Play Back

ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

Dreadful Flight

   一ヶ月間西ヨーロッパを旅する、という計画が生まれた経緯は突拍子も無いようなものだった。
    わたしは学科の友人とアンリ・ベルクソンという知っている人は名前だけ知っている、知らない人は名前すら知らないという少々ニッチなフランスの哲学者の本を読む会をしている。その友人たちと話している時に、「ベルクソンはパリを拠点にしてたから、その「聖地巡礼」をしようじゃないか」という話になったのだ。これをきっかけに、メンバーでアパルトマンを借りて一週間パリに住むという計画がスタートした。だがわたしは一週間行くのなら、その少し前にヨーロッパを旅したいと思った。そういうわけで、十日間のひとり旅、五日間のフランス語学留学、そして四日間の西部フランスひとり旅+1日のホームステイ、それから一週間の「読書会合宿」という日程で動くことになった。そして今、わたしは最初のひとり旅パートの半分を過ぎ、スペインの首都マドリードにいる。

 

   今回の旅には、値段の関係と、ちょっとした好奇心から、ロシア経由で向かった。
わたしは旅するのは好きだが、飛行機は割と苦手で、途中で気分が悪くなるのが常である。10時間のフライトはまだ精神的に余裕があったが身体的な負担はあったようでモスクワに到着しても、お腹の調子が芳しくない。元気を取り戻すために早速ボルシチを食べてみたり、オレンジジュースを飲んでみたりしたが、どうも体が戻らない。ジュースは不思議なまでにうまかったが、体はけだるく、重かった。

   その流れでの四時間のパリへのフライトはなかなか辛いものがあり、機内では眠ってごまかすしかなかったが、天候が悪いのか(オーストリアにいる友人がすごい雨だったと行っていたのでおそらく天候が悪いのだろう)、ものすごく揺れる。このまま生き絶えるのではないか、などとありえないことを考えながらわたしは寝たりおきたりを繰り返して4時間をやり過ごした。
   そんなこんなでパリのシャルルドゴール空港に到着し、空港近くのホテルに泊まった。もちろん、体の調子は良くない。翌日はパリ市内にも入らず、パリを素通りして、ドイツ国境の町ストラスブールに入る予定だ。はじめは、カナダで仲良くなったフランス人のRくんとパリで会う予定だったのだが、彼のカナダへのフライトが早まり、ちょうど入れ違いになるということになって計画は頓挫してしまった。まあ今パリを見なくても、どうせ三週間後には散々見ることになるんだ、と悔いは全くなかった。それにRくんともついこの間東京であっている。

 

   七月の終わりに、Rくんは友人二人とともに東京にやってきた。「お前はいつパリに来るんだ?」と冗談めかしていう彼に、「この八月に行くよ」というと、その場にいたカナダで一緒だった日本人たちもふくめて驚いていたのを覚えている。Rくんはモントリオールで経済を学ぶらしく、今頃はモントリオールだろう。ちなみにRくんと一緒に日本にやってきた二人とは、わたしがパリに入った時に会うことにしている。

 

   到着の翌日、わたしは12時45分の列車でストラスブールへと向かった。

On my life

この前、生きることと死ぬことの話をした。発端は、ある高校生が、死んだ後に魂だけになるのが怖いと言ったことだった。

その時、友達が「死んだ後のことはわからないから、怖くない」と言っていた。死んだ後にはもしかするといいことがあるかもしれない。悪いこととは限らない。だから、死ぬことを恐れることはない、と。私はそれを聞いて、半分賛成半分反対というような感じであった。

私も昔死ぬのが怖かった。それは、あの高校生が言っていたように、死後の世界に行くという怖さと、本当に行けるのかという怖さだった。自分の意識がなくなってしまう。今は一生続くと思っているような意識が、なくなるとはどういうことなのか、そのわからなさが怖かった。だが、年をとるにつれて、あまり考えなくなった。

 

一つは物理学をやったことのおかげだった。この宇宙には、「エネルギー保存の法則」というものがある。それはいわば、エネルギーというものを平に保つ法則だ。そう考えると、自らエネルギーを生成するという生命のあり方は、この法則を大幅に逸脱したものである。そうすると、必ず人は死ななければならない。どんなに不老不死の技術を施そうとも、それを維持するには、「維持し続けねばならない」ので、際限がなくなってしまう。放っておけば、エネルギーを発散しながら、ついにはエネルギーが一定の、つまり「死」という状態にならざるをえないのである。中学の時物理学の本を読んでいて私は子供ながらにそう思った。なぜだかわからないが、諦めがついた。宇宙全体が自分を殺しにかかるなら、もう、それは受け入れざるをえない。

そういうわけで、私はもう悩まなくなった。というより、悩んでも仕方がないと思うようになった。死ぬ時は死ぬんだ。でもそれは今じゃない。それならいいではないか、と。この種の問題は、時に考えないことが一番の解決策であり得る。

 

そもそも、私たちは死後の世界を知らない。私たちには生きている世界しか見えない。それは仕方のないことだ。そして、想像も、論理も、なんらかの材料がなければ始まらない。馬も鳥も知らない人はペガサスを思いつくことすらない。だから、死後の世界をどう頑張って考えてみたところで、私たちは自分たちの世界をベースに考えるしかなく、単なる妄想でしかないのだ。それが、人の心を安心させるなら、それはそれで構わない。生まれ変わりも、死後の楽園も、あるいは地獄も、話としては面白い。でも、本当にあるかは、一生かけてもわからないだろう。いや、一生かけているうちはわからないだろう。そうしたら、もう、死んでみてからでないとわからないのだ。そして死んだら戻ってはこれなさそうだ。なら、もう考えるのはやめたほうがいい。物語の世界を広げる以外に、私たちには手段はないのだから、それで我慢するしかない。前世についても、私は少なくともそんなもの覚えていないし、もしあったとしても、今覚えていないということはきっと、来世でも私は何も覚えていないのだろう。なら、変わらないじゃないか。今を生きるしかない。

それでいいのか、という人がいるかもしれない。だが、それでいいのかという人に問いたい。それ以外にできるのか? 死後の世界について思い悩む時間があったら、人生に目を向けたほうがいいのではないか。もちろん、それは人の勝手だ。そして、思い悩むというのは、思い悩もうとして思い悩むというより、思い悩んでしまうものだ。だから、止めはしない。だけど、少なくとも思い悩むことを肯定することは、私にはできない。

まあひとまずのところ、私は死んでも何もないと思うようにしている。なぜなら、わからないからだ。わからないことに希望を持っていても、それが違った時に絶望しかない。だから私はもう何もないと思うことにした。すると、もし死後の世界があった時、地獄だろうと天国だろうと、なんとなく棚から牡丹餅的な幸福感に包まれそうだし、存在しなければ、そのまま消えてなくなるだけだからだ。そのほうがいい。それに、「来世がある」と思わないほうが、懸命に行きられる。「来世やろうは馬鹿野郎」である。死後の世界を考えても、得るものはどっとくる疲れと絶望感だけだ。

 

だから、私は生きるということが大事だと思う。なぜなら私たちは生きているからだ。生きるべきだから、でも、尊い命だからでもない。私たちは生きているからだ。生きているということに価値がある。神に与えられたのか、仏性を持って生まれてきたのかなどはわからない。私は否定しない。だがとにかく生きている。過去から現在へと、私たちは自分を試しながら生きている。各人各様のやり方で、だ。そうやって生きてきて、これからもそうやって生きてゆくしかない。だが生きてゆくしかない、というのは、生きて行けということであり、生きて行けるということだ。人生抜きに私たちは存在しえない。だから、この人生を生きてみようじゃないか。

「死を思え」と人はいう。だが、その前に、「死んでも悔いはない」という人生を作ることが大事だ。自分の死が意味を持つとすれば、人生あってのことだと思う。死とは人生の終わりだ。人生は、「こうもできる」という可能性の世界だ。だから死とは可能性の終わりだ。そう考えるなら、可能性に執着があるなら、生きていたほうが良い。それだから、人生は生きておいたほうがいいと思う。哲学には「自殺」の問題というものがあるが、私は「生きておいたほうがいいのに」という立場で、自殺には反対なのだ。まあもちろん、それは私が恵まれているのかもしれない。だから人のことはわからないが、とりあえず私は死ぬなんて思えないし、思ったこともない。生きているのだから、生きていくしかない。どんなに悪いことがあっても、自分を変える機会になるかもしれない。人生、悪い状態で終わるなら、それを打開してから終わったほうがいいじゃないか。

 

私は旅に出る前は、できるだけ悔いを残さないようにしたいと思っている。明後日私はヨーロッパに立つが、今回は異例の長さであり、最近のヨーロッパ情勢の変化もあり、前にもまして悔いを残すまいと思う。それは、死ぬかもしれないと恐れているのではない。むしろ、「生きる」ためなのだ。いつでも、悔いがないように行きたいが、そんなに気を張って生きられない。だからこの機会を利用して、後に伸ばし伸ばしにしていたことをやってしまいたいと望むのである。そうやってこそ、何か大変なことが起きて、どんなに対処しようとしても無理という状態になった時も、運命を受け入れることができる。

美空ひばりのいうように「生きることは旅すること」なのかは知らない。まだそんなに生きちゃいない。だが、私は旅の中で、生きることを感じる。それは本当の意味で生きることができるからだ。旅という短い期間の中で、自分を試すことができる。そして自分を学ぶことができる。そうする中で、生きることができるのだ。それは、旅の中だけではなく、旅の少し前でもそうなのかもしれない。「悔いを残さずに旅立つ」というのは、そういうことなのだと思っている。できるかはわからないし、まだまだ悔いが残りそうなことはたくさんある。でも、できるだけそういうものは少なくしたいものだ。

 

だから、私は死に希望を持たないし、生きることにしか興味がない。それでいいと思っている。どちらにせよ、生きているという事実には変わりない。だから、死とは何かを問う時間があったら、どう生きるかを問いたい。今をどう生きるかを考えたい。あんまり生きる生きるというと、薄っぺらいポエムみたいで嫌な感じだが、仕方がない。私たちは、生きているのだ。

語学、我が愛

改めて言うのもなんだが、私は語学が好きである。

 

正直、語学がどうして好きなのかは自分でもよくわからない。なぜなら、あんなもの好きなところで、そこまで使えるわけでもないからだ。

例えば、海外に行ったとしよう。場所は、そう、オーストリアザルツブルクにしよう(実話)。語学好きの私は、ドイツ語は地域によって挨拶がだいぶ違うことを知っている。オーストリアは南部地域。挨拶は「グーテン・ターク」ではなく、「グリュースゴット」もしくは「セルヴス」という。といっても、「セルヴス」はゴリゴリのオーストリアドイツ語で、ザルツブルクでは使うのかよくわからない。そういうわけで、ドイツ語の発音を完コピで、店の人に「グリュースゴット!」と話しかける。するとどうだろう。わーっと向こうはドイツ語を話してくる。だが、何を言っているか聞き取れるわけもなく、気まずい空気だけが流れる。

語学好きはこんなハプニングがある上に、危険でもある。例えば、私はいろいろな言語に触れて、記憶力がだいぶ衰えた。13個以上言語を習得すると気が狂うという謎の都市伝説があるが、あれは嘘だろう。そもそも、上限の「13」というのが意味深すぎる。だが、間違いなく、記憶力は落ちる。高校時代、人より早く大学に受かってしまった私は、一月からの三ヶ月間暇をもてあそんでいた。その中で、いろいろな言語に触れてみた。もちろん、真面目に勉強したのではない。「新書のように読める文法書」をコンセプトにしている白水社の『言葉のしくみ』を1冊ずつ読んだのだ。ドイツ語、ロシア語、スペイン語ラテン語、古典ギリシア語、中国語、ヴェトナム語、朝鮮語トルコ語フィンランド語、ポルトガル語オランダ語デンマーク語、チェコ語スワヒリ語……。何が残ったかというと、記憶力障害だけといっても過言ではない。

 

いい面もなくはない。エスニック料理屋で使ってみると喜ばれることもある。トルコ料理屋で、「テシェッキュル・エデリム(ありがとう)」といって店を出ると、いつも笑顔で「テシェッキュル・エデリム」と返してくれる。そして、もっと実践的なことを言うとたいていの文法は、すっと理解できるようになったのだ。たとえば、「古典ギリシア語」や「アラビア語」には「双数」という概念がある。これは、日本語で言えば「〜2つ」に当たるもので、単数と複数の間だ。これがある(正確には、現代まで残っている)言語は少ないので一瞬ビビるが、いろいろな言語を見てしまうと、「ああ、双数ね」という心の余裕が生まれる。だが、それは理由にはならないだろう。だって、語学をやるのに便利だ、というのは、語学が好きな理由ではない。転倒してしまっている。

じゃあ、語学をなぜやるのか。それは多分、使うためだけではない。使えたらいいと思う。だが、もし習得しきれなくても、それはそれでいいのだ。その時は英語でもなんでも使えばいい。それでも、私は語学をやめない。語学には、文化がにじみ出ている。それを味わうのが、語学の醍醐味だ。その入り口は、文法だと思う。

 

昔から文法が好きだったわけではない。むしろ、文法なんて滅びればいいと思っていた。使えればいいではないか、と。たぶん、日本語と英語しか知らなければ、その考え方は変わらなかっただろうし、英語をメインでやっている人がそう思うのも無理はないと思う。だが、三つ以上やってみると、文法の面白さに気づく。それは、文法に、その地域の色がにじみ出ていることだ。

例えば、私がこっそり「助詞会(じょしかい)」と呼ぶ言語のグループがある。それは、日本語、朝鮮語モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語などだ。いわゆる「膠着語(こうちゃくご)」。つまり、「助詞」を使う言語であり、特徴として、言葉に文法的な要素を付け加えることで文を作る(「食べる」という動詞は、語幹が「食べ」。そこに、「る」「ない」「よう」「た」などの要素を足すことで意味をもった語になる。英語の過去形で「ed」を足すのと同じか、と思ったら大間違い。日本語は何個も要素を足すことができるが、英語は無理だ。「食べ-たく-ない-だろう」は、三つ繋がっている)。それは、基本的には、ユーラシア大陸をぐーっと横断して存在している。語族は違えど、似た文法を持ちながら。そんな「助詞会」の隠れた特徴は、中央アジアチベット、モンゴル、満州遊牧民由来の言語が多いということだ。モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語は、どれもアジアの遊牧民にその由来がある(ビルマ語も「助詞会」で、ビルマ族はもともとチベットの民族だったらしい)。朝鮮語も地域的に言えばかなり近い位置にいる。日本語はどこから来たのか不明だが、地域的にはかなり近い。ただし、遊牧民だけではないというのは注意しなければならない。例えば限りなく世界最古の言語といえそうなシュメール語も「助詞会」メンバーらしいが、彼らは明らかに遊牧民ではなく、農耕民である(それも、世界最古の)。そして、インド映画「ムトゥ〜踊るマハラジャ〜」で一躍有名になったインド南部の「タミル語」も「助詞会」メンバーだが、こちらは正直よくわかっていない。だが、どれも、現代影響力のあるヨーロッパ系の「印欧語族(英仏独露伊西葡希・ペルシア・ヒンディー……と挙げればきりがない)」や中東系の「セム語族アラビア語ヘブライ語)」、東アジアの「シナチベット語族シナ語派(中国語)」や「タイカダイ語族(タイ語ラオ語)」などは膠着語ではなく、膠着語はそれら大語族の中でひっそりと暮らしているのである(中央アジア膠着語勢力が強い)。そう思うと、少しロマンがある。このユーラシア大陸の向こうにも、「助詞会」があるのだ。いつか、そんな国に行ってみたい。いつかは、「助詞会」縛りの旅でもしてみたい……。

 

さて、マニアックな話が過ぎたかもしれない。

言いたかったのは、言語だけでいかに文化と風俗をまとっているか、と言うことだ。言語には民族の歴史がある。そしてその言葉の響きはその土地の音を形作る。面白いことだが、どんなに語族が違っても、場所が近い言語は音が似ていることが多い。例えば、ペルシア語とトルコ語は語族が違うが、ちょっとくぐもった音は似ている。その土地にあった音というのがあるのかもしれない。

とにかく、言語には人々の文化が詰まっている。言語をやることは、文化に触れることだ。他の言語の音を出せるようになることは、そこにいる人々の声を内側から感じることだ。そして文字が読めるようになることは、その言語の話者の目を手に入れることだ。

言語は窓のようなもので、たくさんの言語をやればたくさんの窓が手に入ると言った人がある。確か私の高校時代の先生だ。だが、私は色々やった今、ちょっと違う感想を持っている。言語はそれ以上だ。そして実はそれ以下だ。外国語をやっても私たちはそこまで変わらないし、むしろ傲慢になることもある。だが、語学をやると自由になることもある。母語の言葉の枠から、そして、言葉という枠からさえも。

街がいきづく〜一度きりの出会いと懐かしい香り:赤坂−溜池−六本木〜

 

今日も例によって昼の時間を潰すべく赤坂へと向かった。日差しは強いが、サイゴンほどではない。湿気はあるがバンコクほどではない。私には今日赤坂へと向かう確固たる理由があった。それは、「街が生きている」と題した記事の中でも触れた、赤坂に出没するガーナ料理の屋台カーで昼食を食おうと思ったからだった。

ガーナ料理とは一体どんなものなのだろう。ガーナといえば西アフリカ。その辺りの料理ならかつてセネガル料理を食べたことがある。確かあれは吉祥寺の店だったが、なかなかうまかった。クスクスにピーナッツバター風味のカレーみたいなやつがかかっていて……などと思いながら、照りつける日差しの中、大通りをワクワクしながら歩いた。水を持っていなかったので、喉が渇いたが、そんなことは関係ない。とにかく、ガーナ料理だ。足早に歩いて行く。ところがだ。いつまでたってもあの屋台カーが見当たらない。あれを最後に見たのは二週間前の金曜日。曜日単位で動くなら、今日も止まっているはずだ。それなのに、いない。

くまなく探したが、やはり見当たらなかった。そうか。出会いは一度きりなのだ。偶然という運命に動かされる私たちの人生で、一度きりではない出会いなんてない。もちろん、偶然の重なりはあるし、やけにかぶって出会う人というのは確かに存在する。だが、あのような屋台カーとの出会いは、やっぱり、一度きりなのだ。く。やらかした。出会いをなめていたようだ。前回通りかかった時はもうすでに昼食を済ませた後だったから気乗りがしなかったけど、運命は非常にも、私たちの出会いを一度きりと決めていたのか……などとくだらないことを考えつつ、ちょっとがっかりしながらファミリーマートで水を買い、私はもっと現実的な問題について考えることにした。その問題とは、人類共通の問題。「さあ、今日の昼食はどうしようか」である。

赤坂で食ってばかりでも、芸がない。また牛肉麺ではおもしろくない。だけど、他にいい店があっただろうか、と考えるうちに、私の脳裏に振り払えない一つのひらめきがよぎったのだった。「知らない赤坂を探すんだ」と。「ガーナ料理に出会えなかったのは、知らない赤坂を探すためなんだ」と。そんなこんなで、気温33度の暑さの中、私は無謀な散歩へと向かった。行くあてもなく、食うあてもなく、ただ一つ、水だけを携えて。ちなみに、このときの所持金が800円であるということは秘密である。

赤坂のアパホテルやらフーターズやら中國銀行やらが立ち並ぶ大通りを私はとにかく駅とは逆方向に行く戦略をとった。そうすればきっと、知らない赤坂が現れる。その戦略は間違っていなかった。少し道をそれると、土色の建物が並び、小洒落た料亭、ハングル表記がたくさん書いてあるホステル、老舗のトンカツ屋、やっているのかやっていないのかよくわからない太麺スパゲッティの店立っている知らない界隈に行き着いたし、そこから大通りに戻ると、高層ビルが並びながらも、弁当屋などが軒を連ねている「生きた都会」が広がっていた。

 

途中で気づいたのだが、実はそれはもはや「知らない赤坂」ではなく、「溜池山王」だった。雰囲気もだいぶ違っていて、赤坂の「生きている」感じというよりむしろ、開発された場所に人々が「息づいている」感じがあった。どことなく、海外の街に来たような雰囲気もある。

高速道路が走る高架橋の下を通る別の大通りと今まで歩いてきた大通りとがぶつかって十字路になるところまで来た時、ハッとした。なぜなら、その場所は私の知っている場所だからだ。「知らない赤坂」を探した結果、赤坂から離れた上に、「知っていた」場所に来たのである。そこは、高速道路沿いの道を右に行けば六本木、左に行けば日比谷・丸の内へと繋がる場所だった。それは私が高校卒業の年に来たところだった。

私は訳あって(という謎めいた言い方をしなくても、要するに推薦入試だったので)人よりも大学に早く受かってしまっていた。そのため、一月二月三月とかなり暇をもてあそんでいた。その時、私は美術館に通うようになっていたのだ。その中でも、興味のある特別展を何個かやっていたのが、六本木からほど近い乃木坂にある「国立新美術館」だった。美術館に行った帰り、私はよく散歩をしたものだった。渋谷まで行ったこともあったし、六本木ヒルズの方まで行ったこともあったが、日比谷に行くこともあった。その時通ったのが、この道だったのだ。六本木方面から進んで行くと、急な坂があり、その坂を登ったら日比谷。そんな日比谷へと至る坂道が、私の左に見えた。こう繋がっていたのか。たしか新美術館から赤坂方面に行こうと思ったこともあったのだが、あの時は遠いような気がして断念していた。でも、実はこんなにも近かったのだ。

私は感慨に耽りながら、針路を右に向けた。日比谷もいいが、食事場所は少ない。奈良六本木方面の方がいい。かつてここを歩いた時、ネパール料理やらエジプト料理やら妙ちきりんなものがたくさんあった記憶がある(残念なことに、ネパール料理もエジプト料理も最近じゃ、見知ったものになってしまった。高校生の時分、「なんだこれは!」と目を輝かした自分が懐かしい)。行ってみよう。

と行ったのはいいのだが、重要なことを忘れていた。そう、私の所持金は今、800円なのだ。ネパール料理もインド料理も1000円はするのだ。といっても、ワンコインランチの店に行く気には、なぜだかならなかった。これはという店がないまま歩き続け、軽い熱中症になりかけては水を飲み、回復させながら、進んだ。

すると、ふと「ドイツソーセージ」の店を見つけた。ホットドッグなら650円だという。悪くない。私はすーっと、その店へと足を踏み入れた。

 

そこは、ドイツ式の軽食屋Imbisだった。決してお洒落とは言えない店構え、決してお洒落とは言えない内装、そしてやけに清潔な感じ。それはまさにドイツの店だった。伝わるかわからないのを承知で言うと、日本のカメラ屋さんが一番近い。今ではあまり使わなくなったが、フィルムの現像とかをしてくれるような店である。

店員は二人。働いているのは実質一人。ドイツ人と思しき、がっしりした体つきのお兄さんだった。彼はなぜか小声で、

「いらっしゃいませ」と言った。私はホットドッグランチをお願いしますと答える。なにやら選べるとのことだったので、お勧めを聞いて、それに従うことにした。

「サラダはなにになさいますか?」というので、私はザウアークラウト、つまり酢漬けのキャベツを食べることにした。

実は、6歳の時、私はドイツのベルリンに住んでいた。人格形成において、案外一番大事かもしれない幼稚園年長時代である。おかげで、ドイツ語の発音は客観的に見てやけにいいし、カルチャーショックをあまり受けない人間に育った。一方で、弊害は、ドイツが余りすぎではなくなったことだ。それは、ドイツで何か嫌な思い出があったわけではない。単純に、「ドイツ=ダサい」というイメージが染み付いてしまったのである。大学に入るとドイツ語を選択する人も出てきて、ドイツをかっこいいと言っているが、どうも解せない。ドイツ語の発音は、ハキハキやれば軍隊だし、普通にやれば田舎臭い。料理もジャガイモ、ソーセージとハム、酢漬けのキャベツ、豚肉を煮たやつと、かなり原始的である。そのなにがかっこいいというのか。要するに、田舎で育った人が、田舎に対して、「おらこんな村嫌だ」と思うのと同じ感じで、ドイツが好きではなくなってしまったのだ。

そんな私が今、なぜか思いつきで入ったインビスにいる。そして不思議と、その無機質でムダに清潔感のある店内を眺めていると、懐かしい気持ちになってくるのだ。しばらくしてやってきたホットドッグは、本場ドイツとは違って日本人向けのミニサイズだったし、熱々だった(奴らは基本的に猫舌なので、あまり熱々は食べない)が、食べてみるとどことなく懐かしかった。ザウアークラウトも、酸味には欠ける(本場のはものすごくすっぱい)が、ちょっと気持ちが落ち着く香りだった。なぜだか、またドイツに行きたいと思う自分がいることに私は気づいた。

気持ちを振り払うように、私は「ごちそうさま」と言って、店を出た。お腹いっぱいにはなれなかったが、あの懐かしい雰囲気に触れられたので良しとしよう。普段は外国の方が経営している外国料理の店では、できるだけその国の言葉でありがとうというようにしているが、なぜか今回は恥ずかしくて「Danke」と言えなかった。また今度来たら、言ってやろうと思う。

ちなみに、次の旅では、ドイツにはいかない。

f:id:LeFlaneur:20170715000628j:plainこれが私の知らない赤坂

街が生きている(赤坂)

東京の面白いところは、いろいろな場所によって、それぞれの個性が光っているところだと思う。新宿には新宿の、四谷には四谷の、麹町には麹町の、丸の内には丸の内の、八重洲には八重洲の、銀座には銀座の、有楽町には有楽町の空気がある。ちょっと離れるだけで、まるで異国のような雰囲気がある。疑う人がいたら、日本橋から上野に行ってみるといい。もう、全然違う文化圏に移動したような感じがするはずだ。

その中でも、赤坂という街は独特で、僕の好きな街の一つでもある。そして、実は今、僕は赤坂にいるのだ。

赤坂は、僕の生活圏内から近く、よく立ち寄る場所である。特に金曜日の昼は、休み時間がだいぶあるため、赤坂まで足を延ばすことが多い。もちろん今日も、それが理由で赤坂にいるっていうわけだ。

江戸城の外堀を超えて、横断歩道を渡ると、赤坂の街が始まる。細いタイル張りの道が適度に汚いビルの間を突き進んでゆく。道は碁盤の目のようになっていて、赤坂で迷うということはおよそないだろう。だけど、南北に走る道と、東西に横切る道(というか小さな路地)では、これまた雰囲気がだいぶ違って、歩いているだけで楽しくなってくる。南北に走る道にはスペイン、イタリア、タイ、イギリス、中国、韓国、国内では大阪、名古屋などなどのいろいろな「文化」を表現するレストランやらバルやらパブやらが立ち並び、東西に横切る道にはひっそりと昔からあったんだろうなというような小料理屋やすし屋などが生きている。

赤坂の道を歩いていて気づくのは、そこが適度に汚いことだ。ビルも、道も、どことなく「使用感」がある。坂のせいで、碁盤の目のようになっているはずの道も、どことなく歪んでいる。ちょっとだけいびつで、ちょっとだけ汚い。道に並ぶ店も統一感はなく、イギリス式のパブがあったかと思えば、料亭があったり、料亭があるかと思えばタイ料理屋があったり、かと思えばホテルがあったり、ちょっと卑猥な店があったり、とにかくごちゃごちゃしている。だがこのごちゃごちゃ感こそ、「街が生きている」証拠なのだ。東京の街は多様な文化を持っているとはいえ、徐々に綺麗になってきていて、このごちゃごちゃ感を出せる街並みは少なくなっていると思う。そんな中でも、赤坂はごちゃごちゃ感、適度な汚さを保ち、街をエネルギッシュに保ってくれている。だから、僕はこの街が好きなのだ(ただし、夜歩くのはちと怖いかも)。

赤坂はかつて、高級住宅街だったという。江戸時代には大名屋敷(今でいう「大使公邸」「大臣公邸」)や旗本屋敷(今でいう高級公務員の家)が立ち並び、明治時代には高級官吏や軍人のための料亭がたくさんあったという。戦後になると、大使館の人たちなどの外国人の遊び場として赤坂は発展し、キャバレーなどが出来上がり、1955年にTBSが本社を赤坂に構えると文化人やファッション関係の人の溜まり場となっていたという。おかげで、今の赤坂はまるでTBSの城下町のようである。TBSがちょっと小高いところにあるので、赤坂の城下町感が倍増している。

もちろん、本当はきっと、赤坂を挟んでTBSの反対側にある「日枝神社」の「城下町」なのだろう。日枝神社というのもなかなか面白いところで、神社なのにエスカレーターがついている。神社といえば長い階段のイメージがあるが(東照宮などにはすごく長い階段があるではないか)、なぜか日枝神社はそれを機械化、白い巨大な階段の隣にエスカレーターがあるのである。神社の中はかなり立派で明治神宮にも劣らないだろう。日枝神社の目の前の道は、赤坂の街のごちゃごちゃ感とは裏腹に、だいぶ整った大通りが駅の方へと貫いている。と、思わせておいて、並ぶ店はスペインバルに中國銀行アパホテルに、よくわからないドイツ語の名前の企業と、だいぶ異様な雰囲気を漂わせている。今日歩いていたら、派手な車が止まっていて、なんだろうと思ったら「ガーナ料理」の車だった。昼に台湾の「牛肉麵」をTBS城のお膝元で食ってしまっていたので断念したが、今度見かけたら、絶対に行ってやるから、待ってろよ、と心の中で捨て台詞を言って、立ち去った。

 

 

さて、以上が、僕の見た、いい意味で「ごちゃごちゃ」、エネルギッシュな赤坂の街の姿だが、今日新しい一面を見つけた。TBSの前を横切って、坂になっている「一ツ木通り」を歩いていると、「浄土寺」という寺があったのだが、そこが面白かったのだ。ビルの合間にぼんぼりが吊る下げてあり、中が入ってみると、参道があって、その先には寺があった。おばあさんとその娘がゆっくりと山道へと向かい、穏やかな風が流れていたその寺は、四方を住宅に囲まれていたのだ。まるで、昔の街のように、家が立ち並ぶど真ん中に寺がある。エネルギッシュな繁華街に見える赤坂にも、そんな穏やかで、別の意味での生活感にあふれたところがあるとは、想像もしなかった。吹けば飛びそうな寺だったので、ぜひずっと残っていってほしいなと思わざるをえなかった。

赤坂。今、朝ドラでも出てきている街。そこには生活とエネルギーとごちゃごちゃの文化がある。歩く人の人種もバラバラ。売っている食べ物もバラバラ。それでも隅っこには日本的な要素が静かにいきている。あの街は確かに、生きているのだ。

f:id:LeFlaneur:20170630145602j:image

浄土寺

『知と愛』のはなし

この前、友達と一緒に西田幾多郎の『知と愛』というエッセイを読んだ。読んでいる様子はツイキャスにあげているので、私のTwitterを知っている人なら、遡って見つけることができるだろう。このエッセイは、西田の『善の研究』という大著のエピローグのようなもので、もともとは独立したエッセイだったという。

彼は言う。知と愛は、同じ精神作用だ、と。知るということは、自分の思い込みを捨て、知識へ身を委ねることである。そして愛するということは、自分を捨て、相手を想うことである。どちらにも、「自分」は消え去ってしまい、そこには「純粋経験」だけがある、と(純粋経験とは、私たちが普段やっている経験である。例えば夕日を見ている時、私たちは決して、「私は今、夕日を見ている」などと感じはしない。じっさいには、ただただ目の前に夕日を感じているのである。そのとき、「自分」は消えている)。いや、それどころか、西田は、「知即愛、愛即知」と言って見せる。つまり、相手のことを知るがゆえに、相手をますます愛し、何かを愛するがゆえに、何かを知るのである。

なかなか納得させられる。高校生の時、私は古代ローマの本を読み漁った。そのおかげで今、ローマの歴史の流れをそらんずることができる。「ラティウムに住む男たちが、ローマの土地に国を建て、指導者ロムルスが王になり、王政が始まって、ヌマなどの前世を敷く王様の時代が続き、その中で隣国エトルリアの文明を吸収していくが、最後の国王タルクィニウス・スペルブスは……」と。これは正真正銘「知識」だ。それも、世界史の勉強の役にも立たないし(国王の話なんて、高校の教科書では「ロムルスがとレムスが建国。その後、エトルリア人の国王を追放して」で終了である)、実生活の役にも立たない知識である。だが、私にとっては意味があって、ローマ史の話をしろと言われて国王の話から始めるのは、二代目国王ヌマから六代目セルウィウス・トゥッリウスの業績が、最後の王様のせいで無に帰せられるのがかわいそうだからだ。それはある種、ローマの歴史という一連の流れを愛するからである。実際、ローマ史を調べていた頃は、しょっちゅうローマ人の話を私自身していたと記憶しているが、それはよく考えてみると、恋をした人が恋する相手の話をすぐにしてしまうのと非常に似たところがある。私はどうも「熱っぽい」性格のようで、ローマだけではなく、物理学(特に相対性理論量子力学の歴史)、数学(特にフェルマの最終定理)、江戸の歴史、幕末〜明治に活躍した榎本武揚フランス第二帝政を作ったナポレオン3世、世界の言語などに同じような感覚を抱いていた。今から思えば、あれこそまさに「知即愛、愛即知」だったと思う。逆に言えば、このような「愛」がなければ、本当に楽しんで「知る」ということはできないだろうし、ただ覚えただけの知識はすぐにどこかへ消えてしまうのだろう。もし、教えるのが上手い先生がいたとすると、それは話が上手いだけではやっぱりダメで、その知識への「愛」を豊富に持ち合わせた人に違いない。知ったかぶりや知識自慢ではなく、純粋な愛あってこそ、聞き手もその愛に飲み込まれ、知識を「人格的なもの」「いきいきしたもの」として受け取ることができるはずである。

人に関しても、間違いなくそういうことはある。初めは見た目が好きとか、声が好きとかだったとしても、だんだんとその人のことを知るにつれて、その人を好きになって行き、好きだから、知りたくなるのかもしれない。星野源の「くせのうた」という歌を思い出す。「君の癖を知りたいが、ひかれそうで、悩むのだ……」知ることは、愛することへと近づいてゆく。もちろん、知るからといって愛するわけではない。だが、愛していなければきっと、知るというよりも、決めつけて終わると思う。「あいつはこういうひとだから」「お前はこういうやつだよな」「お前が考えそうなことだ」などということは、「知る」ことではない、と思う。確かに初めは知ろうとしたのかもしれないが、もはや分析する方向へと進んでいて、それは愛とは言えないし、知ってもいない。嫌いな人に対してやりがちなことだ。いや、もしかすると相手を盲目的に好きになると、これまたやりがちなことなのかもしれない。

そうやって考えてみると、科学を「未来を予測するためのもの」と考えるのは、一つ間違いなのかもしれない。確かに、ニュートン力学は、ハレーという人がニュートンの数式を使って彗星の出現を予測した時、確かなものになった。自然科学とは違うが、経済学は経済の動きを予測する役目を期待されているし、気象学は気象予報を求められている。だが、科学の精神って、本当にそこにあるんだろうか? 今、理論物理学でホットな話題は、「TOE(=万物の理論)」だろう。これは何かというと、予測するというよりはむしろ、この宇宙を動かすあらゆる力(ちょっとマニアックな話をすると、四つの力であり、一つは万有引力、もう一つは電磁気力(静電気や磁石の持つ力)、最後の二つは原子を成立させている「強い力」と素粒子を変化させる「弱い力」。電磁気力と強い力と弱い力は、「統一理論」で統一されそうだ)を一つの理論によって説明し尽くそうという動きだ。これは予測ではなく、過去に遡って、全ては一つであったことを説明しようとしている。それはひとえに、「知りたい」という思いである。それは「愛」にも似たものである。予測することは、自分の知ったことを元に、相手をいわば「決めつけ」、次の出来事を読むことだ。これは愛とは違う。

西田幾多郎はあまり書いていなかったと思うが、「決めつけ」の問題は随分と根深いし、他人事ではない。人はみんな何かや誰かを愛しながら生きている。だがそれは、「決めつけ」に走る可能性を秘めている。ストーカーや、自然破壊はその極致と言っていいだろうが、どの人もそれをやりかねない可能性を持っている。歴史を楽しんで学ぶと、いつの間にか、現代という時代を変えてやりたくなってくる。相手を知ると、自分が相手にできることに思いを馳せ、いつの間にか自分が相手を変えてやろうという気持ちになる。必ずしもその全てが悪いわけではないし、それは歴史や人生を動かす原動力に確かになっている。だが、それは時に暴力的で、危険な側面も持つ。ちょっとした「君って〜な人だよね」「この民族の歴史は〜な感じのサイクルをいつもたどる」「日本人は〜な民族だ」は、いつか、危ないものになるのかもしれない。私たちは微妙な位置で生きていて、愛と知は微妙な位置にある。人を本当の意味で愛し続けるには、もしかすると何もしないという選択肢しかないのかもしれないし、何かを本当の意味で知るということは応用的なことは一切してはいけないということなのかもしれない。だが、行動や応用がない限り、人は歴史や人生を前に動かすことができないのもまた事実だ。

大切なのは、純粋な愛、純粋な知を楽しむ経験を持つことかもしれない。それを大事にした上で、それをいかに前に進めるかが問題だ。そうやって考えると、西田幾多郎のいうとおり、「純粋経験」へとたちかえらないといけないのかもしれない。そして、それこそ現代において哲学のできることなのかもしれない。それは一人で行うことでもいいし、誰かとともに対話することによってなのかもしれない。フランス人哲学者のベルクソンはこんなことを言っている。

「科学者は、自然に服従し、命令する。哲学者は、服従も、命令もしない。ただ、共感することを求める」

ヴェトナムの方がやってきた

6月10日と11日は、代々木がヴェトナムになる日だった。5月ごろから代々木公園では、カンボジア、タイ、ラオスと東南アジアの国々を紹介するフェスが開かれ、6月10日と11日はヴェトナムフェスティバルが開催されていたのだ。

去年、一昨年と連続してヴェトナムに行った私としては、このフェスティバルには行かなければならなかった。そう、もう行きたいどころの騒ぎではなく、行かなければいけなかったのだ。そんなわけで、私は後輩二人とヴェトナムフェスティバルに繰り出したというわけだ。

面白かったのは、このフェスティバルが、ヴェトナムという東南アジアの国に興味がある酔狂な日本人が集まる場ではなく、ヴェトナム人たちが集まってくる場でもあったことだった。というのも、去年同じ会場でやっていたアラビアンフェスティバルは、イスラーム圏の人の集まる場というよりも、日本人が集まっている状態だったからである。それはたぶん、イスラーム圏の人は、毎週金曜日、いやほぼ毎日モスクで集う習慣があり(本当に「集って」いる。一昨年モスクを訪れた時のあの雰囲気は忘れがたいが、それはまた今度話そう)、ヴェトナム人と違って文化的な何かを確かめ合う場が多いからではなかろうか。その点、日本にはヴェトナム寺院(大乗仏教の寺だが、明らかに雰囲気が違う)といっても、数えるほどしかないだろうし、集まるにしても、年に一度のテト(旧正月)くらいではないか。まあ、どれも憶測に過ぎない。単に祭りと聞いたら血がさわぐたちなのかもしれない。

とにかく、ヴェトナムフェスティバルの会場に入ると、いや会場への道のりから、だいぶ異質な雰囲気を醸し出している。周りからはヴェトナム語が聞こえ、男女ともにアオザイで着飾った人もいるし、会場に入れば、独特のハーブやら肉やらの混ざった匂いがしてくる。看板にはアルファベットに細々とした飾りをつけたヴェトナムアルファベット(クォッグー)が並んでいた。ライヴは無名の日本人アーティストの謎のナンバーもお届けしていたが、たまにヴェトナムのスターが現れ、ヴェトナム人たちは歓声をもって彼らを受け入れ、スターたちはポップな曲やバラードをやったかと思うと、一曲は必ずヴェトナム演歌を演奏していた。まるで、ヴェトナムである。会場の裏手にあるスペースではヴェトナム人たちがピクニックを催していて、「モッハイッバー、ゾー(1、2、3、いくぞ!)」という掛け声とともに乾杯し、盛り上がっていた。その脇を、子供達が駆け回る姿も、ヴェトナムっぽさがあった。

そこには、ヴェトナムがあった。「ヴェトナム」自体が出展されていた。もちろん、日本でやっているのでどこか小綺麗な感はあるが、やはり、あれはヴェトナムだったのだ。食事の方はというと、やっぱり本場にはかなわないが、ビールの「333(バーバーバー)」も「ビア・ハノイ」もあの時の味だったし、それに嬉しかったのは、本場ヴェトナムのチェーン店チュン・グエンの系列店が「本物の」ヴェトナムコーヒーを出していたことだった。あれはあまり日本では味わえないので、嬉しかった。チョコレートのような濃厚な味の、コーヒーと練乳のマリアージュ、である。

それにくわえて、あのフェスティバルは8時まで続いた、というのもヴェトナムらしい。テンションを一切変えず、一日中やり続けるヴァイタリティ。他のフェスティバルは普通5時には終わるものを、8時まで延長し続ける力強さがそこにはある。まさにヴェトナムという感じである。

かつて、エスニック料理の店の魅力について書いたことがある。あの時、私は、こんなことを書いた。エスニック料理は、日本にいながら他の文化の濃厚な部分への扉を開いてくれるものだ、と。なぜなら、食べ物の味はもちろん、その店の雰囲気、働いている人々、そして店の中の香り、流れている曲……それは完璧にではないが、その国の文化を確かに立体的な形で伝えてくれるからだ。ヴェトナムフェスティバルは、実際にヴェトナムに行ってみて考えると、確かに代々木をヴェトナムに変えていた。言葉、香り、音楽、人々、そして味、エネルギー。もっと大規模な形でヴェトナム自体を伝えてくれていた。そう、五万円払ってヴェトナム航空のチケットを買わなくても、そこにはヴェトナムが、ヴェトナムの方がこちらにやってきたのである。