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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

3都市目:リヨン〜リベンジするは我にあり〜

ブルゴーニュ地方からリヨンのあるローヌ・アルプ地方までは在来線TERで行けば良い。所要時間は2時間だから、すぐについてしまう。

リヨンというと、フランス第二の都市とも言われる都会である。その歴史は古代ローマまで遡る。フランスの地がローマ帝国の「ガリア地方」と呼ばれていた時、ガリア地方は三つに分かれていたのだが、ルグドゥヌムことリヨンはそのうちの一つ「ガリア・ルドゥグネンシス州」の州都であった。この州は今のパリも含んでいるため、このころはルテシアことパリよりも大都市だったのだろう。リヨンはローマ帝国亡き後も反映し、そして現在に至る。

街には二つの川が流れ、「山がちなエリア」、「真ん中」、「駅のあるエリア」の三つに分けられると思う。「山がちなエリア」は旧市街も旧市街で、古い建物が残り、ローマ時代の遺跡もある。それに夜には山のてっぺんからはリヨンの夜景が楽しめる。「真ん中エリア」は、リヨンの市街地という感じで、旧市街ほどの古さではないが、日本人の感覚としてはやはり古い街である。広い道、ルイ十四世の像のある広場、そしてレストラン街に、スイスのジュネーヴを思わせるでかくて漕ぎれない建物……美しいヨーロッパの街という感じだ。そして「駅のあるエリア」を見ると、驚く。そこは別世界であり、高層ビルが立ち並ぶ、新市街なのだ。

実を言うと、リヨンは初めてではなかった。一昨年、私は大学の友人5人とフランスを訪れたことがあり、その際に立ち寄ったのが、パリとリヨンだったからである。一昨年は「山がちなエリア」のてっぺんにあるユースホステルに泊まった。夜景、夕焼け、そして朝焼けが素晴らしい場所だったと記憶している。だが、今回はそこまで行くのはやめた。なぜなら、ディジョンの町歩きで疲れ切ってしまっていたからだ。背中が痛いし、足にも負荷がかかっている。私はとにかくホテルに泊まりたかった。そもそもリヨンでの滞在は予定外だったこともある。

列車が駅に着くと、私は大手チェーンのホテルibisを探すことにした。ホテルを探す元気がないし、ユースのようなドミトリーではなく、個室でゆっくりとしたかった。それに、外はずいぶん暑い。パリ→ストラスブールディジョン→リヨンとやってきたが、気温がここにきてグッと上がったと感じた。だから、衣替えをして、パッキングを見直す必要がある。そうなれば、個室の方が都合がいい。ちょっと値ははるが、ibisなら耐えられるくらいだと信じた。

ところが、駅周辺の新市街は初めてだったということもあり、私はだいぶ迷ってしまった。それもそのはず。ホテルのある通りはなんと、高架下の狭い通路を行く道であり、道に見えなかったのだ。そのことを理解し、高架下を通り抜け、新宿西口の都庁周辺にも似た風情の街を歩いていると、ibisはあった。70ユーロ。昨日のホテルは57ユーロ(これでもだいぶ高い)。日本円にすると8000円くらい。非常に高い。だが、時には仕方ない。何しろ疲れていた。私は倹約旅など忘れちまえとibisに部屋を取った。

ibisはパリの空港にあったものに泊まっていたので、部屋に入るとなんだか懐かしい雰囲気だった。私はテレビをつけた。ドキュメンタリー調の番組をやっている。余談だが、私にとってテレビと旅は切っても切り離せない。なぜなら、テレビはその国を映す鏡でもあるからだ。街を見ているだけではわからないことがわかってくる。例えば、ヴェトナムのテレビではたまに外国の映画をやっているが、実はこれは字幕でも吹き替えでもない。なんと、同時通訳なのだ。だからどんなに緊迫したシーンでも、どんなイケメンも、どんな美女も、みんな同じトーンの女性の声になっている。ヴェトナムにはそんな事情がある。これはテレビを見なければわからなかったことでもあると思う。ちなみにフランスで、私が大好きだった番組は、France 2で平日の23時くらいからやっているバラエティだ。ゲストたちが、「曲に合わせて口パクしろ!」とか「この商品をお題に合わせて紹介しろ!」とか「ジェスチャーで伝言ゲーム!」とかいう無理難題系めちゃくちゃゲームに挑む超くだらない番組である。確かこれは、リヨンで見つけたんだったと思う。

テレビを見ながら、明日の列車の予定を考えていると、ふと、帽子をどこかに落としたことに気づいた。多分ロビーだ。でも、正直もうヨレヨレで、かなり黒ずんでいたので、よしとしよう。どこかで買えばいい。私はそう思い、ベッドに倒れこんだ。明日は朝9時20分のTER(在来線。ユーレイルパスで無料になる)に乗って、アヴィニョンへ向かおう。それからは、それから次第。だが、アヴィニョンはあまり交通の便が良くないので、宿泊はもっといい場所に行ったほうがよさそうだ。今回のディジョンでの一件を考えれば、アヴィニョン観光は二時間。それでも、ただ列車で移動するだけの旅よりは、少しでも街を見て、風を感じたほうがいいに決まっている……とまあ、あれこれ考えているうちに、私は眠りに落ちてしまった。

 

起きると、18時くらいだ。フランスのレストランが開くのは7時から。本番は8時からだという。街を観光するのも面倒だったから、とりあえず夕飯を食べに行くとして、30分くらいは部屋にいてもバチは当たらない。

リヨンは美食の街として名高い。フォアグラが名産で、イタリア由来の独特の食文化があるらしい。そして、パリのビストロとは少し違った、大衆食堂ブションで出す料理が有名だという。全部伝聞調なのは、実を言うとまだ知らないからだ。一昨年来た時は、あいにくの日曜日であり、店が軒並み閉まっていた上に、どこにブションがあるのかよくわからず、適当なブラッスリー(レストラン)に入ったのだ。しかも、そこで食べた鴨料理マグレ・ド・カナルは「とろけるように柔らかい」という前情報とは違い、わりかし硬くて、しかも味がなかった。あの旅では食に関してハズレを引き続けていたが、リヨンよ、お前もか!(Et tu, Lugdunum!)と思ったのを記憶している。

と、なれば、である。今回は、リヨンをリベンジしてやろうではないか。リヨンの本当の力を見せてもらおう。正直、ホテル代、昼のムール貝と浪費しすぎな感はあるが、リヨンにいるのだ。真骨頂を見せてもらおう。私は闘志をみなぎらせ、ベッドから起き上がり、ガイドブックでレストラン街を探した。ホテルのある「駅のあるエリア」から川を一つ越えて「真ん中エリア」の奥に行かねばならない。地下鉄もあるが、ええい、ここは歩いてやろう。案外いけそうだ。私は珍しく計画を練ったうえで、外に飛び出した。日は傾きかけており、眩しい。サングラスを出すべきだったと後悔した。

レストラン街までの道のりは、案外難しくはなかった。というのも、ホテル沿いの道を川までだーっと歩き、途中の橋を渡り、それから目の前の大通りをバーっと歩けば、すぐ左にレストランのあるメルシエール通り。日中と違って日が陰ると風が気持ち良い。川辺は特に良くて、ゆっくり歩きたくなった。そういえば、大学の後輩がここに住んでいたという話を聞いた。随分いいところにいたもんだ……だが、まだリヴェンジを果たしていない。散歩は食後だ。私は勇み足でレストラン街を目指した。

レストラン街は見てすぐにわかる雰囲気を持っていた。狭い路地にずらりとテラスが並び、人々が食べている。少し早めに着きすぎたので、行ったり来たりを繰り返してみたが、一人、また一人と客が入る。値段は大抵一皿19ユーロくらい。だいたい2000円か。それにワインを入れると、少し高くなるだろう。小さな路地でフォークとナイフの音、人々の話し声が反響している。この街は生きていると感じられる風景だ。周りの路地も見てみたが、やはりここが一番だった。

しばらくうろついて、私はリヴェンジマッチにふさわしい店を探した。値段、客の入り含めて一番良いのはどこか。白羽の矢が立ったのは、メルシエール通りと別の通りのT字路にある紫色のモダンな装飾の店だった。看板にはしっかりとBouchon(ブション)と書かれている。しかも、テラスでは店員と常連が楽しそうに話しているではないか。

フランス語で話すということにハードルを感じていた私は、一瞬ためらいを感じつつも、この店しかない、と店に飛び込んだ。

「Bonsoir, une personne(こんばんは、一名です)」

すると髭面の若い店員は、中か外かと聞いてくる。あの雰囲気を味わいたいので、私は外を所望した。店員の言われるまま席に着くと、しばらくして、女性の店員がやってきた。フランス語だったのでわかりづらかったが、どうやら予約が入っているらしい。仕方ない。私は流れに身を任せ、店内で食べることにした。

この店のこの日のオススメは、なんと、一昨年リヨンで失敗した「マグレ・ド・カナル」だった。これはもう、運命だ。注文を取りに来た若い女性の店員に私は早速マグレ・ド・カナルを注文した。喉が渇いていたので、飲み物はビールである。

「焼き方は?」と聞かれたので、とりあえず覚えていた語彙を使ってみた。

「あー、ロゼ」ロゼとは、ピンク色のこと。だから肉がピンク色になるくらい、という意味だったと思う。

白を基調とした店内は小さく、客の入りもまばらだったが、アットホームな空間だった。二階席もありそうな雰囲気で、行き来する人がいる。部屋の奥にはバーのようなものがあって、そこで酒を出しているようだ。作り自体はカフェと変わらないが、なんとなく人を落ち着かせる空気感が流れている。

しばらくして、先ほどの髭面の店員がマグレ・ド・カナルを運んできた。鴨肉に珍しく白いソースがかかっている。付け合せはフランス名物のフレンチフライ(フリット)。店員の「Bon appétit(召し上がれ)」という言葉とともに、リヴェンジマッチが始まった。

肉を切ってみる。ものすごく柔らかいというわけではないが、柔らかい。口に運ぶ。白いソースが絡んで、とてもうまい。これは間違いない。リヴェンジマッチに勝利したのである。私は大事にマグレ・ド・カナルを食べた。このマグレ・ド・カナル、フランス料理にしては珍しく、あまり大量には出てこない代物だからだ。それにしてもうまい。臭みのない鴨肉と、バター風味のソースがうまく合っている。

食べ終わって満足し、店の外を見ていると、若い女性の店員が、

「食べ終わりましたか? いかがでした?」と聞いてきた。私は、

「C'était très bien(とてもよかったです)」といった。très bon(とてもおいしい)と言おうとして、いつも言い間違えてしまう。私は、「parfet(完璧でした)」と付け加えた。

「デザートはよろしいですか?」と聞いてきたので、私は、

「じゃあ、コーヒーをお願いします」と答えた。今日は腹の余裕はあったが、懐の余裕があるか不安だったからだ。

店員はエスプレッソコーヒーを持ってくると、おもむろにペンを取り出し、

「会計はテーブルではなく、あちらのバーで行います。コーヒーが終わりましたら、テーブル番号を向こうで教えてください」といって、紙でできたテーブルクロスに「9」と書いた。

「わかりました」私はそう言って、うなづいた。

ヨーロッパではテーブル会計が普通だ。こんな会計は初めてである。なるほど。やっぱりリヨンの食文化は、他の街とは違うのか。私は、面白いな、と思いながら、濃厚なエスプレッソコーヒーを飲んだ。美味しいけど少し重いヨーロッパ料理を食べた後は、エスプレッソに限る。口の中がさっぱりして、胃が動き出すのが感じられるからだ。私にとってのデザートである。

しばらく食休みをして、私は恐る恐るバーのところへ向かった。

「L'addition, s'il vous plaît, eh, table numéro neuf(お会計お願いします。えーっと、テーブル番号9番です)」

おそらく店長なのであろうサバサバした感じの女性が、

「parfet(完璧ですね)」とにっこり笑いながら言い、会計を出した。26.50ユーロ。チップはいらないと何かに書いてあったので、ちょうどの金額を払い、Merci(ごちそうさまでした)と礼を言って外に出た。外はまだ明るい。

 

その後は、川沿いを歩き、それから一昨年行ったパン屋と公園を探してみた。結局見つからなかったが、一昨年行った広場には行き着いた。真ん中にはルイ十四世の騎馬像がある。フランスで20時は夕暮れ時なので、広場も夕焼けに包まれていた。リヨンはもういいかと思っていたが、なんの巡り合わせか、来てみてよかった。一昨年の旅の記憶と、今年のリベンジ。リヨンの街は祝福してくれているようだ。広場を抜け、大通りを歩こうと横断歩道を待っていると、一昨年泊まったユースホステルのある山が夕焼けに染まっている姿が見えた。今度来るときは、この街で何をするんだろう。私はそんなことを思いながら、大通りを歩き、川を渡って、ホテルへと向かった。

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明日は、ついに南仏のアヴィニョンへ出発だ。

2都市目:ディジョン〜重荷を背負って〜

5時半頃にホテルをチェックアウトして、ホテル・ル・クレベールを出ると、案の定空は真っ暗、そして小雨が降っていた。コートのボタンを留め、トラム乗り場に行ってみたはいいが、乗り方がよくわからない。トラムを待っている女性に聞いてみて、なんとかチケットを手にすると、目当てのトラムに乗り込んだ。こんなに暗いのに、治安はそれなりに良さそうである。また来るときは、もう少し長く滞在してみたい、観光というよりも暮らしてみたいと思えるような街だった。だが、今回はもうお別れである。

中央駅(Gare Centre)でジュースを買い、列車に乗る時には、徐々に日が昇り始めているところだった。約二時間ほどの旅だ。着くのは8時15分くらい。朝食はディジョンで何か温かいものを食べよう。などと考えているうちに高速列車TGVは南西に向かって動き始めた。車窓を見ると、どこまでも続く緑の畑が見える。パリからストラスブールへの列車でも見えたのだが、フランスのこの辺りの風景は、広大な田園とその真ん中に見えるちょっとした村でできている。その村の真ん中には必ず高い尖塔のある小さな教会が見えた。村の真ん中に教会、小規模な家の集まり、そしてそれを取り囲む田園。その構図は歴史の資料集で紹介されるヨーロッパの都市の特徴そのものであり、なるほど、一緒くたにヨーロッパと言われてるのはここなんだなと思った。それにしても、こういう村の暮らしはどうなっているんだろう。みんな知り合いなのだろうか。スーパーはないのだろうか。あるいはもう進出してきているのだろうか。外の世界を夢見ているのだろうか……私はこの村の住人ではなく、列車の中にいる。そんなことすら不思議に思えてくる……

列車は国境の街ストラスブールからアルザスの土地を南西へと抜け、スイスの隣に位置するフランシュ・コンテを通過して、ブドウ畑が広がるブルゴーニュ地方へと入った。目的のディジョンはこの地方の中心都市である。この地にはかつて、ブルゴーニュ公国と呼ばれる独立国家があった。少し今回も歴史に思いを馳せてみよう。

 

時は紀元476年。イタリア半島よりも西のヨーロッパを勢力圏としていた「西ローマ帝国」が滅亡した。この国は、かつて北は現在の英国、西はモロッコポルトガル、南はエジプト、東はシリア・トルコまでを支配したローマ帝国が東西に分裂してできた片割れである。強大な帝国が分裂し、その西部分が滅亡した理由はさまざまあるが、その一つの理由は、ゲルマン人と呼ばれる今のドイツに住んでいた民族が大挙して西ローマ帝国領内に押し寄せて、勝手に国を作ったからだった。そんな中でできた国にブルグント王国がある。これは今のフランスの東部一帯を支配する王国だ。そしてこの「ブルグント」、フランス語読みにすると他ならぬ「ブルゴーニュ」になる。このブルグント王国は始めこそ力を持ったものの、フランスの北部を中心に勢力を拡大していた大国フランク王国に敗れ、滅亡。その後フランク王国が弱体化すると、その領土内では幾つかの小国が争うようになるが、現在ブルゴーニュと言われる地方はフランス王の支配下に入った。とはいえ、フランス王が直接支配するにはいかんせんブルゴーニュは遠い。そこでフランス王はそこに公爵を派遣し、支配させた。かくして「ブルゴーニュ公国」が整理するのである。ところがこれがフランスにとっては痛手となった。それは特に、フランス王国の王家がカペー家からヴァロワ家に変わり、ブルゴーニュ公爵の地位もヴァロワ家になってからのことである。

ブルゴーニュ地方の北には先ほども紹介したフランシュ・コンテやアルザスがあるが、そのさらに北にはフランドル地方がある。今のベルギーだ。ここは当時、毛織り物、とどのつまりは服やカーペットなどの生産で有名だった。ヨーロッパは寒いので、こういった商品は売れる。そのため、フランドル地方は経済の中心となっていた。時のフランス王の弟でブルゴーニュ公爵となったフィリップ豪胆公はフランドルを支配するフランドル伯爵家の女性と結婚し、なんとこの地方を手に入れてしまう。フランス王国としては、国王家の人間がフランドルを手にしたのはありがたい話のはずだったが、問題はその後である。

当時、フランス王国イングランド王国との百年戦争を遂行中だった。フランス国王は精神を錯乱、側近たちはそんな宮廷の中で権力争い。フランスに勝ち目はなかった。そしてそんな宮廷の中で権力争いをしていたうちの一人がブルゴーニュ公爵だった。間のゴタゴタは端折るが、なんとフィリップの次の公爵ジャンはイングランドと同盟したのである。経済の中心を手に入れ、裕福なブルゴーニュ公国が、フランス王国を見限り、イングランドと同盟する。フランス王国はこのことにより、かなりの痛手を被った。一方のブルゴーニュ公国は、ジャンの次の代のフィリップ善良公の時代に最盛期を迎え、フランドル地方ではファン・エイクなどの画家が活躍し、宮廷では優美な騎士道物語と言われる物語や音楽が流行った。食文化もかなり進み、上質なワイン、エスカルゴ(かたつむり)料理、そしてマスタードが生まれた。フィリップ公爵はしたたかな外交を行い、イングランド不利と見るやフランスに傾いたが、独立国家としての体裁は保ったままだった。次の王シャルル突進公は領土拡大を求め、近隣諸国との戦争を繰り返した。その前に立ちはだかったのが、百年戦争イングランドになんとか勝利したフランス王国だった。百年戦争の英雄シャルル七世の子、ルイ十一世は巧みな外交と陰謀戦略によってシャルルと対峙、ついにシャルルが戦死すると、ブルゴーニュを手に入れ、晴れてこの地もフランス王国のものとなった。そして、今に至るわけだ。

 

ディジョンに到着すると、私はトイレを済ませ、街の中心に出ることにした。外に出るとかなり寒い。パリやストラスブールよりも寒い気がした。アルプスが近いためか、それとも、単純に朝だからなのか。10kgのリュックを背負って、街の中心へと伸びる一本道を歩く。道の真ん中にはトラムが走っていて、街の色は明るいベージュである。しばらく歩くと公園が見えてきて、公園の目の前には由来のよくわからぬ大きな凱旋門風の門があった。門のそばに朝食を食べられそうなところは幾つかあったが、とりあえず街の見物だ、と門を超えてみたり、有名らしい緑の尖塔が美しい教会の方に行ってみたりしたが、いかんせん朝8時なので人がいない。いいかげん朝食を食べよう。私はそう思い直して、凱旋門側のカフェに入った。後々知るが、この、リアルなクマの顔がトレードマークの「コロンブス・カフェ」はチェーン店である。

「ボンジュール」と挨拶をし、陳列棚を見る。何かパンが食べたい。するとクロックムッシューに目が止まった。パリで会うはずだったRくんの友達のHくんに日本であった時のことだ。「フランスに行くんなら、クロックムッシューを試すといいぜ。クロックっていうのは、なんていうか、その、むしゃっと食べること。ムッシューはムッシュー(旦那)。わかるだろ? カリカリのパンの上にハム、その上にはチーズが乗ってて、すげーうまいんだ」と、彼はオススメしてくれた。そうだ、いまこそクロックムッシューを食う時だ。わたしはクロックムッシューとカフェ・オ・レをオーダーした。フランスの朝といえば、カフェ・オ・レと聞いたことがあったからだ。店員のお姉さんは、「あいよ」と頷き、クロックムッシューを電子レンジに入れた。それから、「コーヒーの大きさはどうなさいますか?」と私に聞きながら、カップの大きさを見せる。とりあえず、クラシックってやつにしておいた。そうこうするうちにクロックムッシューとカフェ・オ・レが出来上がった。800円くらい。安くはないが、高すぎでもない。私は肌寒いテラス席へと向かった。

クロックムッシューは電子レンジで温めたやつだったが、中がとろっとしていて美味しかった。カフェ・オ・レも朝にぴったりのまろやかな味である。テラス席は始めは客が1人だけだったが、徐々に増えてきた。フランス人の朝はどうやら遅いみたいである。しばらく肌寒さと朝食のあたたかさのギャップを楽しみながら時間を過ごした。人通りが増えるのを待つという意味もあった。

しばらくして、私は再びメインの道を歩いてみた。人通りは以前まばらだったが、体があったまったこともあって、気分は好調だった。建物はベージュ、屋根は紺っぽい。その屋根から赤い煙突がちょこっと頭を出している。そんな建物がディジョンには並んでいた。そして空気はあいからわずキーンと冷え込んでいた。時折、古そうな木と漆喰の建物がある。だが、ストラスブールのそれとは雰囲気が違う。何が違うのかは説明しづらいのだが、おそらく屋根の作りに違いがあるようだ。それに、ディジョンの建物の方がずっと背が低い。ずっと歩いて行くと、ウィルソン公園という公園に突き当たった。私はそこで少し休むことにした。それは、あまりに荷物が重かったからである。私のリュックは全てを詰め込んだため、10kgもある。それを背負って街歩きはさすがにきついのだ。しばらく公園のベンチに座って、体力の回復を待った。

 

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案内板を見ると、どうやらこの公園から伸びる道を行けば、ブルゴーニュ公爵の住んでいた宮殿に行けるらしい。私はひとまずそこに行くことを目標とし、重い荷物をまた担いで、道を進んだ。途中で巨大な教会にいきあたったり、劇場の前に着いたりしたが、徐々に、荷物の重さに私の精神は蝕まれていった。

しばらく歩くと、地面が突如大理石になった。そこは紛れもなく、公爵の宮殿の前の広場だった。噴水があり、昼に近づき風も気持ちよく、空は真っ青だった。私は宮殿の前にある石でできた椅子に腰掛け、ひとまず荷物を置いた。中に入ろうと思ったが、こういうところはこの大荷物では入れないだろう。私は断念し、外側からその歴史を感じることにした。宮殿から突き出たタワー、そしてこの美しい広場全体が、在りし日の公国の栄華を物語っている。私はふと、芭蕉の「夏草や つわものどもが ゆめのあと」という歌を思い出した。これは東北地方に君臨した奥州藤原氏の都平泉が廃墟となっているのを見て歌った歌だ。正直、ディジョンには全くふさわしくない。なにせ、未だにここまで美しいのである。だが、この土地がかつてはフランスから独立せんばかりの勢いだったことと比べて、日本での「ディジョン」の無名さはなんということだろう。パリ、マルセイユ、リヨン……最近ではストラスブール知名度を獲得してきているが、ディジョンなど誰が知ろうか。歴史とは気まぐれだ。

そんなことを思っていると、家族連れのおじさんがフランス語で、「!£*™(‡°·フォト?」と聞きながらスマートフォンを差し出してきた。写真を撮ってくれということか。わたしは「ウイ(はい)」と答え、写真を撮った。「ボンジョルネ(良い1日を)」と家族全員が言ってくれたので、私も「ボンジョルネ」と返した。気持ちの良いところだ………そう、このリュックさえなければ。

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リュックを背負い、昼食場所を探しながら町歩きを続けることにした。昼食場所と言えば聞こえがいいが、名高いブルゴーニュワインが飲みたい、という魂胆である。相変わらず重いが、仕方あるまい。しばらく歩き、私は街の中心のようなところに出た。先ほどと違って、人でごった返している。真ん中にはメリーゴーラウンド、それを取り囲むのは古い木と漆喰の建物。メリーゴーラウンドはストラスブールの広場にもあったから、不思議なもんだなあと思った。

広場の周りには幾つかレストランがある。だが、朝ごはんにはまだ早い。私はとりわけ人にいる方を目指して歩いた。すると、大道芸人の音が聞こえ、狭い道にさらに人がたくさんいる。どうしたものかと思っていたら、そこはなんと、市場であった。市場があったら入れ。それが私の旅の掟。リュックは重く、私の肩に食い込んでいるが、私は市場に入った。

魚、肉、野菜、そしてワインスタンド。活気と生臭さで満ち溢れている。最高だ。だが、一つ問題がある。リュックが重いのだ。無理して歩いたためか、徐々に頭痛までし始めていた。良い市場なのに楽しめない。私は休むことにして、市場から一度出た。が、座る場所が見当たらない。階段があればいい。だが階段もない。私は歩き回った末、ベンチを見つけて、座った。ひとまずの休憩である。負荷がかかっているせいか、太もももパンパンだ。

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しかし、座っていると、どうしても市場に行きたくなってくる。私は、回復した、と判断し、また街の中心へと向かった。だが、重いせいなのか、逆に「ワインスタンドに入ってみよう」とか、「何が売られているか見てみよう」とかいったことを考えられない。ワインスタンドの椅子は高く、リュックをどこに置けば良いのだろう、と考えてやめてしまった。だが、もはや限界だったため、私は地元民で賑わうカフェに入った。

注文の仕方がよくわからないので、店内にいるおばさんに、「一人です」と告げる。するとおばさんは警戒した感じで、「何が欲しいの?」と聞いてきた。私はとりあえず思いつきに任せて、「コーヒー」と答え、適当なところに座った。あまり余裕がなかった。しばらくしてコーヒーが出てきたので、私はコーヒーを飲んだ。フランスでコーヒーと言えば、エスプレッソのことだ。小さいカップに濃厚なコーヒーが入っている。

観察していると、どうやらおばさんに注文し、椅子に座るのが流れらしい。あるいは、外側の席に陣取ってしまうのが正しいようだ。するともう一人のおばさんがオーダーを取りに来る。なるほど。何事も慣れである。ストラスブールにはカフェがあまりなかったから、練習ができなかった。

しばらくして、私はこの店を出たが、うまいレストランを探す気力もなく、とにかく駅の方へと向かった。だが、ブルゴーニュに来てブルゴーニュワインを飲まずに別の都市に移るわけにはいかない。そう、ディジョンに泊まるつもりはなかったのだ。とりあえず、今日のうちに南のアヴィニョンへと移るつもりだった。それもこれも、フランスを抜けてスペイン入りを果たすためである。今思えば、泊まっておけばよかったとも思う。なんにせよ、もうディジョンとはお別れだった。私はワインを飲むべしと目に付いた賑わっていそうな店に入った。

「いらっしゃいませ。テラスにいたしますか、それとも店内ですか?」とウェイターが言うので、わたしはテラスを選んだ。哲学の世界では「外的」と訳される「extérieur」が「テラス席」を意味するということに若干面白さを感じながら。「外的善」は「テラス席の良さ」である。いいではないか。

メニューを開けてみて驚いた。割と高いのだ。これはまずい。名物のエスカルゴでも食べようかと思ったが、エスカルゴ12個ではお腹が空いてしまう。私は次点で一番安かったムール貝のワイン蒸しと、ブルゴーニュワインで一番安かったピノ・ノワールを頼んだ。ワインはすぐに運ばれてきた。フルーティーでまろやかでおいしい。フランスワインの渋みの強いイメージとはだいぶ違った。やはり、現地で飲めてよかった。しばらくしてムール貝が運ばれてきたが、これがえげつない量である。店員同士の会話を解釈するに、きっとこれは一人分ではないのだろう。だが、頼んだんだ。もう意地でも食ってやる。私はムール貝の鍋に突っ込んでくる蜂やハエたちと格闘しつつ、うまいワイン片手にムール貝との戦いを始めた。とはいえ、相手は貝。実を言うと案外簡単に食べ終わってしまった。問題は付け合せのポテトだったが、それもなんとかなった。食後にコーヒーを頼み、アヴィニョンまでの行き方をスマートフォンで検索した。

すると、である。どうやらアヴィニョンまでの列車は出ていない。必ずリヨン乗り換えである。どう調べても、そうなる。今のリュックを背負って歩いて疲弊した体には、それは非常に面倒だった。しかもアヴィニョンという街を知らないので、ホテルも取らねばならないかと思うと気が遠くなった。それなら‥‥‥リヨンに泊まれば良い。リヨンは一昨年行った町である。また行けばいいじゃないか。しかも、ディジョンからリヨンの列車は、予約料なしで乗れるTERだった。私は行き先を急遽変更し、リヨンへ行くことを決めた。

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1都市目:ストラスブール(2)〜戦争と平和の狭間の街〜

ストラスブールの教会は、歴史の積み重ねを感じさせる場所だった。赤みがかった石の一つ一つに歴史が刻み込まれている。天井の高い巨大な空間全体が、歴史を語っているようだ。そしてその古くから続く祈りの場にはなにやら神がいそうな気もしないでもなかった。静謐、荘厳。ここ以上にその言葉がふさわしい空間はない。

教会の構内の端には小さな部屋があり、そこにはなぜかコペルニクスのモチーフのされた巨大で程よく豪華な機械時計がある。時間になると何がしかのからくり装置が動き、時を知らせるらしく、大勢の人々がそれを待っている。私も待ってみたが一向に始まる予感はない。時計を見てみると、時計は半端な時刻を指している。どうやら、ここにいる人たちは待っているのではなく、余韻に浸っているようだった。私はその場を離れ、教会の中のベンチに座った。人々が祈るベンチに座ってこそ、教会の本当の効果がわかる。なぜなら、教会は信者が神を感じられるように作られているからだ。しばらく座り、祭壇を見つめると、そこにはやはり、何かがいるように思えてきた。

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教会を出ると、入る前には降っていた雨がひとまず止んでいた。だが、快晴とは言えない。空は曇り空。またいつか雨は降りそうである。私はキンと冷えた空気の中、ストラスブールの街を歩くことにした。あてもなく、ただ、ただ、心の行くままに。石畳から石畳へ。木と漆喰でできた建物から、石造りの建物へ。アルザス語の本がないかと本屋にも入ってみたが、どうやらなさそうだった。ホテルで紹介されたレストラン街に行ってみるが、時間も時間なので空いている店はない。あたりだけつけて、歩いた。

しばらく歩くと、木と漆喰の古い建物が川沿いに並ぶ静かな界隈にたどり着いた。後で調べると、そこは「プティット・フランス(小さなフランス)」というらしい。だが、その見た目はどう見ても、フランスというより、ドイツのロマンス街道である。川には船が浮かんでいて、遊覧船になっているようだ。ストラスブールの町は川で囲まれており、それが堀の役目を果たしている。だからきっとこの川を一周するだけでもだいぶ楽しいのだろうなと思った。だが、今回は節約旅行。あまりそういうものには手を出すまい。私はひとまず木と漆喰の街並みの方へと歩いた。

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しばらく街をうろついていると、私はいつの間にかクレーバー広場に戻ってきていることに気づいた。石畳のせいもあってだいぶ足が疲れていたので、私は広場の一角にある店に入って、ビールを頼んだ。アルザスはワインで有名だが、ドイツ文化が濃厚なのだ、ビールくらいあるだろう。案の定、出てきたビールは全く知らない銘柄で、さっぱりとした味わいの少し白く濁ったビールだった。「シュトリク」というらしい。疲れに染み渡る味である。フランスやスペインはワインの国だが、足が疲れている時や、暑いときはいかんせんワインは重っ苦しい。古代ローマ人はワインに水を混ぜていたというが、確かにワインだけでは「飲み物」としてはあまり良くないような気がする(食べ物に合わせるのには抜群だが)。そういうときはどうしてもビールが良い。

会計を済ませ、再び街に出た。そろそろ夕飯の時間だ。レストラン街に戻ってみたが、当たりをつけたとは言え、どこに行けばいいのかよくわからない。アルザス名物は「シュークルート」。シューはキャベツ、これは要するにドイツ名物「ザウアー・クラウト」のことだ。酸っぱいキャベツの漬物である。漬物だけか、と思うことなかれ。この漬物に、ソーセージやベーコンやジャガイモを合わせるのがシュークルートだ。とはいえ、完全にドイツ料理であることに変わりはない。だが、ここにきたからにはこれが食いたい。

そうはいっても、どの店も大抵は置いているようだ。私は値段と雰囲気で選ぶ作戦を決行した。趣のあるレストランはあまりに高く、安い店は観光地っぽすぎる。そうやって色々と選別する中で、私は川に近いアルザス風の漆喰と木の建物にある「ヴィンシュトゥプ(ワインを出す大衆居酒屋)」を見つけた。そこのシュークルートはそれほど高くなかった。しかも雰囲気もいいし、店内にそれなりに人もいる。雨脚が突然強くなったこともあり、私は店に入った。

「ボンソワー(こんばんは)」と言いながら店に入ると、声の高い若いんだか歳をとっているんだかよくわからない店員が出てきて、席に案内した。せっかくなので私はシュークルートともにアルザスワインを頼んでみた。ドイツのワインと同じく、白ワインが充実しているみたいだ。

ワインとともに、プレッツェルのお菓子が出てきた。いよいよドイツである。私はワインをちびちび飲みながらプレッツェルを食べた。面白いのは、店内の空間はドイツっぽさがあるのは当然だが、店員同士はドイツ語に限りなく近い言葉で会話をしていることだ。そして、接客のときはフランス語に切り替わる。

しばらくするとシュークルートが出てきた。ものすごく多いが、かつてドイツに住んでいた身としては何処と無く懐かしい香りがした。真ん中に盛られたキャベツの漬物の周りに、太い二本のソーセージと分厚い二枚のベーコンが置かれ、ジャガイモがその周りに陣取っている。

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写真で見るとそうでもなさそうだが、一つ一つがヘヴィーなので、初めはうまいうまいとパクパク食べていても、最後のベーコンくらいになると、ちょくちょく休まないと食っていられなくなる。途中でワインが底をつき、ペリエを頼もうと手を挙げると、

「食べ終わったの?」と店員が言ってきた。アジア人と思って舐められては困る。私は首を振り、ペリエを頼み、休みながらもなんとか大量のベーコンを食いきってやった。

アルザス語で「セテ・デリシウ(おいしい)」ってなんていうんですか?」と、私はコーヒーを頼む時に聞いてみた。

「ゼーシュ・グート」と店員が言うので、わたしは

「ゼーシュ・グート」と言ってみた。完全に、ドイツ語ではないか。店員はにっこりと笑って、「メルシー」と言った。

不思議なもので、苦いエスプレッソコーヒーを飲めば、どんなに大量の料理を食べた後でも、スッキリして、完全復帰できる。私は会計を済ませ、まだうっすらと明るいストラスブールの街に出た。ヨーロッパの夏の1日は朝7:30ごろに始まり、夜9:00ごろに終わる。夜9:00ごろにやっと日が落ちるのだ。もう8時くらいだったが、日本でいうなら5時くらいの明るさである。

ホテルに向かって歩いていると、喉が渇いているのに気づいた。それに、部屋で飲むための水も欲しかった。だが、スーパーのようなものが見当たらないし、ヨーロッパの街は8時を過ぎると機能を停止する。店はもうほとんどやっていない。これはこまったぞと思いつつ、私はクレーバー広場の当たりをぐるぐると歩いた。すると、救いの光のように、アイスクリーム屋がやっているではないか。水も売っているようだ。私はひとまずその店に入り、移民系の店員に、

「ドゥ・ロー、シルヴプレ(水、クダサイ)」と言った。すると店員は「£$^^$%^ブテイユ%^**(^*%&&^?」と聞いてくる。ブテイユとは「ボトル」のこと。私はうなづいて見せた。すると店員はコップを取り出し、蛇口をひねり始めた。そうか、私はブテイユではない方に頷いてしまったようだ。

「ノンノン、ブテイユ(チガイマス、ボトル!)」と慌てていうと、店員は一瞬戸惑ったが「ははは」と笑ってボトルの水を私にくれた。フランス語、まだまだだなあ、と思いながら、まあ1日目だ、こうやって成長する、と自分を励まして、私はホテルへと向かった。明日の朝は、ディジョンへ向かう。

1都市目:ストラスブール(1)〜戦争と平和の狭間の街〜

パリのシャルルドゴール空港についた次の日、私はフランス版の新幹線とも言えるTGVに乗って東の果てのストラスブールを目指した。TGVは値が張るが、私はユーレイルパスという青春18切符のようなものを持っていたので、予約料だけを払えばよかった。パリからストラスブールまではだいたい2時間かかる。

正直、前日のフライトで私は疲れ切っており、ホテルを探す気にもなれず、ホテルはネットで予約をした。電車内でも、ひたすら車窓を眺めていた覚えがある。電車が駅に着くと、力を振り絞り、10kgあるリュックを背負って、駅へと降り立った。駅はヨーロッパの伝統的なスタイルのものだった。石造りの駅舎の真ん中に何本か線路が通っており、それを挟むように幾つかプラットフォームがあって、駅構内から直通していないプラットフォームに行くには、地下通路を通じてゆくしかない。そして、改札は存在せず、ただチケットに刻印をする黄色い機械が階段のそばに置かれている。だが、ストラスブールには独特の作りがあった。それは、古い石造りの駅舎を覆うように存在する、モダンなガラス張りの球状の構造だ。古さの新しさが混在する雰囲気が醸し出されていた。

翌日6時20分のディジョン行きの列車を予約し、街へと繰り出すと、なんとなく体の疲れも心の気だるさも風に洗い流されるような気分になっていった。不思議なことだが、街が、「さあ歩こう」という気分にさせてくれたのである。パリほどではなかったが、コートを羽織っていてちょうど良いくらいの温度の風が街を吹き抜け、空は曇天であったが、少しゴミゴミとした古い街並みを見ていると、外へと向かう気力も出てくる。私は街の中心地へと向かった。街の中心地にあるクレーバー(クレベール)広場に、ホテルがあったからでもあった。

街全体はどこか賑わった様子で、建物は背が高い。フランスの端というイメージがあったので、思わず「案外都会だな」と思ってしまった。よく考えれば、ストラスブールはドイツとフランスというEUの二大大国の狭間にあるわけで、交通の要衝でもあるのだろう。くだんのクレーバー広場の真ん中には仮設ステージがあったが、何かをするような雰囲気があるわけではなかった。私は広場の一角にある小さなホテルに入った。

「J'ai réservé une chambre(部屋ヲ一ツ予約シマシタ)」

とロビーにいた若い女性に伝えると、私の名前を尋ね、部屋の鍵を渡した。そのあと何事かフランス語で言ったが、正直聞き取れない。だが、「ディズール(10時)」と「フェルメ(閉まる)」と言っているので、おそらくロビーが10時で閉まるのだろう。早いな、と思いながら、私は頷いた。次は朝食の話だ。明日の列車は6時20分なので、いらないと答える。するとまた何事が言っている。今度は本当にわからない。聞き返すと、彼女は英語に切り替え、説明した。車はあるか?と。あるはずもないので、ない、と答えた。

話を聞いてみると、どうやら駅までの移動手段のことらしい。これはありがたい話だった。なぜなら、駅までの道は長く、そこまで治安も良好というようには見えなかったからだ。明るいうちなら良いのだが、明日は早朝の列車。カンボジアプノンペンで早朝のバスを降りて一度怖い目にあっているので、もうあれはゴメンだったのだ。是非、使いたい、というと、電車か車かどっちがいいかと聞く。駅までそこまで遠くない。私は電車を選んだ。正確には、路面電車すなわちトラムである。トラムの駅はホテルのすぐそこにあるらしい。私は手続きを終え、手動でドアを開ける方式の狭いエレベーターに乗り、ホテルの部屋に入った。部屋はちょうどよく狭い。私の好きなタイプの部屋だった。だが、1日の滞在だ。青年よ、ホテルを捨てよ、町に出よう。そんなわけで、私はロビーに鍵を預け、地図をもらい、レストランのある場所だけ聞いて、肌寒い外へと繰り出した。

 

ストラスブールは、先ほども言ったように、フランスとドイツの狭間にある。ストラスブールを中心都市とするアルザス地方と隣接するロレーヌ地方は、兼ねてからフランスとドイツという二つの大国の係争地帯となってきた。なんどもストラスブールというフランス語の名前とシュトラスブルクというドイツ語の名前をいったりきたりした。ことの起こりは1648年に結ばれた「ヴェストファーレン条約」である。それまではドイツ地方(その当時はドイツという国は存在せず、小さな国家が寄せ集められていたためこういう言い方をすることにする)を統合する「神聖ローマ帝国」の一員だったアルザスとロレーヌが隣国フランス王国に併合されたのだ。この条約は、当時支配的だったカトリック教会のやり方に反発するプロテスタントと立場を守りたいカトリック教会との泥沼の戦い「30年戦争」の講和条約だった。だが、この戦いは最終的に政治闘争の様相を呈し、カトリック教会と結ぶ神聖ローマ帝国と同じくカトリック教会と結んでいるが神聖ローマ帝国を潰したいフランス王国の戦となっており、アルザス=ロレーヌもその関係で争われたのである。そして、この地方は1871年までフランスのものであり続けた。だが、この地方に住む住民はドイツ系で、ドイツ語に似たアルザス語を話していた。

状況が変わるのは、ドイツ地方の完全統一をもくろむ北のプロイセン王国ナポレオン三世フランス帝国に仕掛けた「普仏戦争」だった。民衆の要望に応える形で踏み切られたこの戦いはフランス不利の戦況で進み、ついにはスダン要塞でナポレオン三世プロイセン軍によって捕虜にされるという形で戦争は終結へと向かう。プロイセン軍はそのままパリへと進軍し、絶対王政時代の中心ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の建国を宣言するとともに、フランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を認めさせた(割譲されるアルザスの様子を描いたのが、「最後の授業」という物語だ)。

1914年、ドイツ帝国が東欧の混乱に首をつっこむ形で第一次世界大戦が勃発すると、フランス共和国ドイツ帝国に対して宣戦布告をし、アルザス=ロレーヌ地方の奪還を目指した。アルザス=ロレーヌに位置するナンシーやヴェルダンは激戦地となった。フランスはかなりの痛手を被ったが、アメリカの支援もあってフランス側が勝利するとフランスは、奇しくもドイツ帝国の建国とアルザス=ロレーヌ割譲が宣言されたヴェルサイユでの講和会議で、ドイツから莫大な賠償金とアルザス=ロレーヌの奪還をドイツ政府に認めさせたのだった。

そして話はまだ続く。1933年にドイツで成立したヒトラー率いるナチス政権は、1939年に第二次世界大戦が勃発するとフランスに進軍、アルザス=ロレーヌを併合したどころか、最終的にはパリも含めたフランスの北半分を併合し、南半分をフランス人による傀儡政権「ヴィシー政権」の領地としてしまった。その後、北部ノルマンディー地方からアメリカ・イギリス・ドゴール将軍率いる自由フランスなどからなる「連合国軍」が上陸すると、フランス一帯は解放され、ドイツ敗戦後はアルザス・ロレーヌは再びフランスのものとなった。戦後、EU構想が持ち上がる中、ドイツとフランスは積年の争いに終止符を打つべく、この地にEUの機関を置いた。「欧州の平和はアルザス=ロレーヌにあり」と。

 

街を歩いてみると、やはりこの土地はドイツ文化の町なのだと気づかされる。例えば、アルザス語である。街を歩くと、フランス語ではない言葉を喋る人がかなり多いように思うが、私にはそれがアルザス語なのか、ドイツ語なのか判別できない。だが、レストランに入ってみると、その言葉で店員同士が話しているので、この言葉が未だに「生きているのだ」と気づかされた。さらに、標識は、フランス語とアルザス語のに言語表記だが、見てみるとやはりドイツ語みたいである。店の名前だってドイツ語みたいなものが並んでいる。ドイツ語がわかる方なら、下の写真を見て、読んでみればわかるはずだ。

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「リュ・ドゥ・ラ・アッシュ=アハトゲッセル」

「リュ・ドュ・サングリエ=ハーヴェァグラース」

街並みも、パリなどとはだいぶ違う。市の地区の紋章が並び、建物は木と漆喰でできた背の高い建物である。おそらくすべて石でできた教会は天まで届きそうな大きな塔があり荘厳だ。フランスというより、南の方のドイツのような雰囲気がある。看板の文字はドイツ特有のひげ文字で、居酒屋には「Winstub(ヴィンシュトゥプ)」。テラス付きのカフェは少ない。

私はストラスブールでやることも指してなかったので、とりあえず目に入った巨大な教会の中に入った。それは街の中心部にあり、レストラン街のそばらしいが、おそらく街で最も有名な教会のようだ。かなりの行列ができている。私はそこに並び、順番を待った。教会前の広場では、四人組の軍人が銃を持って歩いている。平穏そうに見えるがフランスは未だ非常事態宣言発令中の国だ。軍人の姿を見ると、それをありありと見せ付けられることになる。どうやらストラスブールはフランスとドイツの狭間にあるせいか、厳重注意のようだ。かなりの軍人がパトロールしていた。

そうこうするうちに、私の番が回ってきたので、私は教会の中に入った。

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Dreadful Flight

   一ヶ月間西ヨーロッパを旅する、という計画が生まれた経緯は突拍子も無いようなものだった。
    わたしは学科の友人とアンリ・ベルクソンという知っている人は名前だけ知っている、知らない人は名前すら知らないという少々ニッチなフランスの哲学者の本を読む会をしている。その友人たちと話している時に、「ベルクソンはパリを拠点にしてたから、その「聖地巡礼」をしようじゃないか」という話になったのだ。これをきっかけに、メンバーでアパルトマンを借りて一週間パリに住むという計画がスタートした。だがわたしは一週間行くのなら、その少し前にヨーロッパを旅したいと思った。そういうわけで、十日間のひとり旅、五日間のフランス語学留学、そして四日間の西部フランスひとり旅+1日のホームステイ、それから一週間の「読書会合宿」という日程で動くことになった。そして今、わたしは最初のひとり旅パートの半分を過ぎ、スペインの首都マドリードにいる。

 

   今回の旅には、値段の関係と、ちょっとした好奇心から、ロシア経由で向かった。
わたしは旅するのは好きだが、飛行機は割と苦手で、途中で気分が悪くなるのが常である。10時間のフライトはまだ精神的に余裕があったが身体的な負担はあったようでモスクワに到着しても、お腹の調子が芳しくない。元気を取り戻すために早速ボルシチを食べてみたり、オレンジジュースを飲んでみたりしたが、どうも体が戻らない。ジュースは不思議なまでにうまかったが、体はけだるく、重かった。

   その流れでの四時間のパリへのフライトはなかなか辛いものがあり、機内では眠ってごまかすしかなかったが、天候が悪いのか(オーストリアにいる友人がすごい雨だったと行っていたのでおそらく天候が悪いのだろう)、ものすごく揺れる。このまま生き絶えるのではないか、などとありえないことを考えながらわたしは寝たりおきたりを繰り返して4時間をやり過ごした。
   そんなこんなでパリのシャルルドゴール空港に到着し、空港近くのホテルに泊まった。もちろん、体の調子は良くない。翌日はパリ市内にも入らず、パリを素通りして、ドイツ国境の町ストラスブールに入る予定だ。はじめは、カナダで仲良くなったフランス人のRくんとパリで会う予定だったのだが、彼のカナダへのフライトが早まり、ちょうど入れ違いになるということになって計画は頓挫してしまった。まあ今パリを見なくても、どうせ三週間後には散々見ることになるんだ、と悔いは全くなかった。それにRくんともついこの間東京であっている。

 

   七月の終わりに、Rくんは友人二人とともに東京にやってきた。「お前はいつパリに来るんだ?」と冗談めかしていう彼に、「この八月に行くよ」というと、その場にいたカナダで一緒だった日本人たちもふくめて驚いていたのを覚えている。Rくんはモントリオールで経済を学ぶらしく、今頃はモントリオールだろう。ちなみにRくんと一緒に日本にやってきた二人とは、わたしがパリに入った時に会うことにしている。

 

   到着の翌日、わたしは12時45分の列車でストラスブールへと向かった。

On my life

この前、生きることと死ぬことの話をした。発端は、ある高校生が、死んだ後に魂だけになるのが怖いと言ったことだった。

その時、友達が「死んだ後のことはわからないから、怖くない」と言っていた。死んだ後にはもしかするといいことがあるかもしれない。悪いこととは限らない。だから、死ぬことを恐れることはない、と。私はそれを聞いて、半分賛成半分反対というような感じであった。

私も昔死ぬのが怖かった。それは、あの高校生が言っていたように、死後の世界に行くという怖さと、本当に行けるのかという怖さだった。自分の意識がなくなってしまう。今は一生続くと思っているような意識が、なくなるとはどういうことなのか、そのわからなさが怖かった。だが、年をとるにつれて、あまり考えなくなった。

 

一つは物理学をやったことのおかげだった。この宇宙には、「エネルギー保存の法則」というものがある。それはいわば、エネルギーというものを平に保つ法則だ。そう考えると、自らエネルギーを生成するという生命のあり方は、この法則を大幅に逸脱したものである。そうすると、必ず人は死ななければならない。どんなに不老不死の技術を施そうとも、それを維持するには、「維持し続けねばならない」ので、際限がなくなってしまう。放っておけば、エネルギーを発散しながら、ついにはエネルギーが一定の、つまり「死」という状態にならざるをえないのである。中学の時物理学の本を読んでいて私は子供ながらにそう思った。なぜだかわからないが、諦めがついた。宇宙全体が自分を殺しにかかるなら、もう、それは受け入れざるをえない。

そういうわけで、私はもう悩まなくなった。というより、悩んでも仕方がないと思うようになった。死ぬ時は死ぬんだ。でもそれは今じゃない。それならいいではないか、と。この種の問題は、時に考えないことが一番の解決策であり得る。

 

そもそも、私たちは死後の世界を知らない。私たちには生きている世界しか見えない。それは仕方のないことだ。そして、想像も、論理も、なんらかの材料がなければ始まらない。馬も鳥も知らない人はペガサスを思いつくことすらない。だから、死後の世界をどう頑張って考えてみたところで、私たちは自分たちの世界をベースに考えるしかなく、単なる妄想でしかないのだ。それが、人の心を安心させるなら、それはそれで構わない。生まれ変わりも、死後の楽園も、あるいは地獄も、話としては面白い。でも、本当にあるかは、一生かけてもわからないだろう。いや、一生かけているうちはわからないだろう。そうしたら、もう、死んでみてからでないとわからないのだ。そして死んだら戻ってはこれなさそうだ。なら、もう考えるのはやめたほうがいい。物語の世界を広げる以外に、私たちには手段はないのだから、それで我慢するしかない。前世についても、私は少なくともそんなもの覚えていないし、もしあったとしても、今覚えていないということはきっと、来世でも私は何も覚えていないのだろう。なら、変わらないじゃないか。今を生きるしかない。

それでいいのか、という人がいるかもしれない。だが、それでいいのかという人に問いたい。それ以外にできるのか? 死後の世界について思い悩む時間があったら、人生に目を向けたほうがいいのではないか。もちろん、それは人の勝手だ。そして、思い悩むというのは、思い悩もうとして思い悩むというより、思い悩んでしまうものだ。だから、止めはしない。だけど、少なくとも思い悩むことを肯定することは、私にはできない。

まあひとまずのところ、私は死んでも何もないと思うようにしている。なぜなら、わからないからだ。わからないことに希望を持っていても、それが違った時に絶望しかない。だから私はもう何もないと思うことにした。すると、もし死後の世界があった時、地獄だろうと天国だろうと、なんとなく棚から牡丹餅的な幸福感に包まれそうだし、存在しなければ、そのまま消えてなくなるだけだからだ。そのほうがいい。それに、「来世がある」と思わないほうが、懸命に行きられる。「来世やろうは馬鹿野郎」である。死後の世界を考えても、得るものはどっとくる疲れと絶望感だけだ。

 

だから、私は生きるということが大事だと思う。なぜなら私たちは生きているからだ。生きるべきだから、でも、尊い命だからでもない。私たちは生きているからだ。生きているということに価値がある。神に与えられたのか、仏性を持って生まれてきたのかなどはわからない。私は否定しない。だがとにかく生きている。過去から現在へと、私たちは自分を試しながら生きている。各人各様のやり方で、だ。そうやって生きてきて、これからもそうやって生きてゆくしかない。だが生きてゆくしかない、というのは、生きて行けということであり、生きて行けるということだ。人生抜きに私たちは存在しえない。だから、この人生を生きてみようじゃないか。

「死を思え」と人はいう。だが、その前に、「死んでも悔いはない」という人生を作ることが大事だ。自分の死が意味を持つとすれば、人生あってのことだと思う。死とは人生の終わりだ。人生は、「こうもできる」という可能性の世界だ。だから死とは可能性の終わりだ。そう考えるなら、可能性に執着があるなら、生きていたほうが良い。それだから、人生は生きておいたほうがいいと思う。哲学には「自殺」の問題というものがあるが、私は「生きておいたほうがいいのに」という立場で、自殺には反対なのだ。まあもちろん、それは私が恵まれているのかもしれない。だから人のことはわからないが、とりあえず私は死ぬなんて思えないし、思ったこともない。生きているのだから、生きていくしかない。どんなに悪いことがあっても、自分を変える機会になるかもしれない。人生、悪い状態で終わるなら、それを打開してから終わったほうがいいじゃないか。

 

私は旅に出る前は、できるだけ悔いを残さないようにしたいと思っている。明後日私はヨーロッパに立つが、今回は異例の長さであり、最近のヨーロッパ情勢の変化もあり、前にもまして悔いを残すまいと思う。それは、死ぬかもしれないと恐れているのではない。むしろ、「生きる」ためなのだ。いつでも、悔いがないように行きたいが、そんなに気を張って生きられない。だからこの機会を利用して、後に伸ばし伸ばしにしていたことをやってしまいたいと望むのである。そうやってこそ、何か大変なことが起きて、どんなに対処しようとしても無理という状態になった時も、運命を受け入れることができる。

美空ひばりのいうように「生きることは旅すること」なのかは知らない。まだそんなに生きちゃいない。だが、私は旅の中で、生きることを感じる。それは本当の意味で生きることができるからだ。旅という短い期間の中で、自分を試すことができる。そして自分を学ぶことができる。そうする中で、生きることができるのだ。それは、旅の中だけではなく、旅の少し前でもそうなのかもしれない。「悔いを残さずに旅立つ」というのは、そういうことなのだと思っている。できるかはわからないし、まだまだ悔いが残りそうなことはたくさんある。でも、できるだけそういうものは少なくしたいものだ。

 

だから、私は死に希望を持たないし、生きることにしか興味がない。それでいいと思っている。どちらにせよ、生きているという事実には変わりない。だから、死とは何かを問う時間があったら、どう生きるかを問いたい。今をどう生きるかを考えたい。あんまり生きる生きるというと、薄っぺらいポエムみたいで嫌な感じだが、仕方がない。私たちは、生きているのだ。

語学、我が愛

改めて言うのもなんだが、私は語学が好きである。

 

正直、語学がどうして好きなのかは自分でもよくわからない。なぜなら、あんなもの好きなところで、そこまで使えるわけでもないからだ。

例えば、海外に行ったとしよう。場所は、そう、オーストリアザルツブルクにしよう(実話)。語学好きの私は、ドイツ語は地域によって挨拶がだいぶ違うことを知っている。オーストリアは南部地域。挨拶は「グーテン・ターク」ではなく、「グリュースゴット」もしくは「セルヴス」という。といっても、「セルヴス」はゴリゴリのオーストリアドイツ語で、ザルツブルクでは使うのかよくわからない。そういうわけで、ドイツ語の発音を完コピで、店の人に「グリュースゴット!」と話しかける。するとどうだろう。わーっと向こうはドイツ語を話してくる。だが、何を言っているか聞き取れるわけもなく、気まずい空気だけが流れる。

語学好きはこんなハプニングがある上に、危険でもある。例えば、私はいろいろな言語に触れて、記憶力がだいぶ衰えた。13個以上言語を習得すると気が狂うという謎の都市伝説があるが、あれは嘘だろう。そもそも、上限の「13」というのが意味深すぎる。だが、間違いなく、記憶力は落ちる。高校時代、人より早く大学に受かってしまった私は、一月からの三ヶ月間暇をもてあそんでいた。その中で、いろいろな言語に触れてみた。もちろん、真面目に勉強したのではない。「新書のように読める文法書」をコンセプトにしている白水社の『言葉のしくみ』を1冊ずつ読んだのだ。ドイツ語、ロシア語、スペイン語ラテン語、古典ギリシア語、中国語、ヴェトナム語、朝鮮語トルコ語フィンランド語、ポルトガル語オランダ語デンマーク語、チェコ語スワヒリ語……。何が残ったかというと、記憶力障害だけといっても過言ではない。

 

いい面もなくはない。エスニック料理屋で使ってみると喜ばれることもある。トルコ料理屋で、「テシェッキュル・エデリム(ありがとう)」といって店を出ると、いつも笑顔で「テシェッキュル・エデリム」と返してくれる。そして、もっと実践的なことを言うとたいていの文法は、すっと理解できるようになったのだ。たとえば、「古典ギリシア語」や「アラビア語」には「双数」という概念がある。これは、日本語で言えば「〜2つ」に当たるもので、単数と複数の間だ。これがある(正確には、現代まで残っている)言語は少ないので一瞬ビビるが、いろいろな言語を見てしまうと、「ああ、双数ね」という心の余裕が生まれる。だが、それは理由にはならないだろう。だって、語学をやるのに便利だ、というのは、語学が好きな理由ではない。転倒してしまっている。

じゃあ、語学をなぜやるのか。それは多分、使うためだけではない。使えたらいいと思う。だが、もし習得しきれなくても、それはそれでいいのだ。その時は英語でもなんでも使えばいい。それでも、私は語学をやめない。語学には、文化がにじみ出ている。それを味わうのが、語学の醍醐味だ。その入り口は、文法だと思う。

 

昔から文法が好きだったわけではない。むしろ、文法なんて滅びればいいと思っていた。使えればいいではないか、と。たぶん、日本語と英語しか知らなければ、その考え方は変わらなかっただろうし、英語をメインでやっている人がそう思うのも無理はないと思う。だが、三つ以上やってみると、文法の面白さに気づく。それは、文法に、その地域の色がにじみ出ていることだ。

例えば、私がこっそり「助詞会(じょしかい)」と呼ぶ言語のグループがある。それは、日本語、朝鮮語モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語などだ。いわゆる「膠着語(こうちゃくご)」。つまり、「助詞」を使う言語であり、特徴として、言葉に文法的な要素を付け加えることで文を作る(「食べる」という動詞は、語幹が「食べ」。そこに、「る」「ない」「よう」「た」などの要素を足すことで意味をもった語になる。英語の過去形で「ed」を足すのと同じか、と思ったら大間違い。日本語は何個も要素を足すことができるが、英語は無理だ。「食べ-たく-ない-だろう」は、三つ繋がっている)。それは、基本的には、ユーラシア大陸をぐーっと横断して存在している。語族は違えど、似た文法を持ちながら。そんな「助詞会」の隠れた特徴は、中央アジアチベット、モンゴル、満州遊牧民由来の言語が多いということだ。モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語は、どれもアジアの遊牧民にその由来がある(ビルマ語も「助詞会」で、ビルマ族はもともとチベットの民族だったらしい)。朝鮮語も地域的に言えばかなり近い位置にいる。日本語はどこから来たのか不明だが、地域的にはかなり近い。ただし、遊牧民だけではないというのは注意しなければならない。例えば限りなく世界最古の言語といえそうなシュメール語も「助詞会」メンバーらしいが、彼らは明らかに遊牧民ではなく、農耕民である(それも、世界最古の)。そして、インド映画「ムトゥ〜踊るマハラジャ〜」で一躍有名になったインド南部の「タミル語」も「助詞会」メンバーだが、こちらは正直よくわかっていない。だが、どれも、現代影響力のあるヨーロッパ系の「印欧語族(英仏独露伊西葡希・ペルシア・ヒンディー……と挙げればきりがない)」や中東系の「セム語族アラビア語ヘブライ語)」、東アジアの「シナチベット語族シナ語派(中国語)」や「タイカダイ語族(タイ語ラオ語)」などは膠着語ではなく、膠着語はそれら大語族の中でひっそりと暮らしているのである(中央アジア膠着語勢力が強い)。そう思うと、少しロマンがある。このユーラシア大陸の向こうにも、「助詞会」があるのだ。いつか、そんな国に行ってみたい。いつかは、「助詞会」縛りの旅でもしてみたい……。

 

さて、マニアックな話が過ぎたかもしれない。

言いたかったのは、言語だけでいかに文化と風俗をまとっているか、と言うことだ。言語には民族の歴史がある。そしてその言葉の響きはその土地の音を形作る。面白いことだが、どんなに語族が違っても、場所が近い言語は音が似ていることが多い。例えば、ペルシア語とトルコ語は語族が違うが、ちょっとくぐもった音は似ている。その土地にあった音というのがあるのかもしれない。

とにかく、言語には人々の文化が詰まっている。言語をやることは、文化に触れることだ。他の言語の音を出せるようになることは、そこにいる人々の声を内側から感じることだ。そして文字が読めるようになることは、その言語の話者の目を手に入れることだ。

言語は窓のようなもので、たくさんの言語をやればたくさんの窓が手に入ると言った人がある。確か私の高校時代の先生だ。だが、私は色々やった今、ちょっと違う感想を持っている。言語はそれ以上だ。そして実はそれ以下だ。外国語をやっても私たちはそこまで変わらないし、むしろ傲慢になることもある。だが、語学をやると自由になることもある。母語の言葉の枠から、そして、言葉という枠からさえも。