配していたムワッヒド朝に大打撃を与えることに成功し、カタルーニャの南、バレンシア地方の一部を獲得した。一方で親族であったトゥールーズ伯爵レーモン6世(覚えておられるだろうか?)に味方し、アルビジョア十字軍に対抗、一時優勢となったが、その戦いの中でペラ2世自身が戦死してしまう。次のジャウマ1世は教皇と和解、さらにマヨルカ島などを含む島々の王位を手にし、ペラ2世が始めたバレンシア制服の完成へと導いた。このころから、アラゴン連合王国は海の覇者となってゆく。それはバルセロナという良港をもっているためでもあり、さらにイベリア半島カスティーリャ王国が勢力を固めていたこともあった。

その次のペラ3世の時、イタリアの南、シチリア半島で事件が起こる。かつてシチリアはドイツを中心とする神聖ローマ帝国皇帝の治める土地だった。イスラーム文化やオリエントの文化とヨーロッパ文化の交差点であったシチリア島は開かれた空気を持っており、シチリア出身の皇帝フェデリコ2世は教皇庁と対立、その後の代でもその対立は続いた。教皇は自分の息のかかった人物をシチリア島の王位につけようと画策し、フランス王家のシャルル・ダンジューに白羽の矢を立てた。だがこのシャルル、かなりの野心家であった。王位につくや否や、支配層をフランス人に限定して強権的な支配を行い、密かに東のキリスト教の大国ビザンツ帝国の併合を目論む。これに恐れをなしたビザンツ帝国は、地中海の新興国アラゴン連合王国に目をつけた。ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスはペラ3世と同盟し、シチリア島でフランス人支配に反発した民衆が暴動を起こすと突如シチリア島を攻撃し、シチリア島からシャルルを追い出し、ペラ3世はシチリア王位を手に入れた。その後、アラゴン連合王国はシャルルの子孫が治めていたナポリまでも手にし、イベリア半島東部、地中海の島々、シチリア島イタリア半島南部と、西地中海の覇者に躍り出る。

一方、イベリア半島では「レコンキスタ(国土回復運動)」がカスティーリャ王国の下進行中であった。カスティーリャから独立したポルトガル王国なども共に、南を支配するイスラーム王朝と対決し、徐々に徐々に南へ、南へと領土を広げていた。特にペラ2世が活躍したラス・ナバス・デ・トロサの戦い以降はものすごいスピードで各地のイスラーム王国(タイファ)が降伏、1400年代後半には南の端にあるグラナダ王国ただ一つを残すのみとなっていた。

ここにきてカスティーリャ王国アラゴン連合王国は、それぞれの制度を残した同君連合という形で国を統合することにする。カスティーリャのイサベル女王とアラゴンのフェラン2世が結婚し、二人がこのスペインの王となった。そして1492年、ついにグラナダ王国が降伏、ついにレコンキスタが完了した。その後、両王国はそれぞれの制度を尊重しつつ、共存してゆく。イサベルとフェランの死後、一人娘フアナの夫でオーストリアハプスブルク家出身のフィリップが王位につくも、急死。精神錯乱となったフアナの摂政となった息子のカルロスがスペイン王位についた。このカルロスはカール5世としてその後ドイツやオーストリアを治める神聖ローマ帝国皇帝としても即位、さらにさらにコロンブスによる新大陸発見以降のめまぐるしい征服活動により、スペインは中南米、スペイン、ポルトガル、イタリア南部、地中海の島、オーストリア、ドイツ、ベネルクスを支配することになった。次の代のフェリペ2世の時代には、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるようになる。この時代も、カタルーニャは自国の制度を守り、カタルーニャ語で政治を行っていた。

ことが変わるのは、1700年にスペイン王カルロス2世が死去した時だった。子供のいないカルロスは次の王位をフランス王家ブルボン家のフィリップに譲ると宣言して死去。これに対してハプスブルク家のカールが反発した。

この一件を裏で手を引いていたのはブルボン朝フランス第三代国王ルイ14世である。彼は太陽王と呼ばれ、フランス王国の黄金期を築き上げた国王だった。国内では王自らが政治を行う親政を敷き、所領を持つ貴族たちがそれぞれの領土を経営する封建制度ではなく、国王に忠誠を誓う官僚が中央で政治を行い、各地を支配する体制を築いた。軍隊に来ても、国王の軍が全国を支配していた。ルイ14世は国内の統制を行うと、国外の侵略を目指すようになる。その中で神聖ローマ帝国領土だったアルザス地方の割譲などを行わせるが、スペイン王国にも目をつけるようになる。カルロス2世に次王をブルボン家のフィリップにさせたのも、その戦略のうちだった。

さて、この事態にハプスブルク家カール大公以外に危機感を感じる人たちがいた。それは、他でもないアラゴン連合王国であり、カタルーニャだった。もし、スペイン王国ブルボン家のものになれば、フランス同様貴族の特権は奪われ、国は一つにされる。今までは共同統治という形で権利が守られてきた誇り高いアラゴン連合王国ブルボン朝の下、滅ぼされてしまうのではないか。ハプスブルク家ブルボン家が戦争状態に入ると、同じ危機感を覚えるポルトガルがフランスの拡大に危機感を覚えるイギリスと共にハプスブルク側につき、1705年にカール大公を奉じてバルセロナを占領。カタルーニャはこれを機にブルボン朝に反旗を翻し、ハプスブルク側についた。この戦いはヨーロッパ全土、さらにはインドや北アメリカまで波及してゆく。世に言うスペイン継承戦争である。

カール大公はバルセロナを本拠地とし、バルセロナは最後まで街を守りきった。さらに一度はマドリードを落としている。だが国際情勢は厳しかった。ヨーロッパではフランス優位であり、カール大公が皇帝となるとイギリスはハプスブルク家の拡大に危機感をみせて和平を探るようになる。そして1714年にユトレヒト条約が結ばれるとこの戦争は「終結」した。ただ一つ、カタルーニャを除いては。バルセロナバレンシアなどを失いながらもなんとか持ちこたえ続け、ブルボン朝スペインは包囲を解かない。しびれを切らしたフランス王国は援軍を派遣。その圧倒的な軍事力の前に、ついに1714年9月11日、バルセロナは陥落した。スペイン王国カタルーニャに対して、公的な場でのカタルーニャ語の禁止、自治権の停止を含む「新組織王令」を突きつけ、カタルーニャはここに独立を失った。9月11日は、屈辱の日として、カタルーニャの人々の心に刻まれている。

それからは苦難の時代だった。カタルーニャナバラバスク)とともに経済的な成功を収め、自治権を要求。だがブルボン朝カタルーニャ自治権を認めず、時代は18世紀終わりのフランス革命の時代へとうつってゆく。旧体制との戦いを繰り広げたナポレオンは、ブルボン家が治るスペインとも交戦し、ついに占領する。革命後の共和国派が地方言語を迫害したのに対し、フランスのナポレオンと戦って、その中でスペイン流の改革を志したスペインの共和国派はカタルーニャなどと行動を共にし、中央集権から地方分権を目指した。結局ブルボン朝がスペインでは返り咲き、その夢は潰える。だが、1868年、時の女王イサベル2世が追放の憂き目に会い、イタリアから呼び寄せたアマデオ王が自国に戻ると共和制が発足。カタルーニャも自治州となり発言権を手に入れた。が、さらなる力を求めようとした一部カタルーニャなど自治州の人々の反乱で共和国は倒れ、王政に戻る。その後はまたカタルーニャ自治権は無くなったが、自治権を要求するための地方政党リーガを結成、カタルーニャ語は禁止されていたものの、サッカースタジアム、カンプ・ノウのなかでカタルーニャ語は守り抜いた。バルセロナサッカーの熱気は、失われた祖国への思いでもあるのだ。そして1930年に第2共和制が発足すると、再び自治権を要求した。左派政権はこれを認めたが、右派からは大きな不評を買うことになる。この左派と右派の軋轢はついに内戦となり、スペイン内戦が起こる。

1939年にスペイン全土を右派軍事政権であるフランコ政権が制圧すると、「Si ères español, habla español(スペイン人ならスペイン語を話せ)」のモットーの下、カタルーニャ語を含む地域語は激しく迫害された。その迫害の規模はかつてないものであった。学校でカタルーニャ語を使用しようものなら、懲罰を食らったという。かつてナバラ王国が栄えたバスク地方では、この動きに抵抗し、スペインからの分離独立を求める過激派勢力ETAが結成され、中央政府へのテロも行われた。その一方、フランコ政権は第二次世界大戦ナチスが倒れるや、アメリカに接近。観光国として発展を遂げてゆく。

1975年フランコが死んだ。フランコの遺言通りブルボン朝のフアンカルロスが王位についた。フアンカルロス王はなんと民主化を宣言。スペインは、カタルーニャバスクなどを「自治州」とし、大きな自治権を与える「自治州国家」となる。カタルーニャ語の学校教育も晴れて認められた。バルセロナを中心とするカタルーニャ自治州の経済規模は首都マドリードと張り合えるほどであった。新たなるスタートを切ったスペイン王国だったが、2000年代に入ると、リーマンショックギリシア危機のあおりを受けて失業率が増加、財政難に陥った。これに不満を持ったのがカタルーニャだった。独自の経済を持ち、さらに近年、19世紀後半から20世紀にかけて活躍したカタルーニャ出身の建築家ガウディ人気、サッカーチームのバルサ人気などで勢いづいたバルセロナ観光ブームが巻き起こり、富を得たカタルーニャが、なぜか、かつて自分達を無理やり支配し、しかも歴史的に見れば全く違う国だった、財政難にあえぐスペイン王国に税金を払わねばならないのか! そんな中、カタルーニャ自治州の政権は独立派が担うようになり、ついに2017年、自治州首相プッチダモンが独立を問う国民投票を決行したというわけだ。結果はご存知の通り、中央政府による閉鎖などもあったこともあり投票率は40パーセントほどで、賛成派が9割を超えている。カタルーニャ中央政府との交渉のために二ヶ月間独立宣言を凍結し(凍結ということは解凍もできるということだろう)ているが、政府は交渉に応じていない。

さて、600年代から現在まで駆け抜けてしまったので歴史パートがかなり長くなってしまったが、これはカタルーニャという土地を知って欲しかったからだ。カタルーニャフランク王国の家臣からスタートし、一度は地中海の半分を支配した。それがスペイン継承戦争で併合され、フランコ政権では自分の言葉を禁止された。現在の独立運動や彼らの誇りはそんな歴史に裏打ちされている。だからこそ、歴史を知らねばならない。歴史を不完全な知識ながら書かねば、バルセロナの旅を書いたことにもできなかった。

 

さて、バルセロナ・サンツ駅に到着して驚いたのは、フランスのように地上に普通に到着するのではなく、地下に到着することである。地下にあることもあり、プラットフォームは異常に暑い。表示を見ると、一番目立つところにあるのはやはり、カタルーニャ語だった。ひとまず地上を目指す。

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地上に出ると、駅がかなり巨大であるのに気づく。フランスの駅の規模というのは、ずいぶん小さかったみたいだ。わたしは「M(地下鉄)」のマークを見つけ、降りて行った。ホテルはメインストリートのランブラス通りにある「リセウ駅」のすぐそばにとったので、地下鉄で向かうことにしたのだ。初めての「スペイン」で、スリに少しおびえながらチケットを買い、足早に地下鉄のホームへと向かった。

地下鉄のホームは蒸し暑い。久しぶりの地下鉄だ。パリなどとは違って、なぜか駅の線路の向こう側にモニターがあって、「改札はちゃんと出入りしましょう」という動画を流している。電車がやってきたので、リュックを体の前に持ってきて乗りこんだ。放送もやっぱり、「カタルーニャ語スペイン語、英語」の順番だ。ここは、スペインではなく、カタルーニャなのだなと思った。広告も何もかも、カタルーニャ語しか見ない。

リセウ駅までは、サンツから青色の線に乗って、U字状の路線を行く。明らかに遠回りな気がするが、仕方ない。違う雰囲気、違う言語。ついにイベリア半島か、とわたしは少しテンションを上げた。

リセウ駅から地上に出ると、そこはすぐにランブラス通りだ。事前情報も何もなく通りに出てみると、広い通りの真ん中に、歩行者用の道があり、それの周りには並木がある。暑いが、海風のせいか湿気もあり、風が気持ち良い。ランブラス通りの木々はまるで新緑のような、明るい緑色をしていた……とはいいつつも、スリに気をつけつつ、私はおめあてのホテルのある通りに入った。

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その通りの前には客引きがおり、これはまずいところに来ちまったかなと思ったが、工事現場用の足場で覆われた学生寮は、外見はともかく中は清潔そうである。

「Hola!(こんにちは)」と声をかけてみたら、通じた。当たり前だが、Bonjourではない新鮮さをかみしめる。といっても、これ以上は無理なので、英語で予約してあると伝えた。フロントのおばさんは不思議そうな顔をしている。どうやら、直前に予約したために、紙には印刷されていないようなのだ。パソコンからわたしのデータを見つけたおばさんは鍵を出し、外に出るときは鍵を返してくれと伝えた。

「Gracias!(ありがとうございます)」と伝えて、わたしはエレベーターで四階にある部屋へ向かった。一応カタルーニャ語のつもりなのだが、この辺はカスティーリャ語と同じなので困る。

部屋は適度に狭く、ちょうどよかった。黒を基調としたシックな部屋で、きちんとテレビもある。テレビはその国の文化を見る窓。ここに来て見られてよかった。

顔を洗い、レストランの当たりをつけ、わたしは外に出ることにした。

(続く)

6都市目:トゥールーズ(3)〜バラ色の意味〜

エスキロル広場をまっすぐ歩くと、トゥールーズに流れるガロンヌ川にたどり着く。川面は日光を受けて輝き、川の向こう岸にはドームのある建物と観覧車が見える。暑さのせいか少しぼやけていて、太陽のせいで真っ暗な影のように見える。

わたしは新しい街に行くと、川を見たくなる。エジプトはナイル川の賜物で、文明は川から始まる。その街に流れる川とは、その街を作り上げたもの。だから川を見つめることが、街を見つめることでもある……などと、格好つけたことを言ってみても、意味がない。わたしが川に行きたいのは、単純に気持ちが良いからだ。川の風、流れる水。街中ではわからない世界の広さを川が教えてくれる。そんな広さを感じながら川辺を歩くのは気持ちが良い。細い川でも水の流れが良い。それを見つめていると、何か答えを与えてくれるような気がする。

川辺の道路から、降り坂を下りて行くと、公園のようになっており、老若男女が川辺の穏やかな時間を楽しんでいる。芝生にはたくさんの人が寝っ転がっている。わたしもやってみたくなって、芝生のところまで行くと、空いている場所に寝っ転がってみた。が、太陽が眩しすぎる。ホテルを急いで出たため、サングラスを置いてきてしまった。仕方がないのでわたしは起き上がって、芝生に腰掛けた態勢でいることにした。

「Bateau! Bateau!(船だー、船だよー!)」

どこからか男の子の声がする。川には観光船がいて、たくさんの観光客を乗せていた。川幅は広く、船が二隻は通れそうだ。あの船はどこまで行くんだろう。船は、あの小さい子にとっても、ロマンの塊なのだろうか。船は男のロマンだ。

わたしはふとバンコクのことを思い出した。かつてバンコクに行った時、友達がダウンして、わたし一人で歩いていたことがある。あの時わたしは川の船着場を見つけ、舟に乗った。どこに行くのかもわからない舟だった。時間はたっぷりある、どこにでも行けばいい。きっとなんとかなるだろう。そう踏んでいた。しかし、行き先は対岸にあるワットアルンという寺院だった。少しがっかりしたが、川を渡るときは気持ちがよく、寺院も良い雰囲気だった。

また乗ろうか。だが、今は倹約中。節約が、何か成長を促してくれるんじゃないかと貧乏旅行をしてみたが、思い返すと、節約が明らかに制約にもなっている。わたしは乗らなかった。ただ、川を見つめて時間を潰した。

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夏の川辺は笑顔が絶えない。わたしは立ち上がり、ひとり坂を登って街へと戻った。時間はまだまだある。わたしはもう一度ローマ通りの方へと向かった。

相変わらず賑わっている。入るべき店があるわけでもないので、ストリートミュージシャンの音楽を聴いたり、路地に入ってみたりした。路地裏には、何やら博物館があった。だが、閉館時間が近い。入るのはやめて、道という名の博物館にい続けることにした。

五時くらいになって、もう一度ホテルに戻ることにした。パソコンが無事かどうか確認しておきたかったからだ。エスキロル広場を川の反対方向に、アルザスロレーヌ通りという歩行者天国風の通りを進んだ。レンガ色のオーギュスタン美術館が道の隣にはある。道の真ん中には平たい円柱型のベンチがあり、並木がある。ローマ通りのように、ここもトゥールーズ人の生活の中心なのだろう。途中でベンチに座ったりしながら街を歩くと、ゆったりとしたトゥールーズの空気感を感じた。するとキャピトル広場が目の前に現れた。

先ほどは気づかなかったが、キャピトル広場の地面にはオクシタン十字が描かれている。こうやって街を歩くとわかる。ここは間違いなくパリとは違う場所なのだと。ここはトゥールーズオクシタニアの首都である。

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オクシタン十字架。カタリ派結集の象徴であり、ラングドックの紋章。https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Creu_occitana_amb_fons.svgより。

なんとなくまだ歩き足りない気がして違う道に入ってみた。しばらく歩くと小規模な広場がある。それを超えると、再び川辺についた。対岸への橋に近い場所で、眼下に先ほどまでいた岸が見える。上から見ると、川はより輝いていた。男女がゆっくりと散歩し、街が生きている。そろそろ、ホテルに戻ってもいいなと思った。

キャピトル広場を通り、ウィルソン広場まで引き返し、ジャンジョレス大通りをまっすぐ進んで、わたしは例のホテルに戻った。相変わらずホテルにオーナーの姿はない。喫煙席のような臭いの二階へ上り、真っ暗な廊下から部屋に入った。相変わらず臭いが、何もとられたいなさそうだ。案外悪くないホテルかもしれない。

ベットに座ったが、ベッドもかなり臭く、仮眠しようという気分にはならない。かと言って何もすることもないので、明日のバルセロナの情報収集などをして時間を潰した。

 

七時くらいになって、わたしは外に出ることにした。フランスのレストランが開く時間だ。そろそろカスレを食いに行こう。

外はまだ明るい。フランスの夏の日没は九時だ。あまり治安が良くなさそうなので、九時にホテルに戻ってこれれば良い。そう思いながら、わたしはエスキロル広場を目指した。

この時間ともなると、レストランPère Léonも混んでいる。相変わらずどうしたらいいのかわからないので、店内に入り、一人ですと告げたが、ウェイターが来る様子もないので、テラス席に勝手に座った。中に何人か人がいたはずなのに、テラス席のあたりは一人のウェイターが回している。隣の席の赤ちゃんが皿を割ったり、新規の客の応対をしたり、それに応対するだけでも目が回りそうだ。わたしのところにはなかなか来ない。どうしたら良いかわからずずっとウェイターを見ていると、やっと気づいたようで、メニューを持ってきた。

カスレは20ユーロ。仕方ない。このための倹約だ。昨日までならワインでも頼んだろうが、今日のわたしは節約の鬼。水で結構だ。また大変な時間をかけてウェイターを呼び出し、注文を伝えた。はじめはぶっきらぼうだったが、単純に忙しいのだろう。笑顔を見せたら自然な笑顔で応対してくれた。

まるで最後の晩餐のイエスのようにパンと水だけでアペロしながら、目の前にあるバス停の人間模様を見ていた。先ほど話しかけてきた青い服の女性は、別の青い服の人と話している。市営のボランティアか何かなんだろう。明日には老人が座っていて、隣に座っているノースリーブの女性に少しずつにじり寄っている。日本じゃ犯罪である。

「ボナペティ(召し上がれ)」とウェイターがカスレを持ってきた。カスレというのは、カッソールという土鍋で焼き上げるからカスレらしい。だからわたしのオーダーしたものも、土鍋に入っている。一人分とは思えない量の素朴な色のカスレを、わざわざ取り皿に入れて食べる。一口食べて見て驚いた。ものすごくうまい。ちょっと塩辛いなと思うくらいの塩加減、そしてよく聞いた鴨肉の出汁。白インゲン豆はホクホクで、鴨のコンフィはほろほろで、オクシタニアでしか作られていないソーセージは濃厚、スプーンが止まらない。

と、調子に乗って食べていると、3分の2くらい食ったところで満腹になる。くるしいが、アジア人と思って舐められちゃ困る。それにうまいのである。この辺でしか作られていないという特別なソーセージも、鴨肉のコンフィも、だし汁も。わたしは懸命に食べきった。

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「デザートはいかがですか?」と店員が尋ねてきた。

「いえ、もうお腹いっぱいなので、コーヒーをください」とわたしは伝えた。たいていのコーヒーにはクッキーが付いており、デザートということにもできるし、コーヒーを頼むのは常套手段だ。だが今回は、本気でお腹がいっぱいだった。

しかし不思議なもので、エスプレッソコーヒーを飲むとパンパンの腹も落ち着きを取り戻す。わたしはクッキーもちゃっかり食べて、大満足のうちにトゥールーズの1日を終えた。最近面倒でチップというものを払っていなかったが(安心してほしい、ヨーロッパでは平気なのだ)、今回ばかしは少し払って、店を出た。

帰りがけにキャピトル広場に行くと、日はもう暮れかけていて、いわゆる「マジックアワー」の時間帯であった。夜の紺と夕暮れの赤が混ざり合い、空は薄い紫色に染まっている。わたしは日が落ちる前にホテルに着きたかったので少し焦っていたが、広場を見たときハッとした。薄紫色の空とトゥールーズのレンガが合わさると、確かに「バラ色」になっていたのである。トゥールーズは「バラ色の街」と呼ばれる。今になって、バラ色の意味がわかった。

街にはそれぞれ、最も美しくなる瞬間があると思う。それは一昨年、去年くらいからの持論であり、例えば、ローマは夜、台北も夜、バンコクは日の落ち始めた頃のオレンジ色の夕暮れ、ヴェトナムの街は朝になる。それはその街が最も美しく、最もうまくその個性を発揮しているときだ。トゥールーズは夕暮れだろう。バンコクとは違って薄い紫色の夕暮れだ。

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さて、ホテルに戻ると、太陽は落ちようとしていた。案の定何事もなく臭い部屋に入り、寝ることにした。シャワーもどこにあるのかよくわからないし、1日ぐらいシャワーを浴びなくても生きて行けるだろうと踏んで、すぐに寝ることに決めた。歯を磨き、なぜだか蛇口から出てくる七、八十度はありそうな熱湯(おそらく別室のシャワーと連動している。ストラスブールでも自分の部屋のシャワーと連動して、大変だった)でなんとか口をゆすぎ、顔はウェットティッシュで拭うと、貴重品袋から明日の列車のチケットを取り出した。

「TOULOUSE MATABIAU→BARCELONA SANTZ」

ついに、ピレネー山脈を超えるのだ。ついに、初めての、そしてわたしの家族の中でも初の「スペイン」入りをするのだ。胸を躍らせながら、わたしはタバコ臭いベッドに入り、眠った。

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6都市目:トゥールーズ(2)〜カスレクエストと理系のロマン〜

できるだけ先ほどのホームレスのいるところを避けながら、わたしは街の中心部へと戻った。何だか暑い。泊まる場所があんな感じだと少し元気もなくなるもののようだ。

三時にランチ場所が空いているのかよくわからないので、ウィルソン広場のハンバーガーショップ「Quick」に入ってみた。フランスで安くて美味しい店はないかとフランスに語学留学していた友達に聞いたところ、ここがいいと言っていたからだ。食券機のようなものでオーダーするというのは聞いていたので、モニターをいじってみたが、使い勝手が悪い。悪戦苦闘しながらチーズバーガーとポテトとミニッツメイドのセットを注文していると、おばあさんがやって来て何やら聞いてくる。何を言っているのかわからないので、すみません、英語は話せますか?と尋ねると、メガジャイアントを頼むのかと聞いてくる。私は違うものを頼む予定だったので、違うと答えた。するとおばあさんはどこかに去って行った。

機械に支払おうとしたが、支払いはカウンターらしい。カウンターに近づくと、お姉さんが馬鹿でかい声で数字を叫んでいる。しかし残念ながらフランス語の数字はマスターしきれていない。困っているとさっきのおばあさんだ。あなたじゃないのと指を指す。あまりにもQuickすぎるなと思ったが、案の定わたしのオーダーだった。明らかにめんどくさそうな表情のお姉さんに支払って、わたしはテーブルについた。

ハンバーガーはヨーロピアンサイズなのかと思いきや、思いのほか小さい。ポテトはべろんべろんで、パテはペタッとしていて、チーズはかなりのチーズ味。嫌いな人は嫌いそうだが、わたしは嫌いじゃない。チーズバーガーを喰らっていると、先ほどのおばあさんが前の席に座ってハンバーガーを食べ始めた。そういえばわたしの友人もディジョンのQuickでおじいさんと交流したと言っていた。そういうのもいいだろう。それに、わたしにはこの街で土地の人と喋りたい理由があった。

トゥールーズは山に囲まれていて、鹿やカモなどのジビエ料理が有名だ。中でも、鴨のコンフィ(平たくいえば素揚げ)を、ソーセージや白インゲン豆の煮込みに乗せて、さらにオーブンで焼いた「カスレ」という料理は名物である。わたしはこの料理をテレビのフランス語講座で知って、そのあと鎌倉のレストランで食べ、大好きになった。フランス料理屋を舞台にした近藤史女神のミステリ小説『タルト・タタンの夢』にもカスレが出て来て、読んでいるそばからお腹が空いたのを覚えている。トルコのイスケンデルケバブといい、ヴェトナムのフォーといい、インドのラムカレーといい、わたしは肉を煮込んだ料理に目がないらしい。とにかく、トゥールーズに来たからには、これを食べずにはいられなかったが、どこで食べられるのかすら知らなかった。だから現地人の人の協力が不可欠だったのである。

わたしは、トゥールーズ人を「Toulousain」というのを思い出し、勇気を振り絞っておばあさんに話しかけてみた。

「Vous êtes Toulousaine?(トゥールーズの方ですか?)」

「ええ、そうよ。ずっと住んでいるわ。あなたは?」おっと、カスレの話に持って行く前に世間話になってしまったが、まあいいだろう。

「日本からです」

「どれくらいヨーロッパに住んでいるの?」なぜかヨーロッパに住んでいる設定になってしまった。

「これはヴァカンスなので、一ヶ月です」

「仕事?あ、それとも大学?」おばあさんは聞く。

「えーっと、ヴァカンスです」

「家族がヨーロッパにいるの?」

「いえ、そういうわけでは」

「一人で旅行?」

「ええ、まあ、そういうところですね」

「あら!」このあと知ることになるが、ヨーロッパ人にとってひとり旅は結構驚きのようだ。これは意外だった。

「日本のどこ?」おばあさんは続けた。

「東京です」

「あらま、じゃあ、大都市ね。大都市には慣れてるのね。トゥールーズはそんなに大きくないですけどね、フランスでは大きい方よ。スペイン語はできる?」とおばあさんが聞く。きっとわたしのフランス語があまりに不自由だったからだろう。面白いのは、スペインにもほど近く、歴史的にもカタルーニャと関係の深かったトゥールーズでは、「英語<スペイン語」だということだ。正直いうと、フランス語の方ができる。スペイン語はまだ半年しかやっていないのだ。だが、なんだか嘘がつけず、

「えーっと、Un poco, un poquito(少しだけですけど)」と答えた。

「Tokyo es muy grande, grandioso, ¿no?」東京は大きいというような意味だ。うん、フランス語の時にもう聞き取れているし、スペイン語の方がきついのである。

「Si(西:はい)」と一応答え、わたしはおめあてのカスレの話を聞くことにした。「Eh, Où on peut manger de bon cassoulet?(仏:えーっと、どこで美味しいカスレは食べられますか?)」

「ああ、カスレが食べたいのね。たくさんあるけど…」おばあさんは少し悩んで、「Père Léonは美味しかったわ」と答えた。わたしはツーリストインフォメーションで手に入れた地図を取り出して、書いてくれというような仕草をした。おばあさんはあまり目が良くないらしく、今どこかと尋ねた。ウィルソン広場を指差すと、こっちの方、といいながら、「Esquirolにあるわ」といった。指差したところのそばには、「Esquille」という通りがあったので、ここかなと思った。記憶が曖昧になっている可能性もある。その通りはかなりこじんまりしているので、すごく小さな店なのだろう、などと色々と想像しながら説明を聞いた。

おばあさんと別れると、わたしはお盆を片付けて、Quickを出た。一応、その店がある通りに行ってみよう。それに、きちんとキャピトル広場も見ておきたいではないか。

ウィルソン広場を抜けて、ツーリストインフォメーションのある別の広場に入り、さらに進むとキャピトル広場がある。赤茶けた建物に真四角に囲まれた広場は直射日光をもろに受けている。美しさの本領を発揮するのは、きっと日暮れの後だ。だが、ホテルの立地から考えるに、あんまり長居はできない。広場は今は暖炉のようだ。しかしそれでも、この広場の持つ風格はある。この広場ができるかなり昔だと思うが、この街はかつてトロサと呼ばれ一国の首都であった。西ローマ帝国が弱体した後にフランスの南半分からイベリアを支配した西ゴート王国の首都だ。今の感覚でいうと、ポルトガル、スペイン、南仏は一つの国で、その首都がピレネー山脈を隔てたトゥールーズにあったわけだ。わたしは広場をしばらく眺めた。キャピトルというから、広場でひときわ目立つのは市庁舎。フランスの旗とEUの旗にならんで、赤地に刀のように鋭く尖った金の十字架の紋がある旗がなびいている。かつてはカタリ派結集のマーク、今ではオクシタニアの旗だ。広場の端っこでは、観光用の電車がちんちんいいながら走っている。わたしは路地に入って街を散策しつつ、例のカスレ店を見つけることにした。

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トゥールーズに来て驚くことは、全てが赤茶けていることだ。人はこれをバラ色というらしいが、やはり赤茶けている。限りなく赤に近い赤茶色のレンガで建物のほとんど全部が作られており、どこを歩いても赤茶けている。まるで異世界のようだ。フランスでは、ほとんどが白っぽい街なので珍しい。

レンガの壁に貼ってある標識は、ニ言語表記だ。前回触れたように、トゥールーズを中心地とするオクシタニアはかつてフランス語ではなく、オック語圏であった。もう話している人は少ないというが、一応尊重するという形で標識にはオック語が載っている(と、フランス人は言っていたのだが調べてみると絶滅危惧にはなっていないようだ)。時には、オック語だけのものもある。フランス語よりも、マルセイユの方でかつて話されていたプロヴァンス語や、ピレネー山脈を超えた向こう側にあるカタルーニャカタルーニャ語に近いと聞いたことがあるが、標識を見ればなんとなくわかる。

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上の「リュ・パガミニエール」がフランス語で、下の「カりエラ・パガミニエラス」がオック語だ。カタカナにしてみると、どことなくイベリア半島のかほりがする。他にもVをBの同じ音で発音するなど、イベリア半島の言語に近いところがある。オック語はアルビジョア十字軍のあと、フランス王国による悪名高き「ヴィレル・コトレの勅令」で公的な立場から追放され、民衆の言葉になった。フランス革命後、伝統や文化よりも理性と平等を重んじるジャコバン派政権はフランスの方言追放運動を開始、さらに第三共和制フランスは1881年オック語の学校教育は禁止された。第三共和制という政権もまた、フランスを共和国の理念と平等な市民という考え方で統一しようとしていた。フランスはEU加盟後も言語政策を改めようとはしなかったが、一応二言語表記はあるようだ。

赤茶けた街を歩く。すると教会があった。ずいぶんでかい。そしてこの教会も赤茶けている。周りにある土産屋には、オクシタニアの十字架を掲げた旗も多い、かつては南仏の象徴、今ではお土産というわけだ。しばらく歩くとお目当ての店のあるはずの「Esquille通り」があった。さあ、どんな店なんだろう、と道を歩くと、驚くほどに何もない。ただ一軒インド料理屋があるだけだ。これはおかしい。もしや、潰れてインド料理屋になったのではないか。

仕方あるまい。私は「Esquille通り」を抜けて、散策を続けた。赤レンガで彩られた道を歩き、迷路のような街を進む。どこも同じ色で、どこも暖炉みたいだ。しばらくすると、ジャコバン修道院という大きな修道院があった。レンガでできた素朴で巨大な建物だ。ジャコバン修道院といえば、その「パリ支店」とも言えるような修道院を拠点に勢力を拡大したのが、ここトゥールーズオック語を潰した張本人ジャコバン派政権だ。皮肉な話である。暑いし、せっかくなので入ろうかと思って行ってみると、どうやらしまっている。まあ仕方あるまい。

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その建物を離れると、向かいのレンガの建物の大きな扉の前に「Lycée Collège Pière de Fermat(ピエール・ド・フェルマー中学・高校)」とある。中高一貫校だろうか。学校にしては重厚すぎる。学校の名前になっているピエール・ド・フェルマーといえば、17世紀の有名な数学者として知られている(座標を発明したデカルトや当時数学者のパトロンであり、自らも数論の研究をしたメルセンヌ神父と同時代人)。

フェルマーは特に「フェルマーの最終定理(大定理)」で有名だ。フェルマーは元々このトゥールーズの法律家だった。どうやらトゥールーズは法学で有名だったようだ(今でもトゥールーズ大学は有名で、世界中から留学生が来る。だからアジア人もよく見かける)。当時法律家というと、かなり高い地位にあり、貴族の仕事でもあった。あの頃の貴族の嗜みは、武術やギャンブルに加えて、数学である。そのためフェルマーも数学にはまり込み、自分で難題を考え出しては自分で証明し、その難題を証明部分をカットした状態で他の著名な数学者に送りつけ、「解いてみろ」と挑発することを趣味としていた。かなり、嫌われたようである。だが彼の素養は大したもので、手元には膨大な数の定理があった。フェルマーの死後、息子が父親の残した定理をまとめ、数学者たちはその証明に取り組んだ。ほとんどすべては証明が完成し、フェルマーの業績も世に認められるようになったが、たった一つ、証明されなかった定理がある。それが、「フェルマーの最終定理」だった。

おそらくみなさんも高校で学んだであろう「三平方の定理」というものがある。あれは直角三角形の底辺の二乗と高さの二乗を足したものは、斜辺の二乗に等しくなるという定理だった。これはつまり、ある数を二乗し、別の数を二乗し、その二つを足すと、また別の数の二乗に等しくなるような三組の整数が存在するということでもある。例えば、(3, 4, 5)の三つは有名だ。3×3=9、4×4=16、9+16=25、25=5×5。他にもいくつか存在するが、まあみなさん暇であれば試していただければと思う。フェルマーはいう。これを、二乗ではなく、三乗にしてみたらどうか、と。するとある数の三乗と別の数の三乗を足したらまた別の数の三乗になる、という関係が成り立つ三組の整数は存在しない。そこからフェルマーは、二乗以外では、こういう関係が成り立つ三組の整数は存在しないと導き出したのだ。そのことをフェルマー古代ギリシアディオファントスという数学者の書物の余白に落書きのように書き残し、こう続けた。

「私はこのことに関する驚くべき証明を発見したが、この余白には小さすぎて書ききれない」

この謎めいた一種のダイイングメッセージから、数多くの数学者を巻き込んだ、「フェルマーの最終定理」証明レースがスタートする。オイラーガウスなどの時代を超えた大数学者たちの努力もむなしく、この証明レースに見事回答が与えられるのは、フェルマーの死後、実に330年後の1995年5月のことである。最新の数学を使い、イギリス人のアンドリュー・ワイルズが、日本人数学者谷村豊と志村五郎の予想を証明する形で、フェルマー最終定理の証明を完成させたのだ。この話はスリリングかつドラマの詰まった熱い歴史物語だが、そのスタート地点となったのも、実はこのトゥールーズであった。

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トゥールーズには、もう一つ理系な話がある。それは、この街がESA、ヨーロッパ宇宙機関の街であるということだ。米ソ冷戦時代、二大勢力の宇宙開発に対抗するべく出来上がったのが、ヨーロッパ共同のESAだ。フランスはその前から、フランス国立宇宙センター(CNES)を立ち上げ、冷戦の中でフランスは独自路線を行くというシャルル・ド・ゴール大統領の政策の下、トゥールーズで研究を行っていた。それもあってか、トゥールーズはヨーロッパ宇宙研究の中心地になった。ここには、UFOの研究所もあるとかないとか言われている。

さらに、トゥールーズという町には新取の気質があるのか、フランス航空機の中心地もある。例えば、数多くの飛行機の機体を作っているエアバス社はトゥールーズに拠点を置いているし、パイロットであり作家でもあり、『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリトゥールーズで航空機の教官をしていたことがあった。彼は、『人間の大地』という小説の中で、フランスの海外への航空郵便の拠点としてトゥールーズを描いているのである。これもまた、アルビジョワ十字軍や西ゴート王国とは違うトゥールーズの一面でもある。

フェルマー高校を抜け、狭い路地を歩くと、ケバブ屋や寿司屋が並ぶ界隈があった。さすがは大学街。世界中の人が集まる場でもあるのだろう。その道を歩いていたら、いつの間にかキャピトル広場に戻ってきていた。暑かったのでキャピトル広場をちょっとぶらついてから、裏のツーリストインフォメーションのある広場へと向かい、そこでオレンジジュースを買うことにした。初めて来た時から、フレッシュなオレンジジュース屋があるのが見えていて、気になっていたのだ。一番並んでいそうな店に行き、ジュースを買う。カップの大きさで値段が変わるらしい。少し高いが、私は3ユーロのものを選んだ。青空のもとベンチに座り、ジュースを飲むと甘くてうまい。さて、どこを歩いてきたんだろう。ふとそう思って、私は地図を広げた。

すると、なんということだろう。おばあさんと言っていたカスレ屋のある「Esquirol」が全く別のところにあるじゃないか。かなり南の方に、どでかい通りがあり、そこに「Esquirol広場」とある。そうか、こっちなのか。私は笑い出したい気分だったが、ここで笑い出すと狂人になってしまうので、ひとまずジュースを飲んだ。

キャピトル広場から伸びるローマ通りをなければ、エスキロル広場だ。ローマ通りは路地のような雰囲気があるが人がたくさんおり、ストリートミュージシャンが弾き語りをしている。それを道の反対側にいる人が聴いている。何と無く懐かしくなるような物哀しい旋律だ。始めて来た通りなのに、なんだか知っているような、雰囲気がある。

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石畳の賑わった通りをひたすらに歩くと、大きな通りに出た。どうみても通りだが、エスキロル広場。目の前にはバス停がある。バス停の向かいに大きなレストランがあったので名前を見ると「Père Léon」とある。地元のおばあさんのおすすめ、というイメージからは程遠い、こぎれいなカフェとレストランを合体させたような店だった。なるほど。少し高そうだが、夜はここで食べよう。

ホテルのそばまでバスとか出ていないだろうか、と、私はバス停の地図を見た。複雑でワケがわからなかったが、なんとか、これかなというものを見つけた。するとバス停にいた青いシャツを着た若い女性が声をかけてきた。フランス語でよくわからなかったので、少し眉をひそめると、

「お手伝いしましょうか?」と英語で尋ねた。

もうなんとなく帰り方はわかったので、「いいえ、ありがとうございます」と断って、その場を立ち去った。思えば、あのとき嘘でも尋ねてみればよかったのかもしれない。それが一時であっても、一つの出会いとなるのだから。だが、もしかすると、私には心の余裕が足りていなかったのかもしれないようだ。私はホテルとは逆方向にエスキロル「広場」を歩くことにした。その先には、川があった。

(続く)

6都市目:トゥールーズ(1)〜バラ色のやばい街〜

朝、バルコニーでしばらくニームの街を眺めた後で、私はトゥールーズへ向かうことにした。街歩きが片想いなら、去り際が大事である。次の街が待っている。階下に降りると、オーナーの奥さんと思しき人が座っていた。

「Merci, au revoir!(ありがとうございました、それでは)」と声をかけると、奥さんは笑顔で、

「Merci, bonne journée!(ありがとうございました。良い1日を!)」と答えた。

ホテルから駅までは1分とかからない。駅に着くとパン屋でパンとコーヒーを買い、目当てのTGVに乗り込んだ。ここ三日間の習慣になって来ている。朝起きて、駅に行き、パンとコーヒーを買う。慌しい朝だが、それでも続くと愛おしい生活である。

トゥールーズニームから西へと進んだ山がちなところにある。この街は「オクシタニア Occitanie」地方の中心地だ。日本では石鹸やら何やら売っている店の名前「ロクシタン」で有名だ。ちなみにあれは、l'occitane en provenceというが、オクシタンとプロヴァンスは全く違う地域なので、変な感じである。フランスでも見かけた店だから、きっと何か理由があるのだろう。

オクシタニアの、オクとは、オック語のことだ。そんな言語、聞いたことない人の方が多いだろう。これは、フランス革命まではフランスの南半分では普通に使われていた言語で、今話題のカタルーニャ語に近いとされている。そのため、この地域は古よりフランス王国に反抗する土地でもあった。フランスとは違うという意識があった。

 

時は11世紀。この土地は、カタリ派と呼ばれる人々の人口が多かった。カタリ派とは、当時のキリスト教の主流派(のちのカトリック。中心はローマ教皇庁)とは違う考えを持つキリスト教徒たちだ。彼らは、ローマ教皇庁の教えと対立しつつ力を伸ばしてきた古の異端グノーシス派に似た思想を持つ。彼らによると、この世界を作った神(創造主=デミウルゴス)は実は悪魔(サタン)だという。そのためこの世界は悪に染まっている。だからこの世界には救いはなく、悪に染まって生き、死んだらまたこの悪の世界に転生する。そこから離れるためには、厳しい修行の生活を送り、現世の世界から離れるしかない。カタリ派は、現世の世界の一切を堕落と切り捨てた。

カタリ派ローマ教皇庁に従わず、教皇庁は何度もカタリ派の人々を改心させようと迫ったが、無駄だった。これに対し、教皇庁はついにカタリ派を異端であるとし、禁止した。それでもオクシタニアの人々は改心を拒む。膠着状態が続くが、ついに教皇インノケンティウス三世の治世に教皇使節をオクシタニアに派遣。インノケンティウスは腐敗した教皇庁を綱紀粛正し、教皇庁に従わぬ勢力は力を持って制することも辞さない強硬派として知られている。その土地の領主の統治権を剥奪して、次々に破門した。しかし、この使節は暗殺されてしまう。それはカタリ派の仕業だけではなかった。

時の教皇フランス王国と近い立場にあり、フランス王国国王はフィリップ2世オーギュスト(尊厳王)というフランス王国の拡大に努めた人間だった。これに危機感を覚えたのが、南フランス一帯(=オクシタニア)を治めるトゥールーズ伯爵レーモン6世だ。共にフランス王国に敵対するイングランドリチャード一世ライオンハート獅子心王)と同盟を結び、フィリップオーギュストに対抗する構えを見せた。さらに、教皇庁の使節暗殺にも一枚噛んでいると言われる。それは、教皇庁フランス王国の影響下に入ることを嫌ったためであった。

この一件は、教皇インノケンティウス三世を怒らせた。教皇は、異端認定され禁止された人々を武力鎮圧することは「聖戦」であるとし、ヨーロッパ中の諸侯たちに十字軍結成の大号令を下した。世に言う、「アルビジョア十字軍」結成である。初めインノケンティウスはフィリップ二世に派兵を求めたが、イングランドとのいざこざもあり、フランス王国は断念。その代わり、シモン・ド・モンフォール が大将として参戦することになる。教皇庁及びフランス王国に反発するレーモン六世だったが、ここでは十字軍側につくことにした。十字軍は初め地中海にほど近いベジエを攻撃、占領し、住民を虐殺した。さらにカタリ派の中心地ラングドック地方(中心都市はトゥールーズ)に向けて進軍し、城塞都市カルカソンヌ世界遺産)を包囲。カルカソンヌが落ちると、住民は追放された。カルカソンヌ陥落の知らせは南仏に行き渡り、各地は降伏。十字軍は勝利を収めたと思われた。

だが、これに恐怖を覚えたのが、レーモン六世だ。十字軍指導者シモン・ド・モンフォールが南仏で力を伸ばし始めたことに危機感を覚えたのである。初めは教皇庁フランス王国に自分の地位を守ってもらおうと働きかけるが、信用されるはずもなく、ついには破門を言い渡された。背水の陣となったレーモンは、義兄弟であったフランスの南、現在のバルセロナを中心とするカタルーニャを本拠地とするアラゴン連合王国のペラ2世を味方につけ、反十字軍の戦いの狼煙を上げた。トゥールーズに立てこもるレーモンを十字軍は包囲。しかしトゥールーズの守りは堅く、落とせない。ところがそんなさなかに、ペラ2世が戦死してしまう。後ろ盾を失ったトゥールーズ伯爵にかつてほどの力はなかった。レーモン六世は息子と共にイングランドに亡命し、戦争はひとまず集結した。

しかし、トゥールーズの戦の歴史はまだ続く。トゥールーズ伯爵に変わってモンフォール家がついたオクシタンでは、その支配に不満を持つものが増えていた。「モンフォール家に変わって、俺がまた彼の地を治める!」レーモン6世とその息子レーモンはイングランドを脱出、一路南仏へと向かう。村人、かつての家臣たちは二人を歓迎し、オクシタン側の反撃が始まった。人心を掴むレーモンの軍隊はトゥールーズに入り、モンフォール軍に対する籠城戦を開始する。そのさなかシモン・ド・モンフォールは戦死。その後レーモン6世が死ぬと息子がレーモン7世としてトゥールーズ伯の地位につき、ついにカルカソンヌを奪回した。シモンの息子アモーリは街を捨て、逃走。南仏は再びトゥールーズ伯領となった。さらに、教会との和解にも成功している。

アモーリはフランスへと逃げ延びると、フィリップ2世の息子で当時国王として即位していたルイ8世聖王に南仏で書くとした領土の割譲を宣言する。要するに、ルイ8世は父の成し遂げなかった南仏を進行する大義名分を得たということだった。大量の軍勢でフランス軍は南仏を攻撃。戦いは小競り合いが続いたが、南仏は戦争に疲弊していた。レーモン7世は和睦を結び、屈辱的ながら、自分の娘をルイ8世の弟アルフォンソに嫁がせた。だがもちろん、それで諦めたわけではない。フランス王国に反発するイングランドや諸侯たちと同盟を組んで、反乱を決行。しかしこれは失敗に終わる。レーモンが失意のうちに病で無くなると、ここに独立したオクシタニアは滅亡。フランス王国支配下に入ったのだった。

 

 ニームからトゥールーズまでの列車は海岸線を通った。南仏の田園地帯を抜け、大学都市のモンペリエを過ぎると、右に湖、左に地中海という壮大な風景の広がる場所を抜けて行く。午前中のまだ眠そうな太陽が、水に光を反射させ、幻想的な雰囲気を作り出す。もしかすると、この区間はフランス一美しい車窓が望めるんじゃないか、と思えるくらいである。アルビジョア十字軍遠征の際に住民が大虐殺されたベジエまでくると、水の世界は、徐々に山の世界に変わる。ローマ時代に南仏の首都となったナルボンヌ、世界遺産にもなり、アルビジョア十字軍の戦いにおいて十字軍側の勝利と大敗北を物語った城塞都市カルカソンヌを抜け、おめあてのトゥールーズにたどり着いた。

トゥールーズはフランス第五の街と言われている。だから、リヨンを除けば、久しぶりの大都市だ。しかもリヨンはある程度は勝手知ったる街だったので、今回は初の見知らぬ大都市だった。風の噂で聞いたことだが、トゥールーズの駅前はかなりやばいらしい。世界で一番古い職業の方々が務める界隈が広がっていて、ハイになるお薬もあるという。面倒なので、私は地下鉄で市内中心部へと向かうことにした。が、その前に、列車の予約をしておこう。

明日はついにフランスを離れ、カタルーニャバルセロナへと入る。初スペインというと、怒られかねないので、「初カタルーニャ」「初イベリア半島」「初ピレネー山脈越え」だ。期待と不安が入り混じった気分だ。むわっと暑くてちょっとばかり治安の悪そうな駅のチケット売り場でチケットを手配した。アジア系の職員がいたり、売り場が長蛇の列だったりするのを見ると、やはりここは大都市なのだなと実感する(リヨンでは予約不要のTERを使ったので長蛇の列は意外と初体験)。チケットを見ると、はっきりと「BARCELONA SANTZ」の文字。そして、「SNCF(フランス国鉄)」の他に、「renfe(スペイン国鉄)」のマークが付いている。ついに来た。明日は、イベリア半島だ。

地下鉄に乗ろうと地下鉄売り場まで降りて行くと、封鎖されている。表示を見てみると、どうやら工事中らしい。これは困った。バスを探してみたが、よく分からない。わたしは、えい、こうなったら、と歩くことを決意した。できるだけ大通りを探し、街の中心部へと伸びるジャン・ジョレス通りをまっすぐ歩いた。ここの空気は乾いている。しかも日差しもきつい。そして相変わらずリュックは重い。面白いことに、ディジョンの時よりも軽く感じるのは、慣れてきているからなのだろう。歩いてみると以外と治安も悪くはなさそうだ。ただ、確かに、他の街に比べてわい雑な雰囲気は確かに存在する。

20分くらい歩くと、目の前に広場が現れた。トマ・ウィルソン大統領広場というらしい。そういえば同じ名前の公園がディジョンにもあった。第一次世界大戦中のアメリカ大統領で、国際連盟を提唱しておきながら、議会の反対にあってアメリカを加盟させられなかった大統領として有名だが、フランスでは大人気みたいだ。広場の真ん中には例によってメリーゴーラウンド。繁華街になっている。フランスに語学研修をしに行っていた友人のFくんから聞いたファストフード店Quickもある。今日の昼はここでいいか。そう思いつつ、私はさらに足を進め、中心部へと向かった。目的があった。それは、ツーリストインフォメーションを探し、ホテルを見つけることだった。

前日にニームで苦労していたので、苦労するとはわかっていたが、これが大変だった。広場で見つけた表示に従って、別の広場にやってきたはいいが、全くわからない。広場にはオレンジジュースを売る人がいて、いいな、うまそうだな、と思いながらも、やはりツーリストインフォメーションが見当たらないのでオレンジジュースはお預けだ。別のところか、と思い、その広場を超えて先に進むと、より大きな広場が現れた。トゥールーズ名物の真っ赤な建物が取り囲んでいる。有名なキャピトル広場だ。偶然見つけたのは嬉しいが、しかし、ツーリトインフォメーションが見当たらない。人に聞けばいいのだが、暑いし、荷物が重いしで、外国語を話す元気があまりない。ひとまずキャピトル広場の裏の広場に戻って椅子に座ると、子供達が噴水で遊んでいる。いい光景だな、と思い、ちらりとその横を見たら、古い塔の端に人だかりがある。なんと、それがツーリストインフォメーションだった。まったく、フランスの観光案内所はどうしてこうもわかりづらいのか。

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A4サイズにプリントアウトされたホテルリストを受け取り、ツーリストインフォメーションのそばのベンチに腰掛けた。見てみると34ユーロのホテルがある。ヨーロッパにしては格安だ。ランクを表す星が付いていないが、まあ良しとしよう。私は駅まで引き返し、そのホテルを当たることにした。

ジャン・ジャレス通りを遡り、少し路地に入ると、人通りが少なくなる。こんなところでも、建物は真っ赤である。レンガのせいなのだが、これが所以でトゥールーズはバラ色の街と言われることもある。美しいといえば美しいが、素朴な雰囲気もある。

ホテルのある通りはリケ通りというらしい。どこだろうと探していると、上半身裸のむきむきな男が毛布をはたいている。なんとなくやばい界隈に来た感じを感じ取りながら、ここでないといいなと思いつつ、街の表示を見てみると「Rue Riquet(リケ通り)」とある。これはやらかしたな。引き返そうかと思っていると、上半身裸の男が話しかけて来た。

「英語話せますか?」

普段なら無視するのだが、人もおらず、無視する機運を失っていた。

「ええ、少し」

「俺たちは路上で生活しています。もしよかったら、あなたがそうしたいならいくらか恵んでくれませんか?」男はやけに論理的かつ丁寧に笑顔でいう。その雰囲気もあったのか、私は少し悩んでしまった。

「2ユーロでも1ユーロでも構わないんです」彼はいう。わたしは、仕方ない、と1ユーロを渡した。その男は素直に喜び、一緒に暮らしているのであろう人たちとその喜びを噛み締めあっていた。わたしのしたことはよくないことかもしれないが、だがあんな雰囲気だと…難しい。とにかく言えるのは、わたしはやばい界隈に来てしまったということだ。そしてそんな出来事のせいで引き返すタイミングを失って、目当てにしていたホテルに入った。

ホテルに入るとロビーには人がいない。やはりやばいところなのかもしれない。だが、観光客のホテルリストに載ってるんだ、信じよう。わたしは呼び鈴を鳴らした。すると初老の男性がやって来た。

「空いてる部屋はありますか?」と聞いてみる。

「もちろんです。テレビ付きとテレビなしはどちらがよろしいですか?」とおじさんはしゃがれ声でいう。こうなったらもうテレビ無しで行こう。わたしはテレビなしを選んだ。34ユーロを払い、階段を上がると、なんとなく懐かしい匂いがする。確か幼馴染の家や、カラオケや、バンド練習用のスタジオの匂いだ。タバコである。もろそうで狭くて暗い廊下を歩くと、部屋があった。廊下が昼間なのに真っ暗なので、鍵を開けるのも一苦労だ。

扉を開けると、窓がない、ガランとしたタバコ臭い部屋に赤いベッドと、むき出しの水道と、ビデがある。トイレがむき出してあると監獄さながらだが、ビデなので、もしかすると、いわゆる「連れ込み宿」なのかもしれない。だがもうここに泊まるしかない。トイレと風呂は共同。なんならトイレをむき出しにして欲しかった。わたしは、「まいったな」と思いつつ、「まあこれも経験だ」と諦めた。人生、受け入れることが肝要だ。

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この薄暗く、臭い部屋にいつまでもいても仕方あるまい。わたしはリュックを念のため、ベッドの足にチェーンでグルグルとくくりつけ、外に繰り出すことにした。時間はもう三時。昼食時じゃないが、昼を買っていないので、食べに行こう。

く)

5都市目:ニーム〜羅馬人どもが夢の跡〜

アヴィニョンから近郊のニームまでは、在来線のTERでたったの30分で着く。ニームアヴィニョンの西にある。TERにはニームよりさらに西の一帯である「オクシタン地方」のマークが描かれており、フランス国鉄SNCF)のオクシタン部門が運行しているようだ。といっても中身は普通のTERであり、新幹線のような二人がけの席が並んでいる。窓からは太陽が燦々と降り注ぎ、かなり暑い。

ニームアヴィニョンの間には、有名なポン・デュ・ギャール(le Pont du Gard)という橋があるという。世界史を学んだ人ならば一度は聞いたことがあるだろう。この橋は、ただの橋ではない。水道橋といって、橋の上に水道管を通し、水源から街まで水を運ぶための橋である。今では利用されていないが、まだその形はしっかりとしている。作られたのは、今からなんと2000年前。そしてそれから600年の間現役だった古代ローマの遺物だ。

本当はこの橋を見たかったのだが、アヴィニョンからバスを使う必要がある。そしてまたバスでニームに移動することになるが、そのバスの本数が必ずしも多くはない。なんだか面倒になって、今回はパスしてしまった。早くニームの町に入っておきたかった。

ニーム駅は、アヴィニョン駅よりも格段にでかく、そして気温も格段に暑かった。私はバックパックを背負い、少し迷いながらなんとか出口のあるフロアーにたどり着き、国鉄のオフィスで明日の列車の予約をした。高速列車TGVを使うには、予約が必要なのである。

喉が乾きそうなので、自販機Selectaでミニッツメイドのオレンジジュースを買って、私は意気揚々と外に出た。太陽が暑い。この町のシンボルは、かつてローマ帝国がこの辺りを治めていた時の円形競技場。駅から歩いてすぐのはず……だったのだが、これがなかなか見当たらない。しばらく道を歩いて見て気づいた。なんと駅の逆の出口から出てしまったのだ。まあこんなものか、と思いながら私は駅に戻った。それにしても暑い。

正しい出口を出ると、広い、公園をそのまま道にしたような格好の遊歩道があった。脇には水が流れ、子供や大人が水に足をつけている。水、それこそローマ帝国の一つの動脈だった。そしてこのニームという街はローマの街が残っていることで有名な町である。水のせせらぎを聞きつつ、わたしは一度、ベンチに腰掛け、ツーリストインフォメーションの場所を確認しておいた。そこにたどり着けば、ホテルリストがある。それに従ってホテルを探そう。

再び遊歩道を歩き始め、突き当たりにある噴水を横目に左に曲がる。街の中心へと伸びる道はそちらにある。と、その時である。目の前に巨大な建物が現れた。それは、いわゆる円形闘技場(コロッセウム)だった。やっと見つけた。闘技場はローマのものよりもかなり保存状態が良さそうで、形も綺麗な円形だ。

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闘技場の周りにはレストランが並び、大規模なテラス席もあるが、どことなく落ち着いた雰囲気だ。夕食はここで食べたいとふと思った。ローマの歴史の名残を感じながら夕食というのはなんとも優雅でよろしいではないか。

闘技場の周りをぐるりと回ると大通りに出る。大通りはアヴィニョンに似た雰囲気で、街路樹が美しく、静かに時が流れている。だが日曜なので閑散としており、アイス屋にならぶ赤や青の毒々しい色の液体をかき混ぜる機械だけが寂しく回っている。時折テラスでは地元民がコーヒーを飲んでいるのが見える。

とにかく大通りをまっすぐ歩いていると、突如ひらけた場所に出る。道を挟んで左側にはガラス張りの建物。そして右側にはローマ帝国時代の神殿と思しきものあった。保存状態がものすごく良くて驚いたが、よく見ると柱が本堂にうもれている。再建されたレプリカだろう。それでも、入り口前の階段にたくさんの人が腰掛けている姿は、歴史がそのまま生きている光景であった。

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しばらく神殿のあたりにいてから、再びメインストリートに戻る。そのまままっすぐ行くと、そこには小さな公園があった。公園の真ん中にはローマ人の像が立っていて、韓国人と思しき観光客の女性が自撮りをしていた。ローマファンだろうか、話しかけてみようか、などとくだらないことを考えながら、像に近づいて見た。顔を見るとどうやら第十五代目ローマ帝国皇帝のアントニヌス・ピウスである。はたと思い出したのだが、確かアントニヌスの父親はフランス出身であった。ニースだと思い込んでいたが、ニームだったようだ。ローマ帝国の領土拡大政策をストップさせて、安定成長期を築き上げたハドリアヌスの跡を継ぎ、皇帝になったアントニヌスはその路線を維持しつつ、ローマ帝国の黄金期をもり立てた人物だ。地味だが、わたしは好きな皇帝の一人だった。ちなみに阿部寛主演の映画「テルマエロマエ」では、宍戸開が演じている。

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やはりこの街はローマの記憶が刻まれている。わたしはローマ帝国ファンなので気分を上げた。しかし、問題もあった。どうも、ツーリストインフォメーションが見当たらないのだ。神殿のそばだというが、何処なのだろう。わたしは別の道から公会堂方面に歩いて見た。

結論から言うと、ツーリストインフォメーションはその道にあった。だが、これは不親切だなと言う場所にひっそりとある。ツーリストインフォメーションなんだから、駅前とか、わかりやすいところにおいてほしいものだ。わたしは中に入り、ホテルリストをもらって、値段からあたりをつけた。どれも駅に近い。だから、なぜツーリストインフォメーションを駅にも置かないのか。困ったものである。

照りつける日の光の中、わたしは駅へと戻った。神殿、モダンな建物、テラス、アイス屋、レストラン街、コロッセウム。一番安くてコロッセウムの目の前にあるホテルは、「Complet(満員)」。残念無念。さらに駅前の遊歩道に戻り、駅の目の前にあるホテルアヴァロンに入って見る。アヴァロンというとアーサー王伝説に出てくるアーサー王が死に際して赴いた島の名前だが、フランスはおろかローマ帝国とも関係がない。まあいいか、ダメだったら隣のホテルセザール(=カエサル)にでも行こう。入ろうとすると、入り口の目の前でおじさんが掃除をしている。とりあえず声をかけて中に入ると、どうやらそのおじさんがオーナーのようで、わたしの後ろからやってきてカウンターに入った。

「Vous avez une chambre libre?(空いている部屋はありますか?)」

「Oui(はい)」

よかった。また歩かねばならないかと思う時が遠くなる思いだっただろう。宿泊料は60ユーロで、フロントは9時に閉まるらしい。いささか早いがまあいい。オーナーのフランス語の半分くらいしか聞き取れなかったが、なんとなくはわかる。わたしは案内された通りに狭い階段を登り、部屋に入った。ちょうどいい狭さの良い部屋だ。しかも、バルコニーまである。

部屋にはエアコンがあるはずはないので、かなりむわっとしている。扇風機のスイッチをONにして、わたしは汗だくになったシャツを脱いで、しばらく部屋で休憩することにした。テレビをつけてみる。CMでビートルズのAcross the Universeがかかっている。それにしても蒸し暑い。やはり南に来たのだ。わたしはそう実感した。

新しいシャツに着替えて、わたしはフロントで町の地図をもらった。どうやら、鍵は返さなくて良いようだ。

「Bonne journée!(良い1日を!)」と声をかけてくれたので、わたしはそのまま返し、太陽の降り注ぐ遊歩道に戻った。さて、どうしよう。まずは勿論、コロッセウムだ。

行ってみると、値段は10ユーロ。日本円で1300円くらいか。今思えば入っても良さそうだったが、この日は倹約志向だった。10ユーロというと昼食一食分、という判断がなぜか働き、またの機会に行こうと思ってしまった。本当に勿体無いことをしたと思う。あの時は、自分の使った費用の計算をして、初日も二日目も130ユーロ(=15000円)くらい使っていることが明るみに出て、最初の計算の100ユーロを超えていたことに焦っていたのだろう。焦って、大切なものを見逃してしまう。これから直して行かねばならぬのは、そう言った性向だ。

さて、コロッセウムを外から眺めながら、神殿へ向かう。神殿の正式名称は「Maison Carrée」で、「正方形堂」とでも訳せるだろう。そこは5ユーロだった。公会堂に入ってみると、係員の人が何やら、「シネマ・オンリー」と言っている。よくわからないがコロッセウムに入らないという選択をしたこともあって、なんとなくどこかに入りたかったのでとりあえず買うと、「10分後から入場です」という。きっとこの街に関する映画の上映をやるのだろう。わたしは近くのアイス屋で水を買った。本当にニームにはびっくりするほどたくさんのアイス屋がある。需要があるのはわかる。なにせあんなに暑いのだ。何も防ぐものがない上に、ローマ時代の景観に配慮してか建物や地面が白っぽいものだから、太陽の光が上からも、下からも来る。サングラスは欠かせない。

指定された時間に行くと、神殿の階段の上に列ができている。しばらくしてチケットのチェックがあり、中に入った。神殿の中は完全に劇場だった。なるほど、これは神殿観光ではないですよ、という意味での「シネマオンリー」か。わたしは腰をかけた。このニームという町の歴史についてのちょっとした紹介映画のようだ。

‥‥と、日本のビジターセンターのイメージでいたのが間違いであった。この映画、かなり良くできている。変なゆるキャラが、「ようこそ、ニームへ!」というのかと思いきや、いきなり神殿で祈る男が登場する。何かの儀式のようだ。そして、話は過去へと遡ってゆく……

 

ニームの歴史は、紀元前1世紀に始まる。

当時ローマに突きつけられていた問題は、ローマの北、今のドイツにいたゲルマン人の動きだった。ゲルマン人が突如西へと移動をし始めたのである。そのせいで影響を受けたのが、今のフランスに住んでいたケルト人だった。ケルト人からのSOSと、ローマ人の危機意識から、ローマは派兵することに決定。さらにローマは、これを機に、ライン川を防衛する代わりにフランスを自らの範囲内に入れることも狙っていた。ケルト人という、困ったときはSOSをするが、いざとなると敵対する民族がすぐ目と鼻の先のフランスにいるのが嫌だったからだ。その司令官として白羽の矢が立ったのは、当時ローマの中央政治に大きく関わっていたガイウス・ユリウス・カエサルだった。

ニームのある、当時の「ガリア・トランスアルピーナ(アルプスの向こう側のガリア)」はローマの支配下にはなかったが、ニームの首長はいち早くローマへの帰順を示した。映画でもそのシーンは出てくる。カエサルから直々にブレスレットを与えられるのである。ニームは泉の神を信仰する場であり、ニームケルト人たちはそれを誇りにしていた。映画の中では、神のお告げによって、ローマ側につくことを決めていた。ニームラテン語名は「ネマウスス」。泉の神の名前から取られているという。

カエサルケルト人部族の兵士と共に破竹の勢いで北へと登り、ゲルマン人をなんとかライン川の向こう側に押し込んだ。しかしこの戦争はこれだけでは終わらず、ゲルマン人の侵攻、さらにはローマ軍駐留を不名誉と捉えるケルト人部族による反乱、現在のイギリス(ブリタンニア)からの侵攻など多くの局面を経てゆく。ガリア戦争と呼ばれるこの戦争のクライマックスとも言えるのが、ケルト人の首長ウェルキンゲトリクスが起こした反乱だ。ウェルキンゲトリクスはフランス中のケルト人に、「ローマと戦え」という呼びかけを行い、かなりの部族がローマから離反、危機的状況に陥った。しかもこのとき将軍カエサルはイタリアに戻っていたのだ。カエサルはそのまま引き返し、一度は敗戦するものの、その後アレシア包囲戦に勝利し、反乱を鎮圧。これ以降フランスはローマ帝国支配下に入る。このときも、ニームはローマ側についた。

その後、フランス(ガリア)をカエサルが平定すると、カエサルはローマの政治体制の改革に挑んでゆく。カエサルの改革とは、貴族の集まりである元老院が力を握る政治にメスを入れるものであり、そのなかでフランス(ガリア)の首長を元老院議員にするという政策もあった。彼の改革は元老院の反感を買い、フランス平定後すぐに保守派軍人ポンペイウスとの内戦が始まる。これをカエサルはなんとか切り抜け、さらなる改革を推し進めてゆくことになるが、反感を抱く議員数名に暗殺される。後を継いだオクタウィアヌスは、カエサルの一番の部下アントニウスとの権力闘争に勝利し、紀元前27年、ついに元老院から「アウグストゥス(尊厳ある者)」という名前をもらい、さらに最高権力者である「皇帝」となり、カエサルの改革を完成させた。

さて、カエサルのフランス平定でカエサル側として戦ったネマウスス、つまりニームの街は、後継者アウグストゥスの手によって、「コローニア・アウグスタ・ネマウスス」として改称され、退役軍人たちが入植した。この街は、当時の南フランスであるガリア・ナルボネンシスの中心地として栄えることとなる。かつての泉の神を祀るところには巨大な塔が建てられた。そして、神殿が建てられ、ローマ式のコロッセウムも建造され、この街は急速にローマ風の都市に脱皮する。それゆえ、「フランス最古のローマ都市」と呼ばれているようだ。映画は、そんなネマウススの祭りに、かつての族長の子孫が市長として参加するところで終わっていた。

映画では描かれていなかったが、このニームのフルウィウス家は、その約150年後、皇帝を輩出することになる。これが先ほど述べたアントニヌス帝だ。彼はもともと軍人、元老院議員だったが、先代のハドリアヌスの後継者に選ばれ(紆余曲折あるが、その辺は漫画のテルマエ・ロマエを読んでいただければ、と)、皇帝になった。ハドリアヌスは対外戦争よりも国境防衛を重視したため、ハドリアヌスの前の代の皇帝で戦争がうまかったトラヤヌスの路線を気に入っていた元老院に嫌われていた。就任してすぐにトラヤヌス元老院議員4人を暗殺したせいもあるだろう。アントニヌスはそんなハドリアヌス帝の業績を元老院議員に認めさせるという大技を成し遂げ、「慈悲深い人(ピウス)」と呼ばれた。そんな皇帝も、ニームの街がなければ生まれなかったのだ。

 

 映画が終わり、私は神殿の外に出た。よくできた映画だったので、なんとなくいい気分である。それから地図に書かれている「ディアナの神殿」に行ってみることにした。先ほど立ち寄ったアントニヌスの公園からさらに歩く必要があったが、映画では泉で祈るケルト人のシーンがたくさん出てきていて、ディアナの神殿の方にその泉があるらしかったので是非行きたくなったのだ。

公園まで行くと、目的地のディアナの神殿があるより大きな公園まで、水路沿いの道があった。水路沿いに並木道がある雰囲気は、どことなく、カンボジアシェムリアップにも似ていなくはない。先ほどまで照りつける太陽を直に受けるような道にいたせいか、この道は見違えるほど気持ちがいい。太陽が緑に照りつけ、並木道は緑に輝いている。水路の水に反射した太陽は、この道がまるで本当に泉の精霊のいる場所に誘ってくれるようで幻想的だ。ここをゆっくりと歩いていると、やはりニームは、「泉の神」を祀る「水の町」なのだなと感じた。

それだけではない。この街は「公園の町」でもある。この水路沿いの道だって、駅前の遊歩道だって、どことなく公園を想起させる。それは気持ちの良い緑と、水のせせらぎだけではなく、道を歩く人の穏やかな表情と、遊ぶ子供達の笑顔のおかげだ。

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しばらく歩くと大きな噴水が現れる。それを超えると、大きな公園が出てくる。フランスではよく見るのだが、公園の門はやけに豪奢で、まるで宮殿のようだ。何か入場料でも取られるのかと身構えたが、無料だった。公園の砂利の広場には、案の定、メリーゴーラウンド。出店も出ていた。そこは、最近ではあまり触れることもなくなった、夏の記憶を宿していた。夏の香りがあった。楽しく、切ない夏の香りが。

公園には大きな池のようなものがあって、その池を越えた向こう側は小高くなっている。この辺りがネマウススの町の神聖な領域だったのだろう。そんな池の隣に、ローマ時代のものと思しき遺跡がある。間違いない。これがディアナの神殿だ。柵で囲われてはいるが、別に入場料も何もなく、見れるようだ。私は神殿に少しだけ一礼をして、神殿の遺跡に入った。

大部分が崩れ、草も伸びているディアナ神殿は、今にも崩れ落ちそうだったが、それでいて、どこか美しかった。今手にその威厳はある。そこには月の女神ディアナが宿っていそうな雰囲気がどことなくあった。中に入ると、薄暗く、ちょうどカンボジアのバイヨン遺跡で感じたような、静謐な神聖さを感じた。目をつぶって数分間座ってみたいという衝動に駆られたが、どうも場所がない。表に出れば、遺跡の以降に子供たちが座っている。かつてカンボジアの記事で書いたが、やはり遺跡であってもこれくらいの方が、生き生きとしたものを感じる。いくら、遺跡が死んでいようと、人がいて、馴染んでいるということが、遺跡を生かすのだ。私は再び遺跡の中に入ってみた。子供連れの父親が、何やら子供と話しながら、手をつないで廊下を歩いている。歴史と未来が交差していた。

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ディアナの神殿でしばらくゆっくりした後、かつて泉の神を祀っていたという場所で、今は古代ローマ時代に建てられた「トゥーラ・マグナ(大塔)」の方に行くことにした。池の周りにある階段を登り、それからは小高くなった丘を登って行く。途中で違う方向に行ってしまったが、なんとかたどり着いてみると、これがものすごかった。石でできた塔がそびえ立っている。今のものは再建されたものらしいが、それにしてもローマ人が2000年前にこんなにも高い塔を立てたというのはすごい。もちろん、彼らに技術があったのは知っている。だがそれにしても、あのそびえ立つ高い塔を見ると、圧倒されてしまう。初めは登るつもりはなかったが、登りたいと思うようになった。

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入場料は3ユーロ。映画より安い。これはもしかするとニームの穴場スポットかもしれぬ。塔の中には螺旋階段があり、少し前には家族連れがいた。そびえ立つ塔の何処までも続く螺旋階段。燃えてくる。わたしは早速登り始めた。塔は薄暗く、なんとなく冒険している気分になる。階段は徐々に狭くなってゆき、身の回りは徐々に古代中世の雰囲気になってゆく。段も徐々に急になり、最後にはまるで登山である。

登りきると、明るい場所にたどり着いた。ついに展望台なのだ。展望台、とは言ってもスカイツリーや東京タワーとは違う。なにせ古代の塔である。全面石造りだ。人が横並びにやっと二列入れる程度の幅の展望台には、何人かの観光客がいた。子供連れの男性が、目の前に広がる街を子供に見せていた。前の列の人が譲ってくれたので、風景がよく見えるところに出る。

思わず息をのんだ。森のようになっている、池のある先ほどの「フォンテーヌ公園」を挟んで向こう側に、一面赤い屋根とベージュの建物がずらりと並んでいた。それこそ、ニームの街であった。空は青く、日は降り注ぎ、街は素朴な色。

「アレーナ(コロッセウム)どこー?」と隣の家族の娘が言った。

「そうだなぁ、えーっと」と父親は困惑しながら、街をながめまわす。

「ほら、そこにパノラママップがあるわよ」と母親は、展望台に設置された地図を見つけ、それからコロッセウムの方を指差した。

一瞬見えなかったので、わたしも目を凝らしてみてみる。すると、建物たちに埋もれるような感じで、ちょっとだけコロッセウムのてっぺんが頭を出している。写真を貼るので皆さんも探してみていただけたら、と思う。

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再び階段を降り、塔の中に入る。塔の歴史の展示があったので読んでみた。この塔はアウグストゥス帝によるネマウススの植民の頃に建てられたという。この場所には泉の神の聖域があった。不思議なことに、この塔建立の由来は明らかではないらしい。ロマンがある。そしてこれはその後中世に再建されるが、このロマンある不思議な塔は人々の想像力を掻き立て続けた。かのノストラダムスヴィクトル・ユーゴーもこの塔について文を残しているという。

ありがとう、と受付の人に言って、わたしは外に出た。なかなか楽しい体験ができた。ヨーロッパの日暮れは夜の9時なので、まだまだ明るい。わたしは公園を散歩することにした。遊ぶ子供たち、熱く手を握り歩くカップルたち、寄り添って歩く老夫婦、そしてわたしのように一人で歩く人。この公園は人生でいっぱいだった。そして、それをローマの遺跡が見守る。こんなに良いところが他にあるだろうか。わたしは半日にしてニームという街が気に入った。

遺跡や公園だけではない。コロッセウムの周りの街並みは、今まで行ったどの街とも違う雰囲気があった。例えるなら、三谷幸喜の「マジックアワー」の町の雰囲気だ。まるでセットのような、美しく綺麗な町。道は大理石でできていて、建物はベージュ。店は日曜日なので軒並み閉まっているが空気感が良い。広場に出ると、どんなに小さな広場でもテラスが並んでいて、客が談笑しながら食べている。

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夕食はコロッセウムの目の前にある店で食べることになった。肉続きだったので、魚が食べたくなっていた。そしてその店ではサーモンを売っていた。だから、そこを選んだわけだ。

フランスの店の入り方というのは難しい。いまだに何が正解なのかわからない。店の中まで入って声をかけることが多いが、正直わからない。この時はウェイターの人に話しかけて見たら、ウェイターは忙しそうな顔をしながら席に案内した。

この時はフランス語にあまり自信がなく、使う元気もあまりなかったので、「英語は話せますか?」と聞いてみる。微妙そうである。まあ日本だってこんなもんだろう。何とかしてサーモンとビールを頼んだ。サーモンはこの日のオススメだったがメニューに載っていないので少々焦った。

8時半くらいになると、徐々に日が落ち始めた。日本語で言う「夕暮れ」とは、時刻が違いすぎて妙である。むしろこれは、まさしく、「黄昏」と言うべきだろう。そんな黄昏時のオレンジ色の光が古のコロッセウムに差し込んでいる。その風景はどことなく物悲しく、時代の流れを感じさせた。

サーモンは程よく脂が乗っていてうまかった。あいも変わらずフランス名物のフレンチフライがくっついてくるのには参ったが、ビールのつまみと思えば悪くない。アジア人が少なかったし、フランス語のできない外国人と認識されてしまったせいか、あまりウェイターが来てくれない。食後のコーヒーを頼むにも、会計を渡すにも。忙しさだけではなく、あきらかに「がいじん」として対応されている雰囲気があった。身から出た錆なのだが、少しだけ寂しかった。これからはもっとフランス語を使おう、これからはもっと愛想の良い表情でいよう、そう思った。

穏やかな風に吹かれながら、日の落ちかけた道を歩いてホテルへと向かった。途中の売店で水を買う。笑顔で挨拶をすると、なんでこいつは笑顔なんだと言う顔をされる。難しい。笑顔に頼るしかないのは、言葉ができないからだ。イタリア、カンボジアと、現地の言葉に頼る必要はないんじゃないかと言う結論に至ったが、ここに来てそれを撤回せざるを得なくなった。やはり、言語は大事なのだ。

ホテルに戻るとオーナーがいたので、挨拶をした。オーナーはにっこりと笑って挨拶を返した。少し気を取り直すことができた気がする。部屋に帰って、バルコニーに出て見た。目の前には駅があって、電車が行き来している。電車の音以外は静けさそのもの。。またいつか、この街に来たいと思った。もっとこの街のことを知りたくなった。そして、もっとこの街の人と交流したかった。時に冷たくされ、時に惚れ込み、そして再会を望む。旅とは、街に対する片想いなのかもしれない。

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これは翌朝のバルコニー

 

……などと馬鹿げたことを思っていないでもう寝よう。明日は朝の列車でフランス最後の街トゥールーズに出発だ。

4都市目:アヴィニョン〜グリーングリーン〜

9時20分の在来線TERで、わたしはフランス南部の都市アヴィニョンへと向かった。今までフランスというとパリとリヨンにしか行ったことがなく、リヨンより南に至っては通過したこともなかったから、初めての「南仏」であった。

車窓から見える風景は徐々に変化していた。パリからストラスブールへと向かう列車の中から見えたどこまでも続く緑の畑と小さな町も、ディジョンからリヨンへと向かう列車から見えたワイン用のぶどう畑も、そこにはもう存在しない。畑は徐々に小麦色に変わり、太陽はより大地に近づいてくる。北部の空はどこまでも高く、雲は大地を覆わんばかりに近かったのに、南部に来るとそんなダイナミックな空はない。雲は散り散り、晴天続き。少し赤茶けた青空がムワーッと空にある。ホールのチーズのような形をした藁の束が畑には転がっていた。それは、ゴッホの絵のような雰囲気だった。格好つけていっているわけではない。現にゴッホの拠点は南仏だった。

音楽を聴きながら電車に乗っていると、前に座っていた女性が、隣にいる若い女性に話しかけている。「ヴァカンスなの?」「そうなんです、ヴァカンスです」というようなことを言っている。前にいる女性とは席に着いた時に挨拶だけ交わしたが、もしかしたら話しかけたかったのかもしれない。すると、イヤフォンで音楽を聴くというのは、実は凄く失礼な行動だったのかもしれないな、とわたしは少しだけ反省した。

偶然にも、前にいる女性もアヴィニョンで降りた。わたしはその後に続いて駅に降りた。暑いんだろうと踏んで、ディジョンでは前のチャックまでぴっちりと締めていたコートを腰に巻き、眼鏡に装着できる形のサングラスを眼鏡にくっつけた。予想は大当たりである。暑い。突然夏に引き戻されたようだった。と言っても8月13日である。夏真っ盛りだ。

駅を出て、町の中心に向かって、人通りが多そうな方へと歩いて行くと、不意に目の前に巨大な城壁が現れた。分厚く、見張り台もある、立派な城壁。わたしは、これがアヴィニョンなんだと感心した。なぜなら、アヴィニョンにはかつて、城壁で守るべき人が住んでいたからである……

 

ことの起こりは1303年にさかのぼる。

当時フランス王国を治めていたのは、フィリップ四世、あだ名はル・ベル(イケメン王)。彼はフランス国王の力を強めるべく邁進した人だった。彼は、予てからボルドー一帯の「アキテーヌ(ギュイエンヌ)地方」に居座っているイングランド王国から、アキテーヌ地方を奪還するため、戦争を起こしていた。だが、戦況はあまり芳しくない。問題は戦費調達だった。そこでフィリップ国王が目をつけたのが、広大な領地を持ちながらも税金を一銭も払うつもりがない教会だった。教会は税金免除というのが慣例のところを、フィリップは教会から税金を取ると宣言したのである。

これにカンカンになったのが、時のローマ教皇ボニファティウス8世だ。彼は、弱まりつつあった教会の力を取り戻すことを目指し、陰謀によって先代教皇の精神を蝕んで生前退位に追い込み、教皇の位に上り詰めた男だ。ローマへの巡礼を義務化したり、今のバルセロナを中心とする海の覇者アラゴン連合王国からシチリア島を奪還しようとしたり、ローマの貴族でアラゴンと仲のいいコロンナ家を粛清したりと強行な政策を推し進め(教皇だけにね)、ローマの繁栄の最盛期を築き上げた彼に、フィリップ王の言い分が認められるはずはない。

教皇を敵には回せないので、フィリップは一度自分の祖父を聖人に認定してもらうことで手を打ったが、しばらくすると国内の貴族、平民、そして聖職者を集めた「全国三部会」なる会議を開いて、教会への課税を再び認めさせた。「みんなが言ってるんで」とフィリップは課税に踏み切る。これに対し教皇は、「教皇(パパ)のいうことが聞けない奴はみんな地獄行きだから」と宣言。今では某米国大統領の脅し文句くらいにしか聞こえないが、当時は重みがあった。教会は死後の世界をも司っていた。フィリップ王は1303年、ついに部下に命じて、アナーニというところにある教皇の別荘を急襲させ、監禁した。名目は、「今の教皇は陰謀で位についた悪徳教皇」。その後教皇はすぐに解放されるが、病状を悪化させ、死去。勢いに乗ったフィリップは、1309年、自分が使いやすいフランス人司教を教皇の位につかせ、あろうことか、教皇の住まいをローマから当時は田舎町だったアヴィニョンに移動させてしまった。いわば、フランス国王が人質として教皇をフランスにおいたのだ。これがいわゆる「アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)」である。

この状況は事実上、実に約100年続いた。歴史の表舞台となったアヴィニョンは、田舎町から徐々に整備が施され、一方ローマは最盛期から一気に転落し、貴族が好きかってをする廃れた街になってしまった。70年目に一度教皇はローマへ戻ったが、新しい教皇の選挙を不服としたフランスはすぐに別の教皇をフランスで任命させ、二人の教皇が存在するという状況にまで至ってしまう(「教会大分裂(シスマ)」)。こうしたゴタゴタのせいで教会の権威は失墜し、ルネサンス、ひいては宗教改革へと続いてゆく。そんな大事な出来事の舞台となったのがこのアヴィニョンなのだ。城壁も、この歴史を語っている。

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城壁

城壁を抜けると、メインストリートらしき道がある。街路樹が植えられ、風が気持ち良い。そして太陽はジーンと降り注いでいる。日曜日だったので服屋などは軒並みシャッターが閉まっていたが、カフェやアイスクリーム屋の類は小規模なテラスを出していて、地元の人たちがそこに座っていた。時間の進み方が、ゆったりとしているような気がする。

わたしは道を歩く途中で見つけた、まるで城のような形のツーリストインフォメーションに入り、町の地図を手に入れた。アヴィニョンに長居をするつもりはなかった。しても良いのだが、アヴィニョンはあまりアクセスが良くないので、これからスペインに入ったりすることも考えると宿泊地は変えたかった。そして、前日のディジョンの経験から、10kgのバックパックを背負いっぱなしで町歩きをし続けるのは無謀である。そう考えると、観光に取れる時間は大体二時間。

近くにあったキャルフール(大手スーパー)で本場のオランジーナを買って、私は再びメインストリートに舞い戻った。太陽の光が街路樹の葉を照らし、葉の緑はまるで新緑のような明るいグリーンである。穏やかな風、カラッとした空気。なんならここに捕囚されてもいいなと思ってしまうような気持ちの良い道だ。ただ、カラッと暑いので喉の渇きは凄まじい。私はオランジーナを一口飲んだ。思えば、佐藤二朗が出ている「コマンタレヴー(お元気ですか)」と聞きまくるオランジーナのCMは、南仏の雰囲気があるような気がする。

しばらく歩くと、ついに街の中心にたどり着いた。そこはちょっとした広場になっていて、ど真ん中にはメリーゴーラウンドがあった。その脇にはレストランのテラス席。建物は限りなく白に近いクリーム色で、太陽の光によく映えている。その雰囲気はどことなくイタリアに似ているが、イタリアにメリーゴーラウンドはない。ストラスブールでも、ディジョンでも、リヨンでも、フランスの街にはメリーゴーラウンドを置きなさいという法律でもあるのだろうか。

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広場

この広場から伸びる路地を進めば、かつて教皇が住んでいた教皇宮殿である。少しワクワクしながら、私は狭い路地を進んだ。道は間違っていないはずだ。路地にはたくさんの人が歩いている。

案の定、路地を抜けると突然開けた場所に出て、さっきの広場よりはるかに広い空間が出現した。左を見ればテラス席、そして右を見れば二つの尖塔に、のこぎり型の狭間、頑丈そうな壁を持った巨大ないかつい城塞が少し小高いところに立っている。サンピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂のイメージとはかけ離れている厳しい建物だが、これが間違いなく教皇宮殿だった。

基本的に大きな荷物を持った人はこういうところには入れないので、私ははなから入ることは諦め、宮殿を外からしばらく見つめていた。ここが、アヴィニョン捕囚の舞台か。この明らかに住居でも教会でもなく、城塞でしかない建物は、きっとフランス王の人質である教皇は閉じ込めるものなのだろう。そう、彼はやはり人質だった。こんな気候のいいところなら捕囚されてもいい気もしたが、これだけの城塞の中に閉じ込められたら満足に外にも出られまい。そして言われるのだ。「聖下、これは牢獄ではありませんよ。貴方様をお守りするものでして…」

広場は高低差があって、宮殿は小高いところにある。広場の入り口から向かって奥に進むと段差があり、宮殿に近づいて行くことができる。おそらく、山のような地形を街にしたのだろう。私は高い方へと進んでみた。そこにはジャコメッティみたいな細い像が立っていて、バンザイポーズを見せている。その像の前には記者の形をしたバスがいて、観光客を満載してちりんちりんという音を立てながら走っていた。

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教皇宮殿 Palais des Papes

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表示を見ると、この広場を通り抜けて街の城壁の外に出れば、有名なサンベネゼ橋がある。通称、アヴィニョン橋。この橋は、かつてアヴィニョンに住んでいた羊飼いのベネゼが神のお告げによって建てたという。時を経て半分も残っておらず、橋というよりもむしろ埠頭、横浜の大桟橋のようになっているらしいが、世界遺産にもなっている。この橋がどうして有名なのか。それはこの橋が落成した時に歌われたという、有名な歌のおかげだ。きっと今これを読んでいるみなさんも聞いたことがあるだろう。


アビニョンの橋で

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

踊るよ、踊るよ On y danse, on y danse

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

輪になって組んで On y danse, tous en rond

広場を抜けるとまた狭い路地があり、急な坂になっていた。狭くて急な階段と、それを取り囲む白っぽい建物と空から入ってくる日の光。これまたイメージ通りの南仏だった。写真を撮ろうとスマホを出すと、ちょうど階段の下で写真を撮ろうとカメラを構える初老の男性がいた。そりゃそうだ、ここは写真を撮りたくなる場所だ。世に言う、フォトジェニック、だろうか。私はカメラを持つ彼をみて、スマホで撮ろうとしている自分が急に恥ずかしくなり、彼の写真の邪魔にならないようにその場を立ち去った。

土産物屋の横を通って、しばらく閑散とした道を歩くと、城壁に出会う。城壁をくぐれば、突然道路が現れる。車がたくさん走っている。思えば城壁の中では車なんて、観光用の汽車型のやつくらいしかいなかった。突然現実世界に引き戻された気でいると、奥に水色の川があるのに気づいた。そして、その川には、シンプルなデザインの、美しい橋が途中までかかっていた。これが、あれか。私は感心した。だが、どうやってはいるのかわからない。まあそれも仕方ない。外から見るのも美しいんだ。私は橋をくぐって、近くにあった城門から市内に再び入った。

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サンベネゼ橋。よく見て欲しい。この橋は向こうまで繋がっていない。

すると、どうやら城壁の上に登ることができるらしい。せっかくだ。アヴィニョンで何もしないのもつまらない。わたしは見張り塔のような施設に入り、螺旋階段を伝って塔の上まで登った。前には家族連れがいる。急ぐ子供、ぐんぐん進むお父さん、待ちなさいと追いかけるお母さん。どの国でも見る光景である。階段はぐるぐるぐるぐるぐるぐると上へと伸びていて、狭い。時折、塔の外側が見えるようになっているが、わたしはあえてそれは見ないで、頂上でのお楽しみとした。

しばらくして、わたしは塔のてっぺんにたどり着いた。塔を出ればそこはもう城壁。気分は「真田丸」である。太陽が照りつけて暑いし、荷物は昨日より離れていてまだマシだが、やはり重い。わたしはオランジーナの最後の一滴を飲み干した。衛兵になったような気分で中世の城壁をつたって、より上の方を目指す。この城壁はどうやら、アヴィニョンの町の頂上に続いているようだ。

登りながら町の外を見ると、水色の美しい川が流れ、そこに向かってサンベネゼ橋が突き出していた。歌詞とは裏腹に、橋はきちんとした欄干がない上に狭いので、話になって組んで踊ると危険だという話を聞いたことがある。こうやって上から見るとそれはよくわかった。川の手前には車が走り、川の向こう側は文明とは程遠いような森と山だけの世界があった。きっと、ユリウス・カエサルがガリア地方、今のフランスにやってきたときは、全てがあのような森と山の世界だったんだろう。反対側には、城下町がある。街の外の街である。赤茶けた素朴な家が立ち並び、まるで中世の街並みを見ているようだった。そこでは時間の進み方が、川沿いを走る車のスピードよりも確実にゆっくり流れているように見えた。この、中世の城壁からは、現代と過去が見渡せた。

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頂上の公園で、しばらくベンチに座って空を眺めた。随分とたくさんのところに行ったようだが、まだ三日目に過ぎない。普段の東南アジア旅行なら、1都市目が終わるくらいだ。だが今回は、移動する旅。幸いまだ疲れは来ていない。

立ち上がり、山を下ることにした。方向がどちらかはよくわからないが、まあなんとかなるだろう、ととりあえず歩いていると、教皇宮殿が現れた。なるほど、宮殿を伝って降りてゆくわけか。かくしてわたしは知っているアヴィニョンに戻ってきたのだった。宮殿前にある小さな階段に腰掛け、宮殿前に設置された巨大な十字架を見た。そろそろ、アヴィニョンを離れる時間が近づいている。面白い街である。長期滞在したい街かと言われるとよくわからない。だが、気持ちの良い街ではあった。風と太陽と緑と、そして歴史。アヴィニョンには時の流れがあったからだ。

わたしは再び駅の方へと向かい、昨日一昨日の不節制を戒めるべく、駅のパン屋のぱさぱさのハンバーガーを食べた。5.20ユーロ。大体700円くらい。昨日のワインとムール貝に比べれば大きな差である。次の目的地は、アヴィニョンからほど近いニーム。ニースではなく、ニーム。今日はニームに滞在するつもりだ。

3都市目:リヨン〜リベンジするは我にあり〜

ブルゴーニュ地方からリヨンのあるローヌ・アルプ地方までは在来線TERで行けば良い。所要時間は2時間だから、すぐについてしまう。

リヨンというと、フランス第二の都市とも言われる都会である。その歴史は古代ローマまで遡る。フランスの地がローマ帝国の「ガリア地方」と呼ばれていた時、ガリア地方は三つに分かれていたのだが、ルグドゥヌムことリヨンはそのうちの一つ「ガリア・ルドゥグネンシス州」の州都であった。この州は今のパリも含んでいるため、このころはルテシアことパリよりも大都市だったのだろう。リヨンはローマ帝国亡き後も反映し、そして現在に至る。

街には二つの川が流れ、「山がちなエリア」、「真ん中」、「駅のあるエリア」の三つに分けられると思う。「山がちなエリア」は旧市街も旧市街で、古い建物が残り、ローマ時代の遺跡もある。それに夜には山のてっぺんからはリヨンの夜景が楽しめる。「真ん中エリア」は、リヨンの市街地という感じで、旧市街ほどの古さではないが、日本人の感覚としてはやはり古い街である。広い道、ルイ十四世の像のある広場、そしてレストラン街に、スイスのジュネーヴを思わせるでかくて漕ぎれない建物……美しいヨーロッパの街という感じだ。そして「駅のあるエリア」を見ると、驚く。そこは別世界であり、高層ビルが立ち並ぶ、新市街なのだ。

実を言うと、リヨンは初めてではなかった。一昨年、私は大学の友人5人とフランスを訪れたことがあり、その際に立ち寄ったのが、パリとリヨンだったからである。一昨年は「山がちなエリア」のてっぺんにあるユースホステルに泊まった。夜景、夕焼け、そして朝焼けが素晴らしい場所だったと記憶している。だが、今回はそこまで行くのはやめた。なぜなら、ディジョンの町歩きで疲れ切ってしまっていたからだ。背中が痛いし、足にも負荷がかかっている。私はとにかくホテルに泊まりたかった。そもそもリヨンでの滞在は予定外だったこともある。

列車が駅に着くと、私は大手チェーンのホテルibisを探すことにした。ホテルを探す元気がないし、ユースのようなドミトリーではなく、個室でゆっくりとしたかった。それに、外はずいぶん暑い。パリ→ストラスブールディジョン→リヨンとやってきたが、気温がここにきてグッと上がったと感じた。だから、衣替えをして、パッキングを見直す必要がある。そうなれば、個室の方が都合がいい。ちょっと値ははるが、ibisなら耐えられるくらいだと信じた。

ところが、駅周辺の新市街は初めてだったということもあり、私はだいぶ迷ってしまった。それもそのはず。ホテルのある通りはなんと、高架下の狭い通路を行く道であり、道に見えなかったのだ。そのことを理解し、高架下を通り抜け、新宿西口の都庁周辺にも似た風情の街を歩いていると、ibisはあった。70ユーロ。昨日のホテルは57ユーロ(これでもだいぶ高い)。日本円にすると8000円くらい。非常に高い。だが、時には仕方ない。何しろ疲れていた。私は倹約旅など忘れちまえとibisに部屋を取った。

ibisはパリの空港にあったものに泊まっていたので、部屋に入るとなんだか懐かしい雰囲気だった。私はテレビをつけた。ドキュメンタリー調の番組をやっている。余談だが、私にとってテレビと旅は切っても切り離せない。なぜなら、テレビはその国を映す鏡でもあるからだ。街を見ているだけではわからないことがわかってくる。例えば、ヴェトナムのテレビではたまに外国の映画をやっているが、実はこれは字幕でも吹き替えでもない。なんと、同時通訳なのだ。だからどんなに緊迫したシーンでも、どんなイケメンも、どんな美女も、みんな同じトーンの女性の声になっている。ヴェトナムにはそんな事情がある。これはテレビを見なければわからなかったことでもあると思う。ちなみにフランスで、私が大好きだった番組は、France 2で平日の23時くらいからやっているバラエティだ。ゲストたちが、「曲に合わせて口パクしろ!」とか「この商品をお題に合わせて紹介しろ!」とか「ジェスチャーで伝言ゲーム!」とかいう無理難題系めちゃくちゃゲームに挑む超くだらない番組である。確かこれは、リヨンで見つけたんだったと思う。

テレビを見ながら、明日の列車の予定を考えていると、ふと、帽子をどこかに落としたことに気づいた。多分ロビーだ。でも、正直もうヨレヨレで、かなり黒ずんでいたので、よしとしよう。どこかで買えばいい。私はそう思い、ベッドに倒れこんだ。明日は朝9時20分のTER(在来線。ユーレイルパスで無料になる)に乗って、アヴィニョンへ向かおう。それからは、それから次第。だが、アヴィニョンはあまり交通の便が良くないので、宿泊はもっといい場所に行ったほうがよさそうだ。今回のディジョンでの一件を考えれば、アヴィニョン観光は二時間。それでも、ただ列車で移動するだけの旅よりは、少しでも街を見て、風を感じたほうがいいに決まっている……とまあ、あれこれ考えているうちに、私は眠りに落ちてしまった。

 

起きると、18時くらいだ。フランスのレストランが開くのは7時から。本番は8時からだという。街を観光するのも面倒だったから、とりあえず夕飯を食べに行くとして、30分くらいは部屋にいてもバチは当たらない。

リヨンは美食の街として名高い。フォアグラが名産で、イタリア由来の独特の食文化があるらしい。そして、パリのビストロとは少し違った、大衆食堂ブションで出す料理が有名だという。全部伝聞調なのは、実を言うとまだ知らないからだ。一昨年来た時は、あいにくの日曜日であり、店が軒並み閉まっていた上に、どこにブションがあるのかよくわからず、適当なブラッスリー(レストラン)に入ったのだ。しかも、そこで食べた鴨料理マグレ・ド・カナルは「とろけるように柔らかい」という前情報とは違い、わりかし硬くて、しかも味がなかった。あの旅では食に関してハズレを引き続けていたが、リヨンよ、お前もか!(Et tu, Lugdunum!)と思ったのを記憶している。

と、なれば、である。今回は、リヨンをリベンジしてやろうではないか。リヨンの本当の力を見せてもらおう。正直、ホテル代、昼のムール貝と浪費しすぎな感はあるが、リヨンにいるのだ。真骨頂を見せてもらおう。私は闘志をみなぎらせ、ベッドから起き上がり、ガイドブックでレストラン街を探した。ホテルのある「駅のあるエリア」から川を一つ越えて「真ん中エリア」の奥に行かねばならない。地下鉄もあるが、ええい、ここは歩いてやろう。案外いけそうだ。私は珍しく計画を練ったうえで、外に飛び出した。日は傾きかけており、眩しい。サングラスを出すべきだったと後悔した。

レストラン街までの道のりは、案外難しくはなかった。というのも、ホテル沿いの道を川までだーっと歩き、途中の橋を渡り、それから目の前の大通りをバーっと歩けば、すぐ左にレストランのあるメルシエール通り。日中と違って日が陰ると風が気持ち良い。川辺は特に良くて、ゆっくり歩きたくなった。そういえば、大学の後輩がここに住んでいたという話を聞いた。随分いいところにいたもんだ……だが、まだリヴェンジを果たしていない。散歩は食後だ。私は勇み足でレストラン街を目指した。

レストラン街は見てすぐにわかる雰囲気を持っていた。狭い路地にずらりとテラスが並び、人々が食べている。少し早めに着きすぎたので、行ったり来たりを繰り返してみたが、一人、また一人と客が入る。値段は大抵一皿19ユーロくらい。だいたい2000円か。それにワインを入れると、少し高くなるだろう。小さな路地でフォークとナイフの音、人々の話し声が反響している。この街は生きていると感じられる風景だ。周りの路地も見てみたが、やはりここが一番だった。

しばらくうろついて、私はリヴェンジマッチにふさわしい店を探した。値段、客の入り含めて一番良いのはどこか。白羽の矢が立ったのは、メルシエール通りと別の通りのT字路にある紫色のモダンな装飾の店だった。看板にはしっかりとBouchon(ブション)と書かれている。しかも、テラスでは店員と常連が楽しそうに話しているではないか。

フランス語で話すということにハードルを感じていた私は、一瞬ためらいを感じつつも、この店しかない、と店に飛び込んだ。

「Bonsoir, une personne(こんばんは、一名です)」

すると髭面の若い店員は、中か外かと聞いてくる。あの雰囲気を味わいたいので、私は外を所望した。店員の言われるまま席に着くと、しばらくして、女性の店員がやってきた。フランス語だったのでわかりづらかったが、どうやら予約が入っているらしい。仕方ない。私は流れに身を任せ、店内で食べることにした。

この店のこの日のオススメは、なんと、一昨年リヨンで失敗した「マグレ・ド・カナル」だった。これはもう、運命だ。注文を取りに来た若い女性の店員に私は早速マグレ・ド・カナルを注文した。喉が渇いていたので、飲み物はビールである。

「焼き方は?」と聞かれたので、とりあえず覚えていた語彙を使ってみた。

「あー、ロゼ」ロゼとは、ピンク色のこと。だから肉がピンク色になるくらい、という意味だったと思う。

白を基調とした店内は小さく、客の入りもまばらだったが、アットホームな空間だった。二階席もありそうな雰囲気で、行き来する人がいる。部屋の奥にはバーのようなものがあって、そこで酒を出しているようだ。作り自体はカフェと変わらないが、なんとなく人を落ち着かせる空気感が流れている。

しばらくして、先ほどの髭面の店員がマグレ・ド・カナルを運んできた。鴨肉に珍しく白いソースがかかっている。付け合せはフランス名物のフレンチフライ(フリット)。店員の「Bon appétit(召し上がれ)」という言葉とともに、リヴェンジマッチが始まった。

肉を切ってみる。ものすごく柔らかいというわけではないが、柔らかい。口に運ぶ。白いソースが絡んで、とてもうまい。これは間違いない。リヴェンジマッチに勝利したのである。私は大事にマグレ・ド・カナルを食べた。このマグレ・ド・カナル、フランス料理にしては珍しく、あまり大量には出てこない代物だからだ。それにしてもうまい。臭みのない鴨肉と、バター風味のソースがうまく合っている。

食べ終わって満足し、店の外を見ていると、若い女性の店員が、

「食べ終わりましたか? いかがでした?」と聞いてきた。私は、

「C'était très bien(とてもよかったです)」といった。très bon(とてもおいしい)と言おうとして、いつも言い間違えてしまう。私は、「parfet(完璧でした)」と付け加えた。

「デザートはよろしいですか?」と聞いてきたので、私は、

「じゃあ、コーヒーをお願いします」と答えた。今日は腹の余裕はあったが、懐の余裕があるか不安だったからだ。

店員はエスプレッソコーヒーを持ってくると、おもむろにペンを取り出し、

「会計はテーブルではなく、あちらのバーで行います。コーヒーが終わりましたら、テーブル番号を向こうで教えてください」といって、紙でできたテーブルクロスに「9」と書いた。

「わかりました」私はそう言って、うなづいた。

ヨーロッパではテーブル会計が普通だ。こんな会計は初めてである。なるほど。やっぱりリヨンの食文化は、他の街とは違うのか。私は、面白いな、と思いながら、濃厚なエスプレッソコーヒーを飲んだ。美味しいけど少し重いヨーロッパ料理を食べた後は、エスプレッソに限る。口の中がさっぱりして、胃が動き出すのが感じられるからだ。私にとってのデザートである。

しばらく食休みをして、私は恐る恐るバーのところへ向かった。

「L'addition, s'il vous plaît, eh, table numéro neuf(お会計お願いします。えーっと、テーブル番号9番です)」

おそらく店長なのであろうサバサバした感じの女性が、

「parfet(完璧ですね)」とにっこり笑いながら言い、会計を出した。26.50ユーロ。チップはいらないと何かに書いてあったので、ちょうどの金額を払い、Merci(ごちそうさまでした)と礼を言って外に出た。外はまだ明るい。

 

その後は、川沿いを歩き、それから一昨年行ったパン屋と公園を探してみた。結局見つからなかったが、一昨年行った広場には行き着いた。真ん中にはルイ十四世の騎馬像がある。フランスで20時は夕暮れ時なので、広場も夕焼けに包まれていた。リヨンはもういいかと思っていたが、なんの巡り合わせか、来てみてよかった。一昨年の旅の記憶と、今年のリベンジ。リヨンの街は祝福してくれているようだ。広場を抜け、大通りを歩こうと横断歩道を待っていると、一昨年泊まったユースホステルのある山が夕焼けに染まっている姿が見えた。今度来るときは、この街で何をするんだろう。私はそんなことを思いながら、大通りを歩き、川を渡って、ホテルへと向かった。

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明日は、ついに南仏のアヴィニョンへ出発だ。