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旅、映画、食べ物、哲学?

ラジオ

テレビドラマと映画がタイアップしている作品を見ると、ドラマ版と映画版とでは絵の雰囲気が違うのがわかる。技術的には、きっと、フィルムを使っているとか、使用する機材が違うとか、そういった物による違いだろう。だが、私のような純然たる視聴者からすれば、その「雰囲気の違い」は、紛れもなく「雰囲気」の違いであり、それは空気感そのものの違いなのである。

それぞれの媒体によって違う雰囲気を醸し出す、というのはよくあることで、例えば、小説もまた、映画やドラマとは違った色彩を持つだろう。漫画にも、独特の匂いがある。実写映像化が失敗するのは、そうした空気感の違いを製作側が生かし切れていないか、あるいは、観客が空気感の違いを一切容認しないことによると思う。

以上は負の側面だが、あえてズレを楽しむ場合だってある。映画の技法でテレビドラマを作ったり(あまり逆は見ないような気がするが)、漫画のようにドラマを作ったり、小説のような映画を作ったりする場合である。これが案外おもしろくてハマる、ということはあるだろうし、私は好きだ。

 

さて、同じように、「ラジオ」にはラジオの空気感というものがある。

説明し難い何かがラジオにはある。私がきちんとラジオを聞き始めたのは、確か、中学生からだったと思うが、その頃から、私はそんなラジオの「雰囲気」の虜になっていた。

もちろん、ラジオともなると、時間帯ごとに空気が変わったりする。朝のラジオはポップでさわやか。昼のラジオは情報や音楽が飛び交う。夕方のラジオにはちょっとしたノスタルジアと猥雑さが伴い、どことなく品のある夜の放送が終われば、気怠くて刺激的な深夜帯が始まる。もちろん、局によっても違うだろうが、私が聴いていた局はこんな感じだった。ラジオが日常に溶け込んでいたときには、私はほとんど一日中、ラジオをつけっぱなしにして、とにかく、スピーカーから流れてくる「雰囲気」を楽しんでいた。トークも、音楽も、DJも、天気予報も、ニュースも、CMでさえも、その「雰囲気」の構成要素である。

ときたま、「ラジオは何かやりながらでも聴けるからいい」という言葉を耳にする。確かにそうだなと思う反面、私は取り立ててそこを「ラジオを聴く理由」としてあげはしないなとも思う。そんなこといったら、ほとんどのテレビ番組は、私にとって「ながら見」の対象であるし、CDを聴くにも、私は何かしながらである。ラジオだってそうなのだが、とりわけラジオに魅力を感じることがあるとするなら、それはやっぱり「空気感」であり「雰囲気」なのである。

 

しかし「雰囲気」って何なのだろう。ラジオを聴く方には、もしかしたら、なんとなく伝わっているかもしれないが、ラジオを聞かない方には、さっぱりだろう。だからちょっとズラしてみよう。

私はラジオの持っている雰囲気が好きだから、「ラジオみたいなテレビ」も好きだ。それはどれも深夜っぽいかんじで、大抵スタジオの人たちが話しているのがメインになる。もちろんロケはあるし、テレビでしかできない演出もたくさんある。だけど、そうしたロケを見ながら、コメントする人たちが放っているのはやっぱりラジオの雰囲気だ。そこには「開かれた内輪感」がある。

 

「開かれた内輪感」。これはひょっとすると大きいのかもしれない。ラジオの向こうで、テレビの前で、出演者たちが喋っている。その関係は、どことなく密なのだ。「最近どうです?」なんて話をふったり、台本やコーナーなどはあっても、それが自然なトーンとうまくつながっていく。大がかりなセットで大勢で撮影したり収録したりするようなものではなく、小さな小部屋の、「開かれた内輪」劇がそこでは繰り広げられている。だが、ただの「内輪」ではないから、「開かれ」ている。閉じていない。その微妙なラインが心地よいのだ。

ちょっと変にややこしい話になってしまっただろうか。まあ、要するに、説明しようとすればこんな感じ、ということに過ぎない。

 

思えば、私がはじめてきちんとラジオにハマったきっかけになった番組も、そういった「開かれた内輪感」があった。その番組はJ-WAVE BOOK BAR。編集者の大倉慎一郎さんと女優・モデルの杏さんが毎回それぞれ一冊の本を持ち寄り、「本を肴に」話すという番組だ。残念ながらもう放送していない。時間帯は、深夜にはまだかからない22時や23時のあたりだったと思うが、覚えていない。深夜ラジオよりは、上品だったが、私が好きだったのは多分、「開かれた内輪感」だったのではないかと思う。そのラジオを聞いている時は、大倉さんや杏さんは「内輪」の存在で、まだ酒を飲まない年齢だった私も、会話を聞きながら、本を「肴」にしていた。おかげで歴史の本を読むようになったし、沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読むようになったのだから、私にとってはずいぶんとまあエポックメイキングなラジオだったわけだ。ラジオはまだ中高生の私にちょっと背伸びをさせてくれた。

そういう意味で、ラジオの良さは、大人を体験する良さでもあったのかもしれない。ラジオはいつだってアダルティーなのである。だから、ラジオの雰囲気のイメージとして「アダルティーさ」も挙げておこう。きっとこちらはもう少し理解してくれる方も多いはずだ。今でもそうかと問われると微妙なところはあるが、青春の夜中にはアダルティーなのだ。

 

さてと、だんだん何がなんだか分からなくなってきてしまったが、私が言いたかったのは、私はラジオが好きだということだ。FMのボタンを押せば、そこにはアダルティーで、内輪な世界が広がっている。それがラジオの色である。

アンダーグラウンド・タイフード

入ってはみたいが、入りづらい店というものがある。

それは常連でいっぱいだからだったり、店主が怖そうだからだったり、ドアがガッチリと締まっていたからだったり、閑静な住宅街の奥まったところにあるからだったりする。そういった店には人を寄せ付けない雰囲気を放っている。勇気を出さないと、結界を超えられないような何かが。

私の今住んでいる街にもそういう店がある。そして今日、その店に入った。

 

私のいる街にはそれなりに大きな駅があり、その周りに街が広がっている。メインストリートと言えるところは3本ほどある。そのうちの一本のまわりには古くからある店がたくさんあったが、今では再開発で、チェーン店と取り替えられつつある。だがもちろん生き残った店もあり、私が入りたかった店は、おそらく生き残った店だと思う。すくなくとも、再開発が激化する前にはあったはずだ。

『本格タイ料理』

メインストリート沿いにノボリが立っている。確かシンハービールの紋章もどこかにあったはずだ。そういう意味で、この店は基本的にウェルカムだし、奥まった場所にあるのでもない。なんなら加えて、ノボリの近くに大きなメニュー表が置いてあって、どんな定食があるのかわかるようになってもいる。

どこが入りにくいのか、と疑問に思われてもしょうがないだろう。私があまりに臆病すぎるのではないか、と。正直な話、私は一人旅などをするわりに対人関係に臆病なところがある。だが、それを差し引いたとしても、店の前に来てくれさえすれば、私の躊躇にも納得してくださるはずなのだ。というのは、そもそも、入り口が見当たらないのである。

 

今日は、今日こそは絶対にここに入ってやろうと意気込んでやってきたから、私はなんとかして入り口を探すことにした。すると、入り口が地下にあることがわかった。

おうっと、より入りづらくなった。地下へと続く階段はあかりに照らされることもなく、真っ暗な闇へと続いている。もはや飲食店へ行くというより、これは探検である。学校の、入ってはいけない場所へと降りていくような気持ちである。だが、今日はこの店に入るのだ。私は決意し、階段を下りた。

階段をおそるおそるおりきると目の前には扉があった。わりとしっかりとしまっている。ここまできて後戻りはできない。私は扉を引っ張り、中へと入った。

 

中は予想していたよりも人がたくさんいた。内装はどうやら、スナックである。もともとスナックが入っていたのだろうか。そんなことを思っていると、

「何名さま〜?」というおばさんの声がする。

「一人です!」と答えると、

「はいこっち」と随分奥の方へと通された。ひょっとするとスナックと言うより、キャバクラに近い店だった可能性がある。椅子も、ソファのようになっていて、どうも「夜のお店」である。そんな名残を残しながらも、タイの影絵が額縁に入って壁にかかっていたり、象の像や台風の布なども置かれている。きっとエロい曲(?)がかかっていたであろうスピーカーからはタイの音楽がうっすらと流れてきている。

アンダーグラウンド。不思議な空間。

ソファに座り、メニューを眺めた。定食を頼むと、サラダとコーヒーもついてくると言う。しかしなぜコーヒーなんだろう。あまり腑には落ちないが、まあいいだろう。ありがたいにはかわりない。私は口内炎があったため少々迷いつつも、レッドカレーの定食を頼んだ。

 

ゆで卵の白身の部分だけを切ったものがはいっているサラダがきた。いや語弊がある。基本的には普通のサラダである。だが特徴として、普通の茹で卵ではなく、白身の部分だけをカットしたものが入っていたのだ。私のものだけ白身になってしまったのか、そう言う伝統なのかはわからないが、伝統だと信じたいものである。ドレッシングと大きなレタスが口内炎を刺激する。カレーは大丈夫だろうか、と不安になりつつも、なんとか食べきる。お次はメインだ。

しばらくして出てきたメインは、たくさんの白米の上にちょこんとのったレッドカレーだった。タイ料理となるとグリーンカレーを食べることが多かったので、あまり食べてこなかったレッドカレーだったが、この配分から予想はついた。おそらくとても辛いか、とてもしょっぱい。そしてご飯全体を使ってカレーと絡めることで美味しくなるのだ。

私はタイの伝統に則り、右手にスプーン、左手にフォークを鉛筆持ちし、赤いカレーとご飯を絡めた。香りが立ち込める。ココナッツの香り、そしてタイ料理らしいハーブの香りがする。口内炎を庇いながら、カレーのしみたご飯の上に肉をのせて、口へと運ぶ。口中にタイが広がる。うまい。豚肉もうまい。具のタケノコの食感がアクセントをくれる。そして、案外口内炎が痛まない。辛くないわけではない。むしろ辛いのだが、全然問題なかった。最高だ。

私はご飯の山を少しずつ崩しながらカレーを食った。タイのカレーというのもなかなか奥深い。インドカレーにはない香りがするし、インドカレーでは表現できない繊細さをもっている。レッドカレーは、グリーンカレーよりも、甘味が控えめで、塩味が強い。きっとタイカレーが好きではない人も虜になる味だろう。もちろん個人の見解だが。

うまい、うまい、とカレーを貪り食っていると、おばさんがやってきて、コーヒーを置いた。

「砂糖は?」と尋ねる。私はとっさに、

「いや、大丈夫です」と答えた。日本語の中でも難しい部類の「大丈夫」を用いた否定文を用いてしまったことを反省したが、

「いらないね」とおばさんが返したので、心配はご無用だったようだ。

 

コーヒーは思いもよらないほどに本格的なカップに入っていた。スプーンもおしゃれだ。まるで喫茶店のようである。もしかするとこのコーヒーはおいしいのかもしれない。

だが、辛いカレーのあとでブラックコーヒーを飲む気になれなかったので、私はコーヒーフレッシュを入れた。これでは本当に美味しいコーヒーなのかはよくわからなくなってしまうが、そんなに期待することもないはずだ。私はコーヒーを啜った。悪くない。普通にきちんと入れたコーヒーのようだ。それにフレッシュを入れたおかげで、カレーの辛味が口の中で和らぎ、ちょうど良い。タイ料理の後のコーヒー、というのも悪くないようだ。

 

会計をレジで行い、私は手を合わせて、

「コップンカッ(ありがとうございました)」と言った。おばさんは笑顔で、

「コップンカァ(ありがとうございました)」と返した。

アンダーグラウンドのタイ料理はうまかった。入るのに勇気がいるが、お客さんの数からしても、これはなかなかの当たりくじを引いたようだ。

異邦人たること〜安部公房「内なる辺境」を読んで思い出したこと〜

大学一年生の時、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読まされた。そしてその内容について、軽く発表を、というわけだ。もちろん一気に全部読むわけではなく、何回かに分けて読むわけだが、私は運が悪いことに、初回に当たってしまった。とはいえ、最初に読む哲学書だったし、割とワクワクと楽しみながら読んでいたと記憶している。発表も大体そんな感じである。

その時、私はこんなことを言った。多分ソクラテスは「アテナイ人」ではあったけど、「精神的な異邦人」だったのだと。

ソクラテスの弁明』はいきなりソクラテスが法廷に引っ張り出されているシーンから始まる。原告は弁論家・詩人・職人の代表者のような人たち。罪状は「若者をたぶらかし、『国家が定める神』を信仰しないこと」だが、もっと本音で言えば、名誉毀損に近いだろう。ソクラテスは、弁論家・詩人・職人という、当時アテナイで尊敬を集めていた人々を質問攻めにし、「彼らは本当に大切なことについては知らない」ということを暴き出したからだ。

異邦人とどう関係してくるのか。それは、何かに所属する、ということについて考えてみればわかるはずだ。原告団は、結局のところ、徒党を組んでいる。弁論家・詩人・職人。そう言った職業に属し、そう言った職業を極めた人たちだ。ところが、ソクラテスソクラテスであり、彼ら職業の中での常識などは一切通用しない。だからこそ、親方だろうが、政治家先生だろうか、偉い詩人の先生だろうが関係なく、ソクラテスは問い詰めるし、その答えとして求められているのは、ある職業団体の中で通用するような特殊なものではなく、ある種普遍的なものなのである。

見方を変えれば、ソクラテスは「世界市民」なのかもしれない。だが、『弁明』においてはむしろ、ソクラテスの「異邦人」性の方が見えてくるように思う。つまり、彼がアテナイのコミュニティから爪弾きにされていく様である。そこに描かれているのは、紛れもなく、集団とハブられた人だった。

ソクラテスは自分の立ち位置がよくわかっていないのか、アテナイ人であることをやめようとしないし、アテナイ人に対してむしろ自分に感謝せよと迫っていく。悲劇を生んだのは、彼が「精神的異邦人」だったからではなく、自分の「血統的アテナイ人」にしがみついたからではないだろうか。彼の目に映ったものは、もはや「普通の」アテナイ人に見えるものではなかったに違いない。彼の関心は、通常はどうでもよいものだった。それでも彼はアテナイ人としての意地を貫き、自殺紛いの処刑で死んだ。

 

大学で哲学を学ぶとなったときに、簡単な概説書に目を通し、誰に関心があるのかを洗ったことがある。概説書に全てがあるわけではないが、実物に攻めかかるのには少々不安があったのだ。その時選ばれたのが、フッサールベルクソンデリダだった。その前は少しスピノザに興味があった。選ぶ際の基準として設けていたわけではないのだが、なぜだか、ユダヤ人ばかりだった。自分でも理由はよくわからなかった。

ソクラテスの弁明』を読んで一つわかったのは、「異邦人」という視点の面白さだった。徒党を組む共同体からは外れた存在。根がない、あるいは根があっても、その根にあまり関心がない存在。ユダヤ人が皆同じような視点を持っているわけではないし、ユダヤ人にはある程度共通の「イスラエル」観念があるように思われるので、話も違ってくるだろうが、少なくとも他の「根を持つ」人々と比べると、自由度は高いのかもしれない。そんなことに気づいた。つまり、思想の上で引き付けてくる何かはきっと「異邦人」のもつ力なのだろう、と。

だが、ユダヤ人でなければ異邦人にならないわけではない。ソクラテスのように、心の内でずれていくことができる。精神的な異邦人だ。

こうした考えを進めているときに読んだカミュの『異邦人』の後書きにはこんなことが書かれていた。「母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑に宣告される恐れがある、という意味では、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるほかないということである」。根を張っているという状態は実は、お芝居をしている状態なのかもしれない。お芝居をやめれば(やめることができれば)、それは異邦人となることに他ならない。

 

さて、前置きが長くなったが、これは読書感想文である。何のか。『ソクラテスの弁明』か。いや違う。そんな昔のことは忘れた(さっきまで書いていたが)。私がいま感想を述べようとしているのは、安部公房の『内なる辺境/都市への回路』の中にある「内なる辺境」と「異端のパスポート」というエッセイについてである。本当は「(続)内なる辺境」なども含めてお話ししたいが、まだ読み終わりそうにないし、なんだか書きたい気分だから、仕方ない。

安部公房という作家の本は読んだことがなかった。安部公房の本を読んでいる、というと、人は大抵、「『砂の女』!」と暗号のようにいうが、私はそもそも安部公房と『砂の女』すら繋がっていなかった。だが、何やらへんてこりんなものを書く人だろう、というテキトーなイメージだけはあった。それが縁あって興味を持ったので、いくつか手に取ってみた。

最初に読んだのは『笑う月』。エッセイが好きなので、そう言ったものが良かった。しかしこれは安部公房の夢を描く作品集だった。私は人の夢の話を聞いていると、大抵面白くないな、と感じてしまう。夢の中では人は必死すぎるのだ。だが、そう言った部分も含めて余さず語る『笑う月』は嫌いじゃなかった。

だから次に色々と買ったのだが、今読んでいるのは『内なる辺境/都市への回路』というわけだ。正直意外だった。それは、私が今関心をもっている…いや待てよ。そうじゃない……昔から、関心を無意識的に持ち続けていた話だったからだ。それこそ、先ほどから述べていた「異邦人」についてだった。それは「異端」であり、「辺境」であり、「都市」という言い方をされていた。いろいろなものがつながった気がした。

 

例えば「異端へのパスポート」で安部公房は、しょっぱなから類人猿の話をスタートする。それはなぜかというと、人類もといアウストラロピテクス系列のサルは異端だった、というのだ。人類は肉食だったのだ。サルはそれまでは木の実などを好んでいたが、人類だけはそうではなかった。その結果、行動範囲が広がったというのである。木の実を中心に生活している限り、行動を広げる必要はないし、武器を作ったりする必要もない。定着できる。だが、動物を追う人類は世界中に広がっていった。

はてさて、この説が現代の進化生物学と一致しているのか。それはよくわからない。間違っているかもしれない。だが、あり得ない話ではなさそうでもある。

狩猟民を主体とする人類に、その後、収穫民という部門ができて、最終的に両者は分裂。農耕民と狩猟民が別れ、また遊牧民というのも出てきて、定住と移動の二項対立が先鋭化していく…だが、今や農耕民が「正統」なものとされ、移動する人々は「異端」の烙印を押される…とまあ、ざっとこう言った筋立てだったと思う。以前読んだ『遊牧民族から見た世界史』という本の視点からすれば、必ずしもこういう見解は正しいとは言えないようにも思うが、少なくとも「正統」=定住、「異端」=移動、という見方ははっきりとあると思う。

そして安部公房の独特な視点が光るのは、現代、移動民がいる「辺境」は都市なのだというのだ。「チャラチャラした」「根無草」の人たちは、都市を闊歩している。現代と言わず、もっと前からと言ってもいいかもしれない。祖国も家族も愛さない、私は雲を愛する、とうたい、パリの路地を徘徊したボードレールも、この種の人だろう。

そして安部公房が特に「内なる辺境」でそうした「異端」の烙印を押されがちな人々としてあげるのがユダヤ人だった。あるものはドイツ人であり、あるものはフランス人であり、あるものはポーランド人であるが、どうにも染まりきれず、受け入れられることもない人々。安部公房が念頭に置いているのはカフカだった。

彼らの文学は、「国家」という、土地と定着を「正統」とする存在に、反抗する。異端を突きつける。辺境から反乱が起きようとしている、と安部公房はいう。カフカなどのユダヤ系作家が広く読まれるようになる、ということは、それは、国家の「正統信仰」が揺らぎ始めているからだ、と。

 

エッセイの発表から50年ほど経っているが、反乱は結局起きていないようだ。「コロナ禍」なるものによって、人は土地に定着を余儀なくされているし。

要するに、「お芝居」は続いている。だが、私が思うに、「正統」な人などというのは存在しないのだと思う。実を言えばすべての人が特殊なのだ。ここでこうやって書いている私も、読んでいるかもしれないあなたも、結局のところ全く違う波長を持って生きている。ところが、そのことに気づいてはいけないのである。社会の「フツー」ってやつを、「フツー」に受け入れてくれないといけない。そうでこそ「常識」が通じるし、「法律」が通じる。そんなことが社会の要請である。結局のところ、そう言ったフィクションをみんなで信じる、集団幻想を生きるために、私たちは「正統」と「異端」を区別する。そうこうするうちに、私たちはそれが幻想だなんてことに気づかなくなる。だがそれでも時々、ガタがくる。

 

職業、国籍、性別、性的嗜好、財産、家柄、身分、民族……

そんなものは本来別にどうだっていいもののはずなのだ。ある人が会社で働いているとする。それではその人はそのままイコール会社員なのか? それは明らかに間違っている。だが多くの場合、私たちはそのように判断する。「土地」とどう関係あるのかはわからないが、これは明らかに「定住」と関わっている。つまり、「〇〇村の権兵衛さん」とおなじなのだ。ある職業、性別などの「枠」によってヒトをカテゴライズする。部落差別が起きたように、職業差別もあるだろう。性差別もあるだろう。国籍差別は、ないはずになっているが、メディアが「ヴェトナム人6名を逮捕」などと平気で言うのはなぜなのか。財産、家柄、身分もまだきっと残っていやがる。差別じゃなくて、区別、みたいなスローガンはまだ健在だが、問題は、カテゴライズにある。

そうした「枠」や「役割」を、私たちは演じているし、演じるように要請されている。子供は母親の葬儀で泣かないといけないし、母親が何歳なのか覚えていないといけない。然もなくば、犯罪を犯した暁には、「あの人は母の死に涙も流さなかった」と後ろ指さされるのである。

 

そんな社会に時々、嫌気を感じることがある。ないと言う人もいるかもしれない。それならそれでしょうがないし、その方が気楽かもしれない。だがもしあるとすれば、本来カテゴライズできない「自分」を、何らかの枠に押し込んでいることの気持ち悪さからきているのかもしれない。「△△としての自覚を持て」と言われても、本当にそれが自分なのかわからない。自分じゃない感じがする。その、気持ち悪さ。

カフカはあまり読まないのでよく知らないのだが、辺境の作家が人の心を打つとしたら、それは「それって変だよね」と言ってくれるからなのではないかと思う。明言しなくてもいい。異常な世界を見せてくれるだけかもしれない。だがそれでも、そこに生じるズレから見えるものがあるはずだ。私は私の知っているものでしか語れないが、例えばユダヤ人のベルクソンという哲学者は、みんなが躍起になっていることに対して「それは変だ」と平気で言ってのける。そうだな、変だなと気づくことができる。カテゴリーと枠の気持ち悪さに気がつける。

安部公房は、農耕民が、移動民とであうことで、村の外でも同じ時間が流れているということを知る、と書いていた。史実なのかはさておき、面白いことだ。それは私の言い方では、こうなるだろう。「君たちがお先真っ暗だと思っている境界線は、ただの線にすぎないんだよ」と移動民が身をもって伝えるのだ、と。

旅人の自由がそこにある。もちろん旅人だって、パスポートチェックは受ける。だがそれは儀礼のようなもの。自分が国籍に執着しない限り、その人はどこでのたれ死んでもいいし、いつまでいたっていい。肩書なんて関係ない。異邦人になる。そこでは自分は何者でもないし、「日本人だ」と言ってみても、どこかちょっと芝居臭い。実際の身に迫った国籍感覚は、正直あまりなく、ふわふわした感じにとどまる。そうともいかない時も、もちろんある。事件に巻き込まれれば、都合よく、旅レジを眺めるだろう。差別されれば、自分の身元を思い知るだろう。だがそういう時、その人はもはや、本当の旅人ではない……といえるかもしれない。少なくとも「精神的異邦人」ではない。

本当の意味での「精神的異邦人」は案外しれっと、境界線を乗り越えていく。そんな無自覚の行動をするだけで、人々に影響を与えるのだ。身についてしまった集団幻想に気づくのは、それがバカらしく思えた時だ。悪い夢は後で思い返すとなぜそんなに必死だったのかわからなくなる。幻想は定住という「安らぎ」を与えてくれるが、それが覚めた時、人は気づくかもしれない。「安らぎよりも素晴らしいものに」。そうなったらもう止まらないだろう。いろんな意味での定住が、煩わしくなる。まるで胸の奥の何かが解放されたかのように、だ。

 

進化という文脈から、そう言ったことが言えるのかどうかはわからない。アウストラロピテクスまで遡るのは少々危険かもしれない。だが人類が移動することで人間になっていったことを踏まえれば、安部公房のダイナミックな語りは、あながちおかしいことではないように思う。人類のエラン・ヴィタル(生命の弾み)は旅へと人をかき立てている可能性だってある。

もっとも、もう一つの動きがあって、私たちを常識と定住と集団幻想の方へと縛りつけようとしており、自分たちもまた縛られる安心感を覚えてはいるのだが。

魔境あるいは古本屋

そんなに古本屋が好きなわけではなかった。ブック・オフには自分の興味がある本がなさそうだったし、個人経営の古本屋には個人経営特有の緊張感というものがあって、どうもそこに飛び込もうという気にならなかったからだ。だが、それだけではなく、あまり古本というものが好きではなかったのである。要するに、匂いの問題だ。タバコの匂い、カビの匂い、どこかの家の匂い。そう言ったものが染み付いている本より、新鮮な紙の匂いがする書店の本のほうがよかったのだ。少々潔癖症的なところがあるのかもしれない。

そんなわけだから、古本屋に通うようになるとは思ってもみなかった。

 

思ってもみなかった、ということは、簡単に言えば、最近の私は古本屋巡りに入れ込んでいるということである。ちょっと大人な趣味で、背伸びしてみたくはあっても、なんとなく生理的に受け付けてこなかった「遊び」をまた一つ、覚えてしまった。スパイシーな料理以来の快挙かもしれない。

古本というものへの抵抗感が完全に払拭されたわけではない。買っては匂いを嗅いでしまうし、ちょっと表紙がベタついていると、「べたついてるなあ」と少しばかり眉がひそまる。そういうことじゃないのだ。そういう部分から何から何まで変わったわけではない。ただただ、古本屋に行くのが、なんだか面白くなってしまったのだ。

別に、神保町の専門的な古本屋に限って通い詰めているというわけではない。やっぱり個人経営の「圧」は強い。もちろん昔と違って挫けてしまうことはない。だが神保町に行くと、大抵、本屋の前のラックを見る仕草から入り、店内を店の外から眺め、「よし」と心算を決めて、足を踏み出す、という伝統芸能顔負けの作法を、手順を踏まないと、やはり難しいものがある。ガラガラの店舗に老人が一人座っている店には、入れた試しもない。だから古本屋と言っても、2対1の割合でブックオフが多い。そんなことでは古本屋道楽ではない、という人にはこう答えよう。私は別に高尚な理念を持っているわけでも、書生ごっこがしたいわけでもないのだから、ブックオフに行ったって良いじゃないか、と。

 

では、何が楽しいのだろう。

それは一言で言えば、異世界感だ。

古本屋に入る。するともちろん書棚が並んでいる。ブックオフくらいになると大抵のものがある。例えば、私のお気に入りの沢木耕太郎氏の著作は必ずいくつかある。それは有名な『深夜特急』が多くを占めていることがある。それに関しては、通常の書店と変わらない。ところが、沢木氏のコーナーを舐め回すように見ると、異変に気がつく。有名な作品の影に隠れて、観たことのないタイトルの本が紛れているのだ。それは、常識人の立場から言えば、すでに絶版になった本ということになる。だが、古本屋の冒険者たる私にとっては、それは紛れもない『発見』である。そういう瞬間が楽しくてたまらないのである。

例えば歴史のコーナーへ行く。哲学のコーナーに興奮の種があることは滅多にない。だが歴史は案外面白かったりする。そこにも『発見』がある。ベトナム戦争についての本、カール5世についての本、中欧の歴史と文化についての本……。探していたわけでもない本が目に止まる。こんな本があるのか、と驚かされる。着眼点だったり、問題意識だったり、装丁だったり……あまり目にしないものがポンと置かれている。探していないものが見つかる瞬間である。書店は目的意識がモノを言うが、古本屋はもっとぼんやりとした何かの世界だ。

そしてこれは総じて言えることだが、値段も次元の歪みの中でおかしくなっている。半値になっている本、100円200円もザラにある。当然と言えば当然であるが、毎回「おいおい嘘だろ」と思いながら手に取っている。それはまるで、東南アジアのマーケットの怪しい店を眺めている感覚である。Tシャツや置物に購買意欲がわかない私でも本となるとついつい手が出る。古本屋という魔境は、欲望の園でもある。

 

お祭りから略奪品を携えて凱旋したら、手元にある品々がちゃっちいことに気づくことがある。本の場合、そこまでのことはないが、匂いやベタつきは、私にとってそういうものになっている。コロナ対策のマスクも相まって、古本屋という魔境では感じ取られなかった匂いに気づき、「うわ、なんてタバコ臭いんだ」と思うのも、結局のところは、お祭りの一部である。そして、部屋に帰って、戦利品と思っていたものが、結局のところは、積読ワールドに仲間が増えただけだと知るのもまた一興なのだ。

魔境=古本屋。次はどんな発見をくれるのだろうか。

1+1+1+...+1=1

カレーを作ることにハマっている。ルーを買ってきて、煮込むわけではない。南アジア系の人が経営しているショップでスパイスを買い込み、動画サイトで理解できないヒンディーやウルドゥーやベンガリーでのレシピ動画を見ながら、レシピを確認し、できるだけインド風に近いものを作るのだ。所謂インドカレーってやつを作っている。

別に最近始めたというわけではない。始めたのは、去年のことだ。いや、本当は一昨年からだったかもしれない。だが、本格的に始めたのは去年からだ。友人が一人暮らしを初めて、その新居に押しかけて、カレーを作る会、通称カレーの会を開いたことから、ことは始まった。きちんとした食材を求め、大久保へ行き、スパイスからカレーを作った。だが、最近になって飛躍的に、自分のカレーが改善されたことに気づいた。何やら、新しいステージに入ったようだった。

何が変わったのだろう。確実に言えるのは、1+1+1+1=1になった、ということだ。これは決定的だ。

どういうことかというと、以前のカレーは、なんとなくバラついていたのである。スパイスも、配合の通り入っていたし、玉ねぎや肉などの素材がそのままそこにあった。もちろん調理はされているわけだし、それなりにカレーの味もするわけだが、なんとなく、「何で作ったのか」がわかってしまう代物だった。ところが最近はというと、材料を組み合わせて作り出したカレーが、一つの「カレー」という料理となっている。玉ねぎ、肉、スパイス、ヨーグルト等の具材が、全く一つの料理となった。ソースは一つのソースとなった。そこにはもう、具材はない。……とまではいかないが、確実に、今までのものより「カレー」である。

そういう意味で、1+1+1+1=1なのである。組み合わせたものが、組み合わせたものではなく、一つのものとなることこそ、カレーが美味しく作れる一つの決め手なのかもしれない。もちろん決め手は他にもあるかもしれないが、私が知る限りは、これこそが重要なことのように思う。

 

これはカレーに限った話ではない。

現に、カレーが新たなステージに入ってから、他の料理も上達した。1+1+1+1=1を演出する術を少しえたのかもしれない。パスタにしたって、ソース自体がもう、1+1+1+1=1を要求しているし、さらにはパスタと絡めるという時には、パスタとソースが1つの実態とならないといけない。

きっと、旨い料理には多かれ少なかれそういう側面がある。自分の作るものはまだまだだが、外で食べるような立派な料理は、たいてい、1である。もちろん、特定のいくつかの具材からできてはいるのだが、食べてみれば一つのものなのだ。フレンチなどでも、例えば、肉にソースがかかっている料理だったとしても、その肉とソースは別個のものではなく、料理において一体となっている。塩味の焼き鳥は、焼いた鶏肉に塩をかけたものではない。塩味焼き鳥である。ご理解いただけるだろうか。不安はあるが、私はそう思うのだ。

 

料理を作る工程も、似たようなところがある。野菜を切り、油を引き、野菜を焼き、肉を焼き……と言った工程それぞれはバラバラの動作ではあるけれど、うまく行く時というのは、その一連の動作が途切れることなく、サラリと一つの流れとして進んで行った時だと思う。

料理以外でもそうだ。文章を書くときも、バラバラに書いているときは、最終的にあとで読んでみると、いまいちなことが多い。一挙に、ざさっと、ことが進むとき、内容もまた一体感を持って進んでいる。論旨がどうこうとか、論理展開がどうこうとかいうのではない。それらはきっと、きちんと見直した方がよくなるだろう。だが、文体や、文に漂う空気感は、途切れなく進んだ方が、良いと思う。

 

もっとわかりやすい例を出そうか。

それはそう、例えば、音楽もそうである。音楽は、一つ一つの楽器、一人ひとりの奏者、一つ一つの音符、一つ一つの展開が重要だ。だが、それが一体になっているからこそ、その音楽は、「音楽」となる。個が響いて、本質となる。何者も無駄なものはなく、それはバラバラとは言えない。料理の具材、文章の構成は、一つ一つの曲の展開や声と同じだ。ビートルズは、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴだが、やっぱり彼らのソロ楽曲とは異なる。彼らのソロ楽曲にはビートルズの風が吹いているのは確かだが、やっぱり違う。ホワイトアルバムだろうがなんだろうが、ビートルズの楽曲はビートルズの楽曲なのではないかと思う。

 

チームで何かをする時に、対立や摩擦があったとしても、なんとなくうまくそれが一つのメロディーの中で結実し、それぞれの形で心が共鳴して、プロジェクトが成功しようがしまいが、なんだか満足できて、離れ難くなった時、それは1+1+1+1=1となっているだろう。そういう経験は、案外珍しいものではないかもしれない。サークルでも部活でも、あるいはもっとビジネスライクなところでもいい。人が集まったとき、1+1+1+1=1がある。

 

だが、ひとりでいるときも、私たちはきっと、1+1+1+1=1を生きているに違いない。1の数は幾つでもいい。だから数学者に則って、1+1+1+…+1=1とすべきだろう。1はn個あるのだ。だがめんどいので1+1+1+1=1とする。とにかく言いたいのは、私たちは1+1+1+1=1を生きているということなのだから。

自分の性格、というのもまた、1+1+1+1=1かもしれない。私たちはいろんな場所に応じて、いろんな顔を持っている。また、いろんなことを決める。いろんなものを買う。だけれども、そうしたものは=1へと収束してゆく。そこにこそ、自分はいるような気がする。そして、うまく収束できないとき、なんとなく、嫌な気持ちになる。果たしてこれをやりたいのだろうか、果たしてこれは「私」なのか。うまく噛み合わず、等式が成り立たない。

別に=1に名前を当てる必要なんてない。なんとなく、ここバラバラのものが一つの線で、いや、一つのメロディで繋がるかどうかが大事なのだ。これは、「自己分析」とか、そう言った代物ではない。要するに、しっくりくるか、しっくりこないか、である。しっくりきたら、それは1+1+1+1=1が成立しているのである。

 

私は、この1+1+1+1=1を大事にしたいし、今まで知らず知らずのうちに大事にしてきたのかもしれない。例えば、難しい本を読んで、発表するとき、一つ一つの言葉の意味を探すのはうんざりだった。知りたいのは、そうしたものも含み込むような流れだった。本が結局のところ、どんなふうに、1+1+1+1=1なのかが知りたかった。それじゃなきゃつまらないのである。

そう、それこそ、しっくりこないのである。

 

実は今日、カレーを作った。

あまり美味しくなかった。どうも工程がうまく行かず、1+1+1+1=1になっていなかった。1+1+1+1=1の成立を見るためには、どうにも、ここの要素を見直したりするのでは足りないようだ。エスプリ(精神・真髄)を掴まないといけない。動き出してくれないといけない。さて、次はうまく行くだろうか。

時計が壊れた

昨日、時計が壊れた。

私は自分の部屋に掛け時計を置いていて、時間の確認はたいていの場合その時計でやっているのだが、その時計が動かなくなった。

壊れたというと、語弊があるのかもしれない。

というのも、時計が壊れたというよりむしろ、電池が切れているように見えるからだ。

だが何にせよ、時計が動かなくなった。昨日の午後3時3分24秒で時計の針は止まっている。いっそ、午後3時3分3秒で止まって欲しいものだが、人生うまくいかない。全て三の倍数なだけで満足しよう。

電池を取り替えればいいのだが、どうも億劫でそのままにしている。だから、昨日、今日と、時計に騙されることも多い。今だって、「あれ、何時だっけ」と時計を見上げて、15時だったので焦った。習慣とは怖いもので、時計が止まっていると知りながら、私はどうしても、ちらちらと時計を見てしまう。そして、「ああ、時計止まってたな」と再認識する。

 

高校生の頃、変な思考実験をしていた。

まず、あなたが窓のない部屋に閉じ込められているとしよう。そして、部屋には幾つかの時計が置かれている。しかし、それらは全て違う時間を示している。その状況下で、どれが正確な時計なのかを当てることができるか?

とまあ、こんな感じである。ちょっと安いSFみたいなのは許して欲しい。

これは案外難しい。そもそも今が昼なのかもわからないし、どれが正しい時計なのかと言われても、という感じである。強いて言うなら、腹時計等を用いて、幾つかに絞ることはできるのかもしれない。

この話を友人にしたところ、同じようなテーマの推理小説があるといわれた。タイトルは忘れてしまったし、どうやって時計を選ぶことができたのかも忘れてしまった。だが、どうも私にはそれがよくできすぎているような気がした。

というのも、私がこの思考実験に対して用意している答えが、「そんなことは無理である」だからだ。それがもっと白日のもとに晒される思考実験も作ってみた。こんな感じだ。

あなたが閉じ込められているのは、窓のある部屋である。時計が5つあるが、それはそれぞれ1分ずつずれている。さて、どれが正確な時計なのか。

ここまでくると、もう不可能だろう。もしかすると、日時計を使って何とかする方法がある可能性もなくはない。だが、一分の差異まで、果たしてそれでわかるのだろうか。

 

時計というのは、案外そういうものである。だって、考えても見て欲しい。もし仮に、人類が、セシウム時計を作らなかったら、今のような時間は存在しなかったはずである。太陽が昇り、沈む。月が満ち欠けする。それは存在するにしても、そこには強烈な正確性は要求されないし、要求したところで、返ってくるのは静寂だけだ。

正確に、刻々と、数字を刻み続ける時間というのは、人工物に過ぎない。スマホや、貨幣経済と同じく、人類が勝手に作っておいて、勝手に絶対化している類のものである。いつの間にか、私たちは、自分で作った時計に、生活を支配されているのである。

いつから、この正確な時計という考え方は出来上がったのだろう。資本主義化に伴い、労働を管理するためである、という話を聞いたことがある。あと、もう少し面白い話だと、経度を測るのに正確な時間を知る必要があったので、航海術の発展の中で、正確な時計が開発された(たしかクロノメーターといったはずだ)という話もある。調べてみたら面白いかもしれない。

しかし、言えるのは、そうした努力と、規律化は、どう転んでも、やはり私たち人類による発明品だということだ。太陽がある位置にいるとき、それが時計の針と重なるかもしれないが、時計が、カチコチと運動と静止を繰り返している間にも、太陽は動くのをやめない。太陽は1分と2分の間を区別せずに先へと進む。そこに区別を生むのは他ならぬ人間だ。

 

だから、私がチラッと時計を見るとき、3時3分24秒を指しているのは、あながち、間違いではないのかもしれない。古代ローマでは、日の出が1時だったらしいし、今が3時3分24秒ではいけないという理由はない。

それに、時計が壊れたのを放置してみてわかったのは、時間が無意味になった部屋の中を流れるのは、ゆったりとした時間だということだ。こういうのも悪くはない。危機感も焦燥感もない。ただ、このままでは、我が部屋は完全に社会から孤立するので、頃合いを見て電池を交換しよう。

今?

そりゃもちろん、3時3分24秒だ。

「すべき」と「したい」、あるいはやる気待ち

朝、めざめても、起き上がる気になれない。起き上がってしまえば、また消費される1日が始まるからだ。

暇なのではない。暇ならいい。だが残念なことに、心の奥で、何かが常に疼いているのだ。さあ、すべきことをしなさい。君にはすべきことがある。それをしないと、君はダメになる。今後大変なことになる。だが、具体的な指示はなく、これは漠然とした危機感である。

すべきことが全く思い浮かばないわけではない。例えば、まとめなければいけない文章が一つある。例えば、もっと積極的に求職活動もしないといけない。だが、そうしたものは私の中で、なんとも言えない漠然とした不安感となって溶け合っている。どうも、その気になれない。

紙に書き出してみたら? スケジュールを決めたら? とりあえず初めて仕舞えば? と人は言う。それはそうだ。そうなのだ。少なくとも、やらないといけないことがあるのは確かだからだ。だが、私の心は、義務感じゃあ動かない。義務感にかられれば狩られるほど、心はおろか、体も動かなくなってしまう。

そうして、最近は、ギターを弾く。ギターを弾いている間は、いろいろと忘れられるからだ。手に痛みを感じてギターをやめると、また焦燥感が出てくる。仕方ない。というわけで、ベッドに身を横たえ、寝る。起きたら仕方ないので、YouTubeでバラエティ番組などを見る。そうこうするうちに夜になる。たまにカレーやら何やらを作る。料理を作るのは楽しい。だが、食べて仕舞えばまた、空虚が訪れる。また1日を消費してしまった。そんな、喪失感をここ一、二週間は味わっているような気がする。せめて映画でも見ればいいのかもしれないが、焦りがあると、そこまでどーんと構えられない。

 

大学二年生の時、カントの『道徳形而上学原論』を読んで衝撃を受けた。というのは、そこに書かれている内容は、私と正反対だったのである。強く反発を覚えたが、今では、多分、カント先生の方がうまく社会生活を営める気がしている。まあ、本人は決して、一般的な社会的人物とは言えないような気もするが。

『道徳形而上学原論』のとあるパートで、カントは、道徳的かどうかで、色々な行為を分けてゆく。その分け方がどうも性に合わなかった。例えば、「人の笑顔を見るのが好き」という理由で人を助ける人は、道徳的ではないらしい。その行為が「すべき」だから、その行為をする、という、AIのような人物がカントに言わせれば、道徳的らしい。これは私の曲解かもしれない。だが、もしこれが本当だとすれば、私はカントの言う道徳的人間にはなりたくないな、と思った。人の笑顔が好きで、人助けする人の方がいいし、人助けに生きがいを見出せる人の方がいい。もちろん、自分がそうなりたいのか、というとちょっと迷ってしまうが、端的に「すげえな」と思える。心優しい人なのだな、と思える。カントの言う道徳的人間は、意欲を欠いている。ツンデレならまだしも、「助けたいわけじゃないんだけど、助けなきゃいけないから助ける」というのは、人間味がない。ちょっと狂気すら感じてしまう。

だが思えば、それは私の今までの生き方からして、ということなのかもしれない。私は、義務感が嫌いなのだ。さっきも言ったが、私は義務感では動けない。危機感も、私の行動を停滞させる。私を釣り上げるのは、ジンギスカンくらいである。

 

高校受験の時も、大学受験の時も、受験勉強をろくにしなかった。それをすることが義務であることはわかっていたが、関心がなかった。

中学の時は、高校受験勉強と偽って、司馬遼太郎の『最後の将軍』を読んだり、集合論ガロア群論の本を読んだりしていた。受験が面倒なので、数学の難問ゴールドバッハ予想を証明しようとしたりしていた。結局第一志望には受からなかった。だが、志望と言ってもそんなに志望していたわけでもなかった。そもそも、興味がないからである。だが、やはり、落ちた時はそれなりに悔しかった。でも今思えばそれは、単にプライドの問題だった。

高校の時は、そもそも、受験勉強しない方向で、大学を受験した。受験勉強を強いてくる学校と対決姿勢を明確化し、自分は公募推薦を目指した。文章を書いて受ける受験だったから、なかなか性に合っていた。私は高校では文芸部にいたからだ。書く内容も、盛り上がれる代物だったし、小論文指導も楽しかった。受験勉強は、学ぶということに関して、正しいのか、と先生に食ってかかったら、「君ならどこでも受かるから、受かってから言えばいい」と励ましの言葉をいただいたが、正直、そういう挑発には惹かれないので、対して何も思わなかった。それに、私は「しよう」と思わない限り、何も動かないので、多分通常の試験を受けた場合、落ちていただろうと思う。

こういったことは、単なる一種の甘えかもしれない。勝手に人生安泰と思い込んでいるからかもしれない。全く根拠がない、「まあ、なんとかなるでしょう」という気持ちがあるからそんなこと言えるのだ。だが、甘えだ、現実わかっていない、とどんなに言われても、私の心が動いてくれないのである。ビクともしないものはどうしようもなかろう。

 

それはもう、燃料のない船のようなものである。海に浮かんでいる船。動かないといけないのはわかっている。だが燃料がない。燃料さえあれば動き出せる。だがその燃料が見当たらない。すると漂うしかない。今は確実に、漂っている時間である。特に、燃料云々の前に、謎の焦燥感だけが登場すると、燃料を探してくるのも億劫になってしまう。

せめて、どこか旅に行けたら。

せめて、創造的な活動に、全力を尽くせたら。

火をつけて、意欲と喜びが手に手を取る。そんな人生を取り戻したものである。

そんなことを思いながら、今日も部屋でゴロゴロしている、というわけだ。

彼らに話しかけてしまうのである

最近家族にはカミングアウトしたのだが、私は一人で家にいる時、テレビと会話している。なんなら、部屋ではYouTubeやラジオと会話している。

 

例えば、家族が家にいない時、よく高級料理の値段を当てるバラエティを見ていたのだが、私も不思議とそれに参加していた。テーブルの上にあるのは、残念ながらコンビニ弁当だったが、私は参加し続けた。テレビの向こうの人が、「これは〇〇円!」と予想をたてるたびに、「いやあ、どうかな」とか「うん、それくらいだろう」とか言いながら見ていたのである。誰がおごるのか一喜一憂しながら見ていて、「ああ、やっぱりあのときのやつが低めに設定されてたから〜」と口に出しながら見ていた。

ラジオもそうで、夜や、朝、ラジオをつけては、そのラジオの創立者で昔はバックパッカーのようなことをしていた人や、世界的にも活躍するモデル、芸人、サイエンスライター、ハーフタレント、アイドル、ヴァイオリニストなどと話していた。だからむしろ、音楽を聴くというより、トークを楽しんでいたと思う。

YouTubeもそうだ。音楽以外は、彼らと話している。

 

あんまり突き詰めて書きすぎると、自分でもかわいそうに、というか若干強く感じてきてしまうのだが、まあ概ね事実なのだから仕方がない。だが誤解しないで欲しいのは、別にこちらから話しかけるなどといった、無茶な真似はしていないということである。向こうの言葉に対してツッコんだりしているだけだ。

なぜなのかはわからない。一人っ子だからかもしれない。いや、それは全一人っ子に失礼である。なんにせよ、私にとってテレビやラジオの向こう側の人には妙な親近感がある。

 

しかし、考えてみると、私は本を読んでいる時もまた割と会話のモードに入っていることがわかってきた。

ただ、本の場合は、登場人物と一体化している場合と、実際に自分として突っ込んでいる場合の2パターンがありそうだ。まあどっちだっていいだろう。何が言いたいのかというと、私は話し相手になってくれない本が苦手なのである。

例えば哲学書でも、話し相手になってくれる本というのはあって、私にとってベルクソンは割とそうだった。彼はツッコミも想定しているし、一緒に何かを見ようとしている。だから私も一緒に何かを見ようとするのである。これが、カントの書き方は苦手である。『啓蒙とは何か』などは例外なのだが、「〜を…と呼ぶ」みたいなことを言われ続けても、どうしたらいいのかがわからない。話しかけてくれ!

昔数学にはまっていたこともあったが、その時も、やっぱり話しかけて欲しかった。だからあまりガチなものになると、手が出せなかった。「定義1」だのなんだのいわれたところで、きつかった。頼むから、一緒に解いて欲しかった。一緒に証明がしたかったのである。

歴史の本もそうで、私は歴史上の人物に言葉をかけ続けている。「ああ、いいとこまで行ったのに!」とか、そんな感じである。それが楽しい。そうするうちに、歴史上の人物までなんだか友達みたいなか感覚に陥ってくる。

 

もっと言うと、私は街とも会話している。歩きながら、「いい臭いじゃん」とか、「なんだあの看板は」とか、一人で、もちろん心の中で常にツッコミを入れ続けている。「あ〜、ここ行きたい、行きたいが……うーん、高い。やめよう」「やめるのか?」「それでいいのか?」みたいな、自問自答に陥ることもある。だがなんにせよ、私の一人旅、一人歩きの時の脳内はほとんどこうなっており、とにかく騒がしいのである。だがそれも、街と会話しているような気がする。どうしても、話しかけたくなる光景がそこにはある。夕日の美しい川辺で爆音エアロビを見つけたら、「おい!雰囲気どうなってんだよ!でもそこがいい」みたいなことを心の中で言っている。

 

……と、いろいろ書いていくうちに、だんだん自分が気持ち悪くなってきたので、そろそろやめたい。だが一言いいたのだが、この文章を読んで、「何言ってんだよこいつ、一人で寂しくないのかよ。気持ち悪いな」と思った方、あなたも私に話しかけています。御機嫌よう。

口きかぬ街

ちょっと野暮用があって、東京駅の方へ行った。至急出さねばならぬ書類があり、大型連休中のため、郵便局の本局に行かざるをえなかったのだ。

2020年の初頭、人類を悩ませた流行病のせいで、街には人通りがほとんどなかった。しかし皆無ではない。私のように、必要かつ緊急の外出をする人もいるし、在住の人が体を動かさないといけないから外に出ることもある。太陽が出ていたし、人間は日を浴びないと、バランスを崩してしまう。というわけなのか、そうではないのかは知らないが、銀座のあたりになると、人通りもそれなりにあった。

しかし、それでも異様な感じだったのは、街が静寂に包まれていたことだった。人通りがあっても、人は口を閉ざしている。というか、マスクをしている。私だってマスクをしている。しかも、人通りが普段よりかなり少ないから、がらんとした感じがより強く、なんとも奇妙な様子だった。あまりの静けさに、耳元がボワーっとなる。

車やバイクがいるにしても、ヴェトナムでであうブルルンブルルン系のバイクではないし、タイやカンボジアで目にするトクトクトクトク系の車ではないので、なんともスムーズに道を走っていく。無駄な音は立っていない。

そんな口きかぬ街の中で、口をきいているものといえば、虚しく、いつもよりも響きのいい空間で音を垂れ流すコマーシャルくらいで、そこには世紀末的な雰囲気すら漂っていた。

だが、口をきいていたのは機械だけでは、もちろんなかった。子供達は、いつもと変わらず、楽しそうに喋っていた。親たちの声はマスクで曇っているのか、音量を自粛しているのか、あまり聞こえなかったが、子供達の笑い声ははっきりしていた。その声は、生存反応に乏しい街の中で、バイタリティをほとんど全部と言っていいほど引き受けている。あまりに世界が静かだと、突然の声にびっくりしてしまうが、思えば、こちらの方が正常なのだ。大人の世界では、異常と正常はひっくり返っている。ひっくり返さなければいけないのかもしれない。そうだろう。しかし、常を保っている声は安心をもたらしてくれる。

もう一つ、盛んに口をきいているものがあった。それは樹木だった。ここ一ヶ月ほど、ほぼ家にいたので、気づいていなかったが、季節は芽吹きと開花から、いまや新緑に入っていたらしい。明るいグリーンは風に揺れ、何やら騒がしい。人もまばらな公園の椅子にちょっと座って、久々の日光を浴びながら本を読んでいると、滝のような枝垂れ柳が風に揺れていた。その色は、強かった。どうも、人類が元気な時より、樹木は元気なようだ。街が口をきかぬゆえに、新緑の色がより目につくのかもしれない。子供達がバイタリティを担っているのだとしたら、樹木が、シャッターと暗い窓で溢れた街並みに、彩りをそえていた。街は死んではいなかった。

それが、私の見た今日の口きかぬ街である。沈黙は沈黙で、悪くはなかった。なぜなら、普段は隠れているものが、少し見えたからだ。そして、大人たちがああだこうだ言って、勝手に頭を悩ませている間にも、街はひたすらその生命を輝かせていることを確認できたからだ。大人たちががんばって、よくわからないものに宣戦布告を出している間にも、時は流れ、自然は動いている。それに気づくだけで、ちょっと心が楽になった。

イスタンブル・マジックアワー

世の中にはたくさんの街があるが、それぞれの街にはめいめいの時刻があると思う。つまり、その街が最も美しく見える時間帯のことである。

例えば、ハノイは朝が美しい。朝もやがかかったホアンキエム湖、立ち上る湯気に感じるフォーのにおい。人々の活気も、朝早くから始まる。以前ハノイの旧市街の中心部に止まっていたことがあったが、朝六時きっかりに、窓の外から聞こえてくるクラクションで目を覚ましたものだった。クラクションは、あの街では、人間の象徴だった。活力の象徴だった。ぐったりとベッドに横たわる旅人に、ハノイの持つ独特の活気を、注入してくれるのがクラクションである。

あるいは、台北の華は夜に咲く。街に灯りがともると、どこからともなく人が集まってくる。それは、ハノイと比べれば多少閑散とした感のある朝とは大違いである。まるで文化祭のような光景が、毎日台北の夜市では繰り広げられ、市場から離れても、ネオンとバイクが夜を演出していた。

そんなふうに考えた時、イスタンブルは夕暮れ時から夜にかけての街だと思う。

 

私は二度イスタンブルに滞在したが、泊まるのは新市街だった。新市街というと、ヨーロッパやカナダでは「風情がない方」という感じがするが、2500年もの歴史に彩られたイスタンブルでは、新市街は「たったの1000年ほどの歴史しかないひよっこ」程度の意味であり、日本でいうと鎌倉くらい古い。しかも、新市街はジェノヴァ人などのヨーロッパ勢力の居留地だったので、建物的には、ヨーロッパの旧市街といった雰囲気を放っている。

新市街を選んだのは、夜遊びのためだった。新市街には、イスティクラール通りという道があり、そこは不夜城の様相を呈した場所であった。日本の夜11時くらいの人通りになるのが午前2時くらい、といった感じである。

私の目当ては、その道を少し外れたところに乱立している「テュルキュ・エヴィ(Türkü Evi)」と呼ばれる店だった。英語に訳せば「ソング・ハウス」とでも言えようか。偉大なる『地球の歩き方』では、「民謡酒場」と呼んでいる。小さな店に、ステージがあり、そこに歌い手が座って、トルコの伝統的な旋律の歌を歌い上げる。客はビールや、トルコの蒸留酒ラク、あるいは水タバコを片手にその音楽を聴きながらおしゃべりをする。それが、私の見たテュルキュ・エヴィだった。

そんな店で夜更かししたければ、やっぱり新市街に泊まるしかないだろう。そういう算段だったのである。だが、新市街の真価は夜だけではなかった。夕暮れ時にもまた、輝きを放っていたのだった。

 

初めてイスタンブルへ行った時、私は夕日で照らされた新市街の町並みを見た。新市街のシンボル的存在、ガラタ塔はオレンジ色に染まり、ヨーロッパ風の建物もオレンジと哀愁を放っていた。イスティクラール通りに乱立するお菓子屋からは甘い香りが漂い、有名なトルコアイス屋は客寄せに、棒でバットか何かをカチャカチャカチャカチャと叩いている。街は活気と美しさと哀愁を放ち、道を歩く私もまたそこに包み込まれる。

新市街を離れ、ガラタ橋を通って旧市街へ向かうと、その美しさはより力をます。海が色づくのだ。海、空、そして街が、甘いオレンジ色になる。橋から釣りをする親父さんたち、船、かもめ、そして旧市街で等間隔に並ぶモスクの影が唯一のコントラストだった。

イスタンブルは、甘い香りに包まれていた。比喩ではない。多分お菓子屋さんが多いからだろう。しかしそれが夕暮れの中となると、より甘く、とろけるような香りになるような気がした。そこには、少しばかりの哀愁と、まるで時がそこで止まったかのような雰囲気がたたえられていた。

 

なぜイスタンブルに夕日が似合うのかというと、それは案外単純な理由があるのかもしれない。

イスタンブルは、坂道が多い街である。海に突き出したゴツゴツした岩場がそのまま街になったような形状だからかもしれない。イスティクラール通りからガラタ塔に行くためには坂を下りるし、港があるエミノニュ界隈からグランドバザールに行くには、坂を登る。トプカプ宮殿やスュレイマニエモスクはびっくりするくらいの高台にある。ローマは丘の街だ、七つの丘がある、などというが、「新しいローマ」たるイスタンブルの方が体感的には丘の街である。

そうすると、建物が斜めに立つことになるだろう。そうなると、夕日が差し込みやすいのではないか。街の建物は、日陰になるよりも、夕日に染まることになり、街全体が夕暮れそのものに包み込まれる。だから、イスタンブルは夕暮れ時が似合うのである。

 

だが、夕暮れが湛える哀愁は、そんな物理的理由だけではない。これは口からでまかせだが、イスタンブルは常に、夕暮れをとどめた街だったと言えるかもしれない。ローマ帝国の夕暮れ時に都となり、その後、夕暮れ時をそのまま維持し、夕暮れの光を黄金にした。オスマン帝国は日の昇るところ(オリエント)の国として大国にのし上がったが、夕暮れきらめく時代に、文化を爛熟させた。その、この街の、永続する夕暮れは、首都の座をアンカラに持って行かれたあとも、沈んではいない。建物にはそんな歴史が染み込んでいる。細かな装飾は黄金に輝き、その黄金が、夕日にきらめく。ガラタ橋がかかる入江は、金角湾。夕日の金が煌めいている。

 

夕日が一度沈めば、街は新たな活気を手にする。イスタンブルの夜は、まるで昼である。人通りは増える。客引きも増える。いつでも、ラマダーンの夜、イフタールのように、一仕事を終えた人たちが日々の喜びを得ている。ヨーロッパではああはいかない。日本でもダメだ。イスタンブルの夜の活気はどこかこう、健全である。休日の昼間をそのまま、毎日行っているみたいなのである。

 

だから、イスタンブルは、私の中では間違いなく、夕暮れから夜にかけての街だった。甘く、悲しく、楽しい、夕暮れから夜にかけての街だった。

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5年前のペスト、現在の

面白いものを見つけた。

それは今からだいたい五年前に、私がラインのタイムラインに投稿した一つの感想文である。題材はアルベール・カミュの『ペスト』だった。

昨今、簡単に察しのつく理由でこの本の売れ行きがすごく好調だという。正直、読んだのは五年前なので、内容の多くは思い出せなくなってしまっていた。だが一つ言えるのは、感想文を読み返してみる限り、私が最近考えていたこととかなり共鳴しているということだ。

 

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2015年5月3日18:35の投稿

カミュといえば、一般的には、『異邦人』の方が有名であると思う。そもそもこの『異邦人』はカミュの処女作である。ではなぜ僕はあえてこの『異邦人』ではなく、『ペスト』の方をはじめてのカミュに選んだのか。それには簡潔な理由がある。「『ペスト』の方が読みやすそうでおもしろそうだったから」だ。

ここで、この二作品を知っている人から突っ込まれるかもしれない。おいおい、何を言ってる。『ペスト』の長さは、『異邦人』の長さの三倍くらいあるんだぞ、と。僕はそういうことを言っているのではない。つまり、内容のことなのだ。両方の文庫本の後ろに書かれているあらすじを見て欲しい。

 

「母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作」(『異邦人』)

 

アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態の中で、必死に「悪」と戦う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を読んだ長編」(『ペスト』)

 

いきなり前者はきついだろう。正直あまり僕は心が動かなかった。だが後者の方は、単純におもしろそうだった。読みたくなったのだ。長いけれど、読み切れそうな気がした。そして読み切れた。

 

ではなぜカミュなのか。なぜドストエフスキーでも、漱石でも、ゲーテでもなく、カミュを、名作を読んでみようというプロジェクトの初回に選んだのか。それにももちろん理由がある。それは、沢木耕太郎というノンフィクション作家の影響である。彼の書いた『深夜特急』という本は、僕のお気に入りなのだが、その執筆の裏話を綴った『旅する力』という本を読んだ時、カミュの話が書いてあった。沢木さんはカミュが好きで、卒論に書くほどだったと言う(そしてもっと驚くべきことに、沢木さんの所属学科は仏文学ではなく、経済学だったというのだ。教授に頼み込んで無理矢理提出したらしい)。そして、『ペスト』の舞台となったオランという街へいったと言う。かくして、カミュってどんな人なんだろう、どんな本なんだろう、と気になり始めた。

また、僕がサルトルという人物に興味を持っていた頃、サルトルについて調べると、必ずカミュが登場した。カミュは、アルジェリア生まれのフランス人(当時アルジェリアはフランス領)で、その後ジャーナリストになるも、第二次世界大戦が勃発。ナチスドイツによってフランスが占領されると、アルジェリアも占領され、カミュは教師として働きつつ、ナチスへの抵抗運動に参加した。そこで、サルトルと出会う。親友となった彼らは、ともにナチスと戦い、戦争終結を迎える。それからサルトルが「レ・タン・モデルヌ(=現代、英語にすればModern Timesで、チャップリンの映画からとられたらしい)」という雑誌を作るとカミュも参加し、ともに戦後の思想界をリードしてゆく。ところが、サルトルは当時革命派であり、カミュは革命ということにあまり肯定的ではなかった。この亀裂はカミュが『反抗的人間』を刊行すると大きくなり、ついに絶縁した。そういう経緯もあり、サルトルカミュの話は有名なのである。だが、サルトルの思想の話はあらゆる入門書に書かれているのに、カミュはない。僕は、かねてからカミュの思想がどんなものだったのか気になっていた。

 

この作品の面白かった点は、様々な登場人物が出てきて、彼らは彼ら各様の考え方を持ち、そして書き手はそれを平等に描いていることである。

おそらく市街に出た結核の妻の回復を待ちつつ、誠実に職務をこなそうとするリウー医師、ある体験から、神の力を借りずに聖者になろうとする孤独な理性の人タルー、若々しく、恋人のために街を脱出しようとしつつ、どこか葛藤を魅せる新聞記者ランベール、ペストの蔓延と街の封鎖をむしろ喜ぶ情緒不安定なコタール、ペストを神罰だとして神への帰依を訴えながら、子供の死を目の当たりにして心揺れる神父パヌルー、愛していた若い妻に家を出てゆかれ、苦しみ、役所での仕事とペスト関連の仕事、そして執筆活動を掛け持ちして自分を追い込む老役人グラン、規律を重視し、融通の利かない人として描かれる判事オトン……などなど。

彼らはそれぞれがそれぞれの考えを持ち、ペストに閉じ込められた街の中で生きてゆく。そしていつしか、ほとんどの人がペストへの抵抗運動に加わってゆく。これだけ多様な人を登場させるのは、難しいだろう。なぜなら、書いている方は、誰かに仮託したくなるからだ。だがカミュは極めで公平に描いている。この事は、読んでいる人がどの人に共感することも許しており、それだけ、読んだ人の数だけの感想があると思う。ちなみに僕はリウーとタルーとランベールが好きだ(多い)。

それぞれの人が、ペストに閉じ込められた十ヶ月の中で何かが変わっていった(人々の間の心の変化もはっきり書かれている。一番リアルだと思ったのは、ペストに閉じ込められて、だんだん人々がそれに慣れること。そして、人は何かを求めているとき、いつのまにかその何かの存在を忘れている、ということ)。そして、何かを失った。このペストの襲来は、ナチスの襲来である、というような解釈が存在する。それはあながち間違っていない。これが書かれたのはその時期である。だが、この小説の中で、ペストからの解放は、人間たちの勝利というよりも、いつの間にか過ぎ去る、という形で描かれ、その解放の最中にも犠牲者が幾人か出る。カミュは「不条理」の哲学で知られているが、まさに、不条理な状況である。おそらくそれは、人間の引き起こしたナチスなんかよりずっと、不条理である。相手はペスト。誰も攻められない。

それに、そんな不条理なペストは、単に病気のことをさすのでも、ナチスのことだけでもなさそうな記述があった。「誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ」これはどういうことなのだろう。心の中に不条理な部分があるということだろうか。そしてそれに気づいていることだろうか。最後のシーンで、ペストは再びやって来る、というようなことが書かれているが、これはどういうことなのだろう。考えると深い。

 

不条理の中で、戦う覚悟が生まれる。だが、それは、閉じ込められた人間たちと不条理の戦いという同じ構図を持つ『進撃の巨人』に現れる覚悟とは違う気がする。「駆逐してやる!」というのではない。やれることをやるしかない。そしてペストという不条理は、急所への一撃ではやっつけられない。パリから取り寄せた血清も役に立たず、なすすべはない。それでも抵抗しようとするのだ。根底にあるのは怒りではなく、何かできるはずという誠実さのような気がした。

 

この話を読んでいると、憎しみが感じられない。ナチスに占領され、ナチスへの憎しみから小説に登場させたりすることはよくあると思う。だが彼の小説はそうではない。彼の思想もきっと憎しみではないのだろう。不条理と戦いつつも、不条理の存在を否定しない。それを来るべき仕方のないものとして納得している感じがある。ちゃんとしたことは、彼の哲学論文(『シーシュポスの神話』とか『反抗的人間』とか)を読んでみないとわからないが、この小説を読む限り、彼は認めるということに重きを置いているような気がする。

二十世紀の思想はどうも、怒りに端を発しているように僕は感じることがある。資本家による搾取、社会への不平等への怒りから生まれた共産主義、国家同士の不平等への怒りから生まれたナチズム、労働者のデモなどによる社会停滞への怒りから生まれるネオリベラリズムエコロジーだって自然が汚れる怒りから生まれているし、戦争反対の主張も戦争への怒りだ。だが、怒りに生まれた思想は、別の怒りを生むのではないか。怒りが大事だと言う二十世紀人がいるが、僕はそうは思わない。

怒りを乗り越える時がやってきた。それが我々二十一世紀人の使命だとするならば、カミュの不条理の思想は、学ぶべきところが多いのではないだろうか。世の中は不条理であふれている。僕もそう思う。うまくいかないことがあるから世の中だし、それをどうしようとしても、悪い結果を導くだけかもしれない。だが、そこで厭世的にならず、怒るわけでもなく、不条理を認めつつ、反抗しよう。反抗とは革命でも、戦争でもない。反抗は反抗だ。屈しない姿勢だと思う。

 

……などと、難しいことを言わずとも、十分この小説は楽しめる。学ぶべき点もあり、自分の考えを深めることもできつつ、ストーリーとして単純に面白い。不条理を扱っているせいか、最後まで油断のならない小説でもある。ぜひ、読んでみて欲しい(そのために細心の注意でこの文の中でのネタバレは控えている)。少し長いが、楽しめると思う。難しい言葉だらけで、途中で飽きそうになったら、さーっと読んでしまっても展開は追ってゆける。

舞台は1940年代のアルジェリアだが、十分現代性もある。始めの部分で市役所がペストの存在を認めようとしないシーンなんて、まるで今の話みたいだ。おそらく、カラマーゾフや、アルジャーノンのように日本でテレビドラマ化しても全然いけると思う。

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以上が、感想文である。

一人称が「僕」だったりと、恥ずかしい部分はある。

だが、面白いのは、このころ、ロックダウンだのなんだのは、私たちの脳裏によぎることは全くなかった。せいぜい、MERSくらいである。空港に行った時、「ラクダとの濃密な接触をした方」という表記を見て笑ったのを覚えている。日本人は未だにこのような表現を使っている。まあそれはいい。

それでも、『ペスト』を読んで、五年前の私が思ったのは、「不条理に対して抗しながらも、敵への憎悪を持たないこと」だったのである。そうなのだ。この件は、どんなに仰々しい言葉を使おうとも、決して、戦争ではないし、禍でもない。流行病なのである。そして、薬がない以上は、流行病が過ぎ去るのを待つほかはない。

この前、家の周りを散歩して、木々が揺れているのを見ていた。一つわかったことがあった。それは、自然にとっては、ウィルスはウィルスであり、憎むべき対象ではないのだ。もう一度言おう。これは戦いではない。

私たちは闘争本能をかきたてないとやっていられないから、憎み、剣を取る。しかし剣を向ける相手はいない。憎しむべき人もいない。そのエネルギーを別の誰か、ましてや、発生源の国や、患者に向けるのは馬鹿げている。それこそ、私たちが人類開闢以来、心の内に抱えてきた最悪な流行病である。怒りを乗り越える時代が、やってきたのではなかったのか。どうにもいかない病と「戦う」前に、自分の中にある病をなんとかしないといけない。それは、方向転換によって、きっとどうにでもなるはずなのだ。そうでない限り、「ペストは再びやってくる」のだろう。

しかし、なんにせよ、私ははやく旅に出たいものだから、どうにもいかない流行病の方も、さっさと収束してほしいと願う。そのためにはできるだけの協力はしたい。それ以上でもそれ以下でもないのである。

反抗と悲しみ

昔、国歌を聞くのにはまっていたことがあった。YouTubeにあるフィリピン国歌は、フィリピン政府かなにかの公式の動画であり、フィリピン独立に関わるシーンを集めた一種のプロモーションヴィデオになっているのだが、その中で印象的なシーンがあった。

スペインによる支配に対する反乱を起こす人々がなにやら紙をびりっとちぎり、刀を掲げて、敵に向かって行く。歴史的背景等はよくわからないのだが、そのシーンがとてつもなくカッコよかったのだ。「もう支配されない!」と枷を断ち切るように、紙をちぎる仕草は自分たちの自由を奪うものへの意思表示に見えた。

 

革命、反乱の類は常にかっこいい。高揚感ある音楽とともにバリケードを築く「レ・ミゼラブル」のあのシーンは胸を打つ。授業や本で聞くアメリカ独立戦争を告げる「我に自由を与えよ、さもなくば死を!」は思わず立ち上がりたくなる。チェ・ゲバラは常にヒーローの象徴である。

私たちの胸の中には必ず一人革命家がいるのかもしれない。放っておけば私たちを蝕んでゆく社会や秩序に対し、ノーをつきつける。「それでいいはずはない。それでいいはずはないのだ。君にはそうしない権利がある。誰にだってある。もし君の大事なものを犠牲にせよと巨大な悪がいうのなら、親の制止を振り切ってでも、立ち上がっていいんだ。もし誰かがその人の大事なものを奪われそうなら、共に戦うんだ」と。

しかし何がそんなに私たちを憧れさせるのだろう。

 

反抗は何も創造しない、とカミュは言う。その後どういう話の展開になるのかはまだ読んでいないのでわからない。だが、この一文だけに限定していいのなら、私はそうは思わない。反抗すること、革命を起こすことは、創造する権利を再び自らの手に戻そうとすることなのではないか。

通常生きている分には、私たちにとって社会は、自らの手で創造するものではない。誰かが創造したシステムである。いやそんなことないぞ、と踏ん張ってみても無駄である。選挙を通じて私たちは声を届けることはできるが、選挙というシステム自体を作ることはできない。それに、比例代表制に至っては政党を選ばなければいけない。

自分で立候補するにせよ、選挙というシステムを通過しないといけない。そしてそのシステムは、多くの場合、社会にとって健全なものだけを許容する。そうなると、やはり、人の作ったルールで遊ばないといけないわけである。

革命は、そうしたものを拒否する。「きちんとした手順を踏んで意見を反映させればいい。時間がかかるなら待てばいい」という非常に健全かつ合理的な声に一言言う。「無理だ、待てない」と。そもそもが、そんなことをしたいわけではないのである。決まった秩序とシステムの中ではできないことを目指している。国家を、ひいては社会を自らの手に取り戻すことを求めているのだ。

自由とは、単に権利が保障されることではない。自分の手に、何かを作り出す権限を取り戻した先にあるものだ。「君は自由の刑に処せられている」とか「自由や権利には義務が伴うんだ」といったお小言はそこでは無効である。とにかく、自分の手で何かを成し遂げること。そして自分をしばりつけるくさりをハンモックにでも変えてしまうこと。そこに、革命における自由があるように思う。

 

そしてそこにこそ、革命の悲劇がある。

社会は共有物だから、それを一から作り直そうとすると、他の革命家と齟齬が生じてしまうのである。それは権力欲とはちょっと違う。例えば、設計図を発注するとしよう。建築家たちは創作意欲に燃えているだろう。それで、10人の建築家がつくった10の設計図は全く同じになるだろうか? おそらくはならない。だから、普通はコンペティションを開く。選ばれなかった人は、コンペのルールを尊重し、胸の奥で煮えたぎる思いに蓋をしてさるだろう。

だが革命はどうか。そもそも、ルールを覆そうとしているのだ。

そうして、革命は一気に悲劇に変わってしまう。ロベスピエールにはロベスピエールの、ダントンにはダントンの、そしておそらくはルイ16世にはルイ16世の設計図があった。レーニンにはレーニンの、ケレンスキーにはケレンスキーの、スターリンにはスターリンの、トロツキーにはトロツキーの思いがある。ガンディーも、ネールも、ジンナーもそうなのだ。榎本武揚にも、西郷隆盛にも、高杉晋作にも、小栗上野介にも、徳川慶喜にもそれはあったはずなのだ。

革命が血なまぐさい結果に終わるのは、本来の趣旨に反している。ところが、何かを実現させようとすると一気に現実的問題が立ち上がってくるように、革命と人々の間の対立と派閥争いは常につながっている。血で血を洗う争いとつながっている。

 

何かを作ろうと、そして自分の手に創造を取り戻そうとする、そこにはヒロイズムがある。だがいざやってみると、互いの思いと信念がぶつかり合う。そこで人は死に、あるいは独裁者になり、あるいはチェ・ゲバラのように現場を去って行く。革命は胸にざらりとくる悲しさも持っているのである。高揚感ゆえだろうか。

 

そんなことを、ハンガリーの1848年革命について調べながら思った。

ブダペシュトの「くさり橋」についての動画を作るためだったが、結構胸にくるものがあった。

動画のURL:

もしよかったらどうぞ。よくなかったら気にしないでくれ。

あえてこれを言うことを許してほしい、誰か一人くらいはこういうことを言っておいた方が健全なんだと信じてるから

警告には甘美な響きがある。

なぜなら、警告は、自分を一回り大人に見せてくれるからだ。それがいかに子供じみたことだったとしても、警告しているという行動自体に、大人らしさが滲んでいる。

「あの国は危ないから行くのをやめなさい」

「外は危険だから出るのはやめなさい」

そんな言葉を発した時、私たちは保護者になったような気持ちになる。それが実は、世界と心を狭めているのにも気づかずに、だ。

古代ギリシアの言葉だったか、人はアドバイスをする時は立派だが、実際に行動するとなると違う、というものがあったはずだ。だがそれは、立派なつもりになっている、ということかもしれない。

「やめておきなさい」

という警告文を無視して先に進み出すことは簡単だ。それが反発というものである。反発するがゆえに見えてくる地平もある。そこでやめていたら見えなかったもの。それに付随するのが満足だろうが、後悔だろうが、それは関係なく、立派な知恵を得ることができる。

だが、警告文に、ちょっとした脅しが入ると、反発するのが難しくなる。例えば、あなたの人生が危機に迫っている、などと言われたら、やっぱり自分がかわいいから、こういう警告に平伏するしかなくなる。そうして、警告文は正当化される。

 

だが脅しはエスカレートしてゆく。「禍」などと、いちいち仰々しい言葉を使い、わかった風に脅威を論じる。論じれば論じるほど不安になる。不安になればなるほど、脅しと警告はきつくなる。

その脅しの内実は、嘘などではないかもしれない。

だとしても、騒ぎすぎる必要はあるのか。それはないはずだ。たいていの「危機」とやらは、平然と、日常的に、気をつければいいのである。あるいは、黙って耐えればいい。耐えろというのは少々乱暴だったかもしれないが、その他にやることがないなら仕方ない。止まない雨はない。いつの日か、終わる。それに、日常に溶け込んでしまえば、それは苦しみではなく、ルーティンになる。

何も、一丸となって戦おう、と仰々しく、まるで戦争でも始めるかのように叫ぶ必要がない。だが、叫びたい人がいるのは確かだ。言葉を濫用したい人がいるのは確かだ。心を閉ざしてしまう方が、私たちの自然状態にあっている。

 

私たちは、基本的に内向きで、身内で固まりたがる。身内で固まるということは、ソトの人々を排斥することも含む。敵と味方を明確化し、戦う。そこには、一種の原始的なヒロイズムがある。だが、はたから見れば、それはうちにこもった、醜いヒロイズムでもあると思う。

そうした排斥を生むような性向が、命の危険に裏打ちされた警告文によって正当化されかねない。地震があれば、日頃蔑視してきた人々が、民族の名の下にくくられて、敵にされるし、戦争も同様だ。あの国が、害悪を撒き散らしている、あの国が、悪い。みんな恐怖を覚えているから、ぞっとするほど、そうした意見に流れてゆく。国の名前、害悪の名前は、多くの場合、非常に覚えやすく、文字数も少なく、言いやすいもんだから、みんな平気で呪いの言葉を吐くことができる。普段はそんなことを言わない人までもだ。

戦時下にあっては、「きれいはきたない、きたないはきれい」という風に、価値観を平気でひっくり返すことがあると、フランスの哲学者ベルクソンはいう。そんなことはそこらじゅうで起きている。政権の強権化を批判する人は、強権化を支持し、世界との交流を歌う人が、国境を閉ざす。芸術を歌い上げる人が、芸術をやめる。恐怖と生存の名の下に、皆「躊躇なく」、尊王攘夷である。

それは自然なことだ。それに、正当なことだ。危機感は正しく、警告に従わなければ、一大事になる。そんなことはわかっている。

 

バイト先の人が、最近は人間の生存本能が壊れている、と言っていた。だから、危険な目にあっていても、見て見ぬ振りをする。これは問題だ。もっと動物の部分を出していけ、と。

そうかもしれない。だが、状況が変わるにつれて、そのようになっている。自然なことだからだ。空想する前に、人は生存しないといけない。自分の身を守るために、いろいろなことをする。そのうちの幾つかが、仲間内で固まることにつながっている。群れは安全だ。群れが安全じゃなかったら、集まるのを自粛すればいい。どちらにせよ、外からくる人はみんな追い出せばいい。

それは自然なことだ。それに、正当なことだ。危機感は正しく、警告に従わなければ、みんなが苦しむ。それは避けなければならない。正しい。

 

 

だが、自然のままでいいのか。心を売り渡していいのか。心を閉ざしていいのか。恐怖と生存を理由にすれば何でも許されるのか。

わたしはあえて、そう問うておきたい。

そして少なくとも、重たい雲が晴れた時には、なんて馬鹿騒ぎだったんだ、と笑いあえることを望んでいる。

創造的食文化

ちょっとくだらない話をしよう。

昔からずっと思っていたことなのだが、人類が忘れている驚異的な英雄がいる。カエサルやナポレオン、あるいはイエスブッダなどを超えて、今でも多くの人々に恩恵を与え続けている英雄だ。私もその人の名前を知らない。一人ではないのかもしれない。その人、もしくは、その人たちは偉業を成し遂げた。誰も遂げたことのない偉業だ。すなわち、「エビを初めて食べた人」である。

現代人にとっては、エビを食べることなどたいしたことないように思える。だが、一度でもエビ料理を作ったりした人は知っているように、エビの見た目は思ったより、かなりエグい。あれはどう見ても昆虫である。それも足がシャコシャコしていて、時々変な触手や爪を持った腕もある。どう考えたって、あの生き物を食べようとは思わない。だが、それでもその人は食べたのだ。そのおかげで今の食生活がある。聖書の規定を守る人々を除く世界の人々が今やエビを食う。

 

どうしてそうなったのか。

いろいろ考えられるが、一つには、「適応説」があるだろう。つまり、エビしか取れないような環境だった、ないし、エビが最も手っ取り早かったということだ。それは多分そうだ。魚や大型動物をとるより、海辺や川にいるエビを取った方が早いではないか。今でも長野でははちのこやイナゴを食べるというが、それと論理は一緒だと考えるなら、合点がゆく。だが問題なのは、エビがとれる場所であれば、多分魚も取れることである。じゃあ魚で良いではないか、という話になる。

第二に考えられるのは、「偶然説」である。たまたま食べた、というものだ。それもありえそうな話だが、本当に食べるか?というのが問題だ。私たちには防衛本能がある。あまりにヤバそうなものは普通は食べない。今ではお腹壊しても正露丸があるか、という余裕な気持ちになるが、昔は死を意味している。そんな冒険を果たしてするだろうか。私はしないと思う。チーズなども同様である。腐らせてしまったのを食べてみた、というような話はあるが、普通に考えて、食べないだろう。

それでも、私たちはシュールストレミング臭豆腐、ふぐ料理、ヤギの脳みそなど、かなりきわどいものを食っている。いやいや、そんなものは食べないよ、という人でも、納豆は食べるだろうし、納豆も食べないという人も味噌汁を飲み、醤油で生魚を食うはずだ。納豆も味噌も醤油も、化学的には腐敗している。ヨーグルトもだ。生魚やふぐは危険と隣り合わせだ。食文化とは、要するに一つの冒険の上に成り立っているのである。

 

おそらく、一つのヨーグルト、一つの刺身、一杯のお茶は、先立つ英雄たちのしかばねの上に成り立っている。しかばねと言わないまでも、食中毒者くらいはありえる。彼らの苦労がなければ、私たちは食文化を発展させることはなかっただろう。「これ食えるんじゃないか?これ食ったらうまいんじゃないか?」に始まり、リスクを冒してまで口にする勇気を持つ勇者が切り開いた道なくしては、食文化は停滞していたにちがいない。そこには、創造的な意欲に満ちた行動が必要だ。

食べる時には食材や生産者に感謝すべきだと人は言う。そうだと思う。だけど、それに加えて、もう一人その列に加えてもいいのではないか。つまり、無数の、無名の食の探求者たちである。なんとなれば、彼らなくして、人類はなかったといえるからだ。

自分探しの旅

インドに自分なんていないんだから、自分探しの旅は無意味だという意見がある。確かにそうかもしれない。なにせ、自分というものは常にそばにあるからだ。インドに行って、アフリカに行って、世界を一周して、シベリア鉄道に乗って、アメリカ横断して、見つかるとも思えない。というか、そういう意味では鏡を見れば済むわけである。

だが、本当に本当に、自分探しの旅が無意味なのかと言われれば違うと思う。そもそも、インドに自分はいないんだから、と片付けられるのは、「自分」というものについての考え方が土台狭すぎるように思う。狭いというのは「了見が狭いな」というように、上から目線で否定しているのではない。端的に言って、限定しすぎなのではないかと思うだけだ。

 

自分というものは、案外じわっと広い。私たちは日常生活の中では、日常生活の自分になっている。それは人の目線によって規定されていることもあれば、自分で決めていることもある。簡単に言って仕舞えば、それは「キャラ」のようなもので、それから逸脱した行動をとれば、「らしくないぞ」と言われるようなものだ。日常生活の中でも、コミュニティごとに多かれ少なかれそれを使い分けている人は少なくないだろう。

こういうキャラのようなものは、安心できる。自分がどんな人なのか、なんとなくわかっているきになることで、私たちは安心を受け取っている。人も安心する。だからそこには安心のネットワークがある。とはいえ、私たちは毎日毎日ずっと同じキャラクターなのかというと、それは違うのである。あるとき、あるキャラは窮屈になるし、キャラがあるおかげでしたいことができないことだってある。そうこうするうちに、何が何だか分からなくなったまま、「社会的に正しい人」であり続けようと努力し、疲れ果ててしまうことだってある。

私は常に私だが、その規定に意味を見出そうとした瞬間、水道管の破裂を直すような作業を強いられるのである。一つの穴を塞いでみたら、別の穴があき、それを塞いだらまた別から水か吹き出す。残るのは疲労感だけだ。なぜなら水は自由に広がっていっているだけなのに、水道管の形ばかり気にしているからだ。だが水道管がないと水は思った方向に流れてはくれないのだから、しかたがない。

 

なぜ人は自分探しをしたがるのか。それは、日常的に築き上げ、保全に努めてきた「自分」という名の水道管が破裂しかかっているからだろう。今の仕事、今の生活、今の生き方に或る日突然、嫌気がさす。いやでなかったとしても、特になんの文句がなかったとしても、一定の時間距離感を置きたくなることもある。押し寄せてくるタスクと義務感に、「頼む、ちょっと待ってくれ」と言いたくなることもある。それは自分の時間と要求される時間のズレがあり、そして、要求され、今までは飲んでいた自分の形がガタピシ言っているサインかもしれない。

人生観が変わる。自分が見つかる。

その言葉に魅力があるのは、今の人生観はがたがたで、自分は見失われているからだ。そして何より、そうしたものは生活に密着しており、日々の生活の中で、私たちはそれに縛られているのである。なぜ旅かと言われれば、日常生活が私たちをがんじがらめにしていて、そこから一度クィットしないと、見つめる時間すら持てないからだろう。普段は見えないものがある。そして、「普段」を続けている限り、見ないようにし続けてしまう、それでもどうしても見たいものがある。

そういう意味では、どんな旅だっていい。ただ、今までの水道管を取っぱらいやすい経験はある。長い方が一瞬見た光を探し求めることができるし、退路を断つこともできる。言葉が通じない方が、いつもの言葉遣いを捨てて、心を開くこともできる。ただ、慌しすぎると、日々旅を処理することにまみれ、見たいものが見えなくなってしまうこともあるようで、私なんかは、よくそういう状態に堕ちこんでしまう。

 

旅という場は、ただ場所を変えるという意味だけを持っているのではないし、自分を探すというのも、結局のところ、物体を探すのとは違う。だからそもそも、「インドに自分なんていないんだから、自分探しの旅は無意味だ」というのは根本的に間違っているのである。場所を変え、漂白することは、自分のコミュニティから抜け出すことである。私たちは予想以上にコミュニティに規定され、コミュニティばかり見ている。抜け出さねば見えない視界がある。そして、その境地こそ、本来は自分探しで求めているものと言える。

「本当の自分」というと胡散臭さしかないが、旅の中では、少なくとも、私たちは自分の動きに身を委ねることができる。そう、そこでは水道管は必要ない。川の流れに従い、空と風と街を見、聞き、感じればいい。そのとき、何かが見えるのかもしれない。