Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

柳川横町を探せ

日本の歴史の中で、名前がちょくちょく登場するにもかかわらず、知名度も人気度もさほどではない人物。それが榎本武揚である。私はそんな榎本武揚という人物に高校時代からハマっている。

ここで榎本武揚話をくわしく続けるつもりはない。というのも今回は、榎本武揚本人の話ではなく、彼が生まれた土地を探した、という話がしたいからだ。

 

だが、知名度も人気度も高くない人物をいきなり出してくるのも不親切極まりないので、少しだけ、プロフィールをみてみよう。

榎本武揚はいわゆる幕末から明治にかけて活躍した人物だ。元々幕府の旗本、だから幕府で働いていた武士である。彼は二十七歳の時に幕府によるオランダ留学に参加し、そこで科学や国際法などを学んだ。

帰国してまもなく、日本は旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争に突入。榎本は海軍を率いて最後まで新政府軍と戦っていく。戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争では、旧幕府軍の指導者となり、彼の元で選挙による政権、通称「蝦夷共和国」が成立する(一説には日本で最初の選挙による政権樹立ともいわれる。ただし選挙は集まった兵士の中で行われ、さらにいえば、下士官以上には選挙権がなかった。とはいえ、この時代に選挙をやってみようと思いついたのが画期的なのである)。諸外国と渡り合い、一時自分達の正当性を認めさせることに成功するが、主力軍艦の「開陽丸」が座礁沈没したことで戦況は悪化し、1869年に降伏した。

その後彼はその有能さが認められ、今度は明治政府に雇われることになる。北海道開拓に従事したり、ロシアでは外交官として樺太千島交換条約を締結したり、日本では逓信大臣として郵便マーク(〒)を決定したり、外務大臣として不平等条約改正のために尽力したり、農商務大臣として産業の育成をしたりとあちこちで活躍した。これがむしろ節操がないと言われる所以でもあるわけだが、文部大臣だった頃に教育勅語を作れと言われて拒否したり、足尾銅山鉱毒事件が起こった際に大臣辞職のみならず政界引退をするなど、おそらく彼なりの芯があったのだと思う。

そんな榎本武揚はやはり海外との関わりが強い人物であり、選挙による政権樹立や国際法の知識といったイメージもある。そのためか、歴史のドラマなどでは、必ずと言っていいほど、ちょっとお高く止まった標準語の紳士として描かれる。だが実はその認識は若干間違っている部分がある。というのも彼は江戸の下町で育ち、べらんめえ言葉を操るチャキチャキの江戸っ子だったからだ。

 

さて、彼は正確にはどこで生まれたのか。

ちょっと調べてみると、「下谷御徒町柳川横町、通称三味線堀の組屋敷(現在の東京都台東区浅草橋周辺)」という地名が出てくる。これの出典はおそらく加茂儀一『榎本武揚』(中公文庫)だと思われる。この本では、現在の地名として「浅草区向柳原」とされているが、これは古い地名で、浅草橋のあたりを示しているようである。

先週(馬喰町の謎 - Play Back参照)、浅草橋と馬喰町のあたりを歩いていた際に、この辺りだとしたら、どこだろう、とふと疑問に思った。そうして昨日、行ってみることにした。だが、何も知らなければ、探すこともできないだろう。というわけで、電車の中で私はあれこれ調べてみることにした。

すると、案外、今やろうとしていることは難しいのかもしれない、と気づいた。

まず、「下谷御徒町」というワードだが、これは「下谷」の「御徒町」ということであり、ようするに「御徒町」である、ということになるが、浅草橋からはそこそこ離れているように思える。

次に、「柳川横町」。なんとこれに関しては、全くわからない。古地図で榎本武揚の生地を探っている人のサイトでも、「地図に記載がない」とされていた。ちなみに「柳川」は同音の「梁川」と漢字を変換し、榎本の雅号になっているほか、函館にも「梁川町」という地名が付けられている場所があるらしい。だが、残念ながら東京には見当たらない。

そして「三味線堀」だが、これは「三味線堀跡地」の紹介ボードが存在していることがわかった。新御徒町駅のそばだという。ほら、やっぱり御徒町じゃないか。なぜ浅草橋なんだ…。そんなに遠いわけではないけれど、すごく近いわけでもない。

さらにいうと、古地図というものには大抵、どの家のものがそこに住んでいたのか、武士に関しては書かれていることが多いのだが、身分の低い組屋敷ではそれがなさそうなのだ。つまり、決め手にかけるわけである。

困っていると、電車が上野駅に着いた。ひとまず、三味線堀跡地へ行ってみよう。

 

そうは言っても、全くなんの手がかりもないわけではなかった。次のようになる。

三味線堀、というものが、どうも不忍池から隅田川までを繋ぐ堀の一部の名称だということがわかっていたので、「三味線堀の組屋敷」を探すには、その堀の跡地を隈なく探してみれば良さそうだ。そして、堀は古地図を見ればどこを通っているかがすぐにわかる。だから、やるべきことはただ一つ。堀の流れを探ることだった。

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かくして私は上野から御徒町へと抜け、そこから地下鉄の新御徒町駅の近くへ向かった。すると、ちょっと驚く事実と対面することになった。というのは、このルート、明らかに、二週間ほど前に私が上野から馬喰町まで行くために歩いた道だったのである。「佐竹商店街」という商店街がある場所だった。何やら運命に導かれていたのかもしれない。

佐竹商店街はスルーして、清洲橋通りという大通りを真っ直ぐ南下する。かなり暑い日のこと。日差しも、湿気も高い。マスクのせいで空気も悪い。私は日陰側を歩きながら、三味線堀跡地の表札を探した。汗がだらりと背中を流れてゆく。

道の中程行ったところに、その表札はあった。できればそこに三味線堀がどこをどう通っているのかの図があれば良いと思っていたのだが、流石にそれはなかった。だが、その文面と、スマートフォンで探した周辺の古地図を照らし合わせながら、なんとか探してみよう。

 

三味線堀跡    台東区小島一丁目五番

現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西側に南北に広がっていた。寛永七年(一六三〇)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋三丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。

不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。

なお天明三年(一七八三)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建設された。大田南畝が、これにちなんだを狂歌を残している。

  三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景

江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。

  平成十五年三月    台東区教育委員会

 

形状から三味線堀と呼ばれた、というのは、古地図を見てみるとよくわかる。堀の一部が四角く膨れていて、それが三味線の胴の部分に、そしてそこから流れる細い通常の堀がネック(棹)の部分に見えるというわけだ(ちなみに野暮を承知でつけくわえると、大田南畝狂歌にある「三下り」「二上り」というのは三味線のチューニングに由来する言葉でもある)。さて、問題はその細い部分の堀がどこをどうやって通っているかである。

ちょうど表札のある場所が日向で、くらっと来てしまったので、日陰に移ってスマートフォンを開く。古地図によると、堀は松平何某の巨大な屋敷沿いぐるりと回り込み、そのまま隅田川方面へ、つまり東へと流れを変えている。だが、残念ながら、現在のどのあたりにその屋敷があるのかがよくわからない。

わからなければ、区画をよくみて、その後はテキトーである。本当はもう少し精密にやることもできるが、私は歴史家ではないから問題ないのである。などと、都合のいい時だけ横着がでる。ああだこうだ理屈をつけてもしょうがない。要するにあの日は馬鹿みたいに暑かったのだ。

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清洲橋通り

 

というわけでしばらく清洲橋通りを通る。すると、細い路地が現れた。そこには看板が掲げられている。「おかず横丁」。実は二週間前にも来ているが、方向は同じなので、通ることにした。

二週間前は天気が悪かった。それがこの日は天気がいいので、おかず横丁も賑わっている。道の雰囲気は古くからある商店街、それも、屋根がないタイプの商店街である。焼肉屋青果店などがあり、ときどき、びっくりするくらい古い、緑青に染まった建物なども出現する。そして、どんな街にでも根付くインドカレー屋もバッチリ根付いている。

この商店街の面白さは、地元の子供達で賑わっていることだろう。商店街と言うと今では、老人たちの世界であるか、それか、エモさを求めて集まってきた人々でいっぱいか、のどちらかであることが多いのだが(偏見である)、この「おかず横丁」は子連れが多い。特に、なにやらかき氷を売っている店は子供にかなり人気があって、子供たちや子連れの親たちで行列ができている。二週間前、天気が悪い時も混んでいたが、この日行った時は晴れていたこともあるのか、とにかく長い行列ができていた。店自体は古そうだから、ここはしっかりと生きている商店街なのだ。

あるいていると、電柱につけられたスピーカーから、平成中期のノリノリのメロディーが流れている。なんだろうと思って耳をそば立ててみると、「イエーイ、メッチャホリデー」と聞こえてくる。このカオスがたまらない。

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おかず横丁(イエーイメッチャホリデイ)

 

おかず横丁を抜けたら、柳川横町を探さねばならない。

すると目の前に、由緒正しそうな大きめの神社が現れた。二週間前は中に入らなかった場所だ。しかしひょっとすると、神社には何か手がかりがあるかもしれない。例えば、神社が古いものであれば、古地図に残っているかもしれないし、由緒書きに何か地名についての記述があるかもしれない。

私は神社に入り、お祈りをしてから、由緒に着いて書かれた石碑を探した。だが石碑はなかった。代わりにあったのは、タッチパネル式の説明書きだ。時代も変わったようだ。私はデジタル石碑を起動させた。

すると、この神社(鳥越神社)の由緒はかなり古いもので、平安時代の頃からだと言うことがわかった。そして徳川家光の時代に、東照大権現こと徳川家康も合祀されたという。家康が祀られているのは日光と上野の東照宮しか知らなかったので、こんなところでも祀られているとはさすがは江戸だなあ、と感心しつつ、榎本武揚がいた頃にはもうこの神社はあったのか、と感慨に包まれた。だが古地図で該当する神社は見当たらず、なんだか神聖な気持ちだけが残された。

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意外とハイテクな鳥越神社

 

神社を出て、私は蔵前通りに出た。正確なことはわからないが、この蔵前通りの当たりが恐らくは三味線堀から続く堀と重なるのではないか。半ば強引に私はそう自分を納得させ、この辺りにきっと榎本武揚が住んでいたに違いない、と思った。

その強引な信念が確信に近づいたのは、横断歩道を渡ってからだった。横断歩道を渡ると、住所の標識が見えた。そこには「浅草橋3丁目」とある。浅草橋というと、私の中ではJRの浅草橋駅のイメージがあって、三味線堀や御徒町とは遠いように思えた。だが、先ほど「この辺じゃないか」と思った三味線堀の目の前に、現在の浅草橋地区は接しているわけだ。やはりこの辺だった。

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蔵前通り

 

私は問題解決だ、と浅草橋駅の方面へと歩いた。だが実は心に引っかかっている点が一つだけあった。

蔵前通りは、江戸時代の浅草御蔵に直結していて、蔵前通り沿いには、江戸時代の首尾の松という松の木があった跡が残っている。それは二週間前の散歩で見たから知っていた。ところが、古地図で見た三味線堀は、松があるとされている場所よりも南の方を流れていたのだ。きっと、三味線堀から続く水路は蔵前通りよりも南を流れているに違いないのである。

そんなことを思いながら歩いていると、路地が神社に直結している場所を見つけた。その神社の風情がいい、というか、どことなくグロテスクな、おどろおどろしさをも感じさせるようなものだったから、私はちょっと神社の方まで歩いてみた。童歌の記録がたくさん残る神社らしく、やっぱりちょっとおどろおどろしさがある場所だった。

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銀杏岡八幡神社というらしい。古そうな宗教施設に残るおどろおどろしさはそれもまた魅力である。

だが、問題はそこではなかった。鳥居の前に地図が貼ってあり、その地図を眺めると、ある路地が目の前に浮かび上がってきたのだ。蔵前通りから分岐して、ちょうど三味線堀の水路が隅田川と交差するあたりまで伸びる細い路地の存在が。

…これだ。これだったのだ。

なんの確証もないが私は間違いない、と心躍らされた。だから、もう一度戻ってその道を探すことにした。

 

屋台風のタイ料理屋や、割と珍しいバングラデシュのカレーを売る店などを横目に、三味線堀と思しき路地を目指す。

浅草橋の路地裏は、表通りの繁華街っぷりとは異なり、小さな町工場のようなものがたくさんあり、下町らしいガサつき方をしている。本来の東京はこうなんだろう、というような、木や、鉄や、ゴムの香りが残る場所である。そこに時々変わり種の飲食店などもあって、伝統と新しく参入してきたものの共存が見ていて楽しい。

三味線堀なのではないかと思う路地もそんな雰囲気の直中にあり、時折バスや、小型のトラックが駆け抜ける。基本的には閑散としているが、きっと平日だと、物を作る音が聞こえたりするのだろう。暑い日にあって、日陰も気持ちいい場所である。

その道はクネクネと曲がっており、まっすぐ先が見渡せなかった。その様子を見た時、私は、きっとここが三味線堀の水路跡なんだろうなと、なぜだか納得してしまった。水路を埋め立てた道は、蛇行しがちだ。きっとそれは水が水の論理で動いているからなのだと思う。だから逆にいえば、きっとこの曲がった道は、水路だったに違いないのだ。

手がかりを探しながら、しばらく歩いていると「柳北スポーツセンター」という看板が見える。ひょっとして、「柳」は「柳川横町」の名残だったりはしないか。

榎本武揚はきっと、この辺りで幼少期を過ごしたのだ…。

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ここが三味線堀の水路…?

 

その後、私はお茶の水に用があったので、そのまま歩いて湯島聖堂へ行くことにした。いわゆる「昌平坂学問所」である。ここは榎本武揚が10代を過ごした場所で、幕府の官僚は皆この学校で儒学を学んでいる。そう思うと、通学ルートを再現するわけで、それも面白いなと思ったのである。

猛暑の中なんとか歩き進め、昌平坂(相生坂)にたどり着くと、十五分前に湯島聖堂の公開は終わっていた。つまり「遅刻」してしまったのである。そういうわけで、来週は湯島聖堂に行くのを宿題としよう。そう、決めた。

 

 

追記:加茂儀一『榎本武揚』を読み返していたら、「柳川横町」の由来は、隣に柳川藩(立花藩)の藩邸があったからだという。だけど、そうすると、私が昨日散歩しながら思い描いていたよりも北、新御徒町駅のあたりがその場所だということになる。だとすると結局「浅草橋」というのは誤りだったということになる。やっぱり歴史は難しい。シュリーマンも同じような気持ちだったのだろうか。ただ、私はシュリーマンほど頑張れない。ここでこのエッセイを終えるのも、これが歴史探究ではなく、夏の初めの休日の一幕を描いているに過ぎないからだ。

馬喰町の謎

バクロ町という場所がある。

馬を喰らう、と書いて、バクロと読む。随分と禍々しい名前である。それだけに、どんな由来があるのか、無性に気になってしまった。

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三週間ほど前だったか、私は誕生日を迎えた。そういうわけで、何か誕生日らしいことをしようと髪を切ったり、お参りに行ったりした。ちょうど上野に行きたかったもので、上野の東照宮と、不忍池の真ん中にある弁天堂に行こうと思った。

特にゆかりがあるわけではないのだが、弁財天は吉祥寺でお参りしたり、当の不忍池でお参りしたり、と何かと気持ち的に近い。縁があるというやつだ。思えば父方の祖母が住んでいる鎌倉も、江ノ島が弁天を祀っているはずだし、銭洗弁天鎌倉駅の近くにある。航海と芸術・学問の神、というのもなんかいい。

ところが、だ。東照宮(今言い忘れたが家康も結構好きなのだ)で無事お参りを終え、公園を散歩しながら階段を降りて弁天堂へ向かうと、目の前で弁天堂の扉が閉じられてしまった。時は緊急事態宣言最後の日。閉門が早かったらしい。吉祥寺では弁天堂が封鎖されていたから、まだまだ寛大な方である。にしても目の前で閉じたのは、やっぱり、無理に神様の二股をかけようとしたからに違いない。

それから、なんだか調子の悪い日が続いた。仕事がうまく運ばなかったり、気持ち的にトゲトゲした日が続いたり、頭痛が長引いたり…。偶然か、神罰か。そんなものは人間如きにはわかるまい。だが、なんとなく弁天堂の一件が心にひっかかっていた。

 

そう言うわけで、翌週。私は改めて弁天堂へと向かった。

と、ここでやっと「馬喰町」が登場する。

弁天堂に行くはいいが、なんだかそれで用だけすませるのも面白くないと思った。そして地図を開いて、何か面白そうなところはないかと目をやった。すると目に入ったのが「馬喰町」。その名も、「馬を喰らう町」だ。いったいどう言う由来があるのか、なぜ馬を喰らうのか、半ば強引に私は関心を引き寄せ、上野から馬喰町へと行こうと決めた。

その日は雨の予報だった。だが、雨は降っていなかった。しかし私は天気痛というやつを持っていて、気圧の変化に応じて頭が痛くなる。その日も、ずしんと頭が重く、徐々にキリキリと痛み始めていた。

何よりもまず弁天堂へ行き、この一年間良き導きがあるように神へと祈り、不忍池を散歩した。アメ横を通り、御徒町へ入り、いつものルートである。普段は秋葉原を通り抜けてお茶の水に行くが、今日は違う。左へ、左へ、隅田川の方へとまっすぐ歩いた。

そうこうするうち、川が見たくなってくる。私はカクカクと道を歩きながら、浅草橋の近くまで来て、馬喰町に直行せず、隅田川へ行くことにした。

グレイの空の下、川は流れている。船が時折走り去り、川沿いの道をランナーが駆け抜ける。川沿いの雰囲気というのは洋の東西を超えて、いいものだ。人々は川のそばで思い思いの時間を過ごしている。本を読む人、喋る人。歩く人、走る人。外国に行けば、エアロビをする人や、魚を釣る人なんてのもいる。川という空間が、張り詰めた人間の時間をいっときでも緩めてくれるようだ。

しばらく川を横目に歩いて、ちょっとだけ本を読んだりした後で、私はついに馬喰町へと向かった。

 

さて、馬喰町にはどんな由来があるのか。

実はこの日、私はそれを調べ損なったのである。原因は、川まで歩いてちょっと疲れていたこと、そして天候が悪くなって頭痛が激しくなったことにある。馬喰町まで来て、それで満足し、お茶の水方面へ足を進めてしまったのだ。

だが、なぜあそこが馬喰町と呼ばれるのか、という疑問は鎌首をもたげ、だんだんと御茶ノ水へと向かう道中、心を侵食していった。もちろん、馬喰町へいったときに、町名由来看板のようなものを探そうとはしたのだ。だが、その時は見つからなかった。そして探す気力がなくなってしまった。だが、疑問は心の中に広がっていく…。

よし、また来週行こうではないか。そしてそれまでは、絶対に調べまい。私はそう、心に決めた。

 

そういうわけで、一週間、馬喰町の町名の由来は謎のままにしておいたが、面白いので、無理矢理妄想してみることにした。

① 実はここには甲州、現在の山梨からやってきた武士が住んでいた。山梨では馬を馬肉として食う習慣がある。国元を離れた甲州武士たちも故郷の味が恋しくなり、馬肉を取り寄せるようになり、徐々に馬肉を調理する店もでき始めた。これが江戸の人々にはめずらしく見えた。「あすこの御武家さんたちは馬を食っちまうんだからおっかねえ」と言うわけで、市井の人たちはそこを「馬を喰らう町」だと呼ぶようになった。だから、「馬喰町」。

② 時は平安時代、この近くの村に馬をたくさん飼育している村があった。だがある時、馬がいなくなる事件が起こる。そしてその馬は骨だけの状態で見つかる。そう言った事件が相次ぎ、村人たちは事件の真相に迫ろうと、夜を徹して馬を見張った。するとどうだろう、鬼が現れ、馬を食っているではないか。その鬼はその後討伐されるが、この鬼の寝床があったのが、何を隠そう、「馬喰町」なのだ。

どうだろう、②はほとんど冗談だが、①は当たらずとも遠からずなのではないか。そんなくだらないことを思いながら、私は今日、再び、馬喰町へと行った。弁天堂の一件から考えると実に三週間ほどこんなことを繰り返している。

 

今日は上野からではなく、馬喰町からほど近い浅草橋へ行き、浅草橋をちょっと回ってから馬喰町へと向かった。直行しないのは私のサガのようなものだから、しょうがない。ちなみに今日も、頭痛はする。

馬喰町は、浅草橋から行くと江戸通りという大通りを中心に歩くことになる。旗を売る店や、呉服店などを横目にしつつ、私は町名由来看板を探した、東京の中心部には大抵、そういう看板があって、旧町名の由来を紹介しているはずだ。しかもここは「馬喰町」、馬を喰らう町だ。こんな気になる名称の街に看板がないわけがない。

と思っていたのだが、一向にそれらしい看板が見当たらない。おかしい。このままでは帰れない。だが看板は現れない。このままでは馬喰町の外に出てしまうのではないか。私はそう危惧しながらぐんぐんと歩いた。

案の定、町名はいつの間にか、小伝馬町になっている。駅も小伝馬町駅である。困った。途方に暮れていると、銀行が目に入った。その銀行の壁には浮世絵のようなものが描かれ、「江戸の中心部を散策しよう」といったコラムまで書いてあった。これは、ひょっとすると、ひょっとするかもしれない。私はその銀行の壁に書いてあることを隈なく読むことにした。

するとどうだろう。端にひっそりと馬喰町の由来が書かれているではないか。私は興奮気味にその文章を読んだ。

 

馬喰町の名は、徳川家康関ヶ原出陣に必要な数百頭の軍馬を管理するために、馬喰(博労=ばくろう)と呼ばれた馬・牛の売買・仲介をする商人を集住させたことが由来とされています。(さわやか信用金庫日本橋支店の説明書きより)

 

馬喰とは、商人の名称だったのだ。これは自力でたどり着けるはずがない。馬を喰らうわけではなかったのだ。鬼も甲州武士も出て気はしなかった。だがなんとなく、頭痛も吹っ飛ぶようなすっきり感を感じた。にしても、馬喰町が関ヶ原の戦いと繋がってるとは、随分と由緒がある。現在では、馬ではなく、服などの問屋街となっているが、商人街の伝統は今も残っているようだ。

私はなんだか心軽やかに、馬喰町の問屋街を歩いて回った。しまっている店も多かったが江戸の風情が確かに残っている。道も入り組んだり、曲がったりしていて、きっと昔からこうなんだろうなと思わせてくれた。おかげで方向感覚が狂い、挙げ句の果てには人形町あたりにたどり着いたのだが、これはこれで面白いものである。

そういえば、私は榎本武揚という歴史上の人物がずっと気になっているのだが、この男の生まれは確かこの辺(小伝馬町やその辺り)ではなかったか。私はそう思ってスマートフォンで調べてみた。すると、「下谷御徒町」とある。いわゆる御徒町ではなく、どうやら浅草橋周辺らしい。三味線堀なる場所の近くらしいのだが、正確にはどのあたりなのだろう。気になるところではあるが、これは次週の宿題としよう。

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馬喰町の問屋街

絵を描くということ

絵を描くのは小さい頃から好きだった。小さい頃に習っていたピアノなどとは違い、教わることもなく、義務に成り果てることもなく、私は絵を描くのが好きだった。だからほとんど、描きながら、試行錯誤しながら描いていくというスタイルである。

私は基本的に何かを模写するということをしたことはあまりなく、私にとって絵はメモ書きのようなものだった。例えば、『シャーロックホームズ』シリーズを読めば、そこに出てくる登場人物を描く。また、歴史の本を読んだら、歴史上の人物を描く。あるいは、自分で小説を書いていた時、もしくは、書こうとプロットを練っている時は、登場人物や、そこに出てくる小物や建物、地図などをちょっとした紙に描く。

そう言った感覚だから、私にとって絵を描くことは日常に埋もれた活動でもあった。

 

だが、最近になって絵を描くための勉強のようなものを始めた。音楽の勉強が思ったよりも面白かったからである。なら、むしろ私の「畑」ともいえる絵も学んでみようじゃないか、と。

最初に手を取ったのは、意外にも、全くやったことのない、水墨画の本である。単純極まりない理由だが、少し前に家族で山梨の昇仙峡へゆき、こういうところでさらりと水墨画を描き、漢詩を読んでみたいな、という手垢に塗れて陳腐な欲望が湧き起こったからだ。だが、西洋の技法も興味がある。私は解剖学を用いたデッサン法の本を買ってみた。

このチョイスが、なかなか面白かった。というのは、「絵を描く」ということが洋の東西でどう異なるのか、まざまざと見せつけられたからである。

 

人は何を描くのか。そしてなぜ、描くのか。

漠然とではあるけれど、そのテーマにはちょうど関心を持っていたところだった。それは、私が偶然立て続けに読んだ二つの本の影響である。一つは原田マハの『楽園のカンヴァス』。もう一つはオルハン・パムクの『わたしの名は赤』。これらはともにミステリ形式であり、ともに謎の根幹に「絵を描く」という営みの意味が据えられていた。前者は20世紀に先駆けた早すぎる天才ルソーの創作活動に、後者は17世紀オスマン帝国で細密画と呼ばれる絵画を描いていた宮廷画家たちの活動に主眼を置くという違いはありながらも、である。

 

『楽園のカンヴァス』と『わたしの名は赤』には共通して語られる言葉がある。それは「永遠」だ。

『楽園のカンヴァス』の中で鍵となるのは、絵に描かれることでその人が永遠の存在となると言うことだった。物語のクライマックス、ルソーが自分が恋する一人の女性を絵に描くことで、彼女は彼の永遠の女神となる。そして彼自身も、その絵画の中で彼女とともに永遠に生きるのだ。だが、それは「永遠」という言葉が想起させる静謐なイメージとはことなり、「情熱」によるものなのだ。ルソーの情熱の結実が、絵画となる。

これがどちらかと言えば現代の絵画に特有なありようだとすれば、パムクが描くオスマン帝国の絵画のあり方は異なっている。

 

イスラームを信奉するオスマン帝国では、人間のありとあらゆる活動がイスラームと関わりを持っている。絵画芸術もそうである。絵師は最後の審判の日に神の御前で「お前が描いたものを出してみよ」と言われ、それができなければ地獄の業火で焼かれる……イスラームにはそうう言う伝承がある。これは人間如きが何かを創り出すのはあってはならないことだ、という価値観によるものだ。ひょっとすると自分たちがやっているのは禁忌にあたるのではないか、という疑念と恐怖心と隣り合わせの営みが絵画芸術なのだ。だから絵師たちは、自分たちの芸術は「神の眼」を通した完全な世界を描くものであり、人間による「創作」「創造」ではないと考える。その完全な世界こそ、「永遠」なるものだ。

細密画。細密画で検索してもらえればわかるだろうが、現代の西洋化された私たちの目でみると、どうも稚拙な絵画にしか見えない場合がある。人々の顔がなんとも言えない素朴なタッチで描かれていたり、遠近法も何もなく、べたべたっといろいろなものがいろいろなサイズで描かれている。だが、こうした描き方もまた、「神の眼」と強い関わりを持っている。

オスマン帝国の君主の顔はきちんと描く必要があるが、そうではない一般人をも同程度の描き方をするのは、むしろ神がお与えになった秩序を乱すことになるから、「モブキャラ」はモブキャラのタッチで描く。神は一点から世界を見ているわけではないから、遠近法は使わない。遠近法というのは、あくまで「人間の眼」を通した描き方にすぎないのだ。

だから、細密画が描くのは、「神が創造した完全な世界」であって、現実世界ではない。それはむしろ見せかけであり、その向こうにある永遠を描くのが絵師の仕事なのだ。そしてそれには、画家の「技法」、つまり、その画家に独特なタッチや斬新さなどは無用だし、むしろ害にもなる。なぜなら、神の完全な世界に異物が入り込むからだ。パムクの小説の中では、こうした考えをめぐり、西洋絵画全盛期のオスマン帝国の画家たちの間に巻き起こる不協和音が描かれる。

 

西洋式の絵の勉強、特に絵画のための解剖学の本を開くと、ルソーの絵とも、オスマン帝国の絵とも少し違う価値観が見え隠れしている。それはつまり、絵画を描くということは、一にも二にも、「観察」だ、ということだ。

レオナルド・ダ=ヴィンチやミケランジェロが解剖学に精通していたのは有名な話である。そして、特にレオナルドは科学者としても知られている。デッサンの手法は、むしろ科学に近いものだ。目の前にあるものをきちんと観察すること。そこに尽きる。

だが、誤解がないように付け加えておきたいのは、それは必ずしも、全く動かないものをただ模写すると言うのとも異なる、ということだ。例えば人間を描く場合、デッサンは人体の流れを意識しなければうまくいかない。筋肉はどの方向へ流れを持っているのか。そして、もっと言えば、人体が動く場合、その人体の動きの流れはどうなっているのか。そうしたことを観察によって捉えて、動く人体を描くのである。

こうした科学的な方法はいわゆる「印象派」になっても実は変わらないと思う。というのも、印象派というのは光の科学だからだ。光を観察する。色を観察する。そこから印象派の態度が出てくる。そこにはやはり常に、「観察」がある。

 

一方で、水墨画になってくると、またもや全く違う考えが登場する。それは、観察よりもむしろ心を重視する姿勢だ。水墨画は禅の修行と強く関わっているようで、観察によって作品を描くと言うことよりも、精神統一の意味合いが強いらしい。だから、大きく描いた円ひとつでも水墨画たりえるし、仙涯義梵のように素朴な瓢箪のようなおじさんが指を刺しているのも絵となる。

まあ以上は極端な例だが、雪舟のような写実性が高い作品でも、そこには心が写っている。タッチも繊細なもの、大胆なもの、掠れたもの、それはその情景に映る心によって使い分ける必要がある。そのため、入門書を開くと、線の種類、筆の面の使い方、などは出てくるものの、西洋のスタイルのものよりも、観察を強調しないように思う。

 

絵画は世界中に存在するが、こんなにも、色々な考えのもとに成り立っているものであるようだ。もちろん、これらは相互作用しあっている。観察に基づく印象派も、後期になってくると日本のスタイル(水墨画というより浮世絵だが)を取り入れるようになるし、逆に葛飾北斎などは西洋の遠近法などを積極的に取り入れている。イスラーム世界でも、西洋画の様式を取り入れようとした人たちもいた(パムクの小説にも登場する)。例えばインドのムガル帝国の細密画は、オスマン帝国のそれよりも、写実的なような気がする。

そのようなことが起こり得たのも、違いはあるものの、絵を描く、と言うことに、何か共通の精神性があったからかもしれない。つまり、情熱を持って永遠を作り出すにしても、現実の世界の向こう側にある永遠で完全な世界を描こうとするにしても、観察に基づき現実世界を捉えようとするにしても、そして精神統一によって風景の中に感情を捉えるにしても、相手にしているのはこの世界だということだ。

絵を描いてきた人々は、この世界を絵という形で表現しようとしてきた。絵で自らを表現する画家は、自分=世界を絵画に結実させるし、世界そのものを描こうとする場合もそうだ。この、世界を表現したい、という欲求は、不思議と強いもので、人間にとっては大きな意味を持っているに違いない。だからこそ、絵画を描くということに固執する人々がいる。だからこそ芸術が生まれる。面白いものである。絵画の技法とはそのために先人たちが試行錯誤する中で蓄積され、次の人々はそれを学び、手がかりを掴み、最後には破り捨てて、自分たちなりに試行錯誤をする踏み台とするためのものだ。

 

通勤途中、決まった場所で私は写真を撮っている。色の違いを見るためだ。面白いことに、晴れた日、曇った日、雨の日、寒い日、暑い日、などで草や水の色は全く違う。描いてみようとバッグにはスケッチブックを入れているが、自分の頭の中のものしか描いてこなかった私はなかなか取り出す機会に立ち会えないでいる。でも、間違いなく、絵を描くのは面白いものに違いないはずだ。

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試し描き

 

暗夜行路〜霜月江戸前一巡道中・其三〜

蒲田のタリーズコーヒーを一歩外に出た時、足の異変に気がついた。踵の当たりが擦れていて痛い。靴で圧迫された足の側面もジンジンしている。こんなにやわだったのかと、自分の力無さにため息を打ち、とにかく多摩川を越えるくらいのことはしようと前へ進んだ。

落ちてゆく気力、悪化する天候。何か吹き飛ばすものを求めて、私は耳にイヤフォンを刺した。あまりに直接的すぎて、馬鹿馬鹿しいが、そういう馬鹿馬鹿しさが欲しかったのだろう、蒲田行進曲をかけた。

これが意外とよかった。曲調が軽やかで、楽しい。春の匂いもしないし、キネマも感じられなかったけれど、とにかく足が勝手に動く。オスマン帝国の軍隊が軍楽隊を導入したのは、ひょっとすると歩くのが辛かったからかもしれない。行進曲があれば、どんなに辛くても勝手に足が動いてくれる。体力が落ちれば落ちるほどに、足の条件反射的な動きも増してゆく。

曲が終わったら、コンビニに入った。歩きまくると人は糖分を欲する。ふたつばかりスニッカーズを買って、そのうちの一つを頬張る。糖分が脳味噌を揺り起こす。さあゆこう。私は足の痛みを振り解き、巨大な国道15号線を南へ進んだ。

 

多摩川は案外近かった。コンビニからちょっと行ったところにはもう巨大な橋がかかり、そのあいだを川が隔てていた。橋の向こうは神奈川県。時間は夕暮れ時。そう思うと、気分も上がる。興にも乗ってくる。足の疲れもすっ飛んでいた。

東京と神奈川を隔てる多摩川は、川自体の幅はそこまでではないが、土手も含めた幅がかなりある。必然的に橋も長くなる。メコン川を越えるタイ・ラオス友好橋での国境越えのことをちょっと思い出しつつ、翻って冷たい風の吹き付ける長い六郷橋を渡る。

橋というのは面白いもので、道をただひたすら歩いている時より、胸を高揚させる。川を見下ろしたり、遠くを見つめたりしながら歩いているとすぐに向こう岸へと着く。六郷にはかつて橋ではなく渡し船があったという。それもまた面白そうである。そういえば「蜘蛛駕籠」という落語の中ででてきたはずだ。

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多摩川

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川は見えない。

 

六郷の橋を抜けると、そこは神奈川県川崎市だった。私のようにのこのこ歩いて川崎までくる馬鹿野郎のために「ようこそ川崎宿へ」と書かれたボードまで用意してある。ありがたいことである。どうやら川崎は東海道を売りにしたいらしく、結構わかりやすく「旧東海道」を表示し、道も飾り付けてある。

空元気を振り回しながら川崎宿を歩くと、「旧東海道」を売りにして和風の文物を売る店が並ぶ界隈と、多国籍な住民が織りなすダイナミックな界隈が入り乱れていることがわかった。なかなか面白い街である。だがもう陽も落ちていたし、まっつぐ進まねばなるまい。

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旧東海道は川崎の中心街を離れ、住宅街を走るようになる。だがただの住宅街でもなく、時折中華や床屋などの店があったりもする。暮らす人の日常が見える場所である。街道と並走するように鉄道が走っており、学校帰りの高校生なんかも見かける。

そこに生活の根を持たない者として街を歩くのは、そういった日常の風景をおもしろがることでもあるかもしれない。最寄駅であれば億劫に感じられる人混みでさえ、街を歩く者にとっては楽しい活気となる。世の中に引っ越し好きがいるのは、もしかすると、そういった一瞬の輝きを追い求めることを辞められないからなのかもしれない。

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そんな住宅地のある道路に江戸時代の一里塚があった。

 

川崎と横浜の境界には川がある。

私はそう思い込んでいた。住宅街のど真ん中に鎮座する、江戸時代の東海道の一里塚を見つけたとき、だから私は自分が川崎にいるものだと思い込んでいた。日もだいぶ落ちてきて、雨足も強まっている。ふと電柱の表示に目をやると、そこはすでに横浜だった。隠して私はなんの感慨もなく、ぬるりと目的地の横浜に入ったのである。

腑に落ちないまま歩みを進め、真っ暗な夜の帷の中、コントラストを描く白で塗られた橋を渡って、川を越えた。市境ではないが、その川を越えると、今までの人間臭い街並みから、ちょっと上品な界隈に周りの世界が変化した。それにしても、この辺りは東京と比べ、灯りが少ないように思う。

 「旧東海道鶴見橋」と書かれた記念碑を越え、おそらくは旧東海道なのだろうと想定される道をひたすらに歩く。足はすでに悲鳴を上げていた。そう言えば蒲田で一度休憩したきりであった。川崎はアドレナリンの力で乗り越えた感があったが、横浜に着くとどっと疲れが来る。きっと、目的地にたどり着いたと体が安堵しているからだろう。だが、本当の目的地は鶴見ではないのだ。私が目指しているのは、少なくとも神奈川宿があった場所、余力があれば中華街である。というのも、今夜の宿は中華街にとってあるからだ。

 

雨の向こうに灯が見え始める。おそらく鶴見駅だ。足よ、あれが鶴見の光。さて、あと一踏ん張りだ。鶴見駅の次は生麦。生麦の次はいよいよ神奈川。私はなんとかそう自分に言い聞かせた。私が踏ん張れば、踏ん張りさえすれば、先へ進む。「横浜まで歩く」「東海道を歩く」と言ったからには、実現せねばなるまい。傘をさし、足を引きずり、風が吹く。

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鶴見へ入る。ふらふらである。



鶴見の繁華街を抜け、生麦へ向かう道は困難を極めた。自分がどこを歩いているのかよくわからない状況が何度か続き、私は途中で旧東海道沿を歩くことを放棄しもした。代替案で旧東海道とだいたい一致している国道15号線をあるいてみたりしながら、なんとか生麦と呼ばれる界隈にたどり着いた。生麦は鶴見から神奈川へと直行するというより、どちらかと言うと海の方へと一度迂回した場所にあったため、行くのに手間がかかったのだと後で分かった。

生麦と言えば、「生麦生米生卵」以外では「生麦事件」である。この辺りを進む薩摩藩大名行列が、横浜からきた英国人と遭遇。薩摩藩の武士は「無作法があった」と英国人を斬り殺した。これがきっかけで薩英戦争が起こることになる。そんなイメージだから、どうもおどろおどろしさを感じざるを得ない場所でもある。

生麦の東海道は住宅街を突っ切る形で進んでいた。住宅街は人通りもほぼ皆無。時折トラックが走ってくる程度。さらに横断歩道の類もなく、道が一本ひたすらまっすぐ進んでいた。真っ暗な中、一人、道を歩く。もはや足の痛みだけではない、もっと精神的に迫ってくるような苦痛が私を襲ってきた。街中では感じないタイプの孤独感、とでも言えるだろうか。そして、無力感。もし私の足がこの道で限界を迎え、膝を折ったら、どうしようもできないままこの道に打ち捨てられてしまうのではないか。そんな心持ちが寄せては引き、寄せては引く。

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生麦の道はとにかく暗く、長かった

ふと、こんなことを思った。

今回、東海道をいく、という割にはしょぼい行程を進んできたわけだが、それでも、この道には自分の人生を写す鏡のような何かがあった、と。街を歩く人や街そのものに心躍らされ、それでも先へと一人で進んでゆく。時に思い込みで突き進み、それが故に自分を追い詰め息を切らす。もちろん、その先には高揚感と共に道を歩くときもある。だが所詮は空元気。今度は自分に鞭を打ち続けて、今、生麦の暗夜行路をポツンと一人で歩いている。

とすると…このまま生麦を抜けて、もっと先まで歩いてみれば、人生の先を見渡すことができるのではないか。私はそんな馬鹿げたことを思った。だがあの時は割と真剣にそう思っていた。先を知りたいと言うわけではないが、何かヒントだけでも欲しい。私は踏ん張ってみようかと思った。

 

長く暗い生麦の道はおよそ30分は横断歩道にぶち当たることもなくうねうねと進んだ。時刻は18時。道の出口の近くに「生麦事件」を伝えるボードがあった。18時は、私が暗黙のうちに決めていたタイムリミットだった。ホテルのチェックインのためには、そろそろ中華街へ向かった方がいい。私は悩んでいた。

結局のところ、私は東海道を歩く、というプロジェクトをここで打ち切ることにした。足ももう限界だ。限界を知った時、一度やめる、呼吸を整える。歩くのは楽しいのが一番だ。きっとこれが次の人生のヒントになっているのだ、と嘯いて、私は東海道を離れ、生麦駅へと向かった。

スターウォーズにまつわるあれこれ

スターウォーズ」を最初に観たのは、小学生の時だったと思う。正確に学年だとか、年齢だとかは思い出せないが、両親がエピソードIV〜エピソードVIの入ったDVDボックスを買ってきて、私はそれで、初めてスターウォーズを観たのだ。

スターウォーズの作りは少々込み入っていて、1977年に最初に公開されたものは現在「エピソードIV(=4)」と言われており、そこからV、VIと続き、その後90年代に入ってからIが発表され、II、IIIとなる。そして2015年(だったと思うが)、VIIが公開され、VIII、IXと続き、ひとまずの完結を見た。だから、9作品あるものの、時系列的には、4、5、6、1、2、3、7、8、9となっているわけである。そして私が最初に観たのは時系列通り、4、5、6だった。

再生ボタンを押せば、壮大なファンファーレが飛び出し、場面設定を語るオープニングロールが流れる。「遠い昔、遥か彼方の銀河系で……時は内乱のさなか。凶悪な銀河帝国の支配に反乱軍の秘密基地から奇襲を仕掛け帝国に対し初めて勝利を収めた…」このオープニングの時間だけでも、スターウォーズシリーズの魅力が詰まっている。まるで講談のようなスタイルというか、なんというか、この「あらすじ紹介」と言って仕舞えばそれまでの言葉の羅列に、世のスターウォーズファンたちは胸躍らされるのである。かくいう私も、スターウォーズの世界にグッと引き込まれてしまった。

そんなこんなでIV、V、VIと一気見をした私は、(こういう言い方は恥ずかしいものだが)すっかりファンになっていた。時はエピソードIから始まる「新三部作」公開のさなか。ちょうどエピソードIIIが公開される頃だった。だけど私は、スターウォーズはIV〜VIで完結したものだと思い込んでいたし、なんなら、IVをIだと思い込んでいた。つまり、時系列通りに1、2、3だと思っていたわけだ。仕方あるまい。小学生でローマ数字を読める人はあまりいない。

 

ちょうど小学生の時の友人で、スターウォーズが好きな奴がいた。「今スターウォーズにハマっているんだ」と言うと、目を輝かせてスターウォーズの話をし始めた。

「Iでアナキンがレースをするシーンがいい」と彼は言う。私は同じ映画の話をしているはずなのに、違和感を禁じえなかった。でも、小学校といえば知識と力だけが世界を支配する見栄とマウンティングであふれた過酷な荒くれ者どもの世界だ。私は無理矢理、自分の知っているスターウォーズのことを彼が言っているのだと信じようとした。『1(世間的にはIVのことだが)だとたしか、最後の方で敵軍の拠点デス・スターを、主人公ルークが戦闘機Xウィングで攻撃するシーンが出てくるはず。あれのことに違いない。でもアナキンといえば、ルークの父親の名前のはず。おかしい。きっとこいつが勘違いしているに違いない』

そんなアンジャッシュのコントみたいな下りが現実世界で長続きするはずもなし、しばらくしゃべっていくうちに、私はスターウォーズには新三部作があることに気づいた。余談だが、その友人は私がスターウォーズの全てだと思い込んでいた「旧三部作」の存在を知らなかった。そういうわけなので、お互い、私たちは違うスターウォーズに気付かされるきっかけとなったのであった。

 

私はそれから、親に頼んで、エピソードIとエピソードII(エピソードIIIは公開前)のDVDを買ってもらい、観た。驚いたのは、世界観の複雑さである。旧三部作は、銀河を支配する「銀河帝国」とそれに対抗する「反乱軍」という構図で描かれているが、新三部作は違った。まず銀河を支配する「銀河共和国」なる組織があり、そこに各惑星は属している。これに対して、「通商連合」と呼ばれる一種の経団連のようなものがあり、共和国が課す規制に反対しているが、実はそれを裏で糸を引いている人物がいる……。エピソードIIになると、通商連合が共和国から独立しようとする星々と「分離主義勢力」を組んだりして、話はもっとややこしくなる。

小学生の私はその全てを理解することができるほど頭が良くなかったのだが、それでも楽しむことができた。なぜなら、個々のキャラクターの設定が魅力的だったからである。当時の私の「推し」だったキャラクターはクワイガン=ジン。共和国を守る「ジェダイ」の騎士のメンバーで、父親のような優しさと、それでいて、因習に囚われたジェダイ上層部への反骨心も兼ね備えた存在だ。彼は訳あってエピソードIで早々と退場してしまうが、心に強く残る人物であった。

4、5、6、1、2と一気に駆け抜けた私は、アニメ作品にも手を出したりしながら、ワクワクしながらエピソードIIIの公開日を迎えた。初日だったかは忘れたが、家族で府中のシネコンに観に行ったのを覚えている。エピソードIIIは一言で言えば、壮大な悲劇の物語の結末部分を凝縮したようなもので、小学生の私には結構強烈なものだった。作品を見終わってから悪夢を見たのを覚えているし、それ以来、エピソードIIIだけはそんなに見なかったのを覚えている。だが、それでも私にとってスターウォーズは好きなシリーズだった。

複雑な政治状況と、緻密な人物描写。「新三部作」の本当の魅力がわかったのは、結構成長してからだったかもしれない。当時とは異なる楽しみ方を、大学生になってから、もう一度見返してみて気付いた。少しずつ大破局へと向かう展開を緻密に描きながら、人の心の葛藤や、思惑が絡み合う政治劇を見せるのはさながらシェイクスピアだ。「よくできてるなあ」とちょっと大人になってから思う。歴史を勉強すると、歴史のリアルな動きをスクリーン上で表現していることもわかる。噛めば噛むほど味がする。またもう少し大人になって、どういう姿を見せてくれるのか。今からちょっと楽しみである。

 

スターウォーズのすごいところは、世界共通語だと言うことである。例えば、好きな映画は?と聞かれてスターウォーズと答えるのは若干恥ずかしいが、海外でそう言うと、一人や二人は異常な食いつき方をする人がいる。こちらの英語が拙くなって、スターウォーズだけで盛り上がることができる。スターウォーズの世界はシャーロックホームズの世界、はたまた聖書の世界と同じくらい論争がつきない世界でもあるから、意見を戦わせたりすることもできる。もちろんやりすぎは禁物である。楽しいファン同士のやり合いが、罵り合いになれば、それはもうただの醜い宗教戦争だ。

かつてドイツに住んでいた時の友人の両親が来日したことがあった。私は大して英語が話せるわけではなかったが、その時、ドイツの友人の父親とスターウォーズで盛り上がったのを覚えている。飯田橋から四谷の方まで酔い覚ましに歩きながら、夜桜そっちのけでスターウォーズの話をした。エピソードIV〜VIまで、つまり旧三部作の時代を生きていた彼は、スターウォーズの世界の「超正統派」、旧三部作以外をスターウォーズとして認めたくない人だった。

「エピソードIは政治の話になってしまった。キャラクターも無駄が多い」と彼は言う。確かに、新三部作は政治の話が強い。でもそれでも好きだと伝えると、

「それは世代の差だね。僕の息子も新三部作が好きみたいだ。僕には理解できない」とうかなそうに言う。じゃあ、(ちょうどその時公開していた)エピソードVIIから始まる「新サーガ」はどうか、と尋ねると、

「見たよ。でも二度目はないな」と答えた。いや見てるんかい、と言いたくなるが、そこがいいところでもある。スターウォーズファンは何かと論争するが、結局見ちゃうのである。見たいと言う欲望に勝てないのである。そして本当に好きかどうかは何度も見るかにかかっている。

「でも…」と彼は言った。「『ローグワン』はよかったな」

「ローグワン」とはエピソードVIIとエピソードVIIIの公開の間に上演されたいわゆるスピンオフ作品だ。作品内での時系列で言えば、エピソードIVの物語の直前にあたる。先ほどちょっと述べたエピソードIVのオープニングロールで、「凶悪な銀河帝国の支配に反乱軍の秘密基地から奇襲を仕掛け帝国に対し初めて勝利を収めた。更にその戦闘の合間に、反乱軍のスパイは帝国軍の究極兵器の設計図を盗み出すことに成功。」という文言があるのだが、この二文をそのまま映画化したものだ。

スピンオフというと、普通はメインの作品よりも質が落ちるものだ。朝ドラのスピンオフなどもあるが、なんだか面白くないことが多い。だが「ローグワン」だけは別だと言い切れる。もちろん、エピソードIVを観てから観ることをお勧めするが、それはこの「ローグワン」と言う作品の本当の魅力を知ってもらいたいからだ。だがあまり、この話をしすぎると、止まらなくなるので、やめておこう。とにかく、「ローグワン」はどの立場のスターウォーズファンも必ず絶賛するものだ。

ともあれ、カナダでも、はたまた私が属していた哲学科でも、スターウォーズファンは一定数いた。それも皆、「見たことある」といったものではなく、かなりのファンである。

 

私が自分の世代を恵まれていると思うのは、そんな世界中を巻き込むスターウォーズを生で見ることができる世代の一端を担っているということだ。最初のファン層と違って旧三部作を生では見られなかったし、新三部作もまた、1と2は見逃している。だがそれでも、3、7、件のローグワン、8、ハンソロ、9と生で、それもほとんど公開初日に見る幸運を受けている。スターウォーズは、私たちにとっては歴史であり、なおかつ、ライブでもある。

スターウォーズは今後も続くと言う。これもまた議論があるところでもある。もういいんじゃないか、と。私も若干そう思うところはある。だが、それでもきっと見に行ってしまうだろう。友人の父が文句を垂れながら7、8、9を見たのと同じだ。だけど、それはやっぱり、ライブで、生で、スターウォーズの物語が生まれている場と時代に生きているという幸運を噛み締めるためでもある。

 

そんなスターウォーズには合言葉のようなものがある。物語の中核を握るジェダイの騎士の言葉だ。彼らは「フォース」と呼ばれる宇宙を秩序・調和づけ、宇宙を動かす力に自分自身を調和させることによってその力を手に入れる。自分の思惑や利益のために利用するのではなく、むしろその力とともにあることがそのままジェダイの生き方となり、力となる。ジェダイや、ジェダイが守る共和国の信奉者たちは、だから、幸運を祈る際に次のように言う。

「フォースと共に在らんことを(May the Force be with you)」

「ローグワン」ではこれが「with us」となり、エピソードVIIIでは「Always」が付け加わる。誰が言ったか知らないが、この言葉をダジャレ的にMay the 4th be with youなんて言い換えれば、5月4日はスターウォーズの日になる。そう、今日のことだ。

だから、というわけではないが、この本当に先行きが見えない世の中、鬱屈した日常にこの言葉を口にしてみようじゃないか。

「フォースと共に在らんことを(May the Force be with us all)」と。

「神様の思し召し」

「これこそ奇跡です」

「奇跡などない。すべて私の力だ」

外科医トンマーゾが、患者の家族の言葉を、このように切って捨てる。トンマーゾは天才的な腕を持つ外科医だが、傲慢とも言えるほどに自分の力を信じている。

そんな、トンマーゾには二人の子供がいる。一人はちょっとチャラい雰囲気の娘ビアンカ。彼女は結婚していて、トンマーゾの家の真向かいに住んでいる。夫のジャンニは不動産屋だが、単純で、お世辞にも頭のいいタイプではない。もう一人は息子のアンドレアだ。彼は医学生で父の後を継ぐために勉強をしているが、毎日夜な夜な友人とどこかへ出掛けていくので、トンマーゾは彼がゲイなのではないかと思っている。トンマーゾの妻カルラは夫の前では酒もあまり飲まず、自制的に振る舞っているが、実は満たされない家庭生活にストレスを募らせており、陰では酒を大量に飲んでいる。そんな一家の日常が、アメリカのホームドラマ風のカットとBGMでスクリーンに映し出されている。

ある日の夜のこと。アンドレアがカミングアウトをしたいと言い出す。トンマーゾはアンドレアがゲイだったのだと確信し、「みんなで迎え入れよう」という。妻カルラは戸惑いを隠せない様子だが、他のメンバーは、今の時代拒むのはおかしいと述べ、万全の大勢でアンドレアの言葉を聞くことにする。

ところが、アンドレアの言葉は意外なものだった。

「実は医学はやめて、神学を学んで、聖職者になりたいんだ」

その場では息子の決断を認めながらも、トンマーゾは内心猛反対する。迷信に溢れたカトリック教会に息子を入れてたまるか。なんとか、やんわりとアンドレアの決心を覆そうとするうち、アンドレアが夜な夜な、新進気鋭の神父ピエトロの説教を聞きにいっており、息子はピエトロに「洗脳されている」と確信。ピエトロの素性を調べるうちに、彼が前科者であることを知るが……。

 

以上はイタリア映画「神様の思し召し」の前半のあらすじである。

タイトルとなっている「神様の思し召し」は原題では「Se Dio vuole」だが、「神が望むなら」という意味になる。日本語の題名とほとんど同じだ。そしてかくいう私も同じ題名をこのブログにつけているのだが、それだけ、このタイトルは非常に「うまい」題名だと言える。

印象的なのは、丘の上でピエトロ神父とトンマーゾが語り合うシーンである。初めはピエトロを胡散臭いと思っていたトンマーゾが徐々にピエトロに打ち解けていく。一方でトンマーゾと家族の間の亀裂が徐々に深いものとなっていく。丘の上のシーンはそんな一連のシーンのクライマックスとして登場する。

「メゲたときにくるんだ」とピエトロは言う。丘の上からは湖が見え、洋梨の木が一本手前にある。

「蒸し暑い日に涼しい風が俺の頬を撫でる」とピエトロが言うと、すかさずトンマーゾは

「風だな」と返す。

「とんでもない。神だよ」ピエトロは言う。トンマーゾはちょっと馬鹿にしたように笑う。同じようなやりとりが何回か続き、

「あの洋梨が落ちるのは万有引力かい?」とピエトロが言うと、

「神の仕業だ」とトンマーゾは笑いながら答える。

「わかってきたじゃないか」ピエトロは得意げに笑う。

 

このシーンを見たとき、少し思い出したことがある。それは井筒俊彦の『『コーラン』を読む』に書いてあったことだ。

イスラーム聖典クルアーンコーラン)』に繰り返し出てくる話があり、それは世界の全てが神の恩寵だと言うことだ。砂漠をキャラバンが進む。そこにオアシスが現れる。あるいは農村に雨が降り、果樹が実る。それは全て神が贈ってくれたものなのだ、と。

同じ「神」を共有するだけあって、ピエトロが述べることは、イスラームの教えと似ている。そこには「神の思し召し」がある。イスラームを信じる人々、いわゆるムスリムたちは、未来の話をするとき、「インシャッラー(神がそう望むなら)」という言葉を添える。それだけでなく、彼らにとって「神の思し召し」は重要なものであり、日常的にも、

「お元気ですか?」と尋ねられれば、

「アル=ハムドゥ・リッラー(称賛は神に)」と、日本で言う「お陰様です」と同じ意味合いで答える。未来のことはわからない。そして、自分が今生きていたかどうかも、結局のところはわからなかった。だから彼らは神に感謝をするわけである。

 

なぜこんな脱線話をしたのかと言うと、トンマーゾはそうしたマインドとはかけ離れてきたからである。

冒頭に記したように、トンマーゾは執拗に奇跡を否定してきた。いや、全ては自分の力なのだ、と。これは彼の技術と力に裏打ちされた考え方だった。

トンマーゾは何よりも自分の腕を信じ、自分を信じてきた。トンマーゾの場合、この自信は医者として数々の手術の成功とともにあったものの、家庭では弊害をもたらしていた。立派な知識人として、なんでも受け入れようとする一方で、結局は自分の考え方や生き方を息子たちにどこかで押し付けていた。妻もまた、そんなトンマーゾに反感を抱き始める。

 

トンマーゾは何を間違えていたのだろうか。

まず、医者としては全く間違っていない。実は映画でも出てくるのだが、医者が「奇跡」を口にするとき、それほど心細いことはない。ほぼ回復不可能だと言うことを意味している。

だが、そうした医者としての矜持が、彼を自分の「信仰」でがんじがらめにしてしまったといえるかもしれない。ちょっと違う見方が、だから、彼にとっては本当の処方箋になる。それを持ってきたのが、図らずしもピエトロ神父だったのだ。なぜなら神父も同じだったからだ。彼は前科者だが、人生どん底の中で、あたらしい世界の見方、信仰と出会ったのである。

そう考えたとき、宗教と科学、というふたつのものが、実は争う必要もないのだと思えてくる。洋梨が木から落ちる。それを万有引力と見るか、神の仕業と見るかは、こちらの受け入れ方による。万有引力には何のメッセージもないけれど、それで宇宙の仕組みを理解することができる。神の仕業は、宇宙の仕組みを理解する上ではあまりに恣意的だが、そこにはメッセージがある。今はわからなくても、いつか見えてくるかもしれない、そんな神の表現がそこにはある。

何かが起きたとき、「神」なんてどでかい存在を想定しなくても、私はときに、「あの出来事には何の意味があったんだろうか」と思うことがある。つまり、自分にとって、何の意味があったのか、そして自分に対して、どんなメッセージだったのか、と。馬鹿馬鹿しいことかもしれないが、それをすることで、何となく日々起こる諸々のことを許し、受け入れることができ、自分をも少しは認めることができるような気がするのだ。出口が見えないとき、思いがけない不幸や不運にぶち当たったとき、自分があまりに傲慢になったとき、メッセージを探してみれば、何かが見えると信じてみているのだ。そう、洋梨に宇宙の法則を見ることもできるし、自分の人生を見ることだってできるわけだ。

 

この映画の最後、思いがけない展開が起こる。

あまり多くを語らないがトンマーゾはその出来事を、医者としての視線と、新しくピエトロとの交流の中で手にした視線の二つで見ている。彼はあの丘に登り、洋梨が落ちるのを眺めている。それが何を意味するのかは、皆さんに委ねよう。

音楽の勉強、音楽の解読、音楽の喋り

音楽の勉強を始めた。

いわゆる楽典だとか、和声法だとか、対位法だとかいった類のやつである。

ちょこちょこと音楽を作るのに、修士論文を書き始めたあたりからハマりだしていたのだが、どうしても勉強が必要になった。というのも、私には、コードがわからなかったからである。

例えば、メロディーを作る。ここまでは行ける。ちょっとしたインスピレーションとか、高尚な言い方をすれば「スケール」というやつを決めて(黒鍵を使ってアラブな雰囲気とかを出したりして)、鍵盤をいじってみたりすると、それらしいものができてくる。問題はここからなのだ。メロディに合わせる伴奏というか、和音がわからない。

別に和音なんてなくてもいい、と思ってみたりもした。気休めである。だけど結局のところ和音は必要だった。なぜか。理由は簡単だ。厚みを作っているのが和音だったからだ。

音楽以外のことで例えてみよう。画用紙に絵を描くとする。うまく描けたとする。これはしょうがない、前提としよう。だが、輪郭をぺたっと描いて、中身をペタッと書くだけでは、立体感がない。そう、影を描いたり、ぼかしたりする必要がある。あるいは、色を塗る必要がある。音楽で言えば、こういった作業が、どうやら和音や伴奏をつける作業なようだ。

だけど、勉強なしでは、どうにもこうにもうまくいかない。伴奏と、和音と、メロディの関係がわからないから、とっかかりがないのだ。メロディにどんな伴奏をつけるのが、どんな和音をあわせるのか、正解を導く術がわからない。

 

そういうわけで、正解を求めて、私は音楽の本をふたつばかし読んでみた。

結果わかったことがある。それは正解なんてものはないということだった。極度な不正解はあるかもしれない。だけど、それにしたって実はジャンルに依存している。ポップスを作ろうとして極度な不正解といえるようなものを合わせ続けたら不正解かもしれないが、現代音楽や調性をあえて壊そうとするような作品の中ではむしろ大正解である。要するに、正解なんてものはない。そこがやっぱり、音楽の芸術たる所以だ。

では学んで何が得られたのか。一つは正解なんてないんだという一瞬の自信と、もう一つは音楽の新しい楽しみ方だ。

私はどうやら音楽を誤解していたようだった。つまり、私は音楽を楽譜の横方向に見ていたわけである。メロディがあり、コード進行があり、別のメロディがある。歌があり、ピアノがあり、弦楽器があり、管楽器がある。そしてドラムや打楽器もいる。だが、それはちょっと味方として偏狭だった。

実は音楽は縦だったのだ。それぞれの楽器が一つの和音を構成しながら進む。そしてそれらは一つのリズムを形成しながら進む。楽器ごとにリズムが異なる場合もある。だが、それでも、それらが一つになった時、リズムは縦方向に一つの、ちょっと変わった雰囲気のリズムを形成している。言葉でごにょごにょ説明するとわかりづらいのだが、つまり……

ボーカルがいて、ギターがいて、ドラムがいて、ベースがいて、それぞれが勝手に何かをやっているわけではなく、それぞれが一つの和音とリズムの進行を作っているのだ。とても単純なことである。だけど私はそんな単純なことを見誤っていた。先にわかっていた人からすると、何をわかりきったことを騒いでいるのだと思うかもしれないが、私にとっては大発見なのだ。

そう、そして、このことがわかって理解できたのが、結局は回り回って和音やコードだった。メロディに和音をあわせる、メロディに伴奏をつける、といった言い方が土台間違っていたのである。メロディはすでにそれとして和音の一部であり、そこに色彩を入れてゆくのが和音を合わせることだった。直感的に「厚み」とか言っていたことの意味がやっとわかってきた。

だから、和音をどのようにあてていくかは、作曲家あるいは編曲者の、メロディーに対する色の付け方なのである。小説であれば、一人の登場人物に対して、その人物がどういう人間なのかを色付けしていく作業にも似ている。その小説を映画化・ドラマ化すれば、それもまた変わってゆくかもしれない。同じメロディを共有しながらも、さまざまな生かし方があるわけだ。カデンツをそのまま無難に持ってくるのもいいし、そこにセカンダリドミナントを入れたり、減7の和音を忍ばせるのもよい。あまりにキャラクターと違うことを映画版で話し始めたら気味が悪いけど、違った一面くらいなら興味深くもなる。

 

和音とかの話ばかりしたけれど、他にもたくさん面白いことはある。例えば形式とかもそうだ。これは音楽を聞く上で、いろいろ気づくための区切りを心に留めさせてくれる。例えば私たちはポップスを聞くときに、一番・二番・三番というのを理解しながら聞いていたりする。同じように、ピアノだけのソナタでも、提示部・展開部・再現部といった風になっているとわかって聞けば、ただのBGMや催眠導入剤ではなくなるかもしれない。

特に好きなのはスケールやモードの話である。これは無意識的に昔から好きだった。ピアノを習っていたことがあるが、私はそのとき、練習そっちのけで、「これはアラブ」「これは中国」みたいな感じでドレミファソラシドを弾いてた記憶がある。これがスケールやモードに関わると知ったとき、なるほどなあと思った。

さらになるほどなあと思ったのは、同じことを考える人はやっぱりいるようだということだ。ジャズの世界では、もともと、和音を中心にしてアドリブ演奏をしていたらしいのだが、あるとき、「モーダルジャズ」というものが生まれ、モードを使って演奏するようになった。ここまでは、抽象的すぎてよくわからない。大事なのは、「和声」から「モード」に移った理由だ。モードには、どのモードをとるかで民族的な響きを取り入れられるというのだ。「ほら、アラブだ!」と思った。

 

まあ、あんまりこの音楽の勉強の話をこうして書いてもお伝えできる部分がないようにも思うし、この辺にしておこう。要するに、「音楽は耳で聞くんだ、勉強なんかしねえ」と思っていた男が、改心する話である(そんな恥ずかしい話は一度も触れていないけど)。語学と同じで、勉強は実践を必要とするので、勉強しながら手を加えて成果を取り入れていった曲があるので、いつかどこかに出そうかな、なーんて考えたりもしている。

C→G→C

ラジオを聴いていたら、実際に見たヘンな設定の夢をリスナーに募集する企画をやっていた。ボウリングの玉になってしまう夢、砂に埋まる夢…どれも奇妙奇天烈で、そしてちょっと怖いものが多い。確かに夢はちょっと怖いものである。

夢、というと、思い出すのは、安部公房の『笑う月』だ。この作品は夢の持つ気持ち悪さと滑稽さをうまく描き出している。その気持ち悪さの根源は、私たちが何らかの設定の中に投げ込まれている状態から始まることだ。その設定の中で私たちは必死でもがいているのだが、その設定自体はあまり気にかけなかったりする。

 

例えば、『笑う月』に入っている「案内人」という夢の話では、安部公房が突然階段を案内人に従って降りるシーンから始まり、それから奇妙な工場へ入り、粉末状の鳥料理を食べ、最後には肛門を掃除される。

目覚めている状態でこんなことがあれば、きっと考えたり、反芻したり、疑ったり、説明を求めたりすることだろう。なぜ自分はこんなところにいて、こんなことをしているのか。だが、夢の中の安部公房は、夢の中で出てくる人物の言葉に、わからないがわかるような気がする、という感想を抱く。絶対理解できないことが夢の中では当然の如くスっと入ってしまう。

 

さらに、私が思うに、夢の中では私たちは理由もわからないまま真剣なことが多い気がする。

『笑う月』の表題作「笑う月」では、少年安部公房花王のマークに似た笑う月に追いかけられる話が出てくるけれど、ちょっと考えてみれば設定自体の意味がわからない。でも、夢の中ではその設定は当然のものであり、そして逃げないといけないというのも当然の意思なのだ。安部公房もとにかく逃げる。怖い云々の感情はなきにしもあらずだけれど、それよりも、なによりも、とにかく逃げる。理由はわからないが、逃げるのだ。

 

そういえば、ヘンな夢を見た。

去年の一月のことだ。

これはとくに恐ろしくも、禍々しくも、不気味でもないのだが、私は友人二人と大型ビルのエスカレーターの上に立っていて、中華を食べようと話し合っている。その場所は「池袋」ということになっていたはずだが、風景はたぶん名古屋だった。理由はもう忘れてしまったが、私たちはそのあと中華を食べに行くのだが、中華料理屋に辿り着かない。それどころかビルの中をぐるぐると回っている。

こんなにも鮮明に覚えているのは、それが初夢だったのと、そして、当の友人にその夢の話をして、実際にそのメンバーで中華を食べに行ったからだ。だがそれは別にどうでもよい。言いたかったのは、この夢がものすごく夢らしかったと思う、ということだ。

つまり、さしてこの夢の設定そのものが奇妙とは言えないにしても、夢の中では私たちは設定に投げ込まれている。そして「中華に行く」という意思も含めて設定されていて、私たちはそれに何の疑問も抱かず、その意思を実現させようともがいている。

 

夢がもつ気味の悪さは、覚醒時にそれを思い出すと、全くの不条理からくるのではないか。人の夢の話を聞くのが退屈に感じられることがあるのも、きっと同じ理由だ。話し手も、聞き手も、一体何の話をしているのかわからないのだ。

だから古来より、人は夢に意味を持たせたがる。占い師や哲学者や心理学者は夢に様々な解釈を与えている。

例えば、予知夢や夢占いの類は運命と夢を結びつける。また、ある哲学者は、目覚めている時は「正常な」生活のために定まっている意識が夢ではゆるんでいて、普段はちらりと感じたり、考えたり、経験したりしているけど、無視してきたようなことが夢で現れるという見方を提示する。あるいは有名な心理学者は、日常的に抑圧し、無意識の世界に押し込まれていた願望が夢となるという見方をするが、これは人口に膾炙していると言ってよい。きっとそうなのだと思う。

しかしたまに思うのだが、夢に意味を持たせることはどこまで意味のあることなのだろうか。つまり、夢の中で体験されることは、どこか宙ぶらりんで、私たちはそれを信じ切って夢を生きる。そしてわけもなく必死である。そのままでいいじゃないか。やけにエロティックな情動や、やけに運命論的な言葉を引き合いに出さなくても、夢は夢だ。宙ぶらりんの気持ちの悪さを受け入れてみるのも一つの手である。

というのも、夢の解釈は、夢を起きている状態の視点から解説しなおしたものだ。でも夢が現実でなく、起きている状態が現実であると、どうして言い切れるだろう?

 

例えば、私たちは夢のような1日を過ごすこともある。ちなみにここで言っているのは、ネガティヴ無意味での「夢のような1日」である。

過ぎ去ってみると、何に必死になっていたんだろう、という1日のことだ。誰かに連絡をしなきゃとか、何かしなきゃとか、ひたすら感情に追いかけ回されていてるのだが、達成感のようなものもないまま、1日が終わっている。そう、現実感すらない。そう言う1日は、夢とさほど変わらない。違いがあるとすれば、人生の秒針が間違いなく進んでしまっていると言うことだ。そんな1日を翌日になって思い直してみれば、いっそ本当に夢だったらよかったのにと思う。

しかし突き詰めてみれば、私たちは通常の生活も夢とさして変わらない風に生きているのではないだろうか。というのも、私たちは大抵設定の中に投げ込まれ、必死にもがいているじゃないか。社会慣習やルールのようなもの、義務は、ヘンなものがたくさんある。とくに疑問もなく、そこでもがいている私たちはどこか夢の中にいるようだ。ひょっとすると、私たちは大抵の場合、集団的な夢の中にいるのかもしれない。

心の音楽〜「神様メール」〜

「神が愛であふれたお方なら、なぜ世界は苦しみに溢れているのか?」

そんな問いがキリスト教が浸透したヨーロッパで強く問い直されるようになったのは1755年に起こったリスボン大震災のときからだったという。

ベルギー映画「神様メール(Le Tout Nouveau Testament)」は、そんな問いを根本的に解決する。そもそも神はみんな思っているような愛に溢れた存在ではなく、ひねくれていて、暇つぶしで人間に苦痛を与え続けている、と。

劇中で神は、「隣の列は早く進む」とか、「ジャムを塗ったパンはジャム側を下にして落ちる」とか、「一生に一度の恋に落ちた人は、大抵その人と結ばれない」などといった、「あるある」な感じの苦痛の法則を何千個も作ってはほくそ笑む。そして下界の神父にはこう言ってみせる。「隣人を愛せ? そんなこと俺は言ってない。あれは息子の口から出まかせだ。俺が言うとしたら、隣人を憎め、だ」

 

この映画の主人公はエアという女の子。彼女は神の娘である。兄はJCといい、言わずとしてたイエス・キリストだ。母親は「女神」と言われるが、ぼんやりとしていて、刺繍と野球のブロマイド集めだけが趣味だが、子供からは慕われている。父なる神は先ほど言ったようにとんでもないやつで、書斎の閉じこもって下界に災厄を楽しそうに与えているは、娘に暴力を振るうは、妻も蔑ろにするはで、とにかくひん曲がっている。彼らはブリュッセルにある汚いアパート(=天界)に住んでいる。エアは父が下界にしていることを知り、下界への家出を決意する。

エアは兄イエスのアドバイスをもらい、父の書斎に侵入、全人類に余命を通達するメールを送信して、全宇宙を統べるパソコンを壊す。それから洗濯機を通じて下界へとおり、人々を救う「新・新約聖書(le Tout Nouveau Testament:「マジで新しい契約」)」を作るべく、六人の使徒を探す。なぜ六人か。それはイエスの十二人の弟子と合わせて十八人、母なる女神の好きな野球チームと同じ人数にするためだ(あれ?9人では?と思ったが詳しくないのでちょっとわからない)。

一方、下界では大騒ぎだ。はじめは余命メールを信じない人もいたが、余命通りに人が死んでいくため、もはや争うことができない。今まで通りに日々を生きようとする人、仕事を辞める人、今までは諦めていたことをやってみようと奮い立つ人、自分には余命があるのだからと危ないチャレンジを繰り返す人…。人生の終わりを突きつけられた人々は様々な選択をした。

これを見て神は激怒。天のテレビでは様々な紛争がストップしている様子が報じられている。余命という人々の弱みを自分がもう既に握っていないこと、人々がいろいろなことを諦めなくなってしまったことに焦る神は、エアを追って下界へと向かう。

 

この神の描写はとても面白い。JCからは「パパはパソコンがないと何もできない」と言われるが、本当にその通りなのである。例えば下界に降りてから自分の作った苦痛の法則に翻弄されっぱなしでもある。そして、エアが、兄の故事を踏まえてか、水の上を歩くシーンでは、神はエアを追おうとするが、結局水に沈んでしまう。「え、こんな描き方して大丈夫?」というシーンの連続である。完全にコミックリリーフに徹しているか、そうでなければヒール役として登場するのである。言ってしまえば、日本のバイキンマンロケット団みたいな役だ。

注意深く見ると、実はエアも「神」と呼び続けるこの男が「本当の」神なのかもわからない。例えば暇すぎて自分の名の元に人類に戦争をさせる、というシーンでは、「神のために(pour le Dieu)」「アッラーのために(pour Allah)」といった言い方の後に、「バアルのために(pour Ba'al)」が出てくるが、神やアッラーが同じ「唯一の神」を表している一方で、「バアル」というのは古代シリアの神々の中で一番偉いとされる神の名前だ。するとこれはちょっとおかしいのである。奇跡も起こせないし、最後には天界に帰ることすらできない。これは何なのだろうか。

おそらくだが、この作品には、実は「本来の」神が別にいるのだ。というのも、最後にその人物が全宇宙を管理するパソコンを再起動するとき、父である「神」には一言も喋らなかったパソコンが「またお会いできて嬉しいです」と述べるからである。おそらくその人物(というか神)が「本当」の神なのだが、その辺りは作品をご覧いただきたいと思う。

 

さて、エアは下界で使徒を獲得してゆく。まず、使徒にはカウントされないのだが、下界での父親代わり兼聖書執筆者としてホームレスのヴィクトル。彼は最初は面倒がりながらもエアと優しく行動を共にし、識字障害だが、綴りに不安を覚えながらも聖書を書き記してゆく。また、おそらく無実の罪で受刑者となった過去がある。

次に、第一の使徒、オレリー。彼女は幼少期に左腕を失い、美しい容姿ではあるが、常に悲しみと寂しさをたたえている。子供の頃にホームレスに言われた「世界はスケート場のようなもので、たくさんの人が滑って転ぶ」という言葉が耳から離れない。

第二の使徒はジャン=クロード。彼は幼い頃冒険家に憧れていたが、今では「くそな」仕事、大手スーパーの数字を扱う部門の管理職につき、満たされない日々と送っており、余命宣告メールと同時に会社にも家にも帰らずに公園で寝泊まりしている。

第三の使徒はマルク。彼は自身を「性的妄想者」と呼び、性欲を持て余し続けている。そのきっかけとなったのは、スペインの海岸で出会った美しいドイツ人少女だったが、再会を果たしてはいなかった。

第四の使徒はフランソワ。彼は幼少期から「死」に執着しており、虫や、いとこのペットを殺すこともあったため、自分を「殺し屋」だと認識している。余命宣告メールの件以降、銃を購入し、公園をゆく人に銃口を向けている。もし射って殺しても、それは運命のせいで自分のせいではないという感覚に溺れながら。

第五の使徒はマルティーヌ。中年の彼女は、幼少期にはロマンスに憧れていたが、今では夫との冷め切った関係に満たされない思いを抱きながら、ブランド品や美容健康にお金を費やしているが、それでも心は晴れない。

第六の使徒はウィリー。彼はまだ少年だが、体が弱く、母親や医者の過保護な視線に嫌気を感じている。余命宣告メールを期に、女の子になると言い出し、ドレスを来て生活している。

エアは彼らの胸に耳を当て、それぞれの人の持つ「心の音楽」を聞き当ててゆく。そのとき、彼らは救いを手に入れてゆくことになる。

 

この「心の音楽」はこの映画の一つのテーマであると思う。

旧約聖書ユダヤの民に乳と蜜の流れる土地を約束し、戒律を与えた。新約聖書はすべての人を愛することを人々に求め、天の国の到来を約束した。クルアーンは人々に神に感謝し、賛美することと、貧しく地上では救われない人々を助けて、「平和の家」を築くことを求め、美しい天の楽園を約束した。

それでは、「マジで新しい契約」は何を人々に約束し、求めるのか。それは「心の音楽」に気づくことではないか。つまり、今までの約束は人々への奉仕を求めてきたが、「今回」は自分を大切にすることを教えているといえる。もっと自由に、自分の胸の内にある音楽を聴くこと。それは一番難しいことなのかもしれない。だが、自分の音楽に気づいたとき、人は自分のもつ可能性に気づく。

ジャン=クロードは自分の中に流れる「鳥のさえずり(ラモー)」に気づき、鳥たちと心を通わせ、自由に旅立つ。ウィリーは自分の中に流れる「海(C. トレネ)」に気づき、魚の歌を聞いて、海へと向かう。自分の心の奥底を流れる音楽の前に、種の違いは関係ない。マルティーヌはサーカスの音楽(「剣闘士の入場(フュシック)」)を通して、ゴリラと恋に落ちる。愛を知らなかった「殺し屋」フランソワはオレリーと恋に落ちる。マルクも自分の音楽で「声」の仕事につき、初恋の少女と巡り合う。

心の音楽はおそらく誰にでもあるもので、人と人、いや、人とありとあらゆるものとを引き合わせ、自分の調子を作り上げているが、多くの場合、聞こえなくなっているのかもしれない。エアはそんな音楽を聴くことができる。それがそのまま、エアの見せる奇跡なのだ。

 

この「心の音楽」は、作品全体の作りにも関わっている。

劇中では、聖書に則り、途中で、「創世記」などの章題が登場する。「創世記」「出エジプト記(l'Exode:原義は「出る」なのでここではエアの「家出」)」ときて、六人それぞれの使徒の「福音書」が続き、最後に「雅歌」がくる。「雅歌」は旧約聖書の中にある、他の内容とは一転して、ラヴソング集である。キリスト教では、キリストと教会の間の愛を歌った歌だと考えられている。

最後に「愛の歌」が集まった「雅歌」が現れるのはきっと、人々の心の音楽が開かれること、そして、映画最後で現れる、愛に満ち溢れた世界の「再起動」を表現してのことである。聖書的な世界観と「心の音楽」はこの最後の章題を「雅歌」にすることで、映画のクライマックスとして結実する。

 

だがそんな小難しく考えなくたってこの映画のメッセージははっきりしている。

そう、私の心の音楽は何だろうか? そしてあなたの心の音楽は何だろうか? 耳をすませて聴いてみよう。そのとき、自分に気づくだろう。メールで伝えられた余命宣告のように、自分の音楽が手元に聞こえてくるだろう。奇跡はきっとそこにあるのだ。

街の荒野で 〜霜月江戸前一巡道中・其二〜

イカレーを食べて、無知の無知から来たエゴの精算にかかる。一号線をそれて、私は一路品川へと向かうことにした。現在地は五反田。そこから品川に行くには、五反田駅のすぐそばを流れる目黒川を下ればいいようだった。

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目黒川。川を下る船は休業中。

ハイソな雰囲気が漂う集合住宅のど真ん中を川は突っ切っている。談笑するマダム、遊具で遊ぶ子供たち、スーツ姿のビジネスマン。日常の一コマが、曇ったグレーの空には裏腹の、花見の空気感の下に繰り広げられている。歩いていた時は気づかなかったが、後で高級タワーマンションを紹介している番組でこの辺りが出てきたから、もしかすると、想像していたよりもっともっとハイソ、ハイヤーソの空間を突き進んでいたのかもしれない。いずれにせよ、目黒川の周りはシャンパンのような軽やかな雰囲気があった。

だが、川沿いの並木道を歩いていると、徐々に裏寂しい感じになっていった。空もグレーなら、川もグレーだ。川が予想以上に長かったからかもしれない。タイ料理屋から出て、もう三十分が経っている。するとおそらく、2キロほど歩いている計算になる。足もだんだん重くなってくる。天気もますます悪くなってくる。

それでも先へ進もうと足に力を入れて、歩みを進めると、開けた場所に出る。もはや人間の住む団地ではなく、団地は団地でも、工業団地に突入したようだ。束をなした太い線路と車庫、そして広大な製紙工場がその団地の支配者である。煤けた空と無機質な工場は異様なほどマッチしていて、そこでは全てが灰色になっていた。敷地の広大さに、自分の小ささを感じつつ、「この道を歩いていていいんだろうか? 立ち入り禁止とかではないだろうか?」と不安に駆られながら、私はなんとか、品川がある方へと歩いていった。

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ついに迷ったかもしれない。

広大な建物が並ぶ地帯は、ほとんど砂漠のようなもので、右も左もあったもんではない。私は胸のあたりがキュッとなるのを感じた。うるさい、武者震いだ。私は無理を言って、気を確かにするべく、狭い路地へと入り込むことにした。

 

狭い路地をしばらく歩くと、私のカンは当たっていたことがわかった。路地の向こうに商店街を示す看板があり、そこには「品川銀座」の文字があったからだ。とりあえず、「品川」と呼ばれる界隈に入ったことは確かである。雲行きは怪しいが、私の心は晴れた。

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品川銀座を抜け、大きな通りを渡って、さらに古くからありそうな住宅地を進む。やっぱり、狭い道の方が性に合う。ひょっとすると、ハノイや、パリや、イスタンブルが好きなのは、そんな些細な理由があるからかもしれない。もちろん、それだけではないけれど。そういえば、道が馬鹿みたいに広いモントリオールではちょっと気が小さくなった時があったな。そんなことを思いながら、古い蕎麦屋やそういった店を横目に進む。

そうこうするうちに、私はやっと「旧東海道」にたどり着いた。開始から四時間ほどたって、やっと東海道についたわけだ。そう思うとちょっと馬鹿げているようにも思うが、往々にしてこんなものなのだ。頑なに一号線が東海道だと信じているうちは、気づくはずもないのである。

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そこ、南品川商店街は「旧東海道」として売り出しているようだった。品川宿は江戸時代の東海道五十三次、江戸から数えて最初の宿場町だ。売り出す理由もあるというものである。元に歩いていると、新撰組が宿泊した場所の碑などがたっている。だがそれ以上に面白いのは、古い寺や、江戸時代からあったんじゃないかというような畳屋なども残っていることだ。やっと東海道と合流したこともあり、私は軽やかに、道なりに、歩いた。足の重さも消えたようだ。

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旧東海道は国道一号線ではなく、国道十五号線と並走しており、南品川商店街を含め、いくつかの商店街が連なる形で成り立っている。歩いた限りあまり飲食店はなく、日用品を売る店が多い。そして、商店街と商店街の間には、たいてい小さな川が流れている。

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はじめは心躍りながら歩いていたものの、だんだんと風景に慣れてくると足の疲れも舞い戻る。何せ天気が悪い。今にも降るんじゃないかと思っていたら降らなかったり、じゃあ平気かと思ったらパラパラっときたり。時々面白いものを見かけたり、歩いている動画を撮ってみたりしながら、気を紛らわした。

品川宿の終わりには、鈴ヶ森刑場がある。巨大な石碑が建てられ、グロテスクな文字で鈴ヶ森の名が刻まれている。ここは何を隠そう江戸時代の処刑場があった場所で、由井正雪の乱に連座した丸橋忠弥や、天一坊などの国家転覆を図った罪人や、八百屋お七などがここで処刑されたという。東海道を京都を背にして考えれば、品川宿は江戸への入り口だから、見せしめであった。グレーの空がその陰惨な雰囲気を増幅している。講談で畔倉重四郎が元々仲間だった火の玉の三五郎を殺害したのはこのあたりではなかったか。

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その鈴ヶ森刑場を本を片手に熱心に見ている男性がいた。私が鈴ヶ森に着く前にさーっと、すごいスピードで歩いていったが、方向からして、私と同じ、東海道を令和になって歩こうという酔狂な輩に違いない。私はその背中に、心の中でエールを送った。

 

鈴ヶ森の先で、東海道は国道十五号線と合流する。

そして間も無く、品川区から大田区へと入ることになる。大田区と言えば、神奈川県と接している区だから、ついに東京都の領域も先が見えてきた。だが油断はならない。大田区というと、東京都二十三区面積ランキング一位である。もちろん、その中を占める人工島や羽田空港の割合は大きいが、それでも十分大きい。先はまだまだ長いのだ。

国道十五号線は、国道なだけあって道幅が広かった。巨大なマンションや集合住宅がそびえ立ち、車を運転する人向けのファミリーレストランやガソリンスタンドも並んでいて、いわば現代の宿場町の様相を呈している。

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ふと標識に目をやると、「横浜まで18km」とある。虎ノ門の辺りでは30kmだったものが、もうあと少しで半分だ。ちょっと気が楽になる。まだ半分以上あると思うと、切迫感もあるが、そこまで歩いてきたのだという自信も湧く。なんにせよ、無理だと思えばリタイアすればいいのである。江戸時代の日本でも、古代ローマでも、街道沿いに一里塚が置かれていた理由がわかる。自分の位置を確かめて、息抜きするためにあるのだ。

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これもなかなか指標になる。

長く真っ直ぐ続く殺風景な道をひたすら歩く。街も人も車もいるのに、何だか荒野にいるみたいだ。江戸時代にはきっと、文字通りの荒野だったのだろう。そうでなかったにしても、きっと田畑だけが広がっていたに違いない。宿場と宿場の間に何があるかを、安藤広重も教えてはくれない。

平和島を越え、貝塚があったという大森を越え、一体どんな屋敷があったのかもわからない梅屋敷を越え、蒲田へたどり着いたときには、足が棒というか、足の裏がヒリヒリするというか、何だか気も滅入っているというか、とにかく自分が小さくなっていくような気がした。曇天に、アスファルト、時々さらりとやってくる小雨。

「どうしてこんな馬鹿げたことをしてるんだ? なぜ自分で自分の首を絞めているんだ?」

そう、私はふと思った。今までにない感情だった。そうこうするうちに蒲田駅が現れた。

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「電車に乗って横浜に直行するか?」

蒲田駅が誘惑する。どでかくて、湘南のほうにある綺麗めな駅のような見た目の京急蒲田駅は悠然と経っている。

「疲れているんだったら、何も完遂する必要はないじゃないか」

私は駅に向かう通路を登った。歩道橋のようになっている。天辺まで登り、真っ直ぐな道を見つめて、私はもう少し歩くことにした。あきらめるならせめて東京都を抜けてからだ。時刻も15時。まだまだだ。だけどちょっと休憩を挟もう。私は京急蒲田にあるタリーズ・コーヒーに駆け込んだ。

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一休み。

陶器のように

私は陶器作りに詳しいわけではない。昔一度だけ、修学旅行で山形県に行った際、体験でちょっと触れた程度だ。そして今思えば、あの時の私は陶器作りをしていなかったに違いない。あの時は、土を曲げていただけだったからだ。

どこで聞いたのかは思い出せないが、陶器を作るというのは、土との対話だという。手で土に触れ、整形してゆきはするものの、根本は土の動きに合わせてやることが肝要だという。そうなった時、不格好でも味のある作品というものが生まれるし、そうならなかった時、形は整っていても味もへったくれもないモノが作成される。

 

だけどそれは、陶器に限った話ではないのだと思う。いつでもそうなのだ。

ちょっと前にも似たようなことを書いた気がするが、カレー作りはまさしくそうだ。こういう味にしよう、こういうふうにしよう、というのが結構邪魔になることがある。もしかすると私が料理下手で、勝手にそんな神秘的な態度になって勝手に満足してるだけかもしれないが、やっぱり、何種類ものスパイス、肉、玉ねぎ、水などが、カレーという形で一つになるのは神秘的で、カレーの神様みたいなものと作り手の私のある種の対話の中で、カレーが生まれているように思う。カレーはその時他者なのだ。だからカレーを作るのが上手くなったなと思ったら、自分を戒めないといけない。「カレーを作るのが上手くなったんじゃない。カレーの声を聞くのが上手くなったんだ」

以上はくだらない話だったが、やっぱりそういうものって結構あるよなあと思ったりする。馬に乗るなんていうのはそのわかりやすい例だろうし、実は機械なんかもそうなんじゃないかと思う。パソコンも、使いこなすには、パソコンに聞いてもらえるような言い方でものを頼まないといけないし、異変にも気づいてやらなきゃいけない。素材と思惑がうまく共同した時、何かが生まれる。こっちは何かをした気になってるけれど、本当はいろんなものとの対話の上に成り立ってる。

 

究極的な話をすれば、私たちの内面もそうなのだ。

とても不思議なことだが、私たちはあんまり私たち自身のことがわかっていない。自分自身は自分の中にあるように見えて、自分は他人のようである。今まで好きだった音楽が響かなくなったり、今まで嫌いだったものが好きになっていたり、私たちは自分で困惑することがある。それどころか、自分の奥底にある自分が私自身に「お前のことなんて嫌いだ」と言ってみせることだってあるから、ほとほと困ってしまう。

だけど、心の奥の声を黙らせたり、自分で勝手に作った枠やカタを押し付けると、途端にうまくいかなくなってしまう。味のない陶器、スパイスがダマになったカレーのように、息苦しくなってゆく。だから自分の声に耳を傾けないといけないのである。しゃべりすぎてはいけない。語りすぎてはいけない。自分の声を聞きながら、そう、陶器のように日々を生きていけば、たぶん心と体といろんなものがスーッとするんじゃないだろうか。

そんなことを思い始めていたら、年が明けた。今年はこれを抱負にしてみようか。

ヴァンショー修行〜クリスマスによせて〜

日本には酒を温める熱燗があるが、ヨーロッパにはワインをあたためたヴァンショーがある。英語ではホットワイン、ドイツ語ではグリューヴァインという。といってもただワインを温めるだけではない。クローヴ、シナモン、スターアニス八角)などのスパイスやオレンジピールといっしょにワインを煮るのである。だから、飲むと鼻にすっと甘いスパイスの香りがするのが特徴だ。

そんなヴァンショーを最近夜中に作っている。

 

あまり寝酒というものをしない人種だった。旅先ではよく地ビールなどを買って部屋で飲んでいたが、日本ではあまりやらなかった。特に理由はないが、まあ要するに、飲む理由がないからである。だが、ここ最近ワインを買って帰るようになった。

ワイン道楽は悪くなかった。というのもビールより持つし、よく言われていることだが、日が経つにつれて味わいが変わるのだ。なんだか、何かを育てているような気持ちになってくる。その感覚は、カレーと同じかもしれない。

だがどうしても最後になると酸味が強くなったりして、あんまりよろしくない。そういうわけで、ワインボトル最終日にヴァンショーを作ってみようと思い立った。

 

なぜヴァンショーか。それは近藤史恵さんの推理小説、ビストロ・パ・マル・シリーズというものがあって、それをつい最近一気に読んだからだった。大まかにあらすじを言えば、下町のカジュアルなフランス料理店「ビストロ・パ・マル(パ・マルは『悪くない』という意味)」を舞台として、お客さんの抱えるちょっとした謎をシェフの三船が解き明かしてゆく短編集である。シリーズというだけあって今のところ三冊出ている。

第一作目の『タルトタタンの夢』を初めて読んだのは、私が高校生の頃、推理小説に入れ挙げていた時分のことだった。あの頃は馬鹿げたこだわりをもっているのがかっこいいと思っていたのか、「日本の推理小説はベタベタしていてくだらない」「殺人やイリュージョンのような盗みこそが事件だ」などとあれこれと拘っていた。『タルトタタンの夢』はいわゆる事件らしい事件が起こらない「日常ミステリ」と呼ばれるジャンルの作品だったのだが、ひょんなことからこれを読み、その面白さにやられてしまった。舞台設定の持つ雰囲気の魅力、ただ単に殺人が起こる小説よりもある意味で緻密な展開、あげたらキリがないが、とにかく面白かった。それ以降日常ミステリを読むようになった、などといった安っぽい展開は起こらなかったが、こだわりを一つ捨てるきっかけにはなったかなと思っている。

なぜ今になってまた読んだのかというと、理由は単純である。最新刊が出たのだ。一作目の『タルトタタンの夢』、第二作目の『ヴァン・ショーをあなたに』までは読んでいたが、それもずいぶん昔のことになってしまっていた。読み返して、雰囲気を掴んでから最新作を読もうと、もう一度読み直した。すると、酒を飲まなかった当時と比べてワインが気になる。話の中でワインの言葉が出てきてもわからないからかもしれない。もっと知りたいと思った。また、例のヴァンショーは作中でよく出てくるので、やっぱり飲んでみたいなと思った。飲んだことがまるっきりないわけではなかったが、とにかくうまそうなのである。メニューにはないが、三舟シェフの得意なヴァンショー。必ず最後に振る舞って、問題を抱えた人たちにひとときの安らぎを与える。うーん、飲んでみたい。飲んでみたいと思わないわけがない。

 

 

そういうわけで、ヴァンショー作りである。

まずは、ネットで調べる。Comment préparer du vin chaud(ヴァンショー 作り方)。カレー作りの応用だ。現地のレシピを動画サイトで得る。クローヴ、シナモン、スターアニスといったカレー作りでもよく使うスパイスを使うらしい。あとはオレンジピール。だがそんなものは家にはない。夜な夜な作っているので、買いに行くのも億劫だ。そういうわけで私はおもむろにみかんを手に取り、食べた。そう、みかんの皮をぶち込んでやろうというわけだ。そしてあと必要なのは、砂糖。これはちょっと意外である。だが、ピンと来たのだが、オレンジピールとワイン以外は、ほとんどインド式チャイの作り方と一致している。しめしめ。

そういうわけで私はチャイを応用することにした。火をつけ、スパイスを煎り、火を止め、ワインを入れる。そして砂糖を2杯ほど。香りは良い。私はスパイスを退けて、マグカップに入れて飲んだ。渋い。そう、砂糖が足りないのだ。そして何より、アルコール分が全くない。決してまずいはわけではなかったが、成功とは言い難い。

 

ヴァンショー、単純に見えて、奥深い。スパイスは奥深いジャングルを形成してしまうのかもしれない。私は密かにある計画を立てた。クリスマスまでにうまいヴァンショーを作る技術を得て、クリスマスの夜、夜な夜な一人でヴァンショーを飲もうじゃないか、と。

クリスマスまでに。これは歴史が好きな人ならピンとくる、不吉な呪文である。第一次世界大戦が始まった時、兵士が家族にこう言った。「クリスマスまでには帰る」。そして戦争は4年続いた。今回のコロナ騒動でも、ヨーロッパ各国はクリスマスまでに規制を緩和しようとしていたが、つい最近英国は再び封鎖の意向を決めた。そう、クリスマスまでに何とかなった試しがないのである。だが、きっと、うまくいく。そう信じてみようと思った。

 

ヴァンショー修行がはじまる。

ワインを買うたび、最後に必ずヴァンショーを作った。スパイスの煎り方を変えてみたり、みかんの皮を暖房でカラカラに乾いた部屋に放置してみたり、あるいはスパイスと一緒に炒めたりする。砂糖の分量を増やす。いろいろ試してみながら、徐々に体にヴァンショーの作り方をしみ込ませて行った。

なかでも試行錯誤したのはアルコールだ。熱燗と違って直火にかけるヴァンショーはすぐにアルコールが飛ぶ。だから、蓋をしっかり閉めて、弱火でいくことにした。時折、(意味があるのかはわからないが)ちょっと鍋を揺らして、蓋に張り付いていると思われるワインの蒸留酒を落としてみたり。これが結構悪くなくても、ある程度はアルコールを感じられるようになった。どうやら実際は蒸留酒を入れたりするらしく、最初に作った際は、残っていたブランデーを回し入れてみたりしたが、できればワインそのものを生かしたい。そういいながら、砂糖をどっさり入れているので、このこだわりにあまり意味はないのだが。

だが結局のところ、こちらが踏ん張ってもあまり意味がないのかなとも思う。要するに、ある段階からはヴァンショーくんがうまいヴァンショーになってくれないと困るのだ。ふざけているわけではない。今年の前半、カレーを本腰を入れて作るようになって気づいたことだ。カレー作りは、人間がカレーを作ることではない。カレーがカレーになる条件を整えてやることなのだ。そして、他の料理もまたそうなのだろうと思う。

 

ひょっとすると、人生もまたそういうものかもしれない。

私はワインを飲んでみようと積極的に思うことがあまりなかった。それはワインというものに、なんだかスノッブなイメージを持っていたからだった。格好つけて「君の生まれた年のワインで乾杯しよう」とか、「19XX年のシャルドネはいいんだ」とか、歯の浮くようなことをいう材料になるイメージだ。そしてそれと同時に、ソムリエの方々のようにたくさんのことを知り、たくさんの味を区別できなければならないんじゃないか、という敷居の高さも感じていた。

だが、先ほどの『ビストロ・パ・マル』シリーズもそうだが、他にもワインに関わる本を読んで、ワインを飲んでみたくなっている自分に気づいた。結局、スノッブでお高くとまってる、というイメージからワインを避けてきたのは、自分がそういうイメージの人になりたくないからだった。だけど、自分に対してそうやってイメージ戦略をかけていくことに意味はあるのか。飲んでみたい酒、やってみたいこと、行ってみたい場所、きてみたい服。判断する自分の向こう側にある自分の動きに身を委ねてみよう。実を言えば、ちょうどそんなふうに思っていたから、私は寝酒というか、夜の一人のワイン時間を作ってみたのだった。

 

そして、今日、クリスマスが今年もやってきた。残念ながらイヴの日はワインを買う時間がなく、まだヴァンショーを作るに至っていない。行って仕舞えば出鼻をくじかれた形だ。だがまだ明日がある。明日、良いヴァンショーができるのかは、ヴァンショーのみぞ知る。どうなろうと、クリスマスは「赦し」の季節。心の暖はとっておこう。

一号線を「南下」せよ 〜霜月江戸前一巡道中・其一〜

東京湾を一周してみよう、と思いたったのはいつのことだったろう。

私にとって旅することは、一種の薬のようなものだった。疲れを取る薬では無い。好奇心を満たすためだけでも無い。好奇心に関してはそう言う側面もある。だが、私にとって旅することは、なんというか、生きていく上で欠かせないことになっていた。私が元来持っている弱い部分とか、閉じた心、曲がった心と対峙する場であった。つまりは、自分を見つめ直すことだった。だが状況がガラリと変わってしまった。

どうにもこうにも、にっちもさっちもいかないし、いっそのことどこかへ行こうと思っても、最近じゃ国外へ行くこともままならない。国の外、自分の母語が通じない世界、だからこそ自分が引きずってきたものを一旦捨てられる場所が好きだったから、「じゃあ国内で」と言われても気持ちが乗らなかったし、そもそも気乗りしない状態で無理やり行動する元気は満に一つもなかった。だから、「東京湾一周」を思い立って、行動にまで移せた、というのは、私の心の中でのごたごたが一旦落ち着いて、それでいて、どうにかしなければいけない、と言うふうに考えられるようになったということである。

だが、ただ電車でぐるりと1日もかけずに東京湾をまわっても面白く無いし、そんなことしたって、私が今望んでいることにはならないだろう。だから私は歩くことにした。最近落語や講談を聞くようになった影響もあるかもしれない。江戸時代の人は江戸から旅に出るときは基本的に歩いている。それがどんなものか知りたい。その願望は昔からあった。だから、今回は、とりあえず横浜まで歩いてみようと言う気になった。使う道はもちろん、「東海道」。『東海道中膝栗毛』や「東海道五十三次」で知られる、あの「東海道」だ。

 

かくして私はこの旅を決行したのだ。

いつものようにスポティファイで落語を聞きながら、私の自宅がある武蔵国国府周辺から江戸まで「つーっと」中央線に乗る。神田で乗り換え、向かうは日本橋、である。そう、東海道の起点だ。

とはいっても、今回は急を要したので、正直何も調べていない。ただ、なんとなく記憶にある「東海道は現在の国道一号線」という情報だけを手に旅をスタートさせた。ところが、いざ日本橋についてみると、「国道一号線」がわからない。

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日本橋には「道路原票」なるものがあった。いくつかの国道の起点だということを示すものだ。とは言っても、やっぱり一号線がわからないので、私は「中央通り」を進むことにした。日本橋を丸の内方面に渡り、そのまま「まっつぐ」進む道だ。銀座のほうに行く道だから、私も何度か歩いたことがある。左手に高島屋、右手に丸善、正面の正面は銀座、もっと向こうは新橋、と言った具合の道である。

だが歩けば歩くほど、心の奥でモヤモヤが広がっていく。本当にこれは一号線なのだろうか、と。せっかく東海道を歩くんだから、ここはやっぱりちゃんとしておきたいではないか。そこで私は、東京駅のそばにあった立て看板式の地図を見てみることにした。すると案の定、私の歩いている中央通りは国道一号線ではなかった。おもしろいじゃないか。いきなりトラブルときてやがる。私はこの状況を楽しむことにした。

国道一号線は日本橋から一度皇居(旧江戸城)方面に向かい、そこでおれて、内堀沿いに、帝国劇場や第一生命、帝国ホテルがある道と合流する。それから先は日比谷公園で堀に沿って折れる。言葉で言われてもしょうがないかもしれないが、地図をご確認いただければと思う。とにかくそんな感じなのだ。私は東海道江戸城の目の前を通るはずがないと思っていたから、一号線がそこを通っているなんて思いもしなかったのだ。実をいうと、この私のカンがあながち間違いではなかった、ということを後で気づくことになる。それはまた先のお話…。

さて、私は中央通りからなんとかして一号線へと合流する道を探り当てて、東京フォーラムの方へと向かった。日本橋まで戻るのはやめた。今、そこがどこだろうと、私が歩いている道が、国道一号線なのだ、と嘯いてみる。要するに、面倒だったのだ。これから道中長いわけだし。

そんなこんなで、私は東京駅を超え、東京国際フォーラムを突っ切って、ビックカメラ沿いに歩き、途中で厠を拝借し、皇居の方へとでた。やっとこさ、国道一号線の旅がスタートしたわけだ。

 

右手に旧江戸城、左手に日比谷公園。後ろを振り向けば、旧GHQ本部。東京の歴史を一望できる場所を抜けてゆく。日比谷公園というと、私にとってはミャンマー旧正月を祝うお祭りに行った記憶が蘇ってくる。Power to the peopleを歌うも、高い声が出ずに、途中諦めて低い声で歌い始めたミュージシャンを思い出す。爆笑してしまったが、人生においてはそう言うことも必要だ。それは勇気なのである。彼は今元気だろうか。私は今、東海道を歩くと言う究極のムリを実行している。途中で足がもげそうになったときは、彼のような勇気をもとう。

暫くすると、警視庁が見えてくる。テレビドラマで良く見る風景だ。何の小説だったか、「ショートケーキ」と形容されていた。そう言われてみるとそうにしか見えない。そんなショートケーキの向かいには、あんまり知られていないが、旧法務省庁舎がある。煉瓦造りの、明治大正の雰囲気を保つ建物だ。推理小説を書いていたとき、この建物に漠とした憧れを抱いていたのを思い出す。

国道一号線は、ちょうどその場所で内堀から逸れる。桜田通りとして、法務省と警視庁の間を突っ切ってゆく。現場と法廷を引き裂くのは国道一号線なのだ。そう言う意味で、国道一号線は大事な道なのかもしれない。だけど戯言はこれくらいにしよう。

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桜田通りこと一号線は日本の政治の中枢を突っ切ってゆく。警察、検察、裁判所を抜けると、外務省が現れる。夏の暑さを思い出しながら、外務省を横目に進み、霞ヶ関という場所の無機質さに気づく。道はとにかく真っ直ぐ進む。そしてとてつもなくでかい。ここを歩き続けていると、クネクネとした路地裏の煤けた狭くて広い世界のことなど、忘れてしまうかもしれない。

 

でかい道はとにかく真っ直ぐ進む。

霞ヶ関のカクカクした界隈を越えると、そこは虎ノ門である。虎ノ門ヒルズがそびえ立っている。だがまだ気が治らないのか、道路は至るところが工事中だ。昔散歩をしていてこの界隈に迷い込んだことがあったが、その時も工事していた‥‥桜田ファミリア。なんて馬鹿なことを思いながら、私は道を歩いた。時々、道路標識が見える。「横浜まで31km」。まだまだ道は遠い。だが、さいわい足の疲れはまだきていない。ちょっとした生活臭も残す虎ノ門は、歩いていて気持のよい風が吹く。日本刀の店、ちょっとしたレストラン。そして街路樹。

広い虎ノ門をなんとか歩ききると、急な坂道が見えてくる。どうやらここは神谷町だ。見覚えもあった。2017年にトランジットでモスクワへ行ったときのビザをとった場所だ。東京タワーに行ったことも思い出す。厳重な警備のロシア大使館の向かいにベラルーシ料理屋があったはずだ。谷へ降り、坂を登る。左手には常に東京タワーがいる。まだまだキツくはない。向かう先は芝である。

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広大な芝公園が右手に見える。何度かいったことがあったが、こんなに大きかったとは思わなかった。目の前には神谷町駅前の街がある。予報外れの晴れたそれが気持ち良い。ゆったりとビールを飲むにも良さそうだ。今日横浜にたどり着いてから飲む酒はうまいだろうなとふと思った。だけど、今よりずっと足も疲れているだろうから、すぐに回っちゃうかもしれない。飲み過ぎには注意だ。そうしないとこの旅が「夢になっちゃいけねェ」。

 

高架橋をくぐると、知らない風景だ。この先は未知の場所かもしれない。そう、心躍らせながら歩く。右手に小綺麗な公園みたいなものがみえる。左手には町中華が見える。居酒屋もある。だんだんと生活臭が強くなってくる。面白い。

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暫く歩いて気づいたのは、この界隈が三田だ、ということだ。慶應義塾大学で有名な場所である。一号線を歩いていても、不動産屋や中華料理屋があって、学生街なのだなと思う。なんて呑気なことを言っていたら、目の前に巨大な煉瓦造りの建物。それもよくみると、これは建物ではなく、門だと言う。そう、慶應義塾大学である。

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上野の彰義隊薩長の軍隊と戦いを始めたとき、慶應義塾で教鞭をとっていた福澤諭吉は、戦いの音に浮き足出す塾生たちを叱責し、勉強に集中しろと言ったらしい。これはある種の美談となっているが、考えてみればこのときの福澤はどう言う気持ちだったのだろう。すごく複雑な、苦しい感情だったのではないか。それにしても上野からここまで聞こえてくる砲声とは、戦いの尋常のなさがうかがえる。

一号線は慶應義塾大学沿に折れた。私も向かって右に曲がり、一号線に従う。カーヴを描く道を歩いていると、慶應大を超えた先にハンガリー大使館があることを知った。街全体が芸術品のようなブダペシュトを思いだす…。

 

三田のグニャリと曲がった道を歩いていると、荻生徂徠の墓やら、イスラエル料理屋やら面白いものも見つかった。知らない道は歩くだけで面白いものだ。だが、その一方で、私は最初の足の疲れを感じ始めていた。日本橋から7km地点のことである。

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国道一号線は白金に入った。いわゆるシロガネーゼがすむ場所である。右手には巨大な明治学院大学とその附属の教会。道は広く、マンションが立ち並んでいる。足に疲れがたまると、世界がやけに馬鹿デカく感じる。そしてそんな私の心象風景に呼応してか、先ほどまで晴れ渡っていた空も雲行きが怪しくなっていった。足取りも遅くなり、生まれたてのひよこのように、歩幅も小さくなる。さっきは十分おきくらいに見えていた日本橋からの距離を示す「1km塚」もぱたっとみなくなった。私は道端の植え込みのそばに座り込んだ。

ふぅ、と息をつき、先ほど買った水を一口飲んだ。よし、進もう。まだまだだ。せめて、10kmまでは行こう。道路表示によれば、ちょうど五反田あたりだろう。東海道といえば品川だから、そこからなんとか品川に行って、そこで昼食だ。ちょうどいいじゃないか。私は立ち上がって歩き始めた。

 

それからは登ったり降ったり、曲がったり、真っ直ぐだったりで、結構大変だったが、私はなんとかサイズ感がでかい白金の住宅街を超えた。すると、坂を降りたところに駅が見えた。五反田だった。こんなに五反田にテンションが上がったことはないだろう、というくらいテンションを上げて、私は疲れの溜まった足を持ち上げたりおろしたりして、意気揚々と五反田へと向かった。

五反田はたぶん、はじめて訪れた街である。よく見かける東京の街だ。おしゃれなチェーンのカフェがあり、ラーメン屋があり、そしてそういう感じのお店がある。この五反田で昼食と行くか、それとも品川まで頑張るか、私はちょっとだけ悩んだ。やっぱり趣的には、品川だろう。なんとなれば品川は、東海道最初の宿場町だからだ。お腹は空いている。とりあえず、立て看板の地図を見つけて、眺めることにする。

どうやら品川は山手線的には大崎の次らしい。どれくらいの距離があるのかはわからない。だが、まあ頑張れなくはなさそうである。足は疲れているが、なんとかなるだろう。だが少々気になるのは、品川方面に行く道と国道一号線が違う方向へ向かっていることだ。品川は東海道沿ではないのだろうか。

疑念はありつつも、私はすこしがんばることにした。国道一号線を南下すれば、どうにかこうにか品川にたどり着けると信じていたのである。そういうわけで、五反田の町を出て、坂を登った。

 

だが、立て看板の地図が植え付けた小さな疑念が私の心の中でぐんぐんと育っていく。品川にはたどり着かないのではないか。いや、そもそも、東海道と国道一号線は一致していないのではないか。これは私の午前中の行動を全く無に喫する可能性を持つ危険な疑いだった。私は東海道を歩いていると信じて進んできたのである。だが疑念は膨らみ続けた。私は立ち止まった。

私はそそくさとスマートフォンを取り出し、「東海道」を検索する。いくつか調べていたら、どうだろう、「旧東海道」は案の定、国道一号線ではなかった。空の雲はもっと分厚くなり、雨が降ろうとしていた。そういうことだ。道理で、品川にたどり着かないわけだ。道理で、江戸城の目の前を抜けるわけだ。

ちょっと調べれば、そんなことは分かったはずだった。だけど私にはそういうところがあって、そうやっていったん表に出した自分の思い込みを引っ込められないのだ。真っ直ぐ行くことが正しいと信じて疑わなかった。

ここに、二つの道があった。このまま一号線を進み続けるか、それとも、東海道へ向かうか、だ。調べたところ、旧東海道の方が、一号線よりも良さそうだった。というのは、一号線をこのまま進めば、市街地から離れたところをひたすら歩くことになるのだ。それを続ける元気はないだろう。ここから品川へ向かうのが得策だ。私は思い込みの道からくるりと背を向けることにした。

コンビニで新しい水と折り畳み傘を買う。品川へ向かう道を歩くと、すぐに大崎へたどり着く。飲食店が並んでいる。チラリと美味しそうなタイ料理屋が見える。品川で食べるなんて悠長なことを言っていたら、ひもじいまま歩き続けるかもしれない。というか、足がもう限界だ。よし、ここで食べよう。

歩き続ける方が惰性である。私は勇気を持ってタイ料理屋へと入っていった。

今までの歩き方は、もうしない。

「普通の暮らし」〜「トゥルーマンショー」を観た〜

いろんな見方をできる映画というのがある。私が昨日見た「トゥルーマンショー」もそうだろう。というのも、私がこの映画を見た動画配信サイトの紹介文には「情報化社会」についての言及があった一方で、沢木耕太郎の映画評『世界は使われなかった人生で溢れている』では「神と人間」というテーマでこの映画が語られており、さらに私が抱いた感想は、このどちらにも書かれていないようなものだったからだ。

 

トゥルーマンショー」というのは一つのテレビ番組である。24時間365日つねにテレビで放映している。というのも、この番組は一人の人の人生に常に密着しているからである。番組の主人公はトゥルーマン。彼は生まれた時からずっとテレビに移され続けており、彼を取り巻く人たちは皆、俳優である。だが彼は、自分がいる世界を本物だと信じ、その世界で繰り広げられる「普通の暮らし」を続けている。

「俳優の臭い演技にはもううんざりだ」

とプロデューサーのクリストフは言う。だから、彼は、リアルな人間を放送することにしたのだ。そう、トゥルーマン(True man)を。

だが、こんなことずっと続くわけもない。トゥルーマンは、徐々に、自分が暮らす世界の不自然さに気がついてゆく。

恋した相手は「トゥルーマンと話すな」と指示を受けていて、駆け落ちしようとしても、何者かによって連れ去られてしまう。彼女は「あなたの周りにいる人はみんな嘘をついている」とだけ言い残した。また、死んだはずの父親が突如目の前に現れる。あるいは、自分の行動を付け回すようなラジオ放送を聞いてしまう。またあるいは、街を走る自転車、自動車が決まった道を周期的に周回している。

実はこのテレビ番組に閉じ込められた男、トゥルーマンの夢は「冒険家」だった。知らない世界を見たい。なんとかして、この世界の外に出たい。

だが、航空券をとりにいけば一ヶ月間空席なし、車で出ようとすれば謎の渋滞に、山火事に、原発事故に、ありえないほど自分を止めようとしてくる何かが起こる。そうして、トゥルーマンは自分の周りの世界が作り物なんじゃないか、という疑惑を深めてゆき、逃亡を図る……

 

これは非常に特殊な状況を描く映画だ。私たちの誰も、テレビ番組に閉じ込められたことはないだろうし、そもそもこんなテレビ番組があれば、間違いなくBPOにひっかかる。だが、その一方で、非常に身近でもあると思う。

なぜか。それは、社会というものが、実はテレビ番組みたいだからだ。

 

わかりやすい部分で言えば、宣伝だ。「トゥルーマンショー」は24時間放映し続けるため、CMを挟めない。だから、劇中で飲み物を飲んだり、食べ物を食べたり、なんとか広告ポスターを見せつけたりすることで、いろいろなものをこれ見よがしに視聴者に発信している。この映画で見ていると、そのシーンがなんとも言えない気持ちの悪さを持っている。

例えばトゥルーマンの友人(役)がビールを飲む。なぜだか、カメラの角度に合わせてロゴが見えるようになっている。

「やっぱりこれこそ本物のビールだ」とキャッチコピーさながらの言葉を友人は言う。

あるいは、トゥルーマンの妻が、トゥルーマンを励まそうと、

「このニカラグア産のココアはとてもおちつくわよ。私は大好き」みたいなことを言う。これも、完全に宣伝である。

だけどこれは、案外、身近なことでもある。一番わかりやすい例はアフィリエイトだろう。誰かのブログを読む。すると、広告が添えられていたりする(私はブログを書くのが好きだが、そう言うのが嫌だったから、個人的にはアフィリエイトをやらないと決めている)。ツイッターやインスタグラムにしても、今の世の中、「トゥルーマンショー」に出てくる広告の不気味さは、不気味さを伴うことなく、日常に溶け込んでいる。リツイートすれば何かが無料になるからリツイートしたり、ハッシュタグ投稿で割引になるからハッシュタグ付きで投稿する。もはや宣伝は一般人が行う時代だ。「トゥルーマンショー」を見ながら、「ああ、これはテレビ番組の中だからこうなのだな」とあながち片付けられない世の中になった。

まあそれはそれで。

別の話が、私にとってはもっとポイントだ。

 

それは、冒険に関わる話である。トゥルーマンが冒険を企てるにつけ、いろいろな手段で冒険を止める人が出てくる。子供時代のトゥルーマンが、

「将来の夢はマゼランみたいな探検家になることです」というと、すかさず先生が、

「でも今は世界中どこも探検され尽くされてしまってるわ」という。

これって、この映画だけだろうか、ということだ。間違いなく、その答えはNoだろう。現実世界では似たようなことがよく起こる。例えば、俳優になりたい、とある少年が口にしたとしよう。すると、多くの「大人たち」はすぐさま、あれが大変だ、これが大変だ、なりたい人はたくさんいる、その中でも成功するのは一握りだ、と「鎮火」にかかるわけだ。経験したことがある人もいるかもしれない。

プロデューサーのクリストフは、「普通の暮らし」を、そして安全で、快適な暮らしを、テレビ番組の中でトゥルーマンに与えている、と言う。だが、これはテレビだけではない。社会というものは、ある一定の基準とある一定の定義に適った「普通の暮らし」というものを生み出し、私たちにその中に閉じ込めてしまう。多くの場合、私たちは必死にその枠内に止まろうとするだろう。だけど、拒絶したくなる場合も当然ある。そういう時、枠外へ向かう若人の背中を押す人は稀で、枠内に引き戻そうとする動きが強くなる。いくら、その若人にとって「普通の暮らし」が性に合っていなくても、だ。これはそのまま、「トゥルーマンショー」において起きていることと重なる。

映画の最終局面、父親が「溺死」したという最初の「設定」のせいで水がトラウマになっていたトゥルーマンが、そのトラウマを乗り越え、ヨットで海をも乗り越えて、スタジオの出口までたどり着く。その時、クリストフがトゥルーマンに対してこう呼びかける。

「外の世界より真実があるのは、私が創った君の世界だ。君の周囲の嘘、まやかし。だが君の世界に危険はない。私は君の全てを知ってる。君は怖いから外に出て行けないんだ。いいんだ。よくわかる。君をずっと見てきた。(中略)君は逃げ出せない」

それは「父親」の言葉そのものだろう。だがそれだけではない。多くの人がこぞってそれをいうこともある。そういう意味で、確実に、クリストフの作った世界は「リアル」だった。もちろん、そこで描かれる「普通の暮らし」はリアリティがないものなのかもしれない。良い妻、良い母、会社のオフィス……毎日続く日々は不気味に作り物めいている。だが、私たちが日々「現実」だとして提示されるものもそんなものではなかろうか。そして、そこに縛りつけようとする力そのものは紛れもなく現実に存在する。

トゥルーマンがそれに対して、どのような決断をするのかは、言わないでおこう。だが、一つ言えるのは、クリストフはひとつ間違いを犯していたことだ。

私たちは現実世界において、ある種「普通の暮らし」を大事に守っている。なぜなら、その枠をずれたら、大きな抵抗力が働くからだ。もちろんそれを打ち破ることができる人もいる。それを打ち破る手助けをしてくれる人もいる。だが、支援者に出会うことは本当に一握りの人にしか起こらないだろうし、心を強く、先へと進む力を持った人も、やっぱり少ない。だからきっと才能云々の前に、そういった踏み出す勇気などが必要なのだ。だからこそ、私たちはテレビ番組にせよ、映画にせよ、心の底で、「閉じた社会」を打ち破る力を期待している。その物語が、私たちを救ってくれるからだ。芸能人がある輝きを持つとすれば、それは容姿だけでなく、やっぱり、「普通」とはいえないその世界に、一歩踏み出した人だからだろう。クリストフはトゥルーマンの「世界」を保全し続けようとしたが、視聴者が望むのは、きっとそういうことではなかったのである。もちろん、娯楽の上で、ということではあるが。

 

面白い映画だったが、あんまり「ご覧あれ」とかいうと、それこそ「トゥルーマンショー」の劇中広告みたいで気味が悪いのでこれ以上何もいうまい。

KEEP YOUR HANDS ''ON'' 最強の世界

漫画がヒットすると、決まってアニメ化や実写化の話が舞い込む。キャストも豪華になって、宣伝も大いに行われる。だが悲しいかな、大抵の場合はうまくいかない。「漫画原作の実写」というと、今では一種「地雷」のような扱いを受けるし、その主人公を演じるのがアイドルとなると、世間様の目はかなり厳しいものになる。

それは多分、原作の持つ世界観は、原作の「漫画」というメディアにおいて成立しているもので、それを実写に入れ替えると、不自然になったりするからだ。そして、なにより、漫画が何回もかけて丁寧に描いてきたものを、たった二時間ちょっとに落とし込むのは無理があるわけである。キャラクターを省いたり、ストーリーを省いたりして、原作ファンの顰蹙を買ってしまう。

そういう意味で、ドラマと映画タイアップで行われた「映像研には手を出すな!」の実写化は稀有な存在である。今をときめくアイドル三人を主人公に据え、独特な世界観の原作を描く、という「地雷」を踏むような行為に果敢に挑みながら、単なるアイドル主演作品・単なる話題の漫画の実写版では終わらせないのだから。

この作品はむしろ漫画『映像研』の新解釈であり、出演者・製作陣それぞれが『映像研には手を出すな!』という作品の世界観と向かい合い、独特の色合いをつけていった作品として捉えることができるだろう。面白いことにアニメ版もまた、別の方向性から新しい解釈を突きつけながら制作されているから、「映像研には手を出すな!」に「手を出す」ということは、ひょっとするとそういうことなのかもしれない。

 

 

舞台は「芝浜高校」。普通の学園ものであれば、これだけ説明すれば舞台の説明になる。だが、「映像研」は違う。「芝浜高校」は水路の上に建てられ、建て増しを繰り返した挙句に、複雑怪奇な形となった、広大な敷地面積を持つ学校である。

それだけでも「フツー」じゃないのに、学校の内部事情もかなり独特だ。部活動が異常なほどあるのである。実写版では「413の部活動と72の同好会」があると言及される(ドラマ版での設定。映画版ではさらに増えていた)。それを取りまとめる「大・生徒会」もまた普通では考えられないような権限を持っていて、「警備部」「監視部」「校安警察」などの暴力装置をつかって生徒を取り締まることもある。

そんな「独自の世界」を形成する芝浜高校に入学した浅草みどり、金森さやか、水崎ツバメの三人が主人公である。

浅草は壮大な世界観、「最強の世界」を空想してゆくことが好きで、それをアニメという形で実現することを夢見ている。そういう意味で彼女にとってはフツーじゃない世界観を持つ「芝浜高校」は格好のインスピレーションの源である。しかし極度の人見知りのためアニメ系の部活に入るのを尻込みしている。また、設定を創り上げることには長けているものの、人物画は苦手であり、おそらくそれも、アニメ制作の一つの障害となっている。

一方、水崎は、この世界にある「動き」を絵で表現するアニメーターに憧れを抱いているが、有名俳優を両親に持っていて、家業を継いでほしい父からアニメーターになることを反対されている。アニメ制作で言えば、人物は得意だが、設定を細かくつけたりすることはあまり得意ではないように見える。

金森は浅草の中学時代からの知人(二人とも変わっているので学校生活に馴染んでおらず、「共生関係」にある)で、アニメのことはよく知らない。だが無類の金儲け好きで、なおかつ、「金を生み出す行為」が好きである。だが本人は頭が切れるものの、「創作」に向いているとは言えない。

この三人が出会うことで、物語は始まる。表立って「アニメ研究会」に入部できない水崎のため、三人は「映像研究同好会」というなかなかスレスレの同好会を組織。曰く、映像系の部活は枝葉ばかりが伸びてしまっているが、今必要なのは幹となる「王者」である、と弁の立つ金森はうそぶいている。かくて、プロデューサーを金森、監督を浅草、アニメーターを水崎が点灯する「映像研」が爆誕する。

だが、これは「大・生徒会」に目をつけられることになる。何せ部活が合わせて500ほどあるのだ。管理ができない。「大・生徒会」の目下の課題は部活動を減らすことだった。この期に及んで、同好会の新設などもってのほか、というわけだ。やることなすこと「風紀を乱す」と言われ、「パブリックエネミー」と糾弾される。

本作では、この「大・生徒会」に対する「映像研」の一種の「政治闘争」と「革命」を描きつつ、三人の創作活動を通じた、彼女たちの「最強の世界」への冒険を描いてゆく。

 

 

漫画『映像研には手を出すな!』は同時期にアニメ版と実写版が作られたが、アニメ版ではさすがにアニメーターが関わっているだけあって、アニメ制作の描写が細かく、リアルに描かれ、強調されている。だからこそ、作中で水崎がいう「アニメーターは立派な役者なんだよ」というセリフが印象的なものになる。

 

一方の実写版の魅力は、別の部分にある。それはなんといっても「最強の世界」だ。

「わたしは設定が好きなんす。最強の世界を描きたいんす」

これは主人公浅草の言葉だが、思い返してみれば、この実写の製作陣の意気込みでもあると思う。つまり、この実写版では、原作やアニメではあっさりと出てくる、あるいは全く出てこないような「設定」を作り込んでいる。大・生徒会のシステム、学校内部の構造、そして物凄い数の部活動の数々。野球部が分裂して内野部と外野部に分かれたり、「水路の上の学校」という設定から上水道部と下水道部の対立という話が描かれたり、映画版では「気象部」なる部活も登場するなど、「映像研」のストーリーを描く上では「それって必要?」と思われるところにまで設定がつけられている。

面白いのは、そこまで徹底した設定作りのわりには、教職員や授業、といった高校生の日常の大半を占める存在は、極端に登場回数が少ないという点だ。アニメ版では描かれていた映像研三人の家庭も必要のない部分はカットされている。その結果、この作品を見ているとこれが高校を舞台としたいわゆる「学園モノ」であることを忘れてしまう構成になっている。

「学校は社会の縮図じゃねえよ。独自の世界だ」

というような台詞が映画で登場するが、まさに「芝浜高校」は「高校」とはいえど、「独自の世界」になっている。権力があり、地下組織もあり(これが原作等に出てくるのか私はまだ知らない)、それぞれの人は「部活動」を中心に生きている。それゆえに、実写で描かれる「芝浜高校」には、高校を舞台とすることででてくるステレオタイプはほとんど存在せず、独自の壮大な舞台、いわば一つの国がある。「映像研」は差し詰め、そんな一つの国の中で孤高に戦う反逆児たちなのだ。

 

だが、設定をつけ、それを拡張するだけでは、やっぱり「最強の世界」にはならない。浅草一人では「何もできない」のだ。これが一つの映像作品として「最強の世界」となるには、そこに人物描写は欠かせない。それも「リアルな」人物描写が。

だから、この実写版で描かれる人物にも細かやかな視線が向けられる。主人公三人はもちろん、大・生徒会の面々もそうだ。ドラマ版ではどちらかというと「敵役」だった「大・生徒会の影の実力者」さかき・ソワンデ書記の描写は見事である。基本的には権力者なのだが、頭が切れる金森のことも一目置いていて、「映像研」が何かを変えてくれるんじゃないかと心の底で期待しているように見える演技はなかなかのものだ。

もちろん、他の人物もそれぞれが個性を持っていて、「シンゴジラ」に匹敵する数のキャストがそれぞれ「有象無象」にならずに成立している。ドラマ版などは、「映像研」のストーリーというより、芝浜高校群像劇の様相すら呈している。

 

だがやはり、映像研の三人の描写も無視するわけにはいかない。

実写版では、アニメ・実写以上に、三人がいわば「欠損」を抱えた存在であるように思う。もちろんその分、才能もあるわけだ。

浅草は壮大な世界観を生み出し、その世界観に誠実に、妥協は許さず、「やり直し」も辞さない強い意志を持って作品と向き合うことができるが、ときに設定を突き詰めることで自信喪失に至ったりするし、コミュニケーションも苦手で、何よりも、世界観を生み出した後、物語を紡いでいくことができない。

水崎は強いこだわりを持って「動き」を描写することができるが、浅草の作る設定がないと、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。

金森は交渉やスピーチに長けていて、頭が切れる一方で、プライドは高いし、そもそも「創作」となるとからっきしだ。

この三人は結局、「たった一人では何もできない」人たちなのだ。だがすごいのは、三人とも、どこかで自分の限界点を知っているということだ。無理なことには「無理」と言えるということだ。それは、三人がそれぞれ信頼しあっているからできることでもあり、これは漫画的な「友情」とはちょっと違うものとなっている。

 

例えば、設定を突き詰めて行った結果、今まで作っていたものに急激に浅草が自信を失うシーンがある。この時、金森と水崎はおそらく、浅草の悩みを共有してはいなかったと思う。金森はプロデューサーとして製作を止めるわけにはいかないし、水崎は設定にまでは目がいっていない。だが、もしこの時三人が悩みを共有していたら、企画は潰れていたかもしれないのだ。金森と水崎は浅草の作り出す世界に惚れ込み、信頼している。だから、金森は「あんたが好き勝手やるしかない」と浅草を鼓舞するのだ。

だからこれは馴れ合いの友情ではなく、信頼感・緊張感を伴う関係である。だから(少々ネタバレになってしまうが)水崎の母に娘の「お友達」かとたずねられた浅草はこういうのだ。

「いいえ、仲間です」

これは漫画やアニメでも描かれた話ではあるが、実写ではより「弱さ」が見えるようにできている気がする。それは人間描写をリアルにし、漫画から出てきた三人の奇妙キテレツなキャラクターが、どこか実際にいそうな存在になることを可能にしている。

 

要するに、だ。実写版「映像研には手を出すな!」は、ドラマ・映画合わせて、それが全体として「映像研」ワールド、「芝浜高校」ワールドという「最強の世界」の表現になっている。いわゆる「メタ的」な構造を有しているのである。映像を見ていて、引き込まれていくのを感じるのは、テレビ画面ないし銀幕に映し出されるそれが「最強の世界」だからなのだ。実写版はそのものが「最強の世界」になってしまったのだ。劇中に出てくる「気合、入ってます!」とは製作陣の叫びでもあると思う。

 

さて、本作は人にインスピレーションを与えるような作品だから、書こうと思えばもっと書けるのだが、あんまりやりすぎると野暮になる。もしかすると現時点でもはや野暮かもしれない。

だが最後にもう一つ触れておきたいのが音楽だ。

アニメ版で、映像と音楽を合わせることの重要性に触れられているが、実写版は実際に用いられる音楽の素晴らしさでそれが伝わってくるのだ。音楽は雰囲気を作る。そういう意味で「映像研」の楽曲は、ただならぬ雰囲気をつけている。ただの「エモい」曲を無造作に使うのではなく、メインテーマはロック調だったり、映画で登場する黒澤映画のオマージュのシーンで流れる曲は黒澤映画風だったり、本気で作ったサウンドトラックだなと思う。

主題歌も良い。

ドラマ版の主題歌Heavenly Ideasは、最強の世界に挑む三人の姿をロック調に演出し、「大・生徒会」から「パブリックエネミー」と名指しされながらも自分たちの創作を続ける三人の「反逆児」的な部分を強く押し出す。

映画版の主題歌「ファンタスティック3色パン」は最初聞いた時はポップで可愛いすぎないかと思ったが、エンドロールで改めて聴くと、三人の性格や「仲間」という関係に焦点を当てているように思った。前者は「最強の世界」、後者は「人物描写」というべきか。

 

 

思えば、「映像研」を知ったのは、友人が「面白そうだ」といっていたときだった。確か、アニメ版について、そういっていたはずだ。だが私は深夜アニメを見たことがなかったし、あまり興味を持てなかったように記憶している。それは「三人の女子高生がアニメ作りに奮闘する」作品だと思っていたからだった。この説明が間違っているわけではないが、あまり興味が湧かなかった。

結局のところ、実写にせよ、アニメにせよ、原作にせよ、「映像研には手を出すな!」という作品は、手を出してみないと魅力がわからない、というべきか。

そういう意味では、こうやってブログで記事にするには厄介な存在である。