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旅、映画、食べ物、哲学?

ロスト・イン・新宿〜街は生きている〜

散歩の面白さの一つは、知っている町が知らないところにガラリと変わって見えることにある。私たちが普段歩く道は、ほとんどの場合、目的地に行くための最短経路だから、見逃している景色がたくさんある。しかし散歩には多くの場合目的地などないのだから、どこにだって行ける。だから散歩というのは、自分の目に覆った必要性のベールを剥がす一つの機会でもあるのだ。なんてことはない、普段左に行く道を右に行ったりすることができる、ということである。

 

この前、暇を持て余していた私は、四谷から新宿まで歩いてみることにした。本当のことを言うと、そのルートはよく歩くところである。常連と言っていい。そんな惰性もあって、私は新宿大通りを歩き出したのだが、途中で、同じことばかりしていてもつまらないなという考えにとりつかれてしまった。あまり元気のいい日ではなかったし、まあ適当に新宿を抜けて大久保に行くか、とも思ったが、どうしても道を逸れたいという欲望が頭を占めてゆく。

新宿に近づき、あと少しで世界堂というところで、私は右に曲がることにした。その曲がり角の向こうにあるタリーズでコーヒーを飲んだことがある。昔の話だ。新宿を歩き尽くそうとしていたが、あれは夏の日のこと、ヘトヘトになってアイスコーヒーを飲んだ。当時私はコーヒーはホットに限ると思っていた。そこで飲んだアイスコーヒーはそんな妄執からの独立の象徴である。

そのタリーズの先には、商店街のようなものがあって、そこも見たことのある世界だった。友人と別の方面から歩いたことがある。いくつか個人経営の食べ物屋があって、入ってみたいなと思いつつ、前回来た時も昼食を食べたあとだった。「も」と言ったように、今回もしっかりカレーを食べたあとだった。まあ仕方がない。そういうものだ。そういう星のもとに生まれたに違いない。

そこを抜けると、大通りが横に走っているのが見える。柳の並木がある。そこもまた昔散歩したところだ。そしてその道を進めば難なく新宿に着く……だが、私の胸の奥は煮えたぎっていた。敷かれたレールを行くんじゃない、と。新しい道へ行くんだ、新しい街を見るんだ、今までは覆い隠されてきたものを見つけに行くんだ……

そういうわけで、私は直進することにした。それを元気付けてくれたのは人通りだった。大通りを渡ると、知らない道が伸びていて、そこは一見すると何もなさそうなのだが、やけに人の出入りがある。いったい何があるというのだろう? 「どうせ何もありやしない」という右肩に座る天使もあらわれぬまま、私は路地に入る。

予想外に、そこは開けた場所だった。道が一気に広がって、広場のようになっており、店も並んでいて、子供達が遊べるようになっている。実際子供連れもたくさんいる。ベビーカーを押す母親の前を子供が先を急ぎたそうに走っている。家族なのか、そうではないのかよくわからないおじいさんが子供に話しかける。まあ結局のところ、家族だろうがそうでなかろうが、そこにいるのは常に異邦人だ。

広場の入り口のケララ、というカレー食堂が目に入る。あいにく昼は食べてきた。私は先に進むことにした。広場はとてもいい雰囲気で、どこか既視感がある。さて、なんだったかなと、考えているうちに思い出した。それは、私がマドリードで泊まっていたオスタルの近くにあった広場だった。あそこも路地が開ける形で展開しており、憩いの場になっていた。あまり治安のよくない界隈に軽やかな風を取り入れるような場所だ。あそこのバルはいつも閉まっていたからついぞいけなかったな、と思いながら、私は新宿に心を戻し、先へと進んだ。

広場を超えると、道はまた狭くなる。今度は人通りも少し少なくなり、住宅街の様相を呈している。まるで食道のような路地である。胃のところで膨らんで、それで、また管が続く。私はどこへ運ばれるのか。街はやはり生きている。

 

住宅街の中を突き進む。途中でガスの工事をしていたり、そこを買い物帰りのお母さんおばあちゃんが歩いていたりする。すぐそばにバハーイー教の施設があることも、さらには新宿高層ビル群があることも忘れるいうな光景だ。とはいえ、高台となっているこの地区からは、時々、「新宿」が見える。その度に、新宿はミニチュアになる。

どこにいくのかあてもないので、前を歩く人を水先案内人に勝手に任命して歩いていると、商店街らしい看板が左側にあったから、そちらに向かった。商店街があるようにはとても思えないのだが、看板だけが生き残っているのだろうか。

中に入ると、そこは、過渡期のような状態だった。一部店が残り、一部住宅になっている。豆腐屋があるかと思えば、紳士服屋もある。よくもまあこんな細い路地に商店街をつくったものだ。

何かこだわりのありそうなパン屋は盛況。

料理屋と思しき店の店先でおじいさんが座り、道行く人を見ているのは、東南アジアを思わせる光景。

しばらく歩くとガレージのようなところで女性ものの服ばかりを売る店を見つけた。ラジオの音を垂れ流していて、その雰囲気がとてもノスタルジックだ。

上に目をやると、細い路地に囲まれて、青い空が見える。

 

思いがけず楽しかった商店路地を抜けたら、またもや大通りだ。しかもこれはちょっと変わっていて、二股に分かれる付け根のところに出た。付け根のところには神社があり、面白いことに、通り抜けができる神社だった。これは行ってみたい。道路を渡って、お参りといこう。

この神社はどうやら弁財天に捧げたものらしい。「抜弁天」というらしいが、読み方はわからない。厳島神社と関係があるようで、厳島神社と書かれていた。タイムズスクエアでいえばコカコーラのポジションにある神社はあまり見たことがなかった。しかも、入り口が二つある。さっき言ったように、通り抜けができるのだ。

中に入ると、通り抜けられる道が横たわり、それに交差するように、小さな山道があって、一本道の方向に神社があった。さすが厳島神社、その神社のまわりは水で覆われている。龍の彫刻が神社を守っている。こんなところに、こんな神社があるとは。だから散歩はやめられない。あの時直進しなければ、私はこの神社を一生目にすることはなかっただろう。神社というのは面白いもので、ひっそりとして、街の中に異空間を作り出す。この異空間に入ることができたことに敬意を表し、一礼して外に出た。

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向こう岸に渡ると、ランドリーショップがあった。洗剤とお湯の匂いが排気口からは流れてくる。なんとなく懐かしい香りがする。旅をするとランドリーショップによく行く。というか、いかざるをえない。治安が悪そうだったアテネ、ランドリーが見当たらなかったハノイは別として、大抵はコインランドリーで済ませたが、そこの匂いは古今東西同じである。洗剤、お湯、ちょっとむわっとした空気。無関係な人たちが口を聞くこともなく交流する場所。新宿でもドラム式洗濯機はゴーゴーと回っていた。

さて、次はどこに行こうか。抜弁天に満足して新宿に向かうか。それとも……。「それとも」のほうにかけたかったが、どこに行ったらいいかわからない。あまりよろしくないが、一応、道端にあった広域避難マップで自分の位置を確かめた。すると、この道に交差している路地を進めば大久保につくようだ。ではそっちをためしてみよう。結局知らない道なのだから。私は「総務省はこちら」というようなことが書いてある看板のある路地に入った。入りやすそうだったし、総務省霞が関のイメージがあるので、ちょっと謎だったからだ。

路地を歩くと、そこは住宅街という感じだった。それもかなり閑静だ。この道は何もないかもなと思っていると、電柱に貼られた広告に目が止まった。「東京バハイセンター、ここを左折」。行ってみることにした。

 

バハイというのは、バハーイー教のことだ。バハーイー教というのは、シーア派から分離し、自らをマフディー(救世主)であるとしたバーブが作ったバーブ教を、さらにバーブの弟子で預言者を名乗るバハーウッラーが発展させたものらしい。イスラームの正統教義ではムハンマドが最後の預言者であり、それ以降は預言者が現れないことになっているから、バハーイー教は異端も異端、というか異教である。そのため、バハーイー教は19世紀に生まれてから、ペルシア、イランでは迫害の対象となってきたらしい(バーブは処刑されている)。それではやばい新興宗教なのかというと、調べれば調べるほど、そういう感じはしない。世界平和を歌い、あらゆる宗教の融和を訴えている(というか、クリシュナ、モーゼ、釈迦、イエスムハンマドなどはみな預言者だという)。教育の普及、貧富の差の是正、男女差別反対を掲げているのも面白い。また、民族主義を乗り越える、という意味で、同じく19世紀に起こったエスペラント運動(ポーランドユダヤ人眼科医ザメンホフにより作られた人工的な国際語の普及運動、日本では新渡戸稲造が関わる)との関係もあるらしい。

なんとなく調べていたら出てきたもので、なんとなく興味があったから、まさか道端で出会うとは思っておらず、驚いた。後で調べたら日本でも藤田左弌郎という人物が伝道したいたようで、東京にもバハイセンターがあるようだ。

左折して、しばらく歩くと、これといって特別とは言えないような施設があり、そこに「バブ生誕200周年」という横断幕がかかっているから、たぶんそれがバハイセンターなのだろう。創価学会幸福の科学のような豪奢な施設を想像していたからちょっと拍子抜けしてしまったが、よく考えてみれば日本のイスラームの施設も、東京ジャーミーなどを除けば、こういうビルにあるのが普通である。マスジド大塚も似たようなところだったし、大久保に至っては魚屋の二階である。そのほうが、豪奢な建物でアピールしてくるより好感もわく。

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中に入る勇気もないので、外から眺めて、散歩を続行した。

道はくねくねと曲がっている。家々が並び、のどかな生活感あふれる地区。すぐそばにバハーイー教の施設があることも、さらには新宿高層ビル群があることも忘れるいうな光景だ。とはいえ、少し高台となっているこの地区からは、時々、「新宿」が見える。その度に、新宿はミニチュアになる。階段が見えた。さきほど「階段あり、四輪車通り抜けできません」と書かれていたが、てっきり下りの階段だと思っており、目の前の階段が登りだと知って少し驚いた。仕方ない、登ろう。 

階段を登っても、目の前には大きな橋のようなものがあった。どうやら、住宅街を巨大な道路が横切っているようだ。突然都会に引き戻される。私は道路たどり着くための坂道を登った。すると、風景は明らかに都会である。道が右に進めといったので、私は右に向かってみた。何やら公民館のような建物があるが、びっくりするくらいでかい。

さて、でかい道路をまっすぐ歩くと、総務省の施設があった。既視感がある。きたことがあるのだろうか? 真相はわからないが、なんとなく、呼ばれたような気がして道を渡った。

 

少し歩くと、団地に囲まれた広場が見えてくる。この団地が面白いのは、一階部分が店になっていることで、ラーメン屋やら薬局やらが並んでいる。私の脳裏にはスペインの国境の町イルンが浮かんだ。あそこもまた、こんな風景だった。広場は公園になっていて、子供が遊び、老人がベンチに腰掛けている。地面は鳩でいっぱいで、えさやりをする人がいる。住人である、ということが強い意味を持つ、こうした団地の真ん中に異邦人として足を踏み入れると、ちょっとした緊張感がある。だが、自分は異邦人なのだ、という実感のは心地がよかったりもする。団地に意識を戻し、そののどかな空気感を見る。こんなにくつろげる場所が新宿の奥地にあることを私は知らなかった。

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犬の散歩をする人を横目に、広場をうろついていると、広場には続きがあることを知った。下り坂があって、その向こうは大規模な公園が広がっているようだ。木々はこっちに来いと呼んでいる。私は一つ返事で坂道を降った。

こんな団地の真ん中に森があった。それだけで面白いのに、さらに面白いことに、森の中には割と「いわゆる」という形の教会があるではないか。都会の中の、団地の中に、山梨県がある。そんな状況だ。それにしても平日の昼だ。森の中にいるのは小さい子供とママ友たち、そして老人達だった。だがそれでも驚くのは、この森にはかなりの活気があるということだ。もっと閑散としていてもおかしくないのに、大人気である。

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土と木の匂いを吸い込みながら道に沿って歩いているうちに、教会のある高台のさらに上に、「箱根山」という小高い山というか丘があることを知った。私は登ってみることにした。なぜかって? そこに山があるからだ。

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山に登る階段は人気がなく、頂上も人気がないことが想像された。それもいい。高いところがあれば登りたいし、登ったからにはゆっくりとした時を過ごしたい。閑散としているくらいがいい。私は階段を駆け上がった。嘘だ。駆け上がってはいない。だが、気持ち的な問題だ。駈け上がるかのように登ったのだ。

頂上に上がると、地図の右端においてあるような方位を示すマークが書いてある。そしてベンチもある。頂上に立って、地の果てまで眺めてやろうかと思ったが、「させねーよ」と木が立ちふさがっている。こちらが迂闊だった。人間ごときがそんなこと、許されないのだ。嘘だ。また嘘をついた。兎にも角にも、こうやって上から何かを眺めるのは好きだ。理由はわからない。だけど、不思議と多くの人は似たような気持ちを抱いているに違いない。そうでなければ展望台なんて地球上から消え去ってしまうだろう。それでも皆、眺めたいのだ。

しかしそれにしても、こうやって上から街を見ると、自分がやっぱり都会の真ん中にいたことがわかる。この一帯には住宅街が広がっているが、少し先に行くと高層ビル群。神奈川出身の友人が「東京に人は住んでないと思ってた」と言っていたのを思い出す。私は東京に住んでいるが、確かに新宿や千代田には人が住んでいないと思っていた節はある。だがこうしてわかるのは、気付かないだけで新宿もまた人が住む街なのだということだ。そして人が住んでいる以上は、この街は生きている。

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山の上で沢木耕太郎の本を読んだ。その時、私は一つのことに気がついた。今読んでいる本は、「まだ読んでいないな」と思って買ったのだが、読んでことがある本だったのだ。どうして中盤まで来てやっと気づいたのだろう。多分、本というのも散歩と同じで、ある時には気付かないものが、別の時に読めばありありと見えてくるから、なんども読めば、その本は毎回別の本のごとく新しいのだろう。面白いではないか。

その時、山に少年が登ってきた。別にその場にいてもよかったのだが、たった一人で登ってきた少年の、山を征服した喜びを減じたくなかったので、私はそそくさと山を降りた。頂上にいるのは一人でいい。

 

山を降りたら、そろそろ大久保に行こうという気になった。雑然とした街、大久保は私のお気に入りの界隈だ。以前アルバイトで受け持っている小学生に「大久保ってめっちゃ汚くない?」と言われ、「そうだね。そこがいい。あの街は最高だ」と返したら、ドン引きされたことがある。だが、街には独特の、住人の手垢みたいなものがあって、汚さは人が暮らしている象徴でもある。そしてそこにこそ、魅力があると思うのだ。

そういうわけで、大久保通りに出ようと思ったわけだが、公園の中にいると方向感覚が狂ってくる。もしかしたら、この公園はやはり都会の中の異世界なのかもしれない。私の中の方位自身は完全に狂ってしまった。

公園を徘徊し、

出口を見つけ、

外に出てみても、

自分がどこにいるのかわからない。おかしいぞ、と広域避難マップを見てみると、真逆の方向にいるではないか。まあ、大久保に行かないといけないわけではないのだが、一度大久保だと思ったら、もう大久保に行かずには済まされない。

私はもう一度公園を突っ切ることにした。

公園の入口を抜け、木に囲まれた遊歩道を歩くと、遠くの方から歌声が聞こえる。大友康平をさらにデスヴォイス方向に持っていったような歌声で、アコースティックギター一本で歌っている。遠すぎて歌詞までは聞き取れないが、その振り切った歌声がいい感じだ。私はベンチを見つけて、その声を聴いていることにした。どうやら、道路を挟んで向こう側にあるもう一つの公園から聞こえてくるようで、目をこらすと、ギターを持った人が地べたに座っている。

何をするわけでもなく、ちょっと肌寒い風に震えつつ、大友氏の弾き語りを聴く。この公園は、日々の息苦しさから離れている。風通しがいいのだ。

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歌が終わったので、私は大久保通りをめがけて歩き始めた。

 

私が始めに遭遇した団地前の広場を通り過ぎて、外に出ると、私が歩いてきた道こそが大久保通りだったことに気づいた。そして、私は大久保とは逆方向に歩いていたようだ。「なーんだ」と思いつつ、逆方向に歩かなかったらこの公園にたどり着かなかったのか、と思い、偶然性の面白さをかみしめた。

大久保通りは坂になっている。降れば大久保、登れば未知の世界。だが今日は大久保に行こう。坂を下ると、住宅街を見下ろすように架けられた巨大な道を通ることになる。下に見える住宅街は商店路地があった場所だ。この街は想像以上に面白い。

それにしても、右側に見える公園は思いの外でかい。途切れることなく公園はある。時に団地も現れるが、その雰囲気は、「団地の中に公園がある」というより「公園の中に団地がある」という様相を呈している。ほぼ全体が公園である。

しばらく歩いて、やっと公園の端にたどり着いた。入り口の前も広場になっていて、タバコを吸うおじいさん、遊ぶ子供が共存する世界である。台湾で似たような雰囲気を見たような気もするが、思い違いかもしれない。私はトイレを拝借し、大久保に行こうかと思った。だが、公園と大久保の境目に小さな商店街があった。万国旗が空を覆っている。なんだこれは、面白くないはずがない。

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商店街自体はしまっている店も結構あった。だが、活気がないわけではない。行き交う人もあれば、空いている店からは食べ物の匂いがする。

カレーの匂いがするな、と思って見てみると、お弁当屋だ。インド国旗などは掲げられていないが、完全にエスニックの匂いだ。店員の方も多分南アジア系である。店名は「希望」、ガラスには、「HOPE DREAM LOVE PEACE」。なかなか攻めている。一度入ってみたかったが、あいにくお腹は空いていない。

独特の雰囲気が楽しい商店街をぐるりと一周した。一周、というのは、この商店街はとある団地にあるような一つの建物の周りがぐるりと商店街となっているので、全部回るには一周しないといけないのである。もう少しわかりやすく言うと、建物の側面に焦点が並んでいるというべきか。とにかくこの商店街は万国旗で飾られ、活気もある。この辺りに住んでいたら、とてもいい場所だろう。というか、この辺りに住みたいものである。

 

商店街を回ったので、私は大久保に入ることにした。大久保は通常通り楽しかったので、この辺りでおひらきにしよう。

それにしても、この日の散歩は面白かった。新宿区から出ていないにもかかわらず、まるで異世界のような場所がたくさんあった。要するに、私には見えていないものがまだたくさんあるということだ。

ちょっと違う見方の練習

それはカナダに行ったときのこと。

モントリオールのショッピングモール回りをする企画には興味が持てなかったので、わたしは一人、街に出ることにした。適当に歩いたりしながら、わたしはある公園にたどり着いた。今でも名前を覚えているが、それはサン・ルイ公園という名前で、そこにはちょうどいいベンチがあった。ベンチに座り、池を見たり、空を見たり、あとは……持っていた本を拾い読みしたりしていた。

ちょうどわたしと同姓同名異漢字の俳優がテレビや映画に顔を出すようになった時期だったため、わたしは名前を名乗るだけでちょっとした騒ぎを受けていた。そんなとき、公園でエッセイを開くと、同姓同名についての話が書いてあった。おもしろいものだ。まるでリンクしているみたいで。まあこれについては別に、今書きたいことではないからよいのだが、あの公園での時間はちょっとした瞑想のようなもので、本の世界、自然の世界、人間の世界は行ったり来たりできるような感じだった。

エッセイも読んだが、井筒俊彦の『意識と本質』も読んでいた。そこにはよく、言葉などに切り分けられることのない世界の話が書いてあった。そうした話にリアリティを感じていたかといえば、そうではなかったと思う。それよりも前に読んだベルクソンの「哲学入門」にしても、リアリティはなかった。だが、それ以上に感じられたのは、違うリアリティの提示というか、別の世界への招待だった。本の中から出てきたベルクソン井筒俊彦の語るイブン・アラビーは、色彩豊かで魅惑的な新しい、かつ、信じられる世界を提示していた。わたしはそれが見てみたくなった。見てみたくなった時は、公園の青空を見上げるのだ。青空にうっすらとかかった木の葉は揺れている。「木」の「葉」が「風」に揺らされているのか? いや違う。緑が煌めいている。

 

そうしているうちに(もちろん意識的に見方を変えようとしているうちに、だが)、今までの見え方とは違うようなものが見えたような気がした。わたしはこの世界から孤立していない。そういう風に見えた。あらゆる感覚的データの区別がどうでもよく感じられた。すべてを混ぜこぜにしても通るような感覚だ。風は柔らかい。私はその風の色を聞く。それはリアルな経験だった。もちろん、ずっと続くものではない。だがその経験があることで、私たちは何かにとらわれているにすぎないように思えてきた。

もちろん、それはまやかしかもしれない。だが、それはただの神秘体験とは違う。そこには神は姿を持って現れることはないし、魂の不滅さなどといったことは何の革新もない。どちらかといえば、それは領域侵犯の練習だ。私たちはこの世界を見るとき、あまりに輪郭を意識しすぎる。「わたし」「木」「空」「雲」……あえて無視してみる。

「あえて」でもいい。とにかく無視する。「もし仮に、木が「木」ではなかったら?」「木は地上で空気を摂取する。地下では養分を摂取する。だが「摂取」とはなにか? 私たちは血液を摂取しているだろうか? 突き詰めてみれば木が木として存在し、土や空気と区別されるというのは私たちの側が立てている区別にすぎないのではないか? それじゃあわたしも孤立していないのではないか?」リアルはそのままに、全く新しいものを顕現させるのではなく、このときわたしは輪郭を取るに足らないものとして考えようとしている。これは一種の修行のようなものだ。やるべきことは、輪郭線、グリッド、枠……言い方は何でもいいが、そういったものを一度取っ払うことだ。世界はそのままなのに、それだけで見えるものは変わってくる。固まっていて、未来も皆決まっているように見える世界は、一気に流動的になる。あらゆる制限は、無意味になる。私たちは厭世的になることなく、新しい世界に足を踏み出せる。

 

23時50分の想い

「なぜ研究者にならないのか?」

とよく尋ねられる。私は今大学院にいるからだ。だが「大学にいても儲からない」「研究者になるのは難しい」等のよくある理由は私には思い浮かばない。そもそも、実を言えば、私はすごく大学院に入りたかったわけではない。

 

哲学の本は、時に苛立たせることはあっても、面白い。とはいえ私にとっては、物理学にせよ、歴史にせよ、文化人類学にせよ、面白いのだから、実を言うとそんなに哲学限定というわけでもない。勉強するのが好き、とは絶対に言いたくないが、何らかの知識に触れていること、そして自分であれこれと思うところを形作ってゆくのは多分好きなんだろう。私は常に「この地球に生まれ落ちて、輝く光に出会う、生きる歓び求めてゆく、この世界を受け入れたい、この世界を理解したい」という状況にあるのだろう。旅に出るのも、そこに向かわせるのは、同じ何かだろう。

そんな感じだから、大学院という場所が居心地が悪いわけではないのだ。だが確実にここではないな、と感じさせてくる何かも常にある。そこが悲しいところである。

 

要するに、私は「哲学研究」がしたいわけではないのだ。今、私はフランスのベルクソンという哲学者を中心に論文の準備をしている。私はベルクソンが大好きだからだ。そして彼が誤解されやすい存在でもあるため、私の読むベルクソンをみんなに知ってもらいたい、というモチベーションだけでやっている。そうすると、批判され、吟味され、ベルクソン解釈を練り上げていこう、というアカデミックなモチベーションはあまりなくなる。興味がないのだ。これこれこういう読み方をしてる馬鹿な奴がいる、と認識されるだけで割と十分である。もしかしたら、その馬鹿な読み方のおかげで、誰かがベルクソンの愛読者になってくれるかもしれない。それくらいで良いのである。

ベルクソン研究者」と呼ばれるのもしっくりこない。私はベルクソン愛好家である。そして彼のみようとした現実(réalité)をみたいと望む一人である。二次文献等(研究書)を読む暇があれば、公園に出かけて空を眺めたい。その方がずっと有益に見える。なぜなら真理は本の中にあるわけではないからだ。本は一つの見方を提供してくれる。だから有益だ。だが、本当に何かを見たければ、書斎から出ないといけないと思うのだ。

「今ベルクソンを読んでいます」というと、「じゃあ誰々さんの授業をとってる?」と聞かれる。とってないというと、不可解な顔をされる。そんな学会の後の一幕が飛んでもなく苦手だ。私はベルクソンの授業をとってるのだ。それ以上に何を望むだろう?興味がわけば、行くかもしれないし、興味があれば、別の本も読む。現に本は読んでる。「ベルクソンと『生き方としての哲学』の関連で書いてみようかと」というと、「(『生き方としての哲学』を提唱した)アドとベルクソンは同時代人?」と聞かれる。正直そんなことはどうでもいいのだ。何なら私はベルクソンスーフィー老子ブッダにつながりがあると思っている。だが、誰と関係があろうがどうでもいいとも思っている。私にとって大事なのは、彼らとともにこの世界を旅することなのだ。アカデミズムに従事することで得られそうなのは、知識に忙殺される日々のようだった。知識に触れているのは好きだが、忙殺は嫌いだ。「甘えだ」と言われるかもしれないが、「甘えだ」と言われて通用するのは、その先にあるものを欲してやまない時である。だが私はベルクソンを読みながら公園のベンチで空を眺めているので満足なのである。

 

だから学部にいた時、私は就職しようとした。だが、そこまでのモチベーションがあるわけでもなく、とにかく、まあなんとかなるだろう、というくらいにしか思っていなかった。だが、私はちょっと変わっているようで、変わっている人はあまり歓迎されない。そもそも私は経済活動へのモチベーションがかなり低い。そういうわけで、誰にも拾われぬまま、大学院に拾われたという表現が一番実情に近い。

どうもお金に興味が持てない。お金は大事なのはわかっている。旅をすればそれくらいはわかる。それに、お金のデザインは結構好きだ。そこには国の持つ特徴のようなものが刻み込まれている。だが、一通り一種類ずつ手元にあれば満足であって、儲けるのは本意ではない。それに自分のことで手いっぱいだから、たいていの職業にあまり興味がわかない。

したいことがないわけではない。私はこうしていましているように、文を書くのは好きだ。絵を描くのも好きだ。音楽も、弾けるなら弾きたいものだと思う。なにかこう、創り上げることをしたい。ジャンルにとらわれる必要はないことをしたい。「あなたはどんな職業をしていますか?」と尋ねられて、答えても納得されないことがしたい。社会と経済にがんじがらめになった人の一息になりたい。この世界を知りたい。頭だけでなく、全身で知りたい。そんな体験をエッセイにして人に伝える仕事だったら、多分熱を持ってできるだろう。だが、そういう仕事は、才能ある人のためのものみたいだから、なかなか降ってはこない。私には多分文章の才能もない。

いつもここで止まってしまう。

 

最近のこの鬱屈した気持ちを加速させているのは、逆説的だが、私がこうした問題についてどこかでどうでもいいと思っているからだろう。空を見上げ、雲を目で追う。この広大な世界は人間の秩序によってなっているわけではない。就職にせよ、何にせよ、「現実」と言われているものは実は現実ではない。思い込み、あるいは幻影(マーヤー)にすぎない。そう心のどこかで思っているから、周りのせきたてる大人たちと、うまくかみ合わない。本当に心配しているなら、もっとうまく行動できるだろう。

どうしたらいいのか?

問いかけても何も出やしない。こんなプライベートすぎることはブログに書くつもりはなかったが、200くらい記事を書いているんだから、1つや2つくらいはこんな風な吐き捨てるような記事があっても許してほしい。

家に帰らないといけないのか

わたしはレストランの予約もしないし、映画のオンライン予約もめったなことがないとしない。なぜなら、予約をすれば、心配事はひとつ消えるかもしれないが、その代わり義務がひとつ増えてしまうからだ。どこかに行かなければいけない。自由な気持ちで歩いていても、時間を気にしないといけなくなる。それが窮屈でたまらないのだ。そういう意味で、「家」というのはどうやっても付いて回る、「行かなければないけないところ」であり、自由になりかかった私の心に突き刺さる厄介な存在であった。

 

家というのは、多くの場合、安心の象徴である。それはCMを見てみればわかる。「帰りたい、あったかい我が家が待っている」。家というのは暖かく、誰かが帰るのを待っている。家では落ち着かない、という人には、別の家があるのかもしれない。例えばそれは友人だったり、恋人だったりがいるところだろう。そうすると家は実は無数にあることになる。だがそれでも、家族のいる家はどこか特別な意味を持っている。もし、ただ行きたくない場所だったら、行かないという選択もできるだろう。だがそれでも、家族との軋轢があったとして、何か心にしこりが残り続けるなら、それは「家に帰らないといけない」という義務感がほんのりと残っているからだろう。

それはひとつの帰巣本能かもしれない。なぜなら人類は結局群れで生活しているからだ。旧約聖書の神は、「人が独りでいるのは良くない」と言ったらしい。科学も、ホモサピエンスは群れで行動したために生存できたと言うだろう。そのためには群れが必要であり、核家族化がいわれるこの世の中でも、結局は核家族という群れの中で生活しているわけだ。群れで暮らす哺乳類の中には、群れから離れた個体は死んでしまう、というようなものもいるらしい。それが感情的に現れるとしたら、それは安心感と不安感だろう。独りでいる不安さと、誰かといる安心さ。それは、ちいさいころからずっと一緒にいた家族なら、増幅する。反抗に反抗を重ねても、彼らは他人ではいてくれない。

それは、「いい話」だろう。「心温まる」話だろう。家族は暖かい。親がどんなにひどいことを言ったとしても、それは子供を思ってのこと。なるほど。それは半分真実で、もう半分は免罪符なんだろう。だが、一般的には社会的に受け入れられている。それはきっと、社会そのものが一種の家族であり、私たちに帰属を求めてくるからだろう。そう、社会、国もまた、家みたいになっているのだ。

 

昔はあまりなかったかと思うが、最近空港に行って、航空会社でチェックインをするとこんなことを聞かれる。

「ご帰国日はいつですか?」

それって、帰国しないといけないということなのだろうか。まあそこまでケンカを売らないとしても、要するに、いつ帰るかわからないといけないのだろうか。実際、私がソフィア行きの列車で出会った旅人は、アゼルバイジャンまで帰国便をとらずに行ったのだが、軽く尋問されたらしい。係員が二人来て、説得を受けたという。

しかし一つわからないのだが、航空会社というのは飛行機の運営会社である。であれば、帰国日程を知っている必要はないではないか。まあ、一応論理としては、こうなるだろう。帰国便をとっていないと入国できない場合があり、入国できない場合、この航空会社は帰りの飛行機に旅行者を乗せて帰らないといけない。そのため、面倒を避けるために、先に聞いているのだ、と。理にかなっている。非の打ち所がない。だがそういう合理的判断の向こうに何か、「頼むからほっといてくれよ」という気持ちにさせるものがある。それは、「帰国」である。

どうも最近は、「帰国」をやけに重んじているように思う。驚いたのは、前回ヴェトナムから戻った時だ。名残惜しさとともに日本に降り立つや否や、係員が大声で、

「おはようございます! おかえりなさい!」

と叫んでいるではないか。たぶんおもてなしなのだろうし、彼らはやらされてやっているのだろうから、彼らに非はない。というか、これに気分を害する私の方が不健全なのだが、なぜだか、ディストピア的なものを感じてしまったのである。旅人は皆、家に帰りたがっている、という一種の常識というか良識が染み付いている。だが、私は少なくとも、「帰ってもいいか」くらいの気持ちで帰ってきているから、赤の他人に「おかえりなさい」と叫ばれても、嬉しさというより、気味の悪さすら感じてしまった。

「帰るべき国がある」

それは、そうしたものを持たぬ人と比べてしまえば非常に恵まれていることだろうし、それにケンカを売るのはあまりに贅沢なのだろう。だが、そういう論法は、「学校に行きたくねーよ」と言っている子供に、「学校に行けるだけ恵まれているのよ」となだめるのと同じだ。そうなんだろう。非常に道徳的な意見だ。だが、行きたくないものは行きたくない。なぜその気持ちを抑圧しないといけないのだろう。同様に、「帰国」に伴う気持ちの悪さは、それ自体として考えて欲しい。比べないで欲しい。どうしてもそう感じてしまうのである。

 

鍵になるのは「ディストピア」と「安心感」の間にある関係性だろう。

私はこの二つのかなり密接なつながりを持っていると思う。なぜなら、ディストピアというのは普通、ただの強権的支配からは生まれない。独りのただただ傲慢な王様が城にこもって、税金を取り立てて、贅沢に過ごしている。それは、ひどい国である。だが、それは単にひどい国であって、普通ディストピアとは言わない。ディストピアと言われるのは、洗脳や過度の監視のもとに成り立つ国である。もしかすると、君主すら洗脳されている可能性がある。

そして、洗脳や監視というのは、その根っこに安全性がある。というのは、洗脳や監視をすれば社会は安全になるからだ。全員が均質な、国に忠誠を誓うタイプの人であれば、世の中は平和である。デモもないし、犯罪も起きない。誰もが良識を備えた善人である。なんと素晴らしい。そこには「ビューティフル・ハーモニー」があるのである。そのためには何が必要か。「教育」だ。となれば、道徳心から何から何まで、国家が教育しないといけない。ばらつきは悪だからだ。かくして洗脳社会の出来上がりである。さらに、それでも社会の秩序は普通維持されないから、いたるところに監視カメラを置き、なんなら思っていることまでわかった方がいい。お次は監視社会の出来上がりだ。

この「安心感」は人間の本能のようなものからたぶん出てきているのだろうが、これを増長させると、結局のところ、ディストピアまっしぐらになりかねないと思うのである。かなり過激なことを言っているのはわかっているが、世の中一つ一つの、安心を求める行動は、どこかで秩序と統制の方向に伸びていると言えなくもない。

 

脱線したように見えるだろうか。だが、実は脱線していない。これは家の話と繋がっている。ディストピアというと、国の話だし、母国を重視するのは、ナショナリズムの話になる。そうすると、「ちょっとやばいな」と思う人もいるはずである。だが不思議と家族はそうならない。家族のメンバーは他人ではないからである。小さい子供の頃はともかく、成熟した年齢に達しても、門限だのなんだのを決めるのは、構造としては実はディストピアと変わらない。子供の安全、子供のために、とはいうが、そこには監視があるし、一種の洗脳もある。気分を害される方がいたら、申し訳ない。だが、ちょっと考えてみると、それは明確に、否定できるだろうか。もし、家族の一人一人をきちんと独立した人間として認めるなら、そこにはディストピア状態があるのがわかる。

だが重要なのは、そのディストピア状態は常に必要だと考えられてきたのであり、常に良いものとされてきたことである。それは、やはり、「安心」だからだ。私たちの生命の保存のため、群れが必要なのである。そしてそれは血の論理によって保証されてきた。家族の絆と言われるものは、冷静に考えてみればそういうことになる。そしてそこには揺るぎない安心感があり、家に帰るとホッとするというのはそういうことによるものが大きいといえる。それは「帰るべきところ」であり、そのように、心のどこかにすりこまれている。別に糾弾しているわけではない。要するに、ディストピアというのは、聞こえが悪いのだが、ホッとするものなのである。ディストピアは、実は多くの人にとってのユートピアなのである。うまく機能してくれれば、自分の自由を犠牲にして、安寧と秩序を手に入れることができるのだ。だから、憲法などが権利を規定しない限り、国家はすぐさま全体主義になる。それは、何も誰かが悪意でやっているのではなく、「みんな」の善意によって起こる。迫害されていなければ戦争開始前のナチスドイツは安全だっただろうし、東独はきちんとした生活を送る人にとっては良い国だったらしい。必要とされる正しさを、なんの疑いもなく受け入れられれば、そこは楽園になる。

 

 

それでも、私たちが心の奥底に感じる、「放っておいてくれ」という感情はどこから来るのか。それはまちがいなく理性的なものではない。合理的に、理性的に考えれば、家に帰った方がいいに決まっている。放っておいて欲しい心は、確実に、何か尺度の別な感情だ。私は、それが、帰巣本能とは違う、第二の本能ように思う。心の奥底で、所属することの安心感に反旗をひるがえす何かが胎動している。

これは、決して私一人が勝手に感じているものではないと思う。というのは、バックパッカーというスタイルが一つのムーヴメントとなり、西行芭蕉などが示す放浪の旅が世人を惹きつけ、ムーミンの登場人物のなかでスナフキンがかなりの人気を誇り、奥田民生沢木耕太郎の人気が持続的なのを見ても、人は心の奥底で旅を切望しているといえるだろうからだ。旅は、家を一時的に捨てることだ。そうすると人は「根無し草」になる。いろいろな意味で「異邦人」にもなる。家や帰属するものをもつ安心感とは別の、「異邦人の心地よさ」のようなものがそこにはある。

なぜか。それは一つには、まぎれもない自由の体験があるからだろう。「アラジン」の有名な歌から引用するなら、「No one to tell us 'No' and where to go, or say we're only sleeping(だれも僕たちにダメだとか、どこに行けとか言わないし、僕たちは現実逃避してるんだなんていうこともない)」という経験がそこにはある。物理的に、何かからの支配を抜け出すことで、私たちは自分の心のままに動くことができる。その自由は怖いことでもある。どこにでも行けるということは、どこに行ったらいいのかわからないということだからだ。だがそんなとき、胸の内にある衝動が輝く。道そのものが、私たちに指し示す。だがそれは義務ではない。「どこへ行け」ではない。「ほら、こっちに来てみないか?」と問いかけてくる。その境地で、私たちは自由になる。

だがこの自由は単に、指図する人がいない、というだけではない。自分からも自由になるのだ。私たちは常に、なんらかのルールを作って生きている。「こんな汚いところでは寝られない」「私は暑いのは苦手」「寒い方がもっとダメ」……そうやって私たちは自分に枷をつけている。その方が楽だからだ。わかりやすいのである。だが案外、そういう枷は無意味だったりする。旅はそれに気づかせてくれる。指図してくる人は他人だけではない。ディストピアを作っているのは他人の目だけではなく、自分の目でもある。フーコーではないが、私たちは自分自身を社会化している。だが、違った環境に身を置くことで、自分が覆い隠してきた可能性を見ることができる。

その最たるものが、「家に帰らないといけない」というものかもしれない。私たちは旅をしていても、最後には家に帰ることを前提としている。だが、ふとこんなことを思うことがある。1日しか泊まっていない宿も自分の城みたいになるし、1日しかいなかった町も、親しみを感じる。そうすると、家なんてものは幻想に過ぎず、どこにだって暮らして行けるのではないか? 明日はここ、明後日はあそこ。自分が眠りたいと思った場所で眠り、自分が歩きたいと思った道を歩いて悪いことがあるか、と。道端に眠りたい時もある。星を眺めたい時もある。暖をとりたい時もある。だが、身の回りにあって欲しいと切に願うのは、自分の体とちょっとした大事なものだけだ。いや、大事なものなんていうのもないのかもしれない。時の流れの中で全ては風化する。常に新鮮であり続けるのは、人生そのものだけだ。

それは退廃的なのかもしれない。だがそれはただ単に退廃的なのではない。それは、自分を見つめ直すことでもある。その結果、自分の周りにはあまりに多くのものがあったことを知るのだ。そしてその結果、あまりに広大な世界に目をやることができていなかったと。社会、秩序、組織……安心させてくれるいろいろなもの。だが私たちはそれに満足できない。道が呼んでいる。その先には、動物的な本能を乗り越える何かがある。いや、ないのかもしれないが、道の上には確かに、私たちを夢中にさせる何かがある。なくなったとしても、私たちはそれを探し始めることだろう。そこで自分を縛っている何かに気付かされるかもしれない。私たちはそんな不健全な衝動と、安心感を求める健全で危うい本能の間を揺れ動いていると言える。

 

どこから抜け出すのが自由なのか。そうしたら、一生自由になんてなれない。あるところから出て自由を感じても、そこはもう自由ではなくなってしまう。

そうだろう。だが、旅の自由は、抜け出す所にあるだけではない。何もそんなに遠くに行く必要もない。そんなことはどうでもよくなってしまうほどの何かがある。安心感への違和感、解放を求める雄叫びの向こうにあるのは、純粋に肯定的な楽しさだ。冒険は不安を吹き飛ばすほどに楽しい。私たちは血沸き肉踊る経験をする。「帰りたくない!」そう本気で思うが、それは、帰らなくてはいけない運命を恨むというより、心の奥底で、「帰らなくてもいいのかもしれない」と思える何かが芽生えているといえる。つまり、私たちは旅の中で生きていることを感じるのであり、なんなら普段の自分より生きていることを感じる。

だから、思うに、旅とは現実逃避ではないのだ。むしろ現実なのだ。社会、会社、家、家族、学校……そういったものはよく「現実」と言われるし、家に帰るのを「現実に戻ってしまった」という。だが、家や社会生活の方がずっとフィクショナルな経験をしている。「父」「母」「子」だの、「〇〇社の社員」だのといったほうが、「見知らぬ異国の人」であるよりもずっとロールプレイ感がある。そういう意味では、旅はむしろ現実に変えることであり、家に帰るとき、私たちはまたも演技の世界に引き戻される。そもそも家に帰る必然性はどこにもないのだ。旅はそんな現実に気づかせてくれる。

 

だから……「家に帰らないといけないのか」という問いには、私ならこう答える。帰る必要はないし、帰る必然性はどこにもない。それでも帰りたいと思うのは帰巣本能だ。帰りたくないというなら、それは旅に魅せられているのだろう。どれを選ぶかはその人次第だ。健全に家に帰るのもいいだろう。だが、ときには家を離れて放浪する方が健全な気もする。なぜなら、そうしないと、私たちの人生のほとんどは、現実逃避になってしまう。心の奥底で鳴り響く、「この世界を知りたい」という衝動に蓋をしてしまうことになる。それでは面白くない。「さすらいもしないで、このまま死なねえぞ」というわけである。

 

※こんなような話をしたら、「さすらいたい、根無し草でありたい、っていう人はちょっと心配になります」と言われた。

新年の抱負について

あけましておめでとう。

2000年代が始まってから、もう20年も経ってしまったのかと驚いている。いや、たった20年だというかもしれない。だが、20世紀にたとえてみよう。1900年は英国、ドイツ、ロシア、そしてオーストリアハンガリーによる帝国の時代だったが、1920年にはうち3帝国が崩壊、覇権も徐々に「狂乱の時代」を迎えようとしているアメリカに傾きつつあった。19世紀に例えるともっとすごくて、1800年はナポレオンが第一執政として活躍して二年目、1820年になると時代はもはやウィーン体制だ。そうしてみると、案外、20年はいろいろなことが起こりうるといえるのではないか。もちろん、そうでない場合もあるが。

 

さて、こういう時は今年の抱負というものを述べるものだろう。だがその前に「新年の抱負」って何だろう。これが考えてみると、案外面白いのである。

まず、「新年」についてだが、「時間の流れ」から考えてみると、これはナンセンスである。なぜなら、今日が新年最初の日である必然性はどこにもないからである。もちろん、農耕に合わせた暦が一周するとき、それは新しい年が始まると言える。だが、実際には何が変わるというのだろう?昨日と今日とで変わるのは、1日がすぎたというだけの話で、それは昨日と一昨日、明日と明後日の間にある違いと何ら変わることはない。毎日毎日、いや、一瞬一瞬が新鮮である、と考えたとしても、事情は新年否定の方に向かってゆく。なぜなら、すべての瞬間において変化があるなら、昨日から今日への日付の変更に限る必要はないからだ。日にちの帳尻合わせを考慮しなければ、それはこの日である必要は一切なく、わあわあと騒ぐ必要も一切ないのである。除夜の鐘にしたって、煩悩の滅却は毎日やれば良いのであって、なぜ365日ないし366日に一度に限っているのか。仏道に反してやいないか?

 

ところが、私たちは区切りをつけたがる。それには相応の意味があると思っている。「新年の抱負」は、「生き方」に関わっている。私たちは、一年の終わりに自分を振り返り、新年になれば自分を変えられるというような気持ちになる。それが本当かどうかはその後の身の振り方に関わっている。変わると思わなければ変わらないし、変わらないと思っていれば変わらないだろう。というのも、私たちは人生の多くを、「習慣的」に、「傾向」に従って生きているからだ。

例えば、自分勝手に生きるほうがいいんだと思っている人がいたとする。それで、その人は心のどこかで困っている人は助けたい、助けるほうが自分にとってもいい気がすると思っているとしよう。だがこの人は、自分勝手に生きるのをやめられない。なぜか。それは、いろいろな理由があるだろうが、自分の「キャラ」を勝手に作ってしまっているからだ。そしてそのキャラを作るに至ったのは、自分の考え方の傾向のようなもので、習慣的なものかもしれない。こうなると人は、なぜか、自分を変えることができなくなるし、変える必要ないように思えてくるし、変わらないと信じるようになる。その人の中には、頑強な性格がある、という幻想がまとわりついているからだ。もちろん、人は生きていて、どの瞬間も新しい人間である、というのは簡単だ。だが人は自分を規定してしまう。

それを打開するにはきっかけが必要になる。それは何でもいい。失恋でも、回心でも、強い挫折の経験でもいい(以前「挫折の経験は?」と面接で聞かれたが、あの質問はどうかと思う。なぜなら、その人の全人生をひっくり返すほどの力をそういう経験は持っているからであり、それは極度にプライベートなことだからだ。そういうのを知りたいというのはわかるが、それは一線を超えている)。だが、心の奥底で変わりたいという衝動があるなら、それは定期的に訪れる、クリスマスや新年でもいいのである。新年という考え方はおそらく暦法によっているが、それは、自分を変えるきっかけにもなるからである。

だから、新年の抱負を人に語るのは、自分が作り出し、演出してきたキャラを壊すために、他の人の視線を変えてもらうことなのかもしれない。だから、どんな抱負に対しても、笑ってはいけないと思う。そして、抱負を口にする必要もないかもしれない。それは個人のことであり、他者の視線を吹き飛ばすつもりがあるなら、自分一人で変わるきっかけを大事に思うこともできる。なにせ、抱負は新年でなくても良いのだ。

 

だから、あえて今年は、抱負を、控えめなものにしたい。自分の人生については、もう少し時間が必要だ。今年の抱負は、「インドに行くこと」にする。

私は高校三年生の時に沢木耕太郎の『深夜特急』を読んだ。全体を通じて引き込まれたが、今でも忘れられないのは沢木さんがインドのトイレに入るシーンである。インドのトイレは紙がなく、手で洗わないといけなかった。そんな状況で、沢木さんは、「また一つ自由になった」と書いていた。この「自由」が、それ以降私の追い求めるものとなった。もちろん、トイレ、というだけではない。今トイレを例にたとえたので良くなかったのかもしれないが、旅という経験そのものが、受け入れる自由を、いや、自分のもつ何らかの枠を乗り越える自由をくれる、ということなのだ。この自由を求めて、私はいろいろなところに行こうとした。

ーー箱館、ドイツ、フランス、イタリア北部、ヴェトナム、バンコクケベック台北カンボジア、ヴェトナム、フランス、スペイン、ロンドン、モスクワ、北京、イタリア南部、アテネ、ソフィア、イスタンブルバンコクヴィエンチャンハノイ、ソウル、イスタンブル、ソフィア、ベオグラード、ブダペシュト、ウィーン、プラハ、ベルリン、イスタンブル(カドゥキョイ)、ソウル(ウンソ)。

それは自由への修行だったと言える。そして徐々に、何となくだが、今までは閉ざしていた世界が開かれてゆくのを感じた。

満を持して、インドである。次はインドだ。私の心の奥底で何かが叫んでいた。しかも次は、インドで一人で行動をする。もちろん、まわりにはインドに行きたいと言ってくれる友人が案外たくさんいる。一緒に過ごしたい。だが、一人の時間は作りたい。そうも思っている。そうしてこそ、なんだろう、一つの自由が見えてくるように思えるのだ。

なぜインドか。一つには、インドがそういう意味で魅力を持っているとともに、貧困という現実が重くのしかかっている土地でもあるからかもしれない。決して理想郷ではないのはわかっている。だが無性に惹きつけられる。今は、こんな風に、概念的な言い方をせざるをえない場所に、実際に身を置きたいという衝動にかられる。二つ目は、もっと単純で、去年「ヒンディー語」をやり始めてから、インド文化にはまってしまい、最近ではカレーを作ったりもするからである。本場のカレー、本場のヒンディー語、本場のインド映画……場所というコンテクストとともに、味わいたいのである。

だから、インドに行く。2020年は、いろいろあって何かと忙しくなる。だが、インドにはいく。次の渡航先はインドと決まった。「新年の抱負」だからだ。

本質と音楽〜哲学所感3〜

まずあらかじめ断っていくが、今回は少々突飛なことを言おうと思う。日常生活で普通とされていることを裏切ろうとしているのである。だがそれは必要な裏切りだ。そして素晴らしい裏切りだと私は信じている。

その前に、ちょっと話を振り返っておこう。第一回目で私は、この世界の存在を根拠付けようとする試みがうまくいかないということを述べた上で、賭けとしてこの世界は存在するということを信じる、という方向で話を進めた。第二回では、言語というものは社会的だが、実は自由度があり、それを制限するために理性というものが社会的に必要だと述べた上で、それでも人間はそんな言語や理性の目的をずらすことになった、その結果が一方では理性の手続き的部分を浮かび上がらせ、社会的要請から解き放たれる数学に、もう一方では言語の機能や理性的手続きそのものをからかうかのようにしながら、言葉にできないものを表現しようとする詩になったのではないかと言って話を終えた。今回の主役はどちらかと言えば後者である。

 

 

昔から、「本質」という考え方に馴染めなかった。

ルネ・デカルトはこのようなことを言っている。例えば、「蜜蝋」を考えてみよう。この「蜜蝋」が蜜蝋であるために、何が必要かつ十分な条件なのか。形だろうか? それは違うだろう。なぜなら溶けたら形は変わるからだ。それでは、色だろうか? これも劣化すれば変わる。匂いだろうか? 匂いも変わる。肌触り? いや、溶かせば変わるのに変わりはなかろう。味? 味も変化する。それではなにも蜜蝋を蜜蝋たらしめてはいないのか。いや、蜜蝋を蜜蝋たらしめているのは感覚では捉えることのできない「蜜蝋の本質」があるからだ……と。これが、哲学の世界で言われる本質の大きな考え方である。これに加えて、この本質は私たちが何かを認識する前から存在していた、だとか、この本質は神から与えられた、だとか、本質にいろいろな属性がついてこの世界に存在するものになるが、それは堕落なのだ、とかいったヴァリエーションのある説が付け加わっているといっていい。

私が飲み込めないのは、「本質」と「属性」があるということだ。属性は、取り除いても本質を損なうことはないので、別に構わないことになっている。例えば蜜蝋の匂い等は取り除くことができるというのだ。だが、「属性」と名指しされた要素は本当に取り除くことができるのだろうか。例えば、蜜蝋は溶かして仕舞っても、蜜蝋には変わりないという。それはそうだろう。だが、私たちは何も知らなければ、溶けた蜜蝋と固まった蜜蝋を別個に認識するに違いない。だからそもそもこれらふたつが同じだと考えるのは、固まった蝋が溶ける姿を想像したり、先ほど固まっていたことを知っているからである。蜜蝋の変化に立ち会わなければ、どうして同じ蜜蝋だと言えるだろう? つまり、変化を認識しなければ、この説は成立していないのだ。蜜蝋だとわかりづらければ、鉄を考えてみてほしい。鉄は溶かしてドロドロになっても鉄だ。だがそんなことをそもそも言えるのは、鉄が溶けてゆくのを見ることができるからだ。もしそれがなければ、真っ赤なドロドロと銀色のコチコチが同じものには思えまい。だから私たちは本質を把握していることなどないといえる。

いやいやそれはそうかもしれないが、科学的には鉄は溶けていようが溶けていまいがFeだ、というかもしれない。それはそうだ。だがそれを認めてしまうと、むしろ「形」が重要になってくる。Feは熱せられてもFeの分子構造を持つ。「形は変わっても残り続けるもの」という風に本質を定義したとして、Feは、つまり、本質の説明になっていたのである。形は変わっていない。形が変わらないままで、くっついたり、離れたりしているにすぎない。そもそも、Feが崩壊すれば、ばらばらの原子になるわけで、バラバラの原子はどんな科学者も「鉄である」とは言えないだろう。感覚の世界と科学の世界をわけない限り、この説明で本質を説明することはできない。そして、科学の世界で本質を語ろうとすると、非常に非合理的になる。なぜなら、科学の世界での同一性は、形(構造)等の性質をそのまま持っている状態だからだ。

 

やはり、本質と属性を分けるのは妙だ。むしろ本質は、属性の絶妙なバランスと配合に依存しているように思う。ビールがビールであるのは、微妙な味のバランスによる。私の大学の先生が、ベルリンで、「悪いことは言わないので、クラフトビールではなく、ちゃんとしたビールを飲んでください」と力説していたことがある。私にとってはクラフトビールもビールなのだが、先生にとっては何か外れるものがあったようだ。属性の微妙なバランスの中にある「ビールらしさ」は、時にこのように人によって違う場合がある。「これはスターウォーズじゃない」「いやいやこれこそスターウォーズだ」そんな論争もまた、そこに何か根があるように思う。何が言いたいのかというと、要するに私たちは多くの場合本質を作り出している。

だが、それでも基本的に、本質をめぐって言い争いになることは少ない。「これは石だ!」「いやこれは石じゃない」みたいな論争は滅多に起こらない。なぜか。それは、本質というのが基本的には言語によって作られているからだ。私たちは社会の中に生き、社会の中で言語を使う。だからある社会における言語は私たちに浸透し、本質もそこで与えられている。つまり、本質は、「名前にすぎない」といえるが、多くの場合、その名前は歴史的に積み上げられてきたものである。日本語話者は、「水」と「お湯」を区別している。だから「水を温めたものをくれ」とは言わず、「お湯をくれ」という(普通は)。だが、英語ではこれは、「water」と「hot water」の違いであり、hotがつくかつかないかである。日本語で言うところの、「熱いお湯」というのは、英語で言おうとすると非常に難しくなる。「hot hot water」だろうか。それは変ではないか? しかし、日本語では普通に使う。言語社会によって、捉え方が変わる例である。

ただし、私たちはお湯が水だったことを知っている。社会は別個であっても、世界の成り立ちが一緒である以上は、ある程度の意思疎通ができる。だが、完全に「まあお湯は水だよね」「ハマチもマジロもブリもSeriola quinqueradiataだよね」みたいにはならず、「古来日本人はお湯を大事にしてきた」「日本人は魚の種類を同じ種類のものでも、とれる場所や季節によって言い換えている。海の幸と共に生きてきたからだ」とかいった、よくわからない自慢話を生み出すことはある。そこには社会や文化の根深さがある。それでも、他の社会の意思疎通ができるのは社会同士のコミュニケーションが成立しており、私たちが同じ星の住人だからだと言える。

 

では、本質は社会が勝手に決めていると言っていいのだろうか? 

第一に、完全に恣意的に決めているわけではないと思う。重要性によって変わるはずだ。日本語話者が魚をあれこれ区別するのは、以前はその必要があったからだろう。あるいは、味によって判断していたのかもしれない。味の異なる魚を同じ魚として扱うことはできないからだ。水とお湯に関しても、きっと同様のことがあるだろう。ちょっと知識がないのだが、水とお湯を同一視できない理由がどこかにあるはずだ。ただ理由はあるとしても、これは人為的な区別には変わりない。

第二に、完全に人が決めているわけでもないと思う。こちらは人為的というよりも、自然的に区別を誘うような何かで、先ほど述べた属性の微妙なバランスに関わることである。私たちは微妙なバランスを全体的に把握し、区分けをしている。だが、ここでいう属性は、あるものの属性というようにリストアップできるものではないのだと思う。もちろん、できなくはない。私たちは音楽を聴き、いろいろな感じを思い浮かべる。しかしこれをコードに分解し、それぞれのコードがどんな印象を与えるかをリストアップすることもできる。これと同じようなもので、どれが聴覚的で、どれが視覚的か、だとか、どれがどういう印象をもたらしているのかあとで分解することもできる。ただし、できる、だけで、実際に見えているのはもっと全体的な何かだと思う。だから、それは「ホップの香り20パーセント」みたいな感じでのバランスではなく、絵画の絶妙な色彩のニュアンスのようなものを想定してほしい。

そうなった時、自然が誘う区別とは、いわば音楽がもたらす印象のようなものだ、というのが最もわかりやすいたとえになるだろう。なんでもいいのだが、私はビートルズが好きなので、ビートルズを例にしてみよう。ビートルズの曲には、ビートルズっぽさがある。もちろんそれは初期→中期→後期と変わっていくものだし、後期にもなると、ビートルズらしさというよりも各メンバーのらしさの方が際立ってくる。だが、聞けばビートルズだなと思う何かはある。最も決定的なのはメンバーの声だろうが、それ以外にも、絶妙なニュアンスがビートルズらしさを引き出してくる。そのため、私たちは音楽を聴いて、「これはビートルズの曲だな」とわかるわけである。そしてメンバーが歌っていなかったとしても、「すごくビートルズっぽい曲」というものもある。この「ビートルズっぽい」というのは、私たちが感知する微妙なバランスに与えられた名前だろう。そしてもう一つ重要なのは、曲自体はそれぞれ別の曲にたいしてそのようにカテゴライズしているということだ。旋律が一つでなくても、ビートルズらしさはある。

そのように、私たちは聴覚に限らない、視覚・触覚・嗅覚・味覚等に訴えてくる経験を音楽のように、カテゴライズしながら生きているのではないだろうか。個々の物体としては明らかに異なるものを見ているのに、「これは石だ」と把握できるのは、私たちが個々の物体が奏でる「音楽」に、共通のものを見出していると言えないだろうか。そうすると、個々の物体のもつ「属性」と言えてしまうものは、ペタペタ貼り付けられたものではなく、一つ一つがからみ合わなければ全体が成立しないような色調のようなものになる。私たちが見ている世界は、色とりどりの「音楽」に溢れているのだ。

 

そうするともう一つの帰結が姿を見せる。私たちが音楽の世界に生きているなら、いろいろな区別というものは以外と、あってもなくてもいいようなものかもしれないということだ。私たちは、木と土を区別する。だが、木は土に根を張り養分を吸収し、朽ちるとともに養分となる。そうすると、木と土を区別する意味はあまりないかもしれないし、そうすると酸素を取り込む私たちは風と一つになっているかもしれない。そういきなり言われても困るだろう。なんだこいつは、脈絡もなく、という話である。だが、音楽の切れ目を考えてほしい。

私たちは音楽を一曲単位で聞いている。だから「私たちが音楽の世界に生きているなら、いろいろな区別というものは以外と、あってもなくてもいいようなものかもしれない」と言われても困る。いや、一曲一曲で分かれるじゃないか、と。しかし、それは本当だろうか。聞き込んだCDなら、ある曲が終わった後に、次どの曲がくるのか、私たちは即座に判断できる。しかも曲名で、というより、メロディーラインで覚えている。別の曲であっても連続している。さらに言えば、実際に作り手の意図の中で別の曲がつながる場合がある。一番わかりやすいのはメドレーだ。だがメドレーは、一曲一曲の区別があるじゃないか、ともいえる。そこで、ひとつ、聞いてみてほしい曲がある。それは、ビートルズの「A Day in Life」だ。この曲は、最初の曲調と、少し経ってから入る曲調が異なっている。だが、一曲である。もともとは二曲だったらしい。だが今では一つだし、聞いていて一つの曲として認識できる。こういうことが可能なのである。メドレーも、それぞれの曲を知らなければ、そういう一つの長い曲だと聞くこともできるのではないか。なんならアルバム一つが一曲と見ることもできるのではないか。そうでなければ、くるぞと思っているのとは違う曲が流れ始めたときの気持ち悪さをどう説明できようか?

同じように、私たちがこの世界として感知する空間の音楽も、分ける必然性はない。そう考えたら、この世界は私も含めて一つであり、世界全体が私たち一人一人の意志によって前に進んでいるとも言える。ここまで来た時、私たちは普通とはちょっと違った視点に立てるような気がする。そこにはカテゴリーはなく、区別も差別もなく、かといって還元もなく、世界全体がオーケストラになっている。

 

一体なんの意味があるのか。それは正直わからない。だが、こういう世界に生きることができるんじゃないかと思っているのと思っていないのでは違う。自分を殻に押し込める必要はなくなる。人にカテゴリーを押しつける必要はなくなる。くすんだ世界は動き始める。道路は歌い、木は踊り、空は渦巻き、私はそのエネルギーに浸かりながら、道を切り開く。この世界は全てインスピレーションとなり、創造者になる。哲学はそういう場を担保する力を持っている。私はそう思っている。

スキマ時間と安息日

ここ最近ずっと違和感を覚えている言葉がある。それは、「スキマ時間」だ。CMを見ると、よくこんな言い方がされているのが耳につく。「スキマ時間を利用して……」「そのスキマ時間もったいない!」それはだいたい、ニュースアプリだったり、バイトアプリだったりのCMだ。いわゆる「意識高い系」の潮流に乗って、自分の時間を管理しようというお誘いのようだ。

だがひとつ思うのは、本当に「スキマ時間」はもったいないのだろうか、ということだ。その前に、「スキマ時間」とは一体何なのだろう?

 

たいていの場合、「スキマ時間」と言われるのは、仕事と仕事の合間だったり、あるいは電車等の移動の時間だ。それも、ただその時間があるというだけでなく、その時間にぼーっとしてしまったり、意味もなくツイッターを眺めてしたりしてしまうことを、無駄になった「スキマ時間」と捉えているように思う。そこには、少しでも無為に過ごしてしまうことへの危機感が現れているのかもしれない。

だが、一体何が悪いのだろう?確かに、生産性はない。ぼーっとしている時間、ツイッターをいじっている時間、動画を無意味に流し見てしまう時間……確かにこれは必要ない。そこで勉強をしていたらどんなに良いことだろう。どんなに、使えることだろう。そこでお金を稼げればどんなに良いだろう。どんなに、将来性があることだろう。あなたの生産的人生は、さらに生産的になる。だが、わたしは生産的ではない時間が重要だと思うのだ。それは、ぼーっとしたり、考え事をしたり、好きなことをしたり、という案外擁護するのが簡単そうな時間だけでなく、スマホをいじる等の本当に無駄といえなくもない時間を含めている。つまり、自分にとって次の行動につながるわけでもないし、脈絡もあるわけではない、と判断されがちだし、その判断は基本的に間違っていないような時間は、人間にとって必要だと思う。

 

そもそも、「スキマ時間」を埋めよう、という考え方は、私が最も好む哲学者の言葉を使えば、「空間化された」時間の考え方である。時間を数直線のように扱っている。よく、芸能人の1日の過ごし方を円グラフにしたものがインタビューコーナーの余興として出てくるが、あのような感じである。もし、あなたが自分の時間をあのように捉えているなら、スキマ時間がいかに無駄なものかがひしひしと感じられるだろう。「1日に使える時間は限られている。なのに、あなたはこの15分間を何と無駄なことに使ったのか!」と。

この考え方は、私たちに教育されているものだ。中高生の時、紙を渡されて、勉強時間を記入させられなかっただろうか。おそらく多くの人は、学校、あるいは予備校、学習塾で似たようなことをさせられたことだろう。あの時の、「遊び」の時間を入れることに感じる罪悪感といったらない。あえて入れる人も、明らかに背徳感を楽しんでいる(私がそうだった。ちょっとしたアンチモラリストになった気持ちである)。私たちは何の説明もなく、何の意志もなく、勉強の時間こそが有意義で、それ以外は無駄なのだという価値観を押し付けられるがままの状態になっており、仕事を始めるや否や、仕事もまたそのような位置付けとなってゆく。今度は不思議と自発的に思っている気がするが、その理由は多くの場合明確には答えられないだろう。

有意義なものは増やし、無駄なものは切って捨てなければいけない。円グラフの「スキマ」は、だから、有意義なものへと昇華させよう。趣味の時間は重要だ。だが趣味でも何でもない時間は消し去るべきだ。食事の時間は重要だが、切り詰めようと思えば切り詰められる。そうやって出来上がるのは、私たちの生産的人生の生産的かつ合理的な、精密機械のごとき、完璧な時系列円グラフである。一度これがカチコチと動き始めればスムーズに、そして最も高い効率性で働くだろう。だが、これははたして人間か?「できる男M-1000-32-5」が生産され、名もなき一人の人間は死んでしまうのではないか?これではまるでサイバーマンだ。

スキマ時間は、何に必要かは決して説明できないが、確かに必要である。それは自分を保つためかもしれない。格好つけて言うなら、それは人間性の担保である。ツイッターを弄る時間を終えて、何していたんだろうという気持ちになるのはわかる。私もそうなる。だが、その感情を、生産性を基準にして測ると、どうも何かを見誤っているような気がする。そうではない。むしろ、それは、SNS社会に飲まれてしまった焦りだ。本来は本当に何もしなくてもいいはずだ。空を眺めるだけでもいいはずだ。思い出し笑いするのもいい。それでもあなたが選んだのは、何かをしている気になる道具であるツイッターだった。そこにあなたの貴重で無駄なひと時が回収されていった。もったいない。スキマ時間が終われば待っているのは、生産的な時間なのに。だが、ツイッターを弄るにせよ、生産的な時間から離脱できたという点では、人間性は保たれている。

 

思ってみれば、スキマ時間だけではない。私たちは社会的合理性の網目に絡め取られている。あらゆる理由付けの中にいる。私は今大学院でフランス哲学を中心に読書しているが、ギリシア語の授業もとっている。その話をするとこう言われる。「なぜですか?ギリシア語使うんですか?」と。まあ、こじつければ使う必要があるとも言えなくもないので、たいていこじつけて答えている。だが、真意はそこにはない。すべてが必要な授業では困るのだ。必要ではない授業が必要なのだ。正直、私の受けている授業のほとんどは必要がない。もちろん、インスピレーションにはなる。だが、ならない時の方が多い。それでも受けるのは、基本的には必要ないものがないと何となく嫌だからだ。それではいけないのだろうか。

私たちは常に必要性を問われているように感じる。それは特に、高度に社会的なことだと強い。極端に言えば、会社の休業になぜ理由がいるのだろうか。休みたくなったから休む。それではどうしていけないのか。もちろん誰かに迷惑はかかる。だが、私たちは生きているだけで多かれ少なかれ迷惑はかけているし、人に迷惑をかけられている。それに、休まれると端的に少しいらつく。だが、別にいいではないか。その人が休む日はまさにその日だったのだ。その後、いくらサボったとしても、ああこの人は乗っていないんだろうな、ということだ。ただ休んでいるなら、それは休んでいるだけのことである。それでも、社会や会社は許さない。だが、それを重ねて行けば、出来上がるのはロボットの国ではないか?機械的な日常が突然に嫌になることもある。この場から離れたいと願うときもある。思わない人は、あまり多くはないと思う。その気持ちを抑えつける意味は一体どこにあるのか。

 

少々話がいきすぎた。無論、休みを感情の赴くままに取り続けるのは難しいだろう。これは人に変化を強いることだろう。しかしもうすこし、必然性から一歩身を引いてみてもいいと思う。スキマ時間くらいは、私たちは社会の必然性や合理性から抜け出ることができるし、現に抜け出ているはずだ。スキマ時間は、いわば安楽日であってしかるべきだ。そう思うと、ユダヤ教安息日を導入した意義は計り知れない。もしかすると、それは毎週の祈りの時間だったかもしれない。だが、労働を1日だけ停止するという考え方は現代人にはできまい。とにかく何もしない日を作ることで、私たちは自分に帰ることができるかもしれない。とにかく何もしない時間は、私たちにとって窮屈な日常からいっときでも抜け出る時間になりうる。だから、スキマ時間を管理しないようにしよう。もちろんしたければしていい。だが私はごめんこうむりたい。

冬になぜ寂しくなるのか?〜On Christmas〜

実際に対話したわけではないが、哲学対話で、「なぜ冬は寂しくなるのか?」という問いが出たことがある。するとすかさず、「それはクリスマスのせいだ」という答えをした人がいた。だがわたしは逆だと思う。冬は寂しくなるから、たぶん、クリスマスがあり続けるのである。

 

冬はなぜ寂しいのだろう。

ありきたりな答えでは、多分それは日が短くなるからである。私たちは日の昇っている時間が、古来より活動時間であり、日が暮れてしまうことに感傷的だった。「黄昏」といえば、それは終焉のことだ。冬になると太陽が昇る時間は短くなり、冬至になってそれは最短を迎える。日本でも、ずいぶん日が短くなったなあと焦りを感じるほどだから、ヨーロッパではなおさらだろう。実際、北欧では日が極端に短くなると、一日中ほぼ夜のような時間が流れる。わたしは子供の頃にベルリンに住んでいたことがあるが、小学校に行く朝早い時間は、冬になるともはや深夜の様相を呈していたものだ。こうした自然現象が人の心に影響することはよく知られている。北欧ではこの時期になると、自殺者が増えると聞いたことがある。どうも気が滅入ってしまうのだ。

だがそれだけではないだろう。冬の寂しさは、その日照時間が足りないことからくる陰鬱さだけに回収されるのではないはずだ。そう考えた時、もう一つのありきたりな答えが見えてくる。それは、寒さ、である。冬は大抵寒い。暖かさが欲しくなる。物理的に震える。だから誰かの手を握り、寄り添いたくなっても不思議ではない。いわゆる「人肌恋しい」という感覚である。だが、全部を全部気温の低さに回収してしまうと、なぜ「人肌」が恋しいのかがわからないだろう。だって一人でも暖房のもとぬくぬくしていればいいはずなのだから。なぜ、寒いと寂しくなるのか。やはり疑問はもと来た場所へと戻ってくる。

 

置き換えて考えてみよう。夏は寂しくないのか、と。夏も寂しいのである。夏はノスタルジックな思い出に溢れている。夏祭りの明かり、焼きそばの匂い……特に日本ではそんな思い出が多い。だがそれでも、あえて「冬は寂しくなる」といいたくなる。何がそうさせるのか。

鍵となるのは多分、色なんじゃないか。桜、新緑の緑、夏の空、そして盛りの頃の紅葉。多くの季節は色で溢れている。肌に感じられる質感もまた、賑やかだ。日照りの暖かさ、ちょっとすっきりとした風、蒸し暑く粘りつくような空気、キリっとしつつ不快ではない空気……。春と夏と秋では、私たちは情報過多だ。というと悪い感じがするが、そうではない。それは一種の呼びかけなのだ。風がささやく、という言い方がある。花が笑うともいう。それは一種の比喩だし、人生にそこまでスピリチュアルな経験は普通は起こらない。とはいえ、五感に訴えかけてくる彩りが強いのは確かだ。

これが冬になるとどうだろう。大抵のものは黒っぽくなるか、白っぽくなるかのどちらかだ。空が見えていても、空は不思議とうっすら白くなっている。勿論青空が顔を出す時もある。だが、その時、寂しさを感じないような気がする。気がするだけなので、個人の意見に過ぎないが、そんな気がする。モノトーンの空、モノトーンの街、そしてモノトーンに寒い。これはそこにいた誰かがいなくなってしまうようなものだ。だからこの喪失感は「寂しい」と表現される。モノトーンな感覚の世界で、人が求めるのは生命を持った何か、そう、あの人の笑顔とあの人のぬくもりなのだろう。

冬は寂しくなる。日照時間もあるだろうし、鋭い寒さもあるだろう。だが冬の持つモノトーンさもそれに拍車をかけていると言えそうだ。雪が降ると、そこに彩りが加わりそうなものだが、鋭い寒さとモノトーンな空の中で、雪はモノトーンの演出にすらなる。冬はやはり寂しい。心もまたモノトーンになり、モノトーンの世界は自分から遠ざかって行く気さえする。楽しい冬も、大きくなるうちに、自分の孤独さに気づけば、寂しさの象徴になる。遊び相手がいない冬は、寂しい冬になる。

 

だから、クリスマスなのだ。と、わたしは思う。クリスマスは暖をとるイメージと相性がいい。雪が降りしきる中、薄着で、一人で、「メリークリスマス」と言う……そんなイメージは普通はわかない。雪が降りしきる中、小さな家は暖色系の明かりに照らされ、誰かと一緒に、暖かい食べ物を食べながら、「メリークリスマス」といい合うほうがしっくりくる。クリスマスがかくも琴線に触れてくるのは、クリスマスがただのイヴェントでも、宗教行事でもなく、寂しくモノトーンな冬の情景に色を加えるからだとおもう。物理的にもクリスマスは色で溢れている。暖色系の家の電灯、クリスマスイルミネーション、緑を湛えたクリスマスツリー(てっぺんには金の星があり、赤い飾りを身体中にまとっている)、クリスマスケーキ、茶色い鶏肉料理。それだけでモノトーンは様変わりする。暖かさが見えてくる。

だがそれだけではない。クリスマスは人と人とを結ぶ。クリスマスプレゼントはそういうものだ。プレゼントを贈り合うことには、それが義務になってしまうと台無しになるような、何かがある。プレゼントとは、プレゼントをあげる相手の喜びや驚きそのものだ。相手のことを考えてプレゼントを選んでいる間だけは、少なくとも、その人は一人ではない。相手がどんなものが好きなのかを考え、何をしたら喜ぶのかを想像する。これは想像だから、失敗することなんていうのもざらにあるだろう。だがそれでもいいのである。それは年に一度か二度くらいしかないことなのだから。普段は口にしないような思いが、言葉という枠に閉じこめられないまでも、込められている。

クリスマスとチャリティーが組み合わさるのも、キリスト教精神を差し引けば、似たようなものがあるのかもしれない。誰かが困っているならできることはしたい、と思いつつ、やったところで意味がない、とか、自分がまずは第一であるべき、とか、自分で作り上げた理論やら何やらで、自分の心の動きを封じ込めていた人でも、クリスマスくらいは、という気になる。それでは意味がないのかもしれない。だが、意味云々の問題ではなく、クリスマスの時だけでも善人であろうとすることは悪くないんじゃないかと思う。別に翌日には慈善を批判したっていいのだ。クリスマスはきっときっかけになりうる。キリスト教徒でなくても、心の奥の博愛を解き放てる。クリスマスは冬に明かりを灯すということなのだから。

物理的な色では乗り越えられない寂しさは、優しさが乗り越える。優しさも、一種の暖かさである。そこには色彩がある。体の細胞の一つ一つが躍るような色彩である。だんだんと、何を言っているのかよくわからなくなってきてしまって恐縮だが、要するに、プレゼント交換をし、一緒に食事をするときの気持ちだ。何も恋人でなくたっていい。家族でも、友人でも、ペットでもいい。無関係の他人だっていいのだ。

 

今言ってきたことは、まあ一種のわたしの感想である。人にとってはそれが正月かもしれない。だがわたしにとってはクリスマスである。モノトーンの冬に色彩をもたらす、心をジーンとさせるのは、なぜかクリスマスなのである。だから今年も、こんな風にクリスマスに捧げたブログを書いている。

それではみなさん、

メリー・クリスマス。

Добър Спомен〜ソフィア③〜

ソフィアでやることはもはや枯渇していた。だがホテルもとっていないので、帰るところもない。帰るところがないというのはゾクゾクを超えてワクワクするものだが、こういう場合は困ってしまう。どこか一休みできるカフェはあるか。そう思いながら眺めてみても、イタリアのようなカフェはない。市場に行ってもアテネの活気はない。博物館に入る金はない。そもそもそんなに両替していない。教会かモスクはあるが、祈る神がない。

ここにきて、私は異邦人になった。観光客ではもはやなく、居座る場所もなかった。ひたすら歩くしかない。だが、私の足は悲鳴を上げている。それは連日の遺跡巡りのせいだった。遺跡というとお足元のお悪さがお強烈におひどい。しかも歴史好きに遺跡は語りかけてくる。それに応答しているうちに、いつの間にか足をやっちまうのだ。あの感覚をわかりやすく言えば、脚が取れそうな感覚、といえる。くるぶしから先がぽろっと取れそうな感じだ。わからない人にはわからないかもしれないが、わかる人にはわかるはずである。

さらに悪いことに、なんだか頭まで痛くなってきた。元から少し痛かったのだ。おそらくバスで寝たせいだ。あまり眠れていないのだ。その上に、これは確実に自分のせいだが、ビールを飲んだことで血流がやけに良い。それにしても昼に飲んだデンマーク産ビールは多かった。

 

そんなわけで、絶不調かつ何をしたら良いのかわからぬ状態で、私が導き出した答えは、トラムに乗ることだった。元共産圏らしい素朴なトラムが街を走る姿はとても魅力があったから、今度は乗るばんだというわけだ。先ほども乗りはしたが、それは新式のトラムで、あまり風情があるとは言えなかった。こうなったら、すごく良い雰囲気のトラムに乗ってやろうではないか。さてと、どの駅に行けば乗れるだろう…

私は市場の目の前にある駅に立って、トラムが来るのを待った。するとどうだろう。良い風情のトラムが来るではないか。ところがこのトラム、立ちすくむ私の前を無情にも通り過ぎてしまう。お前に興味はない、とも言いたげである。さすが共産圏のトラムで、愛想のなさは人間を優に超えている。

だが、ここまできて諦めるわけには行くまい。私はトラムの後を追い、どこで停車するのかを探った。日差しは暑く、頭は痛い。足は取れそうだ。だが頭も足もフル回転で行こう。Quo vadis, Tram!(トラムよ、いづくにかゆかむ)トラムは答えてくれない。今のトラムは駅を背に右車線を行った。だとすると、トラムの進行方向を向いて後を追った場合、向かって右側に駅があるに違いない。右側に人混みがあればビンゴだ…!

ところがこれが見当たらないのである。なぜか駅は皆左側で、右には何もない。明らかにおかしい。世界と私、狂ってるのは多分世界だ。などと思いながら真っ直ぐ進むと、すっかり知らない街並みまでやってきた所に、トラムステーションがあった。

だが、今度はトラムが来ない。こういう場合、きちんと待てる人というのは大抵、きちんとした理由をもってトラムに乗る人だ。私の場合は、トラムに乗るためにトラムに乗るという低機能社会不適合者なので、そわそわしてしょうがない。くるのか、こないのか。こないならここを離れてもいいんじゃないか。だがよくよく考えてみれば、トラムに乗る理由がないんだから、逆にいつまで待っていってもいいはずなのだ。

結果として、トラムはこなかった。だから別のところを歩いた。すると、トラムが来た。狙っている車両だった。私はそそくさとトラムに乗り込んだ。

 

私が持っていた一日券は、トラムにも使用可能だった。とはいえ、何かピピっとやる場所があるわけでもない。多分見せればいいんだろうが、もし打刻しなければいけないなら、それはちょっと困る。何せ博物館に入るレフさえないのだ。罰金なんてごめんだ。というわけで、打刻装置に挟んでみたりなどしてみるが、電動ではなさそうだ。まあいいのかな、と思っていたら、

「押せばいいんですよ」と流暢な英語を話すおじさんが声をかけてきた。

「あ、なるほど」と言ってみたが、どこをどう押すのか。ボタンもなさそうだ。するとおじさんは立ち上がり、私の一日券を打刻機のところに置いて、打刻機を勢いおく押した。すると、物理的に打刻された。バーコードの真ん中には丸い穴が開き、明らかにこれが正解ではなかったことを物語っている。おじさんも少しバツの悪そうな顔で、席に戻った。だがなにやらおもしろそうな気がしたので、私はおじさんの前に、座っていいかと言って座った。ソフィアやブルガリアのことを知っておく必要があった。何せ私はあと5時間ほど暇なのだ。

「ソフィアは初めて?」とおじさんが聞く。

「ええ。初めてです。綺麗なところですね」

「ああ、最近綺麗になったんだよ」とおじさんは笑う。そしておじさんはずっとしたかったんだろう質問をぶつけてきた。「それで……君の出身は……そうだな……」

「あ、日本です」と私は答える。

「そうか、やっぱりね。日本は素晴らしい国です」とおじさんは言う。私は笑い流した。

「一つ聞きたいんですけど……」と私は切り出す。「ソフィアのこと全然知らなくて、どこか見ておいたほうがいいところはありますか? 教会は幾つか見ました」

「そうかあ……そうだな……」とおじさんは考えている様子だ。私は待った。しばらくしておじさんは言った。「それじゃあ、案内してあげるよ」

 

滅多にこんな幸運なことには出会えない。私はおじさんとともにトラムから降り、歩き始めた。おじさんはびっくりするくらい足が速かった。そういうものらしい。パリで街を案内してくれた友人も速かった。

おじさんのツアーは、まず、私が最初に目にした共産党本部ビルのそばから始まった。真っ先に入った教会の横を抜け、金ぴかのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂の方向に向かった。そこには官庁が集まっているらしく、あれが大統領官邸で、あれが外務省だ、と紹介してくれたあとで、建物の中庭に入った。中庭には、他の建物からは想像ができないほど古そうな建物がある。ローマ様式である。つまり、細長いレンガがコンクリートの間に挟まっている様式だ。教会だろうか。

「この教会は、ソフィアで一番古いと言われてる教会なんだ。こんなとこ滅多に人は入らないから、観光スポットにもなってないけど、大事な場所だ。だからこうやって新しい建物ができても、中庭のところに保存されているんだ」とおじさんは言った。

「これはどれくらい古いんですか?」と聞くと、

「そうだねえ……たしか6世紀くらいの建物だったと思う」という。とすれば、だいたいユスティニアヌスが皇帝だった頃だ。ユスティニアヌスといえば、ビザンツ帝国の領土を最大にした皇帝だ。ローマ帝国の時代から、ソフィア(セルディカ)は北方のゲルマン人との戦いの前線だった。しばらくすると敵はスラヴ人、つまるところブルガリア人になる。いまやブルガリアの首都なのに。だが、うち捨てられつつも保存されるその教会を見ていたら、首都はブルガリアに抑えられたものの、ビザンツの心は受け継がれているというのが見えてきた。その教会は、ビザンツ帝国が健在だった時代にはスラヴ人の中で一番「文明化」されていたブルガリア人の誇りなのかもしれない。

「すごいですね。日本だと全部木でできてるから火事で燃えてしまうんです」と私は言った。するとおじさんは、

「ああ、テレビで見たことあるよ。でもその分建築するのが速くてすごい。被災地もかなり復興してきてるんだってね」といった。

「ええまあ、でも、まだ帰れない人もたくさんいるし、それに……」

放射能汚染のあった地区?」おじさんが言葉を補う

「ええ。あそこはまだ……って感じですね」私は言った。そして、そえた。「随分お詳しいですね」するとおじさんは照れたようにはにかんで、

「はは、まあ、日本は有名な国だから」といった。「アリータも観たしね」

アリータ観たら日本に詳しくなるのかは疑問だったが、どうやら日本に興味があるらしい。

しばらく歩くと、ロシアっぽい建物が見えてきた。先程行った金ぴかのアレクサンドル・ネフスキー大聖堂のそばにあったが、先程は気づかなかった。その見た目はまさにオニオン頭の聖ヴァシーリー大聖堂に似ている。

「この教会はロシア風なんだ。ロシア人のために建てられたからね」とおじさん。なるほど、ギリシア正教会とロシア正教会は異なると聞いていたが、ブルガリア正教会も違うようで、だがそれでも、今目の前にある教会は、ロシア正教会だ、ということなのだろう。思ったより、正教会の世界は複雑である。

ここに入るより、ということで、おじさんはアレクサンドル・ネフスキー大聖堂の方へ向かった。

「これはさっき入りました」と私は告解した。おじさんはちょっとがっかりした顔をした。金ぴかで驚かしたかったのだろう。だが、おじさんの説明のおかげで、数時間前には見えなかったものが見えてくるようだった。

「この教会は、ロシア人への感謝で建てられたんだ。今でもブルガリア人はロシア人と同じ文字を使ってるし、好感情を持っているんだけど、そのきっかけになったのが、ブルガリアの独立なんだ。ブルガリアの独立はロシア人のおかげだったのさ。だからブルガリア人はここにこんな教会を建てた」なるほど。ただ、あとで知った話だが、文字に関して言えば、いわゆるキリル文字と呼ばれるあの文字は、ブルガリアで使用されるほうが早かったらしい。だから、ロシア語よりもブルガリア語のほうがあの文字にマッチしている。

中に入り、おじさんは正面をまっすぐ行き、イコンのある台の横の空間に立った。私もそれに続いた。

「ここには玉座が置かれていた。ロシア皇帝のための玉座だ」おじさんは言った。そこまでするのか、と少々驚いた。だって、曲がりなりにも別の国である。皇帝の玉座なんぞおいた暁には、それはもう「併合スル」のサインである。これが、世界史でならう「パン=スラヴ主義(汎スラヴ主義)」なのだ。スラヴ人糾合といわれてもなんのイメージもわかないが、それはつまり、他国に玉座を立てる、あるいは建てさせることなのだ。

ツアーはすごいスピードで続いてゆく。次は「聖ソフィア教会」だ。つまり、ソフィアの由来である。先程は入っていなかった場所。おじさんは中に入るのではなく、まず別の礼拝堂に入った。

「ここはすごく面白いよ」とおじさんは言う。

中に入ると、子供達が机に座って紙に何かを書いていた。そして、まるで投票するかのように、ボックスにその紙を入れている。これは何かのワークショップだろうか、と思っていると、

「ここではお願いことを書いているんだよ。お願い事を書いて、あの箱に入れたら叶うんだそうだ」とおじさんは言った。どの国も、同じだ。一神教多神教の違いをこれ見よがしに説明する人がいるが、結局求めるところは同じなようだ。と思っていると、おじさんは、

「変だと思わないか? あんな紙を箱に入れても叶うはずがない。それでもみんな信じてるんだよ」と言った。確かにそうだ。だが私はアジア代表として、

「まあ、僕の国もああいうのはあるので……」と答えておいた。おじさんはちょっとバツの悪そうな顔をしていた。日本人はもっと無神論的合理主義者だと思っていたのかもしれない。逆なのである。そういえば、フランスに行った時、同居人のドイツ人に「ドイツ人は今はきちんと合理的に考えて平和は正しいと信じてるのよ」と言っていたので、ちょっと茶化して「日本人は非合理的に、感情的に平和を信じてるんだ」と言ったら、本気の困惑の表情を浮かべていた。なぜかその一幕を思い出した。

それから、本堂へ行った。ソフィア教会は案外中は普通である。バシリカ様式の古い教会だが、イタリアのローマで感じた独特の空気感はなかった。ちょうど子供の絵を展示していたせいもあるだろう。地下に入れると言っていたが、金がないのでやめておいた(半年後に行ってみたが、この地下、ぶったまげるほど面白かった。それについてはまたの機会に)。

 

ここで問題が起こる。なんとおじさんの中でも観光ルートが枯渇してしまったのだ。おじさんはひたすら、「どうしよう……」と言っていた。まあ、ぶらぶらするだけでも良いのだが、と思っていると、

「ありえないほどでかい公園があるんだけど行くかい?よく家族で行くところなんだ」とおじさん。素晴らしい。むしろそういうのを待っていた。私は頷き、おじさんはさらに先へと歩き始めた。

途中「ソフィア大学」の前を通り過ぎたが、公園はまだ先である。私はいろいろな疑問をぶつけてみることにした。

「今日歩いていたら、道端で花を売っている人がたくさんいたんですけど、いつものことなんですか?」

「ああ、あれは今日が建国記念日だからだよ」建国記念日!そんな日に来ていたのか。にしては静かすぎないか、街。

「公園とかにも花がたくさん咲いていたので綺麗でした」

「そうだねえ……」まあ、普段から住んでいたら感じないか。「まあ中心部は綺麗なんだけど、郊外に行くと、『ダーティーコミュニスト・ビルディング(きたねえ共産主義時代建築)』ばっかりだ」おじさんは明らかに嫌そうな顔をした。

「僕みたいな日本人からすると、少し面白いんですけどね。だって、日本にはないですから」と私は言った。おじさんは、「そうかあ……」という顔である。まあそんなもんだ。欧米のアニメファンが一生懸命撮影している電線は、「早く地中に埋めてしまえ」と思う日本人もたくさんいるような代物である。

この辺で、私たちはやけに派手で、鷲の像が付いている欄干を持っているのにやけに短い橋の前に到着した。

「この橋はソフィアの有名な橋のうちの一つなんだ。でも見てごらん。川幅はものすごく狭い。なんでこんなことになったかっていうと、ソフィアには川がないのに、他の川のある街に憧れたせいなんだ。だからこんな狭い川に、不釣り合いな橋を建てたんだ」とおじさんは言った。正直これが今日一面白い話だったかもしれない。

そしてまた質問の時間へ……

「僕は旅の中でその土地のものを食うのが好きなんですけど、何か美味しいものはありますか?」と聞いた。「それとレストランか何かがあれば……」

おじさんは本気で困った表情をした。「ブルガリアに特別な料理はないんだよ……ごめんね。ブルガリアらしいといえば、『ムサカ』かな。日本人の名前みたいだろ?」そういえばそういう俳優いたな。「でもムサカはギリシアにもトルコにもある」

「ええ。ギリシアからバスで来たんですが、ムサカはありました。でも、味付けとかは……」と言いかけたら、おじさんは

「セイム・スタッフ(モノは一緒さ)」と即答した。そんなにないのか? 私はちょっと驚愕した。昼ごはんのあれはなんなんだ。是非とも、私はブルガリアンムサカを食べてセイム・スタッフなのか確かめたくなってきた。

「お菓子とかはどうですか?」と私は尋ねた。そろそろ甘いものが欲しい。

「お菓子かあ。お菓子もないね」とおじさんは言う。ないってどういうことだ、と思いながら、納得するほかなかった。

そうこうするうちに馬鹿でかい公園に着いた。本当に馬鹿でかい。さらに、ソフィアの人口のほとんどが集まっているのではないか、というくらい賑やかだ。

「今日は晴れてるからね、みんな来てるんだよ」とおじさんは言う。こういう文化は本当に良いと思う。まあそれもこれも、冬が寒すぎるせいでもあるのだが、Here comes the sunの文化はこうやって育まれている。日本の夏に、「太陽は昇った。もう心配ないよ」と言われても、ふざけるんじゃねえ、という話になってしまう。でもその代わり、日本には月があるのかもしれない。

「私はある会社に勤めてるんだけど、親会社は日系なんだ」とおじさんは言う。どういう経緯か覚えていないが、そういう個人的な話になった。だから、日本に詳しかったのだ。曰く、まだ日本勤務はしたことがないらしい。

 

しばらく公園を歩きながら話して、おじさんは駅まで送ってくれた。ホテルまで送ってくれると言っていたが、私は宿無しなので、駅がホテルみたいなものだった。おじさんとは握手して、別れた。そういえば名前を互いに名乗っていなかった。でもいいのだ。旅の面白いところはそこにある。とても仲良くなって、談笑するが、結局のところ、別れてしまえば一つの幻想である。それは「どうせ」幻想なのではない。十分満足できる幻想である。夢である。

そのあと、私はお菓子を食べたかったので、ケーキを売ってそうな店に入った。

「これはブルガリアのお菓子ですか?」と尋ねると、店員は何やらぼかしたように、

「全部ここで作っています」と言った。もしかすると、本当にブルガリアのお菓子は存在しないのかもしれない。まあ良い。欲しいのは糖分だ。わたしは、一応トラディショナルだというお菓子をもらうことにした。お菓子を持ってきた店員に、頑張って覚えた「ブラゴダリャ(ありがとう)」を言ってみたら、喜んでくれた。こういうとき、ホッとするのである。お菓子も甘くて美味しかった。これがブルガリアのお菓子なら、十分である。

夕暮れになるのを待つ。ブルガリア正教の教会の周りが夕日で赤くなる。夜の帳が下りようとしている。

 

せっかくなので昼のところとは別の場所で食べようと、おぼろげな、ソフィア経験者の友人のいったレストランの場所情報の記憶を頼りに、大通りを徘徊したが、全く見当たらない。どこをどう探しても、イタリアンとかそういうのばかりだ。一つ、「ドーブロ(おいしい)」という名前のレストランがあったが、あまりに宣伝熱心なので不安になり辞めてしまった。歩きに歩いたがないものはなく、足もやはり取れそうで、疲れが押し寄せた。私は市場の食堂を再訪することに決めた。

市場は案の定開いていて、地下に降りると、昼よりも活気があった。列も出来ている。トレーを持ち、私は食堂のおばちゃんにはっきりとオーダーした。

「ムサカ……モーリャ(ムサカ……ください)」

するとおばちゃんは何やら言う。まずいわからんぞ、と思っていると、おばちゃんは必死で思い出してるぞという表情で、

「アー……ライス、OK?」と訪ねてきた。じゃかいもとかじゃないぞということなのだろう。もちろん問題ないので、頷いた。

サラダのコーナーにさしかかった時、前にいた屈強なおじいさんが、話しかけてきた。

「チャイナ?」

「ノー、ジャパニーズ」というと、おじいさんは目を輝かせた。

「オー!ジャーパーン!ブルガリア、アンド、ジャパン、グッドリレーション(ブルガリアと日本はいい関係だぜ)」とおじいさんはいい、手を差し出してきた。私たちはなぜか握手を交わした。国交樹立だ。ここに至って私はブルガリアに降り立った時の感覚が正しくないことを悟った。確かにギリシアほどの愛想はないが、ブルガリアにはブルガリアの心があり、そしてそれはとてつもなく親切な心なのだ。

せっかくなので、そのおじいさんにサラダのお勧めを聞いた。するとおじいさんは正しく私が昼に食ったきゅうり&トマト&フェタチーズサラダを指差して、

「グーッド」と言ってみせる。そう言われたら食うしかない。私はトレーに置く。すると、おじいさんはおもむろにプリンっぽい食べ物を取り出し、私のトレーに置いた。

「グーッド」とおじいさんは嬉しそうに言う。そして自分のトレーにも置いた。これでちょっと値段が上がったかな、とわたしはビールを頼まずに会計に進んだ。だが、正確な数字は忘れたが、昼より安かった。フレンドシッププライスになったのか、デザート込みでセットだったのか、ディナーは安いのか……その答えはわからなかったが、なんとなく気分がいい。私は席に着いてから、ビールが飲みたくなっていたのに気付き、会計のおばさんのところへ行き、

「ブルガリスカエ・ピーヴァ、モーリャ(ブルガリアン・ビアー、ください)」とブルガリア後らしき言葉で伝えた。するとおばさんはちょっと感心したようにビールをくれた。しかも安い。だが、ビール瓶を見ていて気付いたのだが、ビールはブルガリア語で「ビラ」、ブルガリアの、は「バルガルスカ」なので、「バルガルスカ・ビラ」が正解らしい。

さて、ムサカだが、おじさんの言葉とは裏腹に、やはり独自の味がした。煮込み料理というよりもソースという感じで、ライスにもよくあっているし、うまい。それにビールも合う。にしても、やはり中瓶は多い。バスの中でよく眠れそうだ。ちなみにサラダは昼食べた時よりきゅうりが控えめで、ずっと美味しく感じられた。そしてプリンらしきお菓子は……まごうことなき普通の焼きプリンだった。やはり独自のお菓子はないんだろうか……?

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充電出来なかったスマートフォンの電池の関係で、今回の記事に該当する写真はこれしか残っていない。ムサカである。

 

外に出ると真っ暗だった。もうあとは、バス停に向かい、イスタンブールへと一路向かうだけだった。走ってイスタンブールブルガリアも結果的にいいところだった。見るところという見るところは少ないかもしれない。だがそれ以上の何かがこのソフィアにはある。

幻想の家

徐々に明かりが消え、うっすらと画面が広がるのが見える。

しばらくすると画面は輝き、そして物語が始まる。

私たちはいつの間にか物語の中にいて、物語となっている。

夢か現か、現実か幻想か、そのはざまで揺れ動く。

 

それが映画だ。というか、映画館だ。

映画館で映画を見るのは、大画面で楽しみたいから、という意見は結構聞く。だが私にとってはあまり画面の大きさは重要ではない。その証拠に、映画館に行って、ものすごい画面で見られる場合でも、大抵は無視する。小さいくらいでちょうどいいのであり、映画館の規模もそんなに大きい必要はない。私にとっては大事なのは、映画館が幻想への入り口になってくれる、ということである。

実際、映画館と入り口である。それは劇場と一緒だ。まず、映画館のロビーから独特の雰囲気で、これから映画を見るんだなというワクワクした気持ちを喚起させてくれる。ポップコーンの香り、ワチャワチャしたCMも良いが、もっと小さな映画館のみんながソワソワしているのも良い。チケットを買い、飲み物を買い、ときにパンフレットを買う。それらの行動は皆、映画へのワクワク感を増幅させる。なぜだろう。それはわからない。だがここから幻想への入り口は広がっているように思えてくる。

チケットを切ってもらい、上映室に入ると、幻想への扉は開かれる。だがまだ、入り込み切れるわけではない。映画を見るぞ、というワクワク感は最高潮となり、姿勢も映画鑑賞に一路向かって行く。

やはり決定的な瞬間は、暗くなった時だ。画面が大きくなる時だ。小さい頃は不思議だった。なぜ画面が横に大きく広がってゆくのだろう。理由は単純で、かかっていた幕が開いていっているだけだった。だが私はまだ画面が広がってゆくように見える。視野が広がるようにだ。それが来たらソワソワは終わる。つまり、幻想がスタートする。私たちは幻想の中に入る。

 

映画とは、写真をつなげ合わせたものである。なぜ動くように見えるのかといえば、それは映写機が写真を運動に乗せているからであり、実際の動きそのものとは異なる。いって仕舞えばフェイクである。それはそうだ。だが、それでも私たちが映画に惹きつけられるのは、新しい技術のおかげではないだろう。そうであれば古い映画なんて見てはいられないはずだ。実際、以前テレビで「アルゴー船の冒険」や「シンドバッド」を見た時は笑ってしまった。出てくる怪物の動きが常に、やけに、カクカクしているのだ。だが、それはそれである。映画の中では、オードリー・ヘップバーンに恋をし、ハンフリー・ボガードに憧れて、ジャック・レモンと爆笑して、チャップリンに笑顔を差し出すことができる。現在のほうが格段に技術は上がっているが、リマスターしなくても伝わってくるものは多い。銀幕の世界は、まぎれもない現実のように現れてくる。だがその一方で、どこか宙に浮いたような気持ちになるのは、オードリーとデートをし、ルークとともに暗黒と戦っていても、私たちは自分が着席していることに体のどこかで気づいているからだ。

つまり、私たちは幻想の虜になっている。それも、かなり現実的な幻想だ。そこにあるのは映像だが、映画の中はリアルだ。うまく幻想に誘ってくれさえすれば、カクカクとしたクリーチャーも問題はない。現に、今見れば結構粗雑に見える「スターウォーズ」のATATも、スターウォーズの力があれば、「そういうもの」として見えてくる。要するに幻想は画質や、映画がもともとは有している機械仕掛けを超えてくる。その一つの契機が、映画館の暗さなのである。映画そのものの力は大きいが、映画館の暗転はそれにそっと一押しをしてくれる。

 

そっと一押し。そこにたぶん、映画館と劇場の違いがあるだろう。劇場は、常に幻想の舞台である。だが映画館は幻想の入り口である。まさに扉のように、幻想が解き放たれるのを守っている。暗転とともに扉はパタンと開き、私たちは幻想に誘われて、幻想を生きる。映画の終幕、そして電気がつくと、私たちは一気に扉の外に、「ワッと」引き戻される。私たちは数人で映画を見に行くことがよくある。だが、実際には、幻想の最中は常に一人なのだ。仲間との合流は終幕後に突然行われる。まるで転送されたみたいに、隣の同伴者は電気の明かりとともに登場する。

映画館は一個の魔法の小屋である。だが入室も退室も不思議なことに椅子に座ったまま行われる。それはちょうど、プラネタリウムに似ている。プラネタリウムも、暗転とともに私たちは宇宙に飛ばされ、戻ってきた時には、突然同伴者の姿を確認する。映画も同じようなことが起きている。あの幻想的な体験は何者にも代えがたい。私が映画館で映画を見るとしたら、それはその体験をしたいと思うときである。大画面より、やはりそこが魅力的だと感じている。つまり、幻想を幻想として体験したいかどうかである。

 

明日、スター・ウォーズの最後の作品を観に行く。これからも続くらしいが、それでもやはり最後は最後である。きっとこの核心には意味があるのだろう。

立場と発言は切り離せるか

二週間前くらいだったと思うが、「立場と発言は切り離せるか」というテーマで哲学対話を行った。例えば、警察官の子供が、もしとても道徳的ないし法的に正しいことを言ったとする。そうすると、周りの人は、「おとうさん警察官だもんね」というだろう。一方で法律なんてくそくらえだというようなことを言ったとする。そうすると、周りの人は「あー、お父さん警察官だからね。逆にそうなるか」となる。自分の意見をどんなに真摯に伝えても、すべてそこに回収される。あれはなんなのか、というような話が発端だった。

今言ったのは自分ではない誰かの立場に、自分も組み込まれてしまう例だが、多くの場合は、自分の立場と発言の方がよく起こることだろう。政治欄のニュースなんて見てみれば、かなりの度合いを占めるのが、立場と発言についてのニュースである。「環境大臣」が取り組みをアピール、「環境大臣」がステーキを食べて批判を受けた……。私たちの社会は「立場」でできていると言える。時に、「立場」は大人の世界のもののように言われるが、それは多分違うだろう。社会に出ていなくたって、「立場」は私たちと関わりを保ち続ける。

 

大学院生にもなると、「立場」というものが感じられるようになる。というのも、私は大学院で哲学を専攻しているが、私が特に好きなアンリ・ベルクソンが、私の立場とかしてきているのである。ゼミの時間に本を読んでいたとしよう。教授は言う。「これはベルクソンへの批判かもしれない」と。すると私はなぜか応答義務を負うわけだ。「ベルクソンは〇〇という作品の中で△△と述べているので、この批判は的外れなんじゃないかと思います」云々。哲学の「研究対象」ともなると、自分も影響を受けているし、自分の考えにも似ているところがあるから、喋っているうちに私がベルクソンなのか、ベルクソンの話をしているのかがわからなくなってしまう。それには違和感があるのに、不思議なことに私はベルクソンとして話してしまう。

「立場」というものには、この窮屈さと自発性が絡み合って出てくるようだ。人は自分を立場で評価し、自分も自分を立場の中に入れてしまう。それを助長する何かがある。それは、ほんの些細な、小学校のクラス内で起こることにも見え隠れする。例えば、授業中に手を上げて、当てられた生徒が、「先生! おしっこ〜」と言ったとする。これはウケる。だからこの生徒はどんどんふざける。どんどんふざけると、周りからは「おふざけ担当」の立場として見られる。すると、自分も「おふざけ担当」の中に入り込むので、いざ真面目な発言をしたくなった時に、言い出しづらくなる。これはまた逆もしかりで、「勉強できる人(ないし「頭がいい」人)」は、ふざけたことを言うと、先生からもクラスメイトからも「キャラじゃない」と言われる。これは「立場」というより「キャラ」の問題だが、似たようなものがあるように思える。

 

だが、よくよく考えてみれば、立場を守る必要なんてないのである。自民党党員だからといって社会主義の方がいいと言ってはいけないはずはないし、逆に共産党員が共産主義を批判してはいけない理由はない。何らかの制裁は加わるかもしれないが、一人の人間として、それを行ってはいけないということはない。むしろ立場のせいでうまくいかなくなる物事も多いだろう。だがそれでも立場というものに固執し続けるのにはどんな理由があるのか。

それは私が思うに、たぶん、「困るから」である。どのようにして相手を見ていいかもわからないし、自分もどのように自分を見ていいかわからないのである。私たちの心は実は流動的で、思ったよりほいほい変わる。身体だって有名な話だが新陳代謝を繰り返している。してみれば、固定的な「私」なんていうものは多分ない。あるとすれば、ひたすらに流動的な「私」だ。だが、それは怖いのである。自分も相手もわからなくなる。相手は立場がある人なのか、それともそんなものない人なのか。自分はどんな人で何を考える性格なのか。それがわからなければどうしたらいいのかわからない。会話もそうで、会話が成立するためには相手がどんな人なのかひとまずわからないといけない。例えば、政治の話をする時は、その人が「〇〇主義者」でなくては困る。要は、レッテル張りである。レッテルを貼ってしまえば、誰もが安心する。会話も成立する。相手が何者なのかがわかる。相手や自分を理解するということは、実は、相手や自分を何かの枠にはめて考えているのかもしれない。「私はこういう人」「あなたはこういう人」と。就職活動ではまず「自己分析」をしろと言われるが、それは他でもない、その人に貼るレッテルをその人に作らせ、そのレッテルを見て、お手軽に相手を理解したような気になるためだ。その方が確実に効率がいい。人柄重視というのは要するに、レッテル重視なのではないか。本当に人柄重視なら、全員即採用である。

さらに、立場の場合は、それを理由にして人を攻撃することができるということもある。「なぜステーキを食べたんですか?」「そりゃ、ステーキの気分だったから」というのが真理だが、「なぜ環境大臣として行っているのに、ステーキなんですか?」とジャーナリストは聞かなければならない。そして、それに対して明確な答えを持たない人は批判対象になる。「立場をわきまえない」人だからだ。だがこれはただのむやみやたらな攻撃ではなく、立場の道徳とでも言えるようなことに関わっているのだろう。「ジャーナリストとして」質問し、「大臣として」大臣にふさわしい行動をとる。いわゆる職業倫理の問題だ。つまり、立場にふさわしくない発言への批判というのは、職業倫理侵犯を訴えるということである。

だがそれも、実はレッテルなのではなかろうか。本来は、仕事をしていればいいはずだ。仕事をしていないのなら批判されても仕方がない。だが「あまり環境によろしくないタイプのステーキ好き」の環境大臣がいてもいいはずだ。それは個人の好みなのだから。だが立場はいつの間にかその人の人格・行動のすべてを包み込んでしまうのだ。いつの間にか立場がその人と一体化する。「公私混同だ」と批判する人は、相手の公私を混同している。こうした批判が無意味だとは全く思わないが、行き過ぎると立場が人を食らいつくしてしまう。

立場というものは、とても便利である。主張し、批判し、反論する時、固定化した立場があるからできるということは多い。役職でなくても、キャラでも、私たちはいつからか常に立場の中にいるのである。安心させてくれる「立場」の中に。

 

だから、「立場と発言は切り離せるか」という問いは実はあまり正しくない。なぜなら、「切り離せるか」「切り離せないか」の二択の答えがあるみたいだからだ。私は切り離せると思う。だが、多くの場合は「切り離さない」のである。だから問うべきは、やはり「なぜ切り離さないのか?」だ。そしてその答えは、「安心させてくれるから」だろう。立場は生存するのに非常に重要で有用だ。目の前にいる相手は何をするかわからない不審者ではなく、立場ある人になる。自分は揺れ動かず、何か一貫性が見えてくる。だから私たちは自発的に立場を持つ。

しかし、それは時に窮屈だ。自分を自分で制限してしまうからだ。なぜ立場ある人間は仕事をすべてほっぽり投げてどこかへ旅に出てはいけないのだろう。人に迷惑をかけるからだ、というが、私たちは生れ落ちた瞬間から人に迷惑をかけ、迷惑をかけられている。迷惑をかけるからダメだ、ということは、裏を返せば寛容さが足りないことに他ならないこともたくさんある。だが、多くの場合そんなには開き直れないものだ。そんなとき、立場をおままごとの役職のように捉えられればもっと気軽になるように思う。これは遊びだ、いまは社長だけど、別に社長じゃなくてもいいんだ、と。

映える写真、臭わない記憶

時々、Facebookなどを見ると、誰かの旅行先の写真が載っていることがある。稀に、そうした写真の一部は、私も以前行ったことのある土地のもので、そうすると、ちょっと見てみようかなという気持ちになる。だが大抵の場合、言いようもない違和感が待ち構えていることになる。その違和感とは、写真の向こうの風景が、明らかに知っているものと異なる、というようなものである。この違和感は別に「写真の撮り方が悪いのだ」というようなものではない。つまり、批判云々の話ではない。ただ、何かが違う、そう感じてしまうのである。

どうして、写真の向こうの風景と、私の知る風景はこうも違うのか。一つには、行くスポットの問題がある。端的に、写真を撮った人は私の知らない場所に行っているのだ。台湾で言えば、私は台風等の影響により、有名な九份に行っていない。だから、私は九份の夜景や、あるいは、お願い事を書いた気球を飛ばす写真を撮ることは原理的に不可能なわけだ。

さらに言えば、カメラを向ける対象の問題もある。私のカメラロールに残る写真を言えば、汚い定食屋などだが、多くの場合それは被写体として認識されていない。やはり多くの人が撮りたいのは綺麗なビーチだったり、色とりどりの美しいスイーツだったりだ。路上や食堂を撮って何の意味がある、というわけである。これはある意味で、美的趣味の問題かもしれない。

だが、私がああした写真を見る際のちょっとした違和感のようなものは、それだけではないように思う。もっとこう、写真に写り込んでいるはずの人がいないレベルのものなのだ。

 

おそらく、この違和感の正体は臭いである。インスタ映えを狙う写真には、そこにあるべき臭いがしないのである。これが顕著になるのは、東南アジア系の写真だ。例えば、ヴェトナムにはダナンという新興のリゾート地があるが、あそこのビーチの写真が「映える」加工を施された状態でアップされているとする。おそらく空は水色で、海も同じように明るい色。ビーチの砂も美しいのだろう。こうした写真は非常に美しい。ところが、どうしてもダナンではないのである。

なぜなら、ダナンは見た目だけではないからだ。ダナンがダナンであってワイキキでも沖縄でもない所以は、臭いや空気感、そして音であろう。リゾートらしい風景の裏には、ヌクマムと呼ばれる魚醤の臭い、肉を焼いた臭いがする。風はカラッとしているとは言い難いが、重すぎない湿気を伴っている。遠くの方ではププーーーッとけたたましいバイクの音が鳴り響く。声も聞こえてくる。途切れ途切れに旋律をかなでる、14の母音と6の声調をもつ言葉、言葉、言葉。そうそれは紛れもなくヴェトナムであって、ヴェトナムのエネルギーがそこらじゅうにうねっている。

ところが、映えるダナンにはそれがない。ダナンのみならず、フォーの写真にしても、チェーの写真にしても、完全なる捨象が行われている。台湾もそうだ。台湾の写真として上がっている写真のほとんどには臭いが染み付いていない。実際に行けばわかるが、台北の街は、排気ガスと、八角と、湿気と、かすかな臭豆腐等々から構成されている。しかしよく写真になっている綺麗な夜景は、ただの綺麗な夜景であって、生活臭はしないように思うのである。もっといえば、パリなどもそうで、やけに暖かそうな、おしゃれな街パリの写真は、パリではない。一部ではあるかもしれないが、パリの臭い、香水の混ざり合い、時々セロリなどの野菜も混じり、そして雨の日には泥の臭い混ざり込む、あのパリの臭いはそこからは捨象されている。フランス語の本来は素朴な音、台湾人の柔らかい台湾華語、イギリス人の弾丸のような英語、ドイツ人のじゃがいも味のドイツ語……いったいどこへ消えたのかと思うほど、綺麗に切り取られている。

もちろん写真は視覚芸術である。とはいえ、視覚芸術であっても臭いや音を蘇らせる力を持つものはある。コローの絵は泥臭いし、印象派は暑い。写真の中にも、雑踏の声すら蘇らせてくれるような写真はある。だから出来ない相談ではないのだ。強いて言えば、インスタ映えというのはきっと別のことをしようとしているように思う。つまり、私が以上のようにつらつらと述べてきたことは、インスタ映えにとってはゼロなのかもしれない。

 

というのも、だ。私はずっと「臭い」と言ってきた。「香り」でもなければ、「匂い」ですらない。「臭い」だ。Frangranceでもperfumeでもaromaでもなく、smellだ。つまるところ、こいつはちょっと汚いのである。食べ物の臭いはくさいことがあるし、排気ガスは体に悪い。雑踏の声はうるさいし、蒸し暑いのは勘弁だ。一つ一つが溶け合ってその街やその経験の印象となるが、不快な要素でもあるもの。それが「臭い」である。

インスタ映え写真には消臭効果がある。画像に加工を施すことで、その時の知覚そのものすら変える。赤はピンクに、青は水色に、食べ物の臭いは甘い花の香りに変わってしまう。そう、よくよく考えてみれば、臭いは捨象されている代わりに、ああいう写真には香りが付いている、という印象を感じることは多々ある。納豆はゴミ箱に捨て、代わりに甘い香りのジェリービーンズを添えるというわけだ。すると、思い出は変容し、「盛られる」ことになる。どんなに泥臭い場所でも、どんなにけたたましくても、画面の中にはお花畑が溢れ出る。いろいろな香水と野菜やら犬のフンやらの臭いが入り乱れたパリの臭いは、単一の、気分も晴れやかになる香水の匂いに転換する。

いってみれば、インスタ映えを狙うカメラは、スカウトマンの視線なのではないか。田舎くさい少女が、化粧を施せばスーパーモデルになるかもしれない。そんな少女を見つけたら、スカウトをして、化粧を一から施し、香水をふりかけ、方言は封印してもらう。出来上がるのは都会のスーパーモデル。写真も同じように、加工を施され、音や臭いは抑えられる。映画「マイフェアレディ」のようだ。ロンドンの貧民街の少女は、すっかり上流階級のお嬢様として社交界デヴューを果たす。

だが、ヒギンズ教授が訛りのきつい昔のイライザの声を録音したレコードを聴き、微笑むように、私は寂しさすら感じてしまうことがある。あの臭いは、あの臭みはどこへ行ったのか、と。スカウトされ、化粧を施されたが最後、経験は視覚だけを切り取られ、さらに生の、臭みを伴った色は「映え写真」の範型ないしモデルのようなものの中に整えられてしまうのだから。

 

とはいえ、加工に加工を重ねるタイプの写真が、無視できないほどの多大な努力の基に成り立っているのは確かだ。それは化粧やファッションと同じである。それは一個の作品である。庭師が木を美しい幾何学的な庭の一部にするのと同じように、目に見えるものに加工しがいを感じ、一つの作品に作り直している。その作品はどこか、ある範型を手本にしたりしているようでもあるわけだが、なんとか、その範型の範囲内での最高のものを目指して作り上げているように思う。

そういう意味で、しばしば「インスタ映え写真」と対置されているらしい「エモい写真」もまた、結局は同じ範疇のものなのではないだろうか。あのような写真にも、多大な努力が加わっている。加工する場合を考えてみれば、それはあきらかにやっている努力としては同じである。エモくなりそうな風景を発見し、エモいフィルターにかける。大抵は緑がかっていたりするようなあれである。光を調整し、エモさを演出する。ここでも実物の臭いは捨象される。あるいは誇張される。エモかろうが、エモくなかろうが、すべてはエモくなる。東京の夜景は、雨の日には確かにエモい。とはいっても、エモい写真の夜景には足りないものがある。けたたましい「バニラ」宣伝車の音や雑踏から聞こえてくる声だ。「バニラ」の放つ光、雑踏の見た目はもちろん、そこにあるだろう。それがエモいと言えるなら、なんでも入るだろう。むしろ雑多な風景は大歓迎だろう。

だがエモい光の世界とリアルな世界には、どこか断絶がある。やはりエモい世界からは汚らしいものは捨象されている。構図もそうで、画面に入れたくないものは、そこから捨象される。汚い部屋は綺麗にされ、エモい街はエモくない異質なものを排除する。「バニラ」の広告が光に滲んでいるのはエモいが、「♪バ〜ニラ、バニラ、バ〜ニラ、求人」の音声はエモくない。端的にうるさい。あるいは端的に笑える。だから、排除が起こる。ノスタルジーの世界にはそんなものはいらないのだ。一見、「日常を切り取った」画面は、作られた構図の下にある。作られた質感の下にある。そういう点で、エモい写真とインスタ映え写真は決して別のものではなく、同列にあるのである。ただ目指すものが違う、というか、受け入れる範型が違うのである。

 

何度でも言うが、別に批判したいのではない。要するに、インスタ映え写真もエモい写真も、本当に「日常を切り取った」わけでも、純然たる「旅の記録」でもなく、そうした経験の世界にある有望な素材を切り出してきて、化粧を施した作品だ、ということを再確認してみたくなっただけである。

経験は、まるっと全体的である。どんなものも入り込む。溶け込む。音も光も質感も、あらゆるものが経験になる。日常や旅もそういうものである。化粧を加えたものは、それそのものではありえなくなる。もちろん、印象を誇張によって表現する場合もある。だが、あくまでも私は、ということになるが、印象を誇張してしまっては、本当の印象を伝えることはできないように思う。というのも、色彩を華やかにするにせよ、ノスタルジックにするにせよ、それは結局、経験をある枠内に、ある世界観の中にしまい込んでしまうことになるからだ。閉じ込めてしまうといってもいい。

ただ、だからと言ってそれが悪いわけではない(何度も言う)。ただ、私とは物事の捉え方がきっと違うのだ。

私にとっては、少なくとも私にとっては、この世界と経験は化粧などなくても、それだけで心動かされるし、笑えるものも腹立たしいものもひっくるめて丸っと「エモい」。写真はそのような経験を思い出すためのトリガーにすぎないから、良いカメラを買おうとか、インスタをやろうとかは思わないのである(祖母と父は写真が好きなもんだから、私が毎回旅先でスマートフォンのブレブレの写真を撮ってくることに疑問を持っているが、私にとってはどうでも良いことだ)。逆にトリガーとしての役割がなくなるほど加工するのは、非常に私的な抵抗感を感じるのである。別に食べ物の写真が美味しそうに見えなくたって良い。そういうのは大抵、美味しそうに見えなかったのだ。でも匂いやら何やらで美味しさを感じていたのだ。そこの改ざんはしたくない。加工すれば伝わりやすいという意見があるかもしれないが、私は御免こうむりたい。それは「あれ」ではないからだ。

 

……などと格好つけて言ってみたものの、

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この写真は、ちょっとキメちゃったな、と思ったり。

『最後の審判』とカツレツ

誰しも教訓となることの一つや二つある。かのシャーロック・ホームズも、自らが尊大な振る舞いをしたら、自身の推理が外れた事件を思い出すために「ノーバリ」という地名を耳元で囁いてくれ、と言っている。エルキュール・ポワロにとってのそれは「チョコレートの箱」だった。そして私にとっては、『最後の審判』、あるいはカツレツである。

最後の審判』も、カツレツも、私の人生観を一つ変える存在なのだ。

 

昔、画家としてはミケランジェロが嫌いだった。どちらかといえば、レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロのような絵が好きだった。ミケランジェロの彫刻は、そりゃ大したものである。だが、絵となると、人物が皆筋肉の肉襦袢を着ているようで、馬鹿らしい。端的に言って滑稽だ、などと思っていた。こいつはきっと、彫像の中で肉体を表現するように、絵画の中でもやろうと試みて、うまくいかずにあんな感じになったに違いない。何が万能人だ、彫刻屋としてやっていればいいのに、とまで思っていた。

だから、初めてイタリアに行き、ヴァチカン博物館内のシスティーナ礼拝堂に行くことになった時も、大して期待はしていなかった。私としてみれば、ラファエロの「アテナイの学堂」や、ローマ皇帝の彫像などを眺めていられれば十分であり、システィーナ礼拝堂はおまけに過ぎなかった。何故あんな肉襦袢をありがたがっているのか。

ところが、である。システィーナ礼拝堂に入り、天井を見上げた時、私がとんでもない誤解をしていたことが白日の元にさらされた。ミケランジェロの肉襦袢は、均整のとれていない肉襦袢ではなく、計算された構図だったのだ。つまり、私が天井を見上げた時に目の前に現れたのは、3Dの最後の審判だった。預言者たちはまさにそこに立ち、イエスもそこにいた。この天井画はもはや天井画ではない。そこに天井というものすらない。それはそこで繰り広げられる何らかのドラマだった。いつまでも見ていられる代物だった。人物の一人一人が浮き出ているのだ。それぞれと顔を合わせざるを得ない。肉襦袢は、天井という場に、最後の審判を宿らせるための計算だったわけだ。平面の写真を見たところで何の意味もなかったのだ。私はミケランジェロの天才性をまざまざと見せつけられた。要するに、私の先入見がこの審判の場にかけられたのである。

それ以降、私は写真で美術作品を先に判断するのがバカバカしくなった。というは、無性に恥ずかしくなった。あいつの絵はあーだこーだということそのものも、恥ずかしい。またいつ審判にかけられるかわからない。いや、かけられるだけマシだ。かけられなければ、知らないまま、自分のヘイトに囚われるという地獄にそのまま気づかれぬままに堕ちるのだから。だから、黙って見ろ、というのだ。絵の真理は絵の中にある。

それ以降の経験で、この教訓は裏付けられていった。

例えば、ターナーである。私はターナーなんて何を描いているのかわからない、ピントボケボケの絵だと思っていた。全体的にぼやっともやっとしている絵の何がいいのか。きっと、いいなんて言う奴は、きっと『坊ちゃん』の太鼓持ちのようなやつなのだ。とはいえ、「ミケランジェロ・ショック」もあったので、私はあえてターナー展に行ってみた。するとどうだろう。ターナーの絵は決してピントぼけぼけな謎の絵画ではないではないか。画面の中には動きが凝縮されていた。視覚的情報だけではない何か、質感と言っていい何かが迫ってきている。ターナーは動きを描いている……

もっと最近で言えば、印象派なんかも同じような体験をした。私は相変わらず印象派にも良い印象を持っていなかった。というのも、これもまたボアボアしているからだ。はっきり描けよ、と言いたくなる。だが、パリのオルセーで見た印象派は違った。彼らの絵はリアリティで溢れていた。彼らは空気まで描くのである。

あまり自信はないのだが、確か、ドイツの思想家ベンヤミンは印刷技術の発展によって、「本物」という概念が薄れてゆくと言っていたような気がする。それというのも、本物が持っている「アウラ(オーラ)」は、一つしかない、という「一回性」に寄っているからだ。だが私は違うような気がする。写真で見た絵と本物は明らかに違う。「本物だから」と思って見ているかではないか、という指摘は的外れだ。なぜなら、私が本物とコピーの間の差異を感知するのは決まって、写真となった絵画に好感が持てなかった場合だからである。実物の絵には、写真では写しきれない本物らしさがある。画家の意図がにじみ出ていて、色すらも異なっている。場所、色、光の具合、筆のタッチの質感……違いを生み出す要素は数あるだろうが、やはり本物の絵はそうした要素とともに、何かを訴えてくる気がする。本物の絵には、何かがある。

 

そろそろカツレツの話をしようか。

カツレツと言っても、洋食のカツレツではない。以前ザルツブルクで食べたヴィーナー・シュニッツェルである。実を言えば、ヴィーナー・シュニッツェルとは、ウィーン風カツレツのことなので、ザルツブルクで食べるというのは非常に馬鹿げた花時なのであるが、ウィーンで食べたシュニッツェルは駅のファストフードだったし、最初に食べたヴィーナー・シュニッツェルはザルツブルクのものだったので、その辺は大目に見て欲しい。

私は食にはうるさかった。要するに私はいろんなものにうるさかったのだ。食に関して言えば、その昔は、甘いものとしょっぱいものを混ぜるのが大嫌いだった。よくやり玉に挙げられるが、酢豚の上のパイナップルなど言語道断であった。他にも、サラダに入ったキウイフルーツやりんごなども嫌だった。ソースが甘いというのもダメだった。

そうしたこだわりを破壊したのがこのカツレツ事件なのである。シュニッツェルを頼むと、横にベリーのジャムが付いてきたのだ。「ベリーだと?」と思った。カツレツ+ベリー。それは犯罪である。だが当時は、いろいろな事件を経て、私の心は昔よりも開かれていたし、旅を通じて自由になりたかった。そこで私はベリージャムを塗ってみた。

これがうまかったのだ。ちょっと酸っぱく、程よく甘いベリージャムが、不思議なことにしょっぱい肉にマッチしていた。そんなことがあるとは思っていなかったので拍子抜けしてしまった。それ以降私は色々やるようになった。もちろんあまり好きではない組み合わせはあるが、頑なに拒むのはやめることにした。味わってもいないのに嫌いというのはアホくさいからだ。それは錯覚であり、悪循環である。味わっていないから、嫌いになり、嫌いだから、味わわない。それはなんか嫌である。

カツレツとジャムの組み合わせは、自由と解放の味である。私が閉じこもっていた何かから引っ張り出してくれたからだ。それ以降は、あまり好き嫌いを言わなくなった気がする。馬鹿らしくなったのだ。いや、実際には言っているのかもしれないが、少なくとも、もし好き嫌いを押し出していたとしたら、そんな自分を叱りつけてやりたいとは思っている。もちろん人には強制しない。これは自分のための、ルールを作らないルールだ。自分の言葉が引き金となり、勝手に自分を制約しないための。

 

私たちは喋りすぎているのかもしれない。主張しすぎているかもしれない。何かが好きで、何かが嫌い。そう主張することがあたかも個性かのように感じている。だがそう言ったことをするあまり、自分のナマの、現場の感覚に嘘をつき、さらには自分というものを自分で造った檻に閉じ込めてしまう。昨日嫌いだった食べ物が今日は好きかもしれない。嫌いだと思っていた画家の絵の中に、すごく好きな絵があるかもしれない。言葉は時に大股がすぎる。「印象派の絵は好かない」という時、いったいどの絵の話をしているのか。それはいつ感じたのか。そういうことは覆い隠されてしまう。もしかしたら、写真を見ただけかもしれない。もしかしたら、その絵が嫌いなのではなく、その絵の良さがわからない、それでいて世の中的に評価が高いことが腹が立つ、ということかもしれない。どれも正直な気持ちだが、ちょっと待て。主張して何になる?あなたにとってカセになるかもしれない。

私は、少なくとも、今まで、いや今も、かなりのカセと頑丈な檻を築き上げ、自分を閉じ込めてきた。それが個性的だと信じていたからだ。だが、『最後の審判』とカツレツは、嘲笑う。主張に主張を重ねる人は、自分の性質を明らかにしているような気になっているが、それは自分勝手な決めつけにすぎない。だから、もっとオープンになっていいはずだ。撤回していいはずなのだ。そうすればもっと自由に、いつもは見えてこないものをもっと見ることになるかもしれない。

だから私がまたも何か主張し始めたら、耳元で囁いてほしい。私自身もできるだけ囁くつもりだ。

「『最後の審判』とカツレツ」と。

イヤフォンについて

ポータブル型の音楽機器が発明されて、私たちはどこにでも音楽を持ち運ぶことができるようになった、と言われる。それまでは音楽はでかいスピーカーから流れるものだった。いやもっと昔に戻れば、楽器から発せられるものだった。そういう意味で、確かに現代人は音楽を持ち運び、イヤフォンを通じて、人の目を気にすることなく、個人的に、音楽を楽しむことができるようになったといえる。

だが、イヤフォンとはそれだけのものなのだろうか。もしそれだけだとしたら、みんなかなりの音楽好きだったというわけだ。だが、実際はどうだろう。持ち運べるようになったから、音楽好きが増えたとも言えるだろう。だから、きっとこの装置の発明は、もっと大きな意味があったと考えられないだろうか?

 

ある年配の教授が、ポータブル音楽に眉をひそめていた。無理もない。年配の教授という動物は、多くの場合、あらゆるものに眉をひそめるようにできている。それが生存戦略というものだ。音楽は文化であって、コンサートホールなどで聞くのが本来のきく仕方で、それを個人的に、機械を通じて聞くのは安っぽい。まあそう言われて仕舞えばそうなのかとも思う。それに個人的に、という部分はよくわかることで、私たちはイヤフォンで音楽を聴くことで、心を閉ざしてもいるのだ。

以前フランスを旅した時、私はイヤフォンで音楽を聴きながら車窓を眺めるのが好きだった。席に着くと、前に中年の女性がいた。私はにこやかに挨拶をして、イヤフォンをつけて車窓を眺めた。中年の女性は話しかけ違っていたが、別の、隣の女性に話しかけた。「向かいの客はイヤフォンつけちゃったから会話ができない」みたいなことを言っていた気がした。その時私は無性に恥ずかしくなった。心を解き放ちに来ているのに、心を閉ざしていたのだ。

これは電車好きの母が言っていたことだが、電車内の音も心地が良い。がたんごとんも良いし、話し声も良い。旅に出れば、アナウンスだって良い。だが、イヤフォンは全てを拒絶し、自分の利害関心のあるもの、すなわち聴きたい音楽だけに私の耳を集中させる。最近では旅行中、あまり音楽は聞かなくなった。飛行機とバスくらいである。ただ、バスでも心を閉ざすのはちょっと嫌なので、つけていないこともある。

 

それでも、イヤフォンで音楽を聴くことは、日常的には止められないし、飛行機では何かしらを聞いている。なぜだろう? 音楽を聴きたい、ということもあるだろう。だが、音楽を純粋に聴きたいのであれば、それこそコンサートかライヴに行った方が良い。音楽を聴きたい、という欲求が、映画が観たい、とか、絵画が見たい、という欲求と同じようなものだとしたら、つまりトイレに行きたいという欲求と違うなら、いつでもどこでも聴ける必要はないだろう。ではどうして、イヤフォンを持ち歩き、イヤフォンがないとがっかりした気持ちになるのだろうか?

 

これを理解するには、「知覚」のことをもっと考えないといけない。私たちは耳からは音を、目からは光を、舌からは味を、鼻からは匂いを、肌からは質感を感じ取っている。だが、もっとその場の経験に即して考えてみたら、そんなにいちいち感覚が分かれている印象はないだろう。もちろん、どれかしか感知できない場合は別だが、すべての感覚に訴えてくる経験は、もっと全体的である。

例えば、初めて行く街に降り立ったとしよう。目の前には初めての風景が現れる。だがそれは見た目だけだろうか? 風、匂い、音、あるいは匂いからは味までも、私たちの前に一挙に与えられる。その全体が街である。それは、分けることのできないものだ。イスタンブールは私にとって、写真のようなものではない。そこには常に、甘いお菓子の匂いと排気ガス、ちょっとしっとりした風、呼び込みの「ブユルン、ブユルン!(いらっしゃい、いらっしゃい)」が組み込まれている。ハノイはもっと湿っていて、クラクションだ。

 

と、すると、である。音が変われば、経験全体が変わるのである。呼子のいないイスタンブールは、イスタンブールの光景そのものを変えてしまう。視覚的データが変わらなくとも、それは経験としては別物なのだ。イヤフォンをつけるのは、たぶんそこに理由がある。

CMなどで、イヤフォンをつけると場の光景が変わることがある。それは大げさなCMの印象操作のようにも思えてきそうだが、思うに、あながち嘘ではないのだ。満員電車の中でインド音楽を聴いてみたら、インドの満員電車のイメージになったことがある。どうように、どんなにどんよりしていても、明るい音楽をつけることで、それを楽しめることがある。つまり、イヤフォンとは、音楽を持ち運ぶ装置、というだけではない。イヤフォンとは、知覚のコンテクスト(文脈)そのものを変えてしまう力を持っているのだ。

同じ車窓でも、明るい音楽をかければ、ビルさえも踊っているように見えるし、悲しい音楽をかければ太陽ですら自分とはずいぶん遠い存在のように見える。イヤフォンは風景を変える。満員電車も、大して気にならなくなる。だから、私たちは音楽を個人的に聴いているのではないだろうか。そう、つまり、見慣れてしまって、飽き飽きした街並みの色を変えるために。

An Invitation from Mr Blue Sky and Madame Pluie

An Invitation from Mr Blue Sky

例えば、家の外に出たら空が見えるだろう。その時、空が雲ひとつなく青かったとする。青かったというのは正しくもあり、間違いでもある。色のニュアンスは言葉で説明しきれない。だからここで「青かった」というのは、公認された色として青かったということではなく、便宜上青かったということなのだ。まあそんなことはどうでもいい。要するに、雲もなく、青い空が広がっている。もちろんビルや木があるから、全部が見渡せるわけではない。だから、空を見たいと思う。そんな時、私はこの青空を見ていなければならないと感じる。

 

ある人が言った。「雲のない青空は嫌い。だって怖いから」と。

それはあながち変な感性ではないと思う。青空は怖いのだ。私を支えるものが何もないからだろう。雲があれば、雲が空と地面を隔ててくれる。だがただただ青い空というのは、突き抜けている。突き抜けているが故に、私たちは吸い込まれてしまう。そしてどこまでもそれは広がる。自分を保つことができない。自分を止めるものがない。

 

だが、それを裏返すと、違うものが見えてくる。不安なことは裏を返せば、一切の予測ができないということだ。どうにだってなるということだ。自分が保てないということは、閉じこもっていないということだ。怖さに震えるのは、自由への武者震いだ。私たちは自由になれる。どこまでも行くことができる。青空は私たちに自由を息吹を吹き込んでくれる。その時、自分を保とうとする「安心感」が断末魔をあげる。「怖い!」と。だがそれを笑ってやり過ごしたら、私たちが受け取るのは、青空からの招待状なのである。

 

私が何かを休む時は、できるだけ空が青い時にしている。それが不可抗力である。要するに、心が開放的になって、私は招待状を受け取ってしまった。道路は鼓動し呼吸して、樹木の葉っぱは踊り、黄緑色に発光している。「来い、歩こう、どこかへ行こう」と。その呼び声に誘われたら、もはや抵抗するすべはない。どこかへ行くしかないのである。

青空は街に生命を与えている。陰と陽がくっきりとし、陽は身体を浄化し、陰は精神をクールにする。身体中の細胞や血液が活性化したようになると、穏やかな風が私の身体を撫でて均衡を保ちながら、じめっとして閉じこもった魂を刺激する。すると不思議と、なんでもできるような気になってくるのだ。そして、時に休むのもいい。その時、息が風になるのを感じられるのである。

 

こんな気持ちになるようになったのは、カナダに行ってからだったかもしれない。モントリオールの街で、私は一人の時間を公園で過ごした。ベンチに座って、時に本を読み、時に想念に身を委ね、時に空を眺めた。あの時の空は綺麗だった。とんでもなく青かった。そして木もよかった。黄緑と深緑の間の色の葉っぱが、風にそよぎ、太陽とともに輝く。いや、それは違う。そよいでいるのではない。葉っぱが動いているのだ。空と樹木が誰よりも能動的で、主体的だった。人間の私は上を見つめるだけ。だが見つめていれば、招待状が来る。きた時は、あれこれ言わずに立ち上がって街に出る。

それから私は空が青い時は、上を見るようになった。招待状が来たら、どこかへ行くことにした。空が見えるところへ。

 

La pluie chez moi

一転して空が暗くて雨の降っている日は気分も暗くなる。何もしたくない、というか、なんだか鬱ぎ込む、というか、なんとなく閉ざされてしまう感じがするのだ。私には低気圧による頭痛もある。天気が悪いと肩が固まって、頭には孫悟空に与えられた緊箍児の呪いのような痛みが走る。外に出ようという気持ちも減退してしまう。

 

だが、今日、大雨の車窓を眺めていた時、それはちょっと違うのかもしれないと思い始めた。雨の降る景色を眺めている時、どうやら私の中でも雨が降っているようなのだ。要は、私が雨と踊れるかどうかである。

雨は、私を外へとは引っ張り出さない。雨の光景は美しい。雨の中で宇宙はにじむ。光はノスタルジックに変わる。そんなやけに美しく、明晰さを失った、このうつつに現れた幻想の中で、多くの人がシェルターを求めて足で悲鳴をあげる。私の中でも雨が降り、私の中もにじむ。にじむに連れて、青空の中では押し込められていた何かがほいほいと現れる。それは言葉だったり、イメージだったりするが、それは冒険するにはちょっと不都合なものでもある。

だが、結局は、そんな内と外の幻惑をどう受け止めるかなのだ。

 

時々、私はそれを直に受け止める。雨から得た思いは、直接出てくる。その時、私はともすると、閉じた心を持ってしまう。心の叫びに疲れる。

だが、時に、うまくいけば、そんな雨の中で踊ることができるのだ。それはちょうど、旅の途中の夜である。異邦人として、強がりながら押し込めた寂しさがこみ上げるなか、幻想的な川辺を歩く。これは夢か現実か。そんなことは置いといて、心のさざ波と渦巻きの感覚に身を委ねつつ、頷く。

ノスタルジーノクターン、モノトーン……とにかくノが出てくる言葉で表現したくなるような、ピアノジャズの世界だ。おっと、ここにもノがあった。モントリオールや、ローマやアテネ、あるいはホーチミンが想起させるイメージとは違う世界。どちらかといえばそれはパリであり、ブダペシュトである。

 

 

私たちは案外、外側と内側に分かれてはいない。心身二元論、人間対環境は嘘っぱち。雨や太陽は私たちであり、道路はいつでも誘っている。強いていうならそれらは誘う存在。だがそれだけではなく、私たちの中で突き上げてくる存在でもある。