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旅、映画、食べ物、哲学?

時間と時の流れのせめぎ合い

前々から思っていることなのだが、私たちは二つの時間を生きているのかもしれない。一つは社会的な時間で、もう一つは私の心の奥を流れる時の流れである。そのようなことをいうと、難しいことを言っていると思うかもしれない。しかし、実はそこまで変なことではないし、ましてや難しいことをいうつもりもない。

社会的な時間というのは、いわゆる何時何分何曜日のことだ。今日や明日というのもまたそれだし、2019年や平成というのもそれのうちだ。私たちはこの時間を決めた覚えはないし、この時間は私たちが生まれた時から刻まれ続けている。そして流れる速度は基本的に一定である(時点の速度の変化などはあるだろうが)。

私たちの多くの活動はこの時間に従ってなされる。朝8時から始業だ、昼休みは一時間、終電は0:30、みんなでカウントダウンすれば新しい年になる…などなどこういうことは社会的な時間の賜物である。

普通はこの時間の中で私たちは生きているように思うだろう。だから、時が過ぎるのが速くなった、などというのである。しかし、たまに、人によってはしょっちゅう、社会的時間に置いてけぼりにされている感覚を覚えることはないか。私は大いにある。周りの時間があまりにはやく、私はついて行けない。ついて行けぬことランニングマシーンのごとしである。ランニングマシーンがあまりに速過ぎると走れなくなる。それと同じような感覚で、置いて行かれるのである。

そんな時、私は自分の時間と社会の時間が違うのだと意識するのだ。こう例えるのは適切ではないかもしれないが、ランニングマシーンの話にのっとって、自分の歩くスピードと考えてもいいかもしれない。社会的な時間は、私にもっとはやく、もっとはやく歩くことを要求する。私たちは下手に「社会的動物」なもんだから、はやく歩かねばと思う。だが、やはり心にはむずむずしたものが残るのだ。

 

大人とは、それを我慢するもの、なのかもしれない。だが、どうして我慢すべきなのかと、考えてみると、私が心から納得できる理由は見当たらない。

もちろん、社会的時間は有用だ。これがなければ待ち合わせもできない。「会いたくなったら会おう」はなかなか良いが、残念ながら会いたくなった時にその相手がどこにいるのか分からなければ会えないし、呼び出したにしても、いつ着くのかわからないと会えない。さらに、新年などは特にそうだが、心を入れ替えようと思える、というとても良い効果を私たちにもたらすことがある。「これを機に!」などといえるのはやはり社会的時間があればこそだろう。平成最後というのを過度に嫌う人もいるが、私はそれが何かのきっかけになれるなら、いいじゃないかと思う。

しかしやはり、時に、社会的時間について行けなくなる。そういう時は、しばらく休んだり、どこかに行くことが必要だと思うのだ。それがないと、私たちは焦燥感と疲れと義務感だけで生きることになる。それがいいならいい。でも私は活力を持って生きたい。時間を取り戻したい。

そのために、散歩をしたり、旅をしたりするのである。ときにスケジュールというものを壊してみるのも(もちろん人に迷惑かけない程度で)大事だ。意味のわからない行動をしてみるのも。すると、私たちは社会的時間に支配されているのではなく、自らの歩みで、時の流れを紡ぎ出していることを再確認できる。

何が言いたいのか。

そう、そろそろまた旅に出たいなぁ、というグチである。

2019年宣言

年が明け、西暦2019年が始まった。


一昨年はいろいろなことがあった年だったが、去年はいろいろなことが降りかかってきた年だった。いろいろなことが降りかかりすぎて、踊らされるばかりの年だった。そう、間違いなく、去年は私は主体的に踊ってはいなかった。踊らされるがままに踊らされ、自分で踊っていた過去のことを思い出しながら、胸の疼きを覚える。そんな、一種惨めとも言えるような日々を送っていた。袋小路。疲れ。それはまるで、どうやって攻勢を仕掛けたところで敗北は必至の戦いの最中にいるような気分だった。

 


これ以上そうやって悲劇を語ることはしまい。そんなのは柄ではないし、馬鹿らしい。もちろん得たものはあった。一つは、社会というもののある側面を見ることができたということだ。そこには本音と建前があった。ちょっとずれた人がいた方が世の中面白いし、世の中うまく動くし、そうやって社会は機能しているんだ、と思っていたが、既存の社会秩序はそれを是認するほど心が広くはなかった。余裕がない。自らが思いついたことを自ら行動し、自らで自らの人生を創りあげることは、決して社会に望まれることではなかったのだ。

 


だが私の人生は創ることで生き生きとしてきた。旅は創造だった。街を歩くときでさえ、右に行くか、左に行くか、まっすぐ歩くか、思うがままに歩くのか、義務に従って歩くのか、合理的に歩くのか、あえて非合理を進むのか、そんなことで散歩を創り上げて行く。そしてもちろん、学園祭やこういうエッセイ、哲学することは、創ることだ。あるいは私にとっては学ぶことそれ自体も、創ることに近かった。歴史は、歴史を作ろうとする人々の中に没入することだったし、物理学や数学も、謎を解こうとする人々とともに前に進むことだった。だからこそやってこれた。私が真面目だから勉強ができるという偽りを信じ込む方がいらっしゃるが、私が学校や大学での勉強がそれなりに良い成果を収めるのは、私がそれが好きだからにすぎない。気に入っているのだ。気に入っていないものは私はできない。私には、喜びと興奮が必要なのだ。

「歓びのあるところほとんどに、創造のある」

とフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが言うように、創るところに私の喜びは間違いなくあった。心踊らされる日々が、もっと先へもっと先へと進んでいきたいと思わせる、言葉にしようのない興奮があった。心は心地よかった。風通しが良かった。そこには「しなければいけない」とか「義務」とか仰々しいものではなく、心の灯火があるだけだった。私はそれが好きだったのだ。大好きだったのだ。

 


世の中、しなければいけないことはあるだろう。義務というのはあるだろう。その多くは自分が決めたものではなく、私たちが生きてきた、そして私たちを生かしてくれる社会によって強いられるものだろう。だが、やはり、我慢がならない。それは明らかなわがままである。社会がない世界を想像すれば、それがどんなにやばいかもわかる。頭ごなしに否定する気もない。だが、それでも、おそらく一度きりであり、あるいは一度きりである以外に想定するのが非常に難しいこの人生、どうしてこの思いを断ち切れようか(いや、断ち切れない(反語))。

 


本当は、新しい一年の始まりなのだから、もっとバランスの良いことを書きたいし、もっと綺麗に始めたい。しかし、去年という年がこのようなことを思わせる年だったのだから、しょうがない。これは、新しい一年の始まり、という口実で、新しい年の宣言をするエッセイなのだ。だから宣言する。もう、踊らされはしまい、と。好きなようにやらせてもらいたい、と。それが他の人のためにもなると思っている、と。だから今年の目標は、創造することだ。それは今までずっと目標に掲げてきた「自由になること」の先にあるものだ。いや、同じことなのかもしれない。

私は夢というものを一度捨てた。そんなものを持っているより、社会に適合しつつ、心の中で反抗するのが手っ取り早いように思えていたし、社会も悪いところではないと思っていた。もちろん、今でも社会はきっと悪くはないと思っている。だが、既存の社会にはどうしても変だと思うことはあるし、変なものは変だ。私はもう一度賭けたい。何かを創ることに。冒険と夢に。去年の終わりに、そう気が変わったのだ。新しい出会いがそうした。感謝している。だからそのための活動も、きちんと逃げずにやりたい。かつては逃げたことだ。だが、何度か旅して、少しくらいは度胸もついたはずである。それに、去年の暮れから少しずつ、仲間も集めている。

 


構想はある。というか、創った。それは、大学に入る直前に創ったものの延長線上にある。あの時は雑誌を立ち上げようとしていた。今回は、少し異なる。スタート地点には、翻訳がある。翻訳は好きだ。そこから始める。古い哲学書や文学などを日本語に、それもとっておきにファンキーな(?)日本語にする。英語やフランス語だけではない。もっと変な言語、アゼルバイジャン語やグジャラーティー語みたいなだれもよく知らないようなものもまた、最終的には翻訳をする。それをインターネットか何かを通じて出す。それで、多くの人が触れたことのない世界と人々との間の扉を開くのだ。基本的にはその翻訳活動を行う研究所ないし図書館のようなものを中心にいろいろと回していきたい。語学、文化交流、哲学、旅などをそれを中心にして動かしてゆく。

これには社会的な意味もある。つまり、「やりたいことをやる」ことがうまくいくという事例を作りたいのだ。だから翻訳も翻訳者の好きなものを訳したい。したいことをするのが、モットーである。


とまあ、昔やったように大風呂敷を広げてはみた。どうなるのだろう。それはわからない。すべてのことはイン・シャア・ッラー(神の思し召し)。未来のことを言う奴は嘘つきだ。だが、それでもこんなことを言ってみようと思う。それが、新年だからだ。

あけまして、おめでとう。

On "Happy Christmas"

確か去年のことだったと思うが、トランプ大統領が「Happy Holidays」ではなく「Happy Christmas」といったことで問題になった。なぜかというと、現在アメリカでは、特にリベラル層を中心にだと思うが、あらゆる宗教や人種がアメリカにいるという理由で「Happy Christmas」というキリスト教的要素の強い言葉ではなく、「Happy Holidays」という中立的な表現を使おうという動きがあるからだ。ランプ大統領の政策の多くは賛成しかねるが、「Happy Christmas」に関しては、私は「Happy Holidays」という表現に違和感を感じている。

これは、「英語はいろいろな発音があっていいんだよ」説と同じ過ちを犯している(これが過ちであるということについてはまたいずれ書こうかと思う)。「Happy Holidays」という人はなぜクリスマスについてだけこれを使うのか、ということである。おかしいではないか。ラマダン明け、ディワリ、テト、旧正月、ソンクラー、花まつり、お盆、ハヌカ……といった世界中の祭りについて、たぶん「Happy Holidays」派の人は、「Happy Holidays」とは言わないだろう。だが、明らかにキリスト教の祭りであるクリスマスだけはそう言って、他の宗教の人も祝っていいというアピールをする。クリスマスだけが普遍的とでも言いたげである。妙な話だ。

 

とまで言ってしまうと、まるでクリスマスを毛嫌いしているようだが、そうではない。私はあくまでクリスマスが好きなのである。だが、どうしてなのだろうと考えれば考えるほど、やはりそこにはクリスマスの持つキリスト教の文化の影響があるのだ。それを無視してしまっては、もはやクリスマスではない。ただの冬至である。冬至とクリスマスの間には、大きな差がある。

 

クリスマスは赦しの日だ、とシャーロック・ホームズが言っている。そう、クリスマスは赦しの日だ。だからこそ、第一次世界大戦中も、クリスマスの日には休戦をした。憎み合う二つの国の兵士も、戦争をやめた。これは、キリスト教の文化の背景なしには成立しないだろう。敵であっても、罪を犯した人でも赦されるのがキリスト教だ。キリスト教のいいところだ。私はキリスト教徒ではないし、そのような家庭にも育ってはいないが、そこは認めたい。

キリスト教の文脈だけでなく、ヨーロッパやアメリカという地域がクリスマスを作ったというのも、クリスマスの大事な側面だ。「どんな場所でも、長い冬が中間地点に来たら、皆で抱きしめあい、『よくぞ乗り切った。よくやった。暗い冬も半分やりきったんだ』と言い合うだろう。」という言葉が英国のSFドラマドクターフーのクリスマススペシャルの冒頭で登場するが、これはやはり、ヨーロッパの考え方だ。ヨーロッパの冬は暗い。私もドイツにいた時、冬は朝から本当に暗く、昼間はどんよりしていて、夜はすぐにやってきたのを思い出す。あのような気がめいる時の中にあれば、クリスマスは本当に心の灯火だろう。暖かいだろう。だからこそ家族で集まる。クリスマスキャロルも心に染み渡る。そこには、感謝の日がある。

 

もちろんだからといって、クリスマスがヨーロッパのキリスト教徒のものなどというつもりはないし、そんなことになったら私が困る。だが、あくまでそんなバックグラウンドを持ったものだからこそ輝くのがクリスマスであり、それがあるからこそクリスマスはクリスマスであり続けるのだと思うのだ。

私はドイツに住んでいたことがあり、家族はドイツかぶれだし、私自身はドクター・フーアガサ・クリスティーといったクリスマスとタイアップすることが多いイギリスの文化に親しんできたから、私にとってのクリスマスは、そうなのだ。懐かしさを伝えてくれ、温かみと親しみもあるが、やはり日本的なものでは絶対にありえない、ましてや中立的なものではないのが、私にとってのクリスマスなのだ。恋人や友人とケンタッキーを食べる(?)現代日本式のクリスマスも、間違いなく、そうしたヨーロッパとアメリカの残り香があり、そしてそれゆえに、心に残るものなのではないか。

 

だから、私はトランプ大統領を支持するわけではないが、こう言いたいのである。

「Happy Christmas!」と。

旅と自由

ブログに書いたかどうかは忘れたが、以前、散歩中に迷ったことがあった。

その日は大学の授業が13時30分からあったのだが、昼食の海鮮丼定食を待っていたら、授業に5分ほど遅刻する時間になってしまっていた。その授業に魅力をあまり感じなくなってきていた時だったし、階段で4階まで登らなければいけなかったこともあり、なんとなくめんどくさくなって、それじゃあ散歩でもしようという気になった。まじめにも授業に出る友人に別れを告げ、私は赤坂の方へと歩いて行った。

授業は1時間半。15時15分から次の授業が始まる。次の授業は好きな授業だったので、出る気だった。しかし散歩をしていると、面白いもので、より先へ、より面白いものがある方へ、と探索に出たくなってくるのである。そこで私は赤坂の奥地へと針路をとった。

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本当に知らない道というのは楽しいもので、まるでコイントスするように、私は右に左に歩き続けた。まさに、風邪の幕間まきの向くままである。曲がった道、登る道、知ってる道に出たら、振り出しに戻る。しばらく歩けば、神社が見えてくる。入ってみよう。ちょうどいい椅子もある。本でも読もう。心地よい風の中、読書を楽しんだ。どうやらこの界隈は、氷川神社の近くで、勝海舟のゆかりらしい。

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と、ふと気がついた。そういえば次の授業に間に合うためには、そろそろ戻らねばならないのである。私は数ページ読んでから、神社を後にして、戻ることにしたが、同じ道をまっすぐ戻るのは芸がない。どうせなら、氷川神社なるところのそばを通って帰ろう。普段はやらないが、今回はと、私はGoogleマップで、綿密な計画を立て、氷川神社を通って大学まで戻るルートを見出した。

ところが、である。氷川神社の横を通り、多分こっちが赤坂だろうなという道を通り、しばらく歩くと、地図にないどでかい公園が出てくるではないか。多分これは、某テレビ局の敷地内だろう。私はそう踏んで、公園でくつろぐ人々や、前衛的なオブジェを楽しい気持ちで眺めながら、公園の奥にあったビルに入った。

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とりあえずそのビルのトイレで用を足し、表示を見ると、それはテレビ局のそばの建物ではなさそうだった。東京ミッドタウン。赤坂とは真逆であった。

これは間違いなく間に合わない。初めは少々焦ったが、だんだん楽しくなってきた。こう言う日もある。いや、こう言う日の一つや二つあってしかるべきだ。どうしてやろうか。ミッドタウンでやっていた写真展も気になったが、金がないので却下だ。ならば、とりあえず外に出よう。私は東京ミッドタウンを出るや、横切る大通りの右に行くか、左に行くか、どちらが楽しいのか考えてみた。片方は街並みがある。もう片方はどこまでも続く。さて。いつもなら、街の方に行くだろう。だが今日はあえて、どこまでも続く道を行こう。なんとなく、街の方に行くと、私の知る場所に着きそうな気がしたのだ。知らないところに行きたい。私は左に曲がった。

そこは知らない道だった。たぶんここにきたことがないのだから当然だ。道をずんずん歩く。知らない道は楽しい。まるで異国にいるような気分がする。上りも下りもエキサイティングである。しばらく歩くと、乃木神社があるということがわかった。たしか、乃木希典を祀っているはずだ。ドラマで見た坂の上の雲の印象しかない。たしか、明治天皇が死んだ時、殉死した人である。とりあえず行ってみよう。と、歩き続けると、レンガの壁が見えた。なんだこれは、と思ったら、どうやら旧乃木邸らしい。まるで工場のような作りだ。中に入ると、視線を引きつける不思議な、ブロッコリー状のオブジェ。その周りは公園だ。雰囲気はいい感じである。

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レンガの門を抜けると、乃木邸があった。中には入らないが、覗くことはできる。結構質素な家である。さすがは侍の矜持を守った男だ、などというと偉そうだが、彼が何を大事にしていたのかがわかる気がした。そういえば、哲学者のメルロ=ポンティは、人の性格は身の回りに置くものからうかがい知れるというようなことを言っていた。

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しばらく公園で風を感じた。神社はやめておいた。

公園を出て、歩き始めると少し日が傾いてきた。とりあえず今まで道を歩いてみよう。はてさて、この道はどこまで続くのか。登ったり下ったり、道端に洋館らしきものがあったり。と、突然見たことのある風景が目に飛び込んできた。それは独特の形をしたアパートだった。いつ見たんだっけ。あれはそう、たしか、カンボジア大使館である。カンボジアは珍しく日本から行くにはビザがいる。だから私は、この近隣にある大使館でビザを申請したのだ。だからこの場所には、申請と受け取りの2度訪れていたことになる。どうりで見覚えあるわけだ。この辺りに、一階にレストランが並ぶアパートがあって、その見た目が、どことなくヨーロッパの町にある風景を思い出させ、印象に残っていた。

すると…このままいけば、青山通りだ。よく知っている道である。後で知ったが、ミッドタウンの分岐の時点で、右に曲がったならば、六本木を経て、あまり行かない場所にたどり着いていた。そう思うと、面白い。結果的に知っている場所へ続く道を、選んでしまっていたのだ。そんなものだ。ここまできたら、とりあえず渋谷にでも行ってしまおう。

 

この日、結局渋谷へ行き、それから、気分で新宿まで歩いた。新宿に着くときは、もう夜の帳も降りていた。突っ込もうと思えば突っ込める。なぜこんなとこにいるのか、と。それで良い。それでも良い。理由がわからないから良いのだ。あの日は、なんとも言い難い満足感があった、高揚感があった。

決まり切った電車に、決まり切った時間に乗る。安定した、平穏な日常。それも悪くはない。だがときに心が置いてきぼりになってしまう。どこかに落とした心をそのままに、空っぽのまま動き続ける。ときに置いてけぼりになった心が、抜け落ちてしまった傷口が疼く。何をやっているのか、完全に論理的に説明できるはずの日常生活なのに、「俺は何やってんだろう」とおもう。本当は、右に行くも左に行くも、寝るも起きるも自由なのに、それだけではなく、もっと深いところでも自由なのに、私たちは自由を忘れる。

今日はどこへ行く?どう足を踏み出す?右?左?それとも立ち止まる?旅に出ると、そんなことが自分にかかってくる。それは不思議と嫌なことではない。それは多分、自らの手で自らの旅を創り出しているからだ。人は時の流れの中を生き、何かを創り出し、それ故に自由なのだ、とフランスのお偉い哲学者はいう。いや、本当にあったというより、私はそう言いたいんじゃないかと思う。旅や散歩の効能は、私たちを解き放つことだ。自分が創り出す側に行くことだ。

と、最近ちょっと無気力に、不満ばかり垂れている自分への戒めも兼ねて、書いておこう。さて、明日はどこへ行こうか。

インド映画の効能

今年一の大発見は、人間はやはり弱いのだということだった。もちろんそんなことはわかってはいたわけだが、やはり弱い。いつでもやる気に溢れることなんてできないし、打開する道を見出すことも容易ではなく、くじけてしまうこともままある。心の奥の灯火が灯らず、無気力が続くこともあるし、ままならぬ状況に心が壊れてしまいそうになることもある。実際に壊れることもある。もちろん人の悩みには、迷いにすぎないこともある。一度の旅が、一度の散歩が、心を癒してくれることもある。だが、自分ではどうしようもないものもある。散歩をし、友人と楽しいひと時を味わい、旨い酒と食べ物を得たところで、問題が解決しないこともある。そういうとき、やはり自分の弱さを実感せざるをえなくなる。苦しいが、乗り越えるのに必要な気力も見出せない。何もかも分からない。そんな状況を前に、私たちは膝を折る。

そんなことは、人生で何度もあることなのかもしれない。だが、人生で何度もあるからといって楽観的になれるわけでもないし、悲観的になりたいわけでもないのだ。そんなときには、やはり自力では抜け出せないので、何かが必要だ。自分を動かし、悩みや苦しみなど、瑣末なことのように見える何かが。それで解決しなかったとしても、すこしでもいい、自分を奮い立たせてくれる何かが必要なのだ。そんなとき、私はインド映画を見る。劇中歌を聞くだけでもいい。無論、インド映画が解決になることはない。だが、見るのである。

 

インド映画というと、荒唐無稽なイメージがあるかもしれない。謎のタイミングで始まる異常に大人数でのダンスシーン、ど派手すぎるアクション、「ヒュッ」「バシーン」というへんちくりんな効果音、完璧すぎるヒーロー、勧善懲悪。嫌いな人は嫌いだろう。逆に好きな人は好きだろう。そんなイメージだ。そしてそのイメージはほとんど正しい。もちろん、数年前に流行った「きっと、うまくいく」のように、インド映画伝統のわけのわからなさが少ない作品もある。だが、特に今現在日本で流行っているインド映画「バーフバリ」やその原点とも言われる「マガディーラ」、あるいは20年くらい前の「ムトゥ 踊るマハラジャ」などは荒唐無稽と言われれば荒唐無稽である。

しかし、荒唐無稽には荒唐無稽なりの意義がある。むしろ、それだからよいのだ。

作家の沢木耕太郎が、インドに行ったときにインド映画を見た感想を『深夜特急』で書いていた。沢木さん曰く、インド映画で出てくる派手な衣装、派手な生活というのは、実際のインドの生活とは到底掛け離れているが、だからこそ、インド人にとってインド映画は必要なのだ。劇場は夢を見る場なのである。これにはかなり納得した。暗い映画は暗い映画でいいとは思うのだが、なぜ劇場でもこんな重いものを?と思うこともある。勧善懲悪、ハッピーエンド。現実の世界ではありえないとは言えないが、現実ははるかに複雑怪奇で、不安定である。インド映画で悪役が勝ちそうになっても、心のどこかで「大丈夫、主人公が出てきてくれる」という安心感がある。しかし実際の世界では、そうはいかないこともある。だが、だからこそ、映画に夢を託すのだ。きっと大丈夫だ、きっと強いヒーローが救ってくれるんだ、と。

そして、ダンスである。インド映画のダンスシーンの音楽は、独特の中毒性がある。多分、あのリズムだ。でんででっでんでんででっでんでんででっでん、というようなリズムを刻まれると、なぜだろう、私の胸の奥の奥にある何かがリズムに同期し始め自然と体を動かしたくなるのである。インド映画はキレッキレのダンスがかっこいいなということももちろんあるのだが、それだけではなく、俺も踊りたい、と思わせる何かがある。そのとき、ダンスを通じて客と銀幕は一体化する。夢の世界へと誘われる。いや、あるいは、もうすでに夢の世界に入ってしまっているのかもしれない。

ヒーローの完璧さも熱狂の渦を生む一つのファクターだ。全国で「バーフバリ」の応援上映が行われていたが、あれが人気を持ったのは、映画を見ていると、そのヒーローを全力で応援、というか称えたくなるからである。「よくぞ言った!」「そうだ!」「バーフバリーーー」とまあ、こんな感じで、音楽のせいか、ダンスのせいか、映画の構成のせいか、まあ、多分どれも正解でどれかだけというわけではない何かに引き寄せられた観客は、インド映画の絶対的ヒーローに引き込まれるのである。インドの映画館では、踊ったりするのが自由だというが、インド映画を見ていて思うのは、もはやそういうふうにできているのである。そうせざるをえなくなる何かがあるのである。この前「マガディーラ」を見たとき、思わず終わったあと拍手をしそうになったし、主人公の登場シーンでも拍手しそうになった。逆に日本の慣習に従って耐えているのが辛いレベルである。

 

そして、そんなインド映画のヒーローは私達の持つ弱さを乗り越えている。もちろん、そうではないのもいる。例えば「チェンナイエクスプレス」の主人公は、いろいろな事件に巻き込まれ、恋をして変わってゆくから、初めから強いわけではない。しかし、傾向として強い人が多い。強いだけではない。ハナにつく強さではない、ということだ。「強く生きろよ」というタイプではない。彼らは彼らで強く生きているのである。

「きっと、うまくいく」の主人公ランチョーは普通の人ならすぐに絡め取られてしまい家事な学歴主義だったり、勉強や就職といった社会のルールを超えて、自分らしく生きる。「pk」の主人公は宇宙人である。そんな異邦人の立場から、インド社会に根強く残る宗教や反宗教という価値観に真正面から挑む。普通はタブーでできないことなのに、だ。「バーフバリ」の主人公は親子だが、両方とも、まず力の強さが尋常ではない上に、常に正しく、愛する人のために戦う。「リンガー」の主人公のマハラジャは人に対等に接し、もちろん力も強く、正義に従う。「ジョーダーとアクバル」のアクバル大帝は宗教を超えて、帝国を一つにしようと、周りの保守的な考えから突き抜けている。そんな彼らは、周りをも変えてゆく。劇場にいる私たち観客の心も溶かしてゆく。

 

そうした主人公たちの突き抜けた生き方を映画を通じて、熱狂の中で見て、そしてハッピーエンドの大団円に盛り上がったとき、「いがいとなんとかなるんじゃないか」という勇気をもらえることがある。もちろん、それは幻想かもしれない。いがいとなんとかなることなんて、珍しいのである。だが、折れそうな心、出口の見えない状況に立ち向かうちょっとした勇気を少しでも与えてくれるのには十分である。それは映画の上映中だけでもいい。

ハッピーエンドは自分で作るしかない。そんなことはわかっていても気力が湧かない。そんなことはわかっていても、状況は簡単には変わらない。もう取り返しはつかない。そんな只中で悶え苦しむときに、映画を見ているときだけは、「いける」と思わせてくれる力がインド映画にはある。その「いける」がいつか自分の軸となり、いつか心の中のインドの勇者が育ち、道を塞ぐ重くで暗い何かを粉砕してくれるかもしれない。ほら、インド映画は語りかけている。自由になろう、と。生きよう、と。さあ踊ろう、と。さあ歌おう、と。「うまーくいーく」と。

少なくとも、映画を見終わって、YouTubeなどで劇中歌を聞いているときくらいは、そんなふうに思うこともある。いや、そんな気になることもあるのである。

国を作る

京都のバーには、新撰組由来の名前のカクテルが置かれていた。近藤勇土方歳三藤堂平助原田左之助などなど。土方歳三を飲んでみたが、ジンジャーが強く効いていて、キリッとした感じがどこか「鬼の副長」と呼ばれて恐れられた土方の人となりを表現しているような気もした。

その、土方歳三から、話は私の大好きな歴史上の人物である榎本武揚の話になった。榎本武揚。彼の名前はあまりにマイナーすぎる。知っているという人でも、おそらく二つの歴史的事項とのつながりでしか知らないだろう。「五稜郭の戦い」で、恐れ多くも「官軍」に最後まで抵抗した幕府側の人物。そしてその敗戦後、奇跡の復活を遂げ、ロシアと交渉し、「樺太・千島交換条約」を締結した男。あるいは、「大津事件」の対応のための中継ぎ、「郵便マーク」が生まれた時の逓信省大臣、などといったことを知っている人もいるかもしれない。だが、彼はあまり有名ではないのは確かだ。

それでも、私は榎本武揚が好きである。あの時は「面白い人物」と表現したが、もちろんその表現が私の心情にぴったりあっているわけではない。榎本武揚には惹かれるものがある。だが、何がそんなに力強い魅力を生んでいるんだろう。実はあまり考えたことがなかったとも思う。あまり考えない中で、私は榎本武揚を描いた小説を読み、榎本武揚が出てくるドラマを何本か見て、そして高校卒業の春、一人で卒業旅行と称して箱館へ向かったのである。だが、おそらく、彼に惹かれたのは、やはり「国を作ってしまった」男だからだと思う。

 

榎本武揚の生涯については、語るつもりはないし、語る資格もない。私は歴史家ではないから、史料もあるわけではない。だが、彼は紛れもなく国を作った。

幕末、オランダ留学へ行った榎本武揚は、帰国するや幕府が崩壊しかけているところに出くわす。いわば浦島太郎状態である。その後奮戦するも、将軍(大政奉還後なので「大君」)徳川慶喜は反幕府の薩長勢力に恭順してしまい、江戸城無血開城となる。徳川家は駿府に移されることになるが、駿府での収入は徳川家家臣の人数に明らかに合わない。榎本武揚はそこで、家臣団が蝦夷地と呼ばれた北海道で開拓をし、自治権を得ることを求めたのだった。

これは国ではなく、単に家臣団が蝦夷に移動しただけであり、のちに徳川家の誰かを領主にしようとしていたという説が有力なのだが、私としては、榎本武揚に国を作る意志のようなものがあったのではないかと思えてならない。蝦夷を占拠した後の彼はといえば、オランダで学んだ万国公法(現代で言うところの国際法)を応用し、プロイセンアメリカ、ロシア、英国、フランスなどと渡り合い、手が出せない状態を作って独立を維持し、フランス軍事顧問団の助言を受けて斬新な作戦(アボルダージュ作戦。敵軍の船をそのまま掻っさらう。これは失敗した)を取り入れ、さらには国の幹部を入れ札(将校以上による選挙)で選ぶという部分的な共和制を自治州に適用している。いろいろ理由をつけられるが、だがやはり一種の情熱が見え隠れする気がする。特に選挙である。なぜ共和制なのか? 明らかに合理性だけでは片付けられない。榎本軍には会津や仙台、新撰組幕臣など様々なバックボーンを持った人がいたから、選挙制を敷いたという説もあるが、それだけだといえるだろうか。政権を得たいなら、自分が棟梁になると宣言すればいい。正当性が欲しければ、同行していた老中筆頭板倉勝静に迫れば良い。なんなら、板倉勝静、永井尚志などの高位の人物に会津など諸般の筆頭を集めた合議制でも良い。それでも、榎本武揚は選挙を選んだのである。日本では基本的に農村レヴェルでしか行われていなかった新しすぎる制度である。それに、徳川家の人間をその後でトップに据えるとしても、選挙で成立させた体制をそれですぐさま変えることはできないだろう。

彼になった気持ちで考えると、時代の情勢はかなり悔しかったに違いない。オランダでいろいろなものを吸収し、さあ、今度は自分たちが国の舵取りをする番だ、という矢先に、いつの間にか主導権を奪われたのだ。しかも、相手はあろうことか、共和国でもナポレオン式帝国でもなく、古の平安の香りがする太政官制度を復活させようというではないか。夷狄を排除せよとついこの前まで声高に叫んでいたものたちがそのようなことを言っているというではないか。これは承服できない。ないならば……作ってしまうしかないのである。自分たちの国を、である。榎本武揚箱館の戦いに敗れるが、その後、明治政府の中枢に入り込む。そこでも彼は理想とする国を作ろうとした。そのため、何度も政府から罷免されているらしい。

彼の面白い点は、作ることに主眼を置いたことだったと思う。幕末において、長州や薩摩も、会津奥羽越列藩同盟も戦いに執着していたように思える。だが榎本武揚は、そうではない。彼はあくまで作ったのだ。彼の目的は薩長政府の転覆ではない(ように思う)。蝦夷の地に幕臣たちの土地を作り出すことだった。

 

こういう話はやはりワクワクする。私は昔からこういう話が好きだった。

古代ローマに興味を持つきっかけは「なぜ共和国から帝国になったのか」という青い理由のせいだったが、塩野七生の『ローマ人の物語』を読んでいて、まず最初に心をつかまれたのは、ローマ建国に際するあれこれだった。流れ者だったロムルスとレムスが一つの国を作る。それからギリシアに学びつつ、元老院、市民集会などのシステムを作ってゆく。そしてユニウス・ブルトゥスの「革命」で国王を追い出し、新たな国づくりが始まる……。あれには胸が躍った。

国史にはあまり興味が湧かなかったが、鄭成功には興味があった。攻め寄せる清、陥落する明、その中で明王朝を立て直すべく、台湾のオランダ軍を叩き出し、その地に国を作る。そのストーリーはやはりハラハラドキドキである。思えば、箱館が私の最初の一人旅だったのに対して、台湾は私の最初の海外一人旅であった。

革命の物語に血湧き肉躍るのは、彼らが時の政権を転覆するからではない。理想の国を語り合うからである。革命が恐ろしくなるのは、その理想が、理想を守るための排斥に移り変わる時だ。教会は敵だ、国王は敵だ、外国は敵だ、知識人は敵だ……興奮は憎悪へと転化されてしまう。だがその興奮の根元には国を作ることへの強い気持ちがある。破壊や現状への不満もなくはないが、それ以上に、作ることへの意志がある。

心を動かすのは、何かを作ってしまおうという心である。それができるかもしれないという希望である。もはや妄想ではない。それゆえ、歴史の中でそれが吹き飛ばされてしまう時、私たちは悲しみと悔しさを覚える。それが実現した後で、あらゆることが重なって、悪い形に歪んで行く時、辛さを覚える。もちろん歪むことは決して悪くはない。世界を変えるなら、生活に合ったものでないといけない。机上の空論は誰も求めていない。しかし理想に執着しすぎたり、逆に利益を求めすぎることでおかしくなるのは辛いのである。それはともかく、歴史の中で国を作ろうともがく人々に、私たちは心揺さぶられ、思い入れを感じてゆく。

それはもしかすると、私たちは国を作ることがないからかもしれない。国を作るのは大変だ。まず既成の制度の外に出なければならない。そして一から作り直す。一から作るからこそ、私たちの心の奥底にある創造への衝動のようなものが満足される。だがそんなこと、普通はできない。というか、思いつかない。

 

なにも、国家という形態を持ったアレを作る必要はない。仲間とともに、自らを表現する「王国」を立ち上げることも、立派な国造りである。独立、戦争、そんなものは必要不可欠ではないのだ。

インド映画「きっとうまくいく」の主人公ランチョーは、学ぶことが好きだ。彼はいろいろあってデリーにある超名門工科大学に入り、優秀な成績を修めつつ、就職や成績のためだけにスパルタ指導を行う学長の方針に反発してゆく。この先は完全なネタバレで申し訳ないのだが、ランチョーは大学を出た後、小学校の教師としてインド北部のカシミール州ラダックで学校を経営することになる。この学校は普通の学校ではない。成績や就職ではなく、純粋な知的好奇心と創造力の場なのだ。生徒たちは自分で発明をし、生き生きとしている。この小学校は、ランチョーの作った国なのだと思うのだ。彼もまた、国を作る人だった。だからこそ、私はこの物語に心惹かれたような気もする。

ランチョーのライバル(ランチョーが勝手にライバル視されている)で、社会の既成概念の住人とも言えそうな元同級生チャトゥルはランチョーが小学校教師をやっていると聞くや、嬉しそうな顔でこのようなことを言う。「俺は大手外資系企業、成績第1位だったあいつは小学校で、「AはアップルのA」なんて教えてる。勝ったのは俺だな!」と。チャトゥルが大学時代から成績や評判を追い求める人間だったのに対して、ランチョーはそうしたものには無頓着であった。どちらがよいというのではないはずだ。なにせ、ランチョーは自分の王国を作り上げることができたのだから。そしてそれは、「国」を作ろうとした人々と同じように、既成概念を飛び越えなければいけなかった。飛び越えたが故に、国は作ることができるのだ。いや、それは違う。既成概念を飛び越えたというか、もはやそれすらなかったのかもしれない。自分に忠実にあっただけなのかもしれない。

 

もう一点、国を作るということには、大きなものがある。それは、一人の人間だけのものではないということなのだ。榎本武揚も、ランチョーも、一人で何もかもやるわけではない。榎本武揚には同志がいた。旧幕臣の松平太郎、旧幕府陸軍大鳥圭介新撰組土方歳三フランス軍事顧問のジュール・ブリュネ、医師高松凌雲……。榎本武揚に乗った人物たちだ。「きっとうまくいく」だって、ランチョーは、大学時代のお世話がかりだった「ミリ坊主」を仲間に入れて学校を作っている。もちろん子供たちもいる。

昔、フランス人の郵便局員の話が好きだった。その郵便局員は、拾ってきたものを集めて、自分の理想の屋敷を作り上げた。あそこまで行けば彼の国のようだ。しかし、民はいない。同志もいないのである。郵便局員の静かな喜びも惹かれるものがあるが、それは国を作る物語にある爆発的な喜びとは質の異なるものである。仲間がいて、一見「馬鹿なこと」と一蹴されそうな、自分たちの国を作り上げる。そこにも国を作ることの魅力がある。

しかし、だからこそ、国を作ることは、必然的に誰かを巻き込むことになるのだ。

 

私事だが、今人生の岐路に立っている。いつか私は国を作ることができるのだろうか。岐路に立ってしまったからにはもはや、国を作ってみたいものである。一方でこれは私だけの話ではない。どの人も、もしかすると、それぞれの望む国を作ることができるのかもしれない。そしてそれが、その人を本当の意味で生かしてくれるのかもしれない。作るということには力がある。思えば、黒澤明の「生きる」という映画もまた、そういう話でもあったように思う。もちろん、国家の話ではない。革命の話でもなければ、独立の話でもない。血の流れる話でも、銃弾の飛び交う話でもない。自らの表現の話である。人生の表現の話である。理想の話である。自分の「国」の話である。

説明責任の時代

現代は、説明責任の時代のように思うことがある。

もしかしたら、近代もそうだったのかもしれない。だがわたしは19世紀人ではないし、そのあたりはよく知らない。とにかく言いたいのは、今の世の中が説明責任を求めてくる時代だということである。

 

例えば、就職をしようとしたとしよう。すると、大抵は志望動機を聞かれる。これは一種の説明責任である。なぜ責任なんていう重い言葉を使うのかというと、この質問に「なんとなく」で答えればまず入社できないからだ。これに答えねばならないのである。

「そんなのはあたりまえじゃないか」

そうだろう。たぶん当たり前なのだ。不平不満を並べる前に、素直に志望動機を探すのが筋なのだ。しかし、なぜ「なんとなく」ではいけないのだろう。

「なんとなく、なんてふざけてる」

そうかもしれない。ふざけているのかもしれない。だが理由があればどうしてふざけていないのだろうか。理由があればきちんと考えていることになるのだろうか。いや、むしろ、理由があることは、きちんとしていないことが多いのではないか、とさえ思うことがある。

例えば、下北沢駅で降りたとしよう。「なぜ下北沢で降りたんですか」と聞かれる。「それは下北沢にライヴ会場があるからですよ」と答えられるだろう。理由は非常に単純である。「ではなぜそのライヴに行くのですか」「友達の友達がライヴをするからです」と答えるのは簡単だ。理由は簡単だが、すごくきちんとしているわけではない。では「好きなバンドがライヴをするんです」と答える場合を考えよう。「どうして好きなんですか?」と聞かれたとする。すると、案外困る。「友人の勧めで聴き始めて……」いやいや、それは好きな理由ではない。経緯だ。簡潔に答えるのは不可能だろう。

「簡潔に答えるのは不可能でも、きちんと説明すればいいだろ?」

おう、本当にそう思うかい? たぶん無理があると思う。いろいろ言ってみても、薄っぺらくなる。最終的には「なんか好きなんだよね」に落ち着き、「じゃあ聞いてみてくれよ」になる。小一時間話して伝わるとすれば、それは言葉の力ではない。小一時間話し通したという情熱とエネルギーがなんとなく伝わるからである。

「でも伝わるんじゃないか」

かもしれない。そこのところは知らない。伝わったかどうかなど、わからない。とにかく内容が語れる内容だから、まだいい方なのは確かだ。しかし、なんにしても、分かってくれようとする相手以外には伝わらないだろう。いくら熱く語ったとしても、結局伝わるのはおそらく熱さだけだ。「なにそれ」と言われればそれはそれまでだ。困ったものである。

話が逸れてきた。そういう話をしたいのではない。

「じゃあなんなんだよ」

例えばいつもと違う駅の出口を出たとしよう。

「なんで?」

理由なんてない。

「近道?」

いやむしろ遠回りだ。しかも雨が降っている。

「意味がわからないね」

そう、私だってわからない。こういう時、困る。

「なんの話?」

こういうことはないだろうか。一見不合理に見える、というか百見したところで不合理なことをしたくなるときは。雨に打たれたい時、夜道を延々と散歩したい時、普段は読まない本を買いたくなる時……そんな時がないだろうか。何もかも捨ててラオスかどこかに行ってしまいたくなる時が。ラオスでなくても、無論フィンランドでも、群馬でもいい。そういう謎の衝動である。

「馬鹿じゃないの?」

馬鹿だ。たぶん馬鹿だ。だが馬鹿でもいい。そんな時がある。そしてそんな時ほど、自分は生きているんだ、自分は自由なんだと感じられはしないか。小さなことでも良いのだ。こういうことをしたときは、説明責任に答えられない。しかもこういうことはむしろ大事だったりするのだ。例えば、つい先日私は友人の友人のライヴに行った。なぜか。それはあまり理由がない。その人を知っていたから、というのが理由としては正しいだろう。その人が音楽で食っていくつもりだと聞いたことも一つの理由だ。だが割と思いつきなのである。

そう、案外人生は思いつきの連続のような気がする。道を歩き、右に曲がるか、左に曲がるか、理由があれば決まってくるが、理由がなければ思いつきだ。だが理由がある時は、私たちは理由に縛られている。本当に何かをしたい時は、理由よりも思いつきなのかもしれない、と思うのである。

「でも、説明しないとわからないよ?」

その通りだ。説明しないとわからない。しかし、案ずるより産むが易し、逆にすれば産むより案ずるは難しだが、おそらく案ずるよりも産むよりも、その理由を説明する方が難しだ。

それでも理由に固執するのは、近代的な考え方な気もする。あまり関係ないかもしれないがヨーロッパの人たちと話すとよく「なぜ」が飛び交う。私はそれはいいこととは全く思っていない。文化の違いなので、ある程度尊重しなければいけないが、あまり意義を感じない。かつて英語の試験で、こんな会話があった。

「大学の学科に友人はいますか?」

「はい、何人かいます。よく話しますよ」

「どうして?」

どうして? 人が何人か集まって同じところにいる。同じことをやっている。多くの場合友人ができてもいい状況ではないか? どうして、どうしてと聞くのか。たぶん、話を広げようとしたのだろうが、どうしてと言われても困る。どうしてという以外にも話を広げるやり方はあるだろう。フランスでも同じような状況があった。これは、まあ、テストという状況や、外国語教室という状況もあるので、問題はないだろう。だが何でもかんでも理由がしっかりとあるとは限らない。

違和感を覚えるのは、「どうして」と理由を問う姿勢をありがたがって輸入しようとすることだ。本気で疑問に思う、より知りたいと願って一緒に考えようという姿勢を持って質問するのはいい。だが、答えられない方が間違っているというような姿勢で説明責任を求めるのは妙だ。自分のことは案外自分でもわからないものなのだ。

「いや、そんなこといってないで答える努力をしなきゃ」

君はいつも正しい。しかし、何度も言うように理由なんてものは案外後付けだ。だから難しいのである。一種名前をつけるのに似ている。聖書ではアダムは全ての動物に名前をつけたということになっている。彼は、きっと聖書の中で、誰よりも難しい仕事をやってのけた人物だ。だって、いろいろな名前をつけて、なんとなくそれっぽい雰囲気にしなければならないからだ。イエスは生きかたで道を示したし、モーゼは規則を作り、民族を解放した。それが聖書の物語だ。しかし、今あるものにそれっぽい感じのものをつけるほど難しいことはない。理由付けも同じである。理由よりも、実際の人生ではその思いつきに心の波長が合うのかの方が重要なはずだ。しかし理由は求められる。それっぽいものに過ぎないものが重宝される。それが説明責任の時代なのである。

 

「でもね、合理性を目指したから社会はより良くなったんだよ? 不合理を排することは大事なんだ」

それはその通りだ。本当に正しい。だが何でもかんでも合理的というわけではない。そもそも合理的ではないものを合理的にしようとすると無理が生まれるのではないか。思いつきには理由がない。そこに説明責任を求めることに無理があるのだ。もちろんそれが、人に何か強制するなら、人に対して不快感を覚えさせるなら、説明をさせてもいいだろう。だが、説明責任が一人歩きすると、私たちは自由を感じる術がなくなってしまう。

「だから?」

さあね。だからどうなのかはわからない。ただちょっと疲れることがあるわけだ。本当は無言実行、職人のように自分の作り上げたもので勝負したい。そうすれば説明はいらない。見ればわかるからだ。

「それはすごい人ができることだよ」

はーい、ごめんなさい。

アジアの香り〜大阪〜

初めての大阪だった。

というと、驚かれることが多いが、国内旅行そのものが、3年ほど前に行った函館以来だったのだから、大阪が初めてでもおかしくはない。だが、不思議なのは、私は関西系のルーツしか持っていないにもかかわらず、大阪という土地に行ったことがなかったのである。

私の父方のルーツは、神戸と京都、より辿れば香川になる。すると大阪は一つも関わってこないことになる。祖父が大阪か何かに疎開していたというような話を聞いた気がするが、しかし根を張ったわけではない。まあ、そんな話はどうでも良い。

今回は京都の旅の予定だった。だが、せっかくだから大阪も行ってみるか、とふと思いついてしまったのだ。一度この種の思いつきを旅の最中にしてしまうと、行かざるをえなくなる。そんなこんなで、京都初日に、京都の四条から大阪へと向かった。

そもそも大阪に行ったことがないのだから、大阪のどこに行けばいいのかわからない。通天閣大阪城、道頓堀、グリコ、ミナミ、とまあ、いろいろなキーワードはでてくるがどこが良いのか。色々考えたり調べた末、とりあえずはグリコを見よう、食倒れをしようと、道頓堀を選んだ。

メトロの心斎橋駅を降り、グーーーーッと御堂筋を歩いて、道頓堀を目指す。心斎橋の感じはさながらヨーロッパか何かのようで、イメージする大阪より幾分も綺麗である。高級店のある繁華街だとは聞いていた。これはこれで面白い。

しばらくまっすぐ歩くと、橋が見える。本当はグリコのあるところに突入しようとしていたのだが、どうやらミスを犯したらしい。御堂筋から直接グリコではなく、その隣にある商店街からグリコへとつながるようだ。なので軌道修正。左へと川沿いに曲がった。

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するとそこには、どこかで見たことのある光景があった。橋の向こう側にはグリコのマーク、ガチャガチャした感じの雰囲気がその奥には広がる。橋を渡りながら川の方を見ると、ドンキホーテやらなにやら、これまたガチャガチャしたものが並んでいる。東京ではガチャガチャしたものが独立してガチャガチャしているため、ああガチャガチャしてるな、くらいにしか思わないが、ここまでガチャガチャしたものがゴチャゴチャと並べば、むしろ文化すら感じる。

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橋を渡り、左へ曲がると、そこは喧騒である。わけのわからないたこ焼きのテーマソングが垂れ流され、店の看板は道にせり出してくるほど3Dだ。暑い日差しが照りつける中、大阪は大阪を主張していた。楽しい。街は活気が溢れている。

友人(正確に言えば後輩だが、友人といっても差し支えないと思っている)4人も一緒だったので、これからどうするか協議をした。食い倒れるつもりはあったが、なにを食べよう。結局、選ばれたのはたこ焼きだった。買ったのは、たこ焼きソング垂れ流し店の真向かいにある露店だ。そこのたこ焼きはトロッとしていた。ソースも何種類かある。私は個人的には、トラディショナルなソースが好きだった。味も結構良い。本場補正があるのかはわからないが、うまい。ただ、口に火傷を負ってしまった。

次どうするか、と思い歩き始めると、かなり暑い。これはどこか店内に入ろう。と、結局別のたこ焼き屋に入ることになった。決め手は生ビールである。店内二階のテーブルで、みんなでノーマルタイプのたこ焼きを頬張る。先ほどのよりもしっかりしている。なるほど、店によってかなり違うようだ。これもまた楽しい。食べ較べのしがいがあるってもんだ。

 

しばらく居座り、外に出た。太陽が眩しい。次もまた食いもんだ。だが、大阪の街はなんとなく、歩いていたくなる空気を持っている。商店街方面へ、ふらりふらりと歩いてゆくと、そのうちいくつか串揚げ屋が見えてきた。そういえば串揚げも大阪名物である。二度づけ禁止で有名なやつだ。しかしわたしは世情に疎いので、そもそも二度づけOKな串揚げがあるのかを存じ上げない。

串揚げというと、わたしはベルリンを思い出す。6歳のまだ若かりし頃、わたしはベルリンに住んでいた。最寄駅はシャルロッテンブルク。その隣がザビニプラッツ駅。ホームの壁に何やら奇怪なアートが描かれ、子供心に強かったものだからこの駅のことは覚えている。たしか、まさにそのザビニプラッツ駅に、串揚げ屋が一軒あったのだった。ベルリン在住の日本人のたまり場のような存在でもあり、まだウブな年頃だったためによく身にしみていたホームシックの解消の場でもあった。

私たちは商店街から一つ道を逸れたところにある店に入った。案の定、二度づけ禁止である。たしか豚肉、ベーコン、ハツを食べたかと思うが、何を食べたかなど、どうでも良いくらいうまかった。思わず京都出身者の前で「大阪に泊まりたかった」などと失言してしまうほどである。これにまたビールが合う。そして二度づけ禁止ソースも合う。東京のソースよりも薄くて、全然どぎつくない。

 

そのあとは、もう一人と合流し、食倒れ作戦最終章としてお好み焼きを陥落させるべく、道頓堀の店に入った。

この店、なかなかにいろいろなものが出てくる。お好み焼きが来るのかなと思いきや、サラダ、たこ焼き、唐揚げ、焼きそば、とでるわでるわ、オンパレードである。正直食いすぎである。たこ焼きは皆絶賛していた。外はカリッと中はとろっとして確かにうまい。だがわたしとしては、案外最初の口を火傷しながら路上で食ったやつが一番好きだったかもしれない。たぶん、ファーストインプレッションバイアスがかかっているし、路上バイアスもかかっている気もする。

お好み焼きは、焼けた状態で出てきた。これが大阪式なのか。一軒しか見ていないのでよくわからないが、自分たちで作る東京方式に慣れていると、「なぜもう一度焼くの?」と少々思ってしまったりする。だが味はもちろん、うまい。そして、三杯目のビールによくあう。思えば、ビールを飲みまくっている。太陽が眩しかったからだ。

 

そんなこんなで食倒れ作戦は終了し、なんば駅まで歩き、そこから京都へと、いや、そこから上洛した。私たちが夜行バスに揺られている間に猛威を振るった台風21号の影響で列車がいくつか使用不能になっていたため、宿泊先に着くのが遅れ、必然的に夕食も遅れたが、大阪の食い倒れの力で、私たちは飢えを免れた。

大阪は面白い街だった。もっと行ってみたいと思う街だった。そこには京都とはちょっと違う面白さがある。それはちょうど、ヨーロッパとアジアに違う楽しみ方があるのと同じだ。もしかすると、中央アジアには中央アジアの、中東には中東の、アフリカにはアフリカの、北米には北米の、南米には南米の、それぞれ異なった楽しさがあるのかもしれないが、わたしはあいにくヨーロッパとアジアしかわからない。だが、大阪と京都にはアジアとヨーロッパに似た違いがある。アジアにもヨーロッパにも、深くて長い歴史がある。大阪も京都もそうだ。ヨーロッパや京都はその悠久の歴史を感じられるスポットがあり、町が芸術のようだ。言ってみればそこには深みと渋みがある。一方大阪やアジアにもそういうところはあるものの、それよりもむしろ、街の抱えるエネルギーがいい意味で泥臭い形でこちらにつたわってくる。どちらも、味わい深い。そういう意味で、タイプが違うのである。それは言ってみれば、高級料理と屋台飯の違いと同じかもしれない。高級なフォワグラはおいしい。だがその一方でレバーの焼き鳥もうまいのである。おいしいとうまい。そんなものだ。

要するに、また来たいということである。

餃子は回る

実は昨日、父の誕生日があって、そのお祝いということで母とトルコ料理を作った。できはなかなかで、本物を食べたことあるのは私だけだったが、再現度としては90パーセントくらいはいけていたと思う。作ったのは、トルコの餃子マントゥと、レンズ豆のスープ、マフルタチョルバス。マントゥにかけるソースはヨーグルトソースで、これがもう少し酸っぱければよかったということで再現度から10%引いたという次第だ。

 

餃子はもともと遊牧民の食べ物で、恐らくはモンゴル高原から中央アジアにかけての料理と思われる。遊牧民の移動に合わせて、餃子は世界中に広がった。知っている人は知っているだろうが、ロシアにはペリメニ、中国にはもちろん餃子、モンゴルにはボーズ、ウズベキスタンにはチュチュバラ、そしてトルコにはマントゥがある。さらに、古くから中東地域とも接触し、交易を行なっていたイタリアにもこの料理は流入する。後の、ラヴィオリである。

 

とまあ、もはやユーラシア料理の様相を呈しているこの餃子だが、マントゥを食べながら父がこんなことを言った。

「ドイツにもあるよね」

父はドイツに三年ほど住んでいたので、多分確かだろう。よく知らなかったので調べてみると、ドイツには確かにマウルタッシェンという餃子があるらしい。ドイツ南部のシュヴァーベン地方の郷土料理だ。シュヴァーベン地方は、神聖ローマ帝国皇帝家の一つであるホーエンシュタウフェン家を出した地方だ(わかりにくければ、フリードリヒ1世バルバロッサとフリードリヒ2世の家)。となると、ロシア方面から伝わったというよりも、イタリア方面の方がありそうである。真偽は不明だが…。

(後で知ったのだが、こちらのマウルタッシェンは、修道士が肉をこっそり食べるために生み出したらしい。遊牧民と完全に無関係かどうかは不明)

 

翻って東アジアには、マントゥが、マントウや饅頭の形で音としては伝わっている。ここまでくると立派な日本料理である。饅頭。何気なく接してきたが、遊牧民の伝統を引き継いでいる。

そういえば、焼き餃子なるものは、中国では店に出すものではないらしい。家庭の残り物を焼く程度だという。基本は水餃子が餃子だ。

これは、他の地域でも変わらない。ペリメニサワークリームソース、マントゥはヨーグルトソースに浸かった姿でサーヴされる。基本はそういうソース付きの、茹でた姿だ。それを焼いて、しかもそれをメインにするとは、アレンジの天才日本人も、なかなかやる。と我ながら(?)思う。

それで思い出したのだが、去年フランスへ行った時のことだが、ストラスブールの街を歩いていたら、「Gyoza」を売っている店があった。ボルドーやパリでも見かけた。中国風のジャオズではないところから、多分日式の焼き餃子なのだろう。ついに世界中に回り始めたようだ。

ちなみに、ここまで語ってきて言いづらいが、私は水餃子の方が好きだ。水餃子にも頑張ってもらいたいものだ。

 

そういえば、ネパールのモモも、わりと餃子系だった気がする。それも、この前、阿佐ヶ谷のネパール料理屋で(多くに知られているのかはわからないが、阿佐ヶ谷はネパール人街だ)食べたカトマンズモモなるものは、まるでマントゥであった。生地といい、ヨーグルトソースといい、似ている。多分、同じ系列を組んでいるのではないか(憶測)。

 

こうやってみていくと、ユーラシア大陸中に餃子があるようだ。そう思うとワクワクしてくる。まだ知らない餃子、まだ食べたことのない餃子が世界にはある。いつかユーラシア横断餃子の旅をしてみたい。そういえば、そんな感じのテレビ特集が松重豊主演で組まれていたような気がする。確かにテレビにしがいはあるだろうなと思った記憶がある。

餃子はそれほどまでに奥深いのだ。世界史を習えば、ほとんどの地域の歴史に、必ず遊牧民が登場するのをみてとるだろう。すると、世界史では習わないが、遊牧民が現れるたびに、餃子の歴史も紡がれているのである。餃子の分布を見るに、遊牧民がいかにこの世界を動かし、動き回ってきたかがわかる。遊牧民うごめくユーラシアは餃子の島だ。いつか地球が滅び、人間がロケットでどこかに避難した時、共通の懐かしい料理は、餃子になっているかもしれない。

などと、バカなことを思いつつ、世界の歴史を背負った餃子を食べようではないか。見知らぬ世界の餃子の情報があれば求ム。

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カレーなる道

今年から大学でヒンディー語を始めた。理由は割とテキトーで、今までやったことがなかったのと、インドを背負う大言語であるのと、文字の関係で自力での学習が難しそうだと判断したからだった。しかしこれが思いの外楽しく、そこから芋づる式にインドにはまってきた。インド映画は見たことがあった(「きっとうまくいく」「pk」「リンガー」)し、インドカレー屋も行きつけがあったから、下地はあったのかもしれない。

ヒンディー語の授業はちょうど昼食前にあり、私は一緒に受けている友人とともに最寄りのインド料理屋に昼食を食いに行くのがおきまりのコースになった。今まで行きつけにしていた店とは違うのだが、その店の店員は気さくで、私のヒンディー語の実践に付き合ってくれる。

「パーンチローグ!(五人です)」

「マタン・カリー・ディージエー(マトンカレーください)」

「イェ・リージエー(どうぞ)」

「トゥデイズ・カリー、キヤー・ハェー?(本日のカレーはなんですか?)」

「ザラー・スニエー、エーク・ガラム・チャーイェ・ディージエー!(すみません、温かいチャイをひとつください)」

「バホット・アッチャー・ハェー!(すごくおいしいです!)」

とまあ、超初級な感じの拙いヒンディー語に、時に日本語で、時にヒンディー語で、大体の場合は英語で答えてくれる。今では、店に入ると、店のおじさんがニコニコしながら手を合わせ、

「ナマステー」と言ってくれるようになった。

私のお気に入りはビリヤニセットだ。ビリヤニはインドの炊き込み御飯で、有名といわれるのは南部ハイデラバードのハイデラバービリヤニだが、基本的にはインド中にあるという。その店で提供しているビリヤニはチキンビリヤニ。マトンビリヤニはすごく旨いと聞いたことがあるが、まだ未体験である。鶏肉とご飯(インドの高級米バスマティライス。パラパラの細長い米だ)の他に、様々なスパイスが入っており、からさとともに複雑で食欲を刺激する香りがする。このまま食べても旨いが、付け合わせのヨーグルトソースをかけると、よりアッチャー、失礼、より旨い。ヨーグルトはトルコ料理などでも使われるわけだが、やはり酸味が強く、それでいて乳製品特有のまろやかさを持っているから、ビリヤニに酸味とマイルドさを加えてくれるのだ。一緒についてくるカレーを入れるのも良い。ビリヤニがより一層複雑な味になるからだ。日本の料理は素材の味を生かすというが、素材の味を生かすだけが料理の花ではない。いかしつつ、インドのようにたようなスパイスで何にも例えがたい味を作るのも素晴らしい。

カレーやビリヤニを食った後は、必ず最後にチャイを飲む。ヒンディー語の発音では、チャイではなく、チャーイェだが、この単語で紅茶をさす地域は広大だ。ロシア語も、トルコ語も、チャイである。とはいっても地域によってチャイの形は違う。トルコのチャイはミルクなど入れず、澄み切った赤色のお茶をグラスに注ぐ。それに砂糖を入れるのだ。インドの場合は、日本では「ロイヤルミルクティー」と呼ばれる紅茶、つまりは牛乳で煮出した紅茶にスパイスを加える。私の行きつけは北インド料理の店だが、そこでは砂糖は後で入れるようになっている。以前南インド料理屋に二度行ったが、南では初めから砂糖が入っている気がする。そして実を言えば南インド料理屋のチャイの方が香りが立っており、旨い気がする。

 

そうそう、インドは広いだけあって(もしユーラシア大陸に激突していなければ、インドは大陸だったくらいだ。だからインド亜大陸なんて言ったりする)、北と南で文化が違う。北インドヒンディー語を中心とした「印欧語族インドイラン語派」の言語を話す(失礼、チベット語系の地域もある)。南インドは基本的に「ドラヴィダ語族」である。タミル語テルグ語がそれにあたる。

と言ってもよくわからないかもしれないので、雑に日本に例えてみよう。例えば、日本という国には、大まかに分けて(本当に大まかで申し訳ない。朝鮮語や中国語、ポルトガル語等は含んでいない)三つの言語がある。一つは日本語だ。もう一つは琉球語。そして最後にアイヌ語がある。日本語と琉球語は同じ日本語族に属するが、違う言語だ。アイヌ語は前者二つと系統が異なる。インドでは、大きく分けてヒンディー語やマラーティー語、オリヤー語など印欧語族に属する言語が北部で話されているが、南の方のタミル語テルグ語とは系統が異なる。日本語話者が琉球の言葉をあらゆる解説付き(古語だとこういう言い回しをするから……というような話だ)で聞いた場合、多少は理解できるのに対し、アイヌ語は歯が立たないのと同じように、インドも北と南の言語は完全に意思疎通が図れない。そもそもの基盤が違うからだ。そして、日本語話者が解説なしで琉球語を聞いても何を言っているのかわからないように、インドでも言語が異なれば伝わらない。国内で言語が違うなんて、と思うかもしれないが、よく考えてみればあれだけ広大な国土、多様な文化で、よくもまあ一国でやっているものだ。ヨーロッパと比べてみればそちらの方がすごいではないか。英国による侵略のツメ跡でもあるわけだが。

その辺の事情は「チェンナイエクスプレス」や「ムトゥ」と言ったインド映画でも描かれている(ムトゥの場合、多分同じドラヴィダ系同士でも意思疎通が取れないという話だと思う)。そしてなにより、映画業界でも言語によって色々異なっている。例えば「きっとうまくいく」はヒンディー映画、「ムトゥ〜踊るマハラジャ〜」はタミル映画、「バーフバリ」はテルグ映画である。よく聞けば違う言語であるのがわかるかもしれない。

このようにバラバラの言語、特に南北での違いが激しいインドにあって、インド連邦政府ヒンディー語を連邦公用語として制定したが、南部の人から見れば北部の文化的侵略であり、あまり喜ばれていないらしい。だから今でも、英国植民地時代の遺産である英語が一種の共通語の役割を果たしているという。

 

インドの北部と南部は言語が異なっているだけでなく、文化も差異がある。と言ってもそこまで詳しくないので料理の話をしよう。これは北インド料理屋と南インド料理屋に行けばわかる話だ。北インド料理屋といえば、定番は、ナーン、バターチキンカレー、タンドリーチキン、シークカバブ……などだ。たいていのインド料理屋はこれがある。南インド料理は、ミールスと言って、バナナの葉っぱの上に、米、数種のカレーが並ぶスタイルだ。まず主食が北は小麦粉を使ったナーンやチャパティ(薄いペラペラのやつ)などなのに対し、南は米食というわけだ。また北にはムスリムが多く、マトンやチキンなどの肉をよく食べるのに対し、南はヴェジタリアンが多く、野菜系が多いという違いもあるらしい。

もちろん例外はある。北でもビリヤニは食べる。というかビリヤニパキスタンの方の料理だということを聞いたことがある(真偽は不明)。南にも小麦粉の生地を揚げたプーリがあるし、クレープのようなドーサもたくさん食べるという。だが、雰囲気はやはりなんとなく違うなと、今のところ日本の店舗を見て思うわけである。

 

と、あれこれインドのことを調べているとやりたくなることがある。カレーだ。作ってみたい。特に、インドの屋台の様子を面白おかしく紹介してくれるとあるYouTubeチャンネルをみ始めてからというものの、自分でもやりたくなった。カンカンコンコンガッファンガッファンと豪快に料理する姿が楽しそうなのだ。というわけで私もカレーを作るようになった。しかし根がケチなので色々買い込むのが面倒になり、家にあるシナモンパウダーやらクミンやらを無理やり使ってやる。レシピは大抵その動画。そんなテキトーインディアンフードだが、なかなか上達してきたと自分では思う。だがやはり難しく、どこかがうまくいけば、どこかがうまくいかない。味は整ってきたと思う。

付け合わせは、二つチャレンジしている。一つはジーラライスだ。ジーラとはクミンのこと。だから私は冷やご飯をバターで炒め、クミンと塩を振ってあえて作る。最後にネギをまぶすと、なかなか悪くない。こちらは良い。さらに、この前チャパティを作ってみたが、これが大変難しい。焼きすぎなのか、伸ばし方が足りないのか、小麦粉が悪いのか、私の日頃の行いが悪いのか、カチンコチンになってしまうのである。あれではもはやせんべいだ。なんとかうまくできるようになりたいものだが……。

しかしやはりこうやって試行錯誤するのは楽しい。

 

とまあ色々書いたが、実はインドに行ったことがない。人生観が変わるとか、人生が変わるとか、うざいとか、騙されるとか、二度と行くかとか、色々聞くが、私は本当のインドをまだ知らない。行ってみたいものだ。実際の空気を感じなければ、知識は空っぽで終わってしまうし、私のカレーだって、本当のカレーにはならないのである。

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チャパティがカチンコチン。しかもカレーはレトルト。自作のカレーの写真を一枚も撮っていなかった。



18都市目:モスクワ(2)〜До встречи!〜

トゥヴェルスカヤ通りの付け根にある革命広場駅から、スモレンスカヤ駅を目指す。相変わらずエスカレーターが深い。ゆったりとした旅なら良いが、アルバート通りでパッと食べて、クレムリンに戻ってきたかったので、これが鬱陶しい。革命広場駅は、装飾が無名の革命戦士増で彩られていることで有名だ。少し急ぎつつ、横目で戦士を見る。駅が大きいので、やはり、難儀する。

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これは違う駅。いつとったんだっけこれ……

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目指すスモレンスカヤ駅は新アルバート通りの最寄りというよりも入り口にあたる駅だった。急いでいるのになぜこの駅を使ったのかというと、そばにロシア外務省があり、これまた一見の価値ある有名なスターリン様式の建物だったからだ。見てみたかった。

駅の豪華さに比べるとやけに庶民的な列車に揺られ、ロシア語アナウンスの聞き取りづらい発音に耳をやる。幸運にも、「スモレンスカヤ」はわりかし聞き取りやすい。余談だが、モスクワの地下鉄の感覚は異常に狭い。だから一本乗り遅れても全然影響がない(だから案内してくれたお兄さんも何食わぬ顔で列車を一本逃していたのかもしれない)。どこかの埼玉あたりの10分おきの電車とは大違いだ。

さて、スモレンスカヤ駅で降りると驚いた。駅構内の装飾がソ連一色だったのである。壁にはモザイク画ではあるがレーニンの肖像があり、エスカレータを出たところの天井には鎌とハンマーだ。頭の中では自然と「インターナショナル」が流れる。なんだここは。というか、やはりこの国はソ連なのではないか? そういう疑念が確信に変わってゆく。おそらくこの駅とソヴェートは何か強いつながりがあるのだろう。だが、その由来についてはよくわからなかった。

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ソヴェート・ロシアではレーニンの前があなたを自撮りする

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駅を出てみるともっとびっくりだ。駅の建物にあるソヴェートの意匠もなかなかだが、それよりも駅舎の向こう側に見える外務省ビルである。本当にそびえ立って、いや、ソヴィエ立っている。まるで映画に出て来る悪の帝国のビルである。この威厳、間違いなく正義側ではないだろう。あまりに圧倒的過ぎて、近寄りがたい。スターリンはなぜかのようなものを立てたのか。いや、あのスターリンだから建てたのだろう。もしかすると、アメリカも当時は高い塔を建てるのがある種ブーム(摩天楼ができたのはソ連でいうスターリン時代だ)だったから、対抗意識なのかもしれない。でもとにかく言えるのは、他のどの国でも見られないものを見たということだ。

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外務省とは反対側に行けば、新アルバート通りである。初めは本当に繁華街があるのかという雰囲気で疑いながら歩いたが、しばらくしてそれは杞憂だったと気づいた。歩みを進めれば、歩行者天国があって、そこにはロシア人や観光客が歩いていた。そろそろ昼の時間である。というか、とっくに過ぎてはいる。

空は晴れてきていた。暑いというほどではないが日差しは強い。静かな街の雰囲気を見るに、なれてしまえば、もしかすると、モスクワはかなり住みやすい街なんじゃないかと思った。なれてしまえば、はかなり重要な前置きではあるが。というのも、モスクワほど慣れにくそうな街はなさそうだからだ。だが慣れれば、地下鉄もあるし、街並みも綺麗だし、静かだし、人は案外根が優しいし、住み良いだろう。

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私たちはガイドブックに載っていたムゥムゥという店に入ることにした。バイキング形式でロシア料理が楽しめる場所で、こういう店は結構ポピュラーらしい。

入るとかなり混んでいる。地下もあるらしいのでまあなんとかなるだろう、と、私たちは列に並んだ。給食のおばさんロシアバージョンみたいな人たちがたくさんいるカウンターで、思い思いのものをもらう。よく分からないので、テキトーにさしたり、レコメンドをもらおうとして、うまく伝わらなかったりしながら、自分の皿を作り上げて行く。その結果は下の写真をご覧あれ。

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黒い飲み物はクヴァースというジュースで、ロシア名物らしいので頼んで見た。味はまあまあだ。正直友人からおすそ分けしてもらったビールの方がうまい。でも多分これを毎日飲んだら中毒になりそうだ。白いスープはキノコのスープである。これは期待を裏切らない味で、絶品である。真ん中の串焼き肉はシャシュルィク。すごくうまい。ディルが効いている。肉の串焼きには昔から目がないのだ。そして最後に残る皿は多分ビーツのサラダ。これが曲者だった。味が素材のままなのだ。酸っぱいのを期待していたが、これだけではかなりきつい。まあいろいろあったが、全体的によかったと思う。

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外に出ると天候が少し悪くなっていた。私たちは少しぶらぶらすることにした。新アルバート通りは観光地になっていて、土産物屋がたくさんあった。ロシアの観光客はほとんどか中国人のようで、団体客がたくさんいた。たくさんいすぎてなかなか大変そうだった。多分日本人も、かつてはパリなどで同じようなことをしていたんだろう。

お土産物は大体が、ソヴェートグッズである。鑑賞のバッジ、赤軍の帽子、ヴォッカのショットグラスにはソ連の紋章……もはやネタにしているところが面白い。そんなグッズに混じって、プーチン商品も多い。日本ではカレンダーが販売されていたのを見たが、モスクワはそれだけではない。マグカップ、マグネット、いろいろなものにプーチンがある。そんなラインナップの中にたまにヴェトナムの英雄ホーおじさんをみかけたりすると少し嬉しくなる。

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土産物を見ていると、店員が、中国語で話しかけて来る。やはり、多いのだろう。日本人だというと、そうか、とちょっとホッとした顔で笑う。そんなもんだろうか。まあ、もし日本人が押し寄せていたら、韓国人だといえば落ち着いた気分にもなろう。

結局何も買いはしなかったが、なんとなく面白かった。やはりここはもはや社会主義国ソ連ではない。だが、社会主義と資本主義の区切りなんて、今やそんなに明確なのだろうか。分からない問題である。決めなくても良い。ただロシアにはロシアの文化があり、ヴェトナムにはヴェトナムの文化があるのである。

道をさらに歩くと、謎の軍人の壁画があった。誰だろう。勲章がたくさんあるからきっと有名な軍人なはずだ。だが名前も書いていないし分からない。ただわかるのは、それはレーニンでも、スターリンでも、フルシチョフでも、ブレジネフでも、ゴルバチョフでも、エリツィンでも、メドヴェージェフでも、プーチンでもないということだ。これはオシャレなんだろうか。オシャレにしてはロシア的すぎる。

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と、ぶらぶらしていたわけだが、少し時間が危なくなってきたことに気づいた。ロシアはホテルを決めていなければビザが取れない。ビザがなければきちんと出国はできないだろう。だから、今日の飛行機に乗り遅れるわけにはいかない。チアトラーリナヤ駅まで歩こうと思っていたが、ロシアはデカい。モスクワもデカい。なかなかたどり着かない。これはまずいなと思っていると、雨まで降ってきた。悪いことは重なる。

雨を防ぎながら極寒の中を歩くと、駅が見えてきた。あんなに歩いたのに、それは隣駅のアルバート駅だった。

 

それからは、何も面白いことは起きない。チアトラーリナヤ駅まで出て、それから、ベラルースキー駅に行き、そこからアエロエクスプレスでシェレメチェボ空港へと戻るだけだ。空港でシャシュルィクを夕飯として食い、ロシアビールを飲んだ。誰も空港の料理だがうまかった。でもそれだけのことだ。

旅はあっけなく終わった。1ヶ月に渡る、長くて短い旅である。思えばロシアに始まり、ロシアに終わった旅だった。ロシアを経由してパリに入り、フランス東部を通り、スペインへ渡り、テロをかいくぐり、祭りを満喫し、フランスへ戻り、フランス語を学び、ブルターニュへ行き、パリへ向かい、「親戚」宅に泊まり、アパルトマンに住み、ロンドンに行ってみたりして、そしてジャズバーに通い…ロシアへと戻った。ほとんどは一人旅だった。今思えばよくもまあ一人でやっていたものだと思う。そんなひとり旅の余韻が抜けない中、一緒に暮らした二人もよく一緒にいてくれたと思う。この旅は、私の人生に刻まれるだろう。全てを忘れてしまっても、必ず心の中にあるだろう。いや、この旅の経験が、私を作っているが故に、私に溶け込むだろう。これがこれからどのやうになるのか分からない。だが、きっと次の旅、次の人生に何かを残してくれるに違いない。いろいろなことが、ありすぎたほどあったからである。

旅はきっと終わらない。

18都市目:モスクワ(1)〜Снова в СССР?〜

シャルル・ド・ゴール空港からアエロフロートで空を飛び、モスクワはシェレメチエヴォ空港まで三時間。夜も遅いフライトなので多少は眠ったが、時差を換算していなかったがために、5時間寝るつもりが3時間しかなく、寝不足感は否めない。フライト中膝の上には読み終わっていない『エキゾチック・パリ案内』。正直、いいフライトではなかった。というか私はフライトが苦手なのである。だが、とにかく、一ヶ月ぶりに、3時間後には、ロシアへ戻ってきたわけだ。最後の国にして、神秘の国である。ベルリン、ヴェトナムに継ぐ、私にとっては3カ国目の旧東側諸国だ。

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ロシア。17世紀後半のピョートル大帝の西欧化改革で、ヨーロッパ化が進み、18世紀のエカチェリーナ二世により東ヨーロッパの大国となり、さらにはアジア方面にまで領土を広げ、19世紀には七つの海を支配する英国の好敵手として存在感を強めた国。日本の本格的な国際社会デヴュー(?)となった日露戦争の相手でもあった。しかしその頃からこの国の体制は揺らぎ始め、1917年、二度に亘る革命がロシア帝国を襲い、レーニン率いるボルシェビキにより、社会主義体制のロシア、のちのソヴェート連邦が生まれた。それからも、ロシアは英国など西欧諸国の対抗勢力であり続けた。世界恐慌で世界経済が揺れる中、時のスターリン政権は五カ年計画を行い、社会主義国として世界恐慌を回避。第二次世界大戦後には、戦勝国アメリカ率いる資本主義諸国(西側)に対して、社会主義体制を堅持する東側諸国の中心となった。ロシアは、大国であり続けるとともに、西欧の対抗勢力だった。宇宙開発競争、核開発競争、ヴェトナムや朝鮮半島、アフガンを襲う代理戦争、国連を舞台とした論争……米ソ冷戦である。

「帰りにモスクワによるよ」と伝えると、特にドイツ人は皆顔をしかめた。

「モスクワ? なぜ? あそこはロシアだぞ?」まだまだ、ロシアの悪印象はぬぐいきれていないようである。まあ、日本人に「平壌に行くよ」といえば、大抵の人は、「え!?」という感じになるだろう。同じことだ。いや、ソ連からすれば平壌は手先のようなもの、もっと話は大きいかもしれない。

1991年、ゴルバチョフが敷き、エリツィンが強奪した路線に従い、ソ連は解体され、ロシア連邦が生まれた。旅行もしやすくなったらしい。だが旅行者とは面白いもので、西側のバックパッカーはかつて節約のため、アエロフロートを使ったらしいし、シベリア鉄道に乗った人もたくさんいるらしい。旅人に冷戦なんて関係ないし、関係したくもないのだろう。

 

トランジットコーナーには入らず、モスクワ市内観光をするために、ヴィザを携えて、パスポートコントロールへ行くと、

「お前はここではない。あっちへ行け」と女性係員に言われた。彼女はヴィザの存在に気付かず、私のチケットだけ見てそう判断したのだろう。だがあの時はよくわからなかったので、別のところに並んだ。すると女性が出てきて、すごい剣幕で、

「なぜそこにいる? お前はここではない。トランジットに行け」という。私も疲れていたのでパスポートを開き、

「ほら、みろよ、トランジットヴィザがある」とこれ見よがしに言った。係員はハッとした様子で、戻っていった。

それからその女性のパスポートコントロールでスタンプをもらうと、女性は申し訳なさそうに、

「すみませんでした」といった。なんだか申し訳ないことをした気分にこちらもなってきて、

「……いえ」と答えた。ロシア人、悪い人たちではないんだなと思ったのはこの時である。後でいろいろな人に聞いてみると、あまりモスクワで外に出る人はいないらしい。

 

モスクワに行ってみようと思ったのは、単純な興味からである。滅多に行ける場所ではないし、西欧から隔絶されてきた歴史、独自路線を進んだ歴史も相まって、街並みも滅多に見られるものではないからだ。文字に惹かれて、ロシア語をやっていたこともあった。もちろん、NHKのテレビである。ハイテンションで小林麻耶が「ズドラーストビーチェ!(多分本当はズドゥラーストゥヴイーチェ:今日は)」という楽しい番組は毎回見ていた。「カテューシャ」や「カリンカ」、「モスクワの夕べ」、「スラヴ娘の別れ」などロシアの歌も好きだった。一度は行ってみたい国の一つだった。

さて、ついたのは4時ごろで、市内まで走る列車がまた走っていない。タクシーなど使うのは面倒だし、早朝の街が独特の怖さを持っていることはプノンペンで経験済みである。というわけで、私たちは空港のベンチで時間を潰した。眠かったが、なんとなく眠れず、くだらない話や、私の持ちネタだったロシアンジョークを言ったりしていた。思えば、まだソ連だったら捕まっていたに違いない。だってそこで披露したジョークというのは、

「ブレジネフ政権のソ連で、『ブレジネフは馬鹿野郎だ!』と叫んだ男が逮捕された。容疑はもちろん『名誉毀損』と『国家機密漏洩罪』」

といったきわどい類のやつだからである。

空が白み、電車が動き始めるぞという頃合いになると、私はバックパックを預けたかったが、これがまた難儀だった。表示に従って行くと、

「ここではない」と言われる。

「じゃあ、どこに?」と英語とロシア語を混ぜながら言うと、

「下だ」と言われる。これは社会主義名物のたらい回しか? とハラハラしながら(※ロシアは社会主義国家ではありません)、地下に降りた。幸運なことに、たらい回しではなく、そこに荷物置き場があった。だがこれはこれで難しく、ルーブルに両替しなければいけなく、私は友人とバッグを置いて両替所に駆け込み、ユーロをルーブルにした。戻ってきて、拷問部屋のような荷物置き場に荷物を置き、地上に戻ると、列車の時間も近かった。

そして、である。これまた列車の発着駅も難しいのである。空港の施設からすぐに行けるのかと思いきや、あるけどあるけどつかない。最終的になんとかしてチケットを買ったが、友人が一人消えている。おっと、これはトラブルだ。と思っていると、入り口付近にいて、こっち来なよと言ってもこない。どうやら係員に止められている。どうやら私たちが駅の入り口と思っていたのは、空港の入り口で、X線検査なしでは入れないようなのだ。私たちは結局訳も分からず、荷物のX線検査を受けさせられ、空港敷地内に入ってしまった。ぐるりと回り、逆方向へ行けば駅に行けたのに、こちらとしても標識がないので、よくわからなかった。難しすぎるぞ、モスクワ。しかもこちとら睡眠時間三時間で朦朧としている。そんなこんなで、なんとか列車に乗り込み、めざせモスクワである。

 

列車から見える景色は、ドイツとあまり変わらないなという感じだった。案外普通なんだろうか、と思っているうちに、体力が限界を迎え、すーっと睡眠に移行する。ふっと起きると、雰囲気が少し違った。アパートが並んでいるが、それは英国のフラットでも、パリのアパルトマンでも、ドイツのアパートとも雰囲気は違った。おそらくソ連時代に建てられたものだ。強いて言うなら「労働者集団居住施設」という雰囲気である。

空港からの列車は、ベラルースキー駅にたどり着く。モスクワの駅は、パリと同じシステムを取っており、行き先の名前が付いている。だからモスクワにモスクワ駅はない。ベラルースキー駅というのは要するに、ベラルーシ方面というわけだ。他にもキエフ駅などがある。ベラルースキー駅はぱっと見、ちゃっちいたとえで申し訳ないが、箱館にありそうだなあという感じだった。いや、本当は逆なのだ。

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外に出てみると、寒い。パリも寒くなってくる季節ではあったが、モスクワは寒い。モスクワ経験者の友人が、「ロシアも夏は暑い」と言っていたので、暑かったらどうしようと思っていたが、むしろ寒い。いやすごく寒い。さすがロシアである。それにしても困ったのは、市内中心部に出るための地下鉄Метроの駅が見当たらないのである。モスクワに着いてから、なんだか常に何かを探している気がする。

どうにかこうにか探し当て、地下鉄のエスカレーターを降りる。深い。深すぎる。なぜこんなに深いんだ、というレヴェルで深い。そして、エスカレーターの周りにある装飾がやけに派手だ。まるで宮殿のようである。これがロシアの有名なメトロなのか。

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モスクワの地下鉄のホーム。なに駅かは忘れた。駅によって装飾が異なるのでゆっくり旅する人はそれも楽しめそう。

やっとの事でホームにたどり着くと、表示が分かりづらすぎて、どこに行けば良いのかわからない。私たちはとりあえず赤の広場があるチアトラーリナヤ駅を目指していたが、列車が多すぎる。しかたがない。片言ロシア語で頑張ろう。わたしは近くにいた、小柄でガシっとした体型の、映画でソ連兵をやっていそうな男性に話しかけた。

「イズヴィニーチェ・パジャールスタ(すみません)」やばい。これ以上よくわからない。「えーっと、エータ……イッチー‥‥チアトラーリナヤ?(これ……行くこと‥‥‥チアトラーリナヤ)」ひどすぎる。うろおぼえすぎる。

要領をえなかったので男性に地図を見せると、男性はなにやらロシア語で言った。また同じことを繰り返して聞いてみると、

「Нет(いかないよ)」という。それから何かを続ける。しばらくしてこちらがわからないと気づき、こっち来いと私たちを階段まで案内した。この階段を登れと言っているようだ。この優しいお兄さん、実は今自分の列車を一本逃している。なのに私たちを誘導してくれたのだ。私も困っていたので、

「スパスィーバ、オーチニスパスィーバ!(ありがとうございます、ほんとに、ほんとに、ありがとうございます!)」と強く言った。お兄さんは少しにこりとして去っていった。おかげさまでメトロに乗ることができた。

多分だが、ロシア人は顔が固いし、筋肉があるので怖いように感じる一方で、内心はすごく優しいのである。正直、カンボジアやヴェトナムといったアジア圏がランクインしていた私の心の中の優しい国ランキング上位にロシアは一瞬にして食い込んできた。いい人たちである。一瞬怖いのだが。女性はみんなモデルみたいだし、男性は皆プーチンみたいだからだ。

 

長いエスカレーターを抜け、外に出ると、巨大な赤い建物が見える。その中に赤の広場があるようだ。近くにあるチェーン店風のカフェの前では、かなりやる気のないマスコットキャラクターがぶらぶらしている。これがロシアか。突っ込みどころが満載すぎる。私たちはとりあえず両替をして、その謎のカフェで朝食を食べることにした。

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カフェのある建物に入ると、なんと金属探知機があった。まじか、やらねばならないのか。私は時計をはずし、係員に、やるんだよね?的なアイコンタクトをとった。すると係員は首を横に振り、通れという。いやいやいや、なんのためにあるんだよ。私は少し笑いそうになりながら地下にあるカフェへと向かった。ロシア、すごい。しかもカフェがあるというのに、建物の内装は、学校の地下室感が半端ない。

「ドーブライ・ウートゥラ!ヴイ・ガバリーチェ・パ・アングリスキー?(おはようございます、英語しゃべりますか?)」とカフェの店員に言うと、

「もちろんです!」とかなりハイテンションである。たぶん、客が少なくて暇だったんだろう。ノリはもう、文化祭で端っこの教室になってしまったクラスである。テレビでロシア語に出てきそうな若者たちに案内され、私たちは席に着いた。

メニューを広げると、モーニングセットがあった。メインは、ロシアの朝食の定番の一つだというブリヌイである。これはクレープのようなものだと聞いている。私はいろいろあるブリヌイの中でも、きのこのブリヌイを食うことにした。ロシアといえばきのこ、きのこといえばロシアだ。ロシア人数学者ペレルマンは100年の難問「ポワンカレ予想」を証明し、一躍有名人になった後で、有名人になることを嫌がり、山に引きこもって、きのこ狩りを始めたらしい。2000年代の話である。それだけ、ロシア人はきのこが好きなのだそうだ。ベリーも好きらしい。たぶん、あの不毛地帯ではベリーときのこくらいしか取れないのではないだろうか。

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チェーン店のカフェだったが、ブリヌイは最高に美味かった。ロシア料理は日本でも、ボルシ(チ)やペリメニやシャシュルィク、ビーフストロガノフなど食べてきたが、ブリヌイは初体験だった。弾力のあるクレープ生地にナイフを通すと、ホクホクのきのこソース。体が温まる、寒い朝にはぴったりの料理だった。

 

店を出て、楽しい気持ちで赤の広場に入った。巨大な赤い門をくぐり抜けて、中に入る。敷地内にある教会からは、ロシア正教の神秘的な聖歌が聞こえてくる。広場自体は残念ながらお祭り用のステージが作られている途中で、よくテレビに出てくるようなだだっ広いあの雰囲気ではなかった。しかし、すぐ右にはロシアの政治の中心地クレムリン、そして奥にはしっかりとカラフルな玉ねぎ頭の聖ヴァシーリー教会が見える。

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教会の開館時間はまだだった。中にはまだ入れない。そばにあるグムという市場に入ろうがと思ったが、グムの入り口には金属探知機がある。眠気も相まって、そういうごたごたが非常に面倒になっていた。行くのは断念だ。とりあえず散歩をしよう、と、教会の更に向こう側を流れるモスクワ川の方へと向かった。

川周辺は他の場所にも増して寒かった。小さな公園があるが人はあまりいない。橋を渡ると、川の向こう側に、いわゆる「スターリン様式」の建物がそびえている。そう、天高くソヴィエている。失礼、なんでもない。あとで知ったのだが、その建物はホテルだそうで、まだ現役らしい。スターリン様式というのはスターリン時代によく建てられた建物で、上へ上へと伸びてゆくタワーが印象的だ。まさにソ連という雰囲気である。モスクワには、まだまだそういう建物がたくさんある。当たり前といえば当たり前だ。私たちにとっては昔のことでも、この国ではつい30年前は普通にソ連だったのだ。

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スターリン様式のホテルと現代の労働者同志

川を越えたところは、北欧っぽい雰囲気があった。説明するのが難しいのだが、西欧でも、ドイツでも、南欧でもない、北欧風の空気感というものがあって、港町っぽいというかなんというか、建物も含めて北欧の文化との密接な関係性を感じさせた。クレムリン方面には救世主キリスト教会の黄金のドームが見える。川をもう一本渡り(今やってっきたのは対岸ではなく中洲である)、少し歩けばロシアの有名な美術館トレチャコフ美術館があるはずだ。だが、タイムリミットは10時間もない。引き返そう。

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聖ヴァシーリー大聖堂は開館時間を迎えていた。これまた場所がわかりにくいチケットカウンターでチケットをもらい(異様に安かったのだがなぜだろう?)、大聖堂の中に入った。

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中は薄暗く、赤かった。というのは、あの建物の色そのものだったのだ。中はどうなっているのかなんて誰も考えないから、入ってみてびっくりだ。しかも中の装飾は素朴で、時折花が素朴なタッチで描かれている。なんとなく落ち着く空間である。カトリックプロテスタントの教会と違い、巨大な礼拝堂があるというよりも、幾つかの部屋に礼拝堂があるという感じだった。もちろん、この教会、今は基本的に博物館になってしまっていたので、他の教会は違うのかもしれない。だがイメージ通り、イコンが飾られ、礼拝堂には天高く装飾が施されていた。

歩いていると、一つの礼拝堂から歌声が聞こえてきた。ロシアの男声合唱団がポリフォニーを歌っている。やはり低音で響かせる。心落ち着く音楽で、私の意識は聖ヴァシーリー大聖堂に溶け込んでいった。

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不思議なのは、外側から見るとあんなに派手でモダンな建物が、16世紀から存在しているということである。創建されたのは、ツァーリ(皇帝)イヴァン雷帝がカザンを征服した記念だったから、1559年である。形でも変わっているのかと思うと、歴史紹介コーナーには今のままの聖ヴァシーリー大聖堂が描かれた版画や絵画が載っている。いやいや、トロツキーを写真から抹消した国だ、合成かもしれない、と疑わなくはないが、おそらく本当にあったのだろう。中に入ってみると、外側からは見えない経年の跡が見える。

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外に出て、赤の広場を抜け、私たちはぶらぶらしながら昼食場所でも見つけようということになった。広場では祭りをやっていた。楽しそうだが、入れない感じだった。入ったら、私たち三人は記録から抹消されるかもしれない。クレムリンは入ってみたかったが、とりあえず食べてからということにした。

赤の広場を出ると、大通りがある。大通りと言っても普通の人の思い浮かべる大通りの3倍はある。さすがロシアだ。おかげで車通りが激しすぎて道を渡れない。その奥にはメインストリートのトゥヴェルスカヤ通りがあるというのに。どうするのだろうと辺りを見回すと、皆地下道を使っている。地下には地下鉄駅があり、その前を素通りすれば、トゥヴェルスカヤ通りにたどり着く。

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だがこの通りを歩いたところで、レストランのレの字もなかった。両替商と、「タバコくれよ」といってくる謎のおっさんだけしかいない。そして驚くのは、旧ソ連の趣をかなり残した建物の数々である。社会主義風の建物には、今でも鎌とハンマーの紋章が刻まれ、今でも何かに使われている。もしかすると何も変わっていないのかもしれない。街を歩く警察官の帽子はやけにでかいし、街に人があまりいない感じも、ソヴェートだ。まだ、この国の実態はソヴェートなのかもしれない。そんなことを思った。そもそも、ソヴェートからロシアへの移行というのも革命があったとかそういうのではなく、体制の転換だったはずだ。資本主義ソヴェート……まあこれはあくまで10時間だけモスクワの街を歩いた感想だ。

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それにしても店がない。少し外れた道に入ると、あるにはあるがピザ屋に入る気はない。「はげ山の一夜」のプロコフィエフのゆかりの地らしく銅像がある。なかなかいい雰囲気の通りである。その通りを曲がると途中でバレエの劇場があった。ボリショイ(バリショイ)劇場もあるらしいがよくわからない(あとで知ったのだが、その劇場のすぐ裏にでーんとボリショイ劇場があったらしい。しかも私たちが使っていたチアトトラーリナヤ駅は、バリショーイ・チアートル、つまりボリショイ劇場という意味だった。私たちの目は節穴でございました)。ボリショイ劇場。おそらく知る限り、オペラ座を抜いて世界一テキトーな名前の劇場である。なんとなれば、ボリショイとは大きいという意味だ。だから大劇場である。するとボリショイ大サーカスは、頭痛が痛いと同じようなものになる。もう少し、泊まってみたいなとも思う。そうすればバレエの一つでも見ることができる。私たちは早くも、また来たいなと思いつつあった。

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いい散歩にはなったがレストランがない。というわけで私たちは禁じ手のガイドブックを開き、新アルバート通りという繁華街に行くことにした。そこにはロシア料理のビュッフェの店があるという。ダヴァーイ(さあ行こう)!である。

16都市目:パリ(4)〜Time To Say Goodbye〜

ジャズクラブでパリの夜を締める前、私は移民街散歩を敢行した。もともと移民街という場所が好きだった。それは単純にこの前パリに来た時に移民街に泊まっていたからかもしれない。前回のパリでは、私はパリ北駅からより北上し、インド人街を抜けたところにあるユースに泊まっていた。そこで感じたのは、私がアジア人だからか、移民の人々が私たちを優しく迎えてくれたということだった。遠いアフリカや中東、インド、中国、ヴェトナムといった国と地域からパリで働く彼らのヴァイタリティに触れるのも好きだった。何より文化が混ざり合う土地には、他の土地にはない魅力がある。危ないという人もいるし、多分危ないんだろう。テロもあった。だから気をつけつつではあるが、今回も移民街を訪れた。

 

オルセーで友人と別れた後、私はオーステルリッツ駅へ向かった。メトロではなく、「パリの親戚」が住むショワズィ・ル・ロワまで行く時に使った鈍行列車を使う。いわばパリの中央線である。なぜ、オーステルリッツ駅か? それは、そこに大きなモスクがあるからだった。

今回の旅では、私は『エキゾチック・パリ案内』という新書を持ってきていた。著者は明治大学の清岡智比古先生。ハイテンションなフランス語入門書の著者だ。移民街や移民文化の話に詳しく、この本も移民街の話だ。これを読んだらいくほかあるまい。それに、オーステルリッツ駅のそばにあるグランド・モスケ・ドゥ・パリの食堂に行くとうまいクスクスが食えるらしい。クスクスは私の得意料理(?)である。これは研究だ。そんなわけで、オーステルリッツ駅へと向かったわけだ。

そのモスクに行くには、駅から出て、植物園を抜ける必要がある。植物園はこれはこれで有名らしく、観光客も多かった。花についてなんぞ何も知らないが、眺めつつ歩き、抜けるとモスクがあった。食堂のメニューを見ると、なかなかのお値段だ。予想はしていたが少し腰が引けてしまい、もっと庶民的なアラブ料理でもないかとあたりを徘徊したが、ピンとくるものはない。出入りが激しいのもモスクの食堂だ。まあ、旅も終盤、これまだだいぶ節約してきたわけだし、今回くらいはハメを外してもよかろう。私は自分にそう言い聞かせ、モスクの敷地内へ入った。

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キョロキョロしながら入る。祈りの家に入るのはやはり、気を使う。モスクは日本でも一度立ち入ったことがある。だが、どうしてもキョロキョロしてしまう。というかよく考えれば、フランスではカフェであっても、割とキョロキョロしているので、あまり代わり映えはしないのかもしれない。なんとか店員を見つけ、一人だと伝え、席に着く。食道内は随分とド派手な感じで、テーブルも金色、しかも細かな装飾が美しい。まさにエキゾチックという感じだった。私はメニューにある、一番安かったメルゲーズのクスクスを頼んだ。メルゲーズとは、モロッコ風のソーセージで、豚は使えないから、ラムやビーフでできている。そして辛味が効いている。飲み物は、アルコールも厳禁なので、水である。

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しばらく待っていると鍋に入ったクスクスのソース(スープ)、メルゲーズ、クスクスの大皿が出てきた。間違いなく一人で食べる量ではない。まあ、いい。フランスに来て、こういうものを平らげてきたではないか。

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とりあえず全部皿に盛り、混ぜ合わせ、ひとくち口に運ぶ。途端に良い香りがする。やばい。これはやばい。もちろん悪い意味ではない。うますぎる。セロリと野菜のスープ、メルゲーズ、そして自分で作ったんじゃあ再現など到底不可能な一粒一粒がしっかりしたキメ細やかなクスクスが絶妙に合う。こんな表現使いたくないが、ハーモニーを奏でている。非常にうまい。異常にうまい。思わず心の中で、「これが本物か!」と嘆息してしまった。

あとはもう、無心にばくばく食っていた。途中でお腹がいっぱいになったが、こんなにうまいものを残したくはない、ととにかく食い続け、最後にはペロリと完食してしまった。今まで作ってきたクスクスが、いかに稚拙なものか、思い知らされた。お腹はパンパンだったが、後悔はしない。うまかったからだ。だがわたしは少し、ぐったりした感じで椅子に腰掛けた。何かさっぱりさせたい。ふと周りを見ると、お茶を飲んでいる人たちがいた。お茶は、いわゆる「ミントティー」だ。今回行きそびれたが、モロッコに行ってみたかったので多少調べたのだが、向こうではよく飲まれている飲み物で、好き嫌いが分かれるという。リスキーではあるが試してみよう。というのも、お腹いっぱいになった後、ヨーロッパ料理ならエスプレッソ、トルコ料理ならチャイ、インド料理ならチャーイを飲むのが一番だと経験的に学んでいたので、モロッコ系の料理ならモロッコの温かい飲み物が効くに違いないと思ったからだ。

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ミントティーはミントの風味がさっぱりとした、甘いお茶だった。甘いと言っても砂糖が激しくくるわけではなく、紅茶の茶葉の苦味を引き立てるような形でくる砂糖のほんのりとした甘さである。端的に言えば、このタイミングでミントティーは正解も正解、大正解であった。

満足して、少々高い会計を済ませ、「シュクラン!(アラビア語でありがとう)」と伝えて、私は店、というかモスクを後にした。しかし歩くとやはり腹がパンパンである。どこか休めるところ、公園のような場所はないか。そう思いながら歩くと、大きな公園にぶち当たった。そこには「アレーナ」があった。つまり、かつてパリがルテティアと呼ばれた古代ローマ時代の闘技場である。史跡公園だ。面白い。これはこれでフランスの今の文化とは違う世界だ。私は中に入り、汚い便所で用を足し、アレーナの石段に座ってゆっくりすることにした。

ベルクソンの読書会のメンバーで合宿などと題してやってきたものの、一行も読んでいない。せっかくだ、ここで読もう。私は本を取り出して読むことにした。ベルクソンがコメディをテーマに書いた『笑い』である。タイトルのインパクトがすごい。内容もなかなか面白そうだ。あたりでは笑い声も聞こえる。古代ローマの闘技場跡は、いまではパリ市民の憩いの場のようだ。

f:id:LeFlaneur:20180831224352j:plainしばらく本を読んでいると、アレーナの舞台で試合が始まった。有名な、ペタンクである。カーリングのような感じのルールで、それをボールを投げて行うスポーツだ。おじさんが三人、おもむろにやっている。なかなかうまいもので、ホイホイと高得点を決めて行く。しばらくすると若者の集団がやってきて、騒ぎながらその試合を見ている。パリの昼下がり。良い雰囲気だ。今日はいい日である。私は何故だか嬉しくなってきた。

試合も終わり、本もキリが良くなってから、私はアレーナを出て、アラブ世界研究所という場所を目指した。だが結論を先に言うと、入りはしなかった。なぜなら、あまりに閑散としていて、ふらりと入る雰囲気ではなかったからだ。太陽の熱で窓ガラスが変化し、室内を照らすというアラブ世界研究所の建築を内側から見てみたい気はしたが、結局外側を眺めただけであった。だがそれはそれでよかった。

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そのあとは、川沿いにカルチエ・ラタンを歩き、映画館のラインナップを見たり、市場を覗いたりした。カルチエ・ラタンはさすが学生街で物価が安い。早く見つけていれば格好の昼食場所だったのに、などと思いながら、喧騒を楽しんだ。さて、どうしようか。まだ時間はある。私はアラブ文化の次はユダヤ文化だ、と、前回ユダヤ人街巡りをしようとした時にきちんと回れなかったマレ地区に行くことにした。待ち合わせ場所にも近い。

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マレ地区に行くために、セーヌ川を渡る。その際セーヌ川沿いの古本スタンドを冷やかすと、昔の地図や写真があって、思わず欲しくなる。それでもセーヌ川に架かる橋を渡る。ちょっと川の方を見たら、川辺でモデルが写真を撮っていた。さすがパリ。モードの発信地でもあるわけだ。だが、「パリで撮影してきましたー」という言葉に潜むキャピキャピ感だけでパリを見ては、パリを取りこぼしてしまう。パリはもっと奥深い。などと思いつつ、「あ、有名人かな?」と浮き足立ってしまったことは隠しきれない。

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マレ地区のユダヤ人街は、きちんと歩くと案外面白かった。この前は気づかなかったが、パリのメトロのデザインをした人が設計したシナゴーグユダヤ教の教会)には、敬虔派と呼ばれる黒服に黒いハット、長い髭の人たちが集っているし、商店にはヘブライ文字が書かれ、街を歩く青年はキッパというユダヤ教の丸帽子をかぶっている。パリは昔からユダヤ人の街でもあった。哲学者ベルクソンユダヤ人だ。マティスなどパリに出てきた東欧のユダヤ人の芸術家もいる。パリという街はヨーロッパの中心地だった。だからこそ、たくさんの人が入ってきて、故郷を追われたユダヤ人の拠り所でもあったのだ。食事も、面白そうなものがたくさん売っていた。豆のペーストのホムズ、豆コロッケのファラフェル、言わずと知れたベーグル……だが、クスクスでいっぱいの腹には少しきついものがあった。

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 そんなこんなで、時間になり、前回紹介したアンファンルージュ市場に私はたどり着き、その跡はジャズクラブへ行ったのであった。これで移民街巡りはひとまず終了、のはずだった。

 

だが実は翌日もまた、移民街へ赴くことになった。

その日は最終日だった。チェックアウトし、ホテルの人が手配してくれた空港行きのバンの打ち合わせをし、外に出た。この日は、モンマルトルへ行くことにしていた。モンマルトルは、丘の上に立つサクレ・クール寺院が有名だった。寺院の頂点まで登れば、パリが一望できる。最後はそうやって終わらしたい。俺たちのパリを一望したかった。

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客引きだらけの参道を登り、階段を登り、サクレクールの目の前の広場まで来て、後ろを見ると、それだけでもかなりパリが一望できた。私たちは階段に腰掛け、パリを見ることにした。不思議なものだ。この街で一週間暮らしたというのだから。ジャンキーな味のレオというチョコバーを食いちぎりつつ見るパリは、生活感があった。帰りたくない。やはり、帰りたくない。そう思っていると、ストリートミュージシャンがTime to Say Goodbyeを弾き始めた。なんてタイムリーなんだろう。だが、お別れなんていいたくない。

「知ってる? この歌って、結婚式の歌で、新たな門出を歌う歌なんだよ」と友人が言った。聞いたことのある話だった。

「だから、お別れじゃなくて、始まりなんだ」と彼は言う。そうか、はじまりなのか。パリはいつでも心の中にある。そんなセリフが、映画「カサブランカ」にはあった。パリは移動祝祭日だとヘミングウェイはいった。パリの旅は終わるが、パリは生き続けるのだ。そしてこの時間は、私たちの人生に新しい何かをくれたのだ。

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しばらく感傷に浸って、サクレクール寺院を登ることにした。中に入ると急な螺旋階段が続き、目が回りそうになりながら、頂上を目指すことになる。だが、その苦難も、少し外に出ると苦難以上の対価を支払われることになる。まるでヒーローのように教会の屋根伝いを歩き、最後には展望台へとたどり着くと、確かにパリが一望できた。遠くにはエッフェル塔もある。そういえば、ヴォージラール最後の日は、エッフェル塔からパリを見た。サクレクール寺院もあった。随分と昔のことのようだ。しばらく暮らした街を一望していると、色々と思い出すものだ……

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とてもよいエンディングを迎えたはずが、階段を降りてみると、友人二人が体調を崩してしまった。何か元気が出る食べ物を食べたい。私はここで、友人の内の一人がインド好きだったことを思い出し、なぜか最後にパリ北駅のそばのインド人街へ行くことにした。これこそ、移民街巡り、そしてパリ回りの最後である。

というわけで、私が前回パリに来た時の宿泊地があったインド人街へ戻ってきた。思えば面白いものである。あまり知られていないが、フランスはインドに拠点を持っていた。いわゆるポンディシェリシャンデルナゴルである。うちポンディシェリは現在のインド・タミルナードゥ州にあり、いわゆる南インドだ。言語もヒンディー語ではなくタミル語で、料理のスタイルも違う。どうやらフランス料理が入ったらしく、ポンディシェリ料理なるものが出来上がったらしい、と清岡先生の本に書いてあった。

さて、サリーを着た女性が闊歩し、ピーナッツ売りがうろつき、タミル文字で溢れ、インドの伝統衣装の店やカレー屋だらけの界隈へとたどり着くと、インド好きの友人はすぐに持ち直した。もはやここはインド。だから移民街は楽しい。何軒かあるカレー屋の内、一番インド系の人で溢れていた店に入り、マトンカレーを頼んだ。出てきたのは、やはり北インド風のシャバシャバしたスープ系カレーではなく、ペースト状のカレーにマトンが入り、パラパラの米にどさっとかかった見たことのない様式だった。これをぐちゃぐちゃに混ぜて食うらしい。周りを見よう見まねでやってみる。口に入れる。これが、びっくりするほどうまい。今でもふと食べたくなるほどだ。なのに、同じ味のものはどこにもない。

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インドを「出国」し、私たちは思い出の界隈であるカルチエ・ラタンに入った。最後はここと決めていた。旅の始まりにもなったベルクソンに捧げる碑文があるパンテオンへ向かい、それから、カフェに入った。パリの地下鉄でテロという誤報があったり、この時はこの時で大変だったが、最後にカルチエ・ラタンへ行ったのは正解だった。パリの旅が終わるに当たって、挨拶しなければいけない街だったし、思い出がいっぱいだった。

その後、歩いてホテルへ戻った。途中のスーパーで、いくつかお土産も買った。ケチな私はクッキーだけだったが。着いた時にいたフロントのお兄さんがいた。

「鍵?」と聞いてきたので、

「もうチェックアウトしたんだ」というと、

「え、マジ? もう一泊して来なよ」という。はははと笑うと、

「これは冗談じゃないぜ? どうだい、無料にするって言ったら泊まってくか?」と真顔で聞いてきた。

「泊まりたいね。でも日本行きの航空券を買っちゃったからね」と答えると、なんとなく寂しそうだった。後ろ髪引かれる思いである。

バンがやってくるまではしばらくあったが、時間は容赦なく過ぎた。私たちはシャルル・ド・ゴール国際空港へと運ばれ、夕食をポールで済ませた後、アエロフロートにチェックインした。もう終わるのだ。旅も、パリも。なんとなくセンチメンタルな気持ちになったが、よく考えたらまだ終わりというわけではなかった。

「まだモスクワがある。きっとモスクワもいいとこだ」私たちはそんなことを言いながら空港での時間を潰したのだった。

Au revoir, Paris.(パリよ、さらば)という言葉は言いたくなかった。だが、Au revoirとはまた会いましょうという意味だ。また、くればいいのだ。

16都市目:パリ(3)〜Comme le temps passe〜

パリのアパルトマンを出た後は、哲学科としては外せない、パスカルの故郷「クレルモン=フェラン」へ行く予定だった。しかし、パリのアパルトマンで、皆気が変わってしまった。パリは五日では回れないのだ。さらにパリは魅力的だった。だから、私たちはパリの別のホテルに移ることにした。そのホテルは、なんの因果か、哲学者と同じ名前のヴォルテール駅にあった。

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ヴォルテール駅は、来たことがなかったが、それなりの賑わいをみせていた。朝のお供パン屋もしっかりあるし、安食の王道ケバブ屋もある。パリの複雑怪奇なメトロの路線のせいで若干不便な立地ではあったが、ナシヨン駅か、レピュブリック駅まで行けばなんとかなるし、その気になれば、(かつて悪名高い政治犯収容所のあった)バスティーユ広場やマレ地区などの観光的要所まで行ける距離だ。

少々苦労しながらたどり着くと、ホテルのフロントのお兄さんはハイテンションで、楽しそうに働いていた。このお兄さん、昼間限定である。夜になると打って変わって、紳士的なおじさんがいる。1ヶ月もヨーロッパを旅していると慣れてくる展開である。小さいホテルでも、シフト制なのだ。このホテルを拠点に、私たちは最後の三日間を過ごした。このホテルも、愛着があった。

 

このホテルを拠点としたパリの旅の一番の思い出は、ジャズクラブである。

私は旅先でジャズクラブに行くことがある。ホーチミン市のクラブはホーチミン市に行くたびに行ったものだし、台北でも一軒行った。ヨーロッパでは初めてであったが、私たちはネットの力を利用して、マレ地区にあるクラブを探し当てた。庶民的で良さそうな雰囲気だったから、そこにした。本来は、同行者二人がクラシック好きだったので、オペラ座にでも行こうと思っていたのだが、夏休み中で閉まっていた。それでも、やはりあのクラブに行けたのだから、ある意味幸運だった。なんと、二日連続で行ってしまったくらいだ。

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あのホテルでの生活は、たいてい、朝起きて、みんなでパン屋に行くことから始まった。アパルトマンと同じように、クロワッサンを買い、エスプレッソやカフェオレをつけて、部屋に戻って朝食会兼作戦会議だ。

初日は割と無為に1日が過ぎていった。というのも、オルセー再トライをしてみたところ、閑散としていたので、「昨日はあんなに込んでいたのに今日はガラ空きだ!俺たちはパリに勝利した」などと言って、入り口まで勇み足で行ったら、なんと定休日という失態を犯したからだ。そこで1日の予定は狂った。だが、だからこそ、面白い1日でもあった。何も予定がないというのは、旅においては本当は宝物のような日なのだ。無為に過ごす時ほど良い旅ができるときはない。

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ルーヴルのあたりを歩き、パレロワイヤルでぶらぶらした。そこらじゅうの路地は、見るからにパリという雰囲気である。小さな劇場があり、パリジャン・パリジエンヌが歩く。そしてなによりも、程よく汚い。パリの魅力は、誰がなんと言おうと、汚いところにある。汚さは、悪いものではない。その街の歴史を物語るものである。パリの生活感を伝えてくれるものである。そのあとでレンタサイクルのVélib'に乗ろうとしたところ、私のクレジットカードしか認識されず、私一人で自転車に乗り、そのあとで落ち合うことになった。ついてみると二人はおらず、あとであった際に待たせたと思って謝ったら、向こうも待たせたと思って謝るという面白い状況ができ上がった。待ち合わせ場所はパリ大学(ソルボンヌ)の学生街カルチェラタン。私たちはそのまま歩き、サルトル兄貴やカミュ兄さん、ボーヴォワール姉さん、レヴィ=ストロースの兄貴が通ったというカフェ・ドゥ・フロールでコーヒーを一杯(高かった…)飲んだ。給仕は映画に出てくる給仕のような格好で、胸を張って歩いている。これがカフェ・ドゥ・フロールか。雰囲気はいいが、少々お高く止まりすぎだ。思えば日本の喫茶店も、学生運動の頃は学生の溜まり場だったものが、今や少々オシャレスポットになってしまっている。そんなものだ。それから川を渡って、みんなで食べる初めての外での夕食を済ませた。タルタルステーキ、牛のたたき、やはり外食も良い。流れるように1日は過ぎ、不思議な満足感があった。即興の旅である。そして、それから、例のジャズクラブへと向かった。

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ジャズクラブは先述の通りマレ地区にある。マレとは泥のことである。だが泥臭くはない。貴族文化が華やいでいたという。ユダヤ人地区でもあったらしい。そんなこともあり、今でも開放的な雰囲気で、今やゲイ文化の場所でもある。夕食もマレ地区だったが、店を探して彷徨うと、男性カップルで賑わう店なども目にしたほどだ。マレ地区の最寄駅はサンポール駅。ジャズクラブはそのすぐそばにある。

この店の入り口は狭い。入るとお姉さんがフロントにいる。声をかけると、いろいろ説明がある。初日は、「ドリンクだけ、先に選んでくださいね」とのことで、要するにワンドリンクオーダー制だった。そこに、チャージも含まれているらしい。悪くない。支払うと、38と書かれたしゃれたシールをくれる。店の名前と同じだ。

「これをつけていれば、外に出てもいいわ」と姉さんはいう。要するに、シールを貼っていれば、出入り自由なのだ。なかなか乙なことをする。そして、私たちは地下へと続く階段に案内された。気分はハードボイルドである。

階段を降りると、カーテンがあり、カーテンを押しのけて中に入ると、レンガを基調とした小さなライブハウスがあった。ステージにはピアノが置かれている。私たちはまずそれを横見に、客席の奥の奥にあるバーカウンターで自分の注文した飲み物をもらった。何を飲んだかは、なぜだろう、全く覚えていない。確かカクテルだったはずだ。

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しばらく待っていると、音楽が始まる。好みのスタンダード多めな選曲だった。曲に合わせて、ホーチミン市のジャズクラブで出会った大阪出身のおじさんの真似をして体をやらせてみる。なかなか良い。音楽は身体でノる方が楽しい。ミュージシャンはどうやらフランス人ではないらしい。時々フランス語を話してウケをとるがほとんどは英語である。小さいライヴハウスというのもあって、空気には一体感があった。かつて台北で入ったジャズクラブはデカすぎて、一体感があまりなかった。芸術の場は、少なくとも私にとっては小さければ小さいほど良いように思われる。

面白かったのは、その場でセッションが始まったことである。たぶん、客席にもミュージシャンがいて、その人たちも演奏に加わるという夜なのだろう。これは初体験だった。私も何か弾けたらいいが……残念ながら、息も絶え絶えのヴァイオリンと、右手だけのピアノしかできない。

もっと音楽を堪能したかったが、パリの夜道の治安が良く分からなかったので、少々早めに退散することになった。これもまた、翌日も来るきっかけとなったわけである。案の定、サンポールからバスティーユ広場、そしてヴォルテールまでの道のりは、地下鉄の閑散とした怖さよりいくらかマシであった。若干ガサガサした感じはあったが、音楽に酔いしれる我々にはまあ問題ないレヴェルだった。

 

翌日は三度目の正直でオルセー美術館に入った。正直なところ、ルーヴル美術館よりも好きであった。印象派の絵画はあまり好きではないのだが、かつて駅舎だったという建物も含めて、オルセー美術館には独特の良い雰囲気がある。ゴロゴロと有名なものがあるのはルーヴルと変わらないが、あのこじんまりしたところに置いてあるのが良い。ルーヴルは少し大きすぎて、独特の雰囲気は分散し、散逸してしまうのだ。

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この日は、オルセーの後、「ソロ活動」という名の単独行動の日になった。友人の内一人は音楽博物館へ、もう一人はカルチエ・ラタンへ向かった。私は移民街巡りをすることにした。その話は次回の投稿で書こうと思う。結果から言うと、楽しいそぞろ歩きであった。私たちはソロ活動の後で、落ち合い、アンファン・ルージュという市場で夕食を食った。レバノン料理である。結局私にとってはこの日は移民文化の日になったわけである。

 

ジャズクラブのお姉さんは我々を覚えていてくれた。今日はドリンクオーダー制ではなく、チャージを払う、というか、その日の演奏のチケットを買うというシステムだった。要するに今日はセッションナイトではなく、コンサートなのだ。

早めに来たこともあり、なかなかいい席が取れて、そこで酒をやりながら音楽を聴いた。あまり好みの演奏ではなく、少々眠くなってしまったが、たまにスタンダードナンバーもはさまって、その間は楽しんでいた。客には日本人留学生らしき二人組の女性もいた。少々恥ずかしく、こちらは会話を慎んでしまった。そのせいもあり、向こうの話がよく聞こえてきた。フランスに来ていろいろ買い物をしているらしい。カナダに行った時、日本人メンバーがたくさん買い物していたのを思い出した。私は旅先は旅先を散歩するだけで満足してしまうので、滅多なことでは買い物をしない。どういう感覚なのか、わからない。こちらの方が日本よりも関税の関係で安いらしいが、元が高いのだから高いではないか。まあ、いろいろな感覚があるし、あって良い。私は昨日の演奏の方が好きだし、一緒にいた友人は今日の演奏の方が好きらしい。いろいろある。

この日は少し遅くまでいてから、昨日歩いた道を帰った。バスティーユ広場の露店で、友人二人がチュロスを買った。私は買うのも面倒だったので、寄生虫のように人のチュロスのおこぼれをもらった。チュロス、そういえばマドリードの朝食だったなあ。そんなことを思いながら、バスティーユ広場に目をやると、月がぼやけていて綺麗だった。ふと、そうか、明日はパリを去るのだなと思った。そして、そのあとは、あっという間に東京だ。一ヶ月にわたる旅が終わる。一ヶ月もいれば、さすがにホームシックの一つもあるかと思ったが、全くなかった。むしろ、まだ、帰りたくない。まだまだ、帰りたくなんてないのだ……

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16都市目:パリ(2)〜俺たちのヴォージラール、そしてエッフェル塔〜

前にも書いたが、私たちはパリにアパルトマンを一室借りて、5日間住んでいた。日本の「パリ生活社」という会社を使ってネットで予約したため、説明書きが日本語だったし、問題もなく入居できたのがよかった(ちなみに、実は現在私は友人と京都の一軒家に三日間だけ泊まることにしたのだが、中国の会社が仲介のため、説明書きが英語で難儀している)。初心者には良さそうだ。

さて、パリといえば、美しいブールヴァール(大通り)、セーヌ川、美術館、そして異様に高い物価で有名である。ホテルではなく何人かでアパルトマンを借りると、この歓迎することはできないパリの最後の特色を回避することができる。まず、ホテル代も、部屋の値段を何人かで割ることでかなり節約できる。次に、パリの強烈な食費もまた、自炊することでだいぶ楽になる。なんと、一人で旅していた時と比べて出費が半分くらいになっている。私はこのことで旅する技術を一つ身につけたような気がする。何人かで、物価の高い地域を、長い期間かけて旅する時はアパートを使うべし、という技術である。

私たちの泊まったヴォージラール地区はパリの左岸、つまり地図で見た時に下に位置する方にある。最寄駅はヴォージラール駅、ハブ駅となるのはブルターニュからの列車も乗り入れているモンパルナス駅だ。基本的にかなり便利という場所ではなかったが、だが、慣れてみると静かな空気感が良い。15分ほど歩けば、フランスが世界に誇るスーパーマーケット「キャルフール」もある。しかも家の向かいにはしっとりしたクロワッサンを売るパン屋まである。その点生活には便利だ。近くに朝市があったらしいが、最後の最後まで気づかず、利用せずに終わった。あな口惜し。

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生活パターンはおのずと決まってくる。

朝起きる。たいていの場合、シャワーを浴びるのが面倒になったまま寝ていたので朝シャンとやらをかます。部屋に戻ると友人が起きている。そこで声をかける。

「パン買いに行こう」

そして朝食のパンを買いに行くのだ。9月の初めだが、朝は肌寒いのでコートを羽織り、はす向かいのパン屋でパンを買う。ボンジュールといい、フランス語で済ませる。もちろん、完璧に数字が聞き取れているわけもなく、レジに表示される数字を見て支払う。買うのはクロワッサンだ。その方がジャムなどを買わなくてもいいし、単純に私の趣味である。

調理当番は私だった。だからパンを買って帰ったら、部屋のテレビをつけ、子供用のアニメを横目に、たいていは卵料理を作った。形が春巻きにしか見えないオムレツ、目玉焼きなどだ。前日の夕食が残っていれば、オムレツと一緒に出したりする。コーヒーを入れ、ヨーロッパに売っているものすごくうまいミックスフルーツジュースも出す。これが朝食である。我ながら、この「フランス修行」で朝食は上手く仕上がるようになったと思う。毎日の日課は、この朝食を食いながら、それぞれが行きたいところをあげつつ、甲高い声のウサギが主人公のアニメを見ることだ。

そして、そのあとは外へ繰り出す。前にも書いたが、初日の行き先はエクトルのハイスピードツアーだった。次の日はルーヴル、そしてその後にカルチエラタン。三日目は私はロンドンへ、後の二人はモン・サン・ミッシェル。四日目はオルセー方面だ。「次は〜〇〇、次は〜〇〇、お出口は左側です」的なアナウンスゼロの無音のメトロに乗って街に繰り出したものだ。いつ降りるべきかは、はじめはわからないので表示を見ていないといけなかったが、徐々に、「そろそろかな?」がつかめてくる。私たちは確かにパリで暮らしていた。メトロは、一週間のカードではなく、カルネという10回分チケットを使っていた。理由は忘れた。だが何かあったはずだ。

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外出が終わると、私たちは5時くらいにヴォージラールに戻ってきた。そしてキャルフールで夕食の材料と翌日の食材を買った。これもまた私が作ることになっていた。たいていはクスクスである。クスクスは、北アフリカの料理だ。だが、シャルル10世による侵攻以来クスクスの故郷はフランスの統治下におかれ、パリは北アフリカマグレブ)出身の移民も多くなり、クスクスは今やフランス、特にパリの庶民の味に変わった。私は予てからクスクスが好きで、クスクス・ロワイヤルという007顔負けの名前のモロッコ料理を作ったこともあったので、一種の得意料理とかしていた。このクスクス、調理の手間がかからなくて良いのだ。そして、クスクスのパッケージは大きい。だから、必然的に毎日クスクスになる。みんながパリに着いた日は鶏出汁トマト味+メルゲーズ(モロッコ風ソーセージ)のソース(翌朝のオムレツの付け合わせにもなった)、次の日は鶏の蒸し焼き、といろいろなものにあうのもよかった。そしてボルドー土産のワイン、その次の日からはスーパーで買ったワインを合わせるのだ。

たらふく食ったあとは、CDをかけたりしながら、友人の買ったウィスキーを異常なペースで飲む。音楽はクラシックがいいのか、ジャズやロックがいいのか、EDMはどうか、っていうかEDMってなんだ、ラップはありか、などとなぜか音楽談義を盛り上げたりした。そしてみんな眠くなってくるので、寝る。時たまテレビも見る。楽しい1日は終わり、翌日が始まる。

 

ところがこの生活リズムが一つの破綻をきたしたことがある。

それは日曜日だから四日目である。ヨーロッパの日曜日は不便、それは知っていたしカンペールでは痛いほど味わった。だが、私はパリでは大丈夫だと思っていた。ところがだ、朝パン屋に行くとパン屋が閉まっている。スーパーもそうだ。これはやらかした。やらかしおにいさんだ。あの時は奇跡的に空いているパン屋でクロワッサンを買い、夕食はムスリム系のやっている小さな商店で買ったミートソースやらサラミを駆使して作った。クロワッサンはいつものやつより上手くて拍子抜けしたが、夕食の方は「買い置きしておけばな」という内容のものができた。そういえば、あの日は色々と上手くいっていなかった気がする……

 

四日目はオルセーへと出かけたが、オルセーは異常に混んでいた。日曜日は無料で入れるらしくてとんでもない混み方だった。あいにく友人Sくんが別のパリに滞在中の彼の友人にあいにいくそうだったので、その予定のことも鑑み、今日はやめることにした。そして、私たちはセーヌ川の川沿いを歩いた。セーヌ川沿いは人々の憩いの場だった。ランナーは走り、子供は遊ぶ。かつて「臭い」と言われ続けてきたセーヌもまだマシになってきたようだ。私たちはとりあえず、セーヌ川沿いにパリの象徴エッフェル塔を目指した。

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三年前に来た時と比べ、エッフェル塔は警戒態勢だ。テロのせいだ。柵が設けられ、荷物検査もある。とりあえず登るのは後回しということで、S君とエッフェル塔側の橋で待ち合わせることにし、そのまま凱旋門方面まで歩いた。パリを体感する日だ。ヴォージラール最終日にふさわしかった。そう、四日目は最終日だった。

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凱旋門まで頑張ってつくと、シャンゼリゼ通りが見える。あの、シャンゼリゼ通りだ。だが、様子がおかしい。テロがあったからか。そう思いながら見ると、歩行者天国になっていた。第一日曜日だからだそうだ。ここに来ると必然的にあの歌を思い出す……

通りに沿ってぶらぶらしてたら、心もオープンになってくる

通りで会う人には誰にでも「ボンジュール」って声かけたくなる

誰にでもって言ったろ、つまりは君のこと

だから君に適当なことで話しかけたんだ

君と知り合うためには、それで十分だったわけだ

 

シャンゼリゼ通りには、そうシャンゼリゼ通りには

晴れの日も、雨の日も

真昼でも、夜中でも

欲しいものならなんでもあるんです

シャンゼリゼ通りにはね

オーシャンゼリゼー、だ。ところがこの歌には間違いがあった。晴れの日も、雨の日も、真昼でも、夜中でも、欲しいものはなんでもあるはずが、第一日曜日はテロ対策で駅が使用できないのだ。Sくんは必死で約束のために駅を探したが、結局コンコルドの方まででなければいけなかった。

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S君と別れ、私はモントリオールでも見たユダヤ人街を探しにほっつき歩いた。結局それらしいところも閑散としており、なんとなく徒労に終わってしまったが。昼もうまいファラフェルでも食おうと思ったが、結局のところチェーン店クィックのハンバーガーだった。まあ、こんなものだ。しかし疲れからか、イアフォンと古い、使い慣れたiPodをなくしてしまう。なんとなく良くない。

待ち合わせ場所へ行き、エッフェル塔に登った。

なんとなく上手くいかない日だったが、エッフェル塔からの風景だけは、今思い出しても最高だった。6歳の時登ったきりだったが、今登ってみるとそれはそれはすごかった。特に頂上からの景色は圧巻で、パリが全て見える。その昔、衛生状況と治安が悪かったパリを憂い、フランス皇帝ナポレオン3世はパリの大改造をセーヌ県知事オスマンに命じた。その結果が、美しい放射状の太い道路と並木道、そしてオスマン様式と呼ばれる今のパリの街並みだ。エッフェル塔から眺めればそれは一目瞭然だった。そのパリの姿はさながら芸術だった。それでいて、パリは生きていた。映画「ヒューゴの不思議な発明」では機械に例えられていたパリの街は、確かに鼓動していた。車が走り、街の生活が街の時計の針を進める。そして私たちはここで今暮らしている。そのことの持つ感慨は言葉には到底表しきれない。

ロラン・バルトは著書『エッフェル塔』でエッフェル塔は見られるものであると同時に、そこから見るものであると書いていた気がする(忘れた)。そういえば、俺たちのヴォージラールからはかろうじてエッフェル塔が見える。いま、私はそのエッフェル塔からパリを見ている。それは少しだけ不思議な体験である。不思議といえば、エッフェル塔という空間だ。その空間は、繊細なレースのような鉄筋に彩られ、科学技術と美が共存していた。19世紀から20世紀初頭のベルエポックと呼ばれる時代の空気感は、さもこのようなものだったのではないか。というのも、あの時代は科学と自然物、科学と魔術が共存していたのだ。アールヌーヴォーの時代である。

エッフェル塔を降り、私たちはメトロに乗った。少し離れた駅から乗ったのは、有名なシャイヨー宮殿から見るエッフェル塔の雰囲気をみるためと、もう一つ、私が密かに一番素晴らしいエッフェル塔の見方であると思っているやり方をやるためだ。それは、エッフェル塔周辺では地上の高架橋を走るメトロからパリの街並みの隙間を通してエッフェル塔を見るというやり方だ。訪れる機会があれば、是非お試しを。

 

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さて、そのあとは家に帰り、あまり美味しくないクスクスを食った。明日には、ヴォージラールを出る。名残り惜しすぎる。俺たちの家ヴォージラール。またいつかいきたいものだ。だがヴォージラールは私たちの心の中にある。

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