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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

8都市目:マドリード(2)〜アセ・カロル/はじめのバル〜

グランビアは相変わらず殺人的だった。焼き尽くす日差しは、上からも下からも襲ってきて、恐ろしいほどである。演劇の照明装置がぶっ壊れたのだろうかというくらい辺りは真っ白に明るく、それがまた強烈だ。帽子とサングラスでギリギリ健康を保っているという感じである。

ぐぐーっとゆるい坂道を降りると最初は小さなロータリー、そのあとは大きなロータリーが現れた。これが例のシベレス広場だ。辺りには公園があるが人っ子一人いない。というか、街中に人っ子一人いない。要するに、みんな死にたくないということだ。シベレス広場の周りには幾つかの官庁風の建物と公園がある。一番目だ立つ建物には、横断幕が掲げられ、「Refugees Welcome(難民の皆さん、ようこそ)」と書いてあった。この難民の時代に、スペインはリベラルな姿勢をとっているようだ。確かバルセロナの住民が難民を受け入れようというデモをしたという話を聞いた。しかし不安に思うのは、このスペインという国にその経済的余裕があるのか、ということだ。非常に難しい問題である。

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しかし、それよりもとにかく暑い。わたしはロータリーを回って、その役所風の建物の横に伸びる道に入った。そこにはグランビアとは比べ物にならないほど大きな並木が植えられ、涼しげだった。この辺りはさしずめ、公的機関と博物館が並ぶ地区なのだろう。日本で言えば、丸の内と上野を足して二で割ったような感じだ。グランビアは銀座といったところだが、あんなところで「ビアブラ」しようものなら、数人は熱死する。

実はこの並木道が長かった。なかなかプラド美術館にはつかない。ここかなと思うと、まったくちがうなにかが現われ出てくるのである。まあこれはこれでいいなと思いつつまっすぐ歩くと、ズラーッと人だかりが見えた。「I have a bad feeling about this(嫌な予感がするぜ)」

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今写真だけ見ると、涼しそうに見える。しかし、空気自体が熱気を含んでいるので暑いものは暑い。

そう、それこそがプラド美術館だった。日本の金曜午後の美術館のイメージで行ったら大間違いで、建物を取り囲むように強烈な長さの列ができている。一瞬並ぼうかと思ったが、ここで水も買わずに並び続けたら、間違いなく熱中症で死ぬ、と思った。プラド美術館は、ひとまず断念しよう。わたしは先ほどのとは逆側の道に移り、グランビアの方に引き返した。当てはなかった。とりあえず水は必要なので、おばちゃんのいる売店へ行き、

「¡Hola! una agua, por favor.(こんにちは、水を一本ください)」と注文した。

「Un euro(1ユーロよ)」とおばさんは言った。フランスの物価と比べると驚くほど安い。

 

建物のおかげで日陰になっている道を歩けば、先ほどまでの魚焼きグリル感は薄れてくる。風も、気持ちよくはないが、少なくとも風ではある。

ずっとこの熱気の中にいるわけにはいかないので、どこかカフェのようなものを探そうとグランビアを歩いたが、見当たらなかった。あったのは、寿司屋やら服屋やらばかりである。ビアグランでシースーと行くつもりはない。6時になって、人も少しずつ出てくるようになった。仕事終わりにいっぱいというわけだろう。さて、どうしたものか。わたしもバルで一杯飲もうか。

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うろうろしていると、グランビアの終点までやってきてしまった。歩いて思ったのは、やはりマドリードは大都会ということである。でかくて、賑やかで……でかい(二回目)。映画館も、スタバも、もちろんある。できれば昔ながらのバルなんてものに行ってみたかったが、正直なところよくわからない。さてさて、これからどうしようか。映画でも見るか。いや、それはやめておこう。

というわけで、わたしは「マドリードのヘソ」と呼ばれる「プエルタ・デル・ソル」を目指してみることにした。何があるのか情報は全くないが、行ってみる価値はあるだろう。さらにその界隈にはきっと飲み食いできる場所もあるはずだと踏んだ。

 

プエルタ・デル・ソルとは、「太陽の扉」という意味である。由来は知らないが、マドリードを作ったフェリペ二世の頃のスペインは、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたのと関係あるのだろうか。スペインは、日本以上に太陽を重んじる国だ。あんなに激しく降り注ぐ太陽を、スペイン人は恵みとして考えられるのであろうか。もしそうなら、凄い心の広さである。

グランビアを引き返して、南の方に伸びる路地を進む。そこは急な坂道なっていた。バルセロナは山やグエル公園のある界隈以外は比較的平らなので、山にもグエル公園にも行っていないわたしは、久しぶりに坂道を下りるような気がした。白っぽい建物が立ち並ぶ路地の空は現代アートで飾られていて、しゃれた雰囲気になっている。そこに入る店は、バルが多く、多すぎて逆にどこが良いのかわからなくなっている。さらに坂を下れば、プエルタ・デル・ソルだ。

そこは広場になっていて、ど真ん中には騎馬像が立っている。近寄って見ると、「カルロス3世」と書かれていた。

スペインの歴史の中には二人のカルロス3世がいる。一人目は、スペイン王家の地位を手中に収めんとするフランスのブルボン家と元々王位についてきたハプスブルク家との間に勃発した「スペイン継承戦争」の時のハプスブルク家当主だ。しかし、現在のスペイン王室はこの戦いに勝利したブルボン家スペイン語ではボルボン家)なので、ハプスブルク家の反乱軍トップの騎馬像を置くはずがない。だからこのフェリペ3世はもう一人の、フェリペ3世だ。こちらのフェリペは、ボルボン家の国王で、フランス革命が起こる直前までスペインの王位についていた人だ。彼は、マリア・テレジア、エカチェリーナ二世、フリードリヒ二世ルイ16世などの例に漏れず、「啓蒙的専制君主」として知られる。良い人材を登用し、国家の再建に勤め、宗教勢力を牽制し(イエズス会を追放した)、首都を美しい街に仕上げた。これは調べて見てわかったのだが、プラド美術館に行くために通ったシベレス広場やプラド美術館の前の通りはフェリペ3世の業績の一つだそうである。だから、マドリードの中心に騎馬像が建てられているわけである。

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プエルタ・デル・ソルを取り囲むように、バルやテラス付きの店がある。まだ6時半くらいで、夕食時ではないが、どこも賑わっている。ヨーロッパのラテン系の習慣だという「アペロ(食事の前に軽く一杯飲む)」だろうか。いいなと思いつつ、なんとなく入りづらく、やり過ごしてしまった。わたしは最初に入ったのとは別の路地へ行った。するとちょうど良さそうなバルがあったのでは行ってみた。

バルといっても、どちらかというとカフェみたいな感じだ。わたしは中に入って行って、メニューをもらい、ビールを一杯頼んだ。出てきたビールは南米のビールだったが、スカッと爽やかでこういう暑さにやられる日にはちょうど良かった。

あの日の当たる道を歩いていると、店内は恐ろしく暗いように思えた。地元の人たちが飲んでいて、壁にはサッカーだか何かの旗が掲げられている。スポーツバーというやつだろうか。店員のお兄さんはすごく忙しそうに、スタスタと歩く。御通しとして出てきたオリーヴは塩辛かったが、ビールによくあった。やはりスペインは飲み文化だ。

 しばらくその店でくつろいだ後、わたしは外に出ることにした。店員さんは忙しそうにしながら給仕していてくれたので、チップを払い、Gracias(ありがとう)と店を出た。

 

夕ご飯は、マドリードの勝手もわからないし、暑くて疲れていたので、オスタルプラダのおじさんに聞くことにした。坂を登り、グランビアに着いた時、日は傾き始めていた。グランビアを渡って、オルタレサ通りに戻り、プラダに戻った。

「ひとつマドリードについて質問があります」とおじさんにいうと、おじさんはなんなりとというようなポーズをとった。

「¿Donde esta una buena taverna?(美味しいレストランはどこにありますか?)」と尋ねると、どんな食べ物かと聞いてきた。中華か、和食か、タパスか、と。

マドリードにいるんだから和食はいらないです。タパスが食べたいな」と答えると、おじさんは少し悩んだ顔をして、しばらくすると、よし、それじゃあと地図を開いて、

「このホテルのそばに2軒あります。一つ目は、classicoな店で、バスク料理で、こっち側、もう一つは、modernoで、こっち側」と言いながら、地図に印を書いた。

「ありがとう」わたしはその後、そろそろ洗濯物がたまっていたのでコインランドリーの場所を聞き、再びマドリードの街に繰り出した。目的地はモダンの方。なぜならこのあとバスク地方に行くつもりなので、バスク料理をマドリードで食べる必要がないからだ。今度はバルセロナと違って、やばい場所でないといいなと願いながら。

 

モダンな店だと言われた場所は、治安が悪いと言われているチュエカ地区にある。しかし、行ってみる、とそうでもなさそうである。お目当の店はあまり人気のない坂道を下りたところにある。何軒か店があったが、紹介されたのだろう店は明らかに閉まっていた。残念。ハムの店と書かれていて、スペインといえば生ハムだから期待が持てたが、仕方あるまい。大丈夫、もう一軒あてがある。

もう1軒目のクラシコの方は、オルタレサ通りに並行して走っているフエンカラル通りにある。この道はショッピング街のようで、ブランド品を売る店がたくさんあって、若者たち、観光客たちで賑わっている。道の途中には観光局のバイトと思しき学生がいて、なにやら集計を取っている。わたしの特技「溶け込む」が効果を発揮したようで、誰にも声をかけられることはなかった。

フエンカラル通りの中間くらいに、紹介されたOrioという店はあった。とはいっても、見た目は明らかにクラシコではなく、モデルノである。店構えからして新宿NEWoMANにありそうな雰囲気だ。そしてかなりの人気店のようで、人でごった返していた。一瞬その雰囲気に臆病になったわたしはあたりをうろちょろしてみたが、やはりOrioしか店はない。ぜひに及ばず。食はOrioにあり、である。

「すみませーん、こんにちは」とわたしは勝手も分からないのでバルカウンターにいるマット・デイモンに似ているお兄さんに声をかけた。

「こんにちは。どうぞ」とマット。英語が流暢である。

「どうやって注文したらいいですか?」と尋ねると、マットもなんとなく雰囲気を察したようで、

「ああ、バルは初めて?」と聞いてきた。

「はじめてです」と答えると、マットは飲み物を聞いてきたので、とりあえずビール、とわたしは日本人のアイデンティティを前面に押し出す回答をぶつけた。

「自由にとっていいんですよ」とマットは言う。バルカウンターには色とりどりの食材が並んだ皿がたくさん並んでいた。これはバスク地方の良い予行演習になる。案外良かったかもしれない。

「いくら?」と聞いてみると、全部2ユーロだという。とすると、五つ食べたとして10ユーロ、ビール合わせて12ユーロだから、1500円くらい。悪くない。

すると後ろに店員の髪の毛がくるくるにカールしたラテン系の女性がやってきた。マットは女性に、わたしに料理を見せてやってくれというようなことを言っていた。女性は頷き、わたしを誘導した。

「これは生ハム、これはオムレツ、それでこれはサーモンよ、それからこれは……うーんと、芋。で、こっちはデザートみたいなやつよ。これは……そうね……魚ね」と彼女の超雑な説明が始まる。まあ、仕方ない。わたしたち日本人だって、例えばカンパチのお刺身を外国人に説明できるか、という話だ。間違いなく、「魚の一種です」というしかない。そういうことなので、そのあとの説明は大抵「魚」「ポテト」「魚」「魚」であった。

わたしはまず、生ハムを食うことにした。クロワッサンに生ハムが無造作に挟まれ、爪楊枝で押さえてある。ワイルドでいいじゃないか。爪楊枝を外し、一口かじると、生ハムの香りが口いっぱいに広がった。スペインの生ハム。本場の生ハムは、日本の生ハムとは全くの別物である。薄く、香り高い。バターの甘みがするクロワッサンとよく調和している。そして、やっぱり、ビールに合うわけだ。それから、「魚」を食べた。青魚がスライスされたバゲットの上に乗っていて、その青魚の上にドライトマトが添えられている。そしてそれをやっぱり爪楊枝で押さえてある。わたしは実は青魚ファンであるから、これは期待ができる。食べてみると、期待以上だった。程よい魚の魚らしい香り、そしてドライトマトの旨味が溶け合って、すごくおいしい。その後もう一枚とってしまうくらい、うまかった。わたしにとって、一番うまいバル食(ピンチョ)といっても過言ではない。次に食ったスパニッシュオムレツ(ジャガイモと玉ねぎを使ったオムレツ)が乗ったパンも、サーモンも、マットが持ってきたまん丸の生ハムコロッケも、どれも最高だった。面白いのは、コロッケ以外はどれもパンの上に乗っていることだ。いわばこれは、回転ずしのようなものなのだろう。

結局ビールももう一杯飲み、本当に合計5皿食ってしまったが、13ユーロである。お会計は爪楊枝の数できまる。だから本当に回転ずしだ。意図してか意図してないのかは分からないが、マットが最初のビールを片付けたので、本当は16ユーロのはずだ。

「バルは初めてなんだ」と、会計を担当したもう一人の黒髪にメガネの女性従業員に話しかけた。うまく伝わらず、この店が初めてみたいな雰囲気になったが、まあ仕方ない。

マドリードにはどれくらいいるの?」とその女性は尋ねた。

「今日着いて、明後日でるよ」と伝えると、女性はしばらく考えて、

「わかったわ」と答えた。またも、わたしは住んでいる人と思われてしまったようであった。

13ユーロで夕食となると、フランスの平均25ユーロ以上とは比べ物にならないくらいの安さである。もう一軒くらいいけそうだとも思った。なんならグランビアを渡って、またプエルタ・デル・ソルに行くもよし、さらに奥のマヨル広場に行くもよし。といっても、わたしはまだマドリードという街を信頼しきっていなかった。というのも父の知り合いがマドリードの路地裏で強盗にあった話をなんども聞かされたからだ。もちろん、それは少し前のことで、現在マドリードでの犯罪率はかなり低下している。犯罪に巻き込まれるにしても、すりなどの肉体的な損失のないものが多いらしい。だから安心しても良いのだが、念には念をである。なかなか行動に出れず、結局戻ることにした。と言ってもそのまま戻るのはつまらないので、フエンカラル通りをちょっと散歩してからオスタルのあるオルタレサ通りにあるカフェでコーヒーを一杯飲むことにした。

 

「Un cafe, por favor(エスプレッソコーヒーをください)」と頼み、わたしはマドリードの夜を見ていた。さきほど、Orioから出てフエンカラル通りをちょっと散歩した時も思ったのだがマドリードとは不思議な街で、夜になると一気に治安が良くなる。というのも老若男女が昼とは打って変わって街に繰り出し、日本人のように泥酔することもなく、楽しげに散歩しているのだ。まるで昼のようだった。むしろ昼のほうが閑散としていて、治安の悪さも感じなくもない。

コーヒーを飲み終わって、少しくつろいでから、わたしはスーパーで水を買って、オスタルに戻った。プラダのおじさんはおらず、顔の濃いお兄さんがいた。後でそう思ったのだが、多分お兄さんとおじさんはカップルなんじゃないだろうか。

「Trenta siete, por favor(307番でお願いします)」と頼むと、お兄さんは少し驚いたように、鍵をくれた。

「Buenos noches(おやすみ)」といって、部屋に戻ろうとしたら鍵が開かない。よく見たら303号室の鍵である。

「Perdon(すみません)」とお兄さんにいうと、「307号室だろ?」というようなことを言ってきたので、わたしは鍵を見せながら「Si, trenta siete, pero...(ええ、307号室です。でも……)」と答えた。お兄さんはハッとした表情になって、そのあと笑いながら、ごめんよと言いながら307号室の鍵をくれた。

部屋に入って、バスタブにつかってみたが、やはり狭い。テレビでは相変わらず南米の暴動をやっていた。随分と難局を迎えているようだった。さてと、明日はどうするか。プラドに再び行くか。ブログでも描くか。マヨル広場に行ってみるか。正直今考えるのは面倒だ。スペインのことわざにはこんなものがある。

Hasta mañana(また明日)

8都市目:マドリード(1)〜イベリアのヘソのでっけえ通り〜

ついに、バルセロナを離れる。列車に乗り込んでみると、AVEという列車がなんとも先端的な列車であるということがひしひしと感じられてくる。2人掛の椅子がずらっと並び、天井からは幾つかモニターが置かれている。今までの列車にはこのようなモニターはなかった。しかも今回とったのは2等席なのである。しかもしかも、ヨーロッパの鉄道にしてはものすごく綺麗なのである。

後で知ったのだが、AVEは飛行機のような旅をというコンセプトで出来上がっているという。だからこそ、モニターが取り付けられ、そこでは映画を放映している。一昔前の飛行機のように、一本の映画をモニターで映し出し、見たい人がイアフォンを差し込む。ちなみにわたしが乗った時の映画はトム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」である。みようかとも思ったが、カタルーニャからカスティーリャへと移動する景色の変化を見たかったのでやめた。

 

マドリードイベリア半島のど真ん中にある。そんな地の利の良いマドリードが歴史の表舞台に颯爽と登場するのは、16世紀になってからだ。

マドリードを含む広大な領域を支配していたカスティーリャ王国は首都をマドリード近郊のトレド、イベリアの東半分と西地中海を支配したアラゴン連合王国は首都をバルセロナマドリードの中間にあるサラゴサに置いていた。その後、1400年代にカスティーリャのイサベラ王女とアラゴンのフェラン王子が結婚し、両国がスペイン王国として合同を果たすと、固定された首都というものを持たなかった。特に、オーストリアハプスブルク家出身のカルロス1世の時代には、カルロスは各地を移動しながら各地の代理人とともに政治をするという体制をとっていた。その頃のマドリードはまだ地方の小都市である。

それが変わるのが、カルロスの次に王位についたフェリペ二世の時代である。フェリペはカルロスからスペイン、ネーデルラント(オランダ、ベルギー)、中南米、フィリピンのみを受け継ぎ(のみといっても世界の半分である)、オーストリアに行く必要がなくなった。フェリペは王国をより合理的な統治することを考え始めた。そのために、フェリペは当時は小さな宮殿が立つ町だったマドリードを巨大な首都に変えた。理由は、イベリアのど真ん中だからである。地の利が良い。フェリペ二世はこの土地からほぼ移動することなく、命令を下し、広大な帝国を収めようとした。この時代はネーデルラントの独立、イングランドとの接近と敵対など激動の時代だが、中南米からもたらされる莫大な資産をスペインが手にした黄金期でもある。それを可能にしたのが、イベリアの中心に築かれたマドリードへの一極集中であり、それがそのまま絶対王政を産んだ。

スペインの歴史はその後、いわゆる「スペイン継承戦争」によるハプスブルクからブルボンへの王朝交代、フランス革命への干渉とナポレオン軍による侵略とブルボン王朝復活、女王追放、第一共和制、王政復古、クーデタ、第二共和制、左右対立からスペイン内戦、フランコ独裁政権王政復古民主化を経ていまに至る。その間中、マドリードは首都であった(ナポレオンに支配されていた時は南のガディス)。ナチスドイツとファシスタイタリアの支援を受けるフランコ率いる反乱軍が各地で勝利を収めた時も、スペイン共和国政府はマドリードを背に「¡No passaran!(奴らを通すな!)」のモットーのもと戦った。今ではマドリードは、各自治州に権限を委譲した自治州国家の中心部として機能している。

 

列車はバルセロナからアラゴン王国の古都サラゴサを経由して、マドリードへと入る。実はサラゴサは泊まるべきか迷っていた町だった。アルカサルというイスラーム式の宮殿もあるし、かつての都というのも興味があった。だが、やはりマドリードに行かずしてスペインに行ったとは言えまい。

風景は徐々に荒涼としてくる。バルセロナが背にしている緑の山、モンセラットなどの山を越えればもう荒れ地である。サラゴサ周辺はまだ緑が多いが、マドリードに近づけば近づくほど、地面は乾いた砂とゴロゴロした石や岩で覆われる。草というと、藁のようなものが所々にあるだけだ。これが、スペインの大地。かつてギリシア人はイベリアのど真ん中には来なかったというが、その理由もわかる。むしろここを手にしようとしたローマ人が異常なぐらいである。逆にモロッコなどの砂漠の土地から来たイスラーム勢力がここを支配するのは容易かったかもしれない。

電車の中は、映画のおかげか静かそのものである。モニターでは時折飛行機がハドソン川に難着陸をするシーンが描かれている。そういえば、母がこの映画を見たがっていた。名作だという。「ブリッジ・オヴ・スパイ」「インフェルノ」「ハドソン川の奇跡」とトム・ハンクスが異常に忙しかったときの作品だったはずだ。

すると目の前にいる小さな女の子が、椅子越しにこちらを見てきた。にっこりと微笑むと、きゃっきゃ言いながら椅子の向こう側に隠れる。今度は上からこっちを見てくるので、目を合わせたら、また隠れた。今度は窓際から来たので、また目を合わせるとまた隠れた。言葉は交わさなかったし、隣にいたのも彼女のお姉ちゃんのようでこちらに話しかけてくることはなかった。それでも、小さな交流がちょっと嬉しかった。列車の中の交流、などといっても、今の世の中そんなにあるはずもない。みんな携帯電話を眺め、音楽を聴く。わたしも音楽を聴いていた。すると途端に会話などしなくなる。暇じゃないからだ。わたしも暇がちょっと怖くて、音楽を聴いて風景に浸っている。でも、やはり暇な方が見えるものは大きいだろう。そんな暇な時間を感じるのが旅の醍醐味でもあるのに、できているのだろうかと不満に思うことがあった。

 

バルセロナサラゴサ経由マドリード行のAVEがマドリードの中央駅であるアトーチャレンフェに着いたのはもう4時すぎだったが、日はもちろん高かった。ヨーロッパの夕暮れは21:00すぎである。まだまだ昼だ。前、酒飲みの友人が「9時? まだ昼じゃん」と言っていたという逸話を聞いたことがあるが、夏のヨーロッパに関して言うならば、マジで「9時はまだギリギリ昼」である。

黒いバックパックを背中に背負い、わたしはアトーチャ駅の地下へと向かった。今度はマドリードの地下鉄に挑戦だ。

マドリードの地下鉄はバルセロナ以上にむわっとしていて、非常に暑かった。値段はバルセロナのメトロよりも良心的な1.50ユーロ。しかし、チケットを買うときに行き先を指定する形式なので、(当たり前といえば当たり前だが)行きたい場所にしか行けない。旅人にとってはディスアドヴァンティジでもある。さらに、見た目ががらんとしているところに蛍光灯があって、落書きだらけの壁を照らしているので、治安が悪そうな雰囲気を湛えている。「いやあ、都会に来ちまったなあ」とわたしは少々警戒しながら、予約したホテルのある「グランビア」駅行のチケットを買った。

スリなどいないだろうかと警戒していたが、何せ人混みがなかったので、案外平気であった。ちょうどシエスタの時間が終わり、仕事が始まる時間、人もそんなにいないし、シエスタ時間ほど治安は悪化しないようだ。そう、実はシエスタの時間帯である14:00〜16:00は街の治安が悪化することで有名である。それは、シエスタ(昼寝、昼休み)中に街中からは人がいなくなり、高価なものを身につけた観光客だけが街を歩くようになるからだ。いわば、夜中のようなものである。実を言うと、バルセロナで15:00くらいに船に乗ったのも、そして14:00の列車でマドリードに行くという行程でもいいやと思ったのも、その理由あってのことである。シエスタ時間に街を歩くのは少し避けたいとの思いがあったのだ。単純に、強烈に暑いからという理由もなくはないが。

マドリードバルセロナの地下鉄の違いは、値段と治安の悪そうな雰囲気とバルセロナ以上の熱気だけではない。当たり前のことだが、アナウンスが違う。つまり、カタルーニャ語は消え、カスティーリャ語(=スペイン語)だけになるのだ。とそうこうするうちに、

「Proxima estacion, Gran Via(次は〜グランビア)」というアナウンスが入り、わたしは地下鉄を降りた。

バルセロナのランブラスときて、マドリードのグランビアとくれば、もう、目抜通りである。テロが起こるかもしれないからそういう場所は避けようと思っていたが、やはり交通の便にはかなわない。それに、テロやスリはともかく、目抜通りはなかなか凶悪犯罪を働きづらい場所でもある。

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と、ランブラスのイメージで地上に上ると、それは大きな間違いだった。グランビアは、本来の意味で「でっけえ(グラン)」「道(ビア)」だった。その全てを焼き尽くさんばかりの強烈な日差しを防ぐものは日陰側に立っている建物以外には存在しない。日向は焼き尽くされるがままで、申し訳程度に植えられた並木は並木としての用をなしていない。さらに、マドリードの街は暑さ対策のためだろうが、真っ白に塗られており、それが熱波を反射して、道行く人に浴びせかける。歩道はツルツルに磨き上げられた石のタイルなもんだから、その熱波はさらに下からも私たちを襲う。タイに行った時、「蒸し鶏はこういう気分なのだな」と思ったが、マドリードでは「焼き魚はこういう気分なのだな」と思った。とにかく、上から、下から、横から、日差しが猛威をふるってくるわけである。

ホテルはグランビアから一本横に入ったオルタレサ通りにあった。厳密に言えば、わたしが予約したのはホテル(オテル)ではない。わたしが予約したのはオスタルというスペイン独特の民宿である。アパートの中の一室がオスタルに改装され、その人部屋を使うというシステムになっている。だから、最初は驚いたのだが、同じ建物にたくさんのオスタルがあるという状況は普通のことである。だから看板を見てもよくわからず、インターフォンのボタンのところにオスタルの名前が書かれている。

オルタレサ通りはかつて治安が悪いと呼ばれたチュエカ地区(中国街という意味らしいが、中国感は皆無)にあるが、オスタル街でもあって、たくさんのオスタルが軒を連ねていた。わたしが予約したのはオスタルプラダというものだったが、見つけるのに少し手間取った。やっとこさ、インターフォンのところにオスタルプラダを見つけたので、わたしはそのアパートに入り、小さくてレトロなエレベータに乗って四階のオスタルプラダへと向かった。

踊り場に出ると、二つドアがあり、片方がオスタルプラダ、もう片方が別のオスタルになっている。面白いシステムだなあと思いつつ、わたしはプラダインターフォンを押した。すると、ラホイスペイン首相に少しだけ似た、細身で白い髭を蓄えた、Tシャツのおじさんが出てきた。

「¡Hola!(こんにちは)予約しているものです」と言うと、

「Ah, buenas tardes(こんにちは)こちらへどうぞ」とわたしを中に入れた。入ってみるとやはり家だ。そのあと手続きを済ませ、わたしのパスポートを受け取り、書類を書く、というような仕草をすると、おじさんはわたしに鍵を渡し、部屋へ誘導した。このおじさん、そこまで英語ができるわけではないようで、その点なぜだか好感が湧く。

「タバコですね」とおじさんは部屋を開けていった。確かに少しくさかった。といっても、正直トゥールーズのタバコ臭い部屋に止まったくらいなので、大して気にはならない。しかしおじさんは気にしているようで、窓を開けた。

「僕はタバコは吸いません」とわたしが言うと、おじさんは満足そうにうなずいていた。

プラダのおじさんが案内してくれた部屋は随分と綺麗な部屋だった。これが、二日で60ユーロほどなのだから、とんでもないことである。テレビも、バスタブも付いている。とはいっても、バスタブは大きさが狭く、さらに浅いので、体を温めるのには使えなさそうだ。

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プラダのおじさんがパスポートを返してくれるまでの間、わたしはテレビをつけ、ネットやらガイドブックやらでこのあとどうするかの情報収集をした。情報収集するのは好きではないが、まあ、仕方ない。マドリードという場所の勝手がわからないのだ。見ていると、世界規模を誇るプラド美術館が18:00から無料展示らしい。ならば、行ってみよう。今回の旅でまだ博物館にも美術館にも行っていないではないか。

とまあそんなこんなでわたしは蒸し暑い部屋で待っていたわけだが、おじさんは戻ってこない。まあ、これがスペインというわけである。わたしは仕方ないので、とりあえず顔を洗い、テレビを眺めた。南米のどこかでコンフリクトがあったのか、街が炎に包まれ、人々が逃げ惑っていた。やはり同じスペイン語圏として、こういうニュースはきちんと報道するんだなあと思った。

それでもおじさんが来なかったため、わたしはフロントへ向かった。おじさんがいないので、事務室的なところに行くとおじさんがいた。おじさんは謝りながら書類を仕上げ、パスポートを返してくれた。

「二泊?」とおじさんは言う。

「ええ、二泊です」とわたしは行った。

「じゃあ、お金は明日か明後日でいいですよ」とおじさんは言った。わたしは、ありがとう、といい、

「¿Hay una mapa de Madrid?(マドリードの地図はありますか?)」と尋ねた。いまこそ、この度のためにラジオで勉強したスペイン語を使う時だ。

「Si(ええ)」とプラダのおじさんは言うと、地図を取り出した。それから、「Aqui, Prda. Y aqui, Grand via, y aqui, Puelta del sol(ここがオスタルプラダで、こちらがグランビアです。それからこちらがプエルタデルソルです)」と地図の見方を説明してくれた。

「De aquerdo. Ah...quiero ir a Prado(わかりました、えーっと、プラド美術館に行きたいです)」と言うと、おじさんは青ペンでプラド美術館のところをくるくるとマークした。それから、身振り手振りを交えて行き方を教えてくれた。

曰く、まずオルタレサ通りを抜けて、グランビアに出る。グランビアをまっすぐ向かって左に歩くと坂道があって、最後にロータリーが出てくる。シベレス広場というらしい。そこをくるっと回って90度行ったところの道をまっすぐ歩き続ければプラド美術館があるそうだ。

「De aquerdo. Gracias.(わかりました。ありがとうございます)」と言うと、わたしは鍵を置いて、外に出た。帰ってくる時はインターフォンを鳴らしてね、とのことだった。

7都市目:バルセロナ(7)〜アデウ、バルセロナ〜

目を覚ますと、ちょうどよく狭い、白と黒の部屋にいた。わたしはベッドから出らと顔を洗い、それから荷造りをした。名残惜しいが仕方ない。今回の旅では最大級に名残惜しい。

重たいリュックを背負ってフロントに戻った。フロントには誰もいない。しばらく待っていたら奥の食堂からおばさんが出てきた。チェックインの時のおばさんだ。

「チェックアウトです」と告げると、もうお金は払ってあったので、おばさんはにこやかに鍵だけ受け取って、

「良い1日を!」と言った。

「Moltes gracies, adeu!(ありがとうございます、さようなら)」とカタルーニャ語で挨拶をして、わたしはホテルを出た。

すぐに駅へ行ってしまうのも寂しいので、ランブラス通りをうろちょろしていると、市場があった。こりゃ気づかなかった。しかし市場は朝が本番なのでちょうど良い。わたしはリュックを背負った重装備ながら、市場へと入って行ったこと。サンジュゼップ市場(ラ・ボケリアとも)というらしい。

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スペイン人は朝が遅いようで、朝が正念場の市場もまだまだというところだった。あれは確か8:00くらいだったはずだ。それでもやはり野菜や魚介の生々しい香りが漂う市場の空気感は健在で、心躍らせた。日本ではあまり嗅ぐことがない香りだ。築地であってもまだまだ生ぬるい。アジアやヨーロッパの市場はグイグイとくる。あの臭さこそ、生活の証である。

何組か観光客も来ていた。昼になるともっとたくさんいるのだろう。朝食でも食おうかと思ったが、どうにも見当たらない。とはいえ何もせずに市場を去るのはもったいない。わたしは果物屋のジュースを飲むことにして、どこがいいか品定めをして、客が何人かいたところで買うことにした。(ここはカタルーニャなのだから)スペイン語を使うべきか悩んでいたので英語でキウイジュースを買った。氷も何もなく、ひたすらにリアルなキウイ果汁が詰まっていた。これこそ市場の味。飾らないところがいい。フレッシュジュースの鑑という感じだった。しかし、今思うと、どうしてあんなバレンシアのそばまで来ておきながら「Zumo de naranja(オレンジジュース)」にしなかったのか。非常にもったいないことではあるが、こんなもんである。出川哲朗曰く、「これがリアルだから」と。

ランブラス通りへ戻り、通りにあるベンチでジュースを飲んだ。もう、バルセロナを離れるのか。いや、まだわからんぞ、理性なんて吹き飛ばし、直観の赴くままにバルセロナにもう一泊してやろうということになるかもしれぬ。そう思いながらも、心のどこかでバルセロナに、ランブラス通りに別れを告げて、わたしはリセウ駅からサンツ駅へと行った。これでこの地下鉄も最後かと名残惜しく思いながら。

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問題は、マドリード行きのチケットをまだ入手していないことだった。ホテルはとったが切符がない。そんなわけで、わたしは昨日行った切符売り場に並んだ。その時ふと気づいたことがあった。それは昨日はあまり気にかからなかった、隣のブースである。隣のブースには待合室風のベンチがたくさんあった。もしや、当日券以外はここで買うのではないか。どうやら昨日はそれに気づかずにサンツを去ってしまったのではないか。まあ旅とはこんなものだ。

マドリード行きのチケットをユーレイルパスで予約したいんですが」とブースのおじさんにいうと、おじさんは何やらパソコンで調べた挙句に

「13:25のやつがあるよ」と言った。今は朝の九時。電車は一時半。なんと。やはり昨日予約しておけばよかった。もしかするとこれはもう一日バルセロナに泊まれと言う運命の悪戯なのではないか。などとあれこれ考えた上でわたしはチケットを予約した。フランス国鉄よりもちょっとだけ高めの10.55ユーロである。

チケットを受け取り、わたしはブースの裏側に回ったところにあるパン屋に立ち寄って朝食を買うことにした。朝9時30分。ここ数日では最も遅い朝食だった。

「¡Buenos dias! Un croissant y un cafe con leche, por favor.(おはようございます、クロワッサン一つとカフェコンレチェを一つお願いします)」と、わたしはこれから向かうマドリードでの練習とばかりにカスティーリャ語を使ってみた。英語で話しかけられると思っていたのか、店員はちょっと驚きつつ、ちょっと嬉しそうに、

「Vale. €2.50(はい、2エウロ50センティモでございます)」と答えた。旅は言葉じゃない、言葉じゃなくても通じ会えるんだ、などと人は言う。それは70%くらいは真実かもしれない。でもここヨーロッパでは特に、その国の言葉を喋れるだけで、どれだけ外国人への警戒を解いてもらえることか。言葉の力を舐めちゃあいけない。

笑顔でありがとうと交わし、わたしはベンチでカフェコンレチェと甘いクロワッサンを食べた。この、カフェコンレチェはうまかった。はじめて試したが、気に入った。カプチーノのような感じなのだが、カプチーノより濃厚で、言葉で説明するのは難しいが、身も心も温めてくれる感じの味がする。その後のスペイン旅行の朝のお供となった。

そのあと、友達にメッセージを送ったりなどしながらこれから駅の外に出るのかどうか考えた。出たい気もするが、リュックを背負って、この前のディジョンのようなことは御免である。そうだ、コインロッカーを見つければいい。調べてみると案の定コインロッカーはある。さて、バルセロナにお別れを言おう。行き先は、今回の旅で親しくなったガウディ師匠のグエル公園か、カサミラか、それかかつてのアラゴン王国の宮殿だ。

 

結局選んだのは宮殿だった。グエル公園は少々遠く、行き方が複雑そうだったから却下、となるとやはりカサミラよりも宮殿に行きたい。なんとそこでコロンブスとイザベラ女王が会見したと言うのだから見たいに決まっている。

コインロッカーは空港の荷物検査のようなことをしてから、預けるシステムだった。こうしておけば、日本だって、どこぞの大統領が来日してもコインロッカーを使い続けられるのに。バルセロナは傍目には、他国のテロなんて御構い無しのゆるい警備に見えたが、締めるとこは締めているようだ。

身軽になって、地下鉄に乗り込む。今考えてみれば明らかに遠回りな、サンツ駅→エスパニヤ駅→ウルキナオナ駅と乗り換えて、目的のジャウマプリメ駅に向かうルートをとった。何せ乗り納めだ。

駅を出ると、滞在中はちょっとしか立ち寄っていない旧市街の街並みに出た。ゴティック地区というそうだ。色はあいもかわらずパエリヤみたいな黄土色、そこら中に蔦のような形の街灯がつる下がっている。やっぱり、わたしはバルセロナの街が好きである。しかし、宮殿は見当たらない。

ここかなと思って行ってみると広場である。宮殿の前っぽさもあるが、どうやら市庁舎か何かのようだ。もしかすると博物館かもしれない。入ろうかとも思ったが、宮殿に行きたいのでやめることにした。時間がそんなにあるわけでもない。人だかりの雰囲気を楽しみつつ、路地に入った。すると古くからありそうな飲み屋や服屋が軒を連ねている。宮殿ではないが、見ているだけで十分に楽しかった。それに、ゴティック地区の街並みは見ていて心躍るものがある。石畳の狭い道の横から迫る背の高い黄土色の建物。そしてつる下がっている街灯。わたしは夢中になって歩いた。

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しばらくすると別の広場が現れた。今度は誰かの像がある。フランスとは違ってテラス席の店はあまり見ないが、それでの街のごみごみとした賑やかさが心にしみてくる。ガヤガヤとした街は、わたしの心に今朝方からなんとなく突っかかっているものを満たしてくれた。それはバルセロナをさる寂しさでもあったし、日本でやり残してしまったことへの気持ちでもあった。

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迷路のようなゴティック地区が目の前で開けたと思うと、それはランブラス通りだった。これもまた、運命の導きだ。ランブラス。ここからわたしのバルセロナの旅は始まり、そしてここで終わる。わたしはランブラス沿いにゴティック地区を歩くことにした。ホテルがあるのとは逆側の道だ。すると、大きな教会が現れた。大聖堂(カテドラル)だ。サグラダファミリアと違って、「完成済み」のこの教会は、いかにも教会らしい形をしていた。これはこれで良い。広場は人で溢れ、楽しそうな声が聞こえた。教会の近くを歩いていると、ガウディやピカソに関する美術館があった。ガウディ師匠とここで再会するとは。これも運命の導きである。もはや宮殿などどうでも良かったので入ろうかと思ったが、まだ歩きたい気持ちもあったので散歩を継続することにした。

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わたしが足を踏み入れたのは、再びゴティック地区の奥だった。先ほど歩いたようなグネグネ曲がった黄土色の古い町の迷路である。生ハム屋さんやアンティークショップがそこにはある。そうした界隈をうろうろしていると、ドンドンという太鼓の音が聞こえた。そしてシュプレヒコールが聞こえた。デモのようだ。今のヨーロッパで騒がしい方へ行くのは賢明ではないが、少し近くへ行って見た。するとゴティック地区にしては広い道を女性団体が隊列を組み、横断幕を掲げている。女性の権利の関係の何かだろうなと思った。

「ラホイ、ラホイ、ラホイ!」と叫び、そのあと何やら言っている。ラホイとはスペインの首相で保守系の政治家だ。彼に対する何かの抗議のようだ。フランコ独裁政権が倒れてからまだ40年ほど。スペイン、特にバルセロナの政治意識は高いみたいだ。

わたしはその場をそっと離れ、さらに道を進んだ。すると突如として道がひらけ、大通りに出た。その通りはどことなく見覚えがあるような気がした。昨日歩いた界隈にやって来たのかもしれない。ふと横を見ると、ぐにゃっと曲がった感じの黄土色の建物にたくさんの鉄球がくっついている。

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ガウディ師匠ではなさそうだが、バルセロナのアールヌヴォー系界隈が始まったのだろうか。あれはなんの建物だろう、と思いつつ、さらに道を行くと、通りの向こう側に、何やら不思議な形をした建物があった。鉄球がたくさん張り付いた建物も十分不思議だが、それ以上に鮮やかな色で、建物もグネングネン曲がっている。もしや、ガウディ師匠だろうか。わたしはよくわからないので近づいて見ることにした。

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それは、カタルーニャ音楽堂というコンサートホールだった。にしては狭いところに立っている。ちなみに、後で知ったがこれはガウディ師匠の作品ではない。ムンタネー師匠というカタルーニャ19世紀の芸術復興運動の立役者のものらしい。世界遺産にもなっているという。

面白いのはチケット売り場である。色とりどりのタイルが貼られた柱に丸い穴が空いていて、そこがチケットカウンターになっている。無味乾燥なチケットカウンターとは違う。こういう細部にこだわるところが良い。よくできている。

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それにしても漂ってくるエキゾチックさはなんなのだろうか。確かに、かつてイベリア半島イスラーム勢力の支配下にあった。だが、バルセロナはその支配を脱しているし、イスラームとの折衷建築であるムデハル様式とはまた違った趣がある。といろいろ考えたのだが、一つ思い当たるのは、かつてバルセロナを中心としたアラゴン王国シチリアを支配していたことだ。あそこは南のイスラーム世界、北のキリスト教世界の交差点にある。行ったことはないが、シチリア旅行をした人の写真は見た。棕櫚がたくさん生えていて、建物の感じも不思議なエキゾチックさをたたえている。どこかバルセロナに似ている。とはいっても、バルセロナバルセロナらしさもやはりある。いや、もう理屈で考えるのはよそう。バルセロナの空気をたたえた建築物に、わたしは良さを感じているのだ。そのわけのわからないエキゾチックさに、である。

この中はどうなっているんだろう。いつか来た時はここでコンサートを聴いてみたいなと思いつつ、しばらく眺めていたら、電車の時間まで結構逼迫してることに気づいた。そろそろ地下鉄の駅を探して、サンツ駅に戻らねば。まあ、逃したら逃したで、10.55ユーロは損になるが、そうしたらバルセロナにもう1日とどまれってことなんだろう。少し心の余裕を持って、近くにあったウルキナオナ駅に入り、サンツ駅を目指した。今度こそ、最後の地下鉄ということになる。

 

サンツ駅についたのは13:00。発車時刻は13:25。なかなかのピンチである。急いでコインロッカーからリュックを取り出し、プラットフォームを探した。プラッフォームの前には荷物検査ような機械が2台並んでおり、その目の前には警備員が立っていた。どうやらスペイン国鉄renfeの高速鉄道AVEはかなり強烈なチェックをするらしい。そういえば、21世紀の頭にスペインでは高速鉄道を狙ったテロが起こったのだ。そのせいか、かなりピリピリしていた……とはいっても、ピリピリしていたのは置かれている器具だけだった。係員はゆるゆるそのもので、形だけというような感じである。四人組の軍人が徘徊しているフランスと比べると、スペインは随分とゆるい。まあゆるい方が平和で良いのだ。

荷物検査後、検札を通る。ユーレイルパスに不備があったので、「ああ、ここで記入してくれればいいよ」とゆるく対応され、書き直した。髭の検札のおじさんは、それを見てから、

「ありがとう。それじゃあ¡Buen viaje!(良い旅を)」と楽しそうに言った。スペイン、早くもはまりそうである。

「¡Gracias!(ありがとう!)」とわたしは言い、エスカレーターで地下にあるプラットフォームに降りた。バルセロナマドリードなどの大きな駅では、地下にプラットフォームが集中している。

さて、これでバルセロナともお別れだ。電車にもどうやら間に合ってしまったようだし、これにてAdeu Barcelona(さらば、バルセロナ)である。わたしは心の奥底で、バルセロナにいつかもう一度来ようと思っていることに気がついていた。だから、Aviat, Barcelona(またすぐに、バルセロナ)が正しかったのかもしれない。

7都市目:バルセロナ(6)〜一人前のパエジャ〜

ランブラス通りに戻ってきた私はそのままランブラスを歩いてホテル方面へと向かった。ランブラス通りは区画ごとにテーマがあるようで、カタルーニャ広場のそばはおみやげ物屋が多い。カタルーニャ広場にいた人たちが多いせいか、人がすごくたくさんいる。そしてしばらく歩くと、向かって右側にトルコ料理の店が乱立するようになり、ランブラス通りにも料理屋のテラスが増える。ここが、私の最寄駅「リセウ駅」のある界隈だ。そんなもんだから、リセウに着いた時はいきなり目の前に「レイ・デ・イスタンブールイスタンブールの王)」などといった店が現れたもんだから驚いたのを覚えている。そして、海に近づくと、大道芸人とアーティストの世界になる。

土産物を遠目に見つつ、レストランを探したが、やはりホテルの人に聞くのが早そうだった。ランブラスの雰囲気を楽しみながら進み、トルコ料理屋のある路地、私のホテルがある「オスピタル通り」に入った。

「Hola(こんばんは)」とフロントの人に声をかけた。「一つ質問があるんですが」

「いいですよ」と女性は答えた。

「このあたりでおいしいスペイン料理屋はありますか?」と尋ねた瞬間私は「ああ、スペイン料理じゃなくて、カタルーニャ料理というんだった」と思ったが、まあ仕方がない。スペインに来たんだ。

「そうね……」と女性は少し悩んだ後で、「ホテルを出て、ランブラスとは反対側に進んで、二つ‥‥ううん、三つ目の角で曲がって。そうすると、とてもおいしい店があるわ」と答えた。ランブラスと逆方向というのは意外だったが(旧市街はランブラスの向こう側だからだ)、私はありがとうと言って外に出た。

空は薄暗くなりつつあった。もう7時半すぎだ。スペインの夕食タイムは8時からだというから、実はちょうど良い。私は言われた通り、明らかに猥雑そうな道を歩き、いわれた角で曲がろうとした。するとである。路地の奥の方にレストランらしきものが見えるのだが、その手前に酔った男が座っていて、その男がなにやらドイツ語で喚いているのだ。さらに路地の向こうから大きな声で歌う声が聞こえる。それも、みんなで歌っているというよりも明らかに一人で歌っている声だ。これは、やばい通りに入りつつあるのかもしれないと感じた。まさに、「I have a BAD feeling about this」。私はためらった。これで怖気付いて行かないのか、それとも行ってみるのか。安全か、冒険か。私はこの旅では怖気付かないようにしたいと思っていたので非常に迷った。だが、明らかにやばい匂いがした。

その時だ。ドイツ人の酔っ払いがなにやら叫んだ。こちらを見ていたかはわからない。だが、「Hut(帽子)」のような単語が耳に残った。私は帽子をかぶっていたので、ああ、これはやめよう。やばいところにわざわざ入る必要はない、なんとなれば、危機管理も身につけるべき徳なのだから、と心に言い聞かせ、その場を立ち去った。

さて、危機は去った。ところが、問題は残る。夕食の場所だ。フロントに戻って、「怖くて入れまちぇんでちた」などとダサいことはいいたくない。自分の足で開拓するほかない。ガイドブックを取りに行くのも、また一つの恥であるから、完全に自分の足で稼ごうではないか。

というわけで、私はあてもないのでランブラスに戻った。しかし夜の料金はどこも高い。そうだ、昼食べたところか、その近くの店に行けばいいじゃないか、と私は再びレイアール広場に行った。夜になるとストリートミュージシャン(厳密にはストリート(道)ではないので、プラサミュージシャン)がいて、棕櫚の木も風になびいていい感じである。昼を食べた店は超満員で、しかも並んでいるのでやめた。隣の店に入ろうかと思ったが、どうやら飲み屋である。私は食事がしたいのだ。広場には結構客引きをしている店があったが、客引きのいるところで食うのはなんとなく嫌だし、ぼったくりのようなものに会うのは嫌だった。せっかくバルセロナを好きになったのに、そんな終わり方は嫌だ。と思いながらウロウロしても、どうしようもない。日は落ちてゆく。初めての国で夜中にあまり歩きたくない。さきほどの路地の一件もあって、少しだけ警戒心が戻りつつあった。

 

人だかりがある店があったので、わたしはとりあえずそこのメニューを見た。英語版だ。それに店員もすごく浅黒くて、一瞬インド人に見える。ここはやめておこうかと思っていたら、店員が声をかけてきた。

「一人か?」と店員が言うから、そうだ、というと、こっちへ来いという。ぜひに及ばず。なにかしら食べたいし、私はもう流れに任せることにした。

テラス席は満員なのに、店内はガラガラである。これはまずいかもしれない。と、警戒心全開でテーブルにつき、置かれたメニューを開いた。パエジャ(パエリア)がある。だが、私は知っていた。パエジャは地元の人は昼に食べるものであり、パーティ食だから一人で食うものではない。しかしこの店は一人前を売っている。これはよくない。きっとよくないパエジャに違いない。なぜ入ってしまったのか。だが、もう時すでに遅しである。しかも、パエジャ以外の料理はよくわからないときていやがる。

私はブスッとした顔の店員を呼び、まずワインはグラスで頼めるかどうか尋ね、オーケーだったので、赤のハウスワインを頼んだ。それから、おすすめは?と尋ねた。

「おすすめ? そりゃもうパエジャだよ」と店先にいた人とは対照的に色白のウェイターは言う。ますます良くない。

「どのパエジャがいいんですか?」ととりあえず聞くと、

「海鮮だ」という。海鮮は17ユーロ、鶏肉は10ユーロ。フランスの物価からするとバカやすいが、私は一応やすい鶏肉にすることにした。実はバレンシアで生まれたパエジャはもともと鳥やウサギなどの山の幸を入れていたという逸話を聞いていたこともあった。店員はブスッとした顔でうなずき、去っていった。忙しそうである。

しばらくして、店員が白ワインを持ってきて注ごうとしたので、私は赤だと訂正した。店員は不服そうに赤に直した。今思うと、それは彼がテキトーだったのではなく、オーダーが鶏肉だったからじゃないかと思う。店員は再び立ち去った。ここは大丈夫だろうか。私は少し深呼吸をした。これで値段を吊り上げてきたらどうしたものか。

すると店員がこちらに向かってやってきて、ブスッとした顔で、

「聞きたいんだけど」と言う。「君は中国人? 日本人?」

突然の質問に少し驚いたが、「日本人」と答えた。

「ああ、日本人か。気になってたんだ」と店員はいった。「日本人の女の子はグア……えーっと可愛いよな」

相変わらずブスッとしていたが、全然悪気はなさそうだ。そういう顔なのか、私がよくわからないアジア人だからなのかだろう。私は自分が申し訳なくなった。一度は心を許した街に、変なバリアを張ってしまった。私は笑って、「でもスペイン人だって……」と冗談めかしてみた。

「いや、だめだ。ここの女は……だめだ」と店員はいうと、しばらく何か考えた顔をした、「Arigatogozams」と言った。ありがとうということだ。

「日本語うまいね」と私は言った。

「Cuteって日本語でなんていうの?」と店員は尋ねた。誰か狙っているのだろうか。

「かわいい、だよ」と私は言った。浸透している言葉なのか、店員はハッとした表情だった。

「Arigatogozams」店員はまた立ち去っていった。普通にいいやつじゃないか。私は警戒していた自分をあざ笑いながら赤ワインを飲んだ。

しばらくして、店員がパエジャを持ってきた。いい香りがする。量も適度に多い。わたしは彼に習い、

「Gracies(カタルーニャ:ありがとう)」と伝えた。店員は「De nada(西:どういたしまして)」と答えた。いちおう、カタルーニャ語のつもりなんだけどなあ。

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レモンを絞り、フォークでパエジャをつついて口に入れた。店員のキャラが面白いのでまずくてもいいかくらいに思っていたが、パエジャは予想を裏切ってきた。うまいのである。鶏肉の出汁が良く利いていて、うまい。お焦げな感じは全くないので、お焦げ系パエジャが好きな人はあまり好きではないかもしれないが、私はあの水分多めのパエジャもなかなか好きだ。香りがよく立っている。次に肉を食べてみると、骨つきで、身はジューシーで柔らかい。正直に言って私の人生の中で最高のパエジャだった。ここにきて、私の警戒心は本当に馬鹿げたものだったことがわかった。あとはぼったくられないかどうかだか、正直ぼったくられてもいいとも思った。

パエジャを頬張っていると、先ほどの店員がやってきて、

「どう?」と聞いてきたので、わたしは

「うまいよ。¡Qué rico!」と答えた。店員は相変わらずブスッとした感じだが、どことなく嬉しそうに、

「¿Muy rico?(すごくうまいか?)」と尋ねた。

「Sí, sí(ああ、うまいよ)」と私はもう一度答え、「えーっと、どうやっていえばいいのかな、美味しいって……」

「Muy ricoだよ」いや、そうではないのだ。私が聞きたいのは……

「あの、カタルーニャ語では」

「ああ、Mol bonだよ」店員は少し驚いた感じていった。カタルーニャ語を質問する人は少ないのだろうか。あんなに街中に沢山書いてあって、観光客は誰も気にもならないのだろうか。少し寂しい気もする。

「Mol bon!」そういうと、店員は

「Gracies」と答えた。

最後にコーヒーを頼み、さっぱりした後で会計をした。全くぼったくられていなかった。わたしはチップとして少しだけ加算した上で席を立った。例の店員は忙しそうにどこかに行ってしまった。少し残念だが、私はそのままレイアール広場を後にして、ホテルへと急いだ。夜の帳が下りていて、ランブラスではヨーロッパの観光地恒例の光る独楽を飛ばす人たちがいる。

 

ホテルに戻ると客が来ているようで、フロントに列ができていた。私は列の最後尾で待っていたが、どうも先に進まない。フロントのお姉さんは私に気付くと手招きした。

「番号は?」まるでテストするようである。まあ、テストされて仕方がない。ならこちらも期待の上をいってやらねば。

「クワトロ・トレセ(413)」

「Quatro treze, muy bien(413ね。正解よ)」フロントのお姉さんはにっこりと笑って鍵を渡した。

「水を買えるところはありますか?」と尋ねたら、食堂があると指をさした。私は礼を言って「Bona nit!(おやすみ)」とカタルーニャ語で残して食堂に入った。しかし水は売り切れていたので、仕方なく部屋に戻った。

テレビをつけると、サッカーをやっている。バルセロナといえば、バルサ。ステレオタイプだが、ステレオタイプ通りの番組である。テンションの高い実況が、「メッシ、ネイマール、ゴーーーーーウ、ゴーーーーーーーーーーーーウ」と得点を喜んでいた。かつて、バルサの「カンプ・ノウ」スタジアムだけが、カタルーニャ語の使用を認められていたらしい。バルセロナのサッカーが強いのはそうした背景がある。サッカーでレアルマドリードに勝つことは、スペイン王国に勝つことであった。ドイツも、イタリアも、サッカーが強いヨーロッパの国は、どこも戦国時代並みの分裂からの統一を経験している。サッカーは地元の声でもある……らしい。日本も江戸時代がそのまま続いてサッカーだけ取り入れていたら、Jリーグはすごかったのかもしれない。特に「FC薩摩vsFC長州」とか、「FC薩摩vsFC会津」なんて激しそうだ。

などと馬鹿げたことを考えつつ、私は1日ぶりのシャワーを浴びた。

バルセロナは最高の街だった。もっとバルセロナにいたいと強く思った。正直、もう一泊する手もなくはない。それこそが自由旅行であり、そのためにホテルも何も予約していないのだ。だからバルセロナに何泊もして、そのままフランス語を勉強するためにコースを予約しているボルドーに行くという手だってある。とは言っても、バスク地方も見てみたいし、マドリード、ひいては南の方も見たい。ボルドーまでのタイムリミットがあと四日だった。バルセロナにいたい気持ちは非常に大きかったが、交通の便のいいマドリードに二日泊まる方が行動の可能性は広がる。悩みに悩んだ末、私は延泊をやめ、マドリードにしようと決めた。そしてホテル探しの面倒さから解放されるように、安いホテルをネットで探した。なんと二日泊まって7000円ほどのところがある。私はそこの予約を入れた。後払いだし、もし明日、気が変わってバルセロナにい続けたくなったらやめれば良い。

こうして、長い長い1日が終わった。

7都市目:バルセロナ(5)〜ガウディとカタルーニャ広場、生命の街〜

ガウディは好きではなかった。あの、グエル公園にあるような、うねうねと曲がった土色の壁に斑点、そこに謎のトカゲ、というあの感じが苦手であった。だから、建築家ガウディの生まれた街バルセロナに行こうと決めた時も彼の作品をめぐるということはあまり考えていなかった。

それでも、サグラダファミリアに行こうと思ったのは、150年の時を経てもまだ建築中という強烈な属性に惹かれたのと、サグラダファミリアに行ってみたいと言っていた人がいたのを思い出し、その人に写真を送りたいと思っていたこと、そしてやはり実物を見てみたいと思ったことからだった。少し話はずれるが、以前、私はミケランジェロの「最後の審判」が大嫌いだった。というのも、レオナルド好きだった私にとって、あのような解剖学も何もかも無視した肉襦袢のような筋肉で覆われた人たちがいる絵は許せなかったのだ。しかし、実際にバチカン市国システィーナ礼拝堂であの絵を見た時は驚愕させられた。肉襦袢も全部計算だったようで、あの場で見ると、あの中にある人々が浮き上がって実体化しているようだった。それ以来、私はあの絵が好きになった。同じように、ガウディも実際に見たら全く違うのだろうと予期していたのである。

 

最寄りのリセウ駅からパッサイグダグラシア駅、そしてサグラダファミリア駅へ向かった。もう慣れたもんだ、と言いたいところだが、間違ったところで降りたり、ゴタゴタの連続であった。どうにかこうにかサグラダファミリア駅にたどり着き、駅から出ると、あれ、サグラダファミリアが見えないぞ、となった。それもそのはず、駅はサグラダファミリアに隣接しており、出口からパッと出ると真後ろに例の教会はあるのだ。振り向くと、驚いた。巨大なのだ。とにかく巨大な構造物がどーんとそびえ立っている。これが、サグラダファミリアか。そう、思った。

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そうはいってもこのままではよくわからないので、横断歩道を渡って向こう側にある公園から一度眺めることにした。その公園にはお土産物屋台、というよりもアイスクリームを売る屋台がたくさんあり、周りでは大道芸人が芸を披露している。やっぱり「父の家の前で商売をするな」というイエスの教えをヨーロッパの人たちが真に受けなくてよかった 。文化を作り、教会に命を与えるのは、こういう人たちなのだから。

公園に渡って、他の観光客とともにサグラダファミリアと対面してみると、その迫力に圧倒された。まるで、生えているようだ。巨大な木がズドーンと目の前に生えているようである。これが、アールヌーヴォー。なんだか木やらサラマンダーやらをくっつけた気色の悪い芸術だと思っていたが、目の前にすると全く違う。生命を失った建築物に、生命力を与えるのが、アール・ヌーヴォーだったのだ。そして、ガウディだったのだ。そして教会に宿り、教会を150年間育ててきたガウディの生命力は見ているこちらの心を満たし、ゾワゾワさせた。好きになったといえば単純だが、それだけではない、むしろ「サグラダファミリアをやっと知った」とでも言えるような感覚が湧いてきた。

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一周してみよう。とりあえず一周だ。わたしはサグラダファミリアの建物に沿って歩いた。すると面白いことに気づいた。先ほど見ていた部分は、割とトラディショナルなスタイルで作られているのに対し、少し歩くと痛々しく釘のようなものがむき出しになった部分が現れ、その後に出てくる正門は、まるで教会自体が溶け落ちて行くかのように、葉っぱと生き物、そして聖人の像で覆われている。四辺が四辺とも違う顔を持っている。どことなく、カンボジアのバイヨン遺跡のことを思い出した。ところどころ崩れ、ところどころ森林に飲み込まれ、ところどころ見事に残っている。わたしはそこでその遺跡の生命を感じた。サグラダファミリアもやはり、生きていたのだ。

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その後わたしは、少し離れたところからもう一周した。何周しても新しいものが見える。やっとガウディが称えられる意味を理解しつつあった。うまくいえないが、ガウディの作品を見ることは、呼吸する建築物を見ることなのだろう。どの建築物もきっと呼吸があって、生きている。ところが、ガウディは目に見えてその生命力が見える。そこに、ほかとの違いがあり、かつて感じた気色の悪さがあり、今感じているその素晴らしさがあるのだ。伝わらなかったら申し訳ない。だがもし伝わらなかったなら、バルセロナに行って欲しい。そうすればあなたもガウディを知ることができる。

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まだまだかかりそうです

 

わたしはその後、サグラダファミリアの前にある公園のベンチに腰掛けた。今後のことを考えるためと、休むためだった。緑は相変わらず美しく、公園には熱気があった。広場には巨大なシャボン玉製造機を持つおじさんがいて、フーッと息を吹いて巨大なシャボン玉を作っている。それを見ている子供は何度もそれを壊し、おじさんはまた作る。公園の中にはなぜか、ヴェトナム名物自転車式人力車「シクロ」のようなものが走っている。わたしの隣にはタバコをふかす「カスティーリャ人」の若者二人組がいる。それを含めて、サグラダファミリアは生きている。

しばらくすると女性がやってきて、隣の二人に話しかけた。どうやら観光関係の調査のようだ。わたしはそっとその場を離れたが、あそこに座り続けていたらもっと面白いことがあったかもしれないなとも思った。あの、トゥールーズのおばあさんとの出会いのように。

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 地図によれば、サグラダファミリアの公園からぐーっとまっすぐ歩けばカタルーニャ広場に出られるはずだった。カタルーニャ広場というと、港まで続く我らがランブラス通りの起点である。初スペイン出始めは少し緊張していたが、ここまでくればもはやそのようなことはない。町歩きもお手の物である。

わたしはもう、バルセロナという町の虜になっていた。まず面白いのは街並みである。パリやロンドン、あるいはベルリンのようなヨーロッパの街並みは、四角い建物の連続である。そこにこそ、西洋的な美しさがある。ところがバルセロナはちがう。緑と黄色と茶色を混ぜたような不思議で素朴な色の建物(わたしはなぜかこの色が好きだ。落ち着くのだ)が、ぐにゃりと脈を打っている。サグラダファミリアで感じた、あの生命力が、よく見てみれば街の至る所にある。バルセロナは街の建築それ自体が鼓動し、生きている。そしてもちろん、そこにいる人たちも、しっかりと生きていて、温かいコラソン(ハート)を持っている。そして、その温かさは、カタルーニャを思えばとんでもないほど熱くなる。わたしの滞在時は、軽いデモくらいしか見なかったが、10月の投票、その後の騒動を見るとやはり熱い心を持っている。持っているからこそ、州論も二分するわけだ。

街を歩いていた時、あることに気がついた。脈打つ街並みを作り出しているいくつかのアパートのバルコニーに、青地に「Si!」と書かれた旗と、黄色の地に朱色の線が四つ、その線の付け根には青の三角形があり、そこに白い星が描かれた旗が掲げられていたのだ。もちろん、「Si(YES)」とは、「Independència(独立)」にたいする「Si(YES)」である。そして、黄色の地に朱色の四つの線はカタルーニャの象徴である。あの時は思わず、「本当なんだ」と思ったが、今では「やはり本当だったんだ」と、思う。

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迷いつつ、黄土色の街を歩く。何年か店がある。さて夕食はどうしよう。少々足も疲れ、お腹もすいてきたところだが、ホテルのお姉さんに聞こうと思った。そのためには、八時くらいまでには戻らねば。それにしても雰囲気の良い街である。わたしの好きな作家沢木耕太郎は「バルセロナはわたしにとって老人と少年の街だった」と書いているが、確かにお年寄りが多く、そのおかげか街に風格がある。若者の姿があまり見えないのはきっと、バルセロナがスペイン第二の経済都市として繁栄しているためだろう。街自体は活気があったし、でかかった。しかし、それだけではなく、やはり温かみのようなものもあった。建物の雰囲気が醸し出す全体的な空気が気に入った。

しばらくバルセロナの街を彷徨い歩いていると、「凱旋門アルク・ダ・トゥリウンフ)」が現れた。黄土色とオレンジ色のコントラストはなぜか、テレビか何かで見たインドの凱旋門を思い出させた。インドの凱旋門は白いから、まったく思い出す要素はないのだが、どことなく東洋的なものを感じたのかもしれない。周りにある棕櫚の気のせいかもしれない。そう考えてみると、バルセロナの黄土色の建物から感じる「生命力」のようなものは、おそらく、エスニックな感じと通じているのかもしれないと思った。純ヨーロッパではない、どことなくスパイスの香りを感じてしまいそうな雰囲気だ。フランスを旅していた時には感じなかったものだ。バルセロナは、アジアから最も遠いヨーロッパということになるけれど、それでも、アジアとヨーロッパの中間の空気感があった。暑さも、植物も、街の雰囲気も、色使いもそうだった。そう、今思うと、私はあの街のエキゾチックさに心惹かれていたのかもしれない。

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そろそろ夕刻も近いので、凱旋門はくぐらずに、凱旋門前の大道芸などを横目に見ながら、横道に逸れた。その道を行けば、「カタルーニャ広場」につくという。まだ1日しかいないから当然だが、カタルーニャ広場は駅名の「Plaça de Catalunya」としてしか知らない。実物を見たことはないのでぜひ行ってみたかった。バルセロナ一帯のカタルーニャという名前を冠した広場とは全体どんなところなんだろう。

と、勇み足で歩いてみたが、バルセロナは広いらしい。なかなかたどり着かない。少々疲れていたので、私は道の途中にあった公園のベンチに腰掛けることにした。それにしてもバルセロナは「公園の街」と言ってもいいくらい公園がある。大通りの中央分離帯は遊歩道になっているし(イメージとしては鎌倉の鶴岡八幡宮前の大通りのような感じである)、街の中を占める木の数も多い。といっても、ベルリンのようなボンボンと公園が乱立している感じではなく、建物の雰囲気も合わせて、公園や並木が街と同化していると言ったほうが正確だ。先ほどから何度も恐縮だが、「生命力のある街」としか言いようのない、他に類を見ない雰囲気がある。だから、「バルセロナはどうでしたか?」と聞かれると思わず、「緑が綺麗でしたね」と言ってしまう。そして「建物が面白かったです」と付け加えるのだ。それだけ緑が街と一体化している。

私が腰を下ろしたのは、「ウルキナオナ広場」というところで、お年寄りも若者も、座ってゆっくりしている場所だった。バルセロナの良いところは、日本の街の小さな公園と違って、どの公園もしっかりと使われているというところだ。やはり、人あっての公園である。せっかく公園に座ったので、wifiは持っていたが、あえてケータイは使わず、地図を見たり、道を歩く人をぼーっと眺めたりすることにした。ポケットwifiは便利だが、時にケータイを見がちにさせてしまう。せっかく旅という「人生の修行」をしているのに、それではよくない。風を感じ、周りと打ち解けるには、ケータイは邪魔でしかないものだ。と、諭したくなるほど、使ってしまっていたのも確かであった。情報収集、ホテルの予約と何かと便利だったのだ。

しばらく静かに座っていたら、足の疲れも治ってきた。私は再び立ち上がり、公園を抜け、先ほどの道を歩いた。すると、すぐに「カタルーニャ広場」は目の前に現れた。確かにこの広場はでかい。周りを大きな建物が取り囲み、タイルで敷き詰められた謎の幾何学模様がある円形の広場には驚くほどたくさんの人たちが夕涼みをしつつ、楽しんでいる。横断歩道を渡ると、サグラダファミリアぶりに見た物売りの人がいて、怪しげな人もいて、そして子供達が鳩を追いかけて遊んでいた。もちろん、お年寄り、恋人たちも健在である。観光客、地元の人、大道芸人でひしめき合い、黒人も白人もムスリムもクリスチャンもそこにはいた。これが、カタルーニャ広場か。気分も上がってきた。楽しい場所の匂いがする。

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バルセロナで流行っているのだろうか、ここにもシャボン玉作りおじさんがいる。巨大なシャボン玉を作っては、子供に潰され、作っては潰される。そんないたちごっこの中に、平和な日々の楽しさが詰まっている。笑い声、話し声が充満したカタルーニャ広場は、大して長くいたわけではないが(一人でいてもうろうろするだけだったので)、お気に入りの場所になった。

そして、広場の雑踏を抜けると、すぐに新しい雑踏が現れる。それは、あの「ランブラス通り」である。ついにここまでやってきたわけだ。というか、帰ってきたわけだ。さて、夕食を探すとしよう。

7都市目:バルセロナ(4)〜あまえ〜

バルセロナサンツ駅へは地下鉄で一本だ。わたしが数時間前初のイベリア半島の地に足を踏み入れたところ。それなのに、なんだかバルセロナ地下鉄に慣れ始めている。使いやすいのだろう。一回2.15ユーロ。日本円だと大体250円くらいで、大体のところまで行ける。

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サンツ駅は巨大な駅で、ホームは地下鉄も含めて地下にある。チケット売り場や各種売店、無駄に近未来感のあるトイレが地上階にはある。わたしは地下鉄から地上へと向かうエスカレータに乗り、地上に出た。さて、高速鉄道AVE(アベ)のチケットカウンターはどこだろう。広い駅構内をぐるりと見回してみると、向こうの方にカウンターらしきものがある。

近づいてみると、「Hoy(今日)」と書いてある。フランスでは、整理券を取るときに今日のチケットか明日以降のチケットかを選択するコーナーがあった。もしや、これは今日のチケットだけを売っているところなのかもしれない。だが、ほかにブティック(販売所)のようなものはないし、並んでみるしかない。案の定、前の方の団体は、わたしと同様ユーレイルパスを使ってチケットを取っている。きっとなんとかなる。

列はシエスタの時間帯のせいか短く、すぐに自分の番になった。わたしは初老の係員の元へ行き、

「Holà. ¿Hablà inglés?(こんにちは、英語話しますか?)」と言った。英語でいきなり話しかけると不躾だし、スペイン語の自信もないので、思いついた最終手段である。ただ、バルセロナの街を歩くと、カタルーニャ語ばかりが目につき、スペイン語=カスティーリャ語をぶつけるのも不躾なのではないか説が濃厚でもあった。しかし、バスク語は少しやったくせに、カタルーニャ語は挨拶程度しかやらなかったので、これしきのことも質問できなかった。カタルーニャ独立運動を舐めていたわけだ。今から思うと、当然、カタルーニャ語ばかりのはずなのに。

「Un poquito.(ほんの少しだけね)」と係りのおじさんはいう。なら、お言葉に甘えよう。わたしだって、Habló inglés un poquito(英語を少しだけ話します)程度なのだから。

「明日のマドリードまでのチケットをユーレイルパスで予約したいんですが」と尋ねる。

「明日? 明日のチケットはここじゃないよ」とおじさんはいう。やはりか。

「どこでできますか?」

「あっちだ」おじさんは、自動券売機の方を指差した。あれはユーレイルパス用じゃない話じゃないかと思いつつ、わたしは機械の方に行った。どうしたものかと機会を見ていると、

「タッチすればいいんだよ」とムスリマの彼女を連れた若い男が教えてくれた。だが、問題はそこではないのだ。わたしは駄目元で、

「ユーレイルパスを使うにはどうしたらいいですか?どういうシステムになってるんですか?」と聞いて見た。お兄さんは少し困惑の表情で、首を傾げた。すまない、おにいさん。悪気はないのだ。駄目元なのだ。

「あの人に聞くといいよ」とおにいさんはわたしにこっち来いと手招きし、係員の方へと連れてきた。わたしはその後なんとかユーレイルパスの話を伝えようとしたが、いまいち伝わらない。最後には先ほどのカウンターの方を指差して、あっちだと言った。多分違う。だがわたしは笑顔で、

「Gracies!」と伝えた。彼らもにっこり笑った。いい人たちだ。結果切符が買えたかどうかは関係なく、それだけは間違いない。

その後、ツーリストインフォメーションにも言ったが、いまいちわからない。もしかすると、スペイン国鉄(renfe)ではユーレイルパスは当日券だけなのではないか。そう思い立ち、わたしは探すのをやめた。新しい国にいるのだ。そういうこともある。とりあえずホテルに引き返し、スペイン人の習慣に従って昼寝をするか、それかシャワーでも浴びようか。そういえばトゥールーズのホテルでシャワーを浴びていないので、1日体を洗っていないことになる。

わたしはサンツ駅から地下鉄で、ホテルの最寄のリセウ駅まで引き返すことにした。蒸し暑い電車の中で、そういえばホテルの部屋番号を忘れてしまったなと思い出した。まあ、ストラスブールでも忘れてしまったが、なんとかなった。きっと平気だろう。

 

つい数時間前には完全な、警戒すべき異国だったリセウ駅も、いまや親しみ深い最寄駅である。2.15ユーロというめちゃくちゃ高くてめちゃくちゃ半端な地下鉄料金にも慣れてきていた。だいたい、2ユーロ20センティモを払い、5センティモをおつりで貰えばややこしくない。すると次の時にはちょうどの料金が払える。そんな生活の知恵も学び、わたしも気分はバルセロナ人である。カタルーニャ語を話せたら良いのだが…うん、それは今度来る時だ。

オスピタル通りにあるホテルに戻ると、フロントはおばちゃんから交代して若い女性になっていた。これはまずいかもしれない。というのも、ストラスブールで部屋番号を忘れてなんとなかなったのは、フロントのお姉さんが顔を覚えていてくれたからだった。他のホテルでは鍵は持ち出してくれと言われていたので、この状況は経験していなかった。

「Hola」と挨拶をして、「すみません、番号を忘れてしまって」と伝えた。すると女性は少しだけ眉根を寄せて、階はどこですかと尋ねた。私は四階だと答え、名前を告げた。この分だとシステマティックにカタがつきそうである。

すると女性は怪訝そうな顔をした。こちらまで不安になる。これは問題が起きているようだ。私は、ただ待った。すると、「あなたは存在していない」というようなことを言われた。まるでSFである。このSF的な状況をどうしたら良いのかわからぬまま、私は、困った顔をするしかない。

すると女性は、謎の韓国人か中国人らしき名前、それも私の頭文字とおそらく合致しているのであろう名前を告げて、「これじゃないの?」と尋ねてきた。いや、それじゃない、というと、これが正式な名前で、あなたの言っているのはニックネームではないの?と尋ねてくる。なるほど。確かに香港ではそう言うことがあると聞いたことがある。だが、私は日本人だ。しかも平成生まれだ。元服をした経験もないし、和泉守や摂津守などの官職をもらった経験もない。戸籍通り名乗っている。わたしは、違う、と答えた。それから、パスポートも提示した。しばらく、チェックイン時刻などを聞かれたりしたが、どうにもこうにも状況は動かなかった。

わけがわからない、という表情をフロントの女性がした。だがそれはこちらも同じだ。いや、私が忘れたのが悪いのだが、それにしてもデータに乗っていないというのは妙だ。「番号を忘れる必要はないじゃない……」と女性はこぼした。これには「すみません」というしかなかった。

ふと、わたしは、番号は覚えていなくても、どうやって部屋に戻るかは覚えているんじゃないかと思い立ち、四階の地図を見せてくれと伝えた。地図を見たとき、驚愕した。同じような構造の廊下が左右に広がっているではないか。なんてこった。しかたないので私は角に部屋があることを強調した。だが、女性はラチがあかないと思ったのか、先ほどの謎のアジア人の名前をいい、「あなたはきっとこの人なのよ」と、超弩級の、「確かに金額の話はしましたが、価格の話はしていません」という答弁レヴェルの強引さでいった。違う、ともう一度言うと、「ならあなたはとまっていないのよ」といった。私が悪いのは明らかだ。だが、ここは踏ん張らねばならない。私は、

「でも、確かに私の部屋があって、そこに荷物も置いているんです」と必死で懇願をした。

しばらく女性はデータの入ったコンピューターや宿泊者リストをいじっていた。あの頃は必死で気付かなかったが、今思えば、あのロビーの女性はすごく誠実な人なのだろう。もしかすると、変な状況にたまたま巻き込まれてしまったバイトなのかもしれない。彼女の動揺も、大きかっただろう。その中でずっと調べてくれていた。すると、女性はこちらを向き、「わかったわ、413号室に止まってるでしょ?」といった。たぶん、それだ。私はうなづいた。女性は鍵を取り出し、私に渡した。私は、申し訳ありません、と告げ、鍵を受け取った。

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たしか、チェックインをする時点で、チェックイン情報が伝わっていなかった。それは当日に予約したからだった。たぶん、その影響だろう。にしても、これ以降は部屋番号は絶対に忘れまいと心に誓った。私は緊張状態にあったこともあって、シエスタも諦め、シャワーも諦めた。ただ部屋番号を、小さなノートに書き込み、しばらくベッドに座ってみて、次の行き先を練った。それを決めてから、部屋をあとにした。

「ありがとうございました。私の部屋でした」と伝えると、女性は申し訳なさそうに、

「ごめんなさい。ありがとう」といった。もしかすると、見落とされていたのかもしれないなと思った。だが、私が番号を忘れたのが悪いことは変わらない。私は鍵を女性の手元に返した。それから、私は外に出た。

次の目的地は、バルセロナといえば見逃せない、サグラダファミリアである。

7都市目:バルセロナ(3)〜マーレ・ノストゥルム〜

ランブラス通りには相変わらず気持ちの良い風が吹き抜けている。緑が輝き、平和そのものの雰囲気の中、時折スリがウロウロしていた。台の上に立ったピエロが風船で犬を作ったり、彫像に扮した男が道行く人にぎこちなく帽子を取って見せたりしている。楽しい。バルセロナは間違い無く楽しい。わたしはそんなことを思いながら、SEKAI NO OWARIよろしく海を目指した。だが別に仲間と会うためではない、海に会いに行くためだ……などとくだらないことを言ってみる。

「港の見えるコロンブス公園」を抜け、横断歩道を渡ると、「旧港(ポルト・ベル)」が見えてくる。多少は観光化されているようだ。いや、多分に観光化されている。だが観光化されていても港は愉快である。昔から、なんだか好きだった。山梨(内陸)に生まれ、埼玉(内陸)で育ち、ベルリン(内陸)で一年暮らし、東京多摩は国分寺(内陸)に住んでいるわたしには海は縁もゆかりもないはずだが、血筋を辿ればわたしの父方は高松、神戸、横浜、鎌倉、一瞬ニューヨークと移った海の民であるし、母方は今治、もとは宮崎のようで、海を渡る人々だったようだから、これが「血の記憶」とでも言えるものなのかもしれない。

右手には蚤の市、左手にはヨットの船着場があって、ヨットの船着場のところには長い回廊が海の方へと突き出している。その奥には、水族館などの施設なのだろうなと思しきものがたくさんある。その雰囲気はまるでお台場である。ただ、お台場ほどの埋め立てました感が無く、未だやはり、「ここは港なのだ」と思える雰囲気がある。あまりきちんと覚えていないのだが、横浜はこんな感じじゃなかったかと思う。ただ、横浜より確実に、積み重ねてきた歴史が見える。シュロの木にしたって鎌倉にあるような「海辺ならシュロの木だろ」という感じの後付感も無く、やはりここは例えようもないバルセロナの港なのだろう。

おめあての船は、「ゴロンドリーナ」という。どうしてもゴンドラとの兼ね合いで「ゴンドロリーナ」と読んでしまいがちだが、「ゴロンドリーナ」である。ガイドブックの端っこに乗っていたのだが、500円(4ユーロ)くらいで地中海へ出られるという。わたしはチケット売り場を見つけ、英語話せますかと一応断った上で、一枚買った。7ユーロだったので、どうやら値上げしたようだ。にしても安い。ちょうど7月の終わりに納涼船に乗り、2600円だったので、それを考えるとどんなに安いか。

出発まで、15分あるらしい。わたしは出発までの間、港を散歩することにした。

ウッドデッキの回廊が海に張り出ている。その左側にはヨットが大量に着けられていて、右側はゴロンドリーナ号などの発着場になっている。水族館に入る時間はないので、わたしは回廊の上のベンチに腰掛けた。やはり港はいい。心躍る気分になる。カモメが回廊の上を胸を張って歩いている。子供がそれを狙って追いかける。空気は暖かく、雰囲気も温かい。いや、空気の方は暑いくらいだ。

家族連れが多いようだった。夏だし、水族館のそばだし、そりゃそうだろう。そういえば小さい頃は夏が来るたびに江ノ島の水族館に行っていた。新江ノ島水族館が開業したての頃のことである。バルセロナは、スペインの鎌倉か。水族館もビーチもあって、歴史もある。かつて栄華を誇った大都市。カモメは柱の上に乗って、地中海を眺めている。

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15分くらいだったので、発着場に行ってみたが、二つ入り口があってよくわからない。片方は空いていて、もう片方は空いていない。とりあえず空いてる方の受付の人に

「Hola!(こんちは!)」と話しかけ、チケットを渡した。すると、

「あー、このチケットはこっちなんだよね」と英語で、隣の入り口を指差しながら答えた。そうだったか。

「Gracies!(ありがとうございます!)」と告げて、隣の入り口が開くのを待った。

徐々に家族連れやお年寄りの団体が集まって来る。気軽に船に乗れるのは良いことだ。日本も見習えばいいのに。なんとなればわたしは船に乗るということが大好きだった。何がいいのか説明はできないが、船の上で風を感じていると、いい具合に自分の中に入って行けるのだ。健全な、開かれた、豊かな形で、である。それになんにせよ、船は男のロマンである。こればっかしは誰にも否定できまい。船はまっすぐ進めば気持ちよく、大きく揺れればスリルとロマンを感じさせてくれる。

目の前には浅黒い肌のサングラスをかけた見るからにラテン系の若いお父さんのいる3人家族がいる。子供はベビーカーに乗っていて、お父さんがそれを押している。お母さんはサングラスをかけたこちらもラテン系な感じの女性だ。家族旅行だろうか、いやそれとも、ちょっとしたお出かけだろうか。3人家族に続いて、わたしは係のヒゲを蓄えたおじさんに「Hola!」と言って、チケットを差し出した。

「Gracies!」というと、

「¡Gracias, buen viaje!(ありがとうございます。良い船旅を)」と返してきた。わたしは笑顔でフェリーに乗り込んだ。フェリーの中には椅子がいくつかあったが、誰も座っていない。太陽を求めるヨーロッパの人たちは、甲板のところに座っているんだろう。わたしは甲板に出て、海が見やすいところに腰掛けた。フェリーに乗り込んでみると、目の前にはコロンブス像が見える。コロンブスに見送られている気分になるが、ものの一時間で周遊して帰ってくるのは少し情けない。船につけられたスペイン王国国旗とカタルーニャ自治州州旗が風ではためいている。風はあるが、甲板には太陽が照りつけており、ジリジリと肌を焼く。数日後、パリで友達に再会した時、「焼けたね」と言われたが、間違いなくこの地中海のカタルーニャの太陽のせいである。

船はじーっとしていて動かず、ただただ暑いばかりである。客は徐々に搭乗し、しばらくして満員になると、ピーット汽笛が鳴った。船は後ろ向きに発信し、港が少しずつ向こうへと離れていった。さらばコロンブス。数分後にまた見えん。そうこうするうちに、バルセロナの町から船は離れていった。ぶおーんという船の音ともに、船体は小刻みに揺れている。目の前の席には先ほどの3人家族がいて、子供に「ほら、コロンブスだよ」というような感じで話しかけている。談笑の声がデッキには溢れ、暖かな雰囲気が形成されていた。気温は、暖かいというより、暑いのだが。

フェリーはバルセロナの港を出て、バルセロナ世界貿易センターのあたりを通ると、船着場のようなところにやってきた。香港の船が見える。錆びついた、巨大な貨物船である。いまでも、大量輸送は船の仕事だ。遥か彼方、香港からも船がやってくる。そう思うと、この船もこのまま地中海を出て、スエズ運河を通ればアジアにまで通じているだなあと少しワクワクした。船の行き先を決めるのはただ、船長の舵取りだけなのだ。可能性はどこまでも広がっている。

フェリーの針路の先には海の色が変わっている部分があった。すぐ下に見える水が緑がかっているのに対し、ある境界線を隔てて向こう側は深いブルーになっていた。そうか、今私たちのいる場所は本物の地中海ではないのだ。この場所の、さらに先にある、あのもっと鮮やかな色の海こそが、地中海なのか。海に国境線はない、などと格好つけていうことは簡単だが、こうみると、やはり海には境界線がある。地中海と、地中海ではないものを隔てている。船長は地中海まで行ってくれるだろうか。目の前にUターンするのだろうか。目の前の3人家族は自撮りをしている。

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船は、地中海の方へとまっすぐ進んだ。やはり、ここまできたんだ、地中海まで行ってもらわねば困る。ぐーっと船は進み、青の境界線を乗り越えた。するとどうだろう。今までは穏やかだった海が突然大波を立て始め、船は大きく揺れた。「ふーっ」と誰かが歓声を上げた。船はぐらりぐらりと横に揺れる。これが地中海なのか。何故だろう、心躍る気がした。船は揺れる方が楽しい。

しばらく波に揺られながら地中海を航行したゴロンドリーナ号は、緑色の安全地帯に引き返した。海風が気持ち良い。徐々にフェリーがバルセロナの港へと戻って行くと、言葉は分からないが、おそらく、「ただいまー」みたいなことを前にいる女の子が言った。するとカメラを下げた女性がやってきて、アルバムのようなものを見せた。実は船で航海している途中、この人がそれぞれの写真を撮っていたのだ。新手の物売りかと思って少し警戒してしまったが、このタイミングで売るようだ。どうやらゴロンドリーナ号御用達のカメラマンのようで、もっとオープンに接すればよかったと思った。が、買わなかった。なにせ私はリュック一つ。アルバムは大きすぎた。

船が港に着き、わたしは他の人たちとぞろぞろと下船した。前に駿河湾のフェリーに乗ったことがあるが、その時と同じく、船に乗る前よりも地面が硬く感じられた。グイッと抵抗を感じるのだ。船を降りた足で、先ほど横目に見えた蚤の市に行くことにした。

蚤の市には、アンティークの陶器や、パイプ、古いバッジ、軍隊の帽子まで売っていた。日用品、というよりは、マニア向けのニッチな掘り出し物という感がする。もしくは、観光向けだ。軍隊関係のものが結構見受けられるが、スペインで軍のアンティークというと、フランコ独裁政権を思い起こさせられて、これはタブーになっているものではないのかとなんとも奇妙な気持ちになった。

蚤の市は大した大きさではなく、少し歩けば外に出てしまう。わたしはそれからまた地中海の方へと向かった。港の階段に腰掛けて、海を見た。青の境界線のこちら側は、実に穏やかな海だ。歴史のことを考えた。地中海は歴史の舞台だ。今の中東から始まったこのあたりの歴史の波が地中海にやってくるのは、海の貿易に優れたフェニキア人がやってきた時。のチュニジアを拠点に、フェニキア人はカルタゴという国を立て、地中海を支配した。だが、その支配も長くは続かない。イタリアを統一したローマ帝国が海に進出し、フェニキア人のカルタゴと第一〜三次ポエニ戦争が勃発。地中海はローマの海になった。「マーレ・ノストゥルム MARE NOSTRVM(我々の海)」。ローマ人はこの海をそう呼んだ。盛者必衰。ローマが滅びると、北アフリカイスラーム系海賊がこの海を支配するようになる。そのあと台頭するのは、はるばるデンマークからやってきたヴァイキング神聖ローマ帝国や、フランス王家、ジェノヴァ共和国も海を争った。そして、それからバルセロナを首都とするアラゴン連合王国アラゴン亡き後は、スペイン王国の海となり、最後には英国がこの海を握る。今はこの海が、キリスト教世界とイスラーム世界を分けている。アラブの春の後はたくさんのボートピープルが北上したという。数奇な運命にのまれ、この海ではたくさんの血が流れた。それでも海は静かだ。海がこれほどまでの歴史を見つめているのは、地中海を置いて他にないのではないか。そのようなことを思いながら、わたしは海を見た。まるで戦いの姿が、歴史が、見えるようだった。しばらくして、中国人観光客が自撮りを始めた。平和になった。この平和が続けば良い。海鳥も浮かんでいる。

しばらく海を眺めた後で、ランブラス通りに戻ることにした。コロンブス像のそばにある地下鉄ドラゴネス駅から中心駅バルセロナサンツ駅に向かおうと思ったのだ。明日、マドリードへ向かうための列車のチケットが欲しかった。