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旅、映画、食べ物、哲学?

南米かっ!〜アテネの夜の冒険〜

アテネのホテルはびっくりするくらいいいところだった。一人三千円くらいだが、中高級ホテルの風格がある。それに真っ先に気付いたのは、着いて早々ウェルカムドリンクとしてしぼりたてのオレンジジュースが配られた時である。暑かったし、ありがたい。ウェルカムドリンクなんて配られたことはないから、おどろいた。ホテルのフロントの人も穏やかで、従業員も品格ある優しさを笑顔の中に湛えている。素朴な優しさはいいもんだが、品格ある優しさも心地が良い。

ホテルがあったのは、国立考古学博物館の裏手である。この地区の評価は、「アテネ 治安」で検索すればすぐわかる。在住者や旅行者が口を揃えて、優しく、満面の笑顔で、「昼間に博物館に行く以外では近寄るな!」というチャーミングな地区である。このホテルがとても雰囲気がいいことから考えると、おそらくこの地区もはじめは平和だったが、ギリシア危機のころからおそらくは治安が悪化していったのだろう。

部屋に案内してもらい、テレビをつけながら身支度をした。テレビはその国の窓だ。例えばギリシアのほとんどのチャンネルでは、討論番組をやっている、といったことが、テレビを見れば一目瞭然である。期待を裏切らない国である。古代から今の今まで討論好きは変わらぬようだ。長野の人は山奥に住んでいるからこそ読書量が多く、弁論に長けているという話を聞いたことがあるが、多分ギリシアもあんな山がちなところにいれば、弁論も上手くなるのだろう。古典ギリシア語の先生が、「ギリシアではオリーブとワインを育てていたが、地中海世界ではこの二つが重要だった」とおっしゃっていたが、それはギリシア偏重であろう。オリーブはそのまま食べるか、油になる。ぶどうもそのまま食べるか、ワインになる。生活の中に必要ではあるが、小麦はギリシアよりもエジプトだった。肉は遊牧していたため手に入ったが、炭水化物や野菜なしでは暮らしは成り立たない。要するに、ギリシアの土地はやはり細いのだ。その分、商売、弁論や学問、芸術の方へと向かっていくことになったのかもしれない。

 

夜も更けてきたので夕食の時間だ、と我々はフロントに集合した。フロントにあった地図を手に、私はホテルの人に、オススメのレストランを訪ねた。

「このあたりで一番美味しいギリシア料理店は、ここです」と彼は言いながら、考古学博物館とは反対側の地区に印をつけた。ちょっとだけ嫌な予感がする。以前のバルセロナに関する記事で書いたが、私はバルセロナのホテルのお姉さんに紹介された店に行こうとした結果、店の前で酔っ払いの屈強なドイツ人が叫んでいるのを目の当たりにして断念した記憶があるからだ。同じことが起きそうな気がする。ただでさえ、この地区はがさついている。だが、ひるんでたまるか、と私たちはそのレストランに行くことにした。

真っ暗な坂を登る。人気は少ないが、店の明かりがここそこにある。案外、治安も悪くない。もちろん良くはない。だが別に悪くもない。だが、件のレストランが見つからない。どうしたものか、と別の路地に入ってみる。だが、そこも暗い。とりあえず戻ろう。だがただ戻るのも面白くないので、別の道を通ってみよう。そんなわけで、アジア人の集団が夜道を練り歩くという情景となった。

と、ここで、私たちと合流する前にアムステルダムにいた友人が、「この香りアムステルダムでも嗅いだことがある」と言った。他の人も不思議な香りがするという。アムステルダム。なるほど。これは間違い無く“あれ”の香りである。

以前、バイト先の知り合いでバックパッカーをやっている人と飲んだことがあるが、彼女は、ブラジルであれの香りを嗅いだという。なんと無く懐かしい香りだというが、私はあいにくよくわからなかった。そしてボルドーにいた時、ホストマザーがトゥールーズの川沿いではあれの香りがすると言っていた。私はその時もよくわからなかった。今回もいまいちよくわからなかったが、その香りが「あれ」らしい。マで始まってナで終わるやつである。クで終わってもいい。

とりあえず歩くしかないので、歩いていると、大通りに出た。道の真ん中に公園のようなものがあり、テラスも出ていて、賑わっている。ちょっと一息つく。これだけ賑やかなら安全地帯だ、と。しかしそれは間違っていた。まず、前にいる二人の男性が何かのやり取りをして握手を交わしている。ちょっと別のところでは喧嘩をしている。多分タバコではない香りがする。そして店の前には意味も無く立っている人が数人いる。

ちょっとやばいかもしれない。私たちは早足で、その地区を通り過ぎようとした。すると、意味も無く立っている人が、しまりのない笑顔で、「ハーイ」と声をかけてきて、絡んできた。どうにかこうにかかわし、考古学博物館前の大通りに出た。

 

アテネはなかなかの町である。だが実を言えばこれはまだ序の口であった。だがその話をする前に、この夜の収穫についても書くのがフェアであろう。

私たちは例のレストランを諦め、中心街に出てみることにした。なんと無く疲れてしまったので、観光地に行きたくなってしまったのだ。これまたマで始まりナで終わるもの取引で有名だというオモニア広場を通り過ぎ(ここも意味も無く立っている人が多い)、地下鉄のチケットを購入して、中心街に当たるシンタグマ広場へと向かった。地下鉄も事前情報で評判が最悪だったのだが、見た目は清潔であった。

シンタグマ広場に着くと、そこは中心部らしく賑わっていた。夜の雰囲気は楽しげである。気を取り直し、レストランを探したが、案外これが見つからない。ほとんどがブティックなのである。最終的に見つけたのは、大きな正教会の前にあるちょっとおたかそうなレストランだった。だが、どうやら、物価のせいであまり高くはなさそうである。

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レストラン前の教会。この日の夜撮った写真はこれだけだった。

流暢な英語を話す陽気なウェイターに連れられて、店に入ると、店はかなり賑わっていた。いい感じである。人気店のようだ。まずは酒を頼んだ(確か私はクラフトビールを頼んだと思うが定かではない。色々ありすぎて記憶が飛んでいる)。

「チアーズってギリシア語でなんていうの?」と店員に尋ねると、

「ヤマス」というので、みんなで「ヤマス」斉唱をして、食事が始まった。

それぞれおもいおもいのギリシア料理を頼んでいた。私はとりあえずオススメに従った。確か、少しバルサミコがかった味の、もつ煮込みだったような気がする。だがなんにせよ、うまかった。ギリシアはうまいのだ、と記憶している。友人が頼んだムサカ(牛ひき肉をマッシュポテトの上に乗せて、チーズで焼いたもの)もうまかった。驚いたのは、オーダーしたものは必ずテーブルの真ん中に置かれることだ。これには意味があるのだが、その意味は最終日に明らかになる。

食後、コーヒーを頼んだ。ギリシアコーヒーである。ギリシアのコーヒーは、煮出す。だから、飲むとちょっと粉っぽい。船で飲んだのだが、なぜか中毒性があり、また飲みたくなる。だが飲み干した後は口の中がボソボソになり、もう二度と飲むものかと思う。だがコツを掴んでくると、この粉っぽいコーヒー(コナコーヒーではない)の独特の旨味が病みつきになる。一気に粉を飲み、ついてくる水で流し込むのである。

食べ終わって、陽気な店員に、

「ポリ・カラ!(すごくうまい)」と告げると、店員は非常に嬉しそうにニッコリと笑った。

「エフハリストー!(ありがとね)」と彼は言う。

 

さて、なんと無くもともといた地区に戻りたく無くなってしまったが、どうにかこうにかホテルに戻ることにした。ここで、第二の事件が発生する。

私たちがホテルに戻るために考古学博物館のよこを抜けようとすると、そこがなぜか封鎖されていた。博物館前には日本の機動隊の車のようなものが置かれ、通りたかった道には横並びでずらりと、銃を持った機動隊がいる。その奥は見えないが、何やら叫んでいるひとがいる。麻薬なんて、序の口である。機動隊はゆっくりと被疑者を追い詰めていた。

仕方なく私たちは迂回して、ホテルにたどり着いた。アテネ警察24時はまだ続いているようだ。人質にされないうちに、とホテルのドアを開けようと思ったら、ホテルのドアは鋼鉄で覆われていた。そういえば、ホテルの窓には鎧戸が降りていた。そういうことだったのか。自己防衛だったわけだ。もはやここまでくると面白い。案の定、ホテルのひとが鉄扉を開いて、中に入れてくれた。

「あのレストランには行けなかった」というと、グーグルマップを使え、と至極もっともな意見を言われたので、明日の夕食はそこにしよう。もちろん、ヤクパークに踏み入れないようにしながら、だ。

しかし、ここでこの日は終わらない。部屋につき、テレビを見ながらシャワーを浴びたりしていたら、なんと、窓の外から、「パンパンパン」という乾いた音が聞こえてきたのだ。ついに発砲に踏み切ったらしい。それも、そのあとで何度かその銃声は聞こえてきたのだからすごい。ブラジル在住だった友人が、「銃声が聞こえない日のほうが珍しい」と形容したサンパウロを思い出した。この日の夜、アテネで合流する友人から、「空港に着いたよー」という平和ボケしたラインがきたので、思わず、「銃撃戦やってるから気をつけてね」と返信したくらいである(怖いもの知らずの彼だが、さすがにこの時ばかりは、タクシーでやってきた)。

アテネの、考古学博物館周辺の夜は、麻薬に銃撃戦にと、かくもエキサイティングなのであった。思わず突っ込みたくなるほどに。「南米かっ!」と。

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翌朝、封鎖されていた道にはこんな落し物もあった。催涙弾である。なお、このそばにはオレンジも落ちていた。地中海らしい。

ἐκ Πατρῶν εἰς ᾽Αθῆνας〜パトラからアテネへ〜

パトラからアテネまでは電車が断絶している。だから、中間地点のキアトまでバスで接続しないといけない。そのバスはというと、パトラ駅の前から出ていた。さっと食事を済ませ、バス停まで行くと、運転手はむすっとした顔で、早く荷物を入れろという。もう出発の時間だ。

バスに乗り込んで少ししたら、バスは出発した。ローマと比べると日差しも強く、バスの中も暑い。だがそれにしても、こんな感じのバスで進むというのは、なんとなく修学旅行みたいで面白い。だが窓の外は日光でも京都でもなく、パトラである。カーニバルの人形、正教の教会、ギリシア文字。家の外壁は白っぽい。まるでそれを半紙と勘違いしたかのように、たくさんの落書きが見える。

街を出ると、向かって左側に大きな川のようなものが見える。しかしこれは川ではない。れっきとした海、その名もコリントス湾である。パトラがあるのはペロポネソス半島古代ギリシアの時代には、軍事国家スパルタと経済都市コリントスの拠点があった場所だ。今ではパトラがギリシア第三の都市。湾の向こうまで白い橋が架かっている。この橋がパトラの名物らしい。

ペロポネソス半島北部は予想外にも平坦である。湾を隔てた向こう側、すなわちバルカン半島の山の多さに驚かされる。こちら側はというと、日差しが照りつけて、乾いてはいるものの、木々も生えていて、南欧の雰囲気である。窓の外を眺めているうちに、暖かさもあったか、私はなんだか眠くなってきた。

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遠くに見えるのがパトラの橋だ。

 

キアトは、片田舎である。小さな駅がポツンとあり、日がかんかん照りになっている。私たちはバスから荷物を取り出し、とにかく駅へと入った。目指すホームは、階段を上った先にあるらしい。

鋭い日光が射し込むホームに到着し、駅員のおばちゃんに、ここで良いかと聞くと、流暢な英語で、そうですよ、という。どうやらギリシアはかなり英語が通じるらしい。ギリシア語はほんの少しだけやったが、あまり身にならなかったので、助かる。だが、ところどころは使おう。私はおばちゃんに、

「Ευχάριστο(エフはリスト)」と言った。ありがとうという意味だ。

「Παρακαλώ(パラカロー)」おばちゃんはちょっと驚いたような顔でいう。

電車はかなりのオンボロで、近郊鉄道のような雰囲気である。だが、この列車がキアトからアテネまでを駆け抜ける。蒸し暑さが抜けない車内に入り、しばらくすると列車はゴトンゴトンと動き始めた。外の世界は山がちである。それも石がゴロゴロしているタイプの山で、時折草が見える。スペインで見たほどの荒野ではないが、雄大さはある。古代の人々も同じ風景を見たのだろうか。大都市国家アテナイからペロポネソス半島への道すがらである。

 

電車はアテネへと突き進む。キアトを過ぎれば、古の都市コリントに至る。コリントといえば、コリント式円柱が有名である。どんな形だったかはすっかり思い出せなくなってしまったが、確かゴテゴテしたやつだ。ゴテゴテに似つかわしく、コリントス古代ギリシアに名を馳せた経済国家だったという。主神(都市の守り神)はアフロディーテ、美の女神というから、随分と華やかだったのだろう。アテナイなどの都市と同じく、各地に植民市を持っていたが(と言っても、古代ギリシアの植民市は、近現代の植民地とは異なり、本国とはゆるやかなつながりを持つ程度である)、そのうちの一つが、私たちの乗っていた船の寄港地イグニメッツァと海を挟んで向かい合うコルフ島のコルキュラだった。このコルキュラを巡ってコリントスアテナイが対立、それをきっかけにしてアテナイ率いるデロス同盟とスパルタ率いるペロポネソス同盟によるペロポネソス戦争が起こる。ペロポネソス半島の付け根に当たるコリントスは重要な都市であった。

だが、列車で通ってみると、どこがコリントだったのかよくわからないほどパッとしなかった。もちろん市内に入ったわけではないでので、よくわからなかっただけかもしれない。ただ、想像していたものとは違った、それだけの話だ。

 

そこから先も、時に海、時に山に囲まれた風景を列車は走った。思わず見上げてしまうような少し荒涼とした雰囲気に、圧倒される。電車の中では徐々に乗客数が増えて行き、蒸し暑さは上がって行く。どうやら我々は一歩一歩首都へと近づいているようだ。ギリシアは案外小さい。だがその分、縦に広い。山だらけである。

そうこうするうちに、駅名に「アテネ」の文字が見えるようになった。だが、どう見ても風景は首都とは思えない。地方都市的な雰囲気である。乗客はどんどん増えて行くが、アテネって本当にこんなところなのか。少々訝しんでいると、アテネ中央駅に到着した。この駅はさすがに、大きい街の雰囲気を湛えた駅だった。だが、同じ首都でも、ローマテルミニ駅、パリの長距離路線用の駅(北駅、東駅、リヨン駅など)、ロンドンセントパンクラス駅、マドリードのアトーチャレンフェ、バルセロナのサンツ駅と比べてみると、「大都市の」と形容するには程遠い(コスモポリスでもあるパリとロンドンは差し引くにしても、イタリアやスペインの駅よりもかなり小さい)。駅の作り、規模からすると、日本でいうなら、鎌倉駅くらいである。鉄道網があまり発達していないのだろう。

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アテネ

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出口は「エクソドス」。英語で「エクソダス」というと、聖書の「出エジプト記」だから、要するに、「出る」ということだろう。

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駅舎

駅の外も閑散としていた。日は傾きかけていて、日差しが暑い。道路を渡り、ホテルの方へと続くだろう坂道を登る。途中でこんなものを見つけた。

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早速アテネらしいではないか。ソクラテスホテル。泊まったが最後、私たちはみな無知に気付かされるわけである。「テレビのリモコンありますか?」「それでは君、リモコンとはなんのことか知っているということかね?」「その通りです、ソクラテス。私にはそれが、テレビの電源をつけるもののように思われるのですが」「では善き異邦人よ、なぜテレビをつけるのだろうか?教えてくれたまえ」「テレビ番組を見るためです、ソクラテス」「なぜテレビを見るのだろうか?」……

冗談はさておき、そんなホテルを横目に、私たちは坂を登りに登った。私たちを中国人と思ったギリシアの青年たちに、「ピンポンパン」と言われるという洗礼を受け、ちょっと治安の悪いところを登った。徐々に体感されていったが、この街は治安が芳しくなさそうである。多くの建物にはびっしりとウォールペインティング、悪く言うなら落書きでおおわれていて、なんとなく空気もがさついている。

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こうやって写真にしてしまうとあまりわからないが、確かにあそこでは、少し早足にしなければと思わせる何かがあった。そして、この数時間後、私たちはもっとやばい地区へと突入してしまうことになるのだが、それはまだ先のお話……

チケットとスヴラキと優しさ〜パトラ〜

パトラの港の使い勝手はバーリのそれと比べて格段に良かった。船から降りて少し歩いたところにシャトルバス乗り場があり、そのバスに乗れば、すぐに中心部まで運んでくれる。ただ、もしかすると、気づかなかっただけでバーリにもあったのかもしれない。

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パトラ港

パトラ市内にシャトルバスが入ると、イタリアとは異なる雰囲気の街が目に飛び込んできた。まず、文字である。かつて大学の哲学史の授業で学んだθやβやΔやΛなどのギリシア文字が、平然と使われている。当たり前といえば当たり前なのだが、なんだか面白い。そして次に教会だ。ギリシアでは、イタリアとは異なり、カトリックではなく正教会が広く信仰されており、街中に見える聖堂は、イタリアやフランス、スペインの様式とは異なっていた。どちらかといえばドームのようなのだが、屋根の部分に色が付いていて、イタリアのサン・ピエトロ大聖堂より小ぶりである。その周りには小さなドームを頂く塔がいくつか建っている。

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正教会らしい教会

ギリシアらしい風景はもう一つある。それは山である。船がパトラについた時から気づいていたが、ギリシアはとにかく山である。それもかなり堂々とした見た目の山が街や港を見下ろしているのだ。友人の一人はこれを「山々しい」と表現したが、言い得て妙な姿をギリシアの山はしている。古代ギリシアの人々は、山の上に神々が住んでいると考えた。有名なオリュンポスの十二神である。このような山だらけの地形ならば、それも理解できる。

思うに神の信仰は、神がいそうな雰囲気というものに支えられている。日本で言えば、熊野なんかは何かいそうな雰囲気だし、教会はいるぞという演出がうまい(気分を害されたら申し訳ない)。その点ギリシアの山は何かいそうである。

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港から見た山々しい山

それにしてもバスから見る初めての国というのは、早く中に入りたいと思いながらも、下車を許してくれない、というジレンマが心を焦らしてくる。両替所、日常品店、公園、そんなものが現れては消えてゆく。

 

パトラからアテネまではバスで行く人が多いらしく、列車の案内がない。なぜそれでも列車を選んだかというと、単純に安いからである。もちろん、電車という手段に多少のロマンを感じなかったといえば、それは嘘になるが。

シャトルバスの運転手に聞くと、バスターミナルから少し歩いたところに駅はあるらしい。とりあえずバスから降りて、駅を目指す。にしても暑い。さすがはギリシアだ、イタリアとは違う。日差しは強く、三月ゆえにまだ本気を出していないとはいえ、なかなかのものがある。

しばらく歩くと、向かって右側に、見覚えのあるエンブレムが見えた。思い出してみれば、それは確か、ユーレイルパスというヨーロッパほぼ全体で使える青春18きっぷのようなものについてきた地図に書かれていたギリシアと鉄道のマークだった。旅に出られないとき、件の地図を見ながら妄想していたのが功を奏したわけだ。

駅は使われてないと思い込んでいたが、実はそうではないらしい。アテネまで通っていないだけのようだ。まるで路面電車のような電車が駅に入ったり出たりしている。電車は落書きが多く、ギリシアという国が経済危機に陥ったことを嫌でも思い出す。駅舎に入るやいなや、物乞いの少年がやってきたこともまた、そうである。この国は間違いなくまだ立ち直りきれていないのである。

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まるで路面電車のように走る電車

 

チケット売り場は結構並んでいた。ゆっくりと進む列に並び、人数分のチケットを頼んだ。六人のうち二人は国際学生証がなかったので、

「学生四人と大人二人」というと、窓口のお姉さんが、

「大人二人の年齢は幾つですか?」と流暢な英語で尋ねる。この国の人は英語がみんなできる。

「22と23です」

「わかりました」チケットを見ると全員分学生料金になっていた。お姉さんの優しさか、フランス同様、学生かどうかではなく年齢で割引をするのかその辺はよくわからない。ギリシア人は、優しかった思い出があるからだ。

チケットは14時に駅の目の前から出るバスに乗るよう指定していた。あまり時間はないが腹ごしらえはしておきたい。それも、ギリシア料理でだ。そう言うわけでとにかくレストランを探したのだが、どうも見当たらない。

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パトラではカーニバルをやるらしい

わかったのは、この街ではカーニバルをやると言うことだけだ。面白い顔をした人形がたくさん置かれている。とまあ、そんな発見をしている間に時間は刻々と迫っているので、駅前のレストランに入ることにした。そのレストランでもギリシア料理はありそうだ。

店に入ると、どうやらガランとしているから、あまり待つことはないだろうと思ったが、ウェイターがなかなか来ない。わかってきた。そう言う時間の流れ方なのだ、この街は。こんなところで焦りたくない、と言う思いと、なんとか間に合いたいと言う気持ちがぶつかる。

そんなこんなで中に入ると、早くできそうな食べ物を頼むことにした。そうすると必然的に、ギリシア風焼き鳥のスヴラキということになる。焼けばいいのだから早そうだし、その上、ギリシア料理である。私たちは用意されたテーブルにつき、ほぼ全員スヴラキ、あともう一人はサラダ、という時短料理を注文した。

店の中を見回すと、あまり客はいなかったが、おばあさんが一人で食べているのが見えた。時々鳩がやってきて、テーブルに止まる。おばあさんは何食わぬ顔だ。よくみると犬もいる。どうやらこの国は動物との共生がうまいらしい。いや、うまいもへったくれもなく、そういうところなのかもしれない。

スヴラキがなかなか来なくて少々やきもきしたが、時間には間に合う。我々は鬼の形相で食事をした。スヴラキの味はかなりうまい。独特の香辛料の香りがして、肉もホクホクである。だが、あまりゆっくりはできない。

ものの十数分で食べ終えて、お会計を済ませた。すると店主らしきおじさんが言う。

「急いでるなら持ち帰りにしたのに」

その時、この国の人はとてつもなくいい人なのかもしれない、と思った。ギリシアの旅が、始まる。

Εδώ έρχεται ο ήλιος〜地中海航路 その2〜

「乗客の皆様。まもなく、我々はイグニメッツァ港に到着いたします。乗客の皆様はお忘れ物のありませんよう、お降りください」

朝5時30分ごろ、やけに大きな音のアナウンスで私は目を覚ました。降りなければいけないのか? でもイグニメッツァといえば、コルフ島の近く、ギリシアの北西、アルバニア国境にある町である。私たちが向かうのは、さらに南、バルカン半島の南の端っこ、ペロポネソス半島にあるパトラだ。係員がやってきたが、面倒なので、狸寝入りをすることにした。

乗務員が去った後、乗務員とやりとりしていた友人に

「平気そう?」と聞いてみた。こういうところが、我ながらずるい。

「大丈夫」と彼は言うので、一安心だ。

しかし、目も覚めてしまった。実を言うと、私たちは朝6時半には起きている約束をしていたから、このまま起きていることにした。パトラヘの予定到着時間は14時くらい。ではなぜ、わざわざ朝早くに起きるのか。それは、ご来光を見るためだった。この地中海のど真ん中で、なんと日本的なことをするのだろうか。まあしかし、これはこれで粋である。

 

みんなでデッキに上がると、外は薄暗く、イグニメッツァの町が見えた。港らしく、山を背にしたこの町に、フェリーからはどんどんトラックが降りてゆく。乗客もかなり降りていたから、案外、パトラまで行く人は少ないようだ。遠くを見ると、山の稜線に沿って、空が赤くなっている。もう、あの山の向こうでは、朝日が昇りつつあるみたいだ。

しばらくして、ブォーンという音とともに船が動き出した。黒い煙が、赤い空をバックに立ち上っていて、独特の雰囲気である。反対側に目をやると、紺色の空にうっすらと、コルフ島が見える。コルフ島は歴史上面白い役割を果たしてきた島だ。

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イグニメッツァ

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コルフ島の方はもう白んでいる


 古代においてはケルキュラと呼ばれ、都市国家が築かれた。このケルキラはペロポネソス半島コリントスと抗争し、これがきっかけとなって全ギリシアを巻き込み、衰退へと追いやったペロポネソス戦争が起こる。さらに、ローマ帝国による支配が及ぶと、「天下分け目の戦い」、アクティウムの海戦におけるオクタウィアヌスの艦隊の拠点となった。この戦いにおけるオクタウィアヌスの勝利は、共和制だったローマを帝政に変え、アレクサンドロス大王以来各地に置かれたギリシア人王朝の最後の生き残り、クレオパトラ女王の王国、プトレマイオス朝エジプトを滅亡させた。中世においてはアドリア海を拠点に地中海東部に覇権を握った「アドリア海の女王」ヴェネツィア共和国の拠点となり、コンスタンティノポリスの征服などで名を馳せた。

現代においてもこの島は重要だ。第二次世界大戦後、アルバニアは共産化、ソ連の味方となったが、地中海の覇権を奪われたくない英国と対立していた。英国はコルフ島とアルバニアの間の海峡(まさに私たちが停泊していたところだ)を軍艦で航行、アルバニア軍はこれに対して銃撃を加えた。これに怒った英国が再び軍艦を差し向けると、アルバニアは海峡に機雷をを配置、英国軍艦は被害を被った。英国はこの機雷を「航行の安全」を確保するために勝手に除去したが、アルバニアは、この海峡が自らの「領海」であるとして、勝手な行動は許されないと主張した。この、世に言う「コルフ海峡事件」は、歴史上初めて、国際司法裁判所でどちらに非があるのか判断された事件であるとともに、西側の英国、東側のアルバニアによる冷戦の一幕でもあった。

そんな、コルフ海峡である。人間の歴史を翻弄し、転換点に位置し続けたことなど構うことなく、太陽は変わらず昇っている。

 

船は徐々に陸地から遠ざかっていた。船の後ろを波が漂い、その動きとまるで連動するかのように、空も白みはじめた。ふと、枕草子の有名な一節を思い出す。

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは

少し明かりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる

正直、そこまで早起きしたことがなかったので、今まではよくわからなかった情景が、この地中海という日本から遠く離れた場所で、ほんの少しだけわかったような気がした。確かに「山ぎは」は白くなっている。雲はあまり見えない。

途中、もう一隻の船がイグニメッツァの方へと向かうのが見えた。まるで朝日に向かって進んでいるかのようだ。思わずシャッターを切ったが、遠すぎて、うまく写らない。うまく写らないことこそ、旅の醍醐味である。なぜなら、もはや再現できないからだ。もはやその場限りのものだからだ。掴もうとしてもこぼれ落ちてしまう何かに、立ち会うからこそ、旅は生であり続ける。

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写真では伝わらないだろう

船はイグニメッツァを離れ、そのままコルフ海峡を南下した。東側には山がそびえ立っている。バルカン半島だ。陸地がゴツゴツしているのは、なんとなく日本に似ている。行ったこともないくせに、瀬戸内海に似ているような気がした。だが瀬戸内海といえば、オリーブやら何やらを生産していたはずだ。あながち間違いではないのかもしれない。空は相変わらず、薄暗いが、先ほどよりも白んでいる。コルフ島はくすんでいる。朝はもやっとして、もやっとしているが故に、朝である。

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6時30分にもなると、空は本格的に青くなってきた。しかし、朝日はまだ見えない。山に隠れているのだ。わたしは、山の向こうの朝日が出てくる姿を見ようと、その方向をしばらく見つめることにした。徐々に、徐々に、山と山の間が明るくなる。そんな光景を見ていると、「時差」という概念は当然なのだなと悟る。「日の昇る国」日本を、太陽は明かりで照らす。そして太陽はゆっくりとユーラシア大陸を西進する。そして今、太陽はあの山の向こうだ。そう思うと、ギリシアではまだ朝なのに、日本ではもう午後、という状況はごく最もなことである。だが、なんとなく面白い。

太陽がこちらに向かってきて、そして昼間という光の世界をもたらすとすれば、太陽を信仰する気持ちもよくわかる。天照大神、スールヤ、ミトラ、バアル、ラー、そしてアポローン。彼らは我々の大地に光をもたらす。ギリシア人に従うなら、太陽を乗せた馬車が、天の世界をだーっとかけながら、世界を明るく照らすのである。それはかなり素朴な理解なのかもしれないが、こうやって船の上から山の間を昇る太陽を見つめていれば、よくわかることだ。太陽は私たちのいるここまで東のかなたから来てくれる……

 

山の隙間から、オレンジ色の光線が差し込んできた。間もなく、より強い光を持った球体が山の隙間から、ゆっくりゆっくりと自らの姿をあらわにしてゆく。海には光の一本道が通り、空の色は一変する。朝が来たのだ。太陽が、ここまで来たのである。朝日がそこに現れていた。

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Here comes the sun. ギリシア語にすれば、Εδώ έρχεται ο ήλιος

しばらくは、海を見ていた。太陽はオレンジ色から、無色に変わって行き、空は独特の紫がかったブルーから、よく見知った空の色になった。風は相変わらず強いが、格段に暖かくなっていた。先ほどまで見えていた山が色合いも含めてはっきりと目に入ってくる。青と大地の緑が織りなす世界がそこにはあった。

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空が真っ青になってから、私たちは部屋に戻った。船室は眠気が充満しており、なんとなくみんな寝てしまった。だがわたしは太陽の光のせいだろうか、もう眠くはなかった。朝食でも食べることにした。

 

ビュッフェには幾つか料理が並んでいたが、わたしには実はほぼユーロがなかった。両替はギリシアでするつもりだったのだ。この決断がのちにわたしを苦しめることになるが、それはまだ先のお話。とにかく、船で使うわけには行かず、わたしはとりあえず、自分の席に置いてきた、バーリ産のちょっと硬くなったパン四つと、船内で買ったどでかい水のペットボトル、そして古代ギリシアの歴史の本だけ持ってラウンジへ向かった。

パンは固いがきっとジャムなどがあるはず。そう踏んでいたが、実はジャムは有料で、昨日の夜はフリーで置かれていたオリーブオイルもない。これは困った。だが、イエス・キリストは最後の晩餐でパンと水だけを食したという。全然いける。などと、強がってみはしたが、なんとなくわびしい。だが、外は青い海、中はギリシアのテレビがついて、雰囲気は抜群。あとは本を開けば、ペリクレス時代、全盛期のアテネが繰り広げられている。

しばらく、海を眺めたり、パンを食べたり、水を飲んだり、本を読んだりしていたら、友人たちがやってきた。彼女たちはきちんとビュッフェで食べ物を買って、わたしの近くに座った。くれる、というのでチーズを拝借し、パンと一緒に食べた。やはりパンは何かと一緒に食べたほうがうまい、そんなことを発見できた。相変わらず海は美しく波打っている。食べ終わったら、デッキに出よう。

 

一人でデッキに出る。一人でデッキに出る時間も必要だからだ。いつのまにか、船はもう海だらけの場所にいた。太陽は昇り、日差しが強い。風があって寒いが、多分陸地は暑いはずだ。右舷のテラスから波を眺めていたら、映画「ボヘミアンラプソディー」でフレディ役をやったラミ・マレックに似た雰囲気の青年に声をかけられた。体にはアクセサリーがいっぱい付いていて、日本で出会ったらちょっと怖い雰囲気だが、ガタイがいいわけではない。

「写真を撮ってくれませんか?」と青年は言う。

「いいですよ」とわたしは彼のスマートフォンを受け取り、海をバックに立つ彼の写真を2枚ほど撮った。

「ありがとう」と青年は言って、写真を確認した。わたしは右舷に戻り、しばらく海を眺めていた。青年はしばらくそこにいて、何やら話しかけけたそうな雰囲気があった。いや、嘘だ。わたしが少し話しかけたかったのだ。わたしは彼に、

「どちらからですか?」と尋ねた。

「メキシコです。君は?」と青年。そうか、どこの顔ともつかない顔だなと思っていたが、メキシコか。そう言われてみれば、そんな感じもする。

「僕は日本からです。アテネへ行くんですか?」

「うん。でも、アテネからルーマニアに行って、それからフィンランドまで行くつもりなんです」と青年。実は、私たちの旅にアテネから合流する友人が、その逆をやっている。そのことを告げると、青年は、「じゃあ真逆ですね」と笑いながら言った。

「どこへ行くんですか?」と青年が尋ねるので、

「僕はアテネに行ってから、ブルガリアを回って、イスタンブールに行こうと思ってます」とわたしは言った。

イスタンブールか。いいとこですよ」

「へえ、それは楽しみです」

私たちは無言で海を眺めた。

「ところで名前は?」と尋ねてみる。

「カルロです。あなたは?」スペイン語圏らしい名前だ。

「わたしはSと言います。よろしく」

私たちは再び無言で海を眺めた。

「今度日本に行く予定なんですよ。東京と大阪に」とカルロは言う。

「へえ、両方とも大きな街ですね。僕は東京から来たんですよ」とわたしは言った。そして付け加える。「いつか、メキシコに行ってみたいです」

カルロはにっこりと笑った。そして、再び無言になった。

「日本では〇〇が手に入らないって本当?」とカルロが入った。〇〇はまるまる聞き取れなかった。聞き返したがよくわからない。「前、友達が日本に行って、絶対に無理だったらしいんだ。本当?」

わたしはとりあえず頷いておいた。多分そうなんだろう。

「君は吸う(スモーク)のかい?」とカルロが言う。

「たまにね」友達がタバコを吸っているから、付き合いで一、二本吸うことがある。しかし唐突な質問だ。と思っていると、

「メキシコではドラックは出回ってるけど、日本は厳しいんだなあ」とカルロは感慨深そうに言った。待て待て、吸う(スモーク)ってドラッグのことか? それは吸わないぞ。ああ、なるほど、日本で手に入らないっていうのはドラッグのことか。そりゃそうだ。謎が解けた。わたしは、ちょっと笑いながら、

「日本は法律が厳しいし、やる人もあまりいないから、難しいと思うよ」と答えた。カルロはちょっと残念そうだった。

「じゃあ、戻ろうかな」とカルロはいった。

「じゃあね、良い旅を。グラシアス」とわたしが言うと、カルロは「はは」と笑って立ち去った。

以前であれば、多分、ドラッグの話などされたら、硬直していただろう。だが、最近の世界中での合法化の動きを見ているうちにどうでもよくなってしまった。自分でやりたいとは思わないが、そういう人もいるのだろう、くらいの認識である。ブラジルに留学した友人が、南米ではみんなやっているということを教えてくれたことも大きいが、それ以上に、少し前にした飲み会での会話もそう思う理由になっていた。

その飲み会は、ある授業のお疲れ会だったが、その授業は英語で行われたので、アメリカ人の学生も半数程いた。彼らと話した時に、「ドラックの禁止についてどう思う?」と聞かれたのだ。わたしは、「依存性が強いみたいだし、国が規制するのはもっともなのではないか」と答えたが、アメリカ人の大半は、「でもドラックをやる人は減らない」という。それは日本とアメリカの差でもある。だが、日本でも芸能人が捕まったりなど、話題には事欠かない。確かにそうだ。だが、是認していいことにもならないような気はする。そう思いつつも、やみくもにドラッグをやる人に「やばい人」のレッテルを張るのはよくないような気もしてきた。勝手に、「ドラッグ=やばい」という連想をしてきたが、それは狭い世界の話なのかもしれないのだ。

だが、カルチャーショックには違いなく、なんとなく、わたしはすこしハラハラドキドキした気分で、海を眺めていた。

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船は南下を続けた。予定より、どうやら早く着きそうだ。友人の一人は、父親が船を操縦するらしく、天候や風向きによって船の到着時間はかなり変わる、だから多分予定より早くつくことはあり得る、と言っていた。私たちはパトラについたらどうするか、どうやってアテネに行くのか、リサーチした。どうやらバスよりも電車を使う方が安いようだ。だが電車はパトラからアテネまで直通ではない。というか、本来は直通なのだが、前半区間であるパトラ〜キアト間がなんらかの事情で電車が出ておらず、連絡バスに乗らなければならないのだ。まあ厄介だが、背に腹は変えられまい。

それからは、ほとんどの時間をデッキで過ごした。島がたくさん見えた。しかもどの島も、ごつごつした白い肌にまばらな木が生えた姿をしている。今まで見たことのない光景である。ギリシアとは、こういう場所だったか。謎の感慨が沸いてくる。こういう島が乱立し、ゴツゴツした場所を、ギリシア人は船で動き回っていたのだ。こういうものを見て育てば、島々のどこかには一つ目の怪人がいたり、魔女がいたり……と考えもするだろう。こういう光景を見て生きて行けば、陸地は海の上に浮かんでいる、と考えもするだろう。これがギリシアなのだ。そう、これがギリシアなのだ。

ギリシアは山がちで、作物があまり取れなかった。そのため、彼らは放牧をするか、はたまたオリーヴとぶどうを作るかしかできず、食料を得ようと思えば、交易をするしかなかったという。そのため、彼らはエジプトやメソポタミアの文明と出会い、ギリシア独自の文明を育んだ。ギリシアが西欧文明の揺籃の地となったのは、決してギリシアが豊かだったからではなく、むしろ後進的かつ土地が貧しかったかららしい。そんな知識が、このそびえ立つ山々を見ると、そうなのかもしれないな、というリアリティをもって感じられる。

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Αυτή είναι η Ελλάδα!

なぜか私たちはギリシアを前にして、小学校時代・中学校時代の思い出の歌を歌ったりしていた。そうこうするうちに、パトラと思しき港町が見えてきた。

Italia Bella Ciao!〜地中海航路 その1〜

祖父は船会社を営んでいた。そのせいか、船の旅というものに漠然とした憧れがある。船はすごい。この地球の七割が海だというから、船を使えば脚を使う以上にどこまでも世界を巡ることができる。

船体験は今年の3月までは、3度ほどあった。まずは伊勢の方から静岡まで行くフェリー。家族を置いて、甲板から遠ざかる陸地や、途中に見える灯台などを見ていたものだった。次は一人で乗ったタイの渡し船。あの時は友人が体調不良でホテルに戻ったので、一人、見つけた船に乗り込み、「このままどこへ行ってしまっても文句は言うまい。たどり着いたところが目的地だ」などと、旅人ぶっていたところ、対岸についたというすっとぼけたエピソードとともに記憶されている。3度目は、バルセロナで乗った「地中海クルーズ」だ。あの時も一人だったが、このクルーズは要するに、バルセロナの港からスタートして、地中海の方まで行き、Uターンして、またバルセロナへ戻るというコースを取っていた。観光船ではあったが、なかなか楽しい経験でもあった。

そして、今回である。わたしはバーリからギリシアのパトラ港まで約十六時間ほどの航路に挑もうとしていた。安い船で雑魚寝。一応寝袋も用意した。これはなかなか面白いかもしれない。そんなことを思いつつ、船に乗り込もうとしたわけだが、実は船に乗る前に一騒動起きている。

 

チェックインは出航の二時間前の17時半にしなければならなかった。ところが、地図に書いてあった港に行っても、出航場所がわからなかったのだ。これはかなりまずい。だが、時刻はまだ17時。余裕は30分ある。そう思ってネット検索にかけてみたところ、船着場は駅からかなり遠いところにあるものだった。昔モロッコに行こうと思って、タンジェという町のことを調べたら、町に近いオールドポートと、町から遠いニューポートがあった。おそらくバーリも二つあるということなのだ。仕方ない。行くのかない。私たちはひたすら港へと向かうことにした。オールドポートから海を横目に、砦がある方へと向かう。砦を越えればニューポートだ。遠いとは行っても歩いて15分ほど。状況はそこまで悪くはない…はずだった。

しかし、ついてみると、まずどこに行けばいいのかわからない。警備員に聞くと、なにやら大きな建物を指差すので、とりあえずそこに行ってみる。建物は閑散としている。なんだこれは。しかし進むしかない。保安検査場があったので、そこの係員に予約の紙を見せる。

アルバニアに行くのか?」とおじさん。

「いや、ギリシアです」

ギリシア? それはここじゃない。あっちだ。左に五百メートル」

なんだって?! 結局ここじゃないのか。これは本格的にまずい展開になってきた。私たちはとりあえずおじさんのさした方向に向かった。徐々にスピードを上げながら、船着場を探す。しかしそれらしきものは見当たらない。もしや、このまま船に乗れずじまいとなるのではないか。そんな不安が現実のものとなりつつある感触を感じていた時、夕日が沈む方角に大きな船が見えた。船に書かれた文字は「Piraeus」。アテネ近郊の港だ。よし、ギリシア行!駆け足で近づいて行くと、オフィスのようなものも見えてくる。

そこから猛ダッシュでオフィスのようなものに駆け込んだ。ぜいぜい言いながら、なんとか手続きを済ませたのは17時28分。本当に滑り込みセーフであった。

だが、目当ての船探しも難しかった。係員のお姉さんが何メートル先に云々のようなことを言っていたが、距離で言われたところで船がありすぎてよくわからない。それで警備員に聞いたり、トラックだらけのところを通ったりと、茨の道を超えてどうにかこうにか船に乗り込んだわけだ。夕日は沈みかけ、いわゆるマジックアワーだった。この美しい世界から船出をする。そんな感傷に浸るには、息を切らしすぎてはいたが、イタリアとの別れにふさわしいには違いない光景だった。

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針路は東

船に乗り込んだ時、異国へ行くのだと気づかされた。まず船にはギリシアの旗が掲げられている。つまり、この船の「旗国」はギリシアということになる。国際法上この船はギリシアの管轄を受けるわけだ。そして、乗員はギリシア人らしい。顔の雰囲気がかなり違う。イタリアは縦長だが、ギリシアは少々横長、そして言うなればギリシア彫刻みたいな顔をしている。もちろん、「グラッツィエ(grazie:ありがとう)」というと少しキョトンとされるが、ギリシア語で「エフハリスト(ευχαριστο:ありがとう)」といえば、にっこりとしてくれる。客もギリシアの人が多かった。おそらく、イタリアへやってきて、帰るのだろう。

エスカレーターを乗り継いでデッキのある階に出ると、そこには真っ赤な絨毯が敷かれたロビーがあった。意外と高級そうだ。ちょっと残念、などと思いながら、乗務員にぺらぺらのチケットを見せると、あなたがたはこっち、とロビーの真横の映写室のような雰囲気の部屋に通された。部屋はリクライニングできる椅子が並べられており、スクリーンのない映画館のようだ。なんとなく薄暗く、部屋には眠気が充満している。イタリア・ギリシア間の船は人気があり、椅子には座れないと言われていたが、シーズンオフなのか、とにかくガラガラであった。寝袋まで用意したので、これもまた少し残念。だが、快適に過ごせそうだ。

出航まで探検することにした。デッキはロビーのある階と、その一つ上の階が出られる他、一番上の屋上みたいな場所も出ることができた。一瞬立ち入り禁止かと思ったが、大丈夫なようだ。屋上は、ドラマや映画に出てくる学校の屋上のような趣で、ヘリポートのマークもあった。出航まで私たちはそこから船に入ってくるトラックを眺めたり、イタリアに別れを告げたり、小芝居を繰り広げたりしてすごした。

 

船の出航は、キャッチーなアナウンスとともに始まる。キャッチーな音楽、DJのような、英語・フランス語・ドイツ語・イタリア語・ギリシア語のアナウンスで、出航が告げられると、しばらくして船はじわりじわりと動き始める。地面が動いている、不思議な感覚である。

私の仲間たちの何人かは寝ていたので、友人一人と食堂に行ってみることにした。値段は予想するほど高くはなかったが、一応節約したいので、ビュッフェで一皿食べ物をとって、二人でシェアすることにした。ほんとうは「ムサカ」という料理を食べてみたかったが、なかったらしく、よくわからない肉料理を食った。味はうまい。

部屋に戻ってみると、案外誰もいなかった。そりゃそうだ。出航というタイミングを寝て過ごすのは損である。彼らはデッキにいたようで、私もデッキに出てみることにした。もう外は真っ暗で、ブオオンオオンンという重低音とともに、水しぶきが立っている。船の片側からはイタリアが見えた。もう片側には何も存在しなかった。いや何も存在しないはずはない。海があり、遠くには陸もある。だが、何も見えなかった。そこは完全な闇が立ち込めていた。闇があったのではない。闇は闇を覗き込む私を包み込んでいた。だから、霧のように立ち込めていたのだ。怖さもありながら、ふわりと宙ぶらりんになるような、変な感触がした。

一方イタリアはどんどん向こうへ逃げていった。私は少し格好つけて、心の中でこう呟く。「Ciao, Italia, ciao!(あばよ、イタリア、じゃあな!)」と。

 

できから降りた友人たちが食堂で食事を済ませてからしばらくして、酒盛りをすることにした。あるものは紙パックのワインを飲み、あるものはビールを買ってきた。私は瓶ビールを持っていたが、王冠は船上での退位を嫌って、なかなか外れない。ペンを使ったり(おかげでこのペンはインクが出なくなった)、灰皿を使ったりして、なんとかびしょびしょになりながらもビールを開け、乾杯の運びとなった。サラミと生ハムは食料としての意味も持って買っていたのだが、六人いるとすぐなくなってしまう。さらに、船の上で話しながら飲むという、青春ロマンの極致のような状況にありながら、誰も寒さには勝てなかった。というわけで、飲み終わったら直ちに退散、皆寝ることにした。なぜ寝るのか。それは、次回の投稿にでも書こう。

しかし、船室に戻っても寝る気にならない。とりあえず歯を磨いてみても、なんとなく落ち着かない。そんなわけで、私は仲間とギリシアコーヒーを飲んだりしてしばらく過ごした。ギリシアコーヒーはコーヒーの粉を煮出して淹れるもので、その際に砂糖も混ぜる。飲み終わった後の粉っぽさは否めないが、なかなか美味しい。

船室に戻り、しばらくあれこれしていると、デッキに行きたくなってきた。私は身支度をし、外に出た。すると、友人の一人ができから帰ってきたところに出会った。しかしせっかくなのでということで、二人でデッキに上がってみた。寒い風が吹き付け、イタリアはより遠くにある。闇もより闇だった。ふと、これは寝転んだら星が見えるのではないかと思った。私たちは冷たい甲板に背中をつけ、上を見た。案の定星はそこに瞬いていた。

星座はギリシア神話の名が付けられている。それはギリシア人が航海の途中、放牧の途中に星を見ていたからだという。「Superfast」社のフェリーと違って、もっとゆっくりだったであろうギリシア人の船からは、星も穏やかな風の中で見ることができたのだろうか。しかし、今でも星は美しく輝いている。東京で見るより、やはり多くの星が見える。正直なところ、このようなブログでは語りつくせない何かがそこにあった。

私たちは、そろそろ寝ることにした。

せっかく寝袋があるので、空いているいくつかの席に寝袋を置き、横になって寝ることにした。まだ深夜とは言えないが、明日は早い。枕代わりに、ギリシアの歴史の本とトルコから韓国までのアジアの言語が書かれた本を寝袋の頭が来る場所の下に置いて横たわってみると、船の微振動も心地よく、よく眠れそうだった。

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Ciao, Italia, ciao

 

素朴な魅力〜バーリ・イタリアの旅の終わり〜

「カステル・デル=モンテに行くにはどうしたらいいですか? 確か冬はタクシーしかないって」

「そうだね、遠いよ。バーリの町には来たことあるのかい?」

「いえ、初めてですが」

「じゃあ、バーリを見なさい。港もあるし海も綺麗だ。今日は天気もいい」

 

ローマから列車で四時間。美しい畑の風景、そして野を越え山を越え、私たちはイタリア最後の街バーリへやってきた。イタリアの形をブーツに例えることはよくあるが、バーリはブーツのかかとの部分にあたる。もっと正確に言えば、イタリアというのはヒールの高い女性もののブーツに似ているのだが、そのブーツのヒールの付け根の部分がバーリである。

バーリというとあまり知名度は高くない。イタリア人のマッテオにバーリに行くと言ったら、いきなり、「なんで?」と聞かれたほどだ。実は、ナポリの時に少し登場した神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ2世関連の史跡が幾つか残り、世界遺産カステル・デル=モンテもその近郊にあるので、そこまで地味な場所ではないのだが。だが、私たちがここに来たのは史跡巡りのためでもなかった。ここが、ギリシアのパトラまでの船の出航地だったからである。つまり、このバーリからパトラまで船に乗ろうという魂胆である。

しかし、列車が到着したのは12時。船の出航は19時30分。七時間ほど時間がある。まあ正直に言うと、バーリという街を見てみたかったので、余裕をもたせたのである。欲張りを言えばカステル・デル=モンテを見てみたかった。これは世にも珍しい8角形の城で、皇帝フェデリコのイスラーム趣味と科学への関心の賜物らしい。天文学の研究のために作られたとも言われている。この城は、ちなみに、カステル・デル=モンテはもちろんイタリアの5チェンティモ硬貨の裏面のデザインにもなっている。

というわけで、駅にある荷物預かり所のおじさんからバーリの地図を入手した後で、聞いてみたわけである。そして冒頭の会話に戻る。まあたしかに、バーリを見てみるのも良さそうである。フェデリコ2世関連の城も、市内にもあるらしい。それに周りの友人たちを付き合わせて慌てさせるのも悪い。そんなわけで、バーリの町歩きが始まった。

 

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バーリ駅前

バーリの駅はバーリ旧市街から少し離れている。駅前のロータリーを超えて、メインストリートとでも言える一本道をまっすぐ歩けば、旧市街のある地区へ着く。だから町歩きの始まりは、その一本道ということになるが、その一本道を歩いてみてまず思ったのは、非常に住みやすそうな街だということだ。ローマやナポリにあったような、治安が悪そうな雰囲気は一切ない(裏道は若干ガサガサしてはいるが)。 まず道が綺麗で、道の脇には南ヨーロッパっぽい木がたくさん生えている。雰囲気はイタリア北部とは大きく異なる。ナポリでも思ったが、南イタリアは若干スペインっぽい雰囲気がある。バーリの場合は、南仏にも近い雰囲気がある。一昨年訪れた南仏のニームは似たような、住みやすそうな、穏やかな空気があった。

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穏やかな一本道を行く

穏やかな風が流れ、子供連れのお母さんが歩いていたり、犬の散歩の人がいたりする。イタリア王国第2代国王ウンベルトの像のそばには子供用の公園。まさに住みやすい街を絵に描いたような街だ。少なくとも、吉祥寺より住みやすそうだ(交通の便はよくないかもしれない)。

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ウンベルト像

公園がある場所を過ぎると、ショッピングストリートになる。カフェが少々あり、ブランドものの店が増える。私には縁がない店も多いが、なんとなく雰囲気がいい。老後に住もうかな、などと考えたくもなる。

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ショッピングストリート

そのショッピングストリートをひたすら進んでいくと、目の前を大きな通りが横切る。その大きな通りを渡って左へ向かえば、なにやら威風堂々とした建物が現れる。これは何かの展示場らしく、ゴッホの展示があった(中には入っていないが)。この展示場の手前でまた左に折れると、すぐ右手には青い海が広がっていた。アドリア海だ。ヨットや船がいくつかつけられていて、陸続きの所を見渡せば、古い砦がそびえ立つ。後ろを振り向けば、幾つかのテラスがあって、観光客が食事をしている。やはりここにも穏やかな海風が吹いている。とりわけ海は美しい光景だ。日差しは眩しいし、かなり暑いが、ゆっくりしていたくなるような場所だ。時間の流れも、おのずと、ゆったりしている。だが、お腹が空いた。

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展示場。この建物もどことなくバルセロナを思い出させる。

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アドリア海。向こうに見えるのが海を守る砦だ。


というわけで、シーフードが食える場所を探すことにした。なぜシーフードか。それはマッテオに「バーリになにがある」と聞いた所、苦し紛れに、「シーフードは美味しいはず」と言っていたからである。まあ、そりゃそうだろう。海沿いの街で、船も出ているのだから、シーフードがまずいはずがない。そんなわけで、もう私達の腹はシーフードしか受け入れない腹になってしまったのだ。

だが、案外店を見つけるのが難しい。街は穏やかで、空気がゆっくりしていて、町歩きも楽しいが、いかんせん開いている店が少ないのである。別に日曜というわけでもないのだが、どうしたものか。もしかすると、南ヨーロッパではよくあることだが、昼食の時間が昼の2時から、などといった具合なのかもしれない。しかし腹が空いてしまったものは仕方ないし、観光もしたい。そんなわけで、元来た道を戻り、別の場所で店を探した所、一件、プーリア州(バーリのある州)名物を出す店を見つけた。

 

その店のウェイターはとても愛想が良かった。行動がゆっくりしているので、呼ぼうとしてもなかなか来ないという難点はあったが、それはむしろこちらの問題である。郷にいれば郷に従え。バーリにはバーリの時間感覚とスピードがあるのである。そうしたものに体を慣らすのも、一つ、旅の目的である。

ワインはメンバー六人で白一本をシェアし、料理はそれぞれ頼むことにした。私はどれがどれやらよくわからなくなったので、ウェイターに聞いてみた。すると、幾つか紹介してくれたが、とりあえずリゾットを頼むことにした。この料理が、すごかった。素朴な皿の上に、魚介のリゾットが素朴に乗せられてきたわけだが、食ってみると、びっくりするくらいうまい。魚介出汁がきいており、絶妙な塩味が食欲をそそる。バーリ、本格的に住みたくなってくる。

 

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フェデリコの城

ほろ酔いで、うまい料理も食べ、ご機嫌なムードで、城に向かった。フェデリコ2世の城だ。公園を抜けると、そこに星形稜堡(五稜郭みたいなやつ)に似ている様式の堅固な城塞が現れる。ただ、稜堡式は、銃器が使われるようになった後のものなので、フェデリコがやりかねないとはいえ、さすがにのちのものかもしれない。城の堀には不思議な唐辛子の形の現代アートが並ぶ。アートはともかく、ここにフェデリコが住んでいたのか……と感慨にふけっていたら、通りがかりのお兄さんが、

「今日は無料で入れるから入っていきなよ。今は一週間の間イタリアの博物館が全部無料なんだ」と教えてくれた。なるほど、と私は一つ合点がいった。

一人でサンタンジェロ城に登った時のこと、受付へ行ったら、カウンターに大量のチケットが山積みにされ、チケットを買おうとしたら、

「持っていきな」というようなことを言われたのである。私はそのチケットを取り、ゲートを抜けた。ずいぶん雑な無料開放デーだと思ったが、イタリア全土でやっていたとは(そう思えばなぜナポリ修道院は金をとったのだろう、とも思うが、あれはおそらく修道院が経営していたのだろう)。

バーリではさすがにチケット山積みはなかったが、確かに無料だった。中に入ると、城郭らしい風景が目の前に飛び込んできた。日本の城と同じく、門から入ると、次の門は正面ではなく、側面にある。わざと入りにくくしているのだ。第二の門をくぐると、中はフェデリコ2世当時の部屋があった。彼はノルマン人(平たく言えばヴァイキング)の末裔だが、その部屋もノルマン様式だった。

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この城は想像以上に面白かった。人が少ないというのもあるのだろうが、なんとなく当時を思わせる風情もあった。その一方で、真ん中に謎の現代アートが置かれたりしていて、ヨーロッパらしさもある(アヴィニョンでも教皇宮殿の目の前にジャコメッティの作品に似た針金人間がいたし、モン・サン=ミッシェルも頂上には不思議な像が置かれていた)。建物の中は博物館になっており、この城のことだけでなく、バーリの歴史の古さも伝えていた。城の地下には、ビザンツ帝国ローマ帝国の後継国家で、今の東欧・中東・エジプト・リビアを収めていたが、ユスティニアヌス帝の時に南イタリアも併合した)時代とみられる遺構があったし、近隣で発掘されたものも展示されていた。ローマのよりも少しグロテスクさがあるものがおおい。ナポリでも似たようなものを見たが、もしかすると、それはギリシアのものなのかもしれない。なんとなれば、この地域はギリシア人の入植地「大ギリシア(マグナ・グラエキア)」があったのだから。

城の上の階に登れば、この地域の陶器が展示されていた。その陶器は、昼食の時に出てきた素朴な焼き物に似ていた。どうやらあれは伝統ある皿だったようだ。目の粗い焼き物に、太い青でちょっとした装飾を入れる。ありきたりな言い方をすれば、普段使いできそうな代物である。しかしだからこそ、良さがある。台北でかつて見た玉を繊細に掘り出した器も美しいが、生活からは切り離されている。どちらかといえば、バーリの陶器は、民芸であろう。バーリという街の美しさも、この陶器に似ているような気がする。つまり、この街の見どころと言えば城や港だが、他にと言われれば難しい。だがこの街には確かに強い魅力がある。「ここに住んでみたい!」と思わせる何かである。それは街自体の美しさ、そこに住む人など色々な要因によるが、とにかく、心惹かれるのである。

陶器の展示エリアをさらに奥に進むと、フェデリコのころに宴会場になった大きな部屋があった。やはり何も装飾がないとガランとしている。だが、ガランとしているが故に、過去の息吹がある。窓が面白く、大きな円形の窓が幾つかあり、その窓の周りに装飾があった。窓の外を眺めると、何やら正教会のような雰囲気の教会がそびえ立っていた。それを見たとき、この教会の中に入ってみたい、とおもった。

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部屋を出て階段を降りると、

「チャオ」と警備員のおばさんが声をかけてきた。「大きな部屋は見た?」

「はい。E bella(綺麗でした)」と私は答えた。ここの人は本当に愛想がいい。

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外側から見るとイスラームの影響も見え隠れする。

 

そのあとは教会に行ってみたのだが、その教会の門は閉ざされていた。何かやっているのかもしれない。だがその教会の前の広場はまるで映画や舞台のセットのようで面白かった。路地は、いわゆる美しい路地であり、程よく生活感もあった。途中で撮影隊がやってきたり、警官と軍隊がやってきたりと、ちょっと慌ただしくもあったが、こぢんまりとしていい路地である。

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この教会の中はどのようになっていたのだろう

 

しばらくはそのあたりを歩いたが、出航の二時間前までにはチェックインをしなければいけない関係で、バーリともお別れの時間となった。来た道を引き返し、荷物置き場へ戻ると、

「バーリは美しかったろう?」とおじさんが声をかけてきた。

「Bari e bello(バーリは美しいです)」と答えると、

「海はいったか?」と聞く。

「ええ」

「港は?」

「見ました」

「旧市街は?」

「城に行きました」

そんなたわいもない会話をして、その場を後にした。

駅構内にあるスーパーで、食料を買う。船と言っても豪華クルーズではない。食堂はあるが多分高いだろう。それに、船の上で酒盛りをしてみたい。そういうわけで、サラミや生ハム、パンを仕入れ、ビールやワインを買った。計量しておかなければいけないパンの買い方に戸惑ったが、どうにかこうにかうまくいった。

さて、次の目的地は港だ。あとは、ゆっくりと、暮れかけた夕日でも見ながら港の方へ行き、もう少しそのあたりで食料を買い足そう。まだ時間も余裕がある。だが念のためにまずはチェックインしてしまおう……

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17時を回り、日は傾いている。夕暮れのバーリも美しい。

ところが、ことはうまく進まなかったのである。(つづく)

まだ死ねない〜ナポリ〜

サンタンジェロ城を一人で見た後、私は三人の友人とナポリへと向かった。

イタリアはこれで3度目になるが、いわゆる南イタリアには一度も行ったことがなかった。ナポリ行きを決めたのはそれが理由である。一人でも行くつもりだったが、なんやかんやで四人になった。

ナポリまでは、ローマはテルミニ駅から列車で一から二時間。振れ幅が大きいのは、鈍行か、急行かの違いだ。私たちは、行きは鈍行、帰りは急行を使ったが、イタリア国鉄に当たるトレニタリアより、イタロを使った方が安くて速そうだ。行きはいかんせん時間がかかった。安くて助かりはしたが、結局3千円ほどであるし、イタロは4000円くらいだからあまり変わらない上にこちらは急行だ。

 

さて、11時23分の電車に乗り込み、着いたのはだいたい13時くらい。天気はお世辞にも最高とは言えないが、雨は降っていない。そんなナポリに降り立って、私たちはまず地下鉄に乗ることにした。

ヨーロッパあるあるなのだが、中央駅は町の中心から離れがちである。そのため中心まで移動しなくてはいけない。ナポリのことは一切知らなかったので、唯一知っている、「スバッカナポリ」という下町の通りと、友人の一人が行きたがっているサンタキアーラ修道院にほど近いダンテ駅で降りることにした。

ナポリは治安が悪いというが、地下鉄は確かに少々ガサガサした雰囲気が漂う。だが、そんな「汚い、危険のナポリ」というイメージを払拭するためか、地下鉄駅は綺麗に改装され、現代アートが飾られていた。

ダンテ駅で降り、地上に出ると、ダンテの彫像が建てられた広場に出た。またはほんのりと排気ガスの香りがして、バイクや車が通りを行き交う。クラクションもなっている。町の外観はススで汚れ、生活感がむき出しである。私は瞬時に、東南アジアを思い出した。ローマのは全然違う街に来たことが実感できた。ここはむしろ、アジアである。

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雑多な通り。ナポリの象徴?

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振り返ればダンテ像

街は熱を帯び、エキサイティングだった。その生命がむき出しで溢れてきていた。ローマよりも、生きている街だ。楽しくなって散歩しそうになったが、まずは昼食である。ナポリに来たらピザを食せ、とマッテオにも言われている。

ところが案外ピザ屋が見つからない。そう思って行ったり来たりしていると、駅前の広場の向かいにピザを食わせる店があった。じっとどうやって頼むのか見ていると、店のおばさんがやってきて、

「どうしたんだい?」とイタリア語だかナポリ語だかで尋ねるので、とりあえず

「Quattro(4)」と答えてみた。

「何を四つ?うちにはお菓子とか…」とか言いながら、おばさんはショーケースを見せた。私たちはピザが食べたいので、

「Vogliamo mangiare pizza(ピザ食べたい)」と伝えた。

「ああ、ピザね!」とおばさんが私たちを中へと誘うので、私たちは奥の席に着いた。

とりあえずもらったメニューを開き、見てみる。正直、ありすぎてよくわからない。ここはオススメ作戦だ、ということで、私はとりあえずおばさんに、

「Che cosa di Napoli?(何がナポリのもの?)」と拙すぎるイタリア語で訪ねた。

ナポリなら…マルゲリータね」とおばさん。発祥の地だから、かなり素朴なものがいきなり出てきた。こうなったら、元祖マルゲリータといこうじゃないか。全会一致だったので

「Quatro Margherite, per favore(マルゲリータ四つお願いします)」

「ビールは?」もうどうにでもなればいい、と全員でビールを頼んだ。

しばらくしてビールが来て、そのあとでマルゲリータが来た。イタリアではピザはシェアではなく一人がホールで食べるらしい。そんなわけで、日本なら分かるようなサイズを一人でいただく。正直ピースだけだとお腹が空くので、こっちの方が性に合う。

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ピッツァ。写真に気を使わない性格が仇となり、指が入っている。ご愛嬌。

ミラノを中心とする北部のピザは生地が薄く、ナポリなど南部は生地が分厚いという。しかし出てきたものは、確かにミラノほど薄くはないが、通常の感じのものだった。ものにやるのだろう。味自体はかなり美味い。トマトソースとチーズがよくあっている。ビールはイタリア名物の、おじさんがビールを飲んでいる絵のビール、「モレッティ」である。マルゲリータはこのビールにもよく合う。

お会計を頼むと、「22だ!」とおじさんが言った。一人で22ユーロだとしたら物価はローマとあまり変わらなそうだ。だが、聞いてみると、四人でピザとビールを頼んで22らしい。これは安い。下町価格だ。

 

会計を済ませ、私たちはスバッカ・ナポリに戻った。相変わらず猥雑である。路地裏にはスーツケースがたたき売りされていたり、ショーウィンドウに変なマネキンがあったりと、もはやヨーロッパとは思えない光景が繰り広げられている。有名な、路地で洗濯物を干す光景は、あいにくの天気のせいで見ることはできなかったが、その生活感は伝わってくる。この町は面白い。

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ナポリの裏道

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人生を悟った顔である

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ナポリの裏道

 しばらく歩いて、サンタキアーラ修道院にたどり着いた。ごちゃごちゃ下町の中に突如大きな建物があらわれる感じだった。近くには子供が遊べる公園もある。その公園を横目に教会の敷地に入ると、どうやら入場料がいるらしい。国際学生証で割り引いてもらい、中に入った。

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教会の中庭の回廊はタイルで装飾されており、そのタイルには素朴な絵が描かれていた。ローマのゴテゴテっとした絵画芸術とは違う、いい意味で田舎臭い絵である。農民や漁師、猟師の生活が可愛らしいタッチで描かれている。回廊に囲まれた中庭の遊歩道にもタイルが貼られており、独特の美しさがある。中庭にはおそらくオレンジの木が植えられ、身をつけていた。こうやってみると、ああそういえば、ナポリはしばらくアラゴン王家の支配下にあったんだよな、と思い出す。

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独特な雰囲気の中庭。穏やかである。

しばらく東ローマ帝国の領土であった南イタリアは、ルッジェーロ率いるヴァイキング(ノルマン人)に征服され、シチリアとともにノルマン人の王家を頂いた。その末裔が、神聖ローマ皇帝ローマ帝国の後継者を名乗るが、領土のほとんどはドイツ)でもあったフェデリコ2世である。彼はドイツよりもイタリアの当地に関心を持ち、また、最古の大学をナポリに開くなど当時にしてはかなり開明的すぎたため、ローマ教皇庁と反目し、度々破門された。そんなフェデリコの死後にもノルマン王朝はナポリにありつづけたが、教皇庁は彼らを潰そうと考え、フランス王家の分家アンジュー家に征服させた。その結果、南イタリアアンジュー家支配下に入ったが、シチリアではこれに対する抵抗運動が起こり(シチリアの晩鐘事件)、アンジュー家を追放、現在のバルセロナ一帯(カタルーニャ地方)を治めていたアラゴン王家を国王とした。その結果、ナポリはアンジューの支配下にとどまることになった。だが、その100年後、アラゴン王家はナポリの征服を成し遂げ、それ以降南イタリアアラゴンの治める土地となる。

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そのためか、どことなく、ナポリ修道院や芸術には、スペインの香りがする(気がする)。例えば、修道院内にある博物館にはたくさんの聖像が飾られていたが、その独特の雰囲気たるや、ローマではあまりみないものである。人の肌の色でしっかりとなられ、まるで蝋人形のような姿の像。同じようなものをスペインでもみたような気がする。ナポリの町並みそれ自体も、どことなくアラゴン王国の中心地バルセロナのそれに似ている。特に色合いである。独特の暖色を使っているのだ。ただナポリの方が黒っぽい気もする。詳しく調べたわけではないのでなんともいえないが、関係あるのかもしれない。

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ナポリの街並み

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バルセロナの街並み。ご参考までに。色合いが少し似ている気がする。

だが、それだけではない。ナポリにはやはり、「ネアポリス」としての、古代から引き継ぐものもある。この町はイタリアで最古級を誇る古い町だ。かつてギリシア人が栄華を極めた頃、地中海沿いに築いた植民市だったのだ。南イタリアはそんな入植地が多く、人呼んで「大ギリシア(マグナ・グラエキア)」と呼ばれた。修道院の下には遺跡が眠っている。これは古代ローマ時代のテルマエ(公衆浴場)だ。なんとなく、ローマで見る建材とは違う、もっと白いものを使っているように見える。ローマ時代もナポリは栄えた。この辺で有名な都市といえばウェスウィオス火山の噴火で一夜にして埋まってしまったポンペイだが、ナポリもそれ以上に発展したのである。

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こういうところに来るとワクワクしてしまうのは男の子の性か。

ナポリは兎にも角にもそんな色々な歴史を引き受けているわけだ。ギリシア、ローマ、ノルマン、フランス、スペイン、そしてイタリア。おかげで非常に独特な雰囲気を湛えている。博物館と修道院はそれをありありと見せてくれていた。

修道院を見たあと、世界最古の大学を横目に見てから、海とコーヒーを求めて歩くことにした。世界最古の大学は文学哲学部を見つけたのだが、中に入ることは叶わなかった。本キャンパスは向かい側にあったらしいがどうやら見逃したみたいだ。少し残念。というのも、この大学は先述の通り皇帝フェデリコ二世によるものだからである。

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"フェデリコ2世大学 人文学・哲学部"

海はその大学の先にあるはずだった。しかし海に近づいたところで、港町らしく、コンテナをつける場所が見えるだけで、海本体は見えない。こういう港の光景を見るのも楽しいが、やはりナポリといえば海が見たい。後で知ったのだが、有名な、ウェスウィオス火山をバックに海とズラーっと街が見える光景はどうやらもっと先に行った公園から出ないと見られないらしい。港の向こうにウェスウィオス火山は見えたが、曇天のせいで、てっぺんは見えない。ナポリを見てから死ね、とはいうが、どうやらまだ死ねないようだ。やはりあれを見ないと死ぬ気にはならない。

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てっぺんが隠れている……

しばらく交通量が多く排気ガスの匂いで立ち込めた、アジアと見まごう雰囲気の道を歩くと、先に煤けた色の古い城が見えた。これも確か名所だったはず。ナポリからローマへ向かう列車のタイムリミットは近づいていたが、とりあえず城を見ておこうと、そちらへ向かう。

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かなり古そうだ

 

途中で友人の一人が両替をしていると、おっさんと綺麗なお姉さんのカップルが何やら話しかけてくる。

「E bella, no? Napoli e bella.(綺麗だろ? ナポリは美しいんだ)」とおっさんが言う。すかさずこちらも、

「Si, Napoli e molta bella!(はい。ナポリはすごく美しいです)」と返す。

「Chino?(中国人か?)」とおっさん。この人と話して何やら良からぬことに巻き込まれやしないか。少々警戒しながら、

「Siamo giapponese! (日本人だよ)」と答える。何やら話す二人。

「Parlai Italiano?(イタリア語はなすのか?)」とおっさんり

「Un poco(少しだけ)」

「English OK?(英語平気?)」とおっさん。これは間違いなくイタリア語で会話が始まるやつだ。英語はと聴きながら、英語では話さない。ヴェトナムでもそうだった。

「Napolitano?(ナポリ語は?)」ナポリ語! 存在は知っていたがまだ使っていると知らなかった。確かフニクリフニクラがナポリ語だったはずだが、それ以上のことは知らない。ナポリの人はなんとなくローマよりも柔らかい話し方をしていて、これが訛りなのかと思っていたが、ひょっとするとナポリ語なのかもしれない。興味深い。興味深いが、

「No(無理です)」

するとおっさんは何やらいう。わからないのでとぼけていると、自分のケータイを見せながら、

「Chino! No giapponese! (中国のやつだ。日本のじゃない!)」という。なぜ突然煽ってきたのだろう、と思い、覗き込むとサムスンである。おいおい、

Samsung e coreano(サムスンは韓国製だよ)」

これにおっさん、驚愕の顔を見せ、

「No chino? Coreano?(中国のやつじゃねえのか? 韓国なのか?)」という。そうだそうだと頷くと、おっさんは新しい発見をお姉さんに話し始めた。可愛いとこあるじゃないか。

おっさんはしばらくして自分の靴を指して中国製だと豪語した。正直、私にはそれがどこ製なのかはわからなかったが、靴の類はあり得るので、そうだなそうだなと頷いておいた。後で知ったのだが、このころイタリアは中国の推し進める「一帯一路政策」の仲間入りを果たし、親中路線を明確化していた。もしかすると、関わりあるのかもしれない。

一通り話した後で、おっさんは突然自分の財布を指差した。もしかすると、これは金よこせということなのだろうか。まずいな、と思ってると、財布を尻ポケットに入れ、

「気をつけろよ、スリが多い」的なことを言った。なんだ、結局ただのいいおっさんじゃねえか。

 

チャオといって別れ、私たちは最後にカフェに入ることにした。なぜカフェか。詳細は知らなかったが、友人のマッテオによれば、ナポリのコーヒーはスペシャルらしい。スタイルが違うのかと尋ねたが、別にそうではないという。じゃあ何が違うんだ。これは飲んでみなければ、というわけでナポリコーヒーを飲むことにしたのだった。

カフェでエスプレッソを頼み、外にある完全防寒テラスに入る。しばらくして出てきたのはなんの変哲も無いエスプレッソだった。しかし飲んでみると、確かにうまい。苦味もさることながら、香りがよく立っている。調べてみたら、淹れ方が普通のエスプレッソとは異なるらしい。これは、実際に飲み比べないとわからない違いであった。

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そんなこんなで時間である。私たちのナポリの旅もこれでおしまい。再びローマへと戻る時が来た。一つ言えるのは、この街がかなり気に入ったということだ。もう一度、きちんと訪れてみよう、そう思った。まだまだみるべきものも残っている。美しい広場、宮殿、そしてそうそう、ウェスウィオス火山と海もまだ満喫できていない。ナポリを見てから死ね、というならば、私にはまだ生きる理由が残されているわけだ。まだ死ねない。ナポリを見るまでは。もっときちんと見るまでは。

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イタロ。こちらの方が国営トレニタリアより安い

 

 

……とはいっても、見たからといって死ぬ気にはならないだろうな。

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さらばナポリ。必ず戻る。

 

時の交差路あるいは永遠の都〜ローマ(2)〜

ローマは永遠の都と称される。

伝説によれば、紀元前753年にロムルスとレムスという双子の兄弟によって建設されたローマは800年後には類稀なる地中海世界の大帝国の首都となり、その後衰退するものの、中世の間は西方キリスト教の頂点ローマ教皇庁の拠点としてヨーロッパの都であり続けた。ルネサンス以降はバロック文化の中心として栄え、現在ではイタリア共和国の首都である。それゆえに、ほぼ永遠と言ってよいほどに長生きをしているともいえよう。だが、実際ローマに行ってみると、「都」として永続しているという意味で「永遠」というのとは違う「永遠性」を感じるだろう。というのも、ローマは確かにヨーロッパの街として洗練されてはいるが、ロンドンやパリと比べると、明らかに「都会」ではないのだが、ローマはローマにしかできないローマらしさをたたえているからである。それはどの街でも同じことだが、特にこのローマは、「永遠の都」という二つ名がふさわしいような雰囲気を、「都会」でなくても、持っている。

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フォルム・ローマーヌム。夜景は初めて見た。

 

永遠には二種類あるという。こういうことは中世ヨーロッパにおいては、よく考えられてきたらしい。というのも、中世ヨーロッパの学者といえば「神は永遠である」などといったことを真面目に問うてきた人々である。そうすると、必然的に、「永遠とはどういうことなのか」というところに行き着くというわけだ。

ではその二種類の永遠は何と何か。一つ目は、要するに、「永続する」という意味である。「永遠の都」が、ローマ帝国カトリックイタリア王国イタリア共和国へと引き継がれながらも、常に都として存在してきた、というときにはこの第一の意味での「永遠」を使っていることになる。「いままでも、そしてこれからも」というわけだ。

ではもう一つは何か、というと、これは少し難しい。「永遠の今」と言われるやつである。神にとっての永遠は、これらしい。つまり、神にとっては、「過ぎ去ったもの」としての「過去」や、「まだ来ていないもの」としての「未来」はありえない。なぜなら神に制約はないから、過去や未来を想定すれば、時間に制約されることになってしまうからである。では、神にとっての時間とは何かというと、過去も現在も未来もまた、現在のこととして把握されるものなのだ。時は過ぎ去ることはなく、常に今があるだけである。つまり、現在過去未来が永遠の元に一つになっている。

正直、私の理解が追いついていない部分も大きいだろう。だから説明するのもまずおこがましいわけであるが、これからいうことはよりおこがましいだろう。つまり、ローマには、「永遠の今」に近い雰囲気があるのだ。未来についてはわからないが、少なくとも、ローマという町は、常に都であり続けた、という以上に、かつての足跡がくっきりと残されており、今ローマに降り立つことは、かつてのローマに降り立つことでもあることをひしひしと感じさせる。どの街も同じようなことは確かにあるが、ローマはそれが紀元前にまで遡ることができるのだから、尋常ではない。そういう意味でも、ローマは「永遠の都」といえよう。

 

例えば、最初の朝のことだが、私たちは散歩に出かけた。アパートから少し歩くと公園があって、その公園の中に入ると、かつてのトラヤヌス浴場の跡地が現れる。もちろん、いたるところが崩れているし、草も生えている(爆笑しているわけではない)。しかしそれは、トラヤヌス浴場の歩んできた歴史そのものを見せてくれるのである。すぐそばにあるネロ帝の邸宅(ネロ邸)だった「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」もまた、同じである。ローマでは、現在にいながら、過去に行くことができる。

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トラヤヌス帝の浴場の跡地。徒歩5分もかからなかった。

その一つの理由は、中世の人々のテキトーさにある。ヨーロッパでは、中世になると文化的レヴェルががくんと落ちた。ローマ時代は、イタリアの火山灰を用いたローマン・コンクリートを用いた建築物が多数建てられていたが、中世の人にその技術は引き継がれなかった。しかも、ローマン・コンクリートの建造物は堅固であり、壊すことができなかったという。中世の人たちは、考えた結果、一つの結論にたどり着く。

「壊せないなら、土台にしちゃえばいいじゃない」

というわけで、ローマでは現在に至るまで、様々な建造物が古代の建造物の上に建てられているのだ。さらに、教会などの材料も、採掘場が限界を迎えていたこともあって、遺跡から石を切り出して再利用された。ローマではつぎはぎのない石柱が見られたが、そうした石柱も切られたり、そのまま使われる形で教会建築になっている。この再利用の精神は、一方では遺跡の破壊という結果になった。古代の神殿に十字架がつけられるという状況や、古代建築の荒廃はこのせいだ。さらに、ローマに地下鉄が少ししか通っていないのは、掘れば遺跡が出てくるという状況だからだが、これもまた、建造物が上に作られたせいでもある(もちろん、それ以外にも、砂がたまっていって、地面がせり上がっているということもある)。だが、その一方で、再利用されたことで、歴史が決して剥製のようなものではなく、街の持つ生命の一部として存続し続けることにもなった。それくらい、ローマは遺跡と現在の建物が共存しているのだ。

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再利用建築の代表格マルケッルス劇場。下は古代の劇場、上は貴族の邸宅。

それがよくわかったのは、今回の旅で初めて訪れたサンタ・マリア・イン・コスメディン教会だった。この教会は「真実の口」で有名だが、今までその混雑を理由に近づかなかった。しかし、この教会、真実の口以上に、中が面白いのだ。まず、この教会は、教会建築の中でもかなり古い「バシリカ様式」で建てられている。バシリカとは、ハリーポッターに登場する大蛇バジリスクにどことなく似ているが、全く関係ないもので(強いて言うなら、語源が同じで、ギリシア語で国王を表す「バシレイオス(ヴァシリオス)」に関わる言葉だ)、古代ローマにおいては「公会堂」をさす名称だった。公会堂とはつまり、裁判などが行われた、大勢が集まる、列柱で囲われた建造物だが、キリスト教時代になると、教会として使われるようになる。このサンタ・マリア・イン・コスメディン教会は、そんな、バシリカ様式で建てられているほか、東方正教会のスタイルも残しているらしい。一方で、この教会は、地下に降りることができる。お布施が必要になるが、お金を入れると、係りのお兄さんが日本語で「アリガトーゴザイマス」と言ってくれる。「グラッツィエ」と返すと驚いたような表情で微笑んでくれた。

教会の地下にはこの教会の最初期の礼拝堂がある。コンクリートとレンガを用いた建築方法からもわかるように、古代ローマの廃墟を利用したという。ひっそりとしていて、静かながらも、この観光地となった教会を古代が支えているのである。そして、上もまた非常に古い様式だ。その古さは様式だけではなく、天井に描かれたフレスコ画からもわかる。見逃してしまったが、調べてみると、ここには、世の男女を浮足立たせる「バレンタインデー」の発端となった聖人ウァレンティヌスの遺骨があるという。古い形でのキリスト教信仰がここに残っているというわけだ。

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サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の地下礼拝堂

この教会からすぐのところには、有名な「マルケッルス劇場(半円形の劇場だが、上の部分が建て増しされ、かつて貴族オルシーニ家がそこを邸宅としていた、というこれまた現在と過去の共存を示す遺産)」や、「キルクス・マクシムス(かつて馬車レースが行われた。ここも今回初めて訪れた)」、そして「フォルム・ローマーヌム」などの古代ローマの遺物が数え切れないほどある。古代の遺産と、それを再利用した中世。この界隈はそれを強く印象付けてくれる。そこにこそ、過去との共存というローマの姿が見えるはずだ。

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キルクス・マクシムス。ここで馬車同士のデスレースが繰り広げられた。市民は無料で見ることができたという。

だが、よく考えてみれば、ローマがそのようになったのは中世からの話ではないのかもしれない。古代ローマ人自体、使えるものならなんでも使う人たちだった。道路網、水道網、建造物を支えた、古代ローマの土木技術は、先住民のエトルリア人の技術をベースにしている。さらに、学問、神殿にいる神々、文字、音楽などは皆、ギリシア人の文化をベースにしている。ローマ人自体が再利用の人々だったのだ。

だが、それだけではない。古代ローマ人も、中世ローマ人や現代のイタリア人も、そうして再利用したものを、自分のものとして、自分の色をつけて、うまく共存させることで、ローマらしさを演出することに長けている。ただのつぎはぎではない。それは面白いようにパッチワークとして完成されているのだ。そう考えると、ローマの精神は、過去から現在に至るまで生き続けているのかもしれない。

 

ローマの精神。それはやはり、ローマという町が「コスモポリス(世界都市)」になりきれないところにも宿っているのかもしれない。ローマは、古代においては「カピトル・ムンディ(世界の首都)」と呼ばれているにもかかわらず、どこかローカルである。どの街もそうであるといえば、そうであるだろう。だが特に、ローマはそうである。パリにはパリらしさがあるし、ロンドンにもロンドンらしさはある。だがパリやロンドンはもはや、純然たるパリやロンドンではない。パリやロンドンの中には、ポンディシェリーやデリー、東京や香港、セネガルやシリアがある。それらを含めてパリやロンドンであり、そこにコスモポリスとしての良さがある。東京も同じだと思う。しかしローマは、そういうものと無縁ではないものの、ローマはローマなのである。ローマの面白い点はそこにある。

それが顕著に現れるのは料理である。ロンドンやパリの料理というと、なかなか思い浮かべるのが難しい。ロンドンであれば、悪名高い「うなぎのゼリー寄せ」くらいだろうか。たぶん、私が知らないだけで、ロンドンやパリにもあることにはあるのだろう。いつか試してみたいものだ。一つ言えるのは、ロンドンやパリになると、何が伝統料理なのかよくわからなくなっているか、存在していても、それを出している店が見つけづらくなっている。一方ローマでは実際にローマ料理を出している店を結構見かけるのである。もつ煮込みのトリッパ、ミートボール、サルティンボッカ、カルボナーラ、カッチオ・ア・ペペ、パスタ・アルフレ……といった家庭料理が見受けられるだろう。

今回のローマ滞在では、ローマ伝統料理をいつもより多く食べたと思う。なにせ、初日も、二日目も、三日目も、ローマ伝統料理を食べたのだ。初日に関してはもう書いた。「カルボナーラ」と「サルティンボッカ」である。では他の日はどうだったかというと、二日目はローマ風ミートボール、三日目はトリッパとパスタ・アルフレドだった。

 

特に思い出に残るのは、二日目の店だ。

その日は半日ローマの遺跡で過ごし、そのあとでヴァティカンの美術館に行こうとしたのだが、結局閉館ぎりぎりについたら、もう閉館しており、中を見ることができなかった。それは明らかに、私が遺跡でローマの話をペラペラと話しすぎたり、知っているルートを取ろうとして失敗したりしたせいなので7割がた私のせいだったわけだが、唯一の救いはサンピエトロ大聖堂で生で礼拝が聞けたことだった。キリスト教系の幼稚園に通い、大学もキリスト教系だったが、キリスト教徒でも、それに準ずる立場でもないので、礼拝の参加は見送ったが、充分その凄さは伝わってきた。それに、バロックの教会に来ると、広いローマという都の観点から見た、古代と中世と近世の共存を見ることができる。時代間の行き来がタクシー一本。これはやはりローマが永遠の都であるがゆえだろう。

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ヴァティカンのサンピエトロ大聖堂

そのあとはサンタンジェロ城に行こうと思ったが、これもなんだかんだで断念。旅とはこういうものだ。結局、翌日リヴェンジを果たすこともできたし、無料だったから、要するに、これは神のご加護だったというわけだ。とにかく、その足でナヴォーナ広場まで出て、私たちは件のローマ伝統料理屋に入った。店名に「オスタリア・ロマーナ」と併記されており、マッテオに紹介された店かと思って入ったが、別の店だった。だが、店内は賑わっており、イタリア人も多かった。

外が寒かったので、ローマ風もつ煮「トリッパ」を頼んだ。以前来た時に食べて気に入った料理だ。もつをトマトで煮込んだもので、寒いと美味いだろう。しかし、しばらくして店のおばちゃんがやってきて、

「トリッパはないの。ミートボールならあるわ」と言ってきた。ミートボールがローマのものなのかわからないが、とにかくローマのものが食いたいので、メニューを広げ、

Vorrei mangiare qualcosa di Roma.(何かローマのものが食べたいのですが)」と伝えた。

「それなら、サルティンボッカね」と店員のおばちゃんは英語で答える。こういうのが一番やりやすい。

Va bene, però ho già mangiato Saltimbocca  ieri...(いいですね、でもサルティンボッカは昨日もう食べちゃったんです)」

OK。それなら、ミートボールね。これはミートボールのパスタ、こっちは煮込み。これもローマ料理よ」なんだが、ミートボールと言われると、お弁当に入ってる冷凍のやつを思い出してしまった気が進まなかったが、そこまでいうならミートボールだ、と、ミートボールを頼んだ。

これが、舐めてはいけないミートボールだったのだ。切ってみると、中身はキメが細やかで、ゴツゴツ感はない。それでいて、ソーセージっぽくはない。きちんと肉らしい味だ。トマトソースもうまくマッチし、赤ワインにも合う。これは本気のミートボールである。これはかなり美味い。そのうえ、再現不能である。このミートボールはなかなかだ。

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本気のミートボールを出してくれた店

 

というわけで、ローマ料理というのもなかなか美味いのである。トリッパも翌日、老舗のローマ料理屋で食べたが、美味しかった。どれも、しかも、奥深い味がする。家庭料理らしい単純さを持ちながら、どこか複雑である。

ローマという街も、古い街で済ませて仕舞えば、遺跡がある街で済ませて仕舞えば、わかりやすいが、街並みにも、人にも、この街が背負ってきた何かを感じさせる。それに、来るたびに違う顔を見せてくれる(3度目にして初めて行ったところもたくさんある)。そうしたことをひっくるめて、ローマは永遠なのだろう。

今回は億劫になってトレヴィの泉にコインを投げなかったが、また行こう。永遠の都は、その扉を開いて待っていてくれるはずだ。次はもっと中世のことも知って、そしてイタリア語ももっと上達して、また来よう。そう、思っている。

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サンタンジェロ城から見たローマ。初めて登った。無料だったので、チケットがカウンターにどっさりと置かれており、「もってけ泥棒」といった雰囲気でチケットが配られた。それもいい経験。

最初の晩餐〜ローマ(1)〜

ローマは思ったより寒かった。

以前一度冬に訪れたことがあったが、あれはミラノやヴェネツィアなど北部の町を訪ねた後だったからか、心なしか、暖かく感じた。だが、ローマはローマで寒い。空気はしっとりしていて、ヨーロッパ特有のキーンとした寒さではないが。

 

ローマからは7人という大人数での行動となる。北京では二人だったが、ローマフィウミチーノ空港でまずウィーンから来た友人と合流し、そのままローマ市内へ向かう。暴君として知られる(私にとっては空回りしすぎたちょっとかわいそうな)皇帝ネロが建てさせた黄金宮殿ドムス・アウレアや、ローマ帝国を最大版図へと導いた軍人皇帝にして五賢帝の一人トラヤヌスが建てさせたトラヤヌス浴場(テルマエ)にほど近いアパートまで行けば、ポーランドから旅をスタートさせた友人たちが待っている。

空港からの列車はなんとなく日本に似た風景を駆け抜ける。こう見ると、なるほど日本のよくある建物はイタリアのイメージだったのかと思ったりするが、どちらが先かはわからない。あるいは、同時かもしれない。そんな街並みに夕日は沈み、夜の帳が下りる。ローマ最大の駅で長距離列車の発着駅でもあるテルミニ駅に着いた時にはもう外は夜だった。

テルミニからは地下鉄に乗り換え、スリが多いことで有名なB線で最寄りのコロッセオ駅を目指す。最寄りがコロッセオ駅とは贅沢である。

コロッセオ駅は、その名の通り、コロッセオの目と鼻の先にあるわけで、改札口から出ればすぐにコロッセオだ。ローマはこれで3度目なので、それは理解していたのだが、やはり改めて感動する。そびえ立つ、という表現が適切な風景がそこにはある。これから、数日間は、このコロッセオが宿泊先の象徴となるわけだ。コロッセオをみて安心するということにもなってゆくわけだ。それは少々面白い。

 

そこから15分ほど歩けばアパートだ。随分と感じのいい地区である。やはり宿泊先が安心できる方がありがたい。宿泊先はしばらくの住処となるからだ。良い選択だ。

アパートに入ると、友人たちがいた。久々の再会である。ポーランドからイタリアへ向かう過程で様々なトラブルが降りかかったらしく、再会の喜びもひとしおだ。しかし、それもつかの間、私は夕飯を食べる先客がローマにいたため、彼らが友人のうちの一人のボーイフレンドと夕飯に向かうのをひとまず見送って、その「先客」の連絡を待った。

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その先客というのはマッテオというローマ出身の友人である。彼はモントリオールで会い、同じ部屋に留まっていた同居人であった。前回の旅でも声をかけてくれたのだが、前回の行程にイタリアはなかったので会えなかった。それにしても、モントリオールがきっかけで、パリではパリジャンに、ローマではローマっ子に会えるのだから、面白い。語学研修をする意義はいろいろあるのだろうが、隠れた効能は、こういうことなのかもしれない。

マッテオは車で迎えに来てくれた。異性なら惚れる展開である。冗談はさておき、マッテオの話である。彼はローマ出身だが、現在ミラノの大学で学んでいる。それは知っていたので、会えたのはかなり奇跡的なのだが、どうやらサッカーの試合を見に来ていたらしい。やはりイタリアのサッカー熱は凄いようである。さて、そんな彼の実家はローマではあるが、中心地まで車で30分ほどかかるという。ローマも広い。

今回連れて行ってくれたのは、トラステヴェレという界隈である。私が一度行ってみたいと思っていたローマの下町である。一度行ってみたいが、アクセスが良いわけでもなく、ハードルも高い。だから、連れて行ってくれたのは非常にありがたかった。一瞬、ローマでやりたいことリストが一つ、初っ端から消えたというわけである。

泊まっていた地区からトラステヴェレまでは、多少かかる。車はコロッセオを通り、ローマ帝国の政治と文化と経済の中心フォルム・ローマーヌムを抜け、コンスタンティヌス凱旋門をバックにして馬車レースが行われたキルクス・マクシムスを横目に走って行く。

「この石畳は古代ローマに使われた石と同じものなんだ」とマッテオは言う。その話は何となく知っていた。だがローマ人が言うのだから正しいわけだ。

ローマ帝国は土木の力でヨーロッパ各地を開発し、征服していったと言っても過言ではない。「すべての道はローマに通ず」というが、帝都ローマからは無数の街道や、水を運ぶ水道橋がローマ帝国の領土隅々にわたるまで伸びていた。その中で大きな役割を果たしたのが石である。日本において江戸幕府もまた土木工事を通じて日本各地を「徳川の平和(パークス・トクガワーナ)」へと導いたが、それは木材によるところが大きい。一方で「ローマの平和(パークス・ローマーナ)」は石の上に成り立っている。そしてその石が、今のローマをも支えているのだ。

 

トラステヴェレとは、テヴェレの向こう側、という意味である。英単語を覚える際に接頭辞接尾辞を覚えると良いと言われた人もいるだろう。私の世代は特にそれが奨励され始めた時期だから、特にその信奉者は多いはずだ。私にとっては、違う意味を持つが同じ形の接尾辞が多いので(conなど)結局ケースバイケースで面倒だし、漢字だって結局は後になって初めて意味がわかるということがあるのだから、英語も同様セットで覚えたほうがいいんじゃないかと思うきっかけになった説である。まあそれはさておき、ここでいう「トラス」は、transporttransactiontransformなどのトランスと同じである。テヴェレ(Tevere)というのは川の名前だ。ローマ時代は「ティベル(Tiber)川」と呼ばれた。bvに変化している。日本人がbvを誤るのは、その二つの概念がなく、欧米人は間違えない、という考え方があるが、ラテン語とイタリア語でこういうことが起きるわけだし、ギリシア語は古代にbだったものがvの発音になっていたり、スペイン語vbで読むようになったりしているのだから、案外bvは近いものという我々日本人の勘は正しいのかもしれない。

古代ローマ時代、ローマの中心はテヴェレ川の東岸だった。遺跡も基本的にはその辺りから出てくる。現在も観光の中心はその辺りだ。コロッセオ、フォルム・ローマーヌム(フォロ・ロマーノ)、パンテオン、スペイン広場、トレヴィの泉……これらは皆東岸である。川の向こう側は古代ローマ当時は治安も良くなく、新興開発地区であった。中世に入ると、逆に遺跡の多い東岸は廃れ始め、西岸の北側にあるヴァティカン地区に光が当たる。ローマ時代は開発地区、街のはずれだったこの地区には使徒ペテロの墓が置かれ、その上にはローマ教皇庁が置かれたのだ。東岸がスラムと貴族の邸宅入りみだれる場所となっていたのに対し、西岸南部のトラステヴェレは徐々に下町として歴史を歩んで行くことになる。

実際にトラステヴェレに来てみると、まずローマの夜は寒いんだということがわかり、それから、結構暗いことがわかった。日本人一人では、入るのは大変そうである。案内されたのは、建物の地下にある店。店名はTrattoria da Enzo al 29。中は結構混んでいる。なかなかの人気店だ。

「ローマの人たちの中で人気なの?」と尋ねたら、

「そうだね、みんなここは美味しいって言うよ」とマッテオは答えた。

席に着くと、全編イタリア語のメニューが来た。周りには家族連れがたくさんいて、小さい子もいる。いきなりとても良い店に入ったようだ。壁には装飾として、調理器具にも、拷問道具にも見える古い道具が並べられている。

「ローマ名物といえば、カルボナーラだ。それか、カッチョアペペ。どっちにするのかは君に任せるけど、俺なら、カルボナーラをすすめる」という。ローマのカルボナーラはかつて食べたことがあったが、そんなに言うなら、ということで私はカルボナーラを選ぶことにした。さらに、アーティチョークか何かのサラダを頼むことにしたが、それは品切れなようで、とりあえずパスタだけ頼んだ。

「カナダの他のメンバーと会ったりする?」とマッテオはいう。

「そうだな、同じ階だった人とはよく会うよ」

「そうか。実は何人かローマに来てくれたんだ。それで会ったよ」

しばらく喋り、しばらくの間。それから思い出したように会話を始めたりなどする。久しぶりの会話なんてこんなもんだろう。混んでいるせいか、なかなか料理はこない。私はあまり飛行機というのが得意ではないので、長時間フライトの際は何も口にしないようにしており、北京ローマ間は何も口にしていたなかったから、空腹感が募る。頼んだ赤ワインを少々飲む。マッテオいわく、パスタには赤ワインらしい。牛などの肉には赤、魚や鶏肉などには白ということは知っていたが、パスタにも合わせるワインがあるとは知らなかった。

「酒は飲む?」と聞いてみた。モントリオールで私が一人、部屋でビールで晩酌していた時、「アルコールは嫌い」と言っていた気がしたからだ。

「飲むよ。特にビールはよく飲む。でも、ワインは嫌いなんだ」とマッテオ。それから冗談めかして、「変だろ、イタリア人なのにワインが嫌いだっていうのは」

「いや、まあ日本人でもサケが嫌いな人はいるから」と私は言った。サケとは、日本酒のことである。

そうこうするうちに、カルボナーラが来た。珍しく、スパゲッティ(細長い麺)ではなく、ペンネ(筒状の太いパスタ)である。見るからに美味しそうだ。一口食べる。少々強い塩味、チーズの香り、そしてアルデンテのパスタがとてもうまい。ベーコンも脂がのっていてうまい。

「ブォニッシマ」とイタリア語で言ってみる。マッテオは、はははと笑う。

「その肉は豚のここなんだ」と言いながら、マッテオは頬をさす。豚の頬肉か。面白い。後で別の店に、「ベーコンを使うのは禁止(forbidden)。豚の頬肉を使う」というようなことが書いてあったから、これが本物なのだ。かつてトレヴィの泉のそばで食ったチーズがダマダマになった卵パスタとは違う。うまくソースが作られている。それもきもらしい。マッテオは、ダマダマになったやつは偽物だと言っていた。

食いながら、これからの予定の話をした。ローマからナポリへ日帰り旅行をし、その次の日はバーリへ向かう。

ナポリはすごくいいところだ。でも、ピザ屋は混んでるよ。ピザはナポリ発祥なんだ。きちんとしたところは、一時間半は並ぶ。観光客も、現地人も来るからね。あと、ナポリに行ったら絶対にコーヒーを試すべきだ」とマッテオ。

「スタイルが違うのかな?」

「いや、でもナポリといえばコーヒーなんだ」ほう。どういうことかはわからないが、試してみる価値はある。

「それと、バーリは何かあるかな」と私がたずねる。

「バーリか。行ったことないけど、なんでバーリに行くの?」とマッテオ。すごく訝しげな表情である。

「実はバーリからギリシアまで船が出てるんだ」

「ああ、なるほど。あのへんだったら、シーフードだね。それだけは外せない」マッテオは言った。

食べ終わると、パスタは「Primi Piatti(最初の料理)」だから、「Secondi Piatti(次の料理)」も食べようということになった。要するに、コース料理のようなものだ。前菜があり、次にパスタが出てくる。そしてそれから、肉などを食べるわけだ。マッテオはサンドイッチのようなものを頼んだ。私はローマ名物のもつ煮込み、トリッパを食べたかったが、お勧めと聞くと、マッテオはトリッパではなく、「サルティンボッカ・アッラ・ロマーナ」なるものを指したので、それにしてみた。

出てきたのは、焼いた豚肉(たぶん)の上に生ハムが置かれ、白いソースをかけた料理だった。これは新たな発見だった。素朴ながらすごく美味しかったのである。家で作れそうで作れなさそうな味である。マッテオからナスのトマトソース和えのサンドイッチのおすそ分けも受けながら、お腹パンパンになりながら、ローマ料理を堪能した。マッテオは他にも様々な店を紹介してくれたが、結局行く暇がなかった。またローマに行った時は真っ先に行ってみよう。そう思った。

最後は、ティラミスとエスプレッソだ。こちらは感動するほど美味しいというわけではなかったが、美味しかった。おそらくお腹がパンパンだったこともある。だが、満足だった。それから二日連続でローマ伝統料理を食べることになるとは思っていないので、「これからみんなの付き添いでピザとかリゾットとかローマ的じゃないイタリア料理を食っても十分平気だな」などと謎の上から目線にもなったりした。

 

それからは車で送ってもらい、アパートに帰宅した。再会を誓って車を出て、部屋に戻ると、友人たちはまだ帰っていない。テレビを見ていると、みんな戻ってきたのだが、この日は様々なことがあったので、ぐったりとしていた。本当はイタリアのテレビなどつけながら、北京で土産に買った栗のお菓子をつまみつつ、ポーランド土産の栗のお酒を飲んで、ポーランドの土産話など聞こうと思っていたが、どうやらそうはいかないようだ。一緒に北京に行った友人と、独り起きていたポーランドからの友人の三人で一杯だけ栗の酒(通称クリシュ)を飲んで、イタリア到着後にあった事件の数々を聞いた。そうするうちに、1日は終わった。

一瞬の北京

この、明らかにクレイジーと言える旅程は、完全に私の気の迷いから発したに過ぎない。常々夢想してきた「男の子の夢」ともいえようものを実現させてみただけだ。つまり、ヨーロッパを旅した後に、「ああ、帰りたくないなぁ、このまま東南アジアにでもいってしまいたい」と思うことがあるが、それをそのまま旅程に組み込んでみたのである。バカそのもの。正直、実現したとなると、私の小さい脳みそではキャパオーバーである。

さて、どんな旅程なのか説明してみよう。まず、北京経由でローマへと向かう。北京ではもちろん市内に出ることを忘れない。ローマで先にポーランド旅行をしていた友人たちと会い、そのまま、ナポリやバーリなどを回ってから船でギリシアに渡る。アテネで過ごした後、友人たちと別れ、一人でブルガリアのソフィアを経由して、トルコのイスタンブルへと行く。そこで別の友人二人と会う。そしてしばらく過ごしたら、モスクワ経由で一路バンコクへと向かうのだ。友人とはバンコクでお別れ、そして、バンコクから列車でタイ東北部ノンカーイへ向かって、ラオスに入国。そのあとでラオスの首都ヴィエンチャンからヴェトナムのハノイへ行き、ここがゴールとなる。ちなみに今私は、タイの列車の車中。旅ももう終盤戦だ。

正直にいうと体はわりと疲れている。そして、友人との出会いと別れを繰り返したために、なんだか今までは感じなかった寂しさであふれている。なんとかそれを振り切って、自分自身に向かう姿勢を取り戻したいものだ。タイの寺院でも、悟れるようにと合掌してきた。

 


それでは字数もまだそんなに多くないので、北京の話でもしようと思う。人と行った旅の話をするのはあまり得意ではなく、今までも避けてきたが、やってみよう。だからつまり、北京には同行者がいたのだ。

私は諸事情あって、第一陣のポーランド旅行には参加できず、同じく参加できなかった友人と二人でエアチャイナで北京に赴いた。着いたのはもう夜で、初めはトランジットホテルを無料で使おうと思ったのだが、手続きができず、空港で寝ることにしていた。

そこでトラブルが起きたとすれば、わりと当然のことである。だが最初の難関は、なんと羽田空港だったのだ。


私がイーチケットを見せると、係員が、

「イタリアから出るチケットはありますか」と尋ねる。今までそんなこと聞かれた覚えがなかったが、

「いえ。陸路でわたるので」と答えた。

「それではバスか列車のチケットは?」と係官。そんなものあるはずない。というか、そもそも、3ヶ月以内にイスタンブルからモスクワへ向かうチケットがあるはずだから、必然的にイタリア出国はわかるはずではないか?

「ありません。」私はふと船のチケットのスクリーンショットが友人から送られてきたのに気づき、それを見せた。

「英語で書かれたものは?」

「ありません」

「イタリアの入国の条件がイタリア出国のチケットを持っていることなので…」

「でもイスタンブルから出ます」

と、なんとか無理押しをしてみる。係員は何やら上司に確認し、オーケーということになった。しかし、色々と登録する段になって、

「日本への帰りのチケットがありませんよね?これはバンコク行きです」というではないか。バンコクの後、ハノイ初の日本行きチケットがあるはずである。そういうと、係員は「ああ」と登録し始めた。どうやら、私の旅程がクレイジー過ぎて、良識ある係員には理解できなかったらしい。まあ仕方がない。私自身もわりと理解しかねているのだから。

 


とまあそんなこんなで北京首都国際空港である。入国する前に寝てしまおうと考えていたが、義務づけられている指紋登録でまごついていたら、あれよあれよと言う間に入国してしまい、バゲージクレームがこの日の寝床となった。

ターンテーブルのまわるガガガガーという音で目を覚まし、私たちは市内へと向かった。両替をしてもらうと、なんと60元も手数料を取られた。両替所のお姉さんはそのことを教えてくれていたのだが、眠い頭だった私はテキトーに頷いてしまったのだ。ようするに、完全に私のミスである。今日はどうやらツイてないらしい。

 


空港から市内までは、電車でいける。かの有名な天安門まで行くならば、だいたい一時間弱かかる。北京市内の入り口となる東直門まで行き、それから地下鉄に乗り換えるというわけだ。地下鉄はもちろんソ連式。つまり、ホームがあり、そこに柱がいくつかあって、両サイドに列車がつく。

あまり気にしていなかったのだが、北京は恐ろしく寒いところだった。しかも、テレビで見たとおり、空気が悪い。もちろん、気まずいという意味ではない。本当の本当に空気が悪いのだ。窓の外から見えたところによると、この日のPM2.5予報は橙色警報。何が一番高いかは知らないが、想像でわかる。

目的地の天安門で降りると、辺り一面ベージュ色だった。太陽は、すでに登っているが、なぜだか夕焼けの色である。メガネ使用者なので私はマスクが嫌いだがこの日は流石につけることにした。しかし、やはり異国の香りは嗅いでみたい。恐る恐るマスクを外し、くんくんとやる。少し香ばしい匂いがした。

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天安門の前には検問があり、荷物チェックが必要になる。実は、地下鉄も同様だ。非常に面倒だが、徐々に慣れた。実はタイの地下鉄も、ガバガバではあるが検問があったし、イスタンブルではバザールなどにあった。そういう時代なのである。そりゃ羽田で陸路入国を突っ込まれるはずだ。

天安門は想像以上にでかかった。向かいには全人代。かつて金閣寺を初めて見たときと同じ心地がする。「実物だ!」というやつだ。劇場で芸能人を見た時も同じである。あの浮き足立つような、それでいて、知っていたものと本物の違いに驚くような。それ以上でもそれ以下でもないと言って仕舞えばそうだが、やはりきてみてよかったなぁと思える。

天安門の後は、歩いて繁華街の王府井に行こうかと思っていたのだが、やめた。時間もないし、寒いし、空気が悪いからだ。

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地下鉄に乗り、隣駅で降りる。ガラガラの商業施設を通り抜けて、どうにかこうにか外に出ると、空は相変わらずくすんでいる。太陽も、もう8時過ぎているのにもかかわらず、やっぱり夕日色だ。

しかし王府井はあまり活気がなかった。どうしたものかとさまよい歩くと、しばらくして包子屋を見つけた。事前に、私と違って情報戦に長けた同行者が調べてくれたところである。見つけたのは偶然だった。

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店に入り、やすそうな肉まんみたいなやつを二つ頼んだ。となりの厨房から直接受け取って、頬張る。うまい。だが少しばかり小さい。この肉まんだけで北京を終わらせるわけにはいかない。なんとなれば、今日一時のフライトで私たちはローマへ向かうのだから。

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そこで向かったのはとなりに見えた麺屋である。しかし、手数料事件、そして理由のわからない消失事件によって私はあまり金がなかった。そこで残念ながら面ではなく、おかゆを食うことにした。肉のやつがあったので

「我想要这个(これが欲しい)」

というと、

「没有(ないよ)」といって、何やらトレーの上のものを指差す。これならあるわけか。では、と、私はよくわからない黄色いおかゆと卵と漬物を頼んだ。これで所持金はほぼ消えた。

おかゆはウリだった。優しい味である。これに、やけにうまい卵と、やけにうまいピリ辛漬物を合わせると、完璧な味になる。北京、なかなかいい。私はかなりちょろいので、北京に住みたくなってきた。

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店を出て、私たちは王府井を散歩しつつ、次の次の駅である建国門を目指した。そうすれば地下鉄の費用が節約できるからだ。

王府井の界隈はかなり近代的になっており、高層ビルもたくさんあった。たかそうなホテル、かなりたかそうなホテル、ものすごくたかそうなホテルなどがあった。それでいて、近くには古き良き時代の胡同と呼ばれる路地がある。それはどこか北京の「発展」の流れを見せているようだった。

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また、よくわからないのだが、何かの日のようで、国旗を持った人たちがかなりの数いた。また、義勇兵、みたいな言葉をつけた老人たちがいて、愛国歌のようなものを流していることもあった。あとで知ったが、全人代が開幕したそうで、もしかするとそれと関係あるのかもしれない。

時間の制約があるが、Wi-Fiはないという状況下での散歩は少々ハラハラしたが、さすが中華帝国の都、碁盤の目なので案外なんとかなった。それどころか、北京を眺めると、時代の流れ、そして今など、様々な情景が見えてきた。しかしそれはまだまだ本物ではないのだろう。もっとよくみてみたいと思った。

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そういうわけで、北京編は終わる。トランジットらしく時間は短い。しかしあっさりとしていたとは言えない。むしろなんだか濃厚だった。中国人の見方も変わった。皆かなり気配りをする人々だった。別に、最初の印象が悪かったわけではないが、改めて、愛着が湧いたということである。

さて、次はローマということになるが。いつ更新することになるのか。旅の途中か、はたまた日本でか。それはまだわからない。

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運を天に任せ

散歩に出よう。

そう思ったは良いが、行き先が見当たらない。最近はよくあることだ。色々歩くようになって、あそこもここまで行ったことがあるという状況なのだ。もちろん、本当に行ったことがあるかは定かではないし、東京も広いのだから、全部行ったなどと豪語するつもりもない。だが一つ言えるのは、知っている地名が増えると、知らないところに行く元気もないが、知っているところに行く意欲もないということになる。

だがその日は、なんやかんや考えていてもらちがあかないので、わたしは無理にでも外に出ることにした。自宅から駅まで10分。そのうち何か思いつくだろうとタカをくくっていた。

だが、何も思いつかなかったのだ。駅に着いたは良いが、さてどこに行こうかと悩んでしまった。するとふとあるアイデアが降ってきた。もはや全てを運に任せてはどうか、と。 

まず、スマホを出す。そして乱数発生サイトを開く。ランダムに数字を生み出してくれるサイトだ。わたしは何の電車に乗るかだけ決まる。山手線にしよう。山手線の駅数がいくつあるか調べる。どうやら25駅あるらしい。1〜25までの乱数を生成させる。すると出てきたのは6。最近では非日本語話者の旅行者のためか、ほとんどの駅には数字がふられている。調べてみよう。6に当たるのは……鶯谷だ。そうだ、鶯谷行こう。

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馬鹿げたやり方だが、人生もこの世界も、多分こんなもんだろう、と車窓を見ながら思った。この世は全て偶然出てきている。物理学者は数学を使って法則を記述し、宗教家は神の意志を語る。だが、それは世界が必然で動いていることの説明にはならない。例えば、あなたがそこにいることもそうだ。あなたはあなたの両親から生まれた。あなたの両親はあなたの祖父母から生まれた。辿りに辿ればルーシーかもしれない。だが、あなたがあなたの両親から生まれてきたのは偶然である。科学的にはあなたはあなたの父親の精子があなたの母親の卵子にたどり着くことで生まれるわけだが、何千何万とある精子の中からあなたになった精子がたどり着いたのは偶然だし、そこからあなたという人が産まれるのも偶然だ。あなたは一度きりの存在だ。地球も、何でもかんでも、一回きりしか同じものは誕生しないだろうし、自然現象だってそうだ。雨だって、あなたの顔にぴちゃっと落ちてきた雨粒は一度きりの存在だ。

だが、他のことが起こる確率があったにせよ、実際に起きたのは一つの出来事である。ということはこれは必然的とも言えるし、運命とも言える。偶然は必然なのだ。同じなのだ。あなたがそこにいるのは偶然だが、あなたがそこにいること以外は起きなかったので必然だ。だからきっと、全ては必然だという人もいるのだろう。そうすると、偶然だろうが、必然だろうが、一つのものということになる……

 だから……強引に話をつなげると、鶯谷に行き着くことだって、偶然ではあるが、実は必然でもあるわけだ。現に私は家を出る前あれこれ行き先を悩みながら、上野に行こうかと内心思っていた。鶯谷といえば、上野の隣駅。歩いて行ける距離だ。これは導かれていたとも言える。だが実際は、やはり偶然に過ぎない。しかし偶然であるがゆえに重みがある。

 

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そんなこんなで鶯谷についてみると、小雨が降っていた。傘? そんなもの持っているはずがない。だが幸い、そこまで気にならないタイプの雨だった。雨に濡れるのも悪くない日だってある。偶然と必然に任せた散歩だ。まさに今日がそんな日だ。

鶯谷自体行ったことがなかったので道も何も分からぬまま、とりあえず、駅を出て、すぐのところにある線路の上を通る道を歩いた。下り坂になっていて、向こうには繁華街のようなものが見える。道路を挟んで向こうの道は高校生だらけ。楽しそうな声が聞こえる。車通りもあるし、結構活気のある街だ。適度に道は汚いし、なかなか良い偶然だった。

下り坂の道を歩き終わると、下に降りる階段があったので、降りた。やはり適度な汚さがある。周りにはネオンが煌く。この辺りの店は、飲食店か、いかがわしいホテルばかりのようである。言ってみればハードボイルドな街だ。ただし、高校生の大群がそんな街に健康的な彩りを添えてはいる。

ごちゃっとした区画を抜けると、大通りが横切っている。車通りが結構ある。ハノイを思わせる、排気ガスをブブブッと出すタイプの車がゆらゆらと揺れながら前へと進んでいる。いいじゃないか。こういうの、好きだ。大通りの右に行くか、左に行くか。さてどうしよう。右には、道の向こうにスッとしたフォルムの塔。有名な、東京スカイツリーだ。縁起がいい。東京スカイツリーに向かおう。

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と、東京スカイツリー方面に、生活感ある大通りを歩いて行くと、私がよく東京の散歩に利用している、車用の青い看板が見えた。この大通りを先に見える十字路まで歩き、右に曲がれば上野だという。上野に行きたかったんだ。アメ横の雑踏を通り抜けたかったんだ。そんなことを思い出したので、私は右に曲がることにした。雨はそこまでひどくない。なんならやみそうである。車もブブブンと走り去って行くし、何もかもうまくいきそうな感じがした。もちろん、根拠などない。

右に曲がると、先の方にまた別の大通りが横切っているのが見えた。その上には高架橋が走っている。多分高速道路である。ここで思い出したのだが、私は以前思いつきで墨田区に行って、そこから歩いて浅草へ、そして上野を通って帰ったことがあった。もしや、あの帰り道ではないか? そう思うとなんだかちょっと残念な気がした。私は最近散歩すると、ここはあの道じゃないか、と気づいてしまうことが増えていたのだ。やはり散歩をするからには、何かしらの新規性が欲しいものである。というわけでとりあえずその道の方まで行って、その少し手前で曲がり、別の道に行く、という作戦を立てた。

やってみると、下町らしい雰囲気の街に迷い込んだ。ブロイラーを売っている店や、「警察に声かけられても、任意同行だから、行かなくていいんだよ」という背伸びした会話で盛り上がる小学生たち、町工場などを横目に歩くと、なかなか楽しい気分になってくる。しかし途中で気づいたのだ。この前浅草から上野まで駆け抜けたあの道の上には、高架橋などなかった、と。だからあれは赤の他道、他道の空似だったのだ。そう思うと、俄然その道に戻りたくなったので、私は大通りに合流した。

その大通りはその大通りで下町情緒にあふれていた。神輿が置いてあったり、小さい店があったり、なかなか良い。独特な雰囲気があって、思わず写真を撮ってしまったのは、スナックが並ぶ路地だった。大通りから、行き止まりの路地が伸びていて、そこはまるで舞台のセットのように、美しくスナックの看板が並べられていたのだ。

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ちょっと歩くと、上野駅に続く道があった。どうやら、この道はやっぱり私が通ったことのない道だった。その証拠に、ちょっと予想外のところから駅の方にたどり着いた。説明が難しいが、正面ではなく、少し横から、ということである。駅に入ってしまうのは面白くないので、駅の前を横切って、高架下に入った。と、ここで、突然私は上野公園に行きたくなった。目的地のアメ横は目の前だが、ままよ、私は上野公園に向かって歩いてみた。

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もしかすると、新しい場所に出会うための予感だったのかもしれない。上野公園に入り、見慣れた道を通っていると、降りたことのない階段があり、それを降りたら、不忍池についたわけだが、私は今まできちんと不忍池に来たことがなかったようなのだ。階段を降り、横断歩道を抜けると、その先には謎の、六角形の寺があった。ハノイのホアンキエム湖の真ん中に祠があるの同様、東京の不忍池の真ん中にもあるというわけか。おもしろい、入ってみよう。ちょうど、寺からは雅楽のようなものが聞こえていたし、魅力的だった。

寺の周りに植えられている蓮は、冬なので枯れ果てていた。しかしその枯れた雰囲気も悪くない。そう思いながらずんずん中に向かって歩いていると、巨大なモニュメントがあった。そのモニュメントは巨大なメガネがかたどられていた。私もメガネをかけているので、とりあえず近寄ってみると、日本でのメガネの歴史が書かれていた。戦国から江戸にかけてやってきたメガネは、明治以降需要を伸ばし、文明開化の影の主役だったという。ちょっと言いすぎな感もないが、なるほど、そうともいえそうである。メガネをかけるものとして、ちょっと姿勢を正し、一礼した上でそのモニュメントを出て、本題の寺へと向かう。

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六角形の寺はどうやら弁財天を祀っているらしい。水だからだろう。弁財天といえば、私の記憶が正しければ(正しくなかったら間違っているということだ)インドの水の女神サラースヴァティーが仏に帰依したものだったはずだ。銭洗弁天などの類も、確かそこと関係あったような、なかったような。よく寺の前にあるお香を焚く場所の近くには、体が蛇の髪を結ったおじさんという奇妙な姿の神様(?)の像が置かれている。想像以上に、この寺は面白いかもしれない。ありがとう、と心の中で蛇おじさんに声をかけたが、もちろん答えは返ってこない。

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後で調べてみたのだが、この寺は天海大僧正が作ったらしい。天海大僧正といえば、徳川家康のブレーンでもあった僧侶だ。上野に寛永寺を作る一環で、この寺(本当は弁天堂というらしいので、「寺」という独立のものではない)も作られたらしい。天海大僧正は、「見立て」という手法を用いて上野を設計、寛永寺を京都の延暦寺に見立て、さらにこの弁天堂は不忍池を琵琶湖に見立てることで、琵琶湖の竹生島にある宝厳寺という寺に見立てられているという。弁天堂は江戸時代に人々の参詣の場になったが、戊辰戦争や太平洋戦争で焼けてしまい、現在のものは戦後に作り直されたものだという。

六角形の寺をぐるりと回ってみることにした。すると、周りには様々な碑が置かれている。日米友好を示す英文と和文二つの碑や、もはや読めない碑など、さまざまである。不忍池の向こう側には現代の都会的な上野の姿がある。日も暮れつつある。弁天堂の裏側に回ると、そばにボート乗り場があった。さすがに一人でボートをこぐわけにはいかないので、スルーして、弁天堂の正面に戻った。なかなか、面白い場所だった。いやはや、やはり偶然に導かれて正解だったわけだ。

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それから私はアメ横を通り抜けた。相変わらずゴミゴミしていて、エネルギッシュで最高な場所である。中東のバザールに似ているとイラン出身のタレントのサヘル・ローズが言っていた。その真偽は中東に行って確かめたい。だが少なくとも、東南アジアには限りなく似ている。ただし、アメ横のど真ん中を突っ切るバイクが存在しないので、まだまだ、日本的秩序を保っていると言えるだろう。アメ横を抜けるともう御徒町である。私は東京駅まで歩くことにした。節約である。以前歩いたことはあるが、結構前だし、いいだろう。秋葉原を抜け、万世橋を渡るコースである。

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秋葉原は相変わらずといったところだったが、何やら警察署前に報道陣がいたので、きっと何か動きがあるのだろう。しかも突然だったらしく、信号待ちしていた時隣にいた記者が、「やっぱりもう結構張ってるなあ」「でも以外と人少ないから取れるんじゃないか」などと話していた。あれはなんだったんだろう。結局調べるのを忘れたので、真相は闇の中である。

万世橋に着いたが、私は渡るのをやめた。なぜかというと、例の青い車用看板が右に行けば御茶ノ水とさしていたからである。私の家からは、東京より御茶ノ水の方が断然近い。こうなったら御茶ノ水に行ったほうがいい。というわけで私は、御茶ノ水方向へ歩みの舵を切ったのである。

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外堀もとい神田川沿いにあるき、御茶ノ水駅に着いたのは、17時30分くらいだ。まだ買えるのはもったいない。そういうわけで私は神保町によった。ちょっと必要な本があったからだが、三省堂で実物を見ると、まあ買わなくていいかと思えてきたので、買わずに帰った。

 

実を言えばきちんとした散歩としては、これは随分と久しぶりだった。やはり心のゆくまま行くのは楽しいし、それ以前に、乱数に従って歩くというのは面白かったのでまたやってみようと思った。しかしこの時の私は、翌日もっとすごい距離を歩くということを知らなかった。特に理由はないのだが、その翌日は渋谷から高円寺まで歩いたのだ。そう、これも偶然。だからこそ必然でもある。

時間と時の流れのせめぎ合い

前々から思っていることなのだが、私たちは二つの時間を生きているのかもしれない。一つは社会的な時間で、もう一つは私の心の奥を流れる時の流れである。そのようなことをいうと、難しいことを言っていると思うかもしれない。しかし、実はそこまで変なことではないし、ましてや難しいことをいうつもりもない。

社会的な時間というのは、いわゆる何時何分何曜日のことだ。今日や明日というのもまたそれだし、2019年や平成というのもそれのうちだ。私たちはこの時間を決めた覚えはないし、この時間は私たちが生まれた時から刻まれ続けている。そして流れる速度は基本的に一定である(時点の速度の変化などはあるだろうが)。

私たちの多くの活動はこの時間に従ってなされる。朝8時から始業だ、昼休みは一時間、終電は0:30、みんなでカウントダウンすれば新しい年になる…などなどこういうことは社会的な時間の賜物である。

普通はこの時間の中で私たちは生きているように思うだろう。だから、時が過ぎるのが速くなった、などというのである。しかし、たまに、人によってはしょっちゅう、社会的時間に置いてけぼりにされている感覚を覚えることはないか。私は大いにある。周りの時間があまりにはやく、私はついて行けない。ついて行けぬことランニングマシーンのごとしである。ランニングマシーンがあまりに速過ぎると走れなくなる。それと同じような感覚で、置いて行かれるのである。

そんな時、私は自分の時間と社会の時間が違うのだと意識するのだ。こう例えるのは適切ではないかもしれないが、ランニングマシーンの話にのっとって、自分の歩くスピードと考えてもいいかもしれない。社会的な時間は、私にもっとはやく、もっとはやく歩くことを要求する。私たちは下手に「社会的動物」なもんだから、はやく歩かねばと思う。だが、やはり心にはむずむずしたものが残るのだ。

 

大人とは、それを我慢するもの、なのかもしれない。だが、どうして我慢すべきなのかと、考えてみると、私が心から納得できる理由は見当たらない。

もちろん、社会的時間は有用だ。これがなければ待ち合わせもできない。「会いたくなったら会おう」はなかなか良いが、残念ながら会いたくなった時にその相手がどこにいるのか分からなければ会えないし、呼び出したにしても、いつ着くのかわからないと会えない。さらに、新年などは特にそうだが、心を入れ替えようと思える、というとても良い効果を私たちにもたらすことがある。「これを機に!」などといえるのはやはり社会的時間があればこそだろう。平成最後というのを過度に嫌う人もいるが、私はそれが何かのきっかけになれるなら、いいじゃないかと思う。

しかしやはり、時に、社会的時間について行けなくなる。そういう時は、しばらく休んだり、どこかに行くことが必要だと思うのだ。それがないと、私たちは焦燥感と疲れと義務感だけで生きることになる。それがいいならいい。でも私は活力を持って生きたい。時間を取り戻したい。

そのために、散歩をしたり、旅をしたりするのである。ときにスケジュールというものを壊してみるのも(もちろん人に迷惑かけない程度で)大事だ。意味のわからない行動をしてみるのも。すると、私たちは社会的時間に支配されているのではなく、自らの歩みで、時の流れを紡ぎ出していることを再確認できる。

何が言いたいのか。

そう、そろそろまた旅に出たいなぁ、というグチである。

2019年宣言

年が明け、西暦2019年が始まった。


一昨年はいろいろなことがあった年だったが、去年はいろいろなことが降りかかってきた年だった。いろいろなことが降りかかりすぎて、踊らされるばかりの年だった。そう、間違いなく、去年は私は主体的に踊ってはいなかった。踊らされるがままに踊らされ、自分で踊っていた過去のことを思い出しながら、胸の疼きを覚える。そんな、一種惨めとも言えるような日々を送っていた。袋小路。疲れ。それはまるで、どうやって攻勢を仕掛けたところで敗北は必至の戦いの最中にいるような気分だった。

 


これ以上そうやって悲劇を語ることはしまい。そんなのは柄ではないし、馬鹿らしい。もちろん得たものはあった。一つは、社会というもののある側面を見ることができたということだ。そこには本音と建前があった。ちょっとずれた人がいた方が世の中面白いし、世の中うまく動くし、そうやって社会は機能しているんだ、と思っていたが、既存の社会秩序はそれを是認するほど心が広くはなかった。余裕がない。自らが思いついたことを自ら行動し、自らで自らの人生を創りあげることは、決して社会に望まれることではなかったのだ。

 


だが私の人生は創ることで生き生きとしてきた。旅は創造だった。街を歩くときでさえ、右に行くか、左に行くか、まっすぐ歩くか、思うがままに歩くのか、義務に従って歩くのか、合理的に歩くのか、あえて非合理を進むのか、そんなことで散歩を創り上げて行く。そしてもちろん、学園祭やこういうエッセイ、哲学することは、創ることだ。あるいは私にとっては学ぶことそれ自体も、創ることに近かった。歴史は、歴史を作ろうとする人々の中に没入することだったし、物理学や数学も、謎を解こうとする人々とともに前に進むことだった。だからこそやってこれた。私が真面目だから勉強ができるという偽りを信じ込む方がいらっしゃるが、私が学校や大学での勉強がそれなりに良い成果を収めるのは、私がそれが好きだからにすぎない。気に入っているのだ。気に入っていないものは私はできない。私には、喜びと興奮が必要なのだ。

「歓びのあるところほとんどに、創造のある」

とフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが言うように、創るところに私の喜びは間違いなくあった。心踊らされる日々が、もっと先へもっと先へと進んでいきたいと思わせる、言葉にしようのない興奮があった。心は心地よかった。風通しが良かった。そこには「しなければいけない」とか「義務」とか仰々しいものではなく、心の灯火があるだけだった。私はそれが好きだったのだ。大好きだったのだ。

 


世の中、しなければいけないことはあるだろう。義務というのはあるだろう。その多くは自分が決めたものではなく、私たちが生きてきた、そして私たちを生かしてくれる社会によって強いられるものだろう。だが、やはり、我慢がならない。それは明らかなわがままである。社会がない世界を想像すれば、それがどんなにやばいかもわかる。頭ごなしに否定する気もない。だが、それでも、おそらく一度きりであり、あるいは一度きりである以外に想定するのが非常に難しいこの人生、どうしてこの思いを断ち切れようか(いや、断ち切れない(反語))。

 


本当は、新しい一年の始まりなのだから、もっとバランスの良いことを書きたいし、もっと綺麗に始めたい。しかし、去年という年がこのようなことを思わせる年だったのだから、しょうがない。これは、新しい一年の始まり、という口実で、新しい年の宣言をするエッセイなのだ。だから宣言する。もう、踊らされはしまい、と。好きなようにやらせてもらいたい、と。それが他の人のためにもなると思っている、と。だから今年の目標は、創造することだ。それは今までずっと目標に掲げてきた「自由になること」の先にあるものだ。いや、同じことなのかもしれない。

私は夢というものを一度捨てた。そんなものを持っているより、社会に適合しつつ、心の中で反抗するのが手っ取り早いように思えていたし、社会も悪いところではないと思っていた。もちろん、今でも社会はきっと悪くはないと思っている。だが、既存の社会にはどうしても変だと思うことはあるし、変なものは変だ。私はもう一度賭けたい。何かを創ることに。冒険と夢に。去年の終わりに、そう気が変わったのだ。新しい出会いがそうした。感謝している。だからそのための活動も、きちんと逃げずにやりたい。かつては逃げたことだ。だが、何度か旅して、少しくらいは度胸もついたはずである。それに、去年の暮れから少しずつ、仲間も集めている。

 


構想はある。というか、創った。それは、大学に入る直前に創ったものの延長線上にある。あの時は雑誌を立ち上げようとしていた。今回は、少し異なる。スタート地点には、翻訳がある。翻訳は好きだ。そこから始める。古い哲学書や文学などを日本語に、それもとっておきにファンキーな(?)日本語にする。英語やフランス語だけではない。もっと変な言語、アゼルバイジャン語やグジャラーティー語みたいなだれもよく知らないようなものもまた、最終的には翻訳をする。それをインターネットか何かを通じて出す。それで、多くの人が触れたことのない世界と人々との間の扉を開くのだ。基本的にはその翻訳活動を行う研究所ないし図書館のようなものを中心にいろいろと回していきたい。語学、文化交流、哲学、旅などをそれを中心にして動かしてゆく。

これには社会的な意味もある。つまり、「やりたいことをやる」ことがうまくいくという事例を作りたいのだ。だから翻訳も翻訳者の好きなものを訳したい。したいことをするのが、モットーである。


とまあ、昔やったように大風呂敷を広げてはみた。どうなるのだろう。それはわからない。すべてのことはイン・シャア・ッラー(神の思し召し)。未来のことを言う奴は嘘つきだ。だが、それでもこんなことを言ってみようと思う。それが、新年だからだ。

あけまして、おめでとう。

On "Happy Christmas"

確か去年のことだったと思うが、トランプ大統領が「Happy Holidays」ではなく「Happy Christmas」といったことで問題になった。なぜかというと、現在アメリカでは、特にリベラル層を中心にだと思うが、あらゆる宗教や人種がアメリカにいるという理由で「Happy Christmas」というキリスト教的要素の強い言葉ではなく、「Happy Holidays」という中立的な表現を使おうという動きがあるからだ。ランプ大統領の政策の多くは賛成しかねるが、「Happy Christmas」に関しては、私は「Happy Holidays」という表現に違和感を感じている。

これは、「英語はいろいろな発音があっていいんだよ」説と同じ過ちを犯している(これが過ちであるということについてはまたいずれ書こうかと思う)。「Happy Holidays」という人はなぜクリスマスについてだけこれを使うのか、ということである。おかしいではないか。ラマダン明け、ディワリ、テト、旧正月、ソンクラー、花まつり、お盆、ハヌカ……といった世界中の祭りについて、たぶん「Happy Holidays」派の人は、「Happy Holidays」とは言わないだろう。だが、明らかにキリスト教の祭りであるクリスマスだけはそう言って、他の宗教の人も祝っていいというアピールをする。クリスマスだけが普遍的とでも言いたげである。妙な話だ。

 

とまで言ってしまうと、まるでクリスマスを毛嫌いしているようだが、そうではない。私はあくまでクリスマスが好きなのである。だが、どうしてなのだろうと考えれば考えるほど、やはりそこにはクリスマスの持つキリスト教の文化の影響があるのだ。それを無視してしまっては、もはやクリスマスではない。ただの冬至である。冬至とクリスマスの間には、大きな差がある。

 

クリスマスは赦しの日だ、とシャーロック・ホームズが言っている。そう、クリスマスは赦しの日だ。だからこそ、第一次世界大戦中も、クリスマスの日には休戦をした。憎み合う二つの国の兵士も、戦争をやめた。これは、キリスト教の文化の背景なしには成立しないだろう。敵であっても、罪を犯した人でも赦されるのがキリスト教だ。キリスト教のいいところだ。私はキリスト教徒ではないし、そのような家庭にも育ってはいないが、そこは認めたい。

キリスト教の文脈だけでなく、ヨーロッパやアメリカという地域がクリスマスを作ったというのも、クリスマスの大事な側面だ。「どんな場所でも、長い冬が中間地点に来たら、皆で抱きしめあい、『よくぞ乗り切った。よくやった。暗い冬も半分やりきったんだ』と言い合うだろう。」という言葉が英国のSFドラマドクターフーのクリスマススペシャルの冒頭で登場するが、これはやはり、ヨーロッパの考え方だ。ヨーロッパの冬は暗い。私もドイツにいた時、冬は朝から本当に暗く、昼間はどんよりしていて、夜はすぐにやってきたのを思い出す。あのような気がめいる時の中にあれば、クリスマスは本当に心の灯火だろう。暖かいだろう。だからこそ家族で集まる。クリスマスキャロルも心に染み渡る。そこには、感謝の日がある。

 

もちろんだからといって、クリスマスがヨーロッパのキリスト教徒のものなどというつもりはないし、そんなことになったら私が困る。だが、あくまでそんなバックグラウンドを持ったものだからこそ輝くのがクリスマスであり、それがあるからこそクリスマスはクリスマスであり続けるのだと思うのだ。

私はドイツに住んでいたことがあり、家族はドイツかぶれだし、私自身はドクター・フーアガサ・クリスティーといったクリスマスとタイアップすることが多いイギリスの文化に親しんできたから、私にとってのクリスマスは、そうなのだ。懐かしさを伝えてくれ、温かみと親しみもあるが、やはり日本的なものでは絶対にありえない、ましてや中立的なものではないのが、私にとってのクリスマスなのだ。恋人や友人とケンタッキーを食べる(?)現代日本式のクリスマスも、間違いなく、そうしたヨーロッパとアメリカの残り香があり、そしてそれゆえに、心に残るものなのではないか。

 

だから、私はトランプ大統領を支持するわけではないが、こう言いたいのである。

「Happy Christmas!」と。

旅と自由

ブログに書いたかどうかは忘れたが、以前、散歩中に迷ったことがあった。

その日は大学の授業が13時30分からあったのだが、昼食の海鮮丼定食を待っていたら、授業に5分ほど遅刻する時間になってしまっていた。その授業に魅力をあまり感じなくなってきていた時だったし、階段で4階まで登らなければいけなかったこともあり、なんとなくめんどくさくなって、それじゃあ散歩でもしようという気になった。まじめにも授業に出る友人に別れを告げ、私は赤坂の方へと歩いて行った。

授業は1時間半。15時15分から次の授業が始まる。次の授業は好きな授業だったので、出る気だった。しかし散歩をしていると、面白いもので、より先へ、より面白いものがある方へ、と探索に出たくなってくるのである。そこで私は赤坂の奥地へと針路をとった。

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本当に知らない道というのは楽しいもので、まるでコイントスするように、私は右に左に歩き続けた。まさに、風邪の幕間まきの向くままである。曲がった道、登る道、知ってる道に出たら、振り出しに戻る。しばらく歩けば、神社が見えてくる。入ってみよう。ちょうどいい椅子もある。本でも読もう。心地よい風の中、読書を楽しんだ。どうやらこの界隈は、氷川神社の近くで、勝海舟のゆかりらしい。

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と、ふと気がついた。そういえば次の授業に間に合うためには、そろそろ戻らねばならないのである。私は数ページ読んでから、神社を後にして、戻ることにしたが、同じ道をまっすぐ戻るのは芸がない。どうせなら、氷川神社なるところのそばを通って帰ろう。普段はやらないが、今回はと、私はGoogleマップで、綿密な計画を立て、氷川神社を通って大学まで戻るルートを見出した。

ところが、である。氷川神社の横を通り、多分こっちが赤坂だろうなという道を通り、しばらく歩くと、地図にないどでかい公園が出てくるではないか。多分これは、某テレビ局の敷地内だろう。私はそう踏んで、公園でくつろぐ人々や、前衛的なオブジェを楽しい気持ちで眺めながら、公園の奥にあったビルに入った。

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とりあえずそのビルのトイレで用を足し、表示を見ると、それはテレビ局のそばの建物ではなさそうだった。東京ミッドタウン。赤坂とは真逆であった。

これは間違いなく間に合わない。初めは少々焦ったが、だんだん楽しくなってきた。こう言う日もある。いや、こう言う日の一つや二つあってしかるべきだ。どうしてやろうか。ミッドタウンでやっていた写真展も気になったが、金がないので却下だ。ならば、とりあえず外に出よう。私は東京ミッドタウンを出るや、横切る大通りの右に行くか、左に行くか、どちらが楽しいのか考えてみた。片方は街並みがある。もう片方はどこまでも続く。さて。いつもなら、街の方に行くだろう。だが今日はあえて、どこまでも続く道を行こう。なんとなく、街の方に行くと、私の知る場所に着きそうな気がしたのだ。知らないところに行きたい。私は左に曲がった。

そこは知らない道だった。たぶんここにきたことがないのだから当然だ。道をずんずん歩く。知らない道は楽しい。まるで異国にいるような気分がする。上りも下りもエキサイティングである。しばらく歩くと、乃木神社があるということがわかった。たしか、乃木希典を祀っているはずだ。ドラマで見た坂の上の雲の印象しかない。たしか、明治天皇が死んだ時、殉死した人である。とりあえず行ってみよう。と、歩き続けると、レンガの壁が見えた。なんだこれは、と思ったら、どうやら旧乃木邸らしい。まるで工場のような作りだ。中に入ると、視線を引きつける不思議な、ブロッコリー状のオブジェ。その周りは公園だ。雰囲気はいい感じである。

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レンガの門を抜けると、乃木邸があった。中には入らないが、覗くことはできる。結構質素な家である。さすがは侍の矜持を守った男だ、などというと偉そうだが、彼が何を大事にしていたのかがわかる気がした。そういえば、哲学者のメルロ=ポンティは、人の性格は身の回りに置くものからうかがい知れるというようなことを言っていた。

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しばらく公園で風を感じた。神社はやめておいた。

公園を出て、歩き始めると少し日が傾いてきた。とりあえず今まで道を歩いてみよう。はてさて、この道はどこまで続くのか。登ったり下ったり、道端に洋館らしきものがあったり。と、突然見たことのある風景が目に飛び込んできた。それは独特の形をしたアパートだった。いつ見たんだっけ。あれはそう、たしか、カンボジア大使館である。カンボジアは珍しく日本から行くにはビザがいる。だから私は、この近隣にある大使館でビザを申請したのだ。だからこの場所には、申請と受け取りの2度訪れていたことになる。どうりで見覚えあるわけだ。この辺りに、一階にレストランが並ぶアパートがあって、その見た目が、どことなくヨーロッパの町にある風景を思い出させ、印象に残っていた。

すると…このままいけば、青山通りだ。よく知っている道である。後で知ったが、ミッドタウンの分岐の時点で、右に曲がったならば、六本木を経て、あまり行かない場所にたどり着いていた。そう思うと、面白い。結果的に知っている場所へ続く道を、選んでしまっていたのだ。そんなものだ。ここまできたら、とりあえず渋谷にでも行ってしまおう。

 

この日、結局渋谷へ行き、それから、気分で新宿まで歩いた。新宿に着くときは、もう夜の帳も降りていた。突っ込もうと思えば突っ込める。なぜこんなとこにいるのか、と。それで良い。それでも良い。理由がわからないから良いのだ。あの日は、なんとも言い難い満足感があった、高揚感があった。

決まり切った電車に、決まり切った時間に乗る。安定した、平穏な日常。それも悪くはない。だがときに心が置いてきぼりになってしまう。どこかに落とした心をそのままに、空っぽのまま動き続ける。ときに置いてけぼりになった心が、抜け落ちてしまった傷口が疼く。何をやっているのか、完全に論理的に説明できるはずの日常生活なのに、「俺は何やってんだろう」とおもう。本当は、右に行くも左に行くも、寝るも起きるも自由なのに、それだけではなく、もっと深いところでも自由なのに、私たちは自由を忘れる。

今日はどこへ行く?どう足を踏み出す?右?左?それとも立ち止まる?旅に出ると、そんなことが自分にかかってくる。それは不思議と嫌なことではない。それは多分、自らの手で自らの旅を創り出しているからだ。人は時の流れの中を生き、何かを創り出し、それ故に自由なのだ、とフランスのお偉い哲学者はいう。いや、本当にあったというより、私はそう言いたいんじゃないかと思う。旅や散歩の効能は、私たちを解き放つことだ。自分が創り出す側に行くことだ。

と、最近ちょっと無気力に、不満ばかり垂れている自分への戒めも兼ねて、書いておこう。さて、明日はどこへ行こうか。