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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

13都市目:ナント(2)〜Live Together in Perfect Harmony〜

ナントの街を歩いていて気づくのが、他の街、他の国と比べて人種間交流が多いことだ。何が言いたいのかというと、黒人と白人が楽しそうに一緒にいる度合いが高い。もちろん今のご時世他のところでは差別が強くあるわけではない。だがなんとなくグループが出来ている。ナントにはそんなグループは存在しないのである。

例えば、マシーヌ・ドゥ・リルを離れて河岸を歩いていると、よく黒人のお父さんがベビーカーに子供を乗せて歩いている横に、別の白人のお父さんがいてパパ友なのだろうか、談笑している。その様子を見ていると、きっとこの街は暮らしやすいんだろうなと思った。だがその一方でこの街が黒人奴隷取引の主要港町であったというくらい歴史を乗り越えようとする意志の強さも感じさせられた。ナントに住んでみたい。いつか子供ができたらナントに行きたい、などと叶いもしないことを思いながら、わたしは川沿いの奇怪な形の卓球台を横目に中心部へと向かう橋を渡った。

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ナントの街はロワール川で二分されている。北は中心街があり、中洲には件のレ・マシーヌ・ドゥ・リルがある。南は知らない。要するに北が栄えているというわけだ。わたしは中洲から北の中心街へとモダンな橋を渡ったのだった。

橋を渡るとホテルのそばだった。それにフランス人の夕食時間まであと30分から1時間ほどある。わたしはホテルのある坂道をとにかく上へ上へと登ることにした。特に意味はないが、やってみたくなったのだ。登り切ると、真ん中に噴水のある広場があって、劇場らしきものがあった。その前には謎の現代アートが鎮座ましましている。真っ黒いその姿は、牛なのか、はたまた特に意味はないのか。

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ナントは住みやすそうな街であるとともに、奇妙奇天烈な街であった。町中に謎のアート作品が置かれている。ビルボのグッゲンハイム美術館前やボルドーの「ボルドーまもるくん」、あるいは昔住んでいたベルリンの手を挙げたカラフルなクマなど、ヨーロッパには街中にアートを飾る街も多いが、ナントのものは群を抜いたわけがわからない。しかも19世紀後半のいわゆるベルエポック(古き良き時代)や(第一次大戦と第二次大戦の間の)戦間期のいわゆるレザネフォル(狂乱の時代)の雰囲気漂う街に地味に溶け込んでいるのである。

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例えば劇場の広場から川沿いに戻って別の広場に入ると、広場のど真ん中に砂浜のようなオブジェがあり、シュロの木のような形の構造物が天高くそびえている。シュロの木の幹の上の方には裸の人形がぐったりと身を横たえている。変なオブジェであり、彼がハチ公前にあったら違和感しかないわけだが、案外ナントの街は何ともないかのように振舞っている。

そんな広場のところには必ずストリートミュージシャンがいて音楽を奏でている。といっても、一方的でないこともあり、観客の女の子にピアノを弾かせてみたりもしている。変な街だ。だがそれがいい

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トラムの線路沿いに歩いていると、街に入った時に目にしたブルターニュ公居城が見えてきた。たまにはこういうところに入ってみよう、と思いつき、わたしは空堀にかかった橋をわたった。最後のブルターニュ公アンヌは人気があるようで、堀の周りにも関連展示がある。

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城の屋内部分はもう開館時間を過ぎていては入れなかったが、中庭あたりを散策した。かつてここで、フランス王国に対抗するブルターニュ公国が独立していた。そしてフランスになってから、ナントの勅令が発布された。ナントの特権的地位が剥奪されるのはフランス革命の後にフランスが今のようなパリ一極集中に切り替わってからである……この街の歴史はこの城とともにあったわけだ。塔がいくつか並んだこの城は、全体的に優しい感じの丸っこい形をしていた。屋根はねずみ色、漆喰は城。中庭から見るブルターニュ公居城は、まるでアパートのようである。だが、由緒はやはり感じられる。不思議な形の井戸、何人もの人に踏みならされてきた階段、その一つ一つは歴史に彩られている。

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しばらくうろちょろしていると、中庭の開館時間も終わりに近い雰囲気が漂ったので、わたしは堀にかかる橋を渡って現代のナントに戻ってきた。しばらく堀のそばに腰掛けた。まさにブルターニュ公居城は、「つわものどもが夢の跡」である。なんとなく感慨に浸っていると、お腹がすいてきた。そろそろ、夕食の時間である。

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何かめぼしいものはないかと、賑やかで穏やかな、住みやすそうなナントの街をほっつき歩いて、店を探した。ナントの料理は知らないので、自分の嗅覚に頼るほかない。すると、「刺身」という文字がたくさん目につく。どうやら少し前まではクレイジーなジャパニーズフードだったはずな生魚は定着しつつあるようだ。そういえばボルドーで参加者二人の超ミニ寿司パーティをしたとき、ドイツ人のジャーナリストが「ヨーロッパでもみんな生魚は食べるわ」と言っていた。わたしがドイツにいた時は、「は?生魚だと?死ぬ気か?」というレベルであったというのに、世の移り変わりはこうも速いものだ。

そんなことを考えていると、わたしの脳裏に天才的な発想が浮かんだ。

そうだ、今日の夕飯、タルタルステーキにしよう。

タルタルステーキとは、洒落っ気も何もなく言って仕舞えば、要するに、生のハンバーグである。牛100%でそれも新鮮なものを使う。名前の由来は、モンゴル人が食べていたとのことだ。かつて、モンゴル帝国絶盛のころ、モンゴル帝国軍はなんとヨーロッパまで攻撃したのだが、その時自分のことを、モンゴルとか色々いうのが面倒になって、ヨーロッパでは有名とされた「タタール人」だと自己紹介した結果、なぜかヨーロッパ人が勘違いして、「タルタル(=地獄の神)⁈」と怯えたという。それがタルタルな訳だが、遊牧民は肉を馬と自分の腿の間に挟んで保存したらしく、それが、タルタルステーキになるわけだ。ちなみにこれはヨーロッパには珍しく生肉料理だが、焼いたものがドイツのハンブルク名物としてアメリカで有名になった。後のハンバーグである。

さて、心理学者もびっくりの連想法でタルタルステーキを食おうと思ったわけだが、実を言うと刺身の店のそばにタルタルステーキ屋があったのも一つの理由であった。なかなか混んでいるが、それはうまい証拠。生粋のフランス料理であるかは別出して、フランスでもよく食べられていると言う。というか、おそらく生肉だなんて珍奇なものを食べつづける輩はヨーロッパにフランス人以外でいるまい。

混んでいたので店員の人に認識してもらうのに一苦労したが、強引になんとかレストランに入り、「タルタル・トラディショネル(伝統のタルタル)」なるものとビールを頼んだ。フランスにいるんだからワインという選択肢もあるのだが、ナントの気温はなんとも暑く、なんとなくワインよりも、なんといってもビールだなという気になった次第である。最近いつもこうだ。これではヨーロッパのクソ田舎ベルリンで育ったという卑しき(?)出自がフランスのお高くとまった人々に露呈してしまう。

タルタル・トラディショネルとは、通常のタルタルステーキの上に生卵をポトンと落としたものだった。生肉の上に生卵をのせるとは、日本人のわたしからしても驚きである……と思ったのだが、この取り合わせは間違いなくユッケである。さっそくユッケならぬタルタル・トラディショネルのど真ん中にナイフを当て、卵を破壊し、肉とあえて、付け合わせのバルサミコ酢にひたしてパクリと食う。うまかった。肉本来の香りとちょうどいい調味料のバランスがいい。以前パリで食ったタルタルステーキパクチーことコリアンダーがあまりに効き過ぎていて食べていて疲れたが、ナントのタルタルはなんとも絶妙なうまい料理であった。それに、ビールと合うのである。まったく、ワインで食べるやつらの気がしれない。などと調子に乗って、全部平らげると、ウェイターがやってきて、感想を聞いた。

「C'est très bon!(めっちゃうまかったっす)」と語彙力のかけらもないフランス語で答えると、

「Désert?(デザートですか?)」と尋ねるので、いつも通りエスプレッソだけ頼むことにした。ヨーロッパにきて食事をしたら、やはり最後はエスプレッソに限る。エスプレッソはヨーロピアンな量の食事と日本人の胃袋の壮絶な戦いに勝利した後のご褒美だ。それに、デザートを頼まずとも、カップの横にちょっとしたお菓子がついているから、1.5ユーロくらいでデザートまで済ませることができるというセコイ旅行者の味方でもあるのだ。

 

店を後にして、わたしはヤシの木の広場に戻った。ミュージシャンがたくさんいて、スムースな音楽が満ちていた。怪しい浮浪者に絡まれかけるなどこの広場ではちょっとした事件も起きたが、食後の散歩にはちょうど良い。時刻は8時45分ごろ、日は沈み始め、空が美しい。わたしはふと城に行きたくなった。

城は暗くなりつつある空のせいもあって、より哀愁をたたえていた。城の前にある公園にはベビーカーを押す家族、走り回る子供、談笑する夫婦。住みたい街ランキングはきっと高いに違いない。見るからに夏のヨーロッパの夕刻という感じで、漂ってくるビールの香りも良い。ナントは、やはり誰かと来たい、誰かと住みたい街だった。明日には離れるのは寂しいが、明日の目的地はカンペールブルターニュ文化の中心地。それはそれで気になる。

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13都市目:ナント(1)〜Live Together in Perfect Harmony〜

「次はフランス語で話そう」

「そうね、ムッシュー」

ドイツ人のジャーナリストとバス停で別れた私は、バスに乗ってバス停へ行くという稀に見るシュールなことをした。もちろん、乗るバスは市営バス、目的地のバス停から出るのは長距離バスだ。途中誤ったバスストップで降りるというミスもあったが、なんとかかんとか、ボルドー駅そばのバスターミナルにたどり着いた。

五日間お世話になったボルドーの街ともこれでお別れで、またひとり旅の日々が始まると思うと少し寂しくもあった。もう少しいれば、もっとフランス語ができるようになったかもしれない。だが、私は語学をやりにフランスに来たわけではなく、ひとり旅の言い訳として語学をやっていたわけだから、要するに、本来の仕事に戻ったわけである。ただいま、ひとり旅、でもある。

ところが、バスターミナルにバスがいつまでたってもやってこない。別のバスは来るが、目当てのバスがこない。どうしたものかと思っていると、周りの人が道路でストがあっただとかなんとか噂話をしている。まあ何かしらあったのだろう。仕方ない。そういうものだ。そうやって待っていると案の定バスはしばらくしてやってきた。運転手は降りてくると紙を広げ、点呼を取り始めた。名前やら何やらを登録したからだ。しかしその光景はなんとなく、修学旅行のそれであった。

 

目的地はナントである。決めたのは昨日のことだ。これからのミッションは、8月30日までになんとかしてパリに入ること。そう、ナントかして、である。そのためには北に向かう必要があるが、その途中ブルターニュ地方に寄りたかった。別にガレットやシードルに惹かれわけではない。私が惹かれるといったらもちろん、ブルターニュ地方に息づく「ブレイズ語」とよばれる、ウェールズ語アイルランド語に似ているという少数言語である。いわゆるケルト人の土地で、1532年まで独立を保っていたというのだから、歴史マニアの血も騒ぐ。それで、どのブルターニュ地方に直接行くのは少々ハードなので、その前にロアール地方にあるナントで一泊しようという魂胆だった。

ボルドーのワイン畑をこえ、なんてことはない田舎道を走り、『三銃士』で取り上げられるラロシェルの街に少し寄って、バスは北は北へと進んだ。途中でインターのようなところに入り、昼食を買った。お馴染みのパリジャンというスタイルのサンドイッチである。フランス語でやりとりして、2ユーロのかわりに20セントを出してしまうという謎の失態を犯し、

「確かにそれも2ね」と笑われてしまった。まあそんなものだと私も笑った。

 

ナント。日本人的には少しばかり笑える名前の街。世界史で出てくる「ナントの勅令」だけがやけに有名な街だ。フランスの北部の古城乱立地帯「ロワール地方」に属してはいるが、1532年のフランス王国によるブルターニュ公国併合までブルターニュ公国の中心都市だったという(これは行ってみて初めて知った)。

フランス併合後もその地位は保たれる。フランス国内で起こった泥沼の宗教戦争ユグノー戦争が、ユグノープロテスタントカルヴァン派)側のナバラ国王エンリケ、フランス語名ナヴァール国王アンリの勝利に終わると、アンリはナントの城で高らかに、宗教の多様性を認める、みんな大好き「ナントの勅令」を発布した。この勅令は、のちにアンリの孫のルイ14世の治世になって、あっさりと破棄される。

その後、カリブ海の植民活動の強化とともに、ボルドー同様、奴隷貿易の都市になる。カリブ海のサトウキビ、フランスの武器、アフリカの奴隷にされた人々がぐるぐるまわる三角貿易である。そして暴利を貪り、ボルドーもナントもさかえた。フランス革命が起こると、知識階級がいたナントでは革命支持に周り、奴隷貿易と衰退した。しかしその後は工業都市として発展して行く。そして、そんな工業と貿易の街で進取の気風を感じながら育ったのが、『海底二万マイル』『地底旅行』『八十日間世界一周』など、ディズニーシー系、ではなく、SFの父ジュール・ヴェルヌである。

 

バスが遅れに遅れ、ナントに着いたのはなんと五時くらいである。ホテル探しを今からやる元気もないので、街の中心部に向かうトラムの車中でネット予約をした。便利な時代になったもんだ。檀一雄沢木耕太郎のような在りし日の旅人のように足でホテル探しをしなくてもよくなった。たいていのところにはネット予約のシステムがあり、値段や口コミが一目瞭然である。これを使うのはしゃくではあるが、使えるものは使っておくべきだ。

ホテルはナント中心部からすこしはずれの、トラムでメディアテックいう駅の近くにある。トラムから見るナントの街は気持ちの良さそうな街だった。街路樹、公園、開放的なカフェがあり、人々は楽しそうに談笑しながら歩く。そんな街にも、突如として城が現れる。ブルターニュ公城である。ヨーロッパはこれが面白い。ローマの街を歩いた時もこんなことがあった。それにしても、ナントの街は気持ち良さそうだ。

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コメルス駅で下車して、坂を登れば、ホテルがあるという。わたしはこの時ばかりはグーグルマップというチート手段をふんだんに使い、ホテルへ向かった。日が暮れる前にホテルに入りたい。と言っても日が暮れるまでに三時間はあるのだが。

「ボンジュール」と入ったはいいが、フロントに人はいない。チーンと呼び鈴を鳴らせば人がフロントの奥にある部屋からホテルの人が出てきた。

「ボンジュール」と髭面の上品そうな主人がいう。

「ボンジュール。ジェレゼルヴェユヌシャーンブル(こんにちは、部屋を一部屋予約しました)」というと、先ほど予約したこともあったかスムーズに身元がわかり、鍵が渡された。

「10時になると鍵が閉まりますので、あちらのガレージにある扉の暗証番号を解除して入ってください」と主人は言った。朝食は8ユーロ。面倒だし、6ユーロでコーヒーとパンなら食べられる。朝食は外で食べる派である。わたしはそれは断り、部屋に入った。

部屋はシックなダークな色で、なかなかオシャレだった。肘掛け椅子も二つ並んでいるし、テレビもある。45ユーロ(5000円くらい)だからなかなか優秀である。とはいえこうしてはいられない。しばらく体をベッドに任せ、テレビを見たら、町歩きに出発だ。それがわたしの仕事である。

 

フロントで地図をもらい、わたしは坂を降りて、川沿いを歩いた。川は泥で淀んでいる。ボルドーのジロンド川もそうだった。ドイツ人ジャーナリスト曰く、大雨のせいだという。行った時には雨の痕跡などにほど馬鹿みたいに晴れていたが、天気は変わるものだ。現にナントの天気はそんなに良くはない。

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川沿いを中心部とは反対方向に歩く。わたしにしては珍しい動き方だが、目的地があったのだ(目的地があるというのもまた珍しいのだが)。目指すはレ・マシーヌ・ドゥ・リルという場所で、いわゆるアミューズメントパークである。ナントに来た理由はここに行くためと言っても過言ではなかった。つい最近までディズニーランドは小学生が行くものと決め込んできた寂しい男がなぜ一人でアミューズメントパークに行くのかというと、そこがSF作家ジュール・ヴェルヌをモチーフにしているからだ。科学と自然の融合、そして人類の夢の結晶。そのようなことを言われるといってもみたくなるし、テレビなどでも実際に人が乗れる可動式機械式ゾウさんも、乗りはしなくても、見てみたい。

川沿いを行けば行くほど街は寂れて行き、徐々に不安になった。もしや、往時は有名だったレ・マシーヌ・ドゥ・リルも放棄されているのではないか、と。だがしばらくしてその不安は払拭された。汚らしい川にかけられた橋を渡り、しばらくするとメリーゴーラウンド(どういうわけかこれはフランス各地にある)がくるくると回っており、その周りには家族連れがたくさんいた。すごく混んでいるというわけではないが、もう6時半である。こんなものだ。

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ロマンティックなこととはほぼ無縁な学生生活を送っていることもあり、遊園地に入るのは多分小学校以来だろう。メリーゴーラウンドに、楽しそうな子供の声、大人たちの談笑。日本と同じだ。だがメリーゴーラウンドにはタコやらイカやら仰々しいものが乗っけられて回っており、この遊園地のコンセプトを物語っている。19世紀、科学と自然と魔法が共存していた時代の、夢である。ジュール・ヴェルヌの世界だ。わたしはジュール・ヴェルヌの作品は『八十日間世界一周』しか読んだことはない。他のものは恥ずかしながら映画か、小学生時代に行ったディズニーシーのアトラクションでしか知らない。だがその、「人間が想像できるものは、人間が実現させることができる(Tout ce qu'un homme est capable d'imaginer, d'autres hommes seront capable de le réaliser)」という言葉は子供の頃から好きで、わくわくさせてくれた。それは、わたしが好きな映画「ヒューゴーの不思議な発明」の世界でもある。機械にまだ人間味があった時代である。生命と機械が調和していた時代である。その時代をシャーロック・ホームズも(作品中で)生き、哲学者アンリ・ベルクソンは哲学した。ガウディはその時代に建築に命を吹き込み、夏目漱石はそんな時代に驚愕した。面白い時代である。

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入館料というものはなさそうなのでわたしは中に入った。入館料を払えば、空飛ぶ機械に乗ったり、いろいろなことができるらしく、機械式ゾウさんにも乗れるようだが、一人でやる気もなかったので、公園を散歩するだけにした。廃工場というか、駅舎というか、がらんとした空っぽの建物にはところどころ、プテラノドンなどを模した機械式の生き物がいる。そばにはシュロの木が立っている。そのだだっ広い建物を抜けると、公園があった。人だかりがあったので寄ってみると、そこには例のゾウさんだ。案外スムーズな動きで、時折見物客に水をばしゃーっとかけている。象の体の中には人がたくさん乗り込んでいる。この象、実は排泄もするようで、突如水をじょろじょろっと失敬していた。ユーモラスである。見ていて飽きない。

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わたしはしばらく象を鑑賞して、それから街の中心部へ戻ることにした。理由は象でもわかる単純なもので、そう、お腹が空いたのである。もう一度だだっ広い建物を通り抜けしていると、子供たちが全力で徒競走をしているのを見た。そりゃそうだろう、こんなだだっ広いところで何をするって徒競走しかあるまい。フランス人はヴェトナム人と似て、子供を自由にしているように思う。日本はいささか縛りすぎである。走ったら「怪我したらどうするの?」、喋ったら「うるさい」。うるさいときはうるさいし、怪我したときは怪我をする。それが人類だ。それでいいじゃないか、などと思ったりもする。

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雲行きは良くなかった。だが雨が降るわけでもなさそうだ。誰も傘など持ってない。それにしてもアミューズメントパークは一人で来るところではない。いや、この街、ナントは誰かと来たい街だ。というか、暮らしたい街だ。

12都市目:ボルドー〜ボルドーの人々〜

アンダイエの街には数時間いたが、外には出なかった。理由はない。駅の中で次の街ボルドーでのホームステイ先の人とメールをしたり、本を読んだりしていた。ふと目をやると、赤い看板のキオスク「Relay」や、価格帯が高めの自販機「Selecta」が置かれている。当たり前だが、フランスに戻って来たという感慨が生まれた。どれもフランスのものだ。TGVの自販機も懐かしい。スペインの長距離列車の駅はマドリードバルセロナしか行っていないが、やはり雰囲気がやや違う。わたしは嬉しくなってRelayでサンドイッチを買って食べた。

さて、ボルドーである。わたしはこの街に一週間だけフランス語の勉強のために逗留した。要するに1ヶ月という長いスパンの旅をするための一種のアリバイ作りだ。たかが一週間、されど一週間。この間にかなりフランス語がわかるようになったと自負している。何もものすごく上達したわけじゃない。だが、フランス語を聞く耳が不完全ながらではあるができたし、フランス語を話す勇気も生まれた。

一週間という長いスパンの話を一つ一つ語るのはよそう。だから、出会った人々の主眼を置いて、ボルドーでの日々を紹介したい。

 

  1. ルネ家の人々

ボルドー駅まで迎えに来てくれたのは、宿泊先のルネ家のかっこいいおばあさんだった。実はこの人とはこの時しかあっていない。

電話ができないため少々苦労しながら駅で合流すると、おばあさんはわたしを赤い車に乗せ、ボルドーの街を駆け抜けた。ボルドーはびっくりするほど暑かった。しかも蒸している。海が近いからか、それはわからないが、ものすごかった。

「暑いですね」とカタコトのフランス語で言うと、

「ええ、毎年よ」とおばあさんは言った。ボルドーは特に暑いという。

車中で、ボルドーの話を聞いた。ボルドーの街は、白に近いベージュの建物が並び、屋根は青っぽい。18世紀ごろに建てられたものだという。ここで感動したのは、フランス人とフランス語できちんと会話したこともないのに、相手の言っていることがわかるということだった。こいつは幸先がいい。

ところどころ、質問を挟んでみた。

「あれはガンベッタ広場よ」

ガンベッタっていろんなとこで見るんですけど、誰ですか?イタリア人?」

「フランス人だと思うわよ。政治家よ」

などなど。ちなみにガンベッタは、普仏戦争ナポレオン三世フランス帝国が崩壊した後、第三共和制を立ち上げたメンバーのうちの一人である。

家の鍵の開け方等を教わり、一週間の我が家に入った。わたしはおばあさんに礼を言い、部屋で荷を解いた。と言ってもリュックひとつである。ベッドはダブルででかいが、ヨーロッパに来てからダブルに一人ということは結構あった。ふと、ベッドサイドの小さな机に目をやると、いくつかの本があって、やれヴィトゲンシュタインだ、やれロランバルトだと、二十世紀の有名な哲学者の名前の書かれた本がたくさんあった。ここのホストファミリーはどうやら哲学好きなようだ。

そのとき、ノックがあった。どうぞと言って開けると、ブロンドの、ちょっとリリージェームズ似の女性がいた。ドイツから来たもう一人のホームステイをしている人だ。

「英語喋れる?」と彼女は尋ねた。

「うん、少しなら」と答えると、

「よかった!わたしフランス語はダメなの」と言う。話を聞いてみると、彼女はしばらくしてからトゥールーズでフランス語の勉強をしに行くのだと言う。こうして、わたしの一週間に及ぶ、学校ではフランス語、家では英語、ラインの類は日本語、という超絶ハードなトリリンガル生活が始まるわけである。

その日は、そのドイツ人の女性にボルドーの街を紹介してもらった。酷暑の中街を二人でほっつき歩き、ここが市庁舎でここが教会だ、といろいろと解説を受けた。教会の前のテラスでオレンジジュースを飲んでいたとき、フランス人のウェイターって奴は呼び止めてもこないよねという話で盛り上がった。ドイツ人も日本人もその辺りは似ているので、心の奥底にちょっとした不満を抱えていたわけだ。

さて、なんと、夕食はないというので(ホストファミリーは実はヴァカンス中だったのだ。最初は驚いたが、あれはあれでサバイバル力がついてよかったと思う)、その女性とピザ屋に入った。彼女はジャーナリストで、美術関連の記事を書いているらしい。出身はドイツ西部のエッセン、世界史好きにはルール工業地帯といえば1発でわかる。わたしが六歳の時に住んでいたのはドイツ東部のベルリンだから、エッセンには縁もゆかりもない。しかし話を聞いて驚いたのは、ベルリン名物(少なくともベルリーナー(ベルリンっ子)はそう思っているが)のソーセージのカレー粉ケチャップ和え(キューリーヴルスト)がエッセンにもあり、なんとそれはソーセージの中にケチャップとカレー粉が内蔵されているというのだ。

「それっておいしいの?」と無粋なことを聞くと、

「おいしいわ」と力説する。おそらく美味しいのだろう。だが実を言うと、似たような形状のものをカンボジアで食べたことがあり、それが異常にまずかったもので、それをどうしても思い出してしまう。それはアンコールワット観光をしている最中に、寺の敷地内にあるスタンドで買ったホットドッグだった。やけにケチャップ感のすごいぶにゅっとしたものがソーセージに詰め込まれており、そのソーセージもまた絶妙にまずい。もちろん、世界に冠たるドイツ(Deutschland über alles)にそんなひどいソーセージを出す店はあるまいが。

このジャーナリストのお姉さんとは、ホストファミリーが家を空けがちだったため、絡みが多かった。ある日、ホストファミリーが帰ってくると思いきや、帰ってこなかったというハプニングが起きた時、たまたま家の近くのスーパーでこのジャーナリストとあったので、

「じゃあ、寿司でも作ろうか」と、なぜか手巻き寿司パーティを敢行した。「OISHI(美味しい)」というメーカーのサトウのごはん的な酢飯を買い、サーモンと醤油を買った。そして一応作り始めたのだが酢飯のクオリティーがひどい。というのも、どう見ても酢飯ではなく、酸っぱいおはぎなのである。何がどうなるとあんな状態になるのかわかりかねるが、すごかった。だがサーモンのクオリティーは良い。とはいえ生物なので若干心配していたら、

「保証しているから大丈夫よ」とドイツ人は言う。この時、ああ、この人はドイツ人だなと思った。

ホストマザーのリリーはポールとアヌクという二人の子供と三人暮らしである。ポールとはサッカーなんだかドッジボールなんだかよくわからないことを家の中で遊んだものだ。しかし家の中ということもあり、どうにも心配でならない。ものを壊しちゃいけないなと、自制しつつのプレーである。それと、ポールとはセッションした思い出もある。わたしの部屋におもちゃのギターを持ってきたポール(念のために言うが、ベースではないし、左利きでもない)は何やら歌い始めた。わたしはその時(今もだけど)ギターを弾けなかったので、太鼓を叩いた。何かわたしも歌える歌はないか、と思い、

アヴィニョンの橋で、って歌知ってる?」と聞くと、案の定知っていた。フランス語、英語、日本語で披露したが、我らがポール師匠はその曲に特段興味があるわけではなかった。

アヌクとは日本から持ってきただるま落としで遊んだ。私もフランス語が必ずしもできるわけではないので、「やってみな」「ほら、見て」「あー、残念」くらいの単語でやりとりしたわけだが、案外ウケがいい。

ボルドーの旅も終わりに近づいた頃、アヌクとポール師匠のために、カタカナで書いた二人の名前をプレゼントした。するとアヌク先生、なかなかの目の付け所で、

「文字数が足りない!Anoukだと四文字なのに、「アヌク」だと三文字だよ、変だよー」と怪訝そうな顔だ。まだ小さい子供だというのに、音節文字と表音文字の違いに気づくとは筋がいいじゃねえか。わたしは、

「変だろ?でもそれが日本の文字ってやつなのさ」と言った。アヌク先生は未だ多文化主義をご理解いただけていないようで、変だよと繰り返していた。

さて、我らがホストマザーリリーの話をしよう。彼女はカメラマンである。私がボルドーに着いた日はバカンス中で、途中で帰ってきた。私はギリギリでホームステイをお願いしたわけだし、泊まるところがあるだけで満足だった。それに、リリーはとてもいい人だった。

彼女は哲学が好きで、特に20世紀フランスのロラン・バルトヴィトゲンシュタインが好きだという。私はベルクソンが好きだというと、いいと思うと言ってくれたが多分彼女の一押しではないのだろう。ボルドーを選んだ一つの理由が哲学者でエッセイストのモンテーニュが市長を務めていた街だったことを話すと、リリーの学校がモンテーニュ高校だったと教えてくれた。

また彼女は旅人でもあった。かつてインドやヴェトナムも訪れたことがあるという。ヴェトナムは南部の方しか行ってないというので、ハノイの話や、南北鉄道の話をした。

「インドにも興味あるんだ」と言うと、

「いいところよ。でも最初なら北よりも南がいいと思うわ。北はどこに行ってもお金をせびられるんだ」と彼女は答えた。どこにもそう言うのはあるらしい。イタリアやフランスも北より南の方が人が暖かいらしいし、ヴェトナムはその逆だと思う。

 

一度、リリーたちと夕食をゆっくり食べる機会があった。ポール師匠とアヌク先生のおかげもあって賑やかだったが、まず驚いたのは、フランス人は本当にコースみたいな流れで夕食を食べると言うことだ。ワンプレート主義のドイツ人といろいろな皿散乱主義の日本人二人の時はありえないような配膳だった。まず、パテとパンが置かれ、食べ始める。パテがなくなると、なぜかピザが出てくる。そして最後にはムースのようなデザートである。

そして、大人の時間だ。ヨーロッパの家庭には大人の時間がある。子供はもう8時くらいにベッドルームに引き下がり、大人は大人の会話を楽しむ。大人として初めてヨーロッパの家庭に来たので、初めての大人の時間体験だった。

「台湾人の子がフランスでは食事の時間帯以外にレストランがやってないことにびっくりしてたんだけど、日本でもそうなの?」

「うん、そうだね。でも、準備中でやってないとこもあるよ」

などと言ったどうでも良いところから、なぜか女性の結婚適齢期という概念の話まで出て来たわけだが、ただでさえ間延びしているかの記事がさらに間延びするのでやめておこう。

一つ書いておくなら、トゥールーズの話があった。我らがドイツ人の同居人がトゥールーズに留学するということについて、リリーが猛反対したのだ。

トゥールーズは、どこにでもマリファナの匂いがしていて危険よ」というのだ。正直タバコの匂いの違いすらわからない私は気づかなかったが、そうらしい。実は日本でその話をしたら、確かにトゥールーズマリファナくさいという人もいたので事実なのだろう。とは言っても、私に取ってのトゥールーズハンバーガーショップのおばちゃんの街なのである。

「僕も行ったことあるけど、一度見てみて決めたらいいんじゃないかな」というゆるいアドバイスだけした。はてさてあのジャーナリストは今はトゥールーズにいるのか、ボルドーに残っているのか。それは神のみぞ知る。

 

2. フランス語教室の人々

フランス語教室の授業ははっきり行ってハードである。とにかく先生の言葉がはやい。まず聞き取るので精一杯だし、話すのも大変だ。しかしあれを超えたからこそ、少しだけフランス語が聞き取れるようになったし、その後パリ在住のドイツ時代の知り合いの家にお世話になった時にフランス語で会話ができた。

フランス語の授業は、カナダで行われた「ビーバーの生態」「メープルシロップについて」などといったのほほんとしたものではない。いきなり、「お金で幸せは買えるのか?」という哲学カフェにやって来たかと紛うほどの内容だった。さらに、

「1960年代に何がありましたか?」

「はい!大衆の消費社会化です」という超高度なやりとりまで行われる。聞いていて理解できないことはないが、話すとなると骨が折れる。

さらに大変なのは訛りである。私だって日本語訛りのフランス語には違いないが、どうしてもアフリカ系のフランス語が聞き取れないのだ。それもモーリタニア出身のアラサンは、哲学専攻と来ていて、一緒に話すことも多かった。だが私には彼のいうことがわからず、申し訳ない気分になりながら、「ごめんもう一回」と繰り返したのを覚えている。一度、プラトンとカントが好きだというアラサンに、私はプラトンとカントが嫌いだと伝えねばならない時は骨が折れた。だがそれでも粘り強く私と会話をしてくれたアラサンはありがたい存在だった。

語学学校となると、大学の機関ではないので仕事のために語学を学ぶ人がたくさんいた。ブラジル、スペイン、スロバキアレバノンモーリタニア、ハワイといろいろなところから来ていて、もちろん日本人もいた。一週間しかいない、しかも無精髭を生やした日焼けした謎の日本人の登場に驚いたかもしれないと思い、挨拶をしてみると、

「あ!日本人でしたか」とお決まりの返しが返ってきた。私はなぜだか日本人でない設定になることが多い。

「全然聞き取れないですよね」と彼女が言った時は少々気が楽になった。やはり先生の喋り方は速いのである。彼女曰く、日本人は英語同様フランス語の文法とボキャブラリー、読解だけ習うので、やたらと高いクラスに付けられるが、いざ来てみるとなかなかついて行けないのだという。理解できる話だが、それなら頑張って話すようにしなければならないだろう。

だが、フランス語の授業の構成にはそれを阻止してしまう構造がある。フランスの語学学校では、緊張をほぐしたいのか、文法ミスなどをするとそれを馬鹿にするのである。それをやられるとこちらも気が削がれるからやめてほしいのだが…。フランスの他の地域で語学学校に通っていた私の友人もからかわれたというからフランス人気質というヤツなのかもしれない。

 

3. ボルドーの街

そんなこんなで頭も心も疲れ果て、さらには十日間でフランス東部とスペイン北部を回るというクレイジーなことをしてしまったために体も疲れ果て、ボルドーの街を生気のない屍のように彷徨ったものである。ボルドーの街は暑くて蚊もいたわけだが、それでも美しい街だった。午後たまたま入った教会で市民向けコンサートをやっていて、疲れた心にパワーをチャージしてくれたのを覚えている。

それとボルドーといえば謎の像である。私は密かにボルドーまもるくんと呼んでいたが、正体はわからずじまい。あれだけは未だに引っかかっているが、一人色々なところに佇むまもるくんは、一人旅の私にとって親近感を持って感じられた。

昼ごはんはケバブ。同じ店を何回か使ったため顔も覚えてくれた。ケバブを頼むと、「〇〇ソースね」と前選んだやつを覚えていてくれて少し嬉しかった。とは言っても、そのソースに思い入れがあるわけでもない。実は聞き取れたヤツがそれしかなかったため、それにしたというだけである。

さてそのケバブ屋で日本人と知り合った。一人で明らかに日本人っぽい人がケバブを食べていたものだから、特に理由はないが話しかけてみたのだ。冗談でフランス語で話しかけると、ずっとフランス語になりそうだったので、「あ、日本語で大丈夫ですよ」と言って、なぜか公園のベンチで3時間ほど話した。十日間とはいえ、話し相手もそんなにいたわけではない。それも日本語となるとさっぱりだ。久々の日本語だった。

彼女は外国語大学の学生で、私より一つ年上である。どうやら大学の何かで半年間ボルドーにいるらしい。そして驚くことに、今週日本に帰るらしい。そのあと一度たまたま公園であって喋ったりもした。旅とは面白いもので、色々な人に会うが、別れればそれで終わりである。それを寂しいと思うか、面白いことだと思うかは個人の趣味趣向によるが、私は結構好きだ。ホラもふけるし、世界も広がる。

ボルドーにやって来た当初は、一週間も同じところにいるなど信じられなかったが、一度居着いてしまうと名残惜しい。身も心もそして脳も疲れた街だったが、ボルドーは私の心で生き続ける。

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11都市目:イルン/アンダイエ(2)〜Across the border〜

朝起きて、別室のシャワールームで顔を洗い、目を覚ました。パッキングをして、外に出ようとすると、鍵が硬く開かない。30分は格闘しただろう。なんとかしてドアをこじ開け、外に出た。代金は払ってあるので、声の高い女主人に声だけかけてホテルを立った。

「Agur!(さようなら!)」私はバスク語で言った。女主人もキンキン声でAgurと言っていた。

今日最初の任務は、朝食を食べること。私はついた時にうろちょろしていた広場のあたりをうろついた。すると、朝食を食わせるバルが何軒か並んでいた。

そのうちの一軒で、オレンジジュースとクロワッサンを食べた。あいも変わらずオレンジジュースは手絞り、クロワッサンは甘かった。オレンジジュースはビルボと違って冷えていて美味しい。食事は、イルンの圧倒的勝利。もはや住んでもいいレヴェルである。

バルのテレビではニュースが流れていた。テロのあったバルセロナに首相だけでなく国王が来ていた。案外仲良くやれているとその時は思った。裏では、独立に歯止めを効かせるためのテロの政治利用だなどと言われていることをまだ知らなかったからだ。

勘定を払った。朝食は大抵4ユーロ前後。スペインの物価と時間の感覚に慣れて来た。これでフランスで生きていけるのだろうかとふと不安になる。明日にはフランスだ。ついこの前までいた国だというのに、なぜだか、フランスが得体の知れぬ国のような気持ちになってくる。

 

それから、すぐに国境へと通じる道を歩き始めた。どれくらい時間がかかるのかわからなかったからだ。道は長いが、曲がりくねってはいなかった。真っ直ぐだった。だが高低差がある。初めは下り坂、途中で登りになる。

少なくとも10kg以上の荷物を担いでいたので、休み休み歩いた。それに、スペインにお別れを言うのだから、それくらいやったらゆったり歩かねば。スペインはハマるとよく聞くが、本当にハマる。麻薬より依存性がある。そんな国とのお別れだ。

国境へと通じる道は特別なものではなく、郊外にありがちな道だ。公園には人がまばらで、時折暇を持て余した老人が犬を連れてやってきたり、子供達が遊んだりしている。ベンチに座って空を見つめると、雲ひとつない快晴である。そういえば、カナダのモントリオールに行った時、サンルイ公園で空を眺めたことがあった。あの時、じっくりする時間の良さを感じたのを覚えている。

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よいしょとバックパックを背負い直し、道をまた歩き始めた。暖かかった空気はだんだん暑くなる。私は昨日思い浮かべた異邦人の歌の続きを思い出そうとした。

市場へ行く人の波に 身体を預け

石畳の街角を ゆらゆらと彷徨う

祈りの声 蹄の音 歌うようなざわめき

わたしを置き去りに過ぎて行く 白い朝

時間旅行が 心の傷を

なぜかしら 埋めていく不思議な道

さよならだけの手紙 迷い続けて書き

あとは悲しみを持て余す 異邦人

この道を幾人の人が歩いたのだろう。巡礼者か、兵隊か、商人か。今ではよくわからない。今あるのはただの郊外の道だ。国境もゆるく、平和な道だ。

 

しばらく歩くと大きな橋が現れた。その橋には名前らしきものは見当たらない。サイクリングする人や、歩く人が何人かいるだけだ。だが紛れもなくその橋は、スペインとフランスの国境を越える橋だった。

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深呼吸を一つして、橋を渡った。橋は川を跨いでいる。川は静かに流れている。向こうには緑の山が見えている。このような穏やかな自然に、人間は国と国と線を引いた。どちらがスペインでどちらがフランスかなど、この川は知らない。だが私たち人間にとっては大きな川だ。この川はを超えて仕舞えば、私はスペインに別れをいうことになる。

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橋を渡っても、大して変化はなかった。シェンゲン条約とはそういうものだ。国の役所があるわけでも、閻魔大王の尋問があるわけでもない。変わったといえば、標識にある言葉がフランス語になったことくらいである。だがそんな些細な変化でも、その文字はフランスの面影を感じさせた。

ふと振り返って見た。すると、赤い屋根に白い漆喰の建物がたくさん並んでいる。あそこが、スペインである。そして今私はフランスにいる。私は心の中で呟いた。

「Adios, gracias」と。

今回の一人旅は、ここで終わった。私はふーっと息を吐いて、何もないガタガタの道を歩いてアンダイエ駅まで向かうことにした。

11都市目:イルン(1)〜異邦人、あるいは旅の終わり〜

マドリードからトレドへ向かうバスとは、明らかに違う風景が外に広がっている。周りは緑、緑、緑。山も緑。ところどころにある建物は、白い漆喰で塗られ、屋根はオレンジ色だ。まさにバスク地方の道だ。日本人にとっては、マドリード付近の荒地が広がる風景よりも、道の狭さも相まって懐かしさすら感じさせる風景である。

バスはまず、美食の町にして、最近ではリゾート地として人気を出し始めたサン・セバスティアン(ドノスティア)で停車した。昨日だったか、ここでは花火大会があったはずだ。テロがあるまでは、ここに行くつもりだった。小綺麗な街並みで、太陽が輝いている。ここも見てみたい、というか、ここのバルでも飲み食いしたいが、ビルボは良い町だった。またいつか来れる時に行こうではないか。

ほとんどの客がドノスティアで下車した。バスはほぼ空っぽ状態で発車し、数分で目的地イルンの町に到着した。

 

イルンのバス停は純然たる田舎だった。イルン駅があるが、どこか裏寂れていて、街の中心がどこかもわからない。だからとりあえず、バスを降りる人々の行く方へと向かった。一本道があり、周りにはオレンジと白の建物だ。だが、村というよりも町らしく、建物の背は高くてぎっしり詰まっている。それでも地方都市の雰囲気は感じる。

徐々に徐々に住宅以外の建物が増えてくる。たぶん街の中心は近づいているのだ。だが今までは大きな街にいたので、中心部の雰囲気を感じられない。まだ土曜だというのに、閑散としている。ビルボに着いた時、大都会ではないなと思ったが、イルンを歩けば、ビルボは都会だと気付かされる。

この街は暖かかった。私はコートを脱ぎ、腰に巻いた。しばらく歩くと人もまばらに出てくる。町の看板はバスク語スペイン語の二言語併記、まだここもエウシカル・エリア(バスク国)である。しかし、ビルボと確実に違うのは、何食わぬ顔で看板に「あちらはフランス」と書いてあるのだ。そう、ここはフランスとの国境線の引かれた町である。スペイン側はイルン、フランス側はアンダイエという。

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しばらく中心街を歩くと、大きな広場が出てきた。といっても、バルセロナのレイアール広場やマドリードのプエルタデルソル、ビルボの旧広場のような真四角の厳しいものではなく、単純に広い価格が空いてしまったという雰囲気だ。私はそこにあったベンチに座った。この街にはベンチが多い。陽が傾き始めていた。私は終わりを悟った。遥かなる旅は終わった。まだ本当の終わりではないが、ひとり旅は一区切りつく。感慨もあったが、冷静でもあった。明日からは、ボルドーで一週間フランス語の勉強をしつつ、体の休息を取ろう。頭は使うだろうけど、体には休息が必要だ。なにせ10kgを担いでここまできてしまったのだから。

広場にはツーリストインフォメーションがあった。こんなにも簡単にツーリストインフォメーションが見つかったのはアヴィニョン以来だ。ホテルを取ってしまおう。フランスへの行き方も知りたい。私は立ち上がりリュックを担いだ。

「Kaixo! ¿Hablá ingres?(こんにちは、英語話せますか?)」ツーリストインフォメーションなんだから英語が話せるのはわかるが一応エチケットだ。

「Lo siento, no puedo(ごめんなさい、できないの)」とサバサバした感じのおばさんが言った。珍しい。まあなんとかなる、ケ・セラ・セラだ。

「OK...¿Hay una mapa de Irún?(イルンの地図ありますか?)」

「Si, vale.(もちろんよ)」とおばさんは地図を出してきて開いて見せた。

「Gracias. ¿Dondé está las pensiones?(ペンシオンはどこにありますか?)」

「Hoteles, hostales y pensiones son aquí(ホテルやオスタル、ペンシオンはこの辺にありますよ)」おばさんはそう言って、ペンで場所をなぞって見せた。

「Vale, gracias...y...dondé está...(わかりました、ありがとうございます。それで…どこに…)」まずい、フランスという言葉を忘れた。

「¿San Diago de Compostela?(サンディアゴデコンポステーラ?)」とおばあさんが尋ねた。薄々気づいてはいたが、この街はフランスからのサンディアゴデコンポステーラの巡礼路にあたるようだ。だが、ちがう、私は巡礼者ではない。

「No. Francia(いえ、フランスへの行き方を教えてください)」思い出した。

「¡Ah, Francia! Esto, aquí, y eso Hendaya, Francia(ああ、フランスね。ここが現在地で、これがエンダイヤ、フランスよ)」おばさんはそう言って指差した。それなりに遠い。バスを使おうかと思っていたが、そういうバスはなさそうだ。それなら…歩いてしまおうか。

 

礼を言って、ツーリストインフォメーションを出た。ホテルがあると言われた場所を探すためである。歩いていると、左の方向に大きめの道があり、坂を下って向こうの方まで伸びていた。どうやら、その先に、フランスはあった。よし、歩こう。明日になったら歩こう。国境といっても、この前断念したヴェトナムーカンボジア国境とは話が違う。シェンゲン条約があるのでパスポートチェックすらない。だから、歩いてやろうではないか。なんとなく不思議な感覚だった。

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ホテル街を探したが、どうにもこうにもみつからない。歩けば歩くほど、この街の暮らしに触れ、良いところなのだな、住んでみたいなという気分になったが、肝心のホテルがなかった。

日も暮れそうになっていて、これは野宿パターンかと思っている時に、四十代くらいの恰幅のいい男が通りかかった。目があったので、

「¡Holà! ¿Hablá Ingrés?(すみません、英語話せますか?)」と話しかけた。ツーリストインフォメーションで英語が通じないんだ。無理だろう、と思ってはいた。答えは案の定、

「No, lo siento(いや、ごめんね)」である。

わたしはもう強引に地図を広げ、ホテルがあると記された場所をさしながら、

「¿Dondé aquí? ¿Dondé está pensiones?(これはどこですか?ペンシオンはどこにありますか?)」と尋ねた。

男は地図をじーっと見ると、着いて来な、と手招きをした。私は大柄なその男性の行く道をついていった。

「¿De dondé ères?(どこから来たんだい?)」と男は尋ねた。

「Soy de Japón(日本です)」私は語学教材のレッスン1のようなフレーズで答えた。そのとき、なぜかふと、どうして過去の人が英語を話せないのかがわかった。そうか、だって、この町は英語じゃなくて…

「Vous parlez français?(フランス語話せますか?)」私は尋ねた。

「Oui, un peu(少しならね)」やはり。

「Je cherche le hôtel ou la pension pour dormir ce soir. (今晩泊まるためのオスタルかペンシオンを探してるんです)」と私は言った。

「D'accord, mais il n'y a pas d'hôtels ni de pensions d'ici(けどこの辺にはないよ)」と男はいう。なんと。話を聞けば私は道を間違えており、駅の方にホテル街があるらしい。やらかしたようだ。

あるいていると、向こうの方で食事の匂いがした。男はそこを指差し、

「Voilà la fête(ほら、祭りをやってるんだ)」と言う。さすが同じバスク地方。ここにもグランセマナはあるのだ。

「Ah, oui. En effet, j'ai vu une fête à Bilbao aussi. J'étais à Bilbao avant d'Irún(ほんとだ。じつはビルバオでも祭りを見ましたよ。イルンの前はビルバオにいたんです)」

「C'est vrai? Très bien. Pourquoi tu viens ici?(本当かい?いいね。どうしているんに来たんだい?)」

「Car j'irai en France demain, j'étudierai français au Bordeaux.(明日フランスに行くからです。ボルドーでフランス語を勉強するつもりです)」私は答えた。明日にはボルドーにある。変な気分だ。だがもうこれは終わるのだ。

先ほどまで歩いていた道までやって来て、男は駅の方を指して、そこにホテルがあると教えてくれた。

「¡Buen viaje!(良い旅を!)」と男はいった。

「¡Muchas gracias!(本当にありがとうございました!)」私はそう言って、駅の方に引き返した。

 

空はオレンジがかり、道には人影も増えて来た。多分さっきまではシエスタだったのだ。

最初に入ったペンシオンで部屋はありますかと尋ねると、あるらしい。昨日の経験上、とってもホッとしてしまった。しかし値段を聞くと80ユーロだという。少し高い。安くならないかと聞いたが、安くしてくれるかはなさそうだ。私は他を見て見る、とその場を離れた。慣れたもんだなぁと我ながら思った。

次に行ったのは裏にある、テラス席のついた巨大なホテルだった。どうやら巡礼者ようである。60ユーロという。ちと高いが、面倒になってそこに泊まることにした。

「二つベッドがあって、シャワーは別室だけど、使うのはあなただけですよ」とやけに高い声のフロントのおばさんが言った。

「わかりました」私はそういい、言われたとおり二階に行った。

部屋はやけに広かった。2人用のドミトリーという感じだ。しかし1人しかいない。そしてドアの鍵がやけに固かった。実は帰りの日に閉じ込められかけたというのは秘密である。

窓の外には線路があった。その線路はフランスに通じているようだった。線路の向こう側には、小さなバルがあって、地元のおっちゃんが集まっていた。ここはそう、宿場町なのだ。巡礼路が通り、国境線が敷かれた、まさに宿場町だった。雰囲気は東京の多摩地区にも似ている。多摩は私の本拠地なので、この町はやけに親近感がわく。私は部屋で休んだり、所用を済ませたりして、七時くらいに夕飯を食べに外に出ることにした。窓の外の日は傾き、ノスタルジックな風が吹いていた。

 

 

 「バルはあっちの方にあります。でも、スペインの習慣で大体は20時からしかやっていませんよ」とキンキン声の女主人が言った。

「ええ、わかりました。アグール」私は言った。時刻は7時。スペインの風習に苦言を呈する人が多いのだろうか。だが私はもう分かっている。散歩をしたいので、織り込み済みである。

線路の上を走る高架橋に登り、メインストリートへ。向かうは先ほど道を教えてくれたおっさんが指差して「祭りだよ」と言った場所だ。ここまで来たら祭りに行くしかない。あのおっさんもいるかもしれない。

 

そこは公園だった。いい雰囲気だ。子供が遊具で遊び、母親がママ友と談笑し、おじいさんおばあさんがベンチに座る。イルンは生活感であふれている。

公園は二段構造で、入ると木が生い茂っているところに出て、階段で降りると、遊具があるコーナーになる。私はしばらく木のコーナーでくつろいで、下に降りた。下の方でどんちゃん騒ぎの音が聞こえたからである。

祭はビルバオよりも小規模だ。だが主体はやはり若者で、道路を囲んで車にひゅうひゅうと口笛を送ったり、楽器を演奏したりしていた。楽しそうだが、なんとなく、デンジャラスな雰囲気を感じた。マイルドヤンキーのお祭りという感じで、異邦人を受け入れてくれる感じはしない。だから私は、若者はねぇと怪訝そうに見守る老人たちとともに、遠巻きに見ていた。

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しばらくして、私は引き返した。そろそろ店を探そう。空もますますオレンジ色になって行く。

ビルボよりは暖かい風に吹かれながら、ホテルがあるブロックの反対側を歩いた。子供づれがたくさんいて、町中にあるベンチで団欒がある。老人たちも腰を落ち着けている。この街の活気はどうやらこの時間帯から生まれてくるみたいだ。大きな広場のそばにあるバルには大勢の大人が詰めかけていた。広場では子供たちがサッカーをしていた。私はベンチに腰掛け、しばらくそのサッカー「イルンリーグ」の行方を見守った。

ふと、私は「異邦人」というタイトルの歌を思い出した。

子供たちが空に向かい 両手を広げ

鳥や雲や夢までも 掴もうとしている

その姿は 昨日までの 何も知らない私

あなたに この指が届くと信じていた

空と大地が 触れ合う彼方

過去からの 旅びとを 呼んでる道

あなたにとって私 ただの通りすがり

ちょっと 振り向いて みただけの

異邦人

コートを使わないサッカーは懐かしかった。よく小学生の時にやったものだ。子供達の影は長く伸びる。ノスタルジックな夕日がやけにさっぱりとした気持ちを呼び寄せる。

私はもう少し歩こうと、一本入った道の坂を降りてみた。バルが並んでいた。しかし、しばらくすると線路に行き着いた。歩くのも大概にしよう。歩くのは私にとって酒のようなもので、溺れれば抜けられなくなる。

 

入ったバルは、「サッカースタジアム」の目の前だった。一番客入りが良かったのだ。

いつまでたっても慣れないもので、恐る恐るバルに入り、カウンターで待った。しかし、私がアジア人の若造であるためか、カウンターのおじさん2人は私の方に目を向けようともしない。だから私は声をかけ、ビールを頼んだ。皿が配られれば、ゲームスタートだ。

カウンターのおじさんに食べたいものを指差し注文し、もらった。手始めはサーモンだ。食べてみるとすごくうまい。どうやらイルンは良いバルの街のようだ。

地元の悪じじトリオと見える三人組がやって来て、ワイン片手に何やら話している。絡まれたかったが、相手は絡んでこなかった。私はビールを飲み、何皿かピンチョスを食らった。どれも最高に美味かった。私は会計を済ませて外に出た。何品食べたかは自己申告だった。

もう一軒行こうかと思ったが、なぜだか力が出ず、腹五分目くらいな胃袋を抱えながら、少し歩いた。国境へと通じる道は夕日に輝き、美しかった。それからホテルへと戻った。

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やはり旅は一度終わろうとしていた。しかしこの旅は、いつもとは違う。別の形に姿を変えながら私の中を生きる。進化する。創造され続ける。だから、明日からは全く別のことが待ち受けているのだ。明日からはそう、異邦人としての旅ではなく、住む旅が始まる。そしてその前に、我が人生初となる、徒歩での国境越えである。そう思うと、胸が奮い立った。

10都市目:ビルボ(4)〜グランセマナ〜

酒には強いほうなのだが、翌朝に響くことが多い。起きられないというのではない。起きてしまうのだ。2時間毎くらいに起きる。

三軒のバルをはしごし、ジェニファーやムスタファと飲んで、その時は全く平気だったが、起きてみると5時くらいだ。帰って来たのは2時半くらいで、寝たのは3時くらいだろう。とりあえず、とシャワーを浴び、私は睡眠時間確保のためにもう一度寝た。次に起きたのは、七時半くらいだった。荷物を詰めて、階下に降りた。この街に残るにせよ、計画通りフランスの方へ行くにせよ、このホテルは出ないといけない。

「Egun on!(おはよがんす)」と昨日とは違うフロントのお姉さんに言った。思いがけぬバスク語に驚いていたが、笑顔でKaixo!と返してくれた。

「チェックアウトをお願いします」と私は言った。今回は部屋番号も完璧に覚えていたのでことはスムーズに進んだ。とりあえず、重い荷物を預かっていてもらいたかったので、

「荷物を預かっていてもらえませんか?」と尋ねた。

「いいですよ。ちょっとお待ちください」お姉さんは階段の下にある柵を開けた。まるで第一巻の時のハリー・ポッターの部屋みたいな場所に荷物置き場がある。

「Gracias(ありがとう)」私は荷物を奥の方においた。

「良い1日を」お姉さんはにっこり笑った。

「Eskerrik asko, agur!(ありがとなし、したっけ!)」私はバスク語で言って、外に出た。相変わらず涼しいが、どことなく湿っていて、2月のハノイを思わせる。

 

昨日の騒ぎが嘘のように、静かである。まずは朝食だ。バルで食べられるのだろうか。私は昨日行った、バルがたくさんある界隈に来たが、オープンしている店はなかった。朝ごはんをどうしよう、とうろちょろしていると、一軒、赤い色をしたバルが開いていたので、入ることにした。朝からピンチョス(小皿のつまみ)かと思ったが、カウンターの上に置かれているのは普通のクロワッサンだった。

「Egun on!(おはよがんす)」とバルテンダーにいい、カフェコンレチェ(ミルクコーヒー)とクロワッサンを頼んだ。クロワッサンには甘いコーティングがしてある。スペイン流の朝食だ。マドリードのバスターミナルで朝食を食った時もそうだったのだが、フォークとナイフが付いてきた。かじるのは行儀が悪いということか。にしてもクロワッサンにフォークはおかしい。

「スーモ・デ・ナランハをくれないか?」と、私の後でやってきたおじいさんが言った。スーモ・デ・ナランハとはオレンジジュースのことだ。カウンターにいた若い女性がオレンジを一つとると、オレンジ絞り器に入れた。それを見ていたら、なんだか無性にオレンジジュースを飲みなくなって切った。

「¡Perdon! zumo de naranja por favor(すみません、オレンジジュースください)」と頼むと、

「Vale(かしこまりました)」と女性店員がオレンジを絞り始めた。

しぼりたてとあって、微妙にぬるくて、酸っぱいジュースだったが、これがリアルなのだ。朝のバルはやけに空いている。ビルバオも、マドリードバルセロナ同様、朝が遅いのかもしれない。

 

バルを出て、湿った空気の中歩きながら、色々と考えた。この街にい続けるのかどうか、それを決めなければならなかった。さきほど、カールとアンナが泊まっているといるユースを探してみたが、スマートフォンの検索に引っかからない。昨日のことは実は夢だったのではないか。とまあ、そんな具合で、この街にとどまるという考えも、だんだん現実味のないものになってきた。夢であるはずはないが、今日も泊まるとなれば、明日ビルバオからボルドーまで駆け抜けねばならないので、それが少しばかり面倒であったということもある。

だから、とりあえず、地下鉄に乗ってバスターミナルに行くことにした。それで、バイヨンヌ行か、国境のイルン行があれば、そのバスに乗ろう。それから、ムスタファの働くピザ屋にでも寄って、この街を去ることを告げよう。

 

久々にバスターミナルのSFチックな地下鉄駅に降り立ち、地上に出た。ここにやってきた時、初めは何も知らず、ホテルもなかった。とにかくテロのありそうなマドリードやいろいろなものから逃げていた。ビルバオは良い街だったが、それでも去ろう。

バスターミナルでトイレを済ませた後、大手バス会社アルサの窓口に行った。

「すみません、バイヨンヌ行きはありますか?」と尋ねると、

「え?バイヨンヌ?あっちじゃない?」と言う。私は隣のユーロラインの窓口に行った。確かにスペイン国内を回るアルサよりも、ヨーロッパ全体のユーロラインの方が可能性がある。

バイヨンヌですか?ドノスティア(サン・セバスティアンバスク語バージョン)ならありますけど」と受付のおばさんは言う。

どうやらバイヨンヌに直でいくものはなさそうだ。私はバイヨンヌでなくてもいいと思った。フランス領に入れれば、明日はTGVボルドーに行けばいい。そう思案していて思いついた都市があった。それは、イルンである。

イルンはあまり有名ではないが、バスクの町の一つで、フランススペイン国境に接している。がんばれば、歩いてフランス領に入れる。ビルバオからも遠くないはずだ。私はアルサの受付に再び行き、

「イルン行きはありますか?」と尋ねた。係員の男性は少し面倒臭そうに、

「あっちの機械でやってくれ」と言った。

どうやら、バスク地方のバスは機械で買うらしい。私は列のできていた券売機に並び、14:25発のイルン行きのバスの片道切符をたったの8ユーロで買った。いよいよ、ビルバオを離れざるを得なくなった。

 

旧市街に戻った。誰かしらに別れを伝える義務があった。カールはサーフィンへ行き、ジェニファーはサンセバスティアンにいる。後の人は居場所がわからない。ムスタファだけはピザ屋にいることがわかる。

だから私は、ムスタファの言っていたサンタマリア通りにやってきたわけだが、どう探しても、ピザ屋が見つからない。それどころか、祭りの当日だからか、バルしか空いていない。なんだか、うまくいかない。もはや私にはツキは残っていないようだ。

道の上に横断幕が掲げてあった。黒い文字で、バスク語が書かれ、真ん中にバスク地方の地図が黒く描かれている。その地図の右と左から赤い矢印が描かれているところをみると、「独立だ!侵略を許すな!」的なことだろう。こちらも、やはり戦っているのだ(調べてみたところ、実は、「バスク政治犯、難民よ、我が家へおかえり(Euskal preso eta iheslariak, ETXERA」)。

行くあてもなく、旧市街をうろついた。昨日よりも賑わっている。さすが祭りの日である。昨日からいた操り人形にピアノを弾かせるパフォーマーも心なしかより楽しそうだ。所々に独立心が見えるものもあった。祭りの時はそれを押し出すのかもしれない。中には、英語で「バスク国へようこそ!私たちは今、独立したバスク共和国を立ち上げています」と書いた横断幕もあった。やはり、独立したいと言う思いは大きいようだ。私は間違っていた。ここは、ビルバオではなく、バスク語読みで、ビルボなのだ。いや、バスク語ではなく、エウスカラなのだ。さすがに、バスク自治州の州都は違う。もしサンセバスティアン(ドノスティア)に行っていたら、これをみることはなかっただろう。

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バスク国(Euskal Herria)の旗。赤はバスク人、緑はバスク人の民会の開かれたゲルニカのオークの木の緑、白十字カトリックバスク独立運動の合言葉は「7=1」.

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川沿いを歩くと、向こうに山が見えた。どこかでみたことがあるようで、どこでも出会ったことのない景色だった。ビルボは変な町だった。ヨーロッパだが、ヨーロッパと違う。スペインだがスペインの範囲気はない。それは紛れもなく、バスクなのだった。

そうだ、昨日の夜フランス人のおじさんが言っていたグルッケンハイム美術館に行こう。確かあれは川の向こう側にあったはずと思い出し、川を渡ってみたが、そのような建物はない。どうも、今日はよくない。

 

旧市街に引き返した。美術館とは逆方向に行っているようだったので、そちらへ向かって行くことにしたのだ。中心部では祭りの準備が始まっていて、模擬店のようなものがたくさん並んでいた。さすが現代アートの街だけあって、店の装飾もものすごい。印刷されたやつをそのまま張っている台湾人や「フランクフルト」とだけ無造作に書く日本人に見せてやりたい。立体的な人間の顔、なぜかソ連がモチーフのレーニンやトロツキーの似顔絵。まるで芸大の文化祭である。

そこには文化祭の前夜祭の雰囲気があった。みんなせっせと組み立て、みんなせっせと何かをしている。ちょっと切ない気持ちになった。高校の頃から、文化祭の時はいつも真ん中に立って何かをやってきた。何かを作るのが好きだった。それだけが胸の奥にある熱のやり場でもあった。私は楽しさと切なさが入り混じる祭りの場所を歩いた。

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川沿いの遊歩道は公園のようになっていた。時折謎の現代アートが現れる。みな、祭りに行くのだろう。私は祭りには参加できない。留まればいい。しかしそれができなかった。向こうの方に赤と緑の巨大な橋があった。バスク色だ。バスクの旗の色だ。そしてその橋の向こう側に、不思議な形の建物があった。まぎれもなく、それこそがグッゲンハイム美術館だった。

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橋は高かった。まるで展望台に登るがごとく階段をひたすら登って、橋の上にたどり着く。その橋を渡れば、美術館はすぐそばであった。橋からはビルボの街並みが一望できた。細い川が流れるその街は緑と白の町だった。

グッゲンハイム美術館現代アートの美術館だった。橋を降りると、すぐにこの美術館の象徴の一つである蜘蛛のアートが現れる。それは、東京の六本木にある蜘蛛のアートと全く同じものだ。世界中に考える人の像があるのと同じである。遊歩道に突然現れる蜘蛛の像の股の下を自転車が走ってくぐって行った。

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建物は近未来的で、目の前に銀色の球体が積み上げられたアートがある。その近くにはたくさんのパフォーマーがいた。それも含めて美術館なのかもしれない。ジャグリングする人、彫像のフリをする人、シャボン玉を作る人……。親子連れが楽しそうに歩き、カップルが笑いながら歩いている。気候は穏やかで、涼しい。

バスの時間もあって、美術館の中に入る時間はなかった。それでも、美術館の周りには十分たくさんの現代アートが並んでいて、目を楽しませてくれる。特に気に入ったのは銀の球が積み上がったアートだ。何を意味しているのか、それが美しいものなのか、そう言うことは全くわからないが、なんとなく惹きつけるものがあった。

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美術館の横の階段を上ると、ガイドブックで見たことのある巨大な猫が鎮座ましましていた。と言っても、「注文の多い料理店」のように人を喰らおうとしているのではないし、猫バスでもない。その猫は巨大な植木であり、植木をカットして猫の形にしているのだ。祭りの雰囲気とはまた違う、終始静かな雰囲気が流れていた。

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ふと目を横にやると、ツーリストインフォメーションがあった。昨日探しに探して見当たらなかったあのツーリストインフォメーションだ。くそ、ここまできていれば…とも思ったが、まあ、これが旅である。そしてこれが、人生でもあるわけだ。と、ちょっぴり軽薄なことを言いつつ、私はグッゲンハイム美術館の敷地を出て、新市街の方へと向かった。

 

新市街は相変わらず清潔感があった。やはりこの街、どの街とも違う。もちろん、どの街もそれぞれの特徴を持っている。だが、ビルボには形容しがたい何かがあった。

水を買いたかったが、そういう店はなさそうだった。そうこうするうちにロータリーにたどり着いた。昨日の午後、さまよい歩いた場所だ。向こうの方に緑の山がある。強いて言うなら、スイスに似ている。そろそろ潮時だ。ホテルでバックパックを受け取ろう。私は針路を旧市街に向けて歩き始めた。

旧市街に近づくにつれて、祭りの雰囲気が高まってくる。この街に未練がないわけではない。むしろ未練タラタラである。私はこの街をまだよく知らない。それに、昨日できた友達もいる。だけど、こう言う別れもまた旅なのだ。ビルボのグランセマナ(バスクの夏祭り)は今宵始まる。だが、私のグランセマナは終わったのだ。

橋を越えて、朝よりも一段と盛り上がりを見せる広場に腰掛けて、祭りの前の雰囲気を味わった。老若男女が楽しそうに歩いている。目の前にいるおじいさんは家族と喋りながら何かを食べている。祭りは始まる。

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「祭りをやるんですね」と私はホテルのフロントのお姉さんに言った。

「ええ。今日からですよ」フロントのお姉さんは答えた。

「実は今日ビルバオを離れなきゃいけないんです」

「えー? そうなんですか。じゃ、また別の機会に、ってことですね。本当に素晴らしいお祭りなんです」お姉さんは熱っぽく語る。

「いれたらいいんだけど」と私は言った。それは自分自身に対する言葉でもあったが、いる気はない部分がなんとなくあるために、空っぽの言葉でもあった。だが、いたいという気持ちはあった。やはり、明日ボルドーにたどり着くには、今日ビルボにいてはならないのだ。それに、このホテルは高すぎる。「荷物を受け取りに来ました」

お姉さんは頷いて、カウンターから出てきて、例の階段下の物置の中に入った。どうやらあれからたくさんの人が荷物を預けたようで、大量のスーツケースがあった。私のリュックサックは奥の方に入ってしまっていた。

「これですね?」というので、私は頷いた。お姉さんがリュックを持ち上げようとして、わっという表情をしたので、私は、

「重いですよね」と笑いながら言った。

「はい、驚きました。たぶんわたしより重いです」お姉さんはそう言うと笑った。結局私が責任をとってバックパックをとることにした。人間とは不思議なものだ。重いリュックもいつの間にやら、たいして重くも感じなくなるのだから。私はよっこらせとリュックを担いだ。

「それでは、Agur(したっけ:さようなら)!」

「Agur! 良い旅を」

「Eskerrik asko(ありがとなし)」

 

食事でもしておこうかと思ったが、祭りの前の昼とあってどのバルも超満員だった。それに、バスの時間も迫っている。今日の昼食は抜きだな、と思った。初めてではない。バルセロナを去るときも昼は抜きだった。私はバス停へと向かう地下鉄に乗り込んだ。プラットフォームは相変わらずSF調である。

バスターミナルにバスは来ておらず、私はベンチに腰掛け、隣で遊ぶアラブ人家族を眺めながら時間を過ごした。しばらくして、向こうの方のターミナルにバスがやってきた。表示を見ると、どうやらイルン行らしい。私の乗るバスだ。サンセバスティアン(ドノスティア)経由だそうだ。今頃、ジェニファーがいる町だ。私はリュックを預け、バスに乗り込んだ。ドイツ人の青年の団体がいる。隣に座った16くらいの青年に、

「¡Hola!(こんにちは)」と話しかけてみたら、ドイツ語訛りらしき「¡Hola!」が返ってきたので、多分ドイツ人だ。

しばらくするとバスが動き始めた。これより向かうはイルン。スペインの果て、フランスの果ての山の町である。そして、今回の旅の第一部の終焉を告げる町でもある。

10都市目:ビルボ(3)〜熱狂の街〜

ブラスバンドの音が聞こえてくる方へと歩いて行くと、そこには人だかりがあった。真ん中では四人はどのブラスバンドが楽器を弾き、1人の人が大きな黒い旗を振っている。最初は何事かと思ったが、そういえば祭りである。いわば、前夜祭といったところだろう。ちょっと見てホテルに戻ろうかと思い、私は前夜祭の様子を眺めていた。

何やら巨大なプラカップを持った人たちが、ブラバンと旗振りの人を囲んでいる。楽器は楽しげな、あまちゃん風の音楽を吹き、曲調が変わると、みんなグイーッとしゃがむ。しゃがんでない人を見かけると、楽しそうな表情のおばさんが、「ほら、ほら、しゃがんで!」という仕草をする。しかし観光客たちは冷たくもカメラを向けるばかり。しゃがむパートが終わると楽器もヒートアップして、高らかに楽しい音を吹き鳴らす。するとみんな飛び上がり、旗手も激しく旗をバタバタと降る。まさに熱狂。何が何だかわからないが、楽しい。私は傍観者でいるのがなんだか嫌になって、グーっとしゃがんだり、立ち上がったりしてみた。やはり一体感が違う。気分は明日も祭りに出る人だ。明日はもうフランスへと行くというのに…。

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しばらくすると、さらにあまちゃんの雰囲気を醸し出す歌が流れ始めた。周りの人たちは、有名な曲なのか、反応して、

「パラッパラッパラッパラッパラッパラッパレ!パーラーパラッパラッパレ!」と歌い出す。そして一斉に壁に集まり、力一杯の平手打ちで、ショーウィンドウのシャッターや壁を叩き始めた。みんな大爆笑。祭りの前夜祭でなければ迷惑行為。とにかく楽しい空気だけがそこを支配していた。それからも、そのフレーズになるとわーっと人々が歌いながら壁へと向かい、平手打ちを壁にしている。私も、壁をぱしんとやってみた。よくわからないが楽しいので、私は密かに「壁ダンス」と名付けた。

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しばらく壁ダンスで盛り上がったら、群衆は少しだけ動いた。それからまた「しゃがんでウェーイダンス」が始まる。そして壁ダンスが始まって、また動き出す。壁タンスの歌はいつの間にか、別の曲に変わっていた。

Avanti! Popolo, alla riscosa!

進め!人民たち、解放へ!

Bandiera rossa, bandiera rossa!

赤旗へ!赤旗へ!

Avanti! Popolo, alla riscosa!

進め!人民たち、解放へ!
Bandiera rossa, bandiera rossa!

赤旗へ!赤旗へ!

Bandiera rossa, trionferá!

赤旗、それは勝利の旗!

Viva il communismo e la liberta!

共産主義万歳!自由万歳!

一瞬驚いた。それは紛れもなくイタリアの社会主義者の革命歌なのだ。確かにキャッチーなフレーズなのだが、意味はわかっているのだろうか。誰もが楽しそうに歌っている。

もしや、社会主義者のデモに参加してしまったのか、などと思ったが、雰囲気が違う。そういうことは関係ないと言えるほどにこの歌は浸透しているのかもしれない。カタルーニャ独立運動が、スペインの税制に反対する金持ち中心のものであるのに対し、バスク独立運動は労働者運動と関わっているのかもしれない。そういえば、歴史を見ても、スペイン内乱の時、バスク社会主義系の共和国側に加わっている。

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革命家を歌うお茶目な行進は時折止まり、壁ダンスを決行する。そんなこんなの繰り返しをしていると、黒ハンチングを被ったスペイン人が声をかけてきた。私は白いハンチング姿だったので、同胞というような感じだろうか。

「Hey! Brother!」と握手を求めてきたから、私もノリで、イェーイと握手を返した。するとこっちへ来いという。いってみると、私を胴上げしたいらしい。多分生まれて初めて胴上げされたと思う。

「あんた、どこの出身だい?」とアジア系の顔で、きついコックニーなまりの若い女性が聞いてきた。

「日本だよ」と答えると、

「へえ、日本かぁ。あたしあね、イギリス。ルーツはヴェトナムだけどね」と女性はいう。名前はジェニファーだという。やはりイギリスか。それにしてもヴェトナムとは、奇遇だ。私も……ヴェトナムには二度いっているから親近感がある。

「イギリスのどこ?」と聞いてみた。イギリスも二度いっているから親近感がある。

バーミンガムよ」そうか、てっきりロンドンかと思っていた。

「こっちはカール」とジェニファーは紹介した。隣にはひょろっとした感じのいかにもゲルマン系の私とあまり年の変わらないであろう男がいた。人の良さそうな顔で、カールは手を差し出した。私も握手で応じた。

「僕はベルギー出身だ」とカールは流暢な英語で言う。

「こっちはアンナ」とジェニファーは、近くにいたターバンをした女性を紹介した。握手を交わし、

「どこから来たの?」と尋ねると、

「イタリア」と答えた。

「わたしはサビナよ、スペイン人」と別の女性が言った。鼻筋の通った綺麗な顔だ。

「俺はリカルド」サビナの彼氏のような感じのワイルド系の男が言った。

「俺、カルロ」と言ったのは、先ほどの黒ハンチングの男だ。あまり英語はできないみたいだ。

「あたしたちさっきあったのよ。あんたもユースホステル?」とジェニファーが言った。そうか、さっきあったのか、いい街である。

「実はホテルなんだ」というと、ちょっとだけ驚かれたし、なんとなく階級の差を出してしまった感じがしたが、「ペンションとかオスタルが空いてなくてね」と付け加えたら、納得してもらえた。

「僕のユースが空いてたと思うけど」とカールは言った。うつるのも面倒なので、一応場所だけ聞いておいた。カールとアンナは同じユースらしい。

群衆が移動した。赤旗(Bandiera rossa)歌ったり、壁ダンスをしたりしている。私たちもその流れに乗った。今回はあまり止まらなかった。目的地があるようだ。群衆は旧市街と新市街を隔てる橋のそばに来て、やっと止まった。そこは劇場の裏で、祭りの出店がたくさん並んでいたがやってはいなかった。出店の看板にはなぜか、鎌とハンマーが描かれていて、労働者の絵が描かれている。やはり社会主義運動の団体に紛れたのか。これから打ちこわしでもするのか。まあいざとなれば仕方ない。バスク独立のため、戦ってやろう、などとアホなことを思っていると、しばらく演奏があった後で一部の人たちが二手に別れた。何が始まるのかとみていると、肩を組み、向かい合った。これはどこかでみたことがあるなと思っていると、花一匁である。だが、人の移動などはなくひたすら、「かーって嬉しい、はないちもんめ」のパートを繰り返している。でも、楽しそうだ。

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見ていると、ジェニファーに呼ばれた。そこにはガタイの良い、しかしメガネの丸顔は優しそうな北アフリカ系と思しき男が立っていた。

「この人あムスタファ。モロッコ人だよ」と紹介を受けた。

「こんにちは。よろしく」私たちは握手した。 

「よろしく」ムスタファは優しそうな声で言う。

「実は」と私は切り出した。「درست العربية في جامعتي(大学でアラビア語やってたんだ)」

「本当かい?どうだった?」ムスタファは尋ねる。

「難しかった。もうあんまりできないよ」私は笑いながら言った。

「使わないと忘れるからね。僕の英語もそうさ。モロッコではホテルで働いてて、その時に使っていたから覚えていったって感じだなあ」ムスタファはいう。

「へえ、なるほど」

「ねえねえ」とジェニファー。「あたしたち明日もここで集まるんだけどさ、あんたも来る?」

「明日は祭りの当日だろ? だから花火が上がるんだ。サンセバスティアンとかいろんな祭りで優勝した花火師が来るんだよ」ムスタファは言った。

「実は明後日までにボルドーについて、フランス語の勉強をしないといけないんだ。そのために明日にはフランスのバイヨンヌに行きたくて」私は言った。

「そうか。じゃあバイヨンヌまでの行き方を調べてあげるよ」と言うと、ムスタファはスマホを取り出して、アプリをつけた。

「ありがとう」

 

その後、パレードは解散した。だが、夜はまだ終わらなかった。一行が街の方へ向かったので、

「どこに行くの?」と尋ねると、

「どこかでもう一杯」と言うので、ついて行くことにした。ここまで来たらとことん付き合おう。

一行は旧市街の一角にある、店の前にやって来た。「マジックアワー」に出て来るホテルのように、道の真ん中にバーンとたった店だった。まるで映画のセットのような雰囲気の店に、先ほどの行進に参加していた大量の人が入っている。ワイワイガヤガヤしているが、もう1時半である。まあ、祭りにそんなこと関係ないか。

私はバルの中に入ると日本流でとりあえずビールを買った。とりあえず、と言っても、本日5杯目だ。しかし不思議と酔ってはいない。「Una cervesa, por favor(ビールください)」と頼むと、スペイン人のリカルドが喜んでいた。

みんなのところに行くと、黒ハンチングのカルロがサビナに何かスペイン語で言った。しばらくしてサビナは私に、

「カルロは日本に行ったことがあるの」と教えてくれた。

「日本のどこ? えーっと……Dondé...¿ir?」と尋ねたら、

「トーキョー、キョート、フジヤマ…」とカルロは答えた。私は意味もなく彼と握手をしてみた。カルロは、はははと笑い、私の白ハンチングをとって、彼の黒ハンチングをかぶせた。

「Brother!」とカルロは言った。

「彼の方が似合う」とリカルドが私の方を指してカルロに言った。カルロは残念そうに私の帽子を私にかぶせ、自分の黒い帽子をかぶった。

あたりは熱狂の渦に包まれていた。皆が酒を飲み、騒いでいた。私はバルの端の方にいたジェニファーに声をかけた。

「ヴェトナム出身なんだよね?」ともう一度確認したら、

「ええ。あんたは?」と聞いてきたので、

「いや、僕は日本だけど、ヴェトナムが好きで二回行ったんだ」と答えた。

「へえ、そうなんだ」

「ヴェトナムのどこなの?」

「フエだよ」とジェニファー。「フエで生まれたんだけどね、その後で家族みんなでイギリスに移ったんだ」

「フエか。今年行ったよ。ほら」と、私は写真を見せた。

「本当だね、これが私の故郷。あんまり覚えてないんだけどさ。これからどこか行きたい国とかあるかい?」

「またヴェトナムに行きたいな」と答えると、ジェニファーは爆笑しながら、

「別のとこに行くべきだよ」と言った。多分生まれ故郷というのはあまり魅力的には見えないのだろう。

「あとはインドとかイラン、トルコも行きたいな」

「いいね。いいとこだと思うよ。ところであんた本当に行くのかい?明日から祭りだってのに」

「そうだな…」私は迷いつつあった。ここで出会った連中ともう1日遊ぶのもありなのだ。「実はこの街に来た時祭りのこと知らなくて…ついさっき知ったんだ。だから今は迷ってる。残るかもしれない」と私は言った。

バイヨンヌに行くんだったら、ブラブラカーを使うといいと思う」とジェニファーは言った。

「ブラブラカー?」

「うん。カーシェアリングのこと」ジェニファーは、カールを呼んだ。「ブラブラカーのこと、教えてあげな」

「ブラブラカーは、車を持っている人と車に乗りたい人を繋げてくれるんだ。どこどこまで行きたいって登録すると、そこまで乗っけてくれるんだ。バスより安いよ」とカール。

ヒッチハイクみたいなもの?」

「そうだね。でもネット上でやるんだ」カールは言った。私は礼を言ったが、なかなかハードルが高そうな交通手段だったので使うつもりはなかった。

ムスタファのところに行くと、彼は大きなプラコップに入ったワインのようなものを飲んでいた。「これは、カリモーチョっていって、ここではよく飲まれてるんだ」とムスタファは言い、飲めというように渡して来た。味はスカッとしている。

「ワインとコカコーラのカクテルだ」とムスタファは言った。

「初めて飲んだよ、うまいね」私は言った。「ムスタファはモロッコから来たの?」

「いや、今はビルバオに住んでるんだ。ピザ屋で働いてるよ。よかったら明日来てよ。10時くらいからやってる」ムスタファはそういうと場所はサンタマリア通りだと教えてくれた。

「じゃあバスク語は話せるの?」と試しに聞いてみると、

「いいや、あんまり。挨拶程度だよ」という。

バスク語に興味があるんだ」と私は言った。

「よく使うのは、こんにちはのKaixo(カイショ)、ありがとうのEskerrik asko(エシケリクアシコ)、さようならのAgur(アグール)かなあ」ムスタファはそう言ったが、だいたいどれも知っているものが多かった。きっとバスク語で話す人は多くないのだろう。

「今までどこを旅してきたんだい?」とムスタファは尋ねた。

「まずはパリについて、リヨンとかトゥールーズを通ってバルセロナに入って、マドリードからビルバオに来たんだ。で、それから、ボルドーに行くってわけだ」と言うと、ムスタファは顔を曇らせて、

バルセロナの災難は聞いた?」と言った。

「もちろん。あの1日前にいたんだ」私は答えた。

「1日前か…ひどい話だ」しばらく沈黙があった。私もあまり話したくなかったので、

バイヨンヌまでどうやっていけばいいんだっけ?」と尋ねた。

バイヨンヌに行くには、直通がないから、フランスのエンダイエに行かないといけないよ。そこから電車に乗るか、バスだ。もしくはサンセバスティアンまで出ればなんとかなるかも」ムスタファは言った。予想外に、バスク自治州の都ビルバオは交通の便が悪いようだ。「明日までビルバオにいれば、もう少し変わるかもね。明日は祭りの日だから」

なるほど。それならもう1日いた方がいいのかもしれない。だが、ボルドーに行く前にフランスに入ってしまいたいような気もした。それに、迷った時予定通りに進んだおかげで、私はテロから救われたのだ。かなり葛藤していた。

「もう1日いたらいいよ」とカールも言った。「部屋なら僕のホステルにありそうだ」

私は少し悩みながらも、いることにしようかと傾きつつあった。花火でもなんでも来い。ここで死ぬなら、それはそれで本望じゃないか。それでも決断はできなかった。

すると、サビナが声をかけて来た。

「カルロが日本に行くかもしれなくて、その時は連絡を取りたいからメールアドレスが欲しいんだって」

私はカルロのスマートフォンに自分のメールアドレスを書いた。カルロは

「アリガトー」と日本語で言った。

「デナーダ」私はスペイン語で言った。

「そういえばみんなはどこから来たの?」私はサビナとリカルドに尋ねた。

「俺たちはマドリードから来たんだ。祭りを見にね」とリカルドが言う。グランセマナは全国で有名なのか。いわばねぶたを見にくるようなものである。

「へえ。マドリードは昨日までいたんだ」私は打ち明けた。

「そうなのね。どう?スペインは」サビナは尋ねた。

「Me gusta español(スペイン語が好きです)」とスペインが好きというつもりで答えると、

「España(スペインが)ね」

「あ…」みんなで笑った。

「あたしたちそろそろ戻るよ」ジェニファーが切り出した。カールも、ムスタファも、アンナも帰るらしい。私も潮時かもしれない。

「ブラザー、また会おう」カルロはそう言って私にハグした。

「会えてよかったわ」とサビナはスペイン風の別れの挨拶をした。リカルドとも握手を交わした。

 

ホテルまではムスタファが案内してくれた。カールとアンナは同じユースへ戻り、ジェニファーはムスタファの家に泊まっているらしい。

「また明日!」と誰ともなく声が上がった。

「もし明日もあることにしたら、会おう!」私はそう答えた。この時は、悶々とした気分も晴れていた。