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Play Back〜ハードボイルド大学生活〜

ある大学生の日常をハードボイルドなエッセイ調に書く。

思い出がいっぱい

「懐かしいって感覚って何なのか、気になってるんです」と、ある人が言った。この前の木曜日のことである。あの日、僕を含めた十人の年齢も性別も違う仲間で「懐かしいってどういうこと?」についてみんなで考えた。

その人はいう。この季節になると、空気にも少し湿り気が出てきて、暖かくなってくる。そうなると、決まって高校の時の体育祭を思い出す、と彼女は言っていた。その時ではないが、彼女は体育祭や学園祭に随分打ち込むたちだったという話を聞いたことがあったから、きっと彼女にとっての体育祭は、随分と濃密な記憶だったに違いない。

彼女はその後、懐かしいというのはポジティヴな感情だと言った。どことなく、嬉しさにも似た感情だと。だが、僕はそうは思わなかった。確かに、ずっと会ってなかった人と会った時は、嬉しいし、懐かしいね、というだろう。だが、ふっと何かを思い出す時、嬉しさよりも、物悲しい、かと言ってあまり激しい感情ではないメランコリックな気分になることの方が、経験上多いからである。

僕の場合、それはオートバイのクラクションや、木を焼いたような匂いで起こる。クラクションが鳴ると、ヴェトナムを思い出し、木を焼いた匂いを嗅ぐと小学校まで入っていたボーイスカウトを思い出すのだ。ヴェトナムは楽しい思い出だったし、ボーイスカウトはあまり好きではなかった。だが、今ではそれを思い出すと、どことなく物悲しいメランコリックな気持ちになってくる。前に書いた音楽の話の表現を使うなら、「ざらり」と感じるのである。

 

懐かしいって何だろう?

普通はそんなこと考えず、「懐かしい!」と反射的に思い、「懐かしい!」と反射的に言っている。だがよく考えると、不思議な感覚である。

まず、思い出すこと、とは決定的に違う点がある。僕たちは何かを思い出しながら生きているが、何かを思い出せば、あの「懐かしい」というエモーショナルな感情が出てくるかというとそれは違うのだ。例えば、持ってこないといけないものを家に忘れてきたと咄嗟に思い出した時、だれもエモーショナルにはならないだろう。「あ、家に財布忘れてきた……財布かぁ……懐かしいなあ」といちいちなっていたら社会生活が送れない。普通は急に焦るが、あの、「懐かしい」という感情じゃないだろう。

ただ、思い出さないことでもない。対話の中で、ある人が特定の曲を聴くと懐かしくなる、というふうに言っていた。それは、何かを思い出しているわけではない、という。もちろん、そんな経験はある。僕の場合は、Bob Dylanの歌がそうだし、そうでなくても、ラジオから流れてきた全然聞いたことのない曲に泣きそうになったこともある。だが、それは懐かしいというよりも、「懐かしさに似た感情」のような気がする。だって、そういうメランコリックな音楽を聴いた時に、「懐かしい」とは普通言わないからだ。もし、「この歌聴くと懐かしくなるんだよね」と言われたら、きっと「何か思い出があるの?」と聞きたくなるはずだ。そして、「いや、別にないけど」という答えが返ってきたら、すかさず「ないんだ!」とツッコミたくなるはずである。もちろん、あの感情が「懐かしさ」にすごく似ているのはわかるが、ちょっとだけ違うような気もする。

じゃあ、思い出すだけではなく、何が必要なんだろう? きっと、それは、「忘れること」であり、「思い出す必要がなくなること」である。すっかり忘れていて、しかも思い出す必要のない、今とは関わりのないことをふとした瞬間にフラッシュバックする時、あのメランコリックな感情が湧いてくる。先ほどの忘れ物の例だと、「忘れていた」のは確かだが、明らかに「今の状況と関係がある」。だから、焦る。トラウマというのも、フラッシュバックしたものが今、そして未来と関わっているから恐怖感を覚えるが、懐かしいとは思わないのだ。また、あの状況が起こるかもしれない、とか、あの状況が今に蘇って危害を加えてくるような気がするから、怖いのだ。だが、懐かしいと思う時は違う。ヴェトナムも、体育祭も、カナダも、思い出す必要性は一つもないのだ。一つもないのに、思い出してしまう。しかも、普段の生活では意識にのぼっていなかったのだ。

懐かしさはいつも不意打ちなのか、と言われると、それはYESであり、NOなのだろう。というのも、思い出話をしたり、(対話している間にやった人がいたのだが)思い出そうとして、懐かしさを感じることもできるからだ。だが、やはり僕は、そこにも「不意打ち」があるような気がしている。僕たちが思い出そうとして思い出せるものは、情報だけではないだろうか。例えば、「中学校時代」を思い出してみるとしよう。「中学校の校舎!通学路!」と念じ、思い出そうとすると、写真みたいな光景が思い出されてくる。「先生!」と念じてみると、先生の顔や名前が思い出される。こうやって頑張って思い出そうとして出てくるのは、一つ一つの情報にすぎない。この時はまだ、「懐かし」くはないのではないか。だが、こうやっていくうちに、ある時ふと、「不意に」、情報を超えた生き生きとした記憶がフラッシュバックしてくる。「通学路ってこんな匂いしたな、あの先生は笑うと優しそうだけど、目はいつも笑ってなかったよな、そうそう、通学路は夜になると真っ暗になるから、部活終わりとかはなんかスリル満点だったよな……」と次々と、思い出そうとして想定していたものとは全然違うものが出てきて、僕たちは記憶に飲まれてゆく。その時、僕たちは「懐かしく」感じているのだ。思い出そうとして思い出す情報から、不意に思い出してしまう、忘れていたディテールがどんどんどんどん目の前に現れる。

こんな体験を共有する誰かがいる時は、もしかすると嬉しい気分になるのかもしれない。だから、今まで会ってなかった人と会う時は、嬉しい気分になるし、みんなで「そうそうあのときさ!」と話しているとなぜか話に花が咲くのだろう。それは多分、その生き生きとした記憶が、今に蘇るからだろう。現実のものとして、話題として、生きたまま蘇るからだろう。だが、思い出話はどこかで止まり、みんなが虚空を見つめながら、「懐かしいね……」とだけ言い始める瞬間がくる。その時、メランコリーが始まる。きっと一人で思い出す時、そしてフラッシュバックしたものを言葉でうまく表現できない時(懐かしいけど、具体的には思い出せない感覚はあるはずだ。あれは思い出していないのではなく、むしろ思い出したけど、「なんなのか」「どこなのか」「いつなのか」といった情報面が思い浮かばないのではないだろうか)、メランコリーはわりかしすぐに出てくるのだろう。

なんであんなに懐かしさは胸を打つのか。それはよくわからない。もしかすると、もう終わってしまったからかもしれない。記憶は蘇るが、もう現実のものではない。そんな、時の流れを意識してしまうからかもしれない。「あの時は」と過去を思い出す時、過去形を使う時、人は今とは違うんだと意識する。人は過去のことを、キラキラしたものと感じることが多いようで、楽しかった思い出も、逆に辛かった思い出も、みんな「自分の中で生きている」と感じる。そのことがなければ今の自分はない。そんな人生の中で起きたことが、まるで蘇ったかのように出てくる。その時、どこかで「今」は「あの時」ではない、という当たり前と言えば当たり前な、愛しい記憶との「別れ」を感じるのだろう。だが、それは当然のことで、思い出すという経験の、その中に浮いたような虚しさ、あの時は今とは違うというもの悲しさは、逆に今への道のりでもある。だからそれは悶えるような悲しさではなく、今の自分が歩いてきた過去の長い道を振り返る、「もう引き返すことはできないが、ここまでやってきたんだ」という良い意味でのため息でもある。「あの日」との隔たり、その隔たりが持つもの悲しさ、そして「あの日」が確かに自分の中で生きているという充足。懐かしさには色々なものが混ざっている。

 

思い出し、懐かしいと思うことは不意に襲ってきて、しみじみとした、メランコリックな気持ちを呼ぶ。過去に生きるのはよせ、という言葉があるが、好むとも好まずとも、人生を生きていれば、きっと懐かしさに襲われることがある。それは、人生はしっかりと「生きてきた」証拠でもあるのだと思う。それに…………蒸しっとした梅雨や夏の気温で思い出す思い出が増えたおかげで、昔は嫌でしかなかった夏がちょっと楽しくなった気もする。思い出がいっぱいだから、今に彩りが加わって行くってこともあるのだ。

 

 

常連になる

少し前、行きつけのトルコ料理屋に行った。

行きつけ、といっても、そんなにしょっちゅう行くわけでもない。なぜなら、僕の生活圏から考えると、ちょっとだけ遠い場所にあるからだ。大学のある街から2、30分歩いたところにある店である。そして、ランチ1000円と、学生にはちょいと厳しいお値段設定となっているのも、そこまでいかない理由だ。だが、時間とお金に余裕ができたら、「よし、行こう」と思わせてくれるものがあの店にはある。というのも、そこで出している「イスケンデル・ケバブ」が絶品なのだ。おっと、この料理を知らない人の方が多いだろう。イスケンデルケバブは、鶏肉を炙ったものにトマトソース、ヨーグルトソース(日本のプレーンヨーグルトよりも酸味が強く、調理用)、そしてちぎったトルコ風パン(エキメッキ)を和え、煮込んだ料理だ。エキゾチックでありながら素朴、遠い異国の料理でありながらなんとなく懐かしい。そんな料理だ。僕は初めてそれをこの店で食ったとき、うますぎて、涙が浮かびそうになるほどだった。

あの店に行くと、いつも小柄で声が若干高い(かといって甲高いわけではない微妙なライン)お兄さんがいる。彼が店主なのか、店長なのかはよくわからないが、本店は別にあるようなので、さしづめ暖簾分けしてもらった店長というところに違いない。僕が初めてこの店を訪れた時は、彼はウェイターをしていた(ウェイターなら店長じゃないじゃないかって? そんな気もするが、ただのウェイターにしては、他の店員の顔ぶれが変わる中、三年間そこに居座り続けているのだから、ただ者ではない)。それがあるとき、彼はコックになっていた。理由はわからないが、とにかく料理をしていたのだ。初めは、「やっぱり最初のコックの方がうまいな」と思いながら、イスケンデルケバブを食っていたが、だんだん腕が上がったようで、最後に食べたときには、明らかに最初のコックのイスケンデルケバブを凌駕していた。

だが、今回行ってみると、なんと彼はウェイターに復帰しているではないか。調理場にはまた別のコックが立っている。

「イラッシャイマセ」と、彼はいつにない笑顔で言った。あきらかに、「また来てくれましたね」とこちらを認識している雰囲気である。この店には通っていたものの、常連扱いを受けることはあまりなかったので、少しだけ驚きながら、僕は席に着いた(たぶん、このお兄さんがコックをやっていていそがしかったからなのだろう)。その日は暑かったので、煮込みを食う気にはなれず、今まで食べたことのなかった「トルコ風ピザ」を注文した。この店のメニューは基本均一1000円で、サラダ、スープ(日替わりで、これまたうまい! 正直どう説明したらいいかわからないが、非常にうまい)、エキメッキと呼ばれるトルコ風パン、メイン料理、デザートの「もちもちプリン(米が入った杏仁豆腐のような、それでいてもちもちした、表面を炙った、冷えた白いプリン)」、チャイ(インドのものとは違い、紅茶を濃厚に入れたもので、砂糖を入れると甘すぎず、苦すぎず、アクセントの効いた味になる)がでてくる。

トルコ風ピザもうまかった。ピザといっても、折りたたんだ形状で、スパイスの効いた肉がパンの間に挟まっている。軽食感は拭えないが、初めて食ったこともあってか、「うまい!」と脳内で連呼したほどである。

この店ではチャイがお代わりできる。僕はそれを知っていたので、プリンを食べ終わり、ゆっくりチャイを飲み終わっても、しばらく座っていた。するとお兄さんがやってきて、

「チャイのおかわり?」と言いながら、僕が返事をする前にチャイのグラスを持って行った。やっと、常連として認められたんだな、と少しだけ誇らしい気持ちになった。

今度は、新しいコックのイスケンデルケバブの腕前を見てやろうじゃないか。そう、僕はもう常連として認められたのだ。

などと、バカなことを考えている。

One on One

思えば、小学生の頃だったと思う。

当時の僕はなぜだかイギリスブームで(ハリーポッターやシャーロックホームズやアガサクリスティー、ドクターフーのせいだと思う)、とにかくイギリスのものだと言われればなんでも受容していた。大河ドラマの「篤姫」で生麦事件薩摩藩士にイギリス人が殺傷される事件、冷静に見れば、明らかにイギリス人側に非がある)をみて憤り、威風堂々を聞き、英語もブリティッシュな発音に憧れて、発音の真似事をしていた(そのせいで、今やブリティッシュな発音しかできなくなった)ときだった。

推理小説も、ファンタジー小説も(ハリーポッターナルニア国物語鏡の国のアリスライラの冒険指輪物語は小学生には分厚くて小さすぎた)イギリスを極め、イギリス国王をノルマンコンクェストのウィリアム1世征服王からエリザベス2世女王陛下まで暗記した時、次に進む道は一つしか残されていなかった。イギリスの音楽である。そうはいっても、うちがクラシック好きだったこともあり、ホルストエルガーはいくつか聞いていた(さっきも威風堂々のことを書いた)。では、他にどんな音楽かと言われればもう、ロックである。そうはいっても、母が好きだったクィーンは、小学生にはちょいとロックしすぎていた。丁度良い塩梅で、耳馴染みもあるもの、そうやってたどり着いたのがThe Beatlesであった、という次第である。

はじめはこんな具合に、くだらなすぎる理由で触れたわけだ。だが、赤盤、青盤から聞き始め、それを何周も何周もしているうちに、もっと聞きたいと思い始めた。そんな折、ニュースが流れる。The Beatlesの全アルバムがリマスター版になって再発売されるらしい! 僕は父親に頼み込み、クリスマスプレゼントにそのCDボックスをもらった。その頃から、僕はthe Beatlesを聞いていた。あまり聞かなかった時期ももちろんあったが、不思議なことに、少し聞いていないと、また戻って来たくなる魅力がthe Beatlesにはあったようである。

そうはいっても、the Beatlesなどこのご時世、古い音楽になっている。カナダに行った時なんか、カナダ人に「the Beatlesが好きなんだ」といえば、「クラシックだね」と言われ、同居人のイタリア人に「the Beatlesをよく聞くよ」といえば、「ああ、クラシックね。俺はあんまり好きじゃない」などと言われるほどである。高校時代の友人はボーカロイドが好きな人が多かったし、そうでなくても、ゆずや、いきものがかりBump of ChickenSEKAI NO OWARIの名前は出ても、the Beatlesとなるとみんな「ああ、英語でやるやつね」程度の感想しかない(不思議とQueen知名度がある)。高校の時、一人だけthe Beatlesがわかる友達がいたが、クラスがバラバラになってからはそんなに話さなかった。

 

それが、である。大学に入るとなぜだか、周りにうじゃうじゃと、わいたかのようにthe Beatlesファンがいる。面白いもんだな、と思ったし、周りのほうが明らかに詳しい。海賊版を漁る友人、コピーバンドをやる友人と、ありとあらゆるのがいる。そんな環境の変化で、またちゃんと聞こう、と僕の推定第四次the Beatlesブームが始まった次第であった。

月日を経て聞いてみると、趣味趣向も変わっているようで、小・中学性の頃は退屈だと思っていた初期作品(Please Please Me、With the Beatles、Hard Days Night、Beatles for sale)が気に入っていることに気づいた。もしかすると、最後の方のアルバムはかつて何周も何周も聞いていたため、逆におざなりにしていた初期アルバムが新鮮に聞こえたのかもしれない。だが、それ以上に、ギターの音が心揺さぶり、ハモりがカラッと響いたからだと思う。

そんなこんなで、旅先には初期作品だけを入れた古いiPodを持って行くのが慣例となった。イタリアでも、タイでも、カナダでも、台湾でも、ヴェトナムでも、カンボジアでも、若かりし日のthe Beatlesは旅のお供だった(途中から、the Animalsというthe Beatlesの同世代バンドも気に入って、旅のお供に新バンドが加わっている)。なぜだろう、初期のthe Beatlesの曲は、どの国の風景にもあっていた。あっていた、というか、風景に色を与えてくれていた。

 

そんな矢先、あるニュースが届く。

2016年度のNHK紅白歌合戦で、the Beatlesの一員だったポール・マッカートニーのビデオメッセージが移され、なんと、来日すると宣言したのだ。これは大ニュースだった。とはいえ、僕は諸事情により、お金を節約しなければいけなかった。しかも、ポールマッカートニーといえば大スターで、そう簡単にチケットは取れない。その上、僕はライヴというものに行ったことがなく、むしろCDでいいじゃん、とすら思っていた(だって、the Beatlesはどう頑張っても、もう存在しないからだ)。そういうわけで、僕は抽選に登録しなかったのだが、冬休みが終わって友達に会うと、みんな抽選に参加している。その中には、一昨年のポール来日に駆けつけた奴もいた。話を聞いていると、だんだん行きたくなってくる。そして結局、半ば煽られる形で抽選に登録したのだ。どうせ抽選には落ちるだろう、と少しばかり思いつつ。

しばらく経って抽選結果が出ると、なんと受かっている。しかも、チケットをもらってみるとアリーナ席である。かくして、僕はポール・マッカートニーの東京ドームライヴに行くことになったのだった。

 

あの日のことを、音楽評論家のようにいうことはできない。the Beatlesは聞いていても、ポールのもう一つのバンドthe Wingsに関しては、007の主題歌「死ぬのは奴らだ(Live and let die)」しか知らない始末で、ろくにセットリストがこうだなんていうこともできない。生でポールを見たのも初めてだから、今年のポールがどうこうということもできない。ただ言えるのは、幻のようだったということだけだ。

ポールのライヴは遅刻がいつものことだそうで、僕が席に着いたのも開演の18:30ちょうどくらいだった。アリーナ席とはいえ、舞台からは遠いので、よく舞台の見えない席だった。しばらくBGMとして流れてくるアレンジされたポールマッカートニーやthe Beatlesの曲に体を小刻みに揺らしていると、隣に座っている初老のおじさんが声をかけてきた。髪型はQueenブライアン・メイに似ていて、彼女はかなり年下だ。

「一度目の抽選でこの席だったんですか?」なんとまあ、テクニカルな質問である。とりあえず僕は、はい、と答えた。どうやら、おじさんの友人の中には、誤解も抽選したのに三回席の人がいるらしい。やはり、本物のファンは違う、と僕は自分の微妙な立ち位置を思って不安な気分になった。

「あなたぐらいの年でもポールマッカートニーやビートルズが好きになるんですね」とおじさんは言う。僕はまた、「はい」と答え、the Betalesが好きなんです、とwingsを聞いたことのないことをうまくごまかした。

「生でポールを見るのは初めて?」

「はい。」実は初めてのライヴだなんて言えない。

「ポールだとね、やっぱりthe Beatlesはこうだったのかな、っていうのがわかりますよ。リンゴはもうダメだね(笑)」リンゴというのは、the Beatlesのドラマーで、四人いたメンバーのうちもっとも「地味」と言われ、そして今でも生き残っているメンバーである。僕はリンゴが結構好きだし、カラオケでも、音域の関係でよく歌う。

「見た目も随分変わっちゃいましたからね」僕は答えた。リンゴは、昔は他のメンバーと同じくらいの髪の長さだったが、今や角刈り状態で、サングラスもかけており、なんとなくいかつくなってしまったのである。

「そうだね(笑)。髪の毛は伸ばしておいてほしいよね‥‥」

そのとき、会場がざわつき始め、アリーナは総立ちとなった。僕もとりあえずたち、ブライアン・メイも彼女と一緒に立ち上がった。すると遥か彼方の銀河系、ではなく、遥か彼方のステージにギターを持ったポール・マッカートニーが現れ、Hard Days Nightを歌い始めた。アリーナ席で、僕みたいな、そこそこのファンが盛り上がれるのか不安だったが、始まってしまうと、もう周りにのまれ、一体化してしまった。手を叩き、体を揺らし、ポールが手を振れば、こっちも手を振る、という次第である。

それにしても、こんなに不思議なことはなかった。ヴェトナムで、カナダで、イタリアで、小さな白いiPodから聞こえてきた音楽が、爆音で流れ、あの声の主がいま、ここで、自分の声で歌っていて、その声が聞こえている。「クラシックだね」と言われた音楽に、老若男女がダンスし、声を揃えて歌っている。いままで、the Beatlesは、一人で聞くものだった。それが、こうも、たくさんの人を巻き込むものだったとは。

そう、それでいて、きっと、ポールが歌を歌うたびに、この一つの東京ドームに集った五万人以上の人々の胸に蘇るものは、きっと違うのだろう。僕の前の席に立っていた一段は、ライヴが始まるまでは、ごく普通のおじさんおばさんだった。だが、始まると、まるで昔に戻ったように、踊り狂っている。しかも、テレビで見たことがあるような、ちょっと古いダンスの仕方で。音楽は時を超える、いや、音楽が時なのかもしれないと思った。平成の人は平成のやり方で、昭和の人は昭和のやり方で、それぞれの人がそれぞれの思い出とともに、目の前にいるポール・マッカートニーと一つになったのだ。

ライヴは3時間にわたり、ポールも3時間歌い続けた。僕らアリーナ席の住人は基本的に立ちっぱなしで、三時間一つになっていた。それだけに、ライヴが終わり、ポールが舞台からいなくなり、会場がパッと明るくなった時、僕たちはなんだか、幻を見ていたような気分になった。「終わっちゃった」という気持ちもあったが、それ以上に、一体なんだったんだろう、という気分があった。それは、悪い意味ではない。子供の頃ディズニーランドで遊び倒し、夜もふけて、そして舞浜駅から電車に乗った時の、「あれ、なんだったんだろう」という感覚である。僕は気の抜けた風船のような面持ちで電車に揺られ、多摩地方へと帰宅した。

 

「全然違うでしょ?」と隣のブライアン・メイが、ライヴの終わりに言ったのを思い出した。

「全然違います!」と僕は確か答えた。それはたしかに、CDでは得られない経験だった。だが、CDがなければ得られない経験だった。そうか、みんながライヴはいいっていうのは、こういうことだったんだな、と気づいた。

街が生きる(神楽坂)

最近、よく神楽坂にいる。毎週日曜日、飯田橋でちょっとした用事があって、それが終わるとちょうど昼の時間になるから、昼を食うには手ごろなのが神楽坂なのだ。何の因果か、飯田橋に通うようになって二回中二回、天気にも恵まれている。それに、これまた何の因果か、日曜日の夜に両日共に予定が入っていたので、時間を潰す必要があった。つまり、散歩をするのに最高の条件が整っていたってわけだ。

神楽坂は、JR飯田橋駅の西口を出たすぐのところにある。大正時代くらいから栄えていたようだ。日曜の昼は、坂全体を歩行者天国にしていて、大勢の観光客などが行き来をしている。それから、この坂の隣には東京理科大があるせいか、学生街のような雰囲気もある。スタバやドトールが軒を連ねる一方で、入ったことはないが、カレーと謎のトルコライスなるものを売る「トレド」という喫茶店のような食堂のような店もある。その一方で、何やら和菓子のようなものを売っている土産物屋もたくさんあった。

以前来た時、私はこの「大通り」の部分しか知らなかったと思う。だからその当時は、「確かに盛り上がっているけど、アメ横の方が面白い」と思ったものだった。どこか観光地の香りがし、日本の数ある観光化された道のうちの一つ、というようにしか思えなかった。だが、神楽坂の面白さは、一歩入った通りにある。

この前行った時、私は食事できる場所を探していて、ふと路地裏に迷い込んだ。するとどうだろう、迷路である。こちらに行くとどちらに行き、あちらに行くとどちらに行くのかよくわからない、狭い通りがあった。時折、こじんまりとしたカフェや、小料理屋のようなものがひっそりと立っていて、迷い込んできた旅人や、わざわざ探し求めてやってくる強者をじっと待っていた。ここのところ私はかなり金がないので、中に入る財力も勇気もなかったので、ひとまず通り過ぎながら、路地裏から路地裏へと歩いた。ひょっとすると、迷路みたいだと言われることの多いモロッコの街は、これをもっとハードにした感じなのかな、と思いつつ、私はひたすら歩いた。迷宮、というにはあまりにイージーだが、ただのまっすぐな道よりは楽しい。そして、もしかするとイージーだと思っているのは、私のまだ見ていない道がどこかにあるからかもしれないな、と思うとこの界隈をマスターしたくなってくる。

結局、その日の昼食は、坂をもっと上に行ったところにあった「魚串」の専門店にした。途中で、鳥の丸焼きを焼いている店や、南イタリア風のコロッケを売っている店があって、ここで買って食べ歩きもいいなと思ったのだが、若干高かったこともあり、一人でも入りやすそうでありかつ安めの「魚串」にした次第である。この店は、焼き鳥のように魚を串に刺して焼いて出している店(メザシなどの類ではない。魚の切り身に串を刺して焼いているのだ)で、どうやら神保町にも店を出しているのだという(事実、魚串を食った数時間後、神保町で発見した)。その「魚串専門店一号店」が神楽坂店であった。昼は三串の定食で780円、と割安だ。そして、味はというと、明らかに780円では普通は食えないだろうというくらいうまい。鮭は脂がのっていて、アジフライはジューシーだった。そしてどれも串に刺さっている。私は串に刺さったものが好きだ。串に刺さった肉、串に刺さったフルーツ、そして串に刺さった魚。今まで行ったところで私は必ず串ものを食っている。インターチェンジによれば、必ず牛串を食う。中身が同じでも、串刺しになっているだけで、5倍はうまそうに見えるし、6倍はうまく感じるのである。ここの店長も、同じような性分なのかもしれない。店長は真剣な眼差しで、一人、カウンターの向こうで魚を焼いていた。店員は若い女性が一人だけ働いていて、アルバイトなのかもしれないが、どこかその店に思い入れがありそうな感じもあった。メニューの表紙には、「小さいお店ですが、日本の文化にしたい」というようなことが書いてあって、なんとなく、その心意気はいいな、と思った。そんなこんなで、私は魚串定食を平らげた。ただし、アジフライが熱々だったので、口の中を火傷した、という話は秘密である。

神楽坂は、「生きている」。大通りは人で溢れ、「魚串」などという新進気鋭なものが生まれたりする。一方、ちょっと道をそれると、古い街並みが残り、石畳もあり、そしてその中に、新しくできたのであろうこじんまりとしたカフェと、古い小料理屋と、まあまあ古いカラオケ屋(どでかい看板に「カラオケ」と書かれているのを見た人もたくさんいるだろう)がある。街を行く人は、学生だったり、会社員だったり、そしてフランス人だったりする。近くにアンスティテュ・フランセ(フランス政府公認の機関でフランス語教室をやったりしている)やブリティッシュ・カウンシル(英国政府公認の機関で英語教室をやったりしている)があるせいか、国際色豊かな雰囲気も流れているようだ。特にフランス人は多くて、フランス語をしゃべる子供達が遊んでたりする。そのせいか、神楽坂の坂の上の方では、フランスっぽい音楽をスピーカーで流しているのだが、うーん、あれはやめたほうがいい。やるならアコーディオン奏者か何かを雇って路上でパフォーマンスして貰えばいいのに、と思う。とにかく、神楽坂は、よいい意味で混ざり合って空間である。そしてそれでいて、いや、それだから、「神楽坂」は「神楽坂」なのだ。時代を経て現在を生きる街、色々な文化が共存する街、それが、神楽坂なのかもしれない。ステレオタイプみたいな表現になってしまったが、何度か通ってみて、そう思ったのだから、しかたがない。

哲学者のアンリ・ベルクソンは、人が街で年を重ねるとき、街もまた年を重ねる、というようなことを言っていた。かつて私が神楽坂をそんなに面白くないなと思っていたけど、今はいい街だなと思うようになったのは、きっと私が少し変わり、それに伴い、目の前に開かれる街も変わったからだろう。また次に行くときには、かの街はどんな街になっているんだろうか。

 

ざらり、音楽のはなし

この前の日曜日のことになるが、カナダで知り合った友達と再会した。というと、夏のカナダ研修以来あっていないような雰囲気が出てしまうが、実を言うと大体4ヶ月ぶりくらいになる。というのも、12月にカナダで僕らの面倒を見てくれた人が来日したからだ。その前にも一度みんなで会ったから、実に戻ってきてから三度目の「再会」である。

あまりに短すぎる制限時間の中で食事をした私たちは、ふとカラオケに行くことになった。このメンバーはみんな歌が歌える人たちで、研修の最終日などは歌の発表もやったわけだが、なぜだか、一度もみんなでカラオケに行ったことはなかった。それぞれ想い想いの歌を歌った後で、思い出の歌を歌おうということになった。それは三曲。発音のクラスの聞き取り問題になっていたジャスティン・ビーバーの「Love yourself」、フェアウェルパーティーでみんなで歌ったGreeeenの「キセキ」、そしてフェアウェルパーティーの出し物で発表した、映画「天使にラヴソングを」の「Ain't no mountains high enough」である。僕がジャスティン・ビーバーを聞くことは、ラジオで流れてきたときくらいしかない。そのせいかもわからないが、「Love yourself」が始まった時、胸に何か、ざらりとした感触を感じた。それはこの曲が嫌いで感じたことではない。長くて短かったあのモントリオールの語学研修の思い出が、曲の始まりとともに、心をざらっと、通り過ぎたからだった。

そういえば、カナダから帰ってきてすぐ、道を歩いていたら、まさにこの「Love yourself」が何かの店から聞こえてきたことがあった。あの時も、そうだった。あの時も、胸に何かざらりとしたものを感じたのを覚えている。音楽が日々を凝縮し、胸に染み入ってくる。まさにそんな感覚である。

 

少し話は広がるが、音楽にはそんな力があるのかもしれない。特に疲れている時、何か悲しいことがあった時、何かを失った時、孤独を感じている時、僕たちの胸の奥に直接やってきて、生乾きの傷跡にすっと触れてくる。そんなとき、ざらりと何かを感じる。なにも、ひどい失恋やすごい喪失感を抱えていなくてもいい。たとえば、忙しいけど楽しかった日々が過ぎ去ってしまった時。そんな時は別に、「ああ、絶望だ!!」というような大げさな感情はないが、なんとなく寂しい。それは多分、忙しいけど楽しかった日々を過ごす時、そんな日々、そこで時間を共有している人たち、そこで起こるできことはみんな、僕たちとまるで一体化しているかのようになっているからだ。だから、日々が過ぎ去り、離れ離れになると、僕らは喪失感を覚える。僕らは自分と一体になっていた時の流れとの別れを経験するのだ。そんなとき、その日々を思い出す音楽が流れると、胸の奥に、ざらりとした感触を感じる。

思い出させる音楽。それは、そんなに思い入れがなくてもいいのかもしれない。大事なのは、そこで流れていた、ということだ。「Love yourself」は、「あぁ、ジャスティン・ビーバーっていい声しているな。澄んだ声だなあ」程度の感想しかなかったが、今聞くとカナダがパッと思い出される。5年ほど前に言ったイギリスを思い出させる歌もあるが、正直あれは曲名すら知らないポップスだ。去年のヴェトナムとタイを思い出させる歌は、これもまた曲名すら知らないアメリカンなポップスである。どれもアメリカンなポップス。僕が好きなのは60年代のロックやジャズ。大して思い入れのない曲たちが、僕の心の寂しさに、ざらりとした感覚を抱かせる。いつもというわけではないが、時に泣きそうな気分にさせる。

なにも、音楽でなくてもいいのかもしれない。だが僕は、音楽が一番、心に染み込んでくるように思う。理由なんてものはわからない。だが、そんなものわからなくったって、音楽は心に押し寄せてくる感じがするのだ。往年の映画「カサブランカ」の主人公でカフェを経営するリックは、相棒のピアニストのサムに、「時の過ぎゆくままに(As Time Goes By)」という歌を弾くことを禁じていた。それは、その歌が、かつてパリで離れ離れになった恋人を思い出させるからだった。きっとリックは、「As Time Goes By」を聞くと、心にざらりとした何かを感じるのだろう。そしてそれは、彼の冷静ではいられなくする。だからこそ彼はこの曲から逃げたのだ。本年度アカデミー賞主演女優賞や作曲賞を総なめにした「ラ・ラ・ランド」では、主人公のミアがかつての恋人セブと出会った時に聞いたピアノの曲で、「自分たちにはかなわなかった日々」に想いを馳せるシーンがある。これはある種、あの「ざらり」感を映像に表現したものと言える。音楽は確かに、失われた日々を、マドレーヌ以上に思い出させてくれる。いや、思い出させてしまう。

 

過去だけではない。思い入れも思い出もない音楽が、心に直接来るってこともある。そして、その時感じている寂しさにざらりとした感触を残すこともある。

一週間台湾にいた、去年の9月。あれは確か5日目だったと思うが、僕はどことなく心に「寂しさ」を抱えていた。理由はいろいろある。たとえば、疲れていた。中国語に疲れ、体力的に疲れていた。そして、その前日日本語が喋れる台湾人のおっさんと話したことで、「誰かと話したい」というモードになってしまったということもある。だが一番大きいのは、旅のタイムリミットが近づいていたからだった。あと2日で、僕に何ができるのだろう、そう考えていた。いや、実を言うと、「あと1日」だったのだ。なぜなら、翌日は台風接近の日だったんだから。

僕はあてもなく、「西門町」という若者スポットを歩いていた。そこは日本好きが集まる場所で、もしかすると、誰かと話せるのではないか、と思っていたからだった。だが、そううまくはいかず、たださまようだけであった。そんな中、ストリートミュージシャンが歌い始めたのだ。曲名なんて知らない。とにかく高めの綺麗な声で、彼は歌い始めた。日が暮れ始めていた。中国語の曲が、僕の胸に直接やってきて、そう、あの時僕は、「ざらり」を感じたのだ。異国の地で一人なのが嫌なのではない。いや、何も嫌なことなどない。むしろもっと長くいたかった。だが、この時は心が疼いた。

同じような感覚を抱いたのは、その2日後、台北駅でだった。僕は帰るのが嫌で、地下街をうろうろしていたのだが、そこにもストリートミュージシャンがいて、しばらく聞いいていると、「なだそうそう」の中国語版を歌い始めた。みんなが歌っている。僕は歌わなかったが、ざらりと感じた。そして、ようやく、帰る決心がついた。

 

音楽は不思議だ。胸に直接来て、人の心を疼かせ、そして、人の心を踊らせるのだから(「ラ・ラ・ランド」のオープニングを聞くと、楽しげな歩き方になってしまったりする)。一体どうなっているんだろう。などと、思ったりする。

さよならハノイ、また会おう

ハノイに到着した時、私の体調は最悪だった。

カンボジアシェムリアップは楽しい思い出だったが、あそこでなんらかのバクテリアの野郎が、私の胃腸に侵入してきやがったのである。いつ、何をしている時に入ってきたのかはわからないが、とにかく胃腸がチクチクと痛み続けること三日間、私は苦しみ続けた。

面白いのは、何もあの腹痛は、動けないとか、下痢や嘔吐を続けるといった類のものではなかったことである。とにかくちくっとする。普通に歩いていた刹那、一番上の腹筋と二番目の腹筋の間あたりにぐさりと何かを刺されたような痛みが走る。そうなると、歩くことはできるが、嫌な気分になる。ハノイ滞在中はそんなことを繰り返していた。治ってきたかと思うと激痛が走り、治らないなと思っていると病んだりする。あの気まぐれのバクテリアは、困ったものだ。寝たきりになるぐらいの痛みならば、むしろ色々諦めがつくが、耐えられる程度だというのもまた腹立たしい。

そんなこんなだったので、わたしはハノイの地酒「ビアハノイ」との再会も果たせなかったし、ハロン湾ツアーでも、立ち上がると痛みが走る、座ると治る、というようなことを繰り返していた。痛みに耐えながら、知り合ったシンガポール人の家族と話し、痛みに耐えながら、あまりに人工的で毒々しいライトアップを受けた鍾乳洞を見学した。痛みに耐えながら、タニシとトマトとシソのにゅうめん(案外いける)を食べ、痛みに耐えながら魚介たっぷりのラーメンを食った。

f:id:LeFlaneur:20170412172942j:plainタニシとトマトとシソのにゅうめん(ブン)。一瞬グロいが、うまい。タニシがコリコリである。

 

f:id:LeFlaneur:20170412173042j:plain魚介ラーメン。スープは旨みたっぷり。汁をすすってる時だけは胃腸痛も引いた。

 

 

そして、痛みのハノイの日々は、最終日に至って、最大級の痛みを用意していた。低気圧の影響か、強烈な頭痛が襲ったのである。頭がガンガンする。ガンガンしすぎて、胃腸などどうでもよくなる。が、頭痛が少し治れば、胃腸痛が復活する。いたちごっこである。そんな状況の中で、ミイラ化したホーチミン主席と対面し、フォーを食った。友人も同じような状況で、「このままこんな感じだったら、とりあえず電車でフエまで行ったら(電車は予約してしまっていた)、その後はホーチミンLCCで行って、ホテルに引きこもろう」という超ネガティヴな計画を立てたほどであった。

頭痛、胃腸炎、そして耳をつんざくバイクのクラクション。クラクラしながら私たちは、ヴェトナムコーヒーを飲んだ。するとどうだろう、ゆっくりしているうちに、まずは頭痛が、ついで胃腸痛が消えてゆくではないか。科学的に見れば、ヴェトナムコーヒーのあの甘くてドロッとした感じが解決してくれたのはきっと頭痛だけである。胃腸炎のほうは、この日から飲み始めた正露丸のおかげだろう(なぜこの日からかというと、バクテリア性胃腸炎の場合、正露丸で下痢を止めるよりも、ふんばって出したほうがいい、という情報を得たからである。決して、薬による治療を嫌がったわけではない、念のため)。だが、多分それだけではない。私たちがコーヒーを飲んだのは、去年ハノイを訪れた際のホテルのそばで、見覚えのある界隈だったのだ。そのせいか心もなんとなく落ち着いていた。

ハノイは、大好きな街だった。だから、最後の最後であの体調が治ってよかった。すっかり元気になった私は、心も軽やかに湖の方へと向かい、最後のハノイの景色を目に刻み込んだ。ちょうど「旧正月(テッ)」のころだったもんだから、若い男女がアオザイ姿で写真を撮っている。

f:id:LeFlaneur:20170412174056j:plainヴェトナム(李朝大越)初代国王リータイトーの前で写真を撮る人たち

夕暮れの公園を歩いていると、剣の舞をしている女性がいる。そういえば去年も見たなあ、などと思いながら友人と話していると、突如おばあさんがやってきて、

「あれはヒップホップよ。あなたたちはやるの? ヒップホップ」と流量な英語で言ってきた。明らかにヒップホップではなく剣の舞だが、私たちはともかく「No」と答えた。若干警戒しつつ、おばあさんの話を聞く。

「どこから来たの? 韓国?」とおばあさん。

「日本です、ニャッバーン」

「あら、そうなの。ゴクサンテンプルにはいった?」おばあさんはなおも喋る。ゴクサンテップルというのは、ハノイの象徴ホアンキエム湖のど真ん中にある寺院で、中には亀が祀られている。去年行ったので、

「行きましたよ」と言っておく。

「あそこには亀が祀られているの」とおばあさんは言った。それにしても英語がうまい。外国人相手に練習したかったのかもしれない。

「俺は亀を飼ってます」と友人が言った。

「あら!」とおばあさんは無邪気に笑う。

バントーイ・コォ・ズア(彼は亀を飼っている)」私はヴェトナム語の小さな辞書を開きながら言ってみた。おばあさんが英語の練習なら、私だってヴェトナム語の練習だ、というわけである。

「あら」とおばあさんは、ヴェトナム語ね、という表情をし、「バントーイ・コォ・モッ・コン・ズア」と添削して見せた。私はリピートした。おばあさんは嬉しそうに、ベンチに座っているおばさんを指差し、

「あの人に挨拶するときは、チャオ・コよ」と言った。そしておじさんを指し、「あっちは、チャオ・オン」という。そう、ヴェトナム語では二人称が相手の年齢によって違うのである。そしておばあさんは自分を指し、「わたしには、チャオ・バ。ほら、(見事な白髪を指す)わたしはグランド・マザーだから。あそこにグランドマザーがたくさんいるわね。そのときは、チャオ・カッ・バ」

ヴェトナム語の挨拶は基本「シンチャオ」というふうに習うが、それだけではまだまだ片言だという。こうした二人称を覚え、相手にあった表現をして、やっと一人前だ。

「いつまでいるの?」とおばあさん。

「今夜の電車でフエに向かいます」と私たちは言った。そして、「チャオ・カッ・バ!」といって、別れた。最終日に限って、いい出会いが待っている。だからこそ、また来たくなってしまう。ハノイにはそんな力があるのかもしれない。私は頭痛も胃腸痛も全部忘れていた。いまはただ、またハノイに行こう、と決意するだけだった。

時の流れを感じながら

ヴェトナムに行くのは二度目だった。去年の二月半ばに、私は今回行ったのと同じ友人と、東南アジアの旅に出かけており、その時に最初に訪れたのがヴェトナムだったのである(東南アジアの旅と言っても10日間であり、ヴェトナム以外にはタイのバンコクにしかいっていないのだが)。二度目でしかも一年後、というのは面白いもので、町を訪ねるだけで時の流れを感じることができる。

例えば、ハノイでは、ホアンキエム湖に新しくできた自動販売機と信号機を見た。ネットで調べて動向を確認してみると、おそらくこれは去年の夏くらいにできたものなのであろう(といっても、全くもって根拠がない。そもそも去年の春になかったというのも私の曖昧な記憶である。だが、なかった気がするのだ)。それは、番号を打ち込んで、飲み物が出てくる、というヨーロッパやアメリカにあるようなものだった。ヴェトナムで飲み物と言ったら、おばちゃんが売っているものを買うのがスタンダードなので、ちょっとだけ寂しさを感じるとともに、やはりこの国は変わってゆくのだなということを実感した。

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ハノイでいうと、バイクの路上駐車の取り締まりも、最近始まったことらしい。この現場にも今回は居合わせた。路上食堂で焼きそばを食べていた時のことだ。突然、拡声器を通したのであろう声がし、店の人やバイクの主がその声を聞くや否や道路に止められているバイクの方にすっ飛んで行く。「やべえ、サツがきやがった!」と、まるで違法賭博の人たちのように、車道に出ているバイクを歩道に入れてゆくのである。そして、警察車が通り過ぎるのをやり過ごす。ただ、奇妙なことがある。後で知ったことなのだが、この取り締まりは「歩道占拠の取り締まり」のはずなのだ。車道に出ているバイクを歩道に入れたのでは、逆に歩道占拠を促進しているのではないかと思うが……。

とまあ、いろいろな変化を通じて、私はヴェトナムという国の変化を感じ取っていたのだが、一つかなりショックな変化があったのである。

それは、ホーチミンでのことだ。去年はブイヴィエン通りというバックパッカー、というか欧米人が集まってどんちゃん騒ぎする通りにある「アンアン2」というホテルに泊まっていたのだが、そこがあまりにどんちゃん騒ぎだったので、今回は少し離れた場所に宿泊した。だがやはり今までいた場所というものはきになるもので、私たちはかつて泊まった界隈に行ってみたのだった。

すると、ない。どこを探しても「アンアン2」がないのである。「アンアン2」があったはずのところには、なんと別のホテルが建てられ、外観も黒くなっていたのだ。泊まっていたところだったし、綺麗なホテルだったので、随分と驚いた。「地球の歩き方」にも載っていたし、日本人がやっている現地旅行社とも合体していたようなホテルだったし、まさかなくならないはず、と正直なところ思っていたので、これにはショックである。

そういえば、今思い出したのだが、ハノイでも似たようなことがあった。去年ふらりと立ち寄った、「たい焼きの王」という怪しげな鯛焼き屋があったのだが、そこも跡形もなく亡くなっていた。「たい焼きの王」の鯛焼きは、正直あんこがパサパサで、生地は美味しいのだが明らかにパイという有様、店員たちは店の外でくっちゃべっているような店だった。だがそれでも彼らは日本の接客を真似てなのか、満面の笑顔で客を迎えていた。そんな店が今やないとは。彼らはどうしているのか。発展とはこういうことを言うのか。いろいろなことを考えたものであった。

あったものがなくなる。それはショッキングなことである。その一方で、自動販売機のようななかったものが存在するようになることもある。ホーチミンでは今、地下鉄が建設中のようで、去年よりも工事現場の規模がでかくなっていた。それはいいことなのかもしれない。だが、そのおかげで、鳩が集まる広場はなくなっていた。

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それに気がついた時、私に一つの不安がよぎった。「あのジャズバーは……」

去年、私はホーチミンのジャズバーに行った。そこは、ヴェトナム随一のサックスプレイヤーだというブラザートムのような男が演奏していた場所で、私が初めて行ったジャズクラブであった。去年の貧乏旅行の中に一時の豊かな時間を流れさせてくれた場所であり、今回も行こうと思っていた。いや、むしろここに行くためにホーチミンに行こうとしていたのである。

案の定、そのジャズバーは残っていた。そして、また例のブラザートムがサックスを吹いていた。今回は彼の娘もいて、二人でサックスを演奏するという一幕もあった。やはり時代は変わってゆくのだ。こうやって、バトンを託しながら。だが、ジャズクラブは変わらない。残りつつ、変化してゆくのである。

そのジャズクラブで、一人の初老の紳士と出会った。大阪出身だという彼も、ホーチミンは二度目だったらしい。いや、そう言うと嘘になる。彼の一度目は、ホーチミン市ではなく、サイゴンだったのだから。ジャズクラブでは、さすがにそのことを詳しく聞くことはできなかった。南ヴェトナムの時代の話だ、非常に好奇心をそそられたが、あの場はジャズを楽しむ場である。そうは言っても、別れた後で、「いや、やっぱり聞いておけばよかったな」と心残りになっていたのだが、なんとその翌日、彼とはホーチミンの中華街「チュロン」で再会を果たしたのだ。私たちは再会を祝ってカフェに入った。サイゴンの話を聞きたかったから、という理由もなかったわけではない。

彼が喧騒の街サイゴンを訪れたのは1976年だという。その当時は、北ヴェトナムによる奇襲作戦「テト攻勢」を経て、米軍が南ヴェトナムから撤退するころであり、戦況は相当悪化していた。彼が、当時の友人に会って見せようと思っていたという色あせた写真には、鉄条網がつけられた大学が映る。ちなみに見せられなかったという。彼の友人はどこにいるか、今ではわからなくなってしまったらしい。

彼が泊まっていたのは、今では高級ホテルだらけの川沿いの地区。川の向こう側には北ヴェトナム解放軍が迫っていた。そのためだろう、彼の話では、夜中絶えず銃声が聞こえたという。

「ああいうのは、慣れてる人じゃないと眠れない」

そう、彼は言った。だが、それ以上は語らなかった。

今のヴェトナムでは、バイクの音で目がさめる。朝六時になると、大量のバイクが動くからである。やはり時代は、変わった。今度はたぶん、いい方に。